わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音意義の語句

 前回(2021/5/31)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 枕詞に」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音異義の語句」と題して、記します。(上村 朋)

1.~40.承前

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の用例と三代集唯一の用例1-1-1037歌での「たすき」の検討が終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十二の用例ではいわゆる枕詞に、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になり、1-1-1-1037歌では、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージであった。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

類似歌 2-1-3005歌     寄物陳思

玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛

たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

41.3-4-19歌の詞書の再考 その1

① 『萬葉集』巻十二にある類似歌2-1-3005歌は、初句「たまたすき」が有意の枕詞であり、その現代語訳試案は次のようになりました。

 「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、心に貴方をかけたら。あなたに逢いたいと心苦しくなるのですよ。本当に。」

 類似歌は、形容詞「苦し」を、同音異義の語句として用いている歌でもあります。

 そして、よみ人しらずの伝承歌なので、事情を記す題詞がありません。配列から「相手に近づけてない悔しさ・情けなさを詠う対の歌のうちの2首目ということしかわかりませんでした。

② 3-4-19歌には、詠う事情を記す詞書があります。2018/6/25付けブログの「4.」で、それを一度検討しています。そこでは、

 第一 「親ども」とは、親を代表として係累の者たち、の意

 第二 「せいする」とは、動詞「制す」の連体形であり、その意は、「(おもに口頭で)制止する」のほか、「決める・決定する」、の意

 第三 「ものいふを」の「もの」とは、名詞であり、個別の事情を、直接明示しないで、一般化して言うことば。

 第四 「ものいふを」とは、連語であり、「口に出して言う。口をきく」のほかに、「気のきいたこと、秀逸なことを言う。」、「(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」の意(『例解古語辞典』) ここでは、口頭の注意に対して抗弁した際に「気のきいたこと、秀逸なことを言った」ということを指す

 第五 「とりこむ」とは、「押しこめる・とり囲む」の意

 第六 「いみじきを」における形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、 などの意

と、理解しました。

 形容詞「いみじ」の意は端折って記しており、上記のほかに、「たいへんだ。かわいそうで見ていられない」とか「たいへんうれしい」の意があります。「程度のはなはだしいのを言うのがもとで、それにあたる現代語は場合場合で適宜考えること」と、『例解古語辞典』では説いています。

③ 詞書は次のような文よりなり、その主語述語などを確認すると、それぞれの文は、()内のような理解となります。

 文A おやどものせいするをり、 (おやどもの行動を記述し、文B以下のことが生じた前提条件を示す)

 文B 物いふをききつけて (文Cの「女」の行動が伝聞で「おやども」にあったことをいう)

 文C女をとりこめて (「女」の行動の評価を行って「おやども」が採った行動をいう)

 文D いみじきを (何かを、何かと誰かが比較している文。文Cでの「おやども」の行動の程度を評価したのか、ここに書き出す歌に関していうのかなど、はっきりしない。)

 最後の文Dの内容は、この詞書にある歌二首の本文理解によるのでしょう(3-4-20歌もこの詞書のもとにあります)。

④ これらから、詞書の現代語訳を試みたのが、つぎの文でした。

「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」(詞書20180625案)

 今、3-4-19歌は「恋の歌」と言う仮説をたてています。この案でも、恋の歌の詞書としてふさわしくない、と直ちに言えませんが、上記②にあげた語句のうち、「せいする」と「ものいふ」と「いみじきを」の3語句の意を考えると、もっと「恋の歌」をはっきりと予想できる現代語訳が可能です。

 例えば、3語句の意を、「(おもに口頭で)制止する」、「(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」、「たいへんだ。かわいそうで見ていられない。あるいは、はなはだしい」と仮定すれば、

「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、大変嘆いた娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第一案)

 「いみじきを」については、「とりこみ」の結果、娘がはなはだ気持ちが落ち込み、口にした歌、と理解した案です。恋の歌を予想できる詞書になっている、と思います。

また、3語句の意を、「決める・決定する」、「口に出して言う。口をきく」、「はなはだしい、並々でない」と仮定すれば、

 「親などが、決定を下そうとしたとき、口に出して言う(抗弁する)のを聞きつけて、その娘を押し込めて、激しく折檻した際の娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第二案)

 「いみじきを」については、「とりこみ」の状況がはげしい、と理解した案です。この案も、恋の歌を予想しておかしくありません。

⑤ このように、この詞書は、

 第一に、親などが、娘に対して行動の制限を課したこと

 第二に、娘は、それに従わざるを得ないと覚悟していること

 第三に、娘は、そのような制限に不満があるらしいこと

の3点を明らかにしています。上記の「詞書20180625案」にもそれが認められます(このほかにも恋の歌を予想する詞書の現代語訳案(試案)は可能です)。

 この歌は、その際娘が口にした歌、と言う趣旨であろう、と思います

 「いみじきを」が何を指していっているのかは、二首の歌本文との突合せが必要であり、歌本文の現代語訳を検討して後、改めて詞書を確認することとします。

 

 42.3-4-19歌の歌本文の再考その1

① 歌本文は、類似歌を参考にして、次のような文が順にならんでいる、とみることが出来ます。

文A たまだすき かけねば  (文Bの前提条件の文)

文B (それは)くるし。

文C (それを・が)かけたれば   (文Aと対句 文Dの前提条件の文)

文D (それは)つけてみまく

文E (みまくの)ほしき君かも。 (文A~文B、及び文C~文Dという二つの事例の行き着く先を示す文あるいはこれらの事例の根拠の文)

 活用語の已然形につく接続助詞「ば」によって二つの事柄(文A~文B、及び文C~文D)を対比し、文Eを強調した構造です。

 この歌で、作中人物の言いたいことは、類似歌と同じく、文Eの「ほしき君かも」であろう、と思います。恋の歌であるならば、恋情の変わらぬことを訴えている歌ではないでしょうか。

② 3-4-19歌の歌本文も、2018/6/25付けブログの「5.」で、一度検討しています。「たまだすき」を「接頭語「玉」+名詞「攤(だ)」+(省略されている)助詞「は」+動詞「好く」の連用形(+省略されている「なるものなり」)」という理解し、「人と賭け事の基本的な関係を言っている」歌かと理解したところであり、恋の歌ではありませんでした。

 そのため、改めて、恋の歌として検討をします。

③ この歌と類似歌とは、語句の並びがよく似ていますが、語句そのものの意味は違う可能性が、あります。

 その一つ目が、初句にある「たまだすき」です。類似歌は「たまたすき」とあります。前回までのブログで検討してきた万葉の「たまたすき」の用例と三代集の「たまだすき」のそれでは異なる意の語句であったので、この歌でも万葉の「たまたすき」と異なる可能性があります(付記1.参照)。

 諸氏が指摘するように、初句「たまだすき」が、単に「かく」(掛く)の枕詞であるならば、文C以下の文よりその意は「作中人物が心にかける」という理解が妥当であり、文A~文Bは、類似歌における土屋氏の大意の当該部分、すなわち、(「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。(又掛けて居れば・・・)」と現代語訳できます。

 また、「たまだすき」に神事執行における祭主が身に着けるたすきの意が含まれていると、文A~文Bは、上記「41.①」に示した類似歌の現代語訳試案、すなわち、「(ことにあたり)たまたすきを肩にかけないのは気が咎めます(苦し)。(でも私にはかけたらかけたでそれは気になり(苦し)ます、・・・)」となります。

④ この歌は、『古今和歌集』成立以後に編纂されたのが確実な『猿丸集』の歌なので、これまでの「たまたすき」と「たまだすき」の検討から、三代集の時代の日常語の「たすき」に、美称の「たま」をつけた語句の可能性があります。

 日常語の「たすき」とは、竹岡氏が指摘する「俗語に言う、たすき」であり、「衣服に用いる肩にかける補助具」の紐(の類)で十字の形を成して用いるのが特徴です。

 それからイメージされるものに、「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」の意など「たまだすき」には4候補があります(付記1.参照)。

 詞書によれば、娘は親などに「とりこめ」られています。このため、「とりこめ」られていることから詠いだしているとすれば、「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」と表現したのではないか(娘の関心1)、と推測でき、例えば、「たまだすき」に「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」と理解が可能です。

 そうすると、「たまだすき」は「かく」(掛く)の枕詞であっても、有意の枕詞になり得ます。そのため、例えば、次のような現代語訳(試案)が得られます。

文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないとすると、 

 (親などの制止を振り切ると)

文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかることです、親に申し訳ないと。

文C(それを・が)かけたれば : たすきを掛けると (親の制止に従うと)

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方になってしまうのね。(もう逢えないのであろうか)

(現代語訳(試案)第1案 「かく」は「掛く」(たすきを身に着ける)意)

 この論理は、詞書の場面設定と矛盾していません。「いみじき」とは、「とりこめ」ている親などに敬意を払っていることへの親などの感想か、あるいは、伝承されてきた歌を換骨奪胎させた歌として娘の歌を褒めたのでないか、と推測します。

⑤ さらに、「たまだすき」を枕詞とみなければ、動詞「かく」は、同音意義の語句であるので、「欠く」、「掻く」、(火を放つ・防ぎとめるなどの意の)「懸く・掛く」の意の可能性があります。(2018/6/25付けブログでは歌本文を「掛く」と「欠く」で理解し4案の可能性を指摘しました。)

 このほかにも同音意義の語句が下表のようにあります。

表 3-4-19歌での同音異義のある主な語句一覧

検討語句

語句の意

検討語句

a

b

c

d

e

たまだすき

(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ(俗語のたすきから):aた

たすきという紐が強制しているイメージ(俗語のたすきから):bた

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから):cた

紐が結ばれず単に十字に懸け違っていれば、感情の行き違いなどのイメージ(俗語のたすきから):dた

祭主が身に着ける「たすき」(木綿だすきなど):eた

かく

心に掛ける

情けなどをかける(掛ける):aかく

たすきを身に着ける(掛ける):bかく

何かが欠ける又は何かを欠く:cかく

(火を)放つ:dかく

掻く・など:eかく

くるし

(精神的・肉体的に)苦しい・つらい。苦しい:aく

きにかかる・気苦労である:bく

不都合である。さしつかえがある。(普通打消しの表現で用い反語):cく

 

 

つく

突く:aつく

ぬかずく:bつく

付く:cつく

(心を)よせる:dつく

憑くなど:eつく

みゆ

物が目にうつる・見える :aみゆ

(人が)姿を見せる・現れる:bみゆ

人目に見えるようにする・見せる:cみゆ

妻になる・嫁ぐ:dみゆ

 

注1)「たまだすき」については、このほかに単なる枕詞の場合がある。

注2)3-4-13歌の詞書には「(思ひ)欠く」意で用いられていた。

注3)四句にある「(つけて)みまく(の)」に関しては、「みまくほし」と言う連語が古語辞典に立項されている。それを助詞「の」で二つの語に割っているとみると、前段にある動詞「みゆ」を強調しているかに見える。

 

⑥ また、四句の語句が明らかに異なっています。すなわち、この歌は「つけてみまくの」、類似歌は「つぎてみまくの」であり、「つけて」と「つぎて」は同じ意ではありません。動詞「つく」には「突く、ぬかずく、付く、憑く、(心を)よせる、」などいろいろな意がありますが、動詞「つぐ」の意にぴったりあてはまるものはありません。

⑦ さて、この歌の文の構造に戻ります。同音意義の語句を用いている歌なので何種類もの理解が可能です。その整理の見通しをつけておきたい、と思います。

 文A~文Bと文C~文Dは対句であり、動詞「かく」が否定形と肯定形で対比されており、否定形では苦しい結果となり、肯定形では見たい結果となっています。そして文A~文Bでは「たまだすき」が「かく」に関係するものとして最初に言及されています。しかし、文C~文Dはそれに相当するものが省かれています。そのため、歌の理解は、大別して、

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(当然「たまだすき」に関して)甲であれば、見たい

あるいは

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(それに直接関係ないものに関して)乙であれば、見たい

のどちらかになります。

 上記③での現代語訳(試案)たまだすきb第1案は、前者の文型ですが、「かく」を同案とおなじく「かく」を「掛く」(たすきを身に着ける)意とした次の理解は、後者の文型での例です。どちらも歌意が詞書に通じるものとなっています。

 文Aたまだすき かけねば:(袴着の児が使うような)たすきを身に着けなくてよければ

(親が私への制止を止めたなら)、

文B(それは)くるし。:(親子の縁が切られたことになるので)それは私にとり、苦しい。

文C(それを・が)かけたれば : でも、貴方と結びつくたすきを身に着けたならば

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいという(あるいは妻になりたいと)

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのです。(親などから制止されても貴方への思いはかわりません)。

 (現代語訳(試案)第2案 「かく」は「掛く」(たすきを身に着ける)意) 

⑧ どちらでも、文Dの直後に置かれた文Eにより、作中人物が相手を慕い続けているということは変わりません。そして、どちらの(試案)でも、類似歌と異なる恋の歌になっています。文Eに同音異義の語句はなさそうなので、これ以外の現代語訳でも同じであろうと思います。

 上記の詞書のもとにある二首との整合があるはずですので、その確認も必要です。これらについて次回以降検討をすすめたい、と思います。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2021/6/7   上村 朋)

付記1.古今集の「たまだすき」の意について

① 2021/5/17付けブログに、1-1-1037歌の検討のまとめを記す。この歌で「たまだすき」と表記されている語句は、美称の「たま」を冠した俗語の(当時の日常用語のいわゆる)「たすき」の意である。具体的には2021/4/19付けブログを参照されたい。

② 「たまだすき」という語句は、『萬葉集』にはなく、三代集では、1首(1-1-1037歌)のみであり、「世中のたまだすきなる」と言う文脈に登場する。また 三代集の時代の『宇津保物語』に「たすきかけ」と言う用例が地の文に、『枕草子』151段に 「衣ながにてたすき結ひたる」とある。三代集の時代、これらの俗語の「たすき」に美称の「たま」がついたものが「たまだすき」であり、神事における「ゆふだすき」とは別のものであり、「衣服に用いる肩にかける補助具」というところは共通だが、俗語の「たすき」は十字の形を成して用いるのが特徴(ブログ2021/4/19付け参照)。

③ 日常用語の「たすき」とは、「たすき」と称する紐の機能から、紐とそれを使う対象物との関係を重視し、動きを押さえている(あるいは強制的に物を整えている)状況に注目した表現でもある。対象物の動きを押えているので、

「たすき」が強制しているイメージ

対象物が自由を制限されているイメージ

   がある。

④ また、「たすき」と称する紐自体、あるいは紐が並行ではなく交差しているという形に注目した表現として、

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ、

そうでなければ、感情の行き違いなどのイメージ

がある。

⑤ 1-1-1037歌の「たまだすき」は、(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージで用いられていた。『源氏物語』の「末摘花」の地の文の「たまだすき苦し」も同じであった。

⑥ 多くの諸氏は、1-1-1037歌の「たまだすき」を、交差しているという形に注目して「感情の行き違いなどのイメージ」に理解されている。

⑦ なお、『萬葉集』では、万葉仮名では「玉手次」の表記が多く、訓はすべて「たまたすき」である。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」(2021/5/24付け)参照。

⑧ 『例解古語辞典』は、用例をあげて「たすき」の説明をしている。

a神事の際、供物などに袖が触れないよう、袖をたくしあげるために肩に掛ける紐(例:万葉歌:憶良)。

b袖が邪魔にならあないよう、袖をたくし上げるために肩に掛ける紐(例:枕草子)。

c紐や線を斜めに交えること(例:徒然草)。

⑨ 『枕草子』の執筆時期は正確には判明していないが、長保3年(西暦1001年)にはほぼ完成したとされている。『源氏物語』の文献初出は1008年(寛五年)である。「末摘花」の巻の執筆時期の特定はまだされていない。

 そして、『猿丸集』は、『新編国歌大観』(角川書店)の「解題」は、「公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集」であり、歌集後半に「古今集の読人不知歌および萬葉集歌を収載し構成している雑纂の古歌集」、と説明している。つまり遡っても古今集成立後に編纂された歌集である。

(付記終わり 2021/6/7  上村 朋)