わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌第20歌 かけねばくるし

 前回(2021/6/7)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 同音意義の語句」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌第20歌 かけねばくるし」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.~42.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。前回3-4-19歌について詞書を仮訳し、歌本文を含めて同音異義の語句を検討した。初句にある「たまだすき」は、1-1-1-1037歌と同様、たすきによって対象物が自由を制限されているイメージが候補のひとつである。 なお、この詞書のもとに2首ある。また、この2首は「第五の歌群 逆境の歌群」に含まれるはずである。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

類似歌 2-1-3005歌     寄物陳思

玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛

たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

 

3-4-20歌 (詞書なし:3-4-19歌のもとにある歌となる)

ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな 

 

類似歌 1-1-490歌    題しらず  よみ人知らず

    ゆふづく夜さすやをかべの松のはのいつともわかぬこひもするかな

 

 なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

 

43.3-4-19歌の歌本文の再考 その2

① 詞書については、2021/6/7付けブログで、

 第一に、親などが、娘に対して行動の制限を課したこと

 第二に、娘は、それに従わざるを得ないと覚悟していること

 第三に、娘は、そのような制限に不満があるらしいこと

の3点を明らかにしていると指摘しました(付記1.①参照)。最後の語句「いみじきを」が何を評しているのかは、この詞書のもとにある歌二首の本文との突合せが必要であり、歌本文の現代語訳を検討して後、改めて詞書を確認することとしました。

② 3-4-19歌本文は、類似歌を参考にして、次のような文が順にならんでいる、とみることが出来ます。

 文A たまだすき かけねば  (文Bの前提条件の文)

 文B (それは)くるし。

 文C (それを・が)かけたれば   (文Aと対句 文Dの前提条件の文)

 文D (それは)つけてみまく

 文E (みまくの)ほしき君かも。 (文A~文B、及び文C~文Dという二つの事例の行き着く先を示す文あるいはこれらの事例の根拠の文)

 活用語の已然形につく接続助詞「ば」によって二つの事柄(文A~文B、及び文C~文D)を対比し、文Eを強調した構造です。

 この歌で、作中人物の言いたいことは、類似歌と同じく、文Eの「ほしき君かも」であろう、と思います。恋の歌であるならば、恋情の変わらぬことを訴えている歌ではないか。

 歌の理解は、大別して、

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(当然「たまだすき」に関して)甲であれば、見たい

 あるいは

 文A~文Bは、「たまだすき」に関して甲ではないので苦しい、文C~文Dは、(同時にそれとは直接関係ないものに関して)乙であれば、見たい

のどちらかになります。

③ 初句「たまだすき」を中心に検討を続けます。

 詞書によれば、娘は親などに「とりこめ」られています。このため、「とりこめ」られていることから詠いだしているとすれば、「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」(又はその否定形)と表現したのではないか(娘の関心1)、と推測できます。その場合の現代語訳(試案)2例を、前回示しました(付記1.②参照)。

④ あるいは、「とりこめ」られた結果生じた重要なことから詠いだしているとすれば、「取り込められて生じてしまった娘とその相手との関係」を「たまだすき(かく)」(又はその否定形)と表現したのではないか(娘の関心2)、とも推測できます。その場合、例えば、上記③の2例と同様に「かく」を「たすきを身に着ける」(「bかく」:付記2.参照。以下同じ)とすると、

 文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないことになると

  (貴方と、結ばれないとなれば)

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかる。

 文C(それを・が)かけたれば : もし、十字にたすきを掛けたとすれば

  (これからもたすきのように結ばれたら)

 文D (それは)つけてみまく:心をよせて、妻になって

 文E (みまくの)ほしき君かも。:みたいと思う貴方なのです。

と、「たすき」は「紐が十字の形に結ばれて、一体感のイメージ」を与えることになります。「たすき」の意として想定した範疇(「cた」)の歌という理解ができますが、上記①のような3-4-19歌の詞書は、無駄になってしまっています。

 「かく」を「欠く」(「cかく」)と理解したとすると、

 文Aたまだすき かけねば:たすきが欠けないことになると

  (たすきに結ばれている貴方が、欠けないとなれば)

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、苦しいことである。

  (親の制約で私は行動できないのだから、つらいことです。)

 文C(それを・が)かけたれば : もし、たすきが欠けたならば

  (貴方がいなくなるならば)

 文D (それは)つけてみまく:ぬかづいて見ることが

 文E (みまくの)ほしき君かも。:叶うならばと思う貴方なのです。

 このような理解でも、丁寧な詞書が無用の歌となってしまいます。上記①のような詞書の許における3-4-19歌の理解としては不適切である、と思います。

⑤ そして、このような理解は、「たすき」が結びつけるもの、というイメージ、すなわち、紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから)「cた」のイメージが当時あった、ということを証明しなければなりませんが、和歌や物語の地の文に用例が見つかりません。

 この2例のような娘の関心2からの理解をしなくとも、作中人物が相手に抱く思いは娘の関心1で難なく相手に理解できます。

 このため、娘の関心1でこの歌は詠われている、と思います。

⑥ なお、初句「たまだすき」を枕詞と割り切れば、土屋氏が示した類似歌の、

 「 タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればそれにつづけて見たく願はれる妹であるかな。」という現代語訳をベースに

 「タマダスキ(枕詞) 心に掛けなければ苦しい。又掛けて居ればぬかずいて見たく願はれる妹であるかな。」という訳が得られますが、3-4-19歌の詞書は不用の歌となります。これでは、3-4-19歌の現代語訳とは言えません。

⑦ 次に、娘の関心1で「かく」を「欠く」意で現代語訳を試みると、次のようになります。

 文Aたまだすき かけねば:たすきが欠けないならば

  (私の行動が制限されることになれば、あるいは親たちの制止が続くならば)

 文B(それは)くるし。:私は精神的に苦しい(貴方のことがきにかかる)。

 文C(それを)かけたれば : たすきが欠けたたらば

  (私の行動が自由になれば、あるいは、親たちの制止が解けたならば、)

 文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと(あるいは妻になりたいと)

 文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのですよ(それなのに、私の行動は制限されてしまうなんて)。

(現代語訳(試案)第3案)

 この理解は、初句の「たまだすき」を「(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ」(たa)とした場合になり、「かく」を「欠く」と理解しても、詞書にいう「親などが、娘に対して行動の制限を課したこと」という事情を踏まえた歌ということになっています。3-4-19歌の理解として妥当なものの一つである、と思います。

 3-4-19歌は、このようにその詞書のもとでいくつかの理解が可能となってしまう歌です。

⑧ これらの現代語訳(試案)第1~3案は、親の制止にあっても、相手への強い思いを詠っている歌と理解できます。

 五句にある終助詞「かも」は、詠嘆をこめた疑問文をつくるのではなく、感動文を作っているのではないか、と思えます。これらから1案に絞るヒントは、同じ詞書の二首目の歌3-4-20歌にあるのではないか、と思います。

 なお、初句の「たまだすき」を、紐が結ばれず単に十字に懸け違っていて、感情の行き違いなどのイメージ(たd)では3-4-19歌としての理解ができませんでした。

44.3-4-20歌再考

① 『猿丸集』の次の歌を、再掲します。

3-4-20歌 (詞書なし:3-4-19歌のもとにある歌となる)

   ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな 

 

類似歌 1-1-490歌   題しらず  よみ人知らず

   ゆふづく夜さすやをかべの松のはのいつともわかぬこひもするかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、この二つの歌は、四句の2文字が異なります。また、詞書が異なります。

 類似歌1-1-490歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にある歌であり、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌です。その配列については、2018/6/25付けブログでの検討だけでは不十分であり、『猿丸集』の第52歌の類似歌(1-1-520歌)の検討の際、『古今和歌集』の恋一の部全歌の配列検討時に行いました(2019/10/14付けブログ参照)。

 その結果、恋一は、奇数番号と次の偶数番号の歌が対の歌として配列されており、この歌は、恋一に編纂者が設けたであろう9歌群の三番目「苦しみが始まる歌群」(10首)に配列され、1-1-489歌と対となるように置かれている歌、と理解できました。

 この2首は、「恋ぬ日はなし」という歌の主題で、詠う景を田子の浦の浪とその周辺の浜の松にとり、「不逢恋」の歌としてつのる恋情を詠っています(歌群は鈴木宏子氏と同じように物象より心象を第一として設定されている、とみています)。2018/6/25付けブログでそれぞれ独立の歌として理解してよい、としましたが、1-1-489歌と対の歌である、と訂正します。

③ 類似歌の現代語訳例を示します。

「(夕月が照らす岡辺に生えている常緑の松の葉のように)いつとも区別のできないような恋をもすることであるよ。」 (久曾神氏) 

「夕月の光が、あれ、あのようにさしている、あの岡のほとりの松の葉の(色の)いつとも区別しない――そんな恋もすることよなあ。」(竹岡正夫氏)

 竹岡氏は、四句「いつともわかぬ」が掛詞となって、景から情に転換する契点となっている、と指摘しています。これらの訳例は、1-1-489歌と違和感がありません。

④ 2018/6/25付けブログで、その時理解した詞書に留意し、現代語訳を試みたのがつぎの試案です(同ブログ「10.」参照)。

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、「たまだすき」は変らないのに、(実現が)何時とも分からないことを親どもはいうものなのだなあ。」

⑤ 今回上記「43.①」のように理解した詞書のもとにある歌として改めて検討します。

 3-4-20歌の初句~三句は、類似歌と同じく、四句の序詞となっています。

 四句にある動詞「しる」が類似歌の「わく」と異なります。しかし、四句が掛詞となって、景から情に転換する契点となっているのは竹岡氏の指摘する類似歌と同じであり、四句「いつともしらぬ」とは、

 名詞「一」+連語「とも」+動詞「知る」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形

でもあるのではないか。

 五句「こひもするかな」の「こひ」は、前回同様動詞「乞ふ」の名詞化と理解できます。五句は、「おやどもがせいす」ことを指します。「乞い(無理な禁止令)を親はするものだなあ」、の意です。

⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、私たちは変わることのない一つの状態になっているのを知らずに、無理なことを親どもはいうものなのだなあ。」(3-4-20歌第一案)

 この理解であれば、詞書に従った恋の歌となりました。

 また、四句を「何時ともしらぬ」という理解でも

 「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、(実現が)何時ともわからない無理なことを親どもはいうものなのだなあ。」(3-4-20歌第二案)

となり、この歌も詞書に従った恋の歌とみなせます。しかし、四句が掛詞ということの意義の大小と、3-4-19歌のどの(試案)であってもそれとの対の歌として、詞書との対応を考慮すると、「いつ」=「一」の理解の歌(3-4-20歌第一案)が恋の歌として優れている、と思います。

 類似歌が、不逢恋の歌と言う理解になるのに対して、この歌は、逢って後の不退転の気持ちを詠う歌となり、類似歌とは異なる恋の歌となりました。そして、「第五の歌群 逆境の歌群」に該当することも確認できました。

45.3-4-19歌の詞書再考 その2

① さて、詞書と3-4-19歌が1案となるかどうかを検討します。3-4-20歌について、3-4-20歌第一案を前提にすると、作中人物は、親などの行動による身の不運を嘆いたというよりも、不退転の決意を詠っていますので、3-4-19歌もそのように理解してよい、となります。

 3-4-19歌の現代語訳(試案)第1案(付記1.②参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は親に申し訳なく思っています。文C以下は(以下の案も同じく)相手への思いです。

 同第2案(同②参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は親を気遣っています。

 同第3案(上記「43.⑦」参照)は、文A~文Bにおいて作中人物は相手を気遣っています。

 このなかでは、同第3案が不退転の決意の表現が一番強い、と思います。

② そうすると、詞書は、詞書20210607第一案(付記1.①参照)をベースに修正した次の試案が妥当ではないか。

 「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、なかなか含蓄のある歌を口にしたので(ここに書き出すと)」(詞書20210614第三案)

 「いみじきを」とは、伝承歌と親などが承知していた歌を、娘が(それも一語入れ替えて)口にしたこととその時の態度との落差から推察し、そのような理解のあることに親などが気付いた驚きではないか。攤(だ)の魔力に劣らぬ恋の魔力を詠う歌となったことを評価したことばである、と思います。

 あるいは、「玉攤(だ)好き」の理解にも思い至った、『猿丸集』編纂者が、一語の入れ替えで意が複数あることになった歌(3-4-19歌)と一意の歌である歌(3-4-20歌)に対する詞書を作文したのかもしれません。

③ 3-4-19歌は、文A~文Bの意が「親ども」各人がまちまちに理解しても、文Eの理解は一つなので、上記の3-4-19歌の現代語訳(試案)は1案~3案やそのほかの理解であっても、作中人物(娘)が突き進む恋以外の選択肢を捨てているのは分かると思います。このため、「第五の歌群 逆境の歌群」に含まれる歌といえます。

④ 「たまだすき」についてまとめると、3-4-19歌の初句「たまだすき」は無意の枕詞ではなく、付記2.の表の「たまだすき」欄の「aた」のイメージで用いられています。それは、1-1-1037歌の「たまだすき」と共通の理解です。

 『萬葉集』での「たまたすき」の「たすき」とは異なる意が、三代集の時代の「たまだすき」の「たすき」にある、ということです。「たまだすき」の「たすき」は、三代集の時代の「ゆふだすき」の「たすき」とは異なる意でもあります。

⑤ 以上のような検討から、『猿丸集』の編纂者は、3-4-19歌と3-4-20歌も、工夫した詞書のもとにおいて、それぞれの類似歌とは別の意に仕立て、『猿丸集』の恋の歌として編纂している、と言えます。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-21歌を検討します。

(2021/6/14  上村 朋) 

付記1.前回ブログ(2021/6/7付け)で例示した3-4-19歌に関する現代語訳(試案)

① 詞書について2案示した。

 「親などが、制止しようとした折に、(すでに異性に)情を通わせていることに気がついて、その娘を押し込めたところ、大変嘆いた娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第一案)

 「親などが、決定を下そうとしたとき、口に出して言う(抗弁する)のを聞きつけて、その娘を押し込めて、激しく折檻した際の娘の歌を(ここに書き出すと)」(詞書20210607第二案)

② 歌本文について2案示した。 「とりこめられている情景」を「たまだすき(かく)」と表現したのではないか(娘の関心1)と仮定し、かつ「かく」を「掛く」(たすきを身に着ける)意とした次の2案である。   

 文Aたまだすき かけねば:たすきを掛けないとすると、 (親などの制止を振り切ると)  

 文B(それは)くるし。:それは私にとり、きにかかることです、親に申し訳ないと。

 文C (それを・が)かけたれば : たすきを掛けると (親の制止に従うと)     

 文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいと

 文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方になってしまうのね。(もう逢えないのであろうか)  

(現代語訳(試案)第1案)

 

文Aたまだすき かけねば:(袴着の児が使うような)たすきを身に着けなくてよければ

(親が私への制止を止めたなら)、

文B(それは)くるし。:(親子の縁が切られたことになるので)それは私にとり、苦しい。

文C(それを・が)かけたれば : でも、貴方と結びつくたすきを身に着けたならば

文D (それは)つけてみまく:(心を)よせて、仰ぎ見たいという(あるいは妻になりたいと)

文E (みまくの)ほしき君かも。:そう思う貴方なのです。(親などから制止されても貴方への思いはかわりません)。

(現代語訳(試案)第2案)

 

付記2. 3-4-19歌での同音異義のある主な語句一覧 (2021/6/6付けブログより)

検討語句

語句の意

検討語句

a

b

c

d

e

たまだすき

(たすきという紐の)対象物が自由を制限されているイメージ(俗語のたすきから):aた

たすきという紐が強制しているイメージ(俗語のたすきから):bた

紐が十字の形に結ばれていれば、一体感のイメージ(俗語のたすきから):cた

紐が結ばれず単に十字に懸け違っていれば、感情の行き違いなどのイメージ(俗語のたすきから):dた

祭主が身に着ける「たすき」(木綿だすきなど):eた

かく

心に掛ける

情けなどをかける(掛ける):aかく

たすきを身に着ける(掛ける):bかく

何かが欠ける又は何かを欠く:cかく

(火を)放つ:dかく

掻く・など:eかく

くるし

(精神的・肉体的に)苦しい・つらい。苦しい:aく

きにかかる・気苦労である:bく

不都合である。さしつかえがある。(普通打消しの表現で用い反語):cく

 

 

つく

突く:aつく

ぬかずく:bつく

付く:cつく

(心を)よせる:dつく

憑くなど:eつく

みゆ

物が目にうつる・見える :aみゆ

(人が)姿を見せる・現れる:bみゆ

人目に見えるようにする・見せる:cみゆ

妻になる・嫁ぐ:dみゆ

 

注1)「たまだすき」については、このほかに単なる枕詞の場合がある。

注2)「俗語のたすき」とは、三代集の時代において「衣服に用いる肩にかける補助具」であって十字の形を成して用いるのが特徴となっている紐である。美称の「たま」が付いた場合のその発音は、1-1-1037歌において「たまだすき」と発音するのであれば『萬葉集』が「玉手次」などみな清音の「たまたすき」であり、発音が異なることになる。

注3)3-4-13歌の詞書には「(思ひ)欠く」意で用いられていた。

注4)四句にある「(つけて)みまく(の)」に関しては、「みまくほし」と言う連語が古語辞典に立項されている。それを助詞「の」で二つの語に割っているとみると、前段にある動詞「みゆ」を強調しているかに見える。

(付記終わり  2021/6/14  上村 朋)