わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 筆頭歌と最後の歌 萬葉集巻三配列その21

 前回(2022/10/10)のブログに引き続き、萬葉集巻三の配列について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 筆頭歌と最後の歌 萬葉集巻三の配列その21」と題して、巻三の雑歌全体を検討します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~33.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係を判定して表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そのうち「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれ、それ以外の歌もその各グループに分けられることを確認できました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

34.巻三雑歌の筆頭歌と最後の歌を比較する

① 巻三の雑歌に配列されている各歌ごとの検討が終わりました。巻三の雑歌という部立てにおいて、『古今和歌集』の部立てに見られるような筆頭歌と最後の歌に特別な寓意があるかどうかを、確認します。歌は題詞のもとにあるので、巻三雑歌の「最初の題詞とそのもとにある歌」と、「最後の題詞とそのもとにある歌」が対になっているかを、確認することになります。

萬葉集』は、何回かの編纂時期があり、最終的に現在みる形になっています。この確認は、巻三の最後の編纂者の編纂意図に関する知見です。最後の編纂者は、巻三雑歌の筆頭歌も選び直しているかも知れませんし、同時に巻一の歌も再確認し編纂した後『萬葉集』を後世に託しているかも知れません。このため他の巻の検討の一資料となるかもしれませんが、基本的にほかの巻の編纂意図の確認は別途の課題です。

② 巻三雑歌において、最初と最後にある題詞と歌は、次のとおり。

 最初の題詞とそのもとにある歌

  2-1-235歌  天皇御遊雷岳之時柿本人麿作歌一首

   皇者 神二四座者 雷之上尓 廬為流鴨

   おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほらせるかも

  (参考) 2-1-236歌  右或本云、献忍壁皇子也。

   王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座

   おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます

 

 最後の題詞とそのもとにある歌

  2-1-391歌 羈旅歌一首 并短歌

   海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師

   わたつみは くすしきものか あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし ゐまちづき あかしのとゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ しほさゐの なみをかしこみ あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たきのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし

 

2-1-392歌

   嶋伝 敏馬乃埼乎 許芸廻者 日本恋久 鶴左波尓鳴

   しまづたひ みぬめのさきを こぎみれば やまとこほしく たづさはになく

   (左注あり) 右歌若宮年魚麿誦之。 但未審作者

 

③ これまでの検討(付記1.参照)では次のような歌でした。

 最初の題詞をみると、「天皇」とあり一人の特定の天皇ではありません。作者人麿が仕えた可能性のある天皇すべてが該当可能です。壬申の乱を経て誕生した天武系の初代である天武天皇のほかに持統天皇文武天皇までに可能性があります。この題詞のもとにある歌本文は、行幸の景を人麿が詠う歌と理解できます。この歌は題詠であり、公的な儀式やその後の宴席での披露を前提にした歌ということに題詞がしていると理解したところです。

 土屋文明氏は、「天皇を神と信じたのは当時の信仰」であり、初句~二句(皇者 神二四座者:現人神と捉える)は「人麿の創意とは考えられない」と指摘しています。また、神は全知全能の唯一神ではないことも指摘しています。なお、土屋氏は、最後の題詞・歌との対比を論じていません。伊藤博氏も同じです。

 聖武天皇の御代からみれば、初代の天武天皇に必ずしも拘らず、会ったことがない昔の天皇(複数)を讃えた歌ということに編纂者は仕立てています。

④ 最後の題詞をみると、作者名を省き「誰」の羈旅なのかを、あいまいにしています。最初の題詞と同じく対象人物が特定できない題詞です。

 歌本文は、長歌が大和からある人物を船で迎えにゆく際の歌であり、反歌はその人物による乗船後の大和への思いを詠う歌です。この2首(の歌群)に込められた暗喩は、律令体制の再出発、新たな皇統の出現を祝うこととみることができます。

 土屋氏は、歌本文を、「純粋の詩とみればむしろ雑駁に近いもの」であり「常識的には航海者が口ずさむに適する」と評しています。

 それが元資料の歌の意でしょうが、巻三雑歌にある歌としてみると、無名の人は有名な人の仮の姿という捉え方が可能でもあるので、最初と最後にある題詞とそのもとにある歌とは、共に、直接天皇を詠っている、という共通点があることになります。

⑤ 巻三雑歌にある歌として、検討してきた天皇の代(4つのグループ)ごとの対比が当然ありますが、最初の題詞とそのもとにある歌を、最後の題詞とそのもとにある歌は、天武系の天皇の草創期の歌と天智系の天皇の草創期の歌という捉え方ができます。

 既に神とみなされる業績のある天皇と単に期待されているあるいは事を成そうと意気込む天皇を対比しており、ともにある時代の初めを詠っています。

 そして、後者も、次には国見をするであろうから最初の題詞に戻ることになります。天皇の統治が永遠であることを象徴しているかのようです。

 このような理解が可能な対になっている、と思います。

 そうすると、最後の題詞に登場する人物の時代の隆盛を予祝している、という理解が、「純粋の詩とみればむしろ雑駁に近い」歌に可能になっています。

 そして、最後の題詞にある歌として、伝承歌から、長歌反歌に仕立てられる二首を選んで、官人の期待を担っている天皇というイメージも盛り込んでいるかに見えます。

35.巻三雑歌の4グループの比較する

① 巻三雑歌の検討で用いた天皇の統治と歌との関係分類は、収載されている歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理した(ブログ2021/10/4付け「4.②」参照)のものが基礎となっています。巻一と巻二にも適用して検討したところです。

 巻一はすべて雑歌の部立ての歌ですが、標目をたててグループ化して歌を配列していました。天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻と言えます(ブログ2021/10/4付け「4.③」参照)。

 巻三の雑歌の部立ての歌も4つのグループに別けて配列されていることが分かりました。

② 関係分類「A1~B」の歌による4つの歌群(グループ)の各筆頭歌は何を詠っているか、を改めて確認すると、

 第一グループ:(2-1-235歌) 今上天皇の国見 (明日香浄御原宮を想定できる位置での国見)

 第二グループ:(2-1-290歌) 今上天皇の次の天皇と目される人物の行幸期待 (宮は不明)

 第三グループ:(2-1-315歌) (第二グループで次の天皇と目された)今上天皇の造都 (難波宮

 第四グループ:(2-1-378歌) (寧楽宮で統治されるはずの未来の天皇の即位に伴う)吉野への行幸準備 

となります。

 作者は、順に 人麿、石上卿、赤人、湯原王です。最後の湯原王は、就かれた官職が『続日本紀』に記載のない伝未詳の方ですが、志貴皇子の孫にあたる人物だそうです。

③ 第一グループに属する天武天皇は、日本列島各地の政治勢力の中央集権的統一をして強固なものとした方で、明日香浄御原宮を造営し、次いで中国に倣った藤原京を造らせています。(天武天皇5年(676)是歳条に「将都新城」、同11年3月甲午朔に「少紫三野王及宮内官大夫等遣于新城。令見其地形。仍将都矣。」)

 第二グループに属する元明天皇は(唐の長安に倣う天子南面思想に改めた初めての都として)平城京を造都しています(和銅元年2月15日条の詔)。

 第三グループに属する聖武天皇は、副都として難波京を造営しました。その後天平16年(744 即位後22年目)2月26日遷都の詔が『続日本紀』にあります(さらに翌天平17年1月1日年、難波京から紫香楽宮へ遷都し、その後平城京に遷都しています)。

 そうすると、第四グループに属する天皇は、将来の天皇であり「寧楽宮」に居られる天皇という位置付けになることになります。

④ 「寧楽」とは、漢文(中国文)の文脈では、「安んじ楽しむ」意です(『角川大字源』)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂惑在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています。(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。(ブログ2021/10/18付け「6.③」参照)

 ちなみに、「平城」とは、中国の漢代の県名にあります。今の山西省大同市の東にあたり、漢の高祖が匈奴を討とうとしたとき、平城近くの白登山に七日間包囲されましたが、その危機を陳平の策によりなんとか脱出しました(紀元前200年)。中国の帝国(漢)に対して、周囲の国の一つ匈奴が勝利したところがある県の名です(そして前198年の和約により、実質匈奴は以後漢を属国扱いにできました)。

⑤ 4つの歌群(グループ)の各筆頭歌を、都城との関係で確認すると、次のとおり。

 第一グループの筆頭歌は、中国の唐の長安と発想の異なる都を描こうとせず、大和における国見の歌となっています。天皇の統治のよろしき状況の歌です。

 第二グループの筆頭歌は、唐にならった都を造り、安定した国の統治における行幸に関する歌です。

 第三グループの筆頭歌は、副都の造営を詠っています。副都をつくる統治の充実を示唆しているのでしょうか。天皇の統治の更なる充実を象徴させています。

 第四グループの筆頭歌は、将来のことなので、大和へ向かう歌として、大和に都があることを示唆しています。その都にある宮の名が「寧楽宮」なのでしょう。

 最初の2グループが統治のよろしき状況と行幸(準備)を示し、次の2グループも統治のよろしき状況と行幸(予定)とみなせます。

⑥ では、各グループの最後の歌はどのようになっているか。

 第一グループの最後の歌は、2-1-289歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。前歌に和する歌です。

 第二グループの最後の歌は、2-1-314歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。上京の際の歌です。

 第三グループの最後の歌は、2-1-377歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。直前の題詞のもとの長歌反歌に和した歌です。

 第四グループの最後の歌は、2-1-391歌と2-1-392歌でその題詞のもとにある長歌反歌です。上京の際の歌で終わっています。

 最初の2グループに対し、次の2グループも同じようなパターンとなっています。

⑦ このように、各グループの最初の歌と最後の歌のパターンは規則的であり、それは意図したものではないか、と思えます。

 さらに、各グループの最初にある関係分類「A1~B」の歌の題詞には、次の特徴を指摘できます。

 第一 「天皇」という表記が少ない。「天皇」という表記があるのは筆頭歌と三番目の歌だけであり、それも特定の天皇の名は表記されていない。このような表記法は巻と同じだが、巻一は標目において対象の天皇を明記している。

 例えば、筆頭歌の作者は持統天皇に重用された柿本人麿と題詞に明記してあるものの、『続日本紀』を見ると、男性の天皇である文武天皇聖武天皇は即位すると吉野宮に行幸しているので、編纂者は天武天皇を念頭に筆頭歌として配列している可能性がある。歌本文は、左注にいう「或本」の歌の推敲歌にみえるものの、天武天皇の存命時に披露された歌であると実証するのは困難な歌である。

 第二 そのなかで、天皇の御製であると題詞に明記しているのが1首ある。それは2-1-237歌であり、天皇の名は明記していないが、諸氏が持統天皇と指摘している。その前にある2-1-235歌の天皇持統天皇以前の天皇であることをこの歌が示唆している。

 そうすると、聖武天皇からみれば、曾祖父である天武天皇のエピソードが、巻三雑歌の最初の歌ということになる。

 第三 題詞に年月日の記述がすくない。これは、ほかの関係分類の歌でも同じである。

 第四 天皇として造都は重要な施策であることを強調しているか。

 第五 聖武天皇崩御後の代である4つ目のグループの題詞には天皇の名を明示していない。これは、編纂者は知る由もないという立場にたっていることを明示している、ともみなせる。

 これは、巻三の編纂時点を元資料が作詠(披露)された時点の最後、即ち聖武天皇の御代と固定していることになる。

 巻三雑歌の最後の編纂者の時点(光仁天皇桓武天皇の御代と想定できる)に作詠(披露)された歌と明記して四つ目のグループにある関係分類「A1~B」の歌に配列していない(工夫をしている)。その元資料は、聖武天皇の御代に作詠(披露)された吉野行幸と次期天皇を讃える歌である。

 『萬葉集』の編纂の最初期かそのほか重要な時期での編纂方針のいくつかは踏襲しようと最後の編纂者はしているのではないか。

 第六 4つのグループに整理することにより、雑歌を、祖先の時代、今上天皇の直前の時代、今上天皇の時代、そして未来の天皇の時代という時系列を明確にしている。

⑧ 以上のことから、巻三雑歌においては、関係分類「A1~B」による天皇の代を4区分に整理した配列をしているのは編纂者の意図である、といえます。

 それにより、天皇家による統治は、二つに区分して示した前代や今上天皇の時代と同じように、四つ目の時代(これから即位する天皇の時代)も行われると予祝しているかにみえます。官人である巻三雑歌編纂者はそれを慶賀する方針であったかのように見えます。

 ただ、三つのグループで巻三雑歌を終わりにしても、その方針の編纂であると言えるのに、四つ目を、それも未来のこととして設けたのには、何か事情があったのか、と推測できます。

 その事情とは、天皇家からみれば、皇位継承における天皇家の男系の血統の変化を正当化する、ということではないか。官人からみれば、律令体制堅持(天皇と官人による支配)の継続を主張することではないか。つまり官人側の有力な派閥の主張に賛意を編纂者は示したかったのではないか。

 だから、まとまりのある巻一から巻四については、最後の編纂段階において性格を改変した、少なくとも巻三雑歌の収載歌の加除を行い性格の改変をした可能性があります。

⑨ ここまで、『猿丸集』の第24歌の類似歌である2-1-439歌の理解のため、『萬葉集』巻三雑歌の検討をしてきました。

 そのための作業仮説をブログ2021/10/4付け「3.②」に示しました。次の五つです。

 「第一 『萬葉集』の歌は、題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当である(仮説A)。

第二 ほぼ同じ題詞の巻二と巻三の歌群(2-1-228歌~2-1-229歌と2-1-437歌~2-1-440歌)は、同一人物への挽歌を詠っているのではないか(仮説B)。

第三 その人物は、誰かを暗喩している、と考えられる(仮説C)。

第四 巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)。

第五 天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)。

 これは、『萬葉集』巻一~巻三の編纂方針を確認することにほかなりません。しばらく、それを検討することとなります。」

 そのうちの第四と第五を検討してきました。

⑩ 巻三の雑歌の部において、仮説Eと仮説Fは、妥当なものでした。仮説Cと仮説Bは検討がまだ不十分です。仮説Aは、編纂者が記した題詞とともに巻三の歌は理解でき、妥当なものでした。つまり、巻三雑歌に配列されている各歌は元資料(の歌)の詠まれた(披露された)時の趣旨と必ずしも一致していないことが明らかになりました。

 また、巻三の雑歌にある左注を、編纂者が記していないことも分りました。

 尚、巻一と巻二の歌についても仮説Dと仮説Eは、やはり妥当な仮説でした(ブログ2022/10/4付け参照)。

 巻一の雑歌と巻三の雑歌が、歌と天皇の各種統治行為との関係を整理することでこのように理解ができました。

⑪ 最後に、部立ての「雑歌」について付言したい、と思います。

 『萬葉集』の部立ては、「雑歌、相聞、挽歌」が三代部立てです。

 神野志隆光氏執筆の『日本大百科全書』では、「(『萬葉集』においては)三代部立てのひとつで、相聞と挽歌に含まれない内容の歌を総括する部立ての名称。巻の編纂にあたっては、ほかの部立てに優先する」と説明しています。巻単位では必ず最初の部立てとなっている、ということです。

 その部立の名称については、「『文選(もんぜん)』に典拠を求めたと認められ、歌の内容からする「相聞」「挽歌」に対して、主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立だといえる。宮廷生活の晴の歌の集合として、表だった本格的な歌という意識があったものとみられる。」と説明しています。

 伊藤博氏は、「巻一と巻三の雑歌」に対して、「公の場におけるくさぐさの歌」と脚注していますが、例えば、麻続王が配流になったのを哀傷した歌と題詞にある2-1-23歌が「公の場」に披露された歌とすると、「公の場」とはどのような場なのでしょうか。律令体制で官人の行動はすべて公の行動と定義したとしても、です。

 2-1-43歌の作者は「官人の妻」とあり、官位の記載がなく「公の場」で披露された歌とは思えません。宮廷行事で「官人の妻」の資格で歌を披露できたのでしょうか。

 2-1-320歌の作者は法師である通観が「或娘子」に返事をしたと詞書のある歌は、宮廷行事に関する歌でしょうか。

 2-1-382歌は、遣唐使に関する歌ですが、神を祭ることが許可制であったから「公の場」とか宮廷儀礼の歌、と整理できるでしょうか。臨時異例のことに関しても事前に許可を要すると思いますが、左注を作文した人物は官人であると思われるのに、それは不問にしています。

 これらは、神野志氏のいう、「主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立」という範疇の歌ではある、と思えます。それでも氏は「主として」と例外のあることを認めています。「歌の場」の意を、歌を披露するのが効果を発揮する場面と理解すると、相聞も挽歌も雑歌の一種であることになってしまいます。

⑫ 一つの歌は、ある分類法では相聞の歌であり、別の分類法では雑歌であり、「やまとうた」に対しては色んな分類法がある、という立場に『萬葉集』の編纂者たちはいるのでしょうか。

 それは、『萬葉集』が、巻ごとに、あるいは部立てに応じて、あるいはある編纂目的に従って歌群を編纂している、ということであり、主として歌の場に基づき取捨選択され編纂されている部立てが「雑歌」であるならば、その取捨選択基準が、巻ごとに異なってよい、つまり雑歌を巻の最初に置いている理由は各巻ごとに異なっている可能性を認めてよい、と思います。

 巻一と巻三の雑歌について言うと、歌と天皇の各種統治行為との関係から理解が共にできましたので、共通の編纂目的があった、と言えます。巻三の雑歌も天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻三の雑歌と言えます。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、巻三雑歌の検討結果のまとめを記します。

(2022/10/31   上村 朋)

付記1.ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」での検討は次のとおり。

① 2-1-235歌:ブログ2022/3/21付け「3.② 第一」及び同ブログ「付記1.表Eの注4

② 2-1-391歌と2-1-392歌:ブログ2022/10/10付け「32.」

(付記終わり 2022/10/31    上村 朋)