わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第13歌など

前回(2020/8/10)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第13歌など」と題して、記します。(上村 朋)

 

 1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-12歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

2~4.承前

5.再考第四の歌群 第13歌

①「第四の歌群 あうことがかなわぬ歌群」(3-4-12歌~3-4-18歌)の最初の3-4-12歌は、前回検討したところ、恋の歌でした。ただし恋の歌の要件の第三が保留中です。

今回は、歌群の二番目の歌3-4-13歌より検討を始めます。『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとに歌が2首あります。この歌と次の3-4-14歌です。

 3-4-13歌 おもひかけたる人のもとに

   あづさゆみすゑのたづきはしらずともこころはきみによりにけるかも

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/5/7付け参照)。

 詞書:「懸想し続けている人のところに(送った歌)」

 歌本文:「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、どのような方法をとったらよいのかわかりません。でも、私の気持ちは貴方に纏いついてしまったようなのです、本当に。」

 この歌は、詞書にある「おもひかけたるひと」を、下二段活用の連語の動詞「おもひかく(思ひ懸く)」の連用形+助動詞「たり」の連体形+名詞「ひと」と理解したところです。また、歌本文にある「あづさ弓」は、「あづさ」と呼ぶ木で作った弓であり、歌語としては「ひく」等にかかる枕詞でもあります。しかし、この歌は、弓の種類は関係なく、弓一般の特性しか歌に用いていないとみました。男女の間に起こるであろう事態を「すゑ」と見立てているとすると、過去の男女どちらかの問題行動とか出逢いが「本」になると理解したところです。

③ 同音異義の語句を確認したところ、二つありました。詞書にある「おもひかけたるひと」と歌の五句「よりにけるかも」です。前者は見落とし、後者は確認が不十分でした。

④ 「おもひかけたるひと」の意は、上記②のほかに、次の理解が可能です。

名詞「おもひ(思ひ)」+下二段活用の動詞「かく(欠く・懸く)」の連用形+助動詞「たり」の連体形+名詞「ひと」

 名詞「思ひ」には、「思うこと・思慮」とか「願望」、「心配・もの思い」、「思慕の情・恋心」、「喪に服すること・喪中」の意があります。(『例解古語辞典』)

 下二段活用の動詞「欠く」は、「不足する・欠ける」の意です。

 下二段活用の動詞「懸く」の場合は、下二段活用の連語の動詞「思ひ懸く」と同じ「思いをかける・慕う」意と同じか、と思います。

 また、下二段活用の動詞「思ひ懸く」もあり、上記のほか「予測する・あらかじめこころに浮かべる」の意もあります。

 助動詞「たり」は、「動作・作用が引き続いて行われる意」、「動作・作用がすでに終わって、その結果が存続している意」とか「動作・作用が完了した意」を表します。

 そうすると、「おもひかけたるひと」は同音異義の語句であって、「思ひ」と「かく」と「たり」の意の組合せが、いくつもあることになります。この歌の詞書においての意を、『猿丸集』の配列から絞りこめるかどうかを最初に検討します。

⑤ 前の歌群の歌(3-4-10歌や3-4-11歌)は、オミナエシに親どもを暗喩した恨み節の歌(3-4-10歌)と、親の反対を押し切っても成就したいと詠う歌(3-4-11歌)でした。この歌群の最初の歌は、不退転の決意を披露した歌(3-4-12歌)でした。

 この三首の延長上にこの歌があるので、恋の進捗は順調ではない時点の歌であることが予想できます。燃える思いの二人と思いこんで詠み送っているはずです。

 しかしながら、3-4-13歌の詞書では、助動詞「たり」を用いて、現在から振り返って相手の人も評価したかにもとれる文言です。即ち、助動詞「たり」が「動作・作用が完了した意」の意であり、現在は、過去の事と割りきって『猿丸集』に記載している、と理解できます。

 このため、平仮名表記されている「おもひかけたるひと」とは、上記②の詞書の現代語訳(試案)での意、即ち

 「懸想し続けている人」 (「思ひ」は作者の思慕の情、「かく」は懸く、「たり」は引き続き行われている)よりも、次のいづれかではないか、と思います。

 第一 思慮の不足していた人 (「思ひ」は相手の思慮)

 第二 (作者への)思慕の情が欠けていた人」(「思ひ」は相手の思慕の情)

⑥ さて、もう一つの同音異義の語句は、歌本文にある、五句「よりにけるかも」です。

 その「よる」を、上記の現代語訳(試案)では、「撚る」としたところです。この歌の類似歌の五句「よりにしものを」の「よる」は、「寄る」の意でした。仮名表記が「よる」である動詞は、この他「依る 因る 拠る 縁る」などがあります。

 また、五句「よりにけるかも」にある「ける」は助動詞「けり」の連体形です。その意は、4つあります。即ち 

 第一 ある事がらが、過去から現在に至るまで、引き続いて実現していることを、詠嘆の気持ちをこめて回想する意を表す。

 第二 ある事がらが、過去に実現していたことに気がついた驚きや詠嘆の気持ちを表す。

 第三 今まで気づかなかったり、見すごしたりしていたこと眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す。

 第四 伝聞や伝承された過去の事実を回想していう意を表す。(『例解古語辞典』)

 上記②に記す現代語訳(試案)では、第三の意に理解し、親の説得にあったが、相手に対して、強い気持ちが増してきていることに、自分でも驚いている意が込められている、とみたところです。

⑦ この歌は、作者が、「恋に横やりがはいった時点」で相手に送ったものですが、詞書が回想文だから、その後の進展ははかばかしくなかったのでしょう。そうであれば、この歌を詠ったときは、説得を受け入れずに相手もいると信じていたので、「けり」は上記の第二の意、終助詞「かも」は感動文をつくる意である、と思います。

⑧ 歌本文の現代語訳を改めて試みます。

 詞書:「(私への)思いが欠けてしまっていた人のところに(送った歌)」

  (「13歌詞書 新訳」)

 歌本文:「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、どのような方法をとったらよいのかわかりません。でも、私の心は貴方の心に纏いついてしまったことだなあ。」 (「13歌本文 新訳」)

⑨ この歌(3-4-13歌)は、類似歌(2-1-2998歌)が男の愛情には不安を感じつつも受け入れようとしている女の歌であるのに対して、(結果はともかく)相手を信じ切っておくった歌であり、恋の歌の要件の第一と第二を満足し、第四も満足しています。第三は後程検討します。

⑩ この歌の作者の状況は、女でも男でもあり得る、と考えられます。「ぎ」をしのぐ事態がどちらに多いか不明です。詞書には、「人」におくった歌、と記してあり、「女」におくったと記していません。「人」の性別が明らかになれば、恋の相手である作者の性別も定まります。

 『猿丸集』での「人」という字の用いられ方やこの詞書のもう一つの歌3-4-14歌本文を再確認し、さらに『猿丸集』と同時代と思われる三代集での詞書での「人」の用例をみてから作者の性別を判断したい、と思います。

 

6.再考第三の歌群 第14歌

① 3-4-14歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌は2首あり、直前の3-4-13歌とこの歌です。

 3-4-14歌 (詞書は3-4-13歌に同じ(おもひかけたる人のもとに))

   あさ日かげにほへるやまにてる月のよそなるきみをわがままにして

 ② 現代語訳として、詞書は、上記5.の⑧の「13歌詞書 新訳」として、歌本文を「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)から引用します(ブログ2018/5/14付け参照)。

 詞書:「(私への)思いが欠けてしまっていた人のところに(送った歌)」

 歌本文:「朝日が射してはなやかに染まっている山にまけず、かがやいている月のように、私には(今は仰ぎ見る)遠い存在であるあなたとの距離を、いずれ私ののぞむ状態に(したいものです)」

 この歌は、五句「わがままにして」を、「我が+儘+に+して」であり、自分の思うままに、の意としたところです。

③ 同音異義の語句の語句とみなすべき語句がやはりありました。歌本文における、「わがままにして」と「きみ」です。「わがままにして」は、上記のほかに、

「我が+真(接頭語)+魔+に+して」 (「魔」は仏教語で仏道修行の妨げをする悪神)

が考えられます。

 「我が」と形容している「魔」が「きみ」であると、「きみ」(君)は恋の相手ではなく説得をした親を想定することになります。

 そして、この歌は、「して」の接続助詞「て」の後の行動を示唆する表現(例えば動詞)が記されていません。それにより三句にある格助詞「の」の理解によっては、この歌は、次のような文からなる、といえることになります。

 文A あさ日かげにほへるやまにてる月の(如くになった)

 文B (それは)よそなるきみをわがままにして(しまう)」

 文C (そのことは我を惑わせる。あるいはそのことは我に決意させる。)」

④ それを現代語訳すると、次のとおり。

 文A 「朝日が射してはなやかに染まっている山にまけず、かがやいている月のように、私には(今は)遠い存在にあなたはなってしまった。」

 文B 「それは、私たちとは無関係であってよいどなた様かを私の仏道修行の妨げをする悪神と見立ててしまうような状況です。そして、」

 文C 「それは困惑の極みです。」あるいは「そうであっても、私は、あなたと添い遂げたいと思っています。」

⑤ このような理解が上記の「13歌詞書 新訳」のもとで成り立つならば、「わがままにして」は同音異義の語句と言えます。

 四句「よそなるきみを」の「よそ」は、「余所、自分と無関係なところ・無縁な状態にあること」の意です。ここまでの歌の配列を重視するならば、「よそ」とは、「恋の相手がにわかに近づけなくなった状況に置かれたこと」を指します。だから、遠くに月が西の空に沈む状況を景として歌のはじめに詠ったものと思います。光かがやく月(である貴方)は今遠くにいってしまっている、と言う感覚です。

 女の親も男が近づくのを防ぐ手段を講じたことを意味し、「13歌詞書 新訳」のもとで上記のような理解は成り立ちます。現代語訳(試案)も上記の理解も類似歌と歌意が異なっており、『猿丸集』の歌の要件の第二を満足します。

⑥ このため、2案を比較するならば、詞書において「かく」を「欠く」と理解しているのでこの新しい理解のほうを採りたいところです。しかし、『猿丸集』の編纂時点からみればそうであったかもしれませんが、現にこの歌を相手におくった時点では、この歌の作者にとって「かく」は「懸く」でもあったはずです。「欠く」という認識を持って詠った歌かどうかは微妙です。そのため、要件の第三の検討のひとつである歌群検討時まで現代語訳は両案併記とします。

 さて、上句は、類似歌(2-1-498歌)とまったく同じなので、歌本文の上句は、土屋氏の訳を拝借して、現代語訳(試案)は、次のように修正したい、と思います

 「朝日の光の美しくさす山になお、光りつつ残っている月のごとくに、遠く今は離れた状態であるあなた。そのあなたは、(いつか)私の思い通りに(なってほしい)。」(14歌本文 現代語訳修正試案)

 上記の新しい理解には、次のような現代語訳を試みました。五句の「して」のあとの割愛されている語句は、「14歌本文 現代語訳修正試案」と同様に、願望の語句としました。

 「朝日の光の美しくさす山になお、光りつつ残っている月のごとくに、私には遠い存在にあなたはなってしまった。それは、私たちとは無関係であってよいどなた様かを私の仏道修行の妨げをする悪神と見立ててしまいたくなる状況であり、そうであっても、私は、あなたと添い遂げたいと思っています。 」(14歌本文 新訳)

 ⑦ この歌は、未来の夫婦を夢見た恋の歌であり、恋の歌の要件第一を満たしますこの歌の類似歌(2-1-498歌)は、単身赴任にあたり「見飽きない君」(土屋氏)を残して出立することになってしまったと詠う「単身赴任で離れてしまうことになる愛しい妻をおもう歌」であり、歌の趣旨が異なり、要件の第二を満たしており、第四も満たしていますただ要件の第三は、この歌群の歌すべての確認が済むまで保留します。

 なお、2018/5/14付けのブログでの3-4-14歌と類似歌との違いの指摘での「男の横恋慕ともみえる歌」というこの歌の理解は、誤りでした。

⑧ さて、3-4-13歌から持ち越している「人」と作者の性別です。歌の五句「わがままにして」という発想は男の発想であろうと推察しますが、用例が未確認であり、作者の性別も未定です。「人」の用例が、この歌群にさらに2つありますので、それらの歌を再確認し、また『猿丸集』編纂の時代である三代集の恋の歌の詞書での「人」の用例をも参考にして検討したい、と思います。

7.同じ詞書における歌として

① この2首の詞書に記されている「かく」を同音異義の語句として見直し、両歌とも新訳(3-4-14歌についてはあわせて現代語訳(修正試案))を得ました。その現代語訳は、少なくとも3-4-10歌以後の歌の傾向と不自然な乖離はありませんでした。

② この2首は、『猿丸集』を離れて、一つの詞書における一対の歌として理解すれば、「かく」は現代語訳(試案)における「懸く」もあり得ます。その趣旨は、『猿丸集』における2首と異なるものであり、類似歌とも異なります。だから、別の意を許した歌が、3-4-13歌と3-4-14歌の現代語訳(試案)であり、恋の歌の第四の要件を満たす歌と言えます。とりあえず、この2首の現代語訳(試案)は、第四に該当する理解でもある、と整理しておきます。

③ 今回の歌の検討結果に前の歌群の歌の検討結果をあわせてまとめると、次のようになります。すべて恋の歌となりました。また、作者の性別は今のところ宿題です。

 

表 3-4-10歌~3-4-12歌の現代語訳の結果 (2020/8/17 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第三

訪れを待つ歌群

 

3-4-10

10歌詞書 現代語訳(試案)

10歌本文 新訳

 

なし

なし

3-4-11

11歌詞書 現代語訳(試案)

11歌本文 新訳

なし

なし

歌群第四

あうことがかなわぬ歌群

3-4-12

12歌詞書 現代語訳(試案)

12歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-13

13歌詞書 新訳

13歌本文 新訳

13歌詞書現代語訳(試案)

13歌本文

現代語訳(試案)

3-4-14

同上

14歌本文 新訳及び14歌本文現代語訳(修正試案

同上

14歌本文現代語訳(試案)

 

④ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

 次回は、引き続き第四の歌群の歌を中心に記します。

 (2020/8/17   上村 朋)

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

 

表「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/8/17現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10

 

3-4-10歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付け

3-4-11

3-4-11歌の現代語訳(試案)

2018/4/23付け

3-4-12

3-4-12歌の現代語訳(試案)

2018/4/30付け

3-4-13

3-4-13歌の現代語訳(試案)

2018/5/7付け

3-4-14

3-4-14歌の現代語訳(試案)

2018/5/14付け

3-4-15~

3-4-17

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/5/zz付けほか当該関係ブログ

3-4-18

3-4-18歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け

注1)歌番号等欄: 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

(付記終わり 2020/8/17   上村 朋)