わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌巻四のたまたすき

 前回(2020/10/26)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌巻三のたまたすき」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌巻四のたまたすき」と題して、記します。(上村 朋)

1.~11.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」に関連して『萬葉集』巻二までにある用例を検討した。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

12.萬葉集巻四にある「たまたすき」

① 初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定し、引き続き、『萬葉集』巻四以下の用例を検討します。

 『萬葉集』には、句頭に「たまたすき」と訓む歌が15首あり、巻四には長歌1首があります。

 『新編国歌大観』より引用します。反歌と題した2首の短歌と一連の歌です。

2-1-546歌 神亀元年甲子冬十月幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首 并短歌

天皇行幸乃随意 物部乃 八十伴雄与 出去之 愛夫者 天翔哉 軽路従 玉田次 畝火乎見管 麻裳吉 木道尓入立 真土山 越良武公者 黄葉乃 散飛見乍  親吾者不念 草枕 客乎便宜常 思乍 公将有跡 (安蘇々二破 且者雖知 之加須我仁 黙然得不在者 吾背子之 徃乃萬々 将追跡者 ・・・)」

新訓(抄):「おほきみの  みゆきのまにま もののふの やそとものをと いでゆきし うるはしづまは あまとぶや かるのみちより たまたすき うねびをみつつ あさもよし きぢにいりたち まつちやま こゆらむきみは もみちばの ちりとぶみつつ にきびにし われはおもはず くさまくら たびをよろしと おもひつつ きみはあるらむと ・・・」 

② 阿蘇氏は、題詞をつぎのように現代語訳しています。(氏の用いている原本の表記と『新編国歌大観』の表記に差異が少しあります。)

 「神亀元年十月、(聖武天皇が)紀伊国行幸された時、お供の人に贈るためにと、娘子に頼まれて作った歌一首 短歌を含む」

 諸氏は、題詞にいう作詠事情は虚構である、と指摘しています。阿蘇氏は、(一連の長歌と短歌は、従駕の人々の笑いと満足感を誘い)都へ残してきた女たちへの愛情をかきたてることにもなったろう、と評し、この長歌は演劇を見るような面白さがある、とも指摘しています。

 「玉田次」を、氏は、この歌だけ「たまたすき」と訓み、「だ」と濁らない理由を記していません。それはともかく、氏の現代語訳(抄)は、つぎのとおり。

 「大君の行幸に従って大勢のお役人の方々と出かけていったいとしい私の夫は、空を飛ぶ雁ではないが、軽の道から畝傍山を眺めつつ、紀伊路に入り、真土山を今ごろ超えているでしょうあなたは、もみち葉の散り飛ぶさまをみながら、慣れ親しんだ私のことは思わず、旅はよいものよと思っているでしょうとは、うすうすわかっているのだけど ・・・」

 また、氏は、語句について次のように説明しています。

・天翔哉(あまとぶや):地名「軽」にかかる枕詞。雁との類音でかけている。「軽」は現在の奈良県橿原市大軽・見瀬・石川・五条野一帯の地。

・玉田次(たまたすき):畝傍(山)にかかる枕詞。類音で「う」にかかる。

・麻裳吉(あさもよし):「紀伊」(き)・「木上」(きのへ)にかかる枕詞。紀の国からよい麻裳が産出されたことからという。延喜式に、紀の国の特産として麻や紙があげられている。

・真土山(まつちやま):奈良県五條市から和歌山県橋本市隅田町真土にかけての待乳峠(標高121m)。

 土屋氏は、(都を離れる官人に対し)「娘子から歌を贈るというのは相当広く行われた習慣かもしれない」が、作者金村の代作(したこの歌)は形の整然たる割には実感が伴はない」と指摘しています。

③ 題詞にあるように短歌が2首あり「反歌」と題されています。

2-1-547歌 反歌

 後居而 恋乍不有者 木国乃 妹背乃山尓 有益物乎

  「おくれゐて こひつつあらずは きのくにの いもせのやまに あらましものを」

2-1-548歌 反歌

 吾背子之 跡履求 追去者 木乃関守 伊将留鴨

  「わがせこが あとふみもとめ おひゆかば きのせきもりい とどめてむかも」

 反歌の二首でもって、作中人物は、「一緒に紀伊国に行きたいが、無理ですね」、と都に居ることを選んだ、と詠っています。

④ これらの反歌とこの歌については、2020/10/19付けブログの「10.萬葉集巻二の「たまたすき」その3」の⑫で、一度触れました。引用すると、

「19日間の紀伊行幸奈良盆地を離れ紀伊国に入る景を叙するのに地名(軽)・山名(畝傍山)・国名(紀伊)の順に並べいわゆる枕詞をすべてに冠して真土山の峠を詠っています。作者は畝傍山神武天皇との関係は意識していません。」

「この歌を、諸氏は、「行幸途中でのくつろいだ場での誦詠が目的の創作」と指摘しています。都で留守をしている女性の心情を、後を追ってゆこうと幾度も思うが関守に問われたらと足が止まってしまう、と詠います。夫の無事や強い思いを詠っていません。神に祈る姿勢が歌にはありません。類音の枕詞と思われます。」

 これを検証・検討したところ、「たまたすき」は類音による枕詞ではありませんでした。

⑤ 最初に、この歌の前後の配列を確認します。

 『萬葉集』巻四におけるこの歌とその前後の各2組の題詞は、つぎのとおり。()内は私の理解です。

2-1-539歌 門部王恋歌一首

  (島根県の中海の干潮時の潟を例にして、片思いが続くのかと詠う歌の題詞)

2-1-540歌 高田女王贈今城王歌六

  (相聞の歌 逢えない時の歌5首の中間に後朝の歌が1首ある一連の歌の題詞) 

 2-1-546歌 神龜元年甲子冬十月幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子笠朝臣金村作歌一首 并短歌

        (従駕の人へおくられた歌の題詞。今検討している長歌がある)

2-1-549歌 二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子笠朝臣金村作歌一首 幷短歌 

  (従駕の人が「得娘子」のときの歌の題詞  具体に検討し、付記1.に記す)

2-1-552歌 五年戊辰大宰少弐石川足人朝臣遷任餞于筑前国蘆城駅家歌三首

  (石川足人転任にあたり、送る側の官人が駅家で詠う歌の題詞)

 これらの題詞をみても、「某・・・歌〇首」とあるのは、某が披露した(あるいは用いた)歌(伝承歌を含む)、題詞が「某・・・作歌〇首」タイプは、作者が明記されている歌、と思えます。

⑥ 題詞を順に検討します。

 2-1-539歌を披露した門部王は、「片思い」をおこす序である初句~二句にある「意宇の海」がある出雲国の国守の経験があるそうです。

 また、2-1-540歌の題詞にある高田女王と今城王は異母兄弟であり、当時の法令では結婚が出来る間柄ですが、どのような関係であったかどうかに関する材料は、この題詞だけです。

 そして、この題詞のもとにある6首の歌本文に、作者を限定できる語句はありません。

⑦ 2-1-546歌の題詞と2-1-549歌の題詞にある「娘子」を、諸氏も『新編国歌大観』も「をとめ」と訓んでいます。ともに笠金村の作った歌の題詞です。

 古語辞典には「をとめ」の項に「乙女・少女・処女」と漢字表記が示されていますが、「娘子」はありません。「をとめ」とは、成年に達したころの未婚の女性を指す言葉としています。

 漢文での熟語「娘子」の意を、『大漢和辞典』では、「をんなのこ・むすめ」の意を最初にして、「妻、又、大官の夫人」、「母」、「宮妃」、「〇(人偏に昌)妓・妓女」、「一般の女子の通称」、「関の名」などと示しています。

 2-1-546歌の歌本文では、この歌が贈られる「従駕」する特定の人を「愛夫」と作中人物はいっていますので、熟語「娘子」の意なかでは、「妻、又、大官の夫人」が最初に候補になります。しかし、諸氏の「創作」であるという指摘からは、ほかに「一般の女子の通称」、「母」、「〇(人偏に昌)妓・妓女」の可能性も確認する必要があります。

⑧ 『萬葉集』での「娘子」の例を、巻一から四までみると、付記2.④に記すとおりであり、妻の例が1例(2-1-140歌)であり、女官や遊行女婦の例が多い。

阿蘇氏は、「をとめ」の原義は成人した若い女性の意であり、「をとこ」に対する語であり、未婚・既婚の区別はなかったと思われるが、刀自・媼・祖母の呼び名があるから年齢は無関係ではあるまい、と説明しています。そして上流貴族の女が郎女(いらつめ)・女郎(いらつめ)と表現されるのに対して、

 氏名+娘子(をとめ)は、中小氏族の娘(例えば,県犬養娘子、依羅娘子)

 地名+娘子(をとめ)は、遊行女婦や位の低い女官(土形娘子など)や地方在住の女性(真間娘子など)

と説明しています。

 『萬葉集』では、熟語「娘子」の色々な意を念頭に「をとめ」のいう発音を記す文字として用いていることが、よくわかります。

⑨ 次の2-1-549歌は、作者も笠金村と同一で行幸時のことと題詞に記しています(付記1.参照)。

 2-1-549歌の作中人物が思いを遂げた相手も、題詞では「娘子」と記しています。作中人物が既に好意を持っていた女官が行幸に従駕していたとしたら(あるいは従駕する多くの官人の注目していた女官が従駕していたら)、普段と違って近づきやすいと夢想し、その女性を熟語「娘子」で意味することができます。

 2-1-549歌の歌本文で「天雲之 外耳見管」(あまくもの よそのみみつつ)と形容し、反歌である2-1-550歌本文で「天雲之 外従見」(あまくもの よそにみしより)と形容する女性は、その従駕で初めて知った女性ではない、と思います。

 ついでにいえば、行幸時に下命による歌とは思えない歌であり、笠金村が活躍する時代は、2-1-549歌からも(阿蘇氏の指摘するように)人麻呂のような役割の人が従駕していない(必要が無くなった)、と見えます。

⑩ その次の題詞(2-1-552歌の題詞)は、最後の見送りとなる駅家における送別の宴での歌と理解できます。歌本文には引き留める語句がなく平板であっても、披露した人物は好人物に思えます。あるいは、送別される「石川足人」の具体的な業績を彷彿する語句もなく、使い慣れた歌に見え、儀礼的に披露した、通り一遍の送別の歌ともいえる歌です。

 この題詞は、2-1-549歌までの題詞と違い、相聞の部にあるものの男女の相聞ではなくなっています。

⑪ このように、相聞の部の巻である巻四の歌のなかで、この五つの題詞は各自独立している、と言えます。このため、2-1-546歌は、その題詞のもとで歌すべてと整合がとれておればよい、と思います。但し、行幸時の題詞が続いているので、共通する語句(例えば「娘子」)の理解に配慮が必要です。

⑫ 次に、2-1-549歌の歌本文に関して検討します。

 「天翔哉(あまとぶや)」の語句は、「愛夫者 天翔哉」と「天翔哉 軽路従」との両方にかかっている、と思います。

 前者は、この歌の最初にありますので、「いとしい夫は、遠くへと出立した」と理解して詠み進むと、実は「いとしい夫は、いそいそと心では私のもとをはなれるのを喜んで出かけたのか」、という疑いを掛けている語句であることが判ります。

 後者(天翔哉 軽路従)の「天翔哉」は、「軽」にかかる枕詞と言われていますが、「軽を通る道を(雁のように)飛ぶように急ぎ」と理解できます。行幸ですので、粛々と歩んでゆくのであり、実際とかけ離れた大袈裟な「愛夫」の行動描写です。

 歌本文で、紀伊国への経過地に大和国内の「軽」の地のみを挙げています。市も立つので遊行女婦の存在が確実視される地です。また「軽」は都に近く、人麿の妻は2-1-207歌によれば「軽」に居ました。

 反歌にある行動をも詠うならば、この歌を笠金村に依頼するのは、(「従駕の官人の特に名を秘す人」の)よく知る遊行女婦を想定するのが妥当である、と思います。そうであれば、笠金村は、女の嫉妬も含めてあけすけに作詠することができます。

 従駕の途次この歌を披露する場は、公宴を想定しにくいので、この行幸も仮想の可能性があります。披露の場の推測からも、「従駕の官人の特に名を秘す人」の妻よりも、遊行女婦の依頼、という可能性が強いところです。

⑬ 「軽路従」とは、「軽という集落の十字路で左折して(紀州へ続く道に入り)」という意です。左折して畝傍山は間もなく見えなくなりますが、それでも「振り返ってみてくれた貴方」と笠金村は詠いすすめています。畝傍山は、見送っている作中人物(「娘子」)を象徴し、神武天皇とは関係なさそうです。作詠を依頼した「娘子」を遊行女婦とみればますます神武天皇とは関係ありません。

 しかしながら、行幸に従駕のため家を出るときは、どの官人の家でも無事を祈っていると想定できます。

 その行為を、潔斎して神に祈願する行為を指す「たまたすき」という語に託すことが可能です。(2020/9/28付けのブログの「7.萬葉集巻一におけるたまたすきの用例」の⑫で指摘したように、)「たま」と形容した「たすき」を「掛ける(懸ける)」という表現は、「祭主として祈願する」姿を指し示しています。そして、「みそぎ」と同様に、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞の意の可能性が「たまたすき」に生じています。

 この歌でも、単に畝傍の山に類音で冠するという言葉でなく、その意で用いることができます。

 そのようにしておくりだした「娘子」を、見返りつつ従駕した「愛夫」は紀伊国にむかう、と作者笠金村は詠いついでいる、と理解ができます。

⑭ 検討対象の「たまたすき」表記については、「玉田次」と表記し、「玉手次」と表記していません。「玉田次」と表記する歌は、巻十三にある2-1-3331歌とこの歌だけです。巻十三には、「玉手次」と表記する2-1-3005歌と2-1-3300歌や「珠手次」と表記する2-1-3338歌もあり、その検討時まで宿題とします。

⑮ これらの検討から、「たまたすき」を作中人物({娘子」)の行為とみ、そのようなことをした作中人物を、畝傍山に例えている、と理解できるので、2-1-546歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「・・・いとしい夫は、遠くへと出立し(いや、いそいそと心では私のもとをはなれるのを喜んで出かけるのだしょうが」)、何事もなくお帰りになることを祈った私をみるように、畝傍山を振り返り見つつ、よい麻裳を作る紀州路に入り、・・・・」

 笠金村が「たまたすき」という語句の謂れを承知していたら、このような意で作ったと思います。

「たまたすき」という行為をした人物を畝傍山に見立てるのは、この二つの語句の結びつきとして新たな使い方です。それを巻四の編纂者は取り上げたのではないか、と想像します。

 語句の謂れがもうわからなくなっていたならば、単に類音で畝傍山に冠しただけの歌の平凡な詠いぶり、となります。

 周囲の官人も「たまたすき」の語句の謂れを承知していている時代であったと思いますが、検討材料がもっとほしい、と思うところです。

⑯ 反歌の2-1-547歌と2-1-548歌は、笠金村に依頼した「娘子」が、官人の妻でも遊行女婦でも、歌本文の趣旨は変わらない、と思います。

 そして、2020/10/19付ブログで、この歌は「行幸途中でのくつろいだ場での誦詠が目的の創作」という諸氏の指摘を紹介しましたが、歌の内容が行幸先の離宮での披露にふさわしいかと考える(付記2.①~④参照)と、行幸も仮定した物語(文学作品)とみてよく、披露は都におけるまったくの私宴(例えば、2-1-546歌を贈られておかしくない官人の地方赴任の送別会・はげます会)ではないか、と思います。

⑰ 「たまたすき」の意は、人麻呂歌同様の理解をしている歌、となり、巻四のこの歌にある「玉手次」には、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っていました。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、巻五以降の「たまたすき」の用例を検討します。

(2020/11/2     上村 朋)

 

付記1.笠金村作とある、行幸時に材をとった2-1-549歌などについて

① 2-1-546歌と同じく行幸時の歌がもう一組巻四に並んで配列されている。

② 2-1-549歌 二年乙丑春三月幸三香原離宮之時得娘子笠朝臣金村作歌一首 幷短歌

  三香之原 客之屋取尓 珠桙乃 道能去相尓 天雲之 外耳見管 言将問 縁乃無者 情耳 咽乍有尓 天地 神祇辞因而 敷細乃 衣手易而 自妻跡 憑有今夜 秋夜之 百夜乃長 有与宿鴨
 「みかのはら たびのやどりに たまほこの みちのゆきあひに あまくもの よそのみみつつ こととはむ よしのなければ こころのみ むせつつあるに あめつちの かみことよせて しきたへの ころもでかへて おのづまと たのめるこよひ あきのよの ももよのながさ ありこせぬかも」

 2-1-550歌   反歌

天雲之 外従見 吾妹児尓 心毛身副 縁西鬼尾
「あまくもの よそにみしより わぎもこに こころもみさへ よりにしものを」

 2-1-551歌    反歌

 今夜之 早開者 為便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨
「こよひの はやくあけなば すべをなみ あきのももよを ねがひつるかも」

③ 題詞について、阿蘇氏は次のように現代語訳している。

  「神亀二年三月、(聖武天皇が)三香原の離宮行幸された時に、娘子を得て作った歌一首 短歌を含む 笠朝臣金村」

  「・・・得娘子作歌」の漢字「得」とは、ここでは「える」意であり、「手に入れる・とらえる・むさぼる・満足する・かなう・気が合う・親しむ」というような意があります(『角川新字源』)。

  「得娘子作歌」とは、歌本文からみると、「娘子を手にいれて、作る歌」というよりも、(熟語「得心」・「得民」を参考にすると)「娘子の心をつかみ、作る歌」・「娘をむさぼり作る歌」の意であろう。

  この歌は、思いを遂げたと詠う歌ですが、「逢うことができた」という意が「得娘子(作歌)」に薄く、相手への思いやりのない表現である。

 三香原離宮は、京都府相楽郡加茂町法花寺野にあった。木津川南岸にあたる。後にこの付近に久迩の宮が置かれた。聖武天皇は何度か行幸しているが、題詞にある神亀二年三月行幸の記録は、続日本紀に記事なし。

④ 歌本文について、阿蘇氏の現代語訳は、次のとおり。

「三香の原の旅寝の折に 道中行きずりに出逢って、大空の雲のように遠く離れてみるばかりで、言葉をかけるきっかけもないので、胸もつまる思いでいたところ、天地の神々のお計らいで衣の袖をうち交わし、わが妻と頼りにした今夜は、 長い秋の一夜の百倍もの長さであってほしいものだよ。」

⑤ そしてつぎのように指摘している。

 「行幸先で行きずりに出逢った女性と思いがけず一夜を共にすることのできた喜びを詠む。行幸従駕たちの願望を代弁するような歌。行幸従駕の場の雰囲気が人麻呂の時代と大きく変質してきていることを示す(歌)。従駕の場で人々は新しい文学を求め、金村のこれら新傾向の歌は官人たちに喜んで迎えられたに相違ない。」

⑥ しかしながら、この歌は、「娘子」が、女官であれば、行幸先の離宮で私的にでも従駕の官人が披露できる歌ではない。

 「娘子」が、行幸の途中で見染めた娘であったとしても、行幸先の離宮で題詞にある「得娘子」として人に語る(上司の知るところとなる)のは、作者が望んでいることであろうか。この題詞のもとにある3首を披露する場所・時点は、別にあったのではないか。

 また、「娘子」が遊行女婦であってもあっても同じである。

⑦ 反歌である2-1-550歌は次の歌である。

天雲之 外従見 吾妹児尓 心毛身副 縁西鬼尾

「あまくもの よそにみしより わぎもこに こころもみさへ よりにしものを」

阿蘇氏は、つぎのような現代語訳を示している。

「大空の雲のように遠くよそながら見たその時から、いとしいあなたに心はもとより、この身体さえ引き寄せられてしまったことよ。」

 「こころもみさへ」と詠う万葉歌はほかに知らない。一夜共にして後「心が寄る」だけでは足りず「体もあなたによる」と詠むのは露骨な表現である。「得娘子」の「娘子」はどのような身分の人なのであろうか。

⑧ もう一首の反歌、2-1-551歌は次の歌である。

今夜之 早開者 為便乎無三 秋百夜乎 願鶴鴨

「こよひの はやくあけなば すべをなみ あきのももよを ねがひつるかも」

阿蘇氏は、「今夜が早く明けてしまったらどうしようもなく辛いと思い、秋の百夜の長さを願ったことですよ。」と現代語訳を示している。

2-1-550歌の次に配列されているので、心の喜びなど作者は全然詠う気がない、と見え、余韻のない、恋の歌としては変な歌である。

付記2. 『萬葉集』巻一~巻四の詞書にある「娘子」について

① 「娘子」の意味を『萬葉集』巻一~巻四の詞書において確認した。約29の題詞に用いられており、すべて「をとめ」と『新編国歌大観』などでは、訓んでいる。

② 「をとめ」の原義は、「をとこ」に対応する表現で、男に対応する女の意であり、「小之女」の転訛。『新編大言海』では「若き女の未だ人の妻とならぬもの・若く盛んなる女・むすめ」の意としている。そして、その漢字表現に、「娘子」を挙げていない。

② 巻四までの用例からみると、笠金村が作った物語である2-1-546歌と2-1-549歌の題詞にある「娘子」の意は、前後の配列から浮き上がらない意が条件となるので、

2-1-546歌の題詞では、都あるいはその近くで市も立つという軽の地の遊行女婦

2-1-549歌の題詞では、行幸に従駕している女官(のひとり)

と理解するのが素直である。

③ その理由は、次のとおり。

第一 行幸の際のこととして詠われている歌の内容は、その行幸時に知られるのはこの歌に登場する官人からは避けるべきことであること。

第二 行幸時に下命された歌とは思えない内容の歌であること。

第三 官人の妻であれば、従駕の人々に披露されることを前提に詠う歌ではなく、また、女官との不祥事であることを自ら従駕の人々に披露することはあり得ないこと。

第四 「娘子」の意に「遊行女婦」である例が巻一~四で多数例があること。

第五 金村はもう一つ行幸の従駕に材をとっている歌でも、従駕時に披露しがたい歌となっている。それを巻三の編纂者は続けて配列していること。 並んで配列されている題詞を信用すれば、行幸の従駕に材をとった笠金村が作った物語(文学作品)がこの歌となる。

④ 巻一~巻四の詞書で「娘子」と言う表記をみると、つぎのようになった。(上記の2題を除く)

「娘子」の意は、人妻を始め既婚者、女官、遊行女婦人、家柄の低い娘、若い女、土地の娘・処女、仮想の未婚者と、7パターンあった。

2-1-118歌 舎人娘子奉和歌一首

 (「娘子」は女官。家柄の低い娘である。この歌は2-1-117歌の返歌)

2-1-140歌 柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子与人麻呂相別歌一首 

(「娘子」は人麻呂の妻。名が依羅。)

2-1-330歌 或娘子等贈乾鰒戯請通觀僧之咒願時通觀作歌一首

 (「娘子」は乾鰒を手に入れることが出来る立場の女官か。上流貴族の妻たちではない)

2-1-384歌 筑紫娘子贈行旅歌一首 娘子字曰兒嶋   (「娘子」は遊行女婦)

2-1-407歌 娘子復報歌一首 (「娘子」は遊行女婦。相手の佐伯宿祢赤麻呂は2-1-630歌などで白髪交じりの年配者と描写されている。)

2-1-409歌 娘子復報歌一首 (「娘子」は遊行女婦。同上。)

2-1-431歌 土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麻呂作歌一首 (「娘子」は若い女官)

2-1-432歌 溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麻呂作歌二首 (「娘子」は若い女官)

2-1-434歌 過勝鹿真間娘子墓時山部宿祢赤人作歌一首 并短歌 東俗語云可豆思賀能麻末能弖胡

(「娘子」は土地の娘。処女)

2-1-524歌 藤原宇合大夫遷任上京時常陸娘子贈歌一首  (「娘子」は遊行女婦)

2-1-539歌 門部王恋歌一首  左注:右門部王任出雲守時娶部内娘子也 身有幾時 既絶徃来 累月之後更起愛心 仍作此歌贈致娘子   (「娘子」は土地の娘。)

2-1-628歌 高安王褁鮒贈娘子歌一首  高安王者後賜姓大原真人氏

(「娘子」は、家柄の低い娘か、あるいは遊行女婦か。) 

2-1-630歌 娘子報贈佐伯宿祢赤麻呂歌一首 (「娘子」は遊行女婦)

2-1-634歌 湯原王贈娘子歌二首  志貴皇子之子也 

(「娘子」は女官か、あるいは土地の娘か遊行女婦か。)

2-1-636歌 娘子報贈歌一首  (「娘子」は同上)

2-1-640歌 娘子復報贈歌一首  (「娘子」は同上)

2-1-644歌 娘子復報贈歌一首  (「娘子」は同上) 

2-1-694歌 大伴宿祢家持贈娘子歌二首  (習作の歌か。「娘子」は仮想の未婚者)

2-1-703歌 大伴宿祢家持到娘子之門作歌一首  (習作の歌か。「娘子」は仮想の未婚者)

2-1-704歌 河内百枝娘子贈大伴宿祢家持歌二首 (「娘子」は家柄の低い娘または遊行女婦)

2-1-706歌 巫部麻蘇娘子歌二首  (「娘子」は家柄の低い娘)

2-1-710歌 粟田女娘子贈大伴宿祢家持歌二首  (「娘子」は家柄の低い娘) 

2-1-712歌 豊前國娘子大宅女の歌一首  未審姓氏 

 (大宅女は通称。「娘子」は家柄の低い娘か、遊行女婦。) 

2-1-713歌 安都扉娘子歌一首  (「娘子」は家柄の低い娘) 

2-1-714歌 丹波大女娘子歌三首  (「娘子」は家柄の低い娘) 

2-1-717歌 大伴宿祢家持贈娘子歌七首  (習作の歌か。「娘子」は仮想の未婚者) 

2-1-786歌 大伴宿祢家持贈娘子歌三首   (習作の歌か。「娘子」は同上)

(付記終わり 2020/11/2    上村 朋)