前回(2021/2/15)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき3」題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 並みのたまたすき」と題して、記します。(上村 朋)
1.~22. 承前
(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることを確認した。3-4-19歌は、初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』での用例を巻十三まですすめてきた。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、神事の面影がそのことばに残っている歌が、これまでは断然多かった。
3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを
たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )
23.巻十三の3首目のたまたすき
① 『萬葉集』巻十三には、「たまたすき」の用例が3首あります。2-1-3300歌、2-1-3311歌、及び2-1-3338歌です。
今回は3首目の2-1-3338歌を検討します。
『萬葉集』巻十三は、左注の「右〇首」により歌を組み分け、挽歌の部には9組あります。この歌は、その最初の組である「右二首」の最初の歌(長歌)です。
② 『新編国歌大観』より「右二首」を引用します。
「たまたすき」が長歌に二度(「珠多次 (懸而所偲)」及び「珠手次 (懸而思名)」)用いられています。
2-1-3338歌 挽歌
挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 年緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 国見所遊 九月之 四具礼乃秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡芽子乎 珠多次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二所取 賜而所遊 我王矣 煙立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 [一云 者] 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障経 石村乎見乍 神葬 葬奉者 徃道之 田付〇(偏が口、旁が刀(りっとう))不知 雖思 印乎無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有
かけまくも あやにかしこし ふぢはらの みやこしみみに ひとはしも みちてあれども きみはしも おほくいませど ゆきむかふ としのをながく つかへこし きみのみかどを あめのごと あふぎてみつつ かしこけど おもひたのみて いつしかも ひたらしまして もちづきの たたはしけむと わがおもふ みこのみことは はるされば うゑつきがうへの とほつひと まつのしたぢゆ のぼらして くにみあそばし ながつきの しぐれのあきは おほとのの みぎりしみみに つゆおひて なびけるはぎを たまたすき かけてしのはし みゆきふる ふゆのあしたは さしやなぎ ねはりあづさを みてに とらしたまひて あそばしし わがおほきみを かすみたつ はるのひくらし まそかがみ みれどあかねば よろづよに かくしもがもと おほぶねの たのめるときに なくわれ めかもまとへる おほとのを ふりさけみれば しろたへに かざりまつりて うちひさす みやのとねりも(一伝 は) たへのほの あさぎぬければ いめかも うつつかもと くもりよの まとへるあひだに あさもよし きのへのみちゆ つのさはふ いはれをみつつ かむはぶり はぶりまつれば ゆくみちの たづきをしらに おもへども しるしをなみ なげけども おくかをなみ みそでの ゆきふれしまつを こととはぬ きにはありとも あらたまの たつつきごとに あまのはら ふりさけみつつ たまたすき かけてしのはな かしこくあれども
2-1-3339歌 反歌
角障経 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞
右二首
つのさはふ いはれのやまに しろたへに かかれるくもは おほきみにかも
③ 長歌2-1-3338歌の「たまたすき」の用例部分を中心に、阿蘇氏の現代語訳を、引用します。
「(言葉に出すのもまことに恐れ多い、藤原の都に、ぎっしりと人々は満ち満ちているが、君は大勢おいでになるが、過ぎ去ってはまた新たに来る長い年月、お仕えしてきたわが君の御殿を、天を仰ぎ見るように仰ぎ見つつ、・・・)九月の時雨の降る秋は、大殿の砌いっぱいに露をやどしてなびいている萩を、心にかけて愛でなされ、み雪の降る冬の朝は、刺し楊が根を張るという、弦を張った梓の弓を御手にお取りになって、・・・(いくら嘆いても限りがないので、)皇子の御袖の触れた松を、もの云わぬ木ではあるが、月が改まるたびに、天の原を仰ぎ見るように仰ぎ見ながら、玉だすきを肩にかけるように、心にかけて偲ぼうよ。恐れ多いことではあるが・・・・」
④ 氏は、現代語訳にあたり、最初の用例「珠多次 (懸而所偲)」では、「(露をやどしてなびいている萩を、)心にかけて愛でなされ」と訳出し、二つ目の用例「珠手次 (懸而思名)」では、「玉だすきを肩にかけるように、心にかけてしの偲ぼうよ」と訳出しています。
土屋氏は、最初の用例は「(露を受けてなびいた萩を)タマダスキ(枕詞)心に掛けて賞玩され」、二つ目の用例は「タマダスキ(枕詞)心にかけて、慕ひ思はう」としています。氏自身の方針に従い枕詞を原則訳出していません。
この歌の構成は、阿蘇氏にならうと次のようになります。
「たまたすき」の用例は、その第二と第四にあります。
第一 世の皇子への期待感と作中人物との関係を述べる 22句
第二 生前の皇子の様子を、四季にわけて述べる 30句
第三 突然の皇子の死と殯(もがり)の様子を述べる 20句
第四 埋葬時の情を述べ長く皇子を偲ぶことを誓う 17句
計89句
⑤ 反歌2-1-3339歌の現代語訳の例を、引用します。
「葛の這う磐余の山に、白くかかっているあの雲は、わが大君であろうかなあ。」(阿蘇氏)
「ツノサハフ(枕詞)磐余の山に白い布の如くに、かかって居る雲は、大君であるだらうか。」(土屋氏)
阿蘇氏は、五句「皇可聞」を「わがおほきみかも」と訓み、「大君にかもあらむ」の意とする訓「おほきみにかも」はいかがと思われる、と評しています。土屋氏は、(この訓「おほきみにかも」は)拙い言葉づかひである。原作によって「あらむ」を省略したと、理解出来る。これは仙覚の訓」と指摘しています。
⑥ この歌は、巻十三の、挽歌の部にありますので、その部の配列を検討した(付記1.参照)結果、少なくとも次のような指摘ができます。
第一 巻十三は、挽歌の部も、「右○首」を単位として配列している。その配列順は、皇子へ(2-1-3338~2-1-3340)、皇族へ(2-1-3341~2-1-3342)、官人の大和国での死者へ(2-1-3343~2-1-3348)、行路死人へ(2-1-3349~2-1-3357)、官人の遠国の勤務地での死者へ(2-1-3358~2-1-3362)となっている。
第二 皇子への挽歌は萬葉集の前例歌の模倣・組合せの歌。それ以外は、皇族への挽歌を含め先例の民謡を組み合わせた歌か。
第三 どの歌も、死者の身分(皇子・皇族・官人その他)があえば当該死者にも挽歌として地名など置き換えて使用可能な歌である。また作中人物も官人・妻など一般的な属性のみが特定されている歌である。
第四 配列順において留意すべきは、「右九首」とする行路死人への挽歌と、最後の「右二首」である。
⑦ 長歌2-1-3338歌を、検討します。この歌と反歌(2-1-3339歌)の作中人物は、皇子を偲ぶ官人です。
歌は、人麿作2-1-199歌を念頭にその他の人麿歌で補綴し、さらに伝承過程でも手が入った後に記録されたものを、巻十三の編纂者は見た、と思われます。
巻十三の編纂者の時代には、皇子のみならず官人の葬送儀礼でも、いくつかの挽歌を朗詠するのが慣例でした。土屋氏は「半職業的な歌ひ手があって、(このような歌は)求められて歌ひあげたものかもしれぬ。(だから)皇子以外にも歌はれたかも」と指摘しています。
葬送儀礼の慣例では、死者の配偶者の立場の朗詠は必須であり、その例もこの挽歌の部に複数記載されています。
反歌に詠われている雲について、阿蘇氏は、説明を省いています。土屋氏は、「巻三の人麿作の歌(2-1-431歌)の改作であり、火葬の煙を白雲に思ひ寄せて、歌っている」と指摘しています。2-1-431歌の詞書には「土形娘子火葬泊瀬山時、・・・」とありますが、この長歌と反歌には題詞も左注もなく、また最初からペアの歌であったかもわかりません。火葬のほか土葬でも風葬でも葬送の歌としても朗詠されて(実用に供して)きたとするならば、巻十三の編纂者の時代には、反歌は2-1-431歌の詞書を離れた歌となっていたと思います。
⑧ さて、2-1-199歌は、149句の長歌であり、いわゆる枕詞を阿蘇氏は14句指摘しています。土屋氏は13句指摘したうえ、修飾句と扱っているとした句も2句あります(「ちはやぶる」と「おほゆきの」)。
この歌は89句からなり2-1-199歌より4割も短い長歌ですが、阿蘇氏は、いわゆる枕詞を12句、土屋氏は、13句(阿蘇氏の12句と「ゆきむかふ」)指摘しています。
そのほか、この歌は同一の枕詞1種類を2句(つまり2回)用いています。それが「たまたすき」です。
⑨ この歌の作者及び巻十三の編纂者は、多くの枕詞に対して共通の考えのもとに用いあるいは理解していると思います。その考え・理解を、枕詞と理解した句数の多い土屋氏のいう枕詞(13句)を例として検討します。なお、『例解古語辞典』の「主要枕詞一覧表」(Aと略称)にある語句であれば、「A」と注記します。
第一 「徃向 (年緒長)」(ゆきむかふ(としのをながく)):経行くところの意で、「とし」につづけたか、と氏は指摘し、「むかふ」はここでは動詞に附いているが、名詞(きもむかふなど)に附いて枕詞になるものと同じらしい、ともいう。
なお、『萬葉集』で「ゆきむかふ」という訓のある歌は、この歌のみ。
第二 A「もちづきの」:望月の如くの意で、「たたはし」の枕詞。氏はこの枕詞を、「望月の」と訳出している。Aによれば、「たたはし」「足れる」などにかかる。
第三 A「遠人 (待之下道湯)」(とほつひと(まつのしたぢゆ)):遠人を待つ意で「まつ」即ち「松」の枕詞。Aによれば、「まつ」「かり」にかかる。
第四 A「珠多次 (懸而所偲)」(たまたすき(かけてしのはし)):たすきを掛ける意のつながりで「かく」につづく。Aによれば、「掛く」「うね」にかかる。(さらに下記⑩以下において検討をする。)
第五 「刺楊 (根張梓矣)」(さしやなぎ(ねはりあづさを)):氏は、茂った柳とみるべきで矢を忌んだのである、と指摘する。さらに、「(この歌では、)「梓」も「弓」を省いて用いているが梓弓をさしあるいは「はりあづさ」で弓の意とも見える。「弓矢」(という語)を死者のため避けた(ので、この語句の並びで)、冬は弓矢を持ち狩りされた」と表現した、と氏は指摘する。氏は「さしやなぎ」が(「根(はる)」にかかるので)矢を言い出している枕詞とみており、この枕詞を、「さしやなぎ即ち矢や(アズサの弓を)」と訳出している。
なお、『萬葉集』で「さしやなぎ」という訓のある歌は、この歌のみ。
第六 A「喚犬追馬鏡 (雖見不飽者)」(まそかがみ(みれどあかねば )):「見る」につづく。 Aによれば、一般に「清し」「影」「見る」「掛く」などにかかる。
第七 A「大船之 (憑有時尓)」(おほぶねの(たのめるときに)):大船の如く信頼できるという意味から「たのむ」につづく。2-1-109歌では、船の津即ち港というつづきで「津」の枕詞と氏はみている。Aによれば、「頼む」「たゆたふ」などにかかる。
第八 A「内日刺 (宮舎人方)」(うちひさす(みやのとねりも)):日にかがやいて居る宮という修飾から来たのであろうと氏は2-1-463歌で指摘する。Aによれば、「宮」「都」にかかる。
第九 「くもりよの」:曇夜のごとくの意で「まどふ」につづく。氏は、2-1-3200歌における「くもりよの」を枕詞としての用法とし、歌を「曇り夜の如く、とりつきはもなく、山を越えて行かれる君を・・・」とし、この歌においてもこの枕詞を「曇り夜の」と氏は訳出している。 一般には、「たどきも知らず」「惑ふ」「あがしたばへ」などにつづく、とされる。
第十 A「朝裳吉 (城於道従)」(あさもよし(きのへのみちゆ):氏は、「麻裳を着るといふつづきであるといはれている」として「き」につづくとしている。また、磐余への葬斂を歌って居る反歌によって「きのへ」は(地名ではなく)「墓槨(ぼかく)のほとり」ともなり得る、と指摘する。
Aによれば、「紀(地名)」「城上」にかかる。
第十一 「角障経 (石村乎見乍)」(つぬさはふ(いはれをみつつ)):氏は「いはれ」につづく、と指摘する。2-1-135歌ではツヌは蔓。それの這う岩といふつづきと言はれるが、確かでないと指摘し、また2-1-285歌でツヌは「イハツヌ」即ち岩上の蔦で、その意からイハにつづけられる、とも指摘する。一般には、「いは」(岩・磐余(地名)・石見(地名)など)にかかる、とされる。
第十二 A「荒玉之 (立月毎)」(あらたまの(たつつきごとに)):氏は、2-1-446歌において「磨かない玉即ちアラタマを砥にかけるといふ意でトシのトにつづくのであるといふ」と指摘している。
Aによれば、「新玉の」という表記で、一般に「年」「月」「日」「春」にかかる。
第十三 A「珠手次 (懸而思名)」(たまたすき(かけてしのはな)):上記第四参照。
このほか、「けぶりたつ」も「原野を焼く原などに立つので、枕詞的に用いた語句」と、氏は指摘しています。この歌では、「たまたすき」が二句あるので、枕詞としては12種類を指摘していることになります。そして、自らの方針に反して、氏は、第二と第五と第九を訳出しています。
⑩ 『例解古語辞典』の「主要枕詞一覧表」には、このうち8種類が記載されています。なお第五は、諸氏のなかには「刺し柳 根張り梓」を、「挿し木にした柳が根を張る」から「弦を張る」とつづけた序と理解している例もあります。
そもそも枕詞とは、日本語の韻文(長歌と短歌など)の修辞法の一つであり、原則五音の句により作者の表現意図を反映させています(その後散文にも用いられています。また付記2.参照)。具体的な事物を指す語句を枕詞としている場合は、その事物の特徴などを利用して続く語句を卓立させていますので、その歌だけの(唯一の利用例となる)枕詞と理解してよいものも少なくありません。(『例解古語辞典』巻末の「和歌の表現と解釈」参照)
土屋氏が2-1-3338歌において、「枕詞」と理解している語句について、『萬葉集』での用例を確認すると、つぎのとおり。その語句が枕詞ではない修飾句と認められる例を含みます。
第一 ゆきむかふ:1首(この歌のみ)
第二 Aもちづきの:4首 普通の修飾句もある。
第三 Aとほつひと:5首
第四と第十三 Aたまたすき:14首 この歌は最後の歌
第五 さしやなぎ:1首(この歌のみ)
第六 Aまそかがみ:35首 普通の修飾句も名詞もある。
第七 Aおほぶねの:17首
第八 Aうちひさす:13首
第九 くもりよの:3首 この歌は2首目
第十 Aあさもよし:6首
第十一 つぬさはふ:5首 この歌は4首目
第十二 Aあらたまの:36首
この歌だけの枕詞と氏が認めているのが、「ゆきむかふ」、「さしやなぎ」の2句です。
その2句を含めて枕詞は、次に続く語句にみなかかっている、と諸氏も理解しています。その枕詞の謂れの確かさは不問で歌を理解しています。巻十三の編纂者においても「たまたすき」を含め同じような理解をしている、と推測できます。
⑪ また、同一の枕詞を1首のうちに2回用いている歌は、巻十三の挽歌の部にはこの歌(2-1-3338歌)の「たまたすき」しかありません。2-1-3338歌にある「たまたすき」以外の枕詞にもなる語句を調べても、『萬葉集』では2回用いた歌はありません。「まそかがみ」という句は枕詞・名詞等で35首に用いられていますが、ひとつの歌に1回です。
なお、2-1-3813歌では、「まそかがみ」のほかに「かがみ」という語句があります。その部分を引用すると、
「腰細丹 取餝氷 真十鏡 取雙懸而 己蚊果 還氷見乍 こしほそに とりよそほひ まそかがみ とりなめかけて おのがなり かへらひみつつ」 (腰を細くして取り装い、まそ鏡のように取り並べて懸けて自分の風体を振り返りながら見て)
「後之世之 堅監将為迹のちのよの かがみにせむと」
このように、枕詞という扱いとは思えません。
このほかに「しろたへの」という語句が2-1-484歌で2回用いられていますが共に枕詞であるとは思えません。
上記以外の枕詞でも(すべての確認はできていませんが)同様なのではないか、と推測します。
⑫ ここまでの検討で、「たまたすき」は、「かく」と「うね(び)」にしかかかっていませんでした。この歌でも、「かく」にかかっています。その前後の句を阿蘇氏の現代語訳はつぎのようでした。
最初の「たまたすき」の前後:「九月の時雨の降る秋は、大殿の砌いっぱいに露をやどしてなびいている萩を、心にかけて愛でなされ、」
次の「たまたすき」の前後:「皇子の御袖の触れた松を、もの云わぬ木ではあるが、月が改まるたびに、天の原を仰ぎ見るように仰ぎ見ながら、玉だすきを肩にかけるように、心にかけて偲ぼうよ。」
前者は、亡くなった皇子が「心にかける」のであり、皇子が、萩という植物を鑑賞された意です。実際に「たまたすき」を用いることになる神に奉仕する(祈願する)場面からは連想できない光景です。「かく」を導くのみの用法と言えます。万葉仮名での「珠多次」という表記は、この歌のこの句のみです。
後者は、作中人物が「心にかける」のであり、それは、2-1-199歌が亡くなった皇子を偲ぶことであったのに対して、「皇子の御袖の触れた松」を仰ぎ見る意です。それは皇子を偲ぶことを遠回しに言っていると理解できますが、2-1-199歌が直接皇子を偲ぶという表現に比べると、作中人物の気持ちは浅いようにみえてしまいます。しかし、この歌とともに葬礼で(高市皇子への挽歌である)2-1-199歌が朗詠されることは決してないので、実用上は差支え無かったと思えます。
見かけは、前者とおなじように植物を鑑賞するかのような表現であるので、前者も後者も一様に「たまたすき」を「かく」を導くのみの用法に統一されていることになります。この歌は挽歌であり、後者のみに用いて、人麿作の2-1-199歌の「たまたすき」のような用い方(付記3.参照)の時代ではなかったようです。なお、後者は、万葉仮名では「珠手次」と表記されています。
⑬ この歌のある巻十三の挽歌の部の配列において、長歌にはいろいろな枕詞が用いられています。そのなかで10句もの枕詞がある歌は、この歌しかありません(付記1.参照)。
また長歌を構成する全句数に対する枕詞の句数の割合をみても、この歌は13/89(15% 約7句に1句の枕詞)で、2-1-199歌でも、14/149(9% 約10~11句に1句の枕詞)と、枕詞を作者は多用しています。
枕詞という修辞法の「一次的な機能」である「接続する語を卓立する(取り出して目立たせる)こと」(付記2.参照)に徹して、この歌の朗詠時の効果を意識しているのではないか、と思えます。しかしながら、これだけ頻度が高いと、「長歌の展開のなかで(主要な意味を担う七音を)特に強く印象に残る」ようになっていません。
この歌が、特定の人物への挽歌と記録されていないことも(歌の汎用性を考慮していることも)、影響しているのではないか。
⑭ この歌と2-1-199歌と共通の枕詞は、「あさもよし」と「たまたすき」の2種類だけです。また、2-1-199歌も各種枕詞はすべて1回用いているだけです。
阿蘇氏は、「玉だすき」について、2-1-3338歌では特段の説明を加えていませんが、2-1-3002歌の「木綿手次」に「ゆふで造ったたすき。神事を行う時に肩にかけた。広幅の袖が供え物その他に触れるのをふせぐ手段として用いられた紐類」と説明しています。「玉」は美称です。 たすきの用途は当時限定されていたのですが、この歌の作者と巻十三の編纂者は、その使用目的を意識している様子が見えません。
このため、この歌の「たまたすき」という語句は、同じような意で用いられているので、この語句の前後は、つぎのような現代語訳になるのではないか、と思います。
最初の「たまたすき」の前後:「(露をやどしてなびいている萩を、)玉たすきはつねにかけるものであるように、心に懸けて賞美され」
次の「たまたすき」の前後:「(新たに立つ月ごとに天の原を振り仰いで見ながら、)玉たすきがつねにかけるものであるように、つねに、心に懸けて忍ぼうよ。」
⑮「たまたすき」の用例は、この歌以降『萬葉集』にはありません。次回は、ここまでの「たまたすき」の検討結果の整合性などを検討し、『古今和歌集』の「たまたすき」の用例検討に進みたい、と思います。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
(2021/3/1 上村 朋)
付記1. 巻十三の挽歌の部の配列検討 (2021/3/1 現在)
① 巻十三 挽歌の部は「右○首」を単位として配列し、計24首を9組にしている。各組に関する私の理解は下記⑧に記す。
② 配列順は、皇子へ(2-1-3338~2-1-3340)、皇族へ(2-1-3341~2-1-3342)、官人の大和国での死者へ(2-1-3343~2-1-3348)、行路死人へ(2-1-3349~2-1-3357)、官人の遠国の勤務地での死者へ(2-1-3358~2-1-3362)となっている。
③ 皇子への挽歌は萬葉集の前例歌の模倣・組合せの歌。それ以外は、皇族への挽歌を含め先例の民謡を組み合わせた歌か。
④ どの歌も、死者の身分(皇子・皇族・官人その他)があえば当該死者にも挽歌として地名など置き換えて使用可能な歌である。また作中人物も官人・妻など一般的な属性のみが特定されている歌である。
⑤ 老齢による人物及び夭折した子への挽歌がない。配列順において留意すべきは、「右九首」とする行路死人への挽歌と、最後の「右二首」である。
⑥ 行路死人への挽歌は「右九首」とくくる歌群であり、各歌は風葬された人物に用いることができる歌である。最後の「右二首」は、編纂者が挽歌に転用したと思われる歌群である。
⑦ 巻十三は、殆どが作者未詳歌であり、編纂者が編纂時承知した形の歌であり、元々の歌は未詳である。なお、土屋氏は、『萬葉集私注』「巻十三後記」で、「訓・訳共に問題の少なくない巻。(解明には)この巻の性格そのものについての、見解からして、始められべきもののやうに思はれる。」と指摘している。
⑧ 「右〇首」別の検討結果は、つぎのとおり。
右二首 2-1-3338歌より2首 長歌と反歌。皇子を偲ぶ官人の歌。舞台は藤原宮。長歌の元々の歌の姿は、人麿作2-1-199歌を主として人麿歌で補綴した歌と言われている。反歌は2-1-431歌の改作。挽歌の対象の皇子には論あり。詳しくは本文参照。上司への挽歌の例のひとつか。枕詞が多く用いられ、通俗化した挽歌となってしまっている。長歌は全89句、枕詞と思われる句は約14句ある。反歌には枕詞と思われる句が1句(長歌にもある「つぬさはふ」)ある。
右一首 2-1-3340歌より1首 長歌。皇子を偲ぶ官人の歌。殯宮における奉仕を詠うのみ。皇子への挽歌。舞台は大和国。土屋氏は巻二の人麿の挽歌を綴り合わせたものという。墓をつくることを許された人物への挽歌に用いることが可能。27句よりなり、枕詞と思われる句は3句。
右二首 2-1-3341歌より2首 長歌と反歌。三野王を偲ぶ舎人の歌か。 遺愛の馬のことを専ら叙している歌。土屋氏は三野王とは美濃地方の豪族かと推測し、阿蘇氏は美努王(敏達天皇の孫の子の栗隈王の子で橘諸兄の父)とする。似た挽歌が『萬葉集』になさそうである。乗馬が許されている官人にも用いることが出来る挽歌。長歌は13句からなり、枕詞と思われる句は1句。挽歌の対象者を修飾する位置にある。
右一首 2-1-3343歌より1首 長歌。 夫を偲ぶ妻の歌 相聞の部にある2-1-3288歌と後半の語句がほとんど同じ。土屋氏は「いくつかの既成の民謡を構成して一篇となしたものか。悲しみを直接歌うところ少なく在りし日の恋の記憶を詠う。広く夫を失った妻のために謡われた民謡」と指摘。葬法は不詳。53句よりなり、枕詞と思われる句は2句。
右三首 2-1-3344歌より3首。すべて短い長歌。 2-1-3344歌は、妻を失った夫の心を初瀬の川瀬の死者を詠うか。2-1-3345歌は葬地である初瀬の山を美しいと詠い、2-1-3346歌は、自然が不変であるのに人間(の命)の変化しやすいのを詠う。2-1-3345歌と2-1-3346歌はおくる側の性別不詳。3首に内容のつながり無し。また葬法を推測する語句無し。葬送や死者供養の儀礼などに3首一組として歌われた民謡か。別々でも用いること可能な歌。最後の長歌は葬儀の終わりなどに朗詠するのにふさわしい。3首の長歌は、順に29句、10句、8句よりなり、枕詞と思われる句は、順に1句、2句、無し。
右二首 2-1-3347歌より2首 長歌と反歌。夫が任地筑紫で死去の報を受けた官人の妻の歌。恋人の思い出ではなく待ち続けたことを詠う。ただ、筑紫で死去とは「大伴之 御津之浜辺従 ・・・」と「盡之山之」が根拠であり、「盡之山之」は西国の山か浜であれば入れ替え可能であり、遠隔地での夫死亡時の官人妻の歌になり得る。長歌は23句よりなり、枕詞と思われる句は約1句あり、反歌にも1句ある。
右九首 2-1-3349歌より9首 長歌3首 反歌6首 海辺でみた行路死人を悼む歌。長歌は繰り返しの語句で終わる。さらに2歌群に別れる。第一群は作者未詳の歌で長歌2首反歌2首。 長歌2-1-3349歌は、2-1-3353歌の全35句の始めの14句と末尾の5句部分を民謡化したもの、長歌2-1-3350歌も3353歌の中間14句を民謡化したものと土屋氏指摘。2-1-3349歌は「道去人(みちゆくひと)」の行動を詠っており、死者自身の行動であり、風葬前提ならば行路死人も一般庶民の死者も該当する。2-1-3350歌も風葬の死者の挽歌となり得る。反歌とある2-1-3351歌と2-1-3352歌も同じ。長歌は、20句と28句よりなり、枕詞と思われる句はそれぞれ約3句づつある。反歌2-1-3352歌には枕詞と思われる句が1句ある。
第二群は調使首作の長歌2-1-3353歌1首と反歌4首。土屋氏は人麿作の狭岑島の挽歌(2-1-220歌)の模倣歌という。2-1-3353歌は調使首が「見屍作歌」であり、「屍」の人物には風葬前提ならば行路死人に一般庶民の死者も該当可能。調使首とは、卑性の人物であり、某というのに同じか。長歌は35句からなり、枕詞と思われる句が約4句あり、4首の反歌にはない。
右二首 2-1-3358歌より2首 長歌と短歌。 遠国勤務の夫死去の報に接して嘆く妻の歌。人麿の挽歌(2-1-207歌)の構想によった歌。夫との思い出は語っていない。長歌は33句よりなり、枕詞と思われる句が5~7句。
右二首2-1-3360歌より2首 長歌と短歌。 前回のブログ(2021/2/15付けの付記1.)で触れたように、赴任地で死去した妻を偲ぶ夫の歌。帰任途中の景を詠む。遠国の勤務地での死者への挽歌として編纂者が官人の夫婦間の歌としてペアとするべく2-1-3358歌よりの「右二首」の歌群とペアにしたか。土屋氏が指摘しているような離別された妻の歌を利用したか。長歌は15句からなり、枕詞と思われる句なし。
付記2.枕詞について
① このブログの本文では「いわゆる枕詞」と言う表現を多くしてきた。「枕詞」とは、修辞法のひとつを言う用語であるので、用いられている語句そのものを意識した表現のつもりであった。「枕詞」という用語としての説明例をいくつか引用する。
②『例解古語辞典』:立項し、二つの意を説明している。
a「和歌の修辞のひとつ。特定の語句または語句群の前におかれる。巻末の「和歌の表現と解釈」を参照」。その巻末の文では、「主要な意味をになう七音の句を先導する」五音を言い、「一次的な機能は、接続する語を卓立する(取り出して目立たせる)ことである」(など)とある。「和歌の表現と解釈」で「萬葉集の和歌」の項において、「長歌の展開のなかで(主要な意味を担う七音を)特に強く印象に残る」ようになること、およびつぎの二つのあることを指摘している。
〇意味を喚起せずに後続する特定の語を卓立するもの:例「山」にかかる枕詞「あしひきの」
〇その事物の特徴により後続する語句を卓立するもの:具体的な事物をさす枕詞。後続する語句との連携のさせかたがそのおもしろさになる。その場かぎりの枕詞(臨時の枕詞)も少なくない。
b「序文。「じょ」の項のかこみ要説参照」
③『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』:修辞法のひとつ。(一句の長さの語句であって)文意全体とは直接には無関係に一語のみを一般的に修飾する用法をいう。この点は序詞と同じであるが,序詞がその場に応じて一回的に用いられるのに対して枕詞が固定性,社会性をもつ点,序詞の音数が不定であるのに対して枕詞は5音 (七五調の場合は7音,いずれも1音程度の出入りはある) 1句に限られる点は相違する。(抄出)
④『世界大百科事典』(第2版):(5音一句に相当する句による)おもに和歌に用いられる古代的な修辞の一つ。独自の文脈によって一つの単語や熟語にかかり,その語を修飾しこれに生気を送り込む。(抄出)
⑤『ウィキペディア』:主として和歌に見られる修辞で、特定の語の前に置いて語調を整えたり、ある種の情緒を添える言葉のこと。序詞とともに萬葉集の頃から用いられた技法である。声を出して歌を詠み、一回的に消えていく時代から、歌を書記して推敲していく時代を迎えたことによって、より複雑で、多様な枕詞が生み出されたと考える。これは『万葉集』に書かれた歌を多く残している人麿によって新作・改訂された枕詞がきわめて多いということによっても、裏付けられることであろう。(抄出)
⑥『古今和歌集』:仮名序の撰集後抱負を述べる段に「・・・ それ、まくらことば春の花にほひすくなくして、みなしき名のみ、秋の夜のながきを・・・」とある。 久曽神氏は、解説(講談社学術文庫p53~54)し、「まくら」(という語の意)に諸説あり、とする。「ことば」(という語の意)について「歌の前の説明文を平安時代には「ことば」といい、鎌倉時代以後は多く「ことがき」といい、江戸時代以後は多く「ことばがき」または「題詞」という。「まくらことば」は、今では歌文に使用する修辞用のみの語、歌意には関係なく一定の語の上におくのであるが、歌の前の詞書の意であったかと思われる。」という。
付記3.2-1-199歌における「たまたすき」の意
① 2-1-199歌は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次2」(2020/10/5付け)で検討した。
② 歌の最後の部分「玉手次 懸而将偲 恐有騰文」を次のように理解した。(同ブログ⑭)
「祭主が襷をかけて神に奉仕しお告げを聴くように、心を込めて大君(高市皇子)の成されたことやお言葉を偲びたい、と思います。大君のことを勝手に話題にするのははばかれるのですが。」
(付記終わり 2021/3/1 上村 朋)