わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ

 前回(2021/7/5)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 われのかなしさ」と題して、記します。(上村 朋)

1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-22歌に関しては、二つの類似歌の検討が終わったところである。

 3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

  2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

 この歌にかかる左注がある。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

  1-3-872歌  題しらず    よみ人しらず

    ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にある。)

8.3-4-22歌の詞書の検討

① 類似歌2首の検討を通じ、歌本文の平仮名表記が一字(「む」と「ん」)異なっただけの歌が、記載の歌集により、その歌意が変化し得ることを知りました。これから検討する3-4-22歌本文も平仮名表記は一字違うかどうかの歌ですが、類似歌とは詞書が異なります。

② 3-4-22歌の詞書は、この歌以後の数首の歌の詞書でもあります。その数首の検討の後に得た現代語訳(試案)は、当初の(試案)のままでした。それをブログ「わかたんかこれ  猿丸集22~26歌 詞書はひとつ」(2021/8/20付け)より引用します。

 「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」

③ 詞書にある「おやども」とは、親を代表とした係累の者たち、の意です。当時、貴族(官人)の子女の結婚は、氏族同士の結びつきと同義の時代です。

 また、「いみじういふ」とは、「なみなみでなく言葉を口にする」ということであり、交際を禁じた時の注意を繰り返したうえで反省を迫ったということではないか。

③ この詞書は、「おやども」が密会を知ったことによって状況が変化したことを明らかにしています。たとえ禁止されても逢いたい(夫婦になりたい)という目的にむかって、今後の方針と実行案を作者である男は、女に急ぎ伝える必要が生じます。既に話し合っていたとすれば、そのとおり実行しますよという情報(合図)をおくらなければなりません。密会がばれても情報チャンネルの遮断がなかったことは、この5首の「歌をおくった」という詞書の書き方により、明らかです。(2018/8/20付けブログ「4.③」)

④ なお、類似歌2-1-3749歌は、2018/7/9付けブログで一度検討し、2021/6/28付けブログでは、詞書と目録との突合せや贈答歌の記載方法の検討及び歌を詠んだ時点の推計などを加えた検討をしました。後者の検討結果が妥当であるので、現代語訳(試案)は、以後2021/6/28付けブログの案とします(付記2.参照)。

 類似歌1-3-872歌の検討は、2018/8/20付けブログで行っていますが、前回(2021/7/5付け)において、小池博明氏の『拾遺和歌集』の恋四の歌における作中人物の判定(ひいては恋部の編纂方針の理解)を改めました。類似歌1-3-872歌は、その検討結果の現代語訳(試案)により、以後検討します。

 

9.3-4-22歌の歌本文の検討

① 以前の検討(ブログ2018/7/9付け及びブログ2018/8/20付け)で次のことを指摘しました。特異な同音意義の語句はありませんでした。

第一 初句の「ちりひぢ」は、類似歌と同じく、「塵泥」であり、些細な価値もあるかどうか分からない物の喩えと、理解できます。ここでは、作者が自分を卑下して言っています。親が娘から遠ざけようとしている作者が「塵泥」であるのは、政界における有力者の息子ではない、ということです。

第二 四句にある「おもひわぶ」の主語は、禁止をしたのにまだ言い寄る作者がいるのでこまり果てている親、となります。

② 今回、上記①を確認します。

 この歌は、上記「8.②」のように理解できる詞書の許にある歌です。作中人物が歌をおくった相手は、逢っていたのがばれて厳しく改めて行動制限をされている相愛の女(「いも」)です。既にもう逢うなと「おやども」に言い渡さていた女でした。愛を貫く決心をしたのであれば、ばれた場合の女の「おやども」の行動も想定しているはずです。ばれてから歌を5首もおくっているのですから、すくなくとも男はそのつもりでいるのでしょう。

 そして、この歌では動詞「おもひわぶ」の主語の表記がありません。

 この歌は、次のような語句に分割できます。

文A ちりひぢのかずにもあらぬ:「われ」を修飾する語句

文B われゆゑに:「に」が格助詞で連用修飾語を作る。「思ひわぶ」を修飾する語句。

文C おもひわぶらん:第一案「いも」を修飾する語句。第二案「作中人物の推測文の文末」。

文D いもがかなしさ:「かなしさ」が名詞であり、格助詞「が」の意は、連体格の「が」。

③ 文Aにある「ちりひじ」とは、確かに作中人物が自分を例えている語句です。

文Cにある動詞「おもひわぶ」とは、「思いかなしむ・つらいと思う」意(『例解古語辞典』)、「思う気力をなくす」意(『岩波古語辞典』)、「思い悲しむ。思い悩む。苦しく思う」意(『古語大辞典』)です。

 だから、文Cでの「おもひわぶ」とは、次のいずれかを言っている、と思います。

次善の策を講じられない状況になったので、相手の女(「いも」)が「おもひわぶ」。

 そして、特に女にとっては、また「いみじふいはれ」たので、「おやども」の了解が難しいことを改めて実感し、それを女(「いも」)が「おもひわぶ」。

 また、『萬葉集』には、女を奪うという行動の歌もあります。「おやども」からみれば、二人がまだ諦めていないことがわかり、これからも対応に苦慮することが予想できます。それを「おやども」が「おもひわぶ」。

 前二者は、女が先行きを「おもひわぶ」とくくれます。

④ 文Cの歌意は、第一案の場合、

 a案 二人の先行きを、「いも」が「おもひわぶ」と作中人物が推測している(ところの「いも」)

 b案 作中人物(われ)の行動が続くので、「いも」の「おやども」が今後とも苦慮すると推測する(ところの「いも」)

 また、第二案の場合、

 c案 作中人物(われ)が行動を起こしにくいので、「いも」が孤立しており、作中人物がそれでは女が「おもひわぶ」と予測した、ということ

 d案 作中人物(われ)は行動を続けるので、「いも」の「おやども」は今後とも苦慮すると作中人物が予測した、ということ

という案が、あります。

⑤ a案とc案は、「いも」が「おもひわぶ」と作中人物が推測しており、類似歌2首の作中人物の行為と同じです。互いに覚悟をしていていたことであっても、相手を思う気持ちを伝えたい、という共通点が作中人物にあります。それに対して、相手の置かれている状況は、みな異なっています。

 即ち、この歌は、「おやども」という第三者に自由を制約されていますが、類似歌2首での相手はそのようなことがありません。

 b案とd案は、「いも」を制約するのが「おやども」なので、それを話題にして詠った、ということであり、詠う時点としてはa案とc案より具体的な話題であろう、と思います。

 このため、第一案の場合は、b案を、第二案の場合は、d案を第一候補として検討します。

⑥ 文Dにある「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない情感を表す。「愛し」であれば「身もしみて、いとしい。じいんとするくらいにいじらしい。」意。「悲し・哀し」であれば「身にしみて、あわれだ。ひどく切ない。やるせなく悲しい」意」(『例解古語辞典』)、「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。「どうしようもないほど切なく、いとしい。かわいくてならぬ。」とか「痛切である。何ともせつない。」とか「ひどくつらい」など」の意(『岩波古語辞典』)、「愛し」であれば「(肉親や男女などの間で身に染しみていとおしい。かわいい)。あるいは心が強く引かれて、感興を催すさま。など」、「悲し・哀し」であれば、「心が強く痛むさま。心にこたえるさま。」(『古語大辞典』)です。

⑦ 文Dは、「いも」の抱えている「かなしさ」の意であり、「いも」の「おやども」のこれほどの反対は、「いも」にとってやるせなくかなしい、あるいはこのような展開は「いも」にとって心にこたえる、ということではないか。

「いも」と「おやども」との軋轢は、「おやども」に心配・苦労が続くのであり、それを「かなし」と思っています。それが分る作中人物は、言外に「いも」に同情と愛情を寄せています。

「おやども」の反対は織り込み済みの二人にとって、「おやども」との円満な理解がさらに困難になったことを確認している歌とも理解できます。

⑧ 現代語訳を、文Cは第一候補として試みると、次のとおり。

 文Cが第一案(五句の「いも」の修飾語が初句~四句)と理解すると、「かなし」は「悲し・哀し」の意とし、

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくので、あなたの親兄弟が苦しむだろうと思う貴方は、心にこたえることだね。」 

文Cが第二案(四句切れの歌)とすると

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくために、あなたの親兄弟は、思い悩んでいるであろう。それでも(心を折らないでいる)貴方には、やるせなく悲しいことだ。」 

 以前の現代語訳(試案)は、次のとおり。

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないであなたに近づく故に、あなたの親兄弟は、思い悲しむのであろう。それを承知して(あい続けてくれる)貴方のいとしさよ。」 

(「かなし」が、作中人物にとって「愛し」でした。)

 今回、四句切れか否かをあいまいにして、少し意訳をすれば、

 「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないで近づくために、あなたの親兄弟が苦しむだろうと思う。それでも(心を折らないでいる)貴方にはそれがやるせなく悲しいことですね。」 (3-4-22歌改定試案)

 作中人物のために親どもとのいさかいに苦しむ女を思いやる歌です。上記①の第一は、そのとおりでしたが、第二は誤りでした。

⑦ 文Cが第二候補の現代語訳について、a案を例に試みると、次のとおり。

 「塵や泥のように物の数にも入らない私のために、(親兄弟との間で)大変な思いをしているだろうと思うと、(心を折らないでいる)貴方がやるせなく悲しいです。」

 「いも」が「おやども」に強くでていることが3-4-22歌改定試案のほうによりにじみ出ている感じがします。

 10.類似歌との比較

① 二つの類似歌と3-4-22歌とを比較します。

 『萬葉集』にある類似歌2-1-3749歌の詞書は、2021/6/28付けブログでの検討により、「夫婦の間の贈答歌」という理解を、「宅守と娘子という一組の男女の贈答歌」と言う理解に改めました。歌本文もあわせて同ブログで検討しました。その結果は次のとおり。既に相愛であったかどうかにかかわらず通用する、宅守が詠んだ歌です。

 

2-1-3749歌: 中臣朝臣宅守(なかとみのあそみやかもり)と、狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめご)が贈答した歌

 「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

 

② 『拾遺和歌集』にある類似歌1-3-872歌は、2021/7/5付けブログでの検討により、復縁を迫っている「疎遠」の段階の歌と理解しました。(恋の段階については付記3.参照)

 1-3-871歌の作中人物(女)が続いて行動をした際の歌にふさわしい歌として、『拾遺和歌集』編纂の方針に従ってここに配列された歌です。実方作として当時周知されていると思えるのに「題しらず よみ人しらず」としています。

 塵や泥のように迷惑なものに作中人物がなっている、そのようなことをしてしまっていることに気が付いた、として謝罪をし、復縁をお願いしている歌です。現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

 

 1-3-872歌: 題しらず   よみ人しらず

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」 

 

③ 3-4-22歌: 詞書は上記「8.②」、歌本文は上記「9.⑥」に示しました。

 この3首において、作中人物や「ちりひじ」の意等を比べると、次の表が得られます。3-4-22歌は改定試案です。

表 3-4-22歌とその類似歌との比較  (2021/7/12現在)

比較事項

3-4-22歌改定試案

類似歌2-1-3749歌

類似歌1-3-872歌

詞書の内容と執筆者

作中人物の事情を自ら又は歌集編纂者が記す

相手と贈答を交わした歌であると第三者又は歌集編纂者が記す

題しらずの歌であると歌集編纂者が記す

作中人物の性別など

男:作者でもある

男(宅守):作者でもある

女:作者ではない

作中人物と相手との関係

相愛 (小池氏のいう「逢瀬」の段階)

既に相愛であったかは不明(「逢瀬」の段階か復縁を迫る「疎遠」の段階)

復縁を迫る「疎遠」の段階)

当該歌集で特に関係深い歌

3-4-23歌以下同一の詞書の許にある歌

2-1-3745歌 (同じ題詞の筆頭歌)

1-1-871歌

初句にある「ちりひじ」

作者の官人社会における家柄の低さを示唆

相手に寄り添えない今の自分の境遇をさしている。

知らずに迷惑をかけている自分をさす

「おもひわぶ」者とその対象

作中人物が、相手の「おやども」の苦慮を、

作中人物が、歌を贈った相手を、

作中人物が、歌を贈った相手で示唆する男を、

作中人物の思い

自分が原因者で親どもとのいさかいに苦しむ女を、作中人物が思いやる

遠く離れている作中人物が遣る瀬無い思いをさせている女を思いやる

思い直した作中人物が復縁を願う

 

④ 各歌の詞書は、歌集編纂者がその意思を貫いているとみえる文章です。3-4-22歌は作中人物がこの歌を詠む事情を説明し、既知の類似歌と差異のあることを明らかにしています。

⑤ 各歌は、恋の歌ですが、小池氏の7段階論での段階が異なります。3-4-22歌は、明らかに「逢瀬」の段階、類似歌2-1-3749歌は、「逢瀬」の段階とも「疎遠」の段階ともみえ、同1-3-872歌は、復縁を迫る「疎遠」の段階です。

⑥ 各歌の四句にある「おもひわぶ」の主語は作中人物ですが、3-4-22歌は、相手の「おやども」を気遣い、類似歌2首は、相手を気遣っています。

⑦ この結果、この歌は、自分の行動が原因で親どもとのいさかいに苦しむ女を、作中人物思いやる歌です。

 これに対して、類似歌2首は、作中人物自身が犯した誤りによって相手が苦しんでいるのではないかと思いやっている歌と、自分が原因で遣る瀬無い思いをさせている女を思いやっている歌です。

 3-4-22歌とふたつの類似歌とは、思いやる原因が異なっています。

⑧ 『萬葉集』にある類似歌2-1-3749歌は、『猿丸集』編纂当時既に知られていた歌です。類似歌のある歌群が、2021/6/28付けブログでの検討したように二人が贈答を繰り返した歌から成っているので(宅守が流罪となったとき娘子と「相愛」であったか復縁したかに関わりなく)、一意の現代語訳(試案)となりました(上記①参照)。

 「おやども」は、この3-4-22歌を口づさむ「いも」を見ても、流罪地と都に別れている時の歌であるこの2-1-3749歌と思い、厳しく注意をしたことの効果があったと思ったかもしれません。

 「おやども」が、「いも」の口づさむ歌を1-3-872歌であると理解した場合、関係を断ったかと想像したかもしれません。

⑨ 文Cが第二候補の場合、a案が上記「9.⑦」に記す現代語訳(試案)となります。上記の表の「「おもひわぶ者とその対象」欄が「作中人物が、歌を贈った相手を、」に変わり、類似歌2-1-3749歌と同じになるものの、第三者が介在するかどうかが異なっており、歌意が同じではありません。

⑩ このように、当該歌集における同一の詞書の許の歌計5首との整合性の確認を残していますが、3-4-22歌は、相愛の歌であって、類似歌と意が異なっており、前後の歌と同様恋の歌であるならば、この歌も『猿丸集』での恋の歌(付記1.参照)、と言えます。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回から、3-4-23歌の検討をしたいと思います。

(2021/7/12  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

 

付記2. 類似歌2-1-3749歌の補足

① 山本健吉氏は、宅守流罪の理由を蔵部女嬬である娘子を娶ったこととして、「さっそく叙事詩的な連作を仕組んだものがあったらしい」と指摘する(『完訳 日本の古典別巻2 古典詩歌集二』(小学館 1989)54p)。そして「『源氏物語』の歌が、物語の文脈の中では抜きさしならない適切さを持つが、一首としての独立性が希薄なのと、(この2-1-3749歌は)いくらか似ている」とも指摘する(同55p)

② 歌集において、「詞書がその歌の理解の決め手になっている」ということに通じる指摘である。

 

付記3.小池博明氏の恋の7段階説

① 『拾遺集の構成』(新典社 1966)より

無縁→忍恋(恋愛対象は知らない段階)→求愛(情交に至る前まで)(ここまでは「逢瀬前の段階」)→

逢瀬(が継続している段階)→

疎遠(恋愛主体はそれでも関係継続しているはずと認識している段階)→離別(の認識又は決意した段階)→絶縁、

② 氏は、『拾遺集』恋部に歌群を想定し、「歌群は、みな逢瀬前の段階または逢瀬の段階から始まるが、ひとつも逢瀬の段階で終わっている歌群はない。恋部は、各巻とも、持続しえなかった恋を表現している」、と指摘している。

(付記終わり  2021/7/12  上村 朋)