わかたんかこれ  猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ

 前回(2020/5/11)、「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」と題して記しました。

 今回 「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」と題して記します(上村 朋)。

 

1.~5.承前

(『猿丸集』の編纂方針を推測する方法のひとつとして、歌集の巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)を一組の歌とみることが出来るか検討をする。『猿丸集』の歌と当該類似歌は特定の同音異義の語句の意を異にしていること等を再確認し、詞書を共通にする3-4-1歌と3-4-2歌の新たな現代語訳(巻頭歌詞書の新訳と巻頭歌本文の新訳と巻頭第2歌の新訳)を得た。その新訳は、詞書にある「ふみ」(書き付け)について詠っており、両歌は、詞書とあわせて、歌集の特色を示唆し、歌集の編纂の意図を示す「この歌集の序」になり得る内容である、と推測できた。)

 

6.最後の歌3-4-52歌

① 次に、最後の歌(掉尾の歌)を検討することとし、『新編国歌大観』から引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる(3-4-51歌に同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

 

② 3-4-52歌について現代語訳(試案)を、2019/11/4付けブログより引用します(付記1.参照)。

3-4-52歌 

 建物と建物の間のところにゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」

 

  現代語訳(試案)について、注記をします。

A 詞書にある「やま」には、(花が咲いている山とかという)特段の形容がありません。

B 詞書にある「やま」とは、「屋間」(建物と建物の間)です。屋敷に(手引きを得たりして)入り込んだ、という想定ができます。

C 詞書にある「はな」とは、同じ詞書のもとにある歌3-4-51歌の検討の際、女性を暗喩している、と推測し、この歌でもそのように推測できました。

D 詞書にある「みゆ」とは、「物が目にうつる・見える」と理解しました。このほか、「(人が)姿をみせる・現れる」、「人に見えるようにする」とか「妻になる・嫁ぐ」の意があります(『例解古語辞典』)。

E 歌の初句にある「こむよ」の「こ」は、動詞「来」の未然形であり、「来」とは、目的地に自分がいる立場でいう「行く」の意です。

F 歌の初句にある「こむよ」の「よ」とは、「夜」です。

G この歌は、いつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌です。

 

7.同じ詞書のもとの歌3-4-51歌の再検討

① 同じ詞書のもとにある歌が、直前にありまので、3-4-52歌の検討前に確認しておきます。

3-4-51歌  (3-4-52歌に同じ(やまにはな見にまかりてよめる))

            をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

② 3-4-51歌について現代語訳(試案)を、同じ詞書の歌である3-4-52歌との整合を検討した2019/11/4付けブログより引用します(付記1.参照)。

   3-4-51歌 (詞書は割愛)

   「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

  現代語訳(試案)について、注記をします。

A 詞書の注記は、3-4-52歌の注記(上記6.② A~D)を参照ください。

B 歌の二句「をしげなるかな」とは、作者の感慨です。

C 歌の三句「さくらばな」とは、未婚の女性(あるいは単に作者が思いを寄せる女)を暗喩しています。

③ 3-4-1歌に準じて、3-4-51歌の現代語訳(試案)を再検討します。

  3-4-1歌と同じように、同音異議の語句の類を確認します。

 第一 二句「をしげなるかな」とは、「作者の思い」であり、類似歌(1-1-65歌)での「をしげにもあるかな」とは「桜の思い」の意です。

 第二 五句にある係助詞「(ちるまで)も」は、類似歌にある係助詞「(ちるまで)は」と意が異なります。

係助詞「は」は、この歌で「他と対比して限定する気持ちを加えていい立て」(『例解古語辞典』)ています。

係助詞「も」は、類似歌で「類似の事態の一つとして提示する意を表し」(同上)ています。

 この歌は、「折る」と詠い、特定の一本の桜木(特定の一つ)が咲いている状況に注目して詠んでおり、類似歌は、山に咲く複数の桜(それも『古今和歌集』の配列からみれば散り始め)を詠んでいます。(2019/10/17付けのブログでは、この歌は「ちるまでも」で「ほかの楽しみとともに散るまでの間を(見よう)」の、意。類似歌は「ちるまでは」で、花の散ることだけを、強調していると指摘したところです。)

④ この2点から、詞書にある「はな」及び歌にある「さくらばな」が、山に咲いている複数の桜を指すのではなく山の中の特定の桜であり、散り始めに限定されていないのではないか、と推測できます。

 そうすると、『猿丸集』歌は、類似歌と異なる意の歌となっていた3-4-50歌までの延長上に、この2首もあるとみて、類似歌は『古今和歌集』巻第一春歌上にあるので、この歌は、桜が女性を意味する恋の部の歌と考えられます。

⑤ このため、上記の現代語訳(試案)は妥当な訳である、と思います。

 

8.最後の歌3-4-52歌の再検討

① 次に、3-4-52歌における同音異議の語句を、3-4-1歌の場合に準じて再検討します。

 第一 詞書にある「やま」とは、「屋間」、つまり「建物と建物の間(の空間)」と理解しました。このほか、一般的な「山」もあり、夕方の牛車での出来事を詠う3-4-28歌では、「やま(のかげ)」が、「(牛車の車の)「輻(や)の間(にみえる鹿毛(かげ・馬)(と騎乗の人物)によってできた蔭)」、即ち、「夕日でできた随伴している乗馬の官人の影(が乗馬の影とともに伸びてきた)」の意でした。「輻(や)」とは、「轂(こしき)」とまわりの輪をつなぐ棒で放射状に並んでいるものをいい、鹿毛とは、馬の毛色の名前であり馬を指す代名詞でもあります。(付記1.参照)。

 第二 詞書にある「はな」とは、「桜の花」であり、女性をも意味するものの、このほか、桜が暗喩しているものは、歌本文のみからは浮かびません。

 第三 歌にある「こむよ」の「よ」は、『新編国歌大観』で、「世」という表記になっていません。「よ」と読む名詞は「世」のほか「夜」、「節」、「余」などもあります。名詞「よ」を修飾する語句「こむ」は、四段活用の動詞「籠む・込む」の連体形、及び「動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形」が候補になります。

 前者の意は、「こもる」、「混雑する」及び「複雑に入り組む」、および「のみこむ・承知する」があります。ただ、「のみこむ・承知する」の用例は式亭三馬の『浮世風呂』が示されています(『例解古語辞典』)。

 現代語訳(試案)は後者で理解して「(当然)来るだろう」(「む」は推測の「む」)としました。そのほか「来よう」(「む」は意思・意向の「む」)の意もあります。

 「よ」は、「はやなりななむ」(二句)と期待・希望されていますので、「よ」が何か別の状態に変化するか何かに入れ替わるかことができるということなので、名詞「よ」の候補はしぼられて「世」・「夜」となります。「こむよ」が、「籠む」+「よ」では、「こもる「世・夜」」とか「複雑に入り組む「世・夜」となり、「はな(女性)見にまかりて」という詞書で恋の歌となるのに、困惑する事態を予測するのは不思議なことではないでしょうか。

 第四 「よ」が「世」であれば、「来む世」となり、類似歌の現代語訳(試案)における俗信の「次の世」のほかに、仏教の説く輪廻説による「三世のひとつである「来世」(宗教的あるいは倫理的要因により決まる次の生であり、本人の好み優先で生れ変われる世ではない)もあります。また、「(来るであろう)男女の仲」(例えば『源氏物語』(帚木)においての「よのなか」)もあります。

② このように、同音異義の語句が詞書にも歌本文にもいくつかあるのが確認できました。そのため、現代語訳の別案を試みるため語句の意を整理すると、次のような表が得られます。あわせて(『古今和歌集』巻第十二恋二にある)類似歌(1-1-520歌)での意も記します。

表3. 3-4-52歌での同音異義語の組合せ   (2020/5/18 現在)

語句の例

上記の(試案)での意

別の意の案1

別の意の案2

類似歌の意

詞書)やま

「屋間」建物と建物の間の空間

「山」

 

「(牛車の車の)「輻(や)の間」(3-4-28歌での「やま」)

――

詞書)はな

山に咲く桜(特定の女性を指す)

 

 

――

歌)こむよ(初句)

「来む夜」(「む」は意思・意向の助動詞)

「来む世」来るだろう時代・時世(「む」は意思・意向の助動詞あるいは推測の助動詞)

「来む世」仏教で説く来世(「む」は推測の助動詞)あるいは「籠む夜・世」

「来む世」俗信の「次の世」(「む」は意思・意向の助動詞)

歌)むかし

「来む夜」が到来した時点からみた「昔」(作詠時点)

 

仏教で説く来世からみた「昔」(仏教で説く現世・作者が現に生きている世)

俗信の「次の世」からみた「昔」(作者の生きている世)

歌)なり(ななむ)

成る

 

慣る・馴る

成る

歌)(なりな)なむ

推量の助動詞「む」

意思・意向の助動詞「む」

 

推量の助動詞「む」

 

③ この表において、詞書にある「やま」を「別の意の案1」欄の「山」と仮定すると、作者が「むかしと思はむ」と詠うことに「山」がどのようにかかわるのか、詞書に記す意があるとは思えません。「別の意の案2」の「「輻(や)の間」の意でも同じことが言えます。

④ 次に、歌にある「こむよ」の「別の意の案1」欄の「「来む世」来るだろう時代・時世」を検討します。

 この場合、作者が待つ時間の単位に「時代」というまとまった長い年月を要する恋を、詠むかどうかが問題です。詞書に「やまにはな見にまかりて」とあり、作者は女性が視認できるくらいの近くにまで忍んできて詠んでいるのに、なんと気が長い作者か、という印象になります。詞書の「はな」は桜木の花であり1年という単位で「見にまかる」ものではありません。恋の歌として時代・時世の意では不自然です。

⑤ 次に、「別の意の案2」欄の「仏教で説く来世」では、作者の希望が通る「来世」ではないので、下句を詠みだすことができません。「籠む夜・世」でも、上記①の第三で検討したように、下句を詠むのは不思議なことです。

⑥ 助動詞「む」は、二つの意があります。

⑦ このため、「こむよ」の候補は類似歌と上記の(試案)の案だけになります。

⑧ また、この歌と類似歌は違う趣旨の歌であるという、ここまでの『猿丸集』の傾向からいえば、この歌は、類似歌とは異なる部立ての歌なると予想でき、女性への思いを詠った歌となります。

⑨ このため、「はな」に暗喩があると理解とした上記の現代語訳(試案)が、妥当な理解である、と思います。

 

9.同じ詞書の歌2首を比較して

① 3-4-51歌と3-4-52歌については、上記のように、詞書にある「はな」の意に女性の意を重ねて理解ができました。

 このため、この両歌は、一つの詞書におけるペアの歌である、と言えます。

② 両歌は、ともに当該類似歌と歌の内容が異なり、当該類似歌はほかの『猿丸集』歌の理解に直接影響を及ぼしていません。これは、『猿丸集』のほかの歌の傾向と同じです。

③ 勅撰集のように編纂された歌集は、各部立の巻頭歌と掉尾歌が、その部を象徴するような歌・あるいは部立ての理由を類推させるような歌によくなっています。この歌集の最後にある同一の詞書における2首なので、この2首にも、同じようなことを、『猿丸集』の編纂者がしているかどうかをみてみます。この両歌に詠う「はな」に、歌集編纂に関係する何かを象徴・暗喩させているかどうか、です。

 詞書は、「はな」は、「やま」のなかにある「はな」である、と言っています。「やま」にある桜木のなかの特定の「はな」を見に行っているので、女性のなかでも特定の女性を暗喩していました。もう一つ暗喩するとすれば、『猿丸集』の最後の歌における暗喩であるので、数ある歌集のなかでの『猿丸集』という見立てが可能です。

④ 詞書の「やまにはな見にまかる」とは、「数々の歌集があるがこの『猿丸集』に親しみ」、と理解できる文となります。

⑤ このように詞書の意を解釈して3-4-51歌を検討します。 3-4-51歌の文の構成は、

文A:(私か誰かが)をりとらば (文Bの条件)

文B:(桜の木は)をしげなるかな(と思うと私は考える)

文C:さくらばな (呼びかけ)

文D:いざ (私は)やどかりて (文Eの条件)

文E:(私は、さくらばなが)ちるまでもみむ

となっていると分析し、現代語訳(試案)を試みてきました(付記1.参照)。

 この構成を前提として、「はな」を『猿丸集』とみなして(試案)にならい、現代語訳を試みると、

「誰か曲解したならば、『猿丸集』は、それを惜しいと思う様子を示すと私は考える。『猿丸集』よ、さあ、私は何とかとどまるところを借用して(後世に『猿丸集』を伝える努力をして)、『猿丸集』が正しく理解されるところまでをみたい。」

試みたこの現代語訳は、五句の「む」だけ現代語訳(試案)を離れ、意思・意向の助動詞と理解したものです。以後「掉尾前51歌の新解釈」といいます。

⑥ 同様の解釈で3-4-52歌を検討します。 3-4-52歌の文の構成は、

文F:こむよにもはやはやなりななんめのまへに (詞書からの結論、決意あるいは予想)

文G:(めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ (文Fの再確認)

の二つの文から成ると分析し、現代語訳(試案)を試みてきました(付記1.参照)。

 この構成を前提として、「はな」を『猿丸集』とみなして(試案)にならうと、

 「来るだろうそのような時代にも、早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)『猿丸集』になんの反応もみせない歌人たちを昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」

 この現代語訳は、初句にある「こむよ」を、表3、の「別の意の案1」である「来るだろう時代・時世」と理解し、また四句にある「つれなき人」を、現代語訳(試案)が「作者につれなし」と理解したところを「猿丸集につれなし」と理解したものです。以後「掉尾52歌の新解釈」ということとします。

⑦ 形容詞「つれなし」とは、「何か見聞きしても反応を示さないとか、心に思っていることを顔色に出さないとかいうのが基本的な意味」であり、「なんでもないようだ・平気なようだ」とか「無常だ、つれない」の意です。(『例解古語辞典』)

⑧ このように、同じ詞書にある両歌が「掉尾前51歌の新解釈」と「掉尾52歌の新解釈」という理解ができますので、「はな」が『猿丸集』を暗喩し、この歌集の最後にある2首に、歌集編纂者は、『猿丸集』を後世に残す決意を詠い、今後理解が深まることに期待していると詠っていることになります。このような特別な意をこの2首に込めている、と言えます。

 

10.巻頭歌と最後の歌は一組の歌とみなせない

① 巻頭歌の2首と最後の2首について、別々に歌集のなかでの役割をみてきたところ、巻頭歌1首と最後の歌1首とが一組ではなく、巻頭の詞書のもとにある2首と最後の詞書のもとにある2首とが少なくとも一組である、とわかりました。では、この4首を一組の歌群ととらえ、いわゆる巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)として編纂者が扱っているか、を検討します。

 この4首以外に編纂者が特別視している歌があれば、それを加えて再検討することとし、今はこの4首と歌集の関係を検討します。

② 検討してきた4首を改めて記すと、次のとおり。

3-4-1歌 

  あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる

    しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら

3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ)

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

3-4-51歌  

  やまにはな見にまかりてよめる

    をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

    こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

③ それらに試みた現代語訳を改めて記すと、次のとおり。暗喩が2つある3-4-51歌と3-4-52歌は2案を示します。

3-4-1歌  「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」(「巻頭歌詞書の新訳」)

   「(ふみに記された所説を)知らしめる偈となっていますね、「真野のはぎはら」は。真の野原と言えるすばらしい萩が一面に咲く原を行きつ戻りつして楽しむように、(これにより)和歌のすばらしさを味わえます。」 (「巻頭歌本文の新訳」)

     

3-4-2歌   (詞書は「巻頭歌詞書の新訳」に同じ)

   「から人が衣を染める材料という紫草に覆われた野原。その野原は、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」 (「巻頭第2歌の新訳」)(三句にいう「むらさきの」という野原が詞書にいう「ふみ」をさします)

      

3-4-51歌  建物と建物の間のところにゆき、桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)

    「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、

桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」(3-4-51歌の現代語訳(試案))

 

3-4-51歌の別案  (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「誰か曲解したならば、『猿丸集』は、それを惜しいと思う様子を示すと私は考える。『猿丸集』よ、さあ、私は何とかとどまるところを借用して(後世に『猿丸集』を伝える努力をして)、『猿丸集』が正

しく理解されるところまでをみたい。」(「掉尾前51歌の新解釈」)

 

 3-4-52歌   (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」 (3-4-52歌の現代語訳(試案))

 

 3-4-52歌の別案  (詞書は3-4-51歌の現代語訳(試案)に同じ)

    「来るだろうそのような時代にも、早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)『猿丸集』になんの反応もみせない歌人たちを昔そんなこともあったのだ、と思えよう。」 (「掉尾52歌の新解釈」)

 

④ 3-4-1歌と3-4-2歌の詞書の「ふみ」が「書き付け」を指しており、3-4-51歌と3-4-52歌の詞書の「はな」が『猿丸集』を指しているとなると、この4首は、『猿丸集』に明確な編纂方針のあることを示唆している、と言えます。

 歌集の最初の2首は、この歌集を紹介し、最後の2首は、この歌集理解を将来に期待していると述べている、とみなせます。この4首によって、勅撰集にみられる巻頭歌と最後の歌のような役割を果たしています。

⑤ 『猿丸集』の全52首を個々にその類似歌とともに一応検討して得た感触と、この4首の理解から、『猿丸集』の編纂方法を予想してみると、つぎのことが言えます。

 即ち、『猿丸集』の編纂者は、和歌とは、言葉をこれまでの用例を踏まえ発展的ににも用いて作者が詠んでいるものであり、そのような和歌を編纂した歌集も、歌集全体が編纂者の一つの作品となるように、言葉を吟味し、歌を配列しているものである、ということを主張し、52首の歌集編纂によりその実例を示そうとしたか、ということです。

 和歌の言葉遣いについては、良く知られた歌を類似歌として提示し『猿丸集』歌との対比により具体的にそれを示せています。

 しかし、歌集については、歌集のなかで別の歌集との対比がそもそも無理です。それで、詞書の言葉遣いと最後の詞書の歌2首に別案を編纂者は用意し、歌集が一つの作品であることを強く示しているのかもしれません。

⑥ なお、歌集最初の2首は、「ふみ」に関する題詠と理解できるので、別案はない、と思います。

⑦ 私の念頭に浮かんだのは、『猿丸集』編纂者が熟読していたであろう『古今和歌集』です。

序がある歌集です。その序の役割を『猿丸集』では最初の詞書のもとにある2首が担っている、と今回推測したところです。

そして、巻第十八雑歌下の配列を想起してください(付記2.参照)。

久曾神昇氏は、『古今和歌集』が収載している歌を和歌と歌謡に大別し、大別した和歌のうちの短歌で十八巻を構成し、残りの和歌に一巻、歌謡に一巻という構成であると指摘しています。次いで、短歌である1-1-1歌から1-1-1000歌の1000首の最後の歌群は「述懐(離別・疎遠・詠歌)」であると指摘しています。

 その短歌の最後の歌(1-1-1000歌)は、次のような歌です。

1-1-1-1000歌  

歌めしける時にたてまつるとて、よみておくにかきつけてたてまつりける  伊勢

     山河のおとにのみきくももしきの身をはやながら見るよしもがな  

 これに相当するかに見えるのが、『猿丸集』の最後の詞書のもとにある2首である、と推測しました。

⑧ 『猿丸集』の特徴を、2018/1/15付けブログに記しました。それは、上記の4首が一組であるとの考察前の私の意見でした。そのうち、次の点は、上記の4首からも確認できました。

 第一に述べた「 『古今和歌集』と違い、序が無い。しかし、しっかりした独自の方針に従い編纂されている。」、

 第五に述べた「各歌そのものは、類似の歌がベースにあって、創作され、この歌集に記載されていると思われる。したがって、歌そのものは類似の歌と異なる歌意を持っている。(類似の歌の異伝歌などではない)」、

 そして、このように4首のみからでも、この2点が歌集成立後千年も経た2020年にも確認できるのですから、第七に述べた「完成した『猿丸集』を、後年書写にあたった歌人たちは、他の歌集と同様な扱いをしており、書写にあたりわざわざ詞書を書加たり添削等の操作を受けた可能性は低い。」ということは編纂者の願いが実現しているのではないか、と思います。

⑨ 今回の検討結果をまとめると、つぎのようになります。

第一 巻頭の歌と最後の歌(掉尾の歌)の検討をしたが、結局その二つの歌の詞書のもとにある歌計4首を材料としての検討となった。以下のことはこの4首のみから指摘できたことであり、『猿丸集』全体の構成・配列が見極められたものではない。

第二 『猿丸集』の編纂者は、巻頭の歌と最後の歌(掉尾の歌)のみを特別視していない。巻頭の詞書のもとの2首と最後の詞書のもとの2首を特別視している。

歌集の最初の2首は、歌集の序の役割を兼ねており、最後の2首は編纂者の希望を述べる後記の役割を兼ねている。

第三 歌集の最初の2首の詞書にある「ふみ」と最後の2首の詞書にある「はな」は、この『猿丸集』を指している。

第四 この4首の詞書の文章は、歌本文ともども類似歌を参照するよう誘うような記述方法をとり、論理的に最小限な文章にとどめている。『古今和歌集』の詞書の文章も同じである。

第五 この4首から推測すると、 『猿丸集』の編纂者は、『古今和歌集』の編纂方法に学んでいるかにみえる。歌集全体でも『古今和歌集』の歌を類似歌に多く採用し、『猿丸集』の理解が進めば、『古今和歌集』の歌の理解が進み、さらに序を置いていない『後撰和歌集』と『拾遺和歌集』を含め、三代集の理解が深まることを期待しているのではないか。

第六 歌集名からの推測(「類似歌に関して、当時における新解釈をいくつかの歌について『猿丸集』編纂者は採用していることを、古人の説の理解によるものであるとして示しているのではないか」)は、この4首にも該当し得る。

 ただし、歌集の実際を現時点で総括すれば、52首からなる『猿丸集』は、「日本語の論理と表現方法を追求して歌集の編纂者の方針のもとに配列されている歌であり、例歌として52首以上も類似歌を暗黙に示している歌集」であろうとなり、新解釈を訴えることが『猿丸集』の眼目ではない。

第七 3-4-1歌の初句「しらすげ」を「いひたりける」人とは3-4-2歌の「巻頭歌第2歌の新訳」の「からひと」に重なるならば、遠来の人を意味し、歌集名にある人物「猿丸」を想起させる。

第八 歌集は、詞書に言葉を費やさずさらに漢字多用の表記方法も採用せず、類似歌を暗示するというアイデアを用いて編纂されている。52首の配列を構想した後、類似歌探しに編纂者が苦労したと思われる歌は、『猿丸集』編纂に必要としている歌なのであるから、歌集編纂上特別の役割を担っているのかもしれない。

 ⑩ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうごさいます。

 次回から、歌本文をも対象に、『猿丸集』の配列の検討にすすみたい、と思います。

(2020/5/18  上村 朋)

付記1.『猿丸集』の歌の現代語訳(試案)は、次のブログから引用して検討した。

3-4-1歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)

 (これは、一部補綴を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-2歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第2歌とその類似歌は」(2018/2/5付け)

(これは、改訳を2020/5/11にした後の記述である)

3-4-28歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その2 やまのかげ」(2019/9/10付け)

3-4-51歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第51歌 をしげなるかな」(2019/10/7付け)   (詞書を4案に、歌本文を2案にまでしぼりこんだ)

3-4-52歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け

 (詞書と3-4-51歌と3-4-52歌の現代語訳(試案)がそれぞれ1案となった)

     ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)

 

付記2.『古今和歌集』の巻第十八にある1-1-995歌)前後の歌の検討を、次のブログに示した。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22付け) (1-1-1000歌はその付記1.⑥にも記す)

 ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集の994歌」(2017/12/18付け)

 ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集の1000歌」(2017/12/25付け) 

(付記終わり 2020/5/18  上村 朋)