わかたんかそれ 明日は6月23日

 夏至の昨日、雲厚く部分日食を、私は見ることができませんでした。上村 朋です。(「わかたんかこれ 猿丸集・・・」は、お時間をください。)

 明日6月23日は、(沖縄)慰霊の日です。

 国籍を問わず沖縄戦で亡くなられた方々の御霊に、心から哀悼の意をささげます。

 世界どこでも不戦を続けたい、そうあってほしい、と思います。沖縄が、後顧の憂いなく人々が暮らせる地になるように、と思います。

 

 先の大戦で、空爆を受けた県は、多数ありますが、県単位で大規模な戦場になったのは、日本列島では沖縄県だけです(朝鮮半島ではソ連参戦後、ソ連国境の雄基(現在の北朝鮮羅先特別市の一部)をはじめとした東岸沿いがあります。)

 個人的には75年前、叔父が沖縄で戦死しました。出征まえのことは覚えていません。戦後、弟叔父が遺骨の箱らしきものを持って私鉄の駅頭に立ったのを、集落のみなさんと迎えました。戦死者を出した家がほとんどまわりになかったので、初めての光景として記憶しています。 

 別の集落のあるお寺で、「(檀家で)戦死者はいない。日清・日露はいる。もっといるのが西南戦争」と聞いたことがあるエリアの話です。

祖母は、「戦争はダメ、戦争はダメ」と言って亡くなりました。死ぬことを自覚した時、「やっと長男と会える。」と思ったのでしょう。

 

 沖縄で地上戦を、日本軍は徹底して戦う方針であり、現地の第32軍は、「米軍が沖縄に上陸して、約6か月間は何としてでも頑張る。そのうち米軍はへとへとになって引き揚げるだろう。その間の住民の食糧6か月分を、県において確保してほしい」と1945年2月県知事に言っているそうです(ウィキペディアより)。

 戦場にならないエリア(敵が、司令部壊滅を優先すれば、戦闘行為に及ばないであろうエリア)も沖縄県内に想定していた、ということです。

 沖縄県は、沖縄県民59万人のうち10万人の住民疎開を計画し、60歳以上と15歳未満等の住民8万人を1944年3月末までに県外へ疎開させました。沖縄本島北部への避難も計画し、85,000人を疎開させて(計画の1/3)います。連合国軍は、沖縄北部を制圧した5月上旬までに130,000人の住民を収容しています。

 

 連合国軍の当初の計画は1か月で沖縄攻略というものでしたが、莫大な物量を投入しながら実際にはその3倍の期間を要し予想外の大損害となりました。沖縄では、戦闘による戦死傷だけではなく、今までにない膨大な数の兵士に戦闘神経症心身症の一種)が生じています(5月末までに、アメリカ軍の戦闘によらない死傷者が、海兵隊で6,315名、陸軍で7,762名合計14,077名、それが沖縄戦終結時点では合計26,211名。この内の多くが戦闘神経症による傷病兵。沖縄で増加した最大要因は今まで経験したことのないものすごい集中砲撃、次いで狂信的で絶え間ない肉弾攻撃、とアメリカ軍は指摘しているそうです。)

 激しい戦場に居たことで住民にもストレスがかかりトラウマになった方もいます。

 日本兵の心が鬼の心になったことも起こりました。

 その後のフォローもアメリカ軍と違い行き届いていないでしょうから、県民の戦後の苦しみは大きかったでしょう。

 連合国軍側の死者・行方不明者は20,195人とされています。

 1976年の沖縄県の発表では沖縄戦による日本側の死者・行方不明者は、188,136人とされています。

 沖縄県外出身日本兵戦死者 65,908人

 沖縄県民         122,228人

                うち沖縄県出身軍人・軍属        28,228人

     うち住民での戦争参加者(援護法との関係で準軍属と認定した人数 55,246人

     うちその他の一般住民                38,754人(推定)

 このほか、地上戦域外での餓死者・病死者、疎開船の撃沈による被害なども含めれば県民の戦没者は約15万人という推定値もあります。

 

 日本が降伏文書に調印したのは、1945年9月2日です。昭和天皇は「降伏文書調印に関する詔書」を同日発しています。第32軍司令部消滅後の6月23日後も連合国は、日本兵の掃討作戦を続けていましたが、9月7日に南西諸島の軍を代表した日本軍将校3人が日本軍の沖縄戦降伏文書に調印しました。

 この日が、那覇市が制定する「沖縄市民平和の日」です。これにならえば、天皇が「降伏文書に調印する詔書」を発した9月2日を、「日本国民平和の日」と呼び、反省・あらたな出立の日と理解してよい、と思います。

 

 一般に、地上戦が想定されるエリア(武力衝突・頻発するテロ)では、住民はそこに居られなくなります。そこで生活するのは、援助なしではできない状態になります。

 世界どこでも不戦を続けたい、そうあってほしい、と思います。沖縄が、後顧の憂いなく人々が暮らせる地になるように、と思います。

 「わかたんかそれ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2020/6/22  上村 朋)