わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ 

 前回(2021/7/12)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-22歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。)

 2.再考 第五の歌群 第23歌の課題 

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-21歌を検討します。『新編国歌大観』から引用します。

3-4-23歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

おほぶねのいづるとまりのたゆたひにものおもひわびぬ人のこゆゑに

 

3-4-23歌の類似歌   万葉集 2-1-122歌     弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)

     おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに 

(大船之 泊流登麻里能 絶多日二 物念痩奴 人能児故尓)

② 3-4-23歌は、四句に、3-4-22歌でも用いている動詞「(もの)おもひわぶ」があります。以前検討した際(ブログ2018/7/2付け)には、それに言及がありません。3-4-22歌では、「おもひわぶ」の主語は作中人物であって、相手の「おやども」の苦慮を気遣う、と理解したところです。この2首の整合性は確認を要する、と今は思います。

 それが、類似歌2-1-122歌と3-4-23歌との違いの理解に波及しているか、を検討したい、と思います。      

③ 以前検討した際(ブログ2018/7/16付け)の結論は、次のとおり。

第一 前後の題詞から独立している題詞の許の4首のひとつが類似歌2-1-122歌であり、この4首間で整合が取れた理解をすればよい。類似歌は、大人の男女の軽い相聞歌。土屋氏のいう「民謡を用いたか」という意見の方向と同じ理解。

第二 三句「たゆたひに」の主語は、「とまり」であり、女の一家・一族を指す。

第三 この歌で、「ものおもひわぶ」とは、家族にとりこめられている女になにもしてやれない無力さを(作中人物が)感じていることの表現(主語は、3-4-22歌と同じく作中人物)。

第四 3-4-23歌の現代語訳(試案)

「大きな船が出港する停泊地はゆらゆら波が揺れ止まりしていないようですが、思いがいろいろ浮かび辛いことです。親に注意をうけても慕っていただける貴方のことで。」

第五 この歌は、愛情を交わした女に対する作者の心のうちを詠って、相手を慰める歌。類似歌は、恋の進展のないことにより外見が変わったと訴えた歌。

3.再考 類似歌

① 類似歌の検討より始めます。上記「2.③ 第一」は、弓削皇子に仮託して「諸方の歌を集めて集成した面」が強いという見方(伊藤博氏)にも一致します。2-1-122歌も含めた同一の題詞の許の4首は、恋の進行順ではなく、すべて、逢うことができない片恋の歌で、それぞれ独立していました。  

② 三句「たゆたふに」とは、大船が「たゆたふ」意としました。停泊地の浪に応じて揺れてしまっている大船です。

③ 四句「ものもひやせぬ」の万葉仮名は、「物念痩奴」であるので、「(誰かへの)物思ひが原因で痩せてしまった」と理解したところです。

④ その現代語訳(試案)はつぎのとおりでした。 

「大船が、(例えば住之江の津のような)波の静かな港に停泊している時も、揺れ動き続けている。そのように、私はずっと捕らわれたままで、物思ひに痩せてしまった。この乙女のために。」

 多くの諸氏は、この歌を、四句が文末である、として現代語訳しています。2-1-2490歌も同じとしていますが、2371歌や2-1-2491歌はそのようにみていません。

 4.再考 3-4-23歌

① この歌の三句にある「たゆたふ」のは、(いづる大船が起こす波が消えない)停泊地の水域です。類似歌では大船でした。つまり、出港する大船による浪の波紋があることを叙景として述べて、それにより、作中人物の相手とその家族の関係が大船と「とまり」により示唆されています。

② 動詞「たゆたふ」とは、「ためらふ・躊躇する」意と「漂う」意があります(『例解古語辞典』)。類似歌は後者の意のみでしたが、この歌では、両方の意を掛けています。

③ 動詞「おもひわぶ」の用例は、『萬葉集』に3例、そして三代集に2例(勅撰集にはこの2例のみ)あります。

2-1-649歌 大伴宿祢駿河麿歌一首

   ますらをの おもひわびつつ たびまねく なげくなげきを おほぬものかも

2-1-3749歌 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ

(3-4-22歌の類似歌の一つ。2021/6/28付けブログで検討)

2-1-3781歌 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

    たちかへり なげけどあれは しるしなみ おもひわぶれて ぬるよしぞおほき

1-2-953歌 右近につかはしける     左大臣   (巻十三 恋五)

    思ひわび君がつらきにたちよらば雨も人めももらさざらなん

1-3-872歌 題知らず   よみ人しらず   (巻十四 恋四)

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

(この歌は、2-1-3749歌を元資料としており、3-4-22歌の類似歌のひとつ。2021/7/5付けブログで検討)

 ④ 『萬葉集』歌の現代語訳を、紹介します。

2-1-649歌は、坂上郎女との贈答歌です。五句にある動詞「おふ」は、罪の報い・処罰・人の呪いなどを身に受けることを指します。この歌では坂上郎女に対して「身に受けないのですか」と問うています。二句「おもひわびつつ」の意を、「恋こがれ、がっかりして」として、

「ますらをが 思い窮して 幾度となく 嘆く恨みを あなたは身に受けないものでしょうか」(『新編日本古典文学全集 萬葉集』) 

     と、あります。

2-1-3749歌については、次のように私は現代語訳(試案)したところです。

「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

(「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」2021/6/28付けブログより) 

「おもひわぶ(らむ)」とは、前後の語句とともに意訳しています。「(私のために)辛い思いをしている(であろう)」の意です。土屋氏は、「わぶ」とは、「遣る瀬ながるとでも言ふのであらう。」と指摘しています。

2-1-3781歌は、「繰り返して 泣いてもわたしは 甲斐がないので 思いしおれて 寝る夜が多い」(『新編日本古典文学全集 萬葉集』)とあり、「思ひわぶる」の「わぶる」という動詞は『萬葉集』でこの1例だけであり、「わぶ」と同義とみなしています。「わぶ」とは2-1-3749歌においては「悲しい目にあって力を落とす」意とあります(同上)。

⑤ 三代集歌の現代語訳を紹介します。

1-2-953歌(巻十三 恋五)の歌本文についての工藤重矩氏の現代語訳は、つぎのとおり(『和泉古典叢書3 後撰和歌集校注』(1992 和泉書院)より。)

「苦しさに思い余って、薄情な仕打にもかかわらず、あなたの許に立ち寄ったならば、涙雨に濡れさせることなく、人目も憚らないで逢ってほしい。」

「わぶ」の注記はこの歌においてしていません。

木船重昭氏は、『笠間注釈叢書13 後撰和歌集全釈』(1988)で、「わぶ」とは「動詞の連用形について、・・・する気力を失うとか・・・しあぐねる、という意」、と説明しています。

  巻十三のこの歌の前後は、一方は冷淡でもう一方は諦めていない、という間柄の歌が並んでいます。「おもひわび」ているのは右近、と理解して、現代語訳を試みると、次のとおり。

詞書: 右近に贈った歌     左大臣藤原実頼

歌本文: 「(私の文や歌から)とまどいが生まれたりしてつらいと思って居るようだが、私が立ち寄ったならば、雨のような涙を私にあふさせることもなく、(逢えずに帰るという)人目を避けるようなこともしないですむようにしてほしい。」

「もらす」とは、「漏らす・洩らす:(水や涙を)もらす・(秘密などを)人に知らせる・省略する・省く・取り逃がす・逸する」意があります。

 この歌は、薄情な人だとなじられた作中人物(作者の左大臣)が、前提条件などつけず逢えばわかるではないか、と訴えた歌ではないか。

 なお、巻十三恋五の配列・編纂方針の検討は、ここでは割愛します。工藤氏も木船氏も上記の図書では触れていません(付記2.参照)。

 

1-3-872歌は、次のように現代語訳を試みました。 

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」  (「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」 2021/7/5付けブログより) 

「おもひわぶらん」を「(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう」と理解しました。  

  

⑥「おもひわぶ」の「わぶ」は、『例解古語辞典』では、補助動詞との説明もあります。「たやすくできなくて困る意を添える」、とあります。「ものおもひわぶ」の「わぶ」も補助動詞とみれば、「ものおもふ」と「ものおもふ」は補助動詞「わぶ」が付いてほぼ同義ではないか。「あることをしよう・思うことを実現しようとすることがたやすくできないで困っている状況を言う語句ではないか。『例解古語辞典』では「おもひわぶ」を「思い悲しむ・つらいと思う」と説明しています。

⑦ 次に、「ひとのこ」と詠う用例は『萬葉集』に10例、三代集では、『古今和歌集』と『拾遺和歌集』に各1例あります。

萬葉集』の10例は、類似歌2-1-122歌を除くと、(親の監視が強いなど)婉曲に自由にならない恋の相手である女の意が7例、「私を除く普通の人達」の意が1例(2-1-3821歌)及び「子孫」の意が1例(長歌である2-1-4118歌)です。

 三代集に2例あり、『古今和歌集』巻十七雑歌上にある1-1-901歌と、『拾遺和歌集』巻七物名にある1-3-413歌です。

1-1-901歌 返し   なりひらの朝臣 (巻十七 雑歌上) 

   世中にさらぬ別のなくもがな千世もとなげく人のこのため

1-3-413歌 しただみ   よみ人しらず  (巻七 物名)

   あづまにてやしなはれたる人のこはしただみてこそ物はいひけれ

 ⑧ 1-1-901歌は、1-1-900歌の返しの歌です。

1-1-900歌 業平のははのみこ長岡にすみ侍りける時に、なりひら宮づかへすとて時時もえまかりとぶらはず侍りければ、しはすばかりにははのみこのもとよりとみの事とてふみをもてまうできたり、あけて見ればことばはなくてありけるうた

    老いぬればさらぬ別もありといへばいよいよ見まくほしき君かな

 

 この詞書にある「とみの事」とは、「急な用事」の意です。歌の二句「さらぬ別」とは、「避けられない別れ(死別)」の意です。母親へ業平が返歌をしたのが1-1-901歌です。

 久曽神氏は、1-1-901歌の四句以下を「母親に千年も長生きしてほしいと嘆願している子供(私)のために」と理解しています。五句にある「人のこ」の「人」とは「世間一般の人」の意であり、かつ「私からみて貴方という特別な人」の意でもあります。「人のこ」とは、だから、親を思うのは子供誰でもの意であり、作中人物である「なりひらの朝臣」をさすことになります(雑歌上という部立てにある所以等の検討は今割愛します)。

⑨ 次に、1-3-413歌の詞書にある「しただみ」とは、海産の小型の巻貝をいいます。四句にある「しただむ」には、巻貝の意に、動詞「舌訛む(したたむ)」(ことばがなまる意)をかけています。和歌は清濁抜きで表記されていた時代です。「舌訛む」は、意味の上から濁音がふさわしいと感じられ、後にはそう読まれるようになったそうです(『例解古語辞典』)。

 三句にある「人のこ」の「人」とは、東国に生まれ育って今そこで生活している(都を知らぬ)者」の意です。

⑩ 三代集以後も、あれだけ恋の歌を詠む機会があるのにかかわらず、「人のこ」という詠う歌がありません。これらを見ると、3-4-23歌での「人のこ」とは、その詞書から、相聞の歌を想定できますので、『猿丸集』の編纂された時代でもある三代集の用例に準じるより、類似歌との歌の相似を重視し、『萬葉集』に多い「恋の相手の女」、具体的には3-4-22歌に登場する「いも」を指すのではないか。

⑪ そうすると、この歌3-4-23歌は、類似歌の四句「ものおもひやせぬ」の最初の五文字と重ねることを念頭に詠っている、とみてよい、と思います。

詞書によれば、作中人物は「いも」が親に抗うことを受け入れ密かに逢って、見つかってしまったのです。

 動詞「ものおもひわぶ」と動詞「おもひわぶ」はほぼ同義ですので、3-4-22歌で作中人物が、親を思う相手の女(「いも」)を気遣って、その次の3-4-23歌で、作中人物が、実際に親に逆らっている相手をおもう、という歌の配列は、詞書にある事の経緯に沿っており、妥当なものである、と思います。また、現代語訳(試案)も特段の違和感はありませんでした。

⑫ このため、2021/6/28付けブログ以降の検討結果は、そのまま受け入れられます。

この3-4-23歌は、相愛の歌であって、類似歌2-1-122歌とは異なる歌意となった、恋の歌です。 この歌は、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌とくくってよい、と思います。 

⑬ 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 蒸し暑い夏が始まりました。 熱中症と勢いを増した新型コロナに気を付けたい、と思います。しばらく夏休みをとり、次の歌3-4-24歌を検討します。

(2021/7/19    上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.後撰集について

① 作者や部立てをみると、古今集とは異なる編纂方針があった、と言える。

② 1-2-953歌の作者名は「右大臣」と言う伝本もある。左大臣の私家集『清慎公集』に左大臣藤原実頼 900~970)と右近との交渉は見えない。右大臣(藤原師輔 908~960)と右近との交渉は『九条右大臣集(師輔集)』に見える。左大臣は勅撰集に36首入集、右大臣は35首入集。

 (付記終わり  2017/7/19    上村 朋)