前回(2018/7/2)、 「猿丸集第21歌 あまをとめ」と題して記しました。
今回、「猿丸集第22歌 おもひわぶらん」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第22歌 3-4-22歌とその類似歌
① 『猿丸集』の22番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-22歌 おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる
ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ
3-4-22歌の類似歌 2-1-3749歌 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)
ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ
(・・・於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)
この歌にかかる左注があります。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、四句の一字と、詞書が、異なります。
③ 類似歌は、もう一首ありますので、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-22歌の類似歌 1-3-872歌 題しらず よみ人しらず
ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ
この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にあります。
三代集と『猿丸集』は、同時代の作品でありそれぞれの編纂担当者は同時代の人です(ブログ2017/11/9参照)ので、3-4-7歌の類似歌と同様にこの歌も類似歌として検討対象となります。しかし、清濁抜きの平仮名表記をすると、歌は3-4-7歌と全く同じであり、2-1-3749歌と四句の一字の違いだけであるので、2-1-3749歌を代表の類似歌として以後検討します。
④ これらの歌は、相手を思いやっているのは共通ですが、その理由がだいぶ違う歌です。
2.類似歌の検討その1 配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。
類似歌2-1-3749歌は、 『萬葉集』巻第十五の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」と題する中の歌です。西本願寺本の目録にはつぎのようにあります。
「中臣朝臣宅守娶二蔵部女嬬狭野弟上娘子一之時勅断二流罪一配二越前国一也於レ是夫婦相二嘆易レ別離一レ会陳二慟情一贈答歌六十三首」
② 六十三首の配列から、この類似歌の特徴をみてみます。
この63首中に左注がいくつかあり、小見出しのようになっています。それは次の順にあります。
右四首娘子臨別作歌 (3745~3748)
右四首中臣朝臣宅守上道歌 (3749~2752) (類似歌がこのグループの最初)
右十四首中臣朝臣宅守 (3753~2766)
右九首娘子 (3767~3775)
右十三首中臣朝臣宅守 (3776~2788)
右八首娘子 (3789~3796)
右二首中臣朝臣宅守 (3797~3798)
右二首娘子 (3799~3800)
右七首中臣朝臣宅守寄花鳥陳思作歌 (3801~3807)
この類似歌は、夫である中臣朝臣宅守(やかもり)が妻の蔵部女嬬(くらべのにょじゅ)狭野弟上娘子(さののおとがみのをとめ)におくった歌であり、二番目の左注の歌群に含まれ、配流先へ向かう途中の思いを歌にしています。狭野弟上娘子は、役職上男官と日々接触する立場であり、土屋氏は、「女嬬(という役職そのもの)が御物に準ずべきもの故、盗んだとみなされ流罪となったのか」と論じています(『萬葉集私ち注』(巻十五追考))。中臣朝臣宅守の配流先は三段階あるうちの一番軽い地です。配流後天平13年9月の大赦で帰京し、天平宝宇8年(764)恵美押勝の乱に連座しています。
③ 二番目の左注の歌群の歌をすべて記すと、つぎのとおり。
2-1-3749歌 類似歌(上記1.参照)
2-1-3750歌 あをによし ならのおほちは ゆきよけど このやまみちは ゆきあしかりけり
2-1-3751歌 うるはしと あがもふいもを おもひつつ ゆくばかもとな ゆきあしかるらむ
2-1-3752歌 かしこみと のらずありしを みこしぢの たむけにたちて いもがなのりつ
④ 一番目の左注の歌群が、娘子が詠う都での別れの歌であり、二番目の左注の歌群は、宅守が都を出発してから配所までの間の思いを詠っている歌です。三番目の左注の歌群は、内容をみると宅守が配所に着いてからの歌となっています。
類似歌は、4首連作した羈旅の歌のひとつとして理解してよい、と思います。(付記1.参照)
3.類似歌の検討その2 現代語訳
① 諸氏の現代語訳の例を示します。
・ 「塵や泥のように、物の数にも入らないこの私故に、辛い思いをしているであろうあなたが いとおしく切なく思われます。」(阿蘇氏)
・ 「塵か泥土の如く、物の数でもない私の為に、思ひわびしがるであらう妹が、可愛いそうなことである。」(土屋氏)
② 阿蘇氏は、「四句「思ひわぶ」とは、「苦しく思う、思い悲しむ」、の意であり、「(五句にある)かなしさ」には、「いとしい思いと、にもかかわらず離れなければならない悲しい思いとが含まれている。」、と指摘しています。
土屋氏は、「わぶ」とは、「遣る瀬ながるとでも言ふのであらう。」と指摘しています。
③ 「ちりひじの」は、「数にもあらぬ」の枕詞と諸氏は指摘していますが、『萬葉集』での用例は、この歌1首だけです。三代集の用例は、1首だけありますが、その歌は、『拾遺和歌集』巻第十四恋四、にあるよみ人しらずの歌1-3-872歌であり、この類似歌の引用といえる歌です(四句の「わぶらむ」が「わぶらん」となっている)。なお三代集以後の勅撰集にも一首あるあるだけです(『風雅和歌集』1-17-1702歌)。
④ 両訳は、枕詞の「ちりひじの」も省略せず現代語訳に含みますが、五句「いもがかなしさ」の訳の差により、現代語訳として今、土屋氏の訳を採り、3-4-22歌との比較をします。
4.3-4-22歌の詞書の検討
① 3-4-22歌を、まず詞書から検討します。
② 「おやども」とは、親を代表として係累の者たち、の意です。少なくとも親とその女の兄弟を含みます。当時、貴族(官人)の子女の結婚は、氏族同士の結びつきと同義の時代です。
③ 「せいしける」の「せいし」とは、3-4-19歌・20歌の詞書と同様に、動詞「制す」の連用形であり、その意は、「(おもに口頭で)制止する」のほか、「決める・決定する」、の意もあります。
④ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」
⑤ この詞書は、この歌以後の数首の歌にかかります。それらの歌の現代語訳(試案)を試みた後に、あらためてこの詞書(試案)の妥当性を確認したいと思います。
5.3-4-22歌の現代語訳を試みると
① 初句の「ちりひぢ」は、類似歌と同じく、「塵泥」であり、些細な価値もあるかどうか分からない物の喩えと、理解できます。ここでは、作者が自分を卑下して言っていますが、一夫多妻の貴族社会にあっては、結婚がその氏族の命運を左右するので親兄弟は慎重になります。
そのような視点からみると、娘から遠ざけようとしている作者が「塵泥」であるのは、政界における有力者の息子ではない、ということです。また、その娘は有力者の息子に相応しい教養があり、親は結婚後支援できるほどの財力がある受領のひとりの可能性がある、と推定できます。
② 四句にある「おもひわぶ」とは、「思ひ侘ぶ」であり、「思い悲しむ。つらいと思う」意です。
誰が主語かというと、禁止をしたのにまだ言い寄る作者がいるのでこまり果てている親、となります。
③ 詞書に留意し、現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「塵や泥のように物の数にも入らない私が、懲りないであなたに近づく故に、あなたの親兄弟は、思い悲しむのであろう。それを承知して(あい続けてくれる)貴方のいとしさよ。」
6.この歌と類似歌とのちがい
① 詞書の内容が違います。この歌3-4-22歌は、詠む事情を作者自ら記しています。 類似歌2-1-3749歌は、夫婦の間の贈答歌であることを『萬葉集』巻第十五の編纂者が指摘しているだけです。
② 初句の「ちりひぢ」の意味が、異なります。この歌は、社会的な属性の違いを示唆し、類似歌は、相手に寄り添えない今の自分の境遇をさしています。
③ 四句にある「おもひわぶ」の主体が違います。この歌では、相手の親兄弟などの親族となり、類似歌では、歌を贈った相手となります。
③ この結果、この歌は、作者のために親どもとのいさかいに苦しむ女を思いやる歌です。これに対して、類似歌は、無力の自分が原因で遣る瀬無い思いをさせている女を思いやっている歌です。
④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。
3-4-23歌 <なし>
おほぶねのいづるとまりのたゆたひにものおもひわびぬ人のこゆゑに
3-4-23歌の万葉集2-1-122歌:弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)
おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに
(・・・物念痩奴 人能児故尓)
この二つの歌も、趣旨が違う歌です。
⑤ ご覧いただきありがとうございます。
次回は、上記の歌を中心に記します。
(2018/7/9 上村 朋)
付記1.2-1-3752歌について
① 土屋氏の現代語訳を引用すると、つぎのとおり。
2-1-3752歌
「謹んで口に出さず居ったのを越の道の神に手向ける坂で、娘の名を口にしてしまった。」(土屋氏)
② 2-1-3752歌が、事実を詠った歌だとすると、狭野弟上娘子の「名」を護送していた者たちに聞かれたことになります。単に役職名を口にしたとは思えない。当時他人に名を知らせることは憚るもののひとつであっても、道中の平安を祈る手向け(峠)で娘子の名を口にしたりあるいは歌にその事実を詠うのには抵抗がない程度の憚りであったか(少なくとも巻第十五の編纂者の時代には)。
③ 「みこしぢとは、越の三国(越中・越前・越後)へ通じる道のこと。「たむけ」(峠)は畿内と畿外の境目に位置する逢坂山では口にするのを我慢して、愛発の坂での手向けが候補となる。
(付記終り 2018/7/9 上村 朋)