前回(2021/5/10)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすき・世中いろいろ」と題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 6首の「思ふ」」と題して、記します。(上村 朋)
1.~37.承前
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、三代集唯一の用例1-1-1037歌を検討しており、当時「たすき」には二つのイメージがあったことがわかった。なお、『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になっている。
3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを
たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )
1-1-1037歌 題しらず よみ人しらず
ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる
この歌は二つあるいは三つの文からなると理解ができる。
文AB案 文A:ことならば思はずとやはいひはてぬ
(「やは」は係助詞が重なる連語。「ぬ」は、打消しの助動詞の連体形)
文B:なぞ世中のたまだすきなる
文CDB案 文C:ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)
文D いひはてぬ (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)
文B なぞ世中のたまだすきなる
また、歌は、『新編国歌大観』より引用する。
38.1-1-1037歌は、歌意が1案に収斂するか
① 前回、1-1-1037歌に用いられている同音異義の語句の組合せを検討しました。現代語訳の候補を初句と二句の意を優先して整理すると、表1.のようになります(付記1.参照)。
2案ある「たすき」のイメージ(下記⑮参照)のどちらにも、恋の歌としての歌意が認めらました。
今回は、これらの現代語訳候補において、『古今和歌集』の「誹諧歌(ひかいか)」の部における配列や、誹諧歌たる所以を確認し、『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」とこの歌との関係を検討します。
表1. 1-1-1037歌の現代語訳候補(語句の意別の整理表)
整理番号 |
初句 |
二句 |
四句の「世中」 |
たすき |
歌意 |
11 |
連語 |
作中人物の願い 文AB |
男女の仲 |
1.制約・妨げ |
願いは一歩後退二歩前進のため 信頼厚い |
12 |
連語 |
作中人物の願い 文AB |
世間・世間の評判 |
2.すれちがい |
相手へのショック療法 |
13 |
連語 |
作中人物の願い 文AB |
男女の仲 |
2.すれちがい |
相手へのショック療法 |
21 |
連語 |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
男女の仲 |
1.制約・妨げ |
相手に再考を促す |
22 |
連語 |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
世間・世間の評判 |
1.制約・妨げ |
相手に再考を促す |
23 |
連語 |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
世間・世間の評判 |
2.すれちがい |
相手に再考を促す |
24 |
連語 |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
男女の仲 |
2.すれちがい |
相手に再考を促す |
31 |
事成らば |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
世間・世間の評判 |
2.すれちがい |
相手に再考を促す |
32 |
事成らば |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
世間・世間の評判 |
2.すれちがい |
相手に再考を促す |
33 |
事成らば |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
男女の仲 |
2.すれちがい |
相手に再考を促す |
注1)整理番号:付記.1の整理番号に同じ。
② 『古今和歌集』巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」は、1-1-1011歌が巻頭歌です。四季の歌から始まり、恋の歌、次いで雑の歌という順です。恋の歌は、1-1-1022歌から始まり、久曾神氏は類別し、「逢わぬの恋、相思の恋、別れの恋、心を乱す恋」の順であると指摘しています。
この歌に用いられている動詞「思ふ」は、この歌から6首の歌に続いて用いられています(付記2.参照)。
「誹諧歌」にある歌には、特別に個性的な発想や特別に凝縮した表現があります(付記3.参照)ので、連続して用いられている動詞「思ふ」の意図を中心に、配列を検討します。
③ 歌を引用します。
1-1-1037歌 上記(承前)に記す。
1-1-1038歌 題しらず よみ人しらず
おもふてふ人の心のくまごとにたちかくれつつ見るよしもがな
1-1-1039歌 題しらず よみ人しらず
思へどもおもはずとのみいふなればいなやおもはじ思ふかひなし
1-1-1040歌 題しらず よみ人しらず
我をのみ思ふといはばあるべきをいでや心はおほぬさにして
1-1-1041歌 題しらず よみ人しらず
われを思ふ人をおもはぬむくいにやわが思ふ人の我をおもはぬ
1-1-1042歌 題しらず よみ人しらず 一本、ふかやぶ
思ひけむ人をぞともにおもはましまさしやむくいなかりけりやは
この6首の作中人物とその相手との関係をみると、次の表2.が得られます。1-1-1037歌については、ほかの5首からの予測です。
表2.「思ふ」の語句を用いる 1-1-1037歌~1-1-1042歌の作中人物とその相手の関係
(<>は1-1-1038歌以下からの予測)
歌番号 |
作詠時点での作中人物の立場 |
作中人物の相手の立場 |
備考 |
1-1-1037 |
<思っている相手の心を言葉・態度で確かめたい> |
<作中人物に明確な意思表示をしないでいる人> |
1038歌とペアか。 |
1-1-1038
|
思ってくれる人々の心のうちに入り確かめたい |
作中人物を思ってくれている人々 |
1038歌とペアか。(作中人物をまだ思っていない人と思う人) |
1-1-1039
|
相手を思っている。 |
相手は作中人物を思っていない |
1040歌とペア(愛する異性がいるとも思えない相手に袖にされている。) |
1-1-1040
|
相手を思っている |
相手は作中人物以外のひとも思っている |
1039歌とペア(多数の異性を愛する相手が作中人物も愛する) |
1-1-1041 |
昔拒否した人がいて、今思っている人がいる |
今の相手は「昔拒否した時の自分」 |
1042歌とペア(因果応報の因が悪の例) |
1-1-1042 |
昔拒否した人がいて、拒否されている自分が今いる |
今の相手も自分と同じ経験を共有する |
1041歌とペア(因果応報の因を善とみようとする例) |
注1)歌番号:『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)<>:本文下記④における予測結果
④ このように、1-1-1038歌以下の5首の作中人物は、相手を「思ふ」状態にあって詠い、最後の1-1-1042歌はさらに過去をも回顧して詠っています。
また、作中人物の性別を推測すると、偶数番号歌は、女性ではないか。1-1-1038歌における多くの相手から言い寄られているかの表現や、1-1-1040歌の「おほぬさ」の例えなどの詠いぶりは、作中人物が女性と推測できます。
1-1-1042歌は、1-1-1041歌の返歌とすれば、相手の用いた「むくい(ひ)」を詠みこむのは自然であり、作中人物を男性と決めつけなくともよい、と思えます。そして、「あのときはごめんなさい、仲直りしましょう」、という歌ともとれます。
1-1-1041歌は、因果応報という仏教語の「むくい(ひ)」という表現から男性と推測できます。
このように、1-1-1039歌以下は、奇数番号の歌とその次の偶数番号の歌は、ペアとして配列されており、作中人物と相手との関係に関して対比した歌となっています(付記.4参照)。
そして、5首は作中人物の恋の過程順(疑心発生、不満あれども交際、破局或いは再縁)に配列されている、とみることができます。
そのため、動詞「思ふ」を用いているこの6首の配列から、この歌に関しては、次の推測が成り立ちます。
第一 1-1-1037歌は、1-1-1038歌とペアの歌。作中人物は相手と情報交換する仲(二人きりの状態に至らない仲)であって相手の本当の気持ちを探りたいという時点の歌か。
第二 1-1-1037歌と1-1-1038歌は、作中人物が前向きに考えている相手とまだそうでもない相手を対比した歌、あるいは、相手との関係を楽観的と悲観的で対比した歌か。
第三 1-1-1037歌は奇数番号歌なので男性の立場の歌であり、1-1-1038歌は女性の立場の歌。
このうち、第一と第二は矛盾するところがあります。今、第一をとり、具体に、1-1-1037歌の作中人物の思いなどの予測を、表2.の1-1-1037歌の欄に<>書きで記しました。(久曾神氏の類別の検討は、後日行うこととします。)
⑤ その上で、歌本文と表1.の現代語訳候補をみると、次のことを指摘できます。
第一 二人の仲を表現している「世中のたまだすきなる」という語句は、「すれちがうことも生じるかのような具体の行動を前提とするのではなく、男女の仲の総論としての言及ではないか。
1-1-1038歌の「心のくまごとにたちかくれつつ見る」も総論(相手の気持ちを知る方法論)であり、総論部分で両歌はペアの歌となる。
第二 「世中のたまだすき」が官人世界における慣用句であれば、表の意は「世間・世間の評判」が実際の物事などと「たまだすき」(かけちがっている)のようだ、の意であろう。「世中」を男女の仲に理解するのは、裏の理解であろう。
この歌では、上句の関係で裏の意に用いている。
第三 「作中人物は相手と情報交換はする仲(二人きりの状態に至らない仲)」であれば、ショック療法的な詠い方は場違いな詠い方ではないか。1-1-1038歌が心に内に入って確認したい、と詠っているとの対比で、外見で(つまり、言葉に出してもらって)確認したいと詠っているのが1-1-1037歌ではないか。
そうであれば、言葉で確認し、それが本心からのことか確認したい、という配列順にあるとみなせる。
第四 現代語訳候補では、連語の意の「ことならば」を、作中人物と相手が既に共有している事がら、としているが、それは、恋の膠着状態を指し、作中人物からみれば相手の態度が不鮮明であることになるのではないか。
第五 現代語訳候補では、歌意として「相手に再考を促す」意としているが、それは上記第一と第三に反しない。
第六 『古今和歌集』の編纂者の手元にある1-1-1037歌の元資料は、よみ人しらずの歌であるので、繰り返し実用に供されて来た歌であると断言してよい。このため、実際に用いた事例も編纂者は確認できており、その歌意が複数あったのではないか。この配列から求められる歌意はそのひとつであろう。
⑥ その結果、現代語訳候補より次の2案に絞りこめます。
表3. 配列から絞り込んだ現代語訳候補
整理番号 |
初句 |
二句 |
四句の「世中」 |
たすき |
歌意 |
21 |
連語 |
作中人物が伝聞したこと 文CDB |
(世間・世間の評判を転用した)2.男女の仲 |
1.制約・妨げ |
相手に再考を促す |
11 |
連語 |
作中人物の願い 文AB |
(世間・世間の評判を転用した)2.男女の仲 |
1.制約・妨げ |
願いは一歩後退二歩前進のため 信頼厚い |
⑦ 現代語訳を試みます。
整理番号21は、文CDB案です。
前回ブログ(2021/5/10付け)「36.⑥前段」では、
「以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)
そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)
どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。 (文B1系)」
とし、「貴方がこの状況を打破するため、一歩後退二歩前進の発想で言われたことと信じています、という歌意となります(文B2でも同様です)。」、と理解していたところです。
「思ふ」は「愛する」意とし、同ブログ「34.⑤」では、この文CDB案の歌を「やり直しができると信じています」と言う歌と指摘しました。当事者同士ではわかるものの、『古今和歌集』に編纂された「恋の歌」としては、題しらずでそこまで理解するには、歌の来歴も知らない者に、とり酷なことです。
その理解のヒントは「誹諧歌」の部にある恋の歌である、ということであろう、と思います。
配列からみると6首続く「思ふ」が気になります。
改めて「思ふ」の意を確認すると、「いとしく思う・愛する」のほかに、「心配する・憂える」意もあります。そのため、恋の歌として、次のような試案が得られます。
「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、(私を)思はず(心配していない)」、とあなたが言うとは。
そう、はっきりと言い切ったのだ。
だから、どうしてこのようなことが私たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのでしょうか(そんなことはありませんよね。)」 (現代語訳試案1)
⑧ 次に整理番号11です。文AB案です。
前回ブログ「35.③」では、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)
どうしてその発言が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか、このことは二人の仲に関係ないと私は確信していますので。(文B1系)」
とし、「相手の「思はず」という発言は「たすき」(制約・妨げ)になるものではなく、この困難を乗り越えるには一歩後退も方便であると信じています。あるいはショッキングな申し出で相手に判断を迫っています。」というところでしょうか。思いもよらない楽観的な発想の歌です」、と理解しました。
文CDB案と同じように、「思ふ」の意を「「心配する・憂える」意とすると、その意を生かすべく「ことならば」は作中人物の置いた仮定とみて、相手の行動への言及を「思はず」の一語に記した歌として(即ち、文Aは引用文第2案その1の修正案とし)、恋の歌として、次のような試案が得られます。
「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、あの人は「(作中人物を)思はず」(心配してない)」といい出さないだろうか。いや、言い切ってほしい。
どうしてこのことが男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのだろうか、この問題は二人の仲に関係ないと私は確信していますので。」(現代語訳試案2)
現代語訳試案2は、作中人物の行動を全面的に支える発言が欲しいと願っている歌という理解であり、これでも恋の歌と範疇である、と思います。
⑨ 恋「思ふ」を詠う6首の最初の歌としては、恋の歌に用いる例の少ない「心配する」意の「思ふ」がよい。感謝の意とお願いの意の比較では、前者(現代語訳試案1)を恋の歌としてとりたいところです。
もう逢いたくなければ、遠のくだけでよいところを、相手はわざわざ「思はず」と言ったことが作中人物に伝わるようにしています。だから、その「思はず」を用いて返歌した歌であり、その意は、「心配していない」の伝言を受け取りました、と伝える返歌となります。
⑩ しかし、配列から予測した(上記3.の表2.参照)の作中人物の立場には必ずしも合致していませんし、相手の立場(「作中人物に明確な意思表示をしないでいる人」)とも異なります。
それでは、返歌ではなく、作中人物が問う歌と理解すれば、初句と二句(「ことならば思はずとやは」=文C)は全部作中人物の推測・反語と理解できるので、配列からの予測に合致するのではないか。
即ち、文C+文Dは、「上記の引用文第2案その2相当」とした、
「以前にあったと同様な状況ならば(状況なのだから)、「(私を)思はず(心配していない)」、とあなたが言うとは。
そう、はっきりと言い切ったのだ(ちがいますか)。
だから、どうしてこのようなことが私たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのでしょうか(そんなことはありませんよね。)」 (現代語訳試案3)
問い詰めれば「思はず」(いとしく思わない)と相手がいうかもしれないのに、それを望んでいるかに詠いだし、文D(三句)を一文として独立させて文Cの確認を相手に求めています。このことで、「思ふ」の意が歌のヒントであることに、相手が気付くようにしている歌ではないか。
次の歌1-1-1038歌が、相手の「心のうちに入り確かめたい」と詠う歌であるので、この歌が、「思ふ」と言う同音異義の語句を相手に突き付けて、相手の気持ちを「言葉・態度で確かめたい」としている歌であれば、一対の歌、となっています。上記④の配列からの推測第一とあうことになり、この歌の作中人物を男とみてもおかしくないので、推測第三もあうことになります。
この現代語訳試案3が、恋の歌として妥当である、と思います。(それにしても、「思ふ」の同音異義を最初に確認すべきでした。)
⑪ 次に、この歌は、『古今和歌集』誹諧歌にあるので、私の言う「部立ての誹諧歌A」の要件(付記3.参照)を当然具えているはずです。それを確認します。
最初の要件「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある」を確認します。
初句「ことならば」は、この句を用いた『古今和歌集』にある4首の比較をする糸口の役割を担っていました。この歌が他と違うところがあることを示唆してくれる仕組みでした。同じ歌意の詠い方は他にもあるにも関わらず、当事者にしかわからないかの条件設定をし、誹諧歌の部にある恋の歌という外的条件に注意を向けさせています。この発想は、『古今和歌集』編纂者しかできないところであり、元資料の代表的な歌意とは思えません。それを選択しているところは独創的な発想であり、配列の妙になっています。
二句にある「思はず」は、恋の歌にあって「心配する・憂える」意であれば、珍しい使い方です。また連続する6首は「思ふ」をテーマにしている歌群とみることができ、「思ふ」の用い方を知らしめる役割を確実に担っている1首となっています。
⑫ 恋の歌としてみると、自分から別れる、と言わずに、相手に言わせようとするのは、恋のテクニックとしてあります。いつも「行くよ」と返歌していて都合が悪くなったと歌をおくる、とかいくらでもあります。そのなかで、ストレートに別れることを言え、と願うのは、あまりないかもしれません。このような別れ話の仕方も独創的な発想でしょうが、さらに語句の意を変換して願うのはそれ以上に「特別に個性的な発想」にあたるでしょう。
四句から五句にある「世中のたまだすき」という慣用句(当然、当時の俗語の範疇の語句)を、それも、裏の意で用いているのも、独特の発想です。雅から離れた歌となっています。
また、「たすき」には、「ゆふだすき」のイメージが全然なく、「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(たすきのイメージ1)は、日常用語のいわゆる俗語の「たすき(形)」からのものであり、『萬葉集』における用語とかけ離れており、発想に独創性があります。
このように、最初の要件は満足している、と思います。
⑬ 次の要件は、「秀歌」であることです。
この歌は、よみ人しらずの歌だから、多くの官人その他の人々が使いつつ伝え継いできた歌であり、いろいろな場面で口ずさみ、(現在までは伝わっていない)何等かの説話も生まれていた歌と思われます。それだけでも秀歌と言えるかもしれません。さらに、それを、「題しらず」のままで、ある特定の恋の場面にあてはめて示しており、そのあてはめの秀歌ではないか。
『古今和歌集』誹諧歌ではこのような理解であっても、「(こひしく)思ふ」であったら作中人物が忠告者となる理解の歌意もありました(文CDB案における前回ブログ「36.⑦後段」)。また、文ABの理解と文CDBの理解が可能でした。
この歌は、文CDBと三つの文から成り、当時の口語調の歌であり、作中人物の感情の高ぶりをうまく示し、「思ふ」への一念をしっかり示している、技巧的に優れた歌です。
⑭ また、この歌を恋の部に配列すると、「思ふ」や「たまだすき」の意に誤解が生じる可能性があります。「たまだすき」という語句を用いる歌が三代集でこの1首しかない、ということは、当時この語句は歌語ではない、という認識が当時あったと推察でき、誹諧歌の部に配列すれば俗語の系統の語句と推測するヒントになります。
独創的なレトリックの面白さを示し得る場として、『古今和歌集』の編纂者は、この歌に誹諧歌の部を選んでいるのではないか。
このように、この歌は、私の言う「「部立ての誹諧歌A」の要件を満足しています。
⑮ さて、本題の「たまだすき」です。
上記の「現代語訳試案3」では、「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(「たすきのイメージ1」)であり、「たすきの十字の形から、感情の行き違いなどのイメージ」(たすきのイメージ2)を退けました。
「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現です。
⑯ この歌の「たまだすき」の理解は、先に検討した『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」の「たまだすき」の意と重なります。
「末摘花」での源氏は、今夜にも初志貫徹したい(障子を取り払ってもらい自分を受け入れてほしい)のに、障子で隔てられているだけでこれ以上のアプローチを断られている(2021/4/12付けブログ「32.④、⑦」参照)状況にあって、「たまだすき苦し」と末摘花に告げました。
その「たまだすき」の意は、単に「ゆきちがっている」のではなく現に今「これ以上の行動を制約されている」ことが苦しいというイメージを伝えた発言です。無言でいるのは周りの者に引き留められているからだ、と源氏は信じており、また、末摘花へのアプローチで「世間・世間の評判」など意に介していません。
たすきのイメージ1の理解で共通している、と言えます。
このように、紫式部が『古今和歌集』のこの歌を援用したとするならば、『源氏物語』の著者である紫式部が「末摘花」で示した「たまだすき」の理解は、1-1-1037歌に関する知られているなかでは『古今和歌集』に一番近い年代におけるものです。それを踏襲しているのがたすきのイメージ1です。
紫式部がこの歌を援用していなければ、俗語の「たすき」によって「末摘花」は執筆されたものとなります。そのような理解が当時出来たのであれば、遡って『古今和歌集』にあるこの1-1-1037歌にも当てはめられるものである、と思います。
⑰ ちなみに、竹岡氏の現代語訳を引用します(『古今和歌集全評釈』(右文書院 1981補訂版))。
1-1-1037歌(文AB案の理解)
「同じことならいっそ、愛しないときっぱり言い切ってくれないかい。なんだい、世の中の、たすきのさまでこんなに行き違ってばかりいるなんて!」 (業を煮やして口語調まる出し。「たすき」は方違いにかけるところから、行きちがいになる意」。)
1-1-1038歌
「愛すると言う人のそれぞれの心の秘密の曲がり角にそのつど立ち隠れては、(私を愛している事実を)目で認知するすべでもないかなあ。」 (思いつめた恋の歌。「心の曲」は漢文直訳語。)
氏は、「思ふ」6首を一組としての検討をしていません。
この歌で、「たまだすき」は、「ゆふだすき」との対比を明確にして、新たなイメージを獲得しました。ただし、「たまたすき」ではありませんでした。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。
次回は、『萬葉集』の「たまたすき」を含めた「たすき」の整理をし、3-4-19歌の類似歌2-1-3005歌の検討に入りたい、と思います。
(2021/5/17 上村 朋)
付記.1 前回ブログ(2021/4/26付け)での検討結果と本文「38.」の表との関係
① 本文の①の表1.の整理番号と以下の整理番号は同一である。
第一 初句「ことならば」が連語であって、
整理番号11:前回ブログ(35.③)より:文AB案(引用文第1案+文B1)
相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「あなたにそういってもらうのは一歩後退二歩前進のためであり、貴方を信じている。」
整理番号12: 同(37.④)より:文AB案(上記の引用文第1案相当+文B3)
相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「変則のショック療法の試み」
整理番号13: 同(37.④)より: 文AB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)
相手に「(作中人物を)思はず」を願った作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「変則のショック療法の試み」
整理番号21: 同(36.⑥前段)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B1)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
整理番号22:同(36.⑥前段と後段)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B2)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「制約・妨げ」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
整理番号23:同(37.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B3)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
整理番号24:同(37.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
第二 初句「ことならば」が「事ならば」であって、
整理番号31:同(36.⑧)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B2)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けてそれでも再考を促す」
整理番号32:同(37.⑩)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B3)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、世間・世間の評判の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
整理番号33:同(37.⑩)より:文CDB案 (上記の引用文第1案相当+文B4)
相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと聞いた作中人物は、男女の仲の意の「世中」を用いて、「たすき」のイメージは「すれちがい」である恋の歌として理解出来た。歌意は「別れるという通告を受けて再考を促す」
付記2. 古今集の誹諧歌(ひかいか)の部において、動詞「思ふ」を用いている歌
① 「思ひ」と詠い、その「ひ」に、「火」あるいは「緋色」が添う歌が、1首おきにある。(1-1-1026歌、1-1-1028歌、1-1-1030歌)
② 次に「思ふ・思はず」と詠う歌が6首続く。(1-1-1037歌~1-1-1042歌)
③ そのあとに、「思ふ」と詠う歌が、とびとびに3首ある。
時に遅れまいという意の「を(お)くれむと思ふ」が1-1-1049歌
三日月を月の割れた片割れとみてろくに相手にしてもらっていない自分になぞらえる「われて(割れて)もの思ふ」が1-1-1059歌 (破天荒なものに恋を例えている)
擬人化した「年」を「思ふ」が1-1-1063歌
付記3.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討
① 『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。
② 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。
③ このように理解した部立の名を、「部立の誹諧歌A」と私は称している。
付記4.『古今和歌集』には一対とした歌が多く配列されている。
① 巻一の巻頭歌と次の歌も「立春」の日の歌として対である。1-1-3歌と1-1-4歌は「春の雪」を、また1-1-5歌と1-1-6歌は「雪にうぐひす」を詠う対の歌である。
② 誹諧歌(ひかいか)」の部でいうと、筆頭歌1-1-1011歌と次の1-1-1012歌は、春の歌として一対となっており、また、1-1-1027歌と1-1-1028歌も「思う強さ」を詠う一対の歌である。
そして1-1-1029歌以降1-1-1046歌までは次の偶数歌と対になっているとみて歌を理解してよい。
(付記終わり 2021/5/17 上村 朋)