わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い

 前回(2021/6/28)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 拾遺集での扱い」と題して、記します。(上村 朋)

1.~5.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。3-4-22歌は類似歌の一つ2-1-3749歌の検討まで行った。

 3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

 

 2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

   ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

  この歌にかかる左注がある。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

   1-3-872歌   題しらず    よみ人しらず

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にある。)

6.『拾遺和歌集』の理解 

① 類似歌1-3-872歌が記載されている『拾遺和歌集』は、『拾遺抄』をもととして増補されたが独自の性質も備えている、と諸氏は指摘しています。入集した歌の部立てが異なっていたり、独自の部立て(雑春等)があったり、また恋部の構成が全く相違しています。

 その『拾遺和歌集』の「構成」を小池博明氏は『拾遺集の構成』(新典社 1996)で論じています。その論をベースに、『拾遺和歌集』「恋四」を、検討することとします(付記2.参照)。

 また、『拾遺和歌集』にある歌の類似歌が『拾遺抄』のほかに『萬葉集』などによくありますので、それらも参照します。

② 類似歌がある恋四について、小池氏は、恋三でいったん断念したはずの相手に対する執着が蘇っているというステップの歌を配列している、と指摘しています。

 そして、恋四は、七つの歌群から構成され、第一から第六歌群は並列の関係にあり、恋の事例を詠い、第七歌群(1-3-924歌のみの歌群)は巻四全体をまとめている、と指摘しています。

 第一歌群 1-3-849歌~1-3-856歌

 第二歌群 1-3-857歌~1-3-886歌 (類似歌のある歌群)

 第三歌群 1-3-887歌~1-3-890歌

 第四歌群 1-3-891歌~1-3-907歌 (以下割愛)

 各歌群は、恋愛主体自身が関係継続しているはずと認識している段階(「疎遠」の段階)に至っていない歌が冒頭にあり、「疎遠」の段階もしくは離別を認識又は決意した段階の歌で終わっている、と指摘しています(恋の段階の考え方は付記2.③ 第六参照)。

③ 小池氏のいう第一歌群を概観して後、第二歌群を検討します。

 第一歌群は、巻頭の1-3-849歌以下の8首からなります。巻頭歌の作中人物は女で朝の景を詠い、次の1-3-950歌は題詞で男が朝おくる歌と記してあり、作中人物は男です。そうすると、この2首は一対の歌と理解できるよう配列されている、といえます。

 その後も、対の歌が続いており、1-3-855歌の、なぜ来ないかと責める作中人物(女)に対する男の返歌が1-3-856歌となり(下記⑤以下参照)、この2首も男女による一対の歌となっています。

 この歌群での恋の段階をみると、最初の一対の歌は、「逢瀬」の段階の一組であり、次いで逢わないか逢えないでいる歌で一対となる3組が続いており、それらはみな「疎遠」の段階の歌と理解できます。

④ 次に、小池氏のいう第二歌群を検討します。その冒頭の歌と認めている歌(1-3-857歌)とその前後の歌は、つぎのとおり(以下、歌は『新編国歌大観』より引用)。

 1-3-856歌  題詞しらず

    浪まより見ゆるこ島の浜ひさ木ひさしく成りぬ君にあはずて 

 1-3-857 題しらず    人まろ

   ますかがみ手にとりもちてあさなあさな見れどもきみにあく時ぞなき

 1-3-858 題しらず    人まろ

   みな人のかさにぬふてふ有ますげありてののちもあはんとぞ思ふ

 この3首の元資料の歌と思われる歌(対応する類似歌と言えます)が、『萬葉集』にあります。『拾遺抄』にはありません。

 1-3-856歌に対応する2-1-2763歌

   なみのまゆ みゆるこしまの はまひさご ひさしくなりぬ きみにあはずして 

 1-3-857歌に対応する2-1-2502歌

  まそかがみ てにとりもちて あさあなあさな みれどもきみは あくこともなし 

(左注によれは「人麻呂歌集出」)

 1-3-858歌に対応する2-1-3078歌

  ひとみなの かさにゆふといふ ありますげ ありてのちにも あはむとぞおもふ

⑤ 1-3-856歌について、その四句~五句により、逢瀬が途絶えがちな「疎遠」の段階の歌、と氏は指摘しています。(氏は、この歌までが第一歌群としており、「疑義は残るが大まかな流れとしては、「逢瀬」の段階に始まり「疎遠」の段階に至る」、と指摘しています。)

 対応する2-1-2763歌の初句~三句は「ひさしく」と言うための序であると、土屋文明氏は指摘しています。1-3-856歌でもおなじく序です。どちらの歌も有意の序として理解しても「ひさしく」逢えていない、と訴えている歌であり、「疎遠」の段階の歌といえます。この歌と対になる歌1-3-855歌に対して、岸から離れた小島に生えた木のように貴方が敷居を高くしている、と返歌している、と理解できる歌です。

⑥ 1-3-857歌を、氏は、三句と四句より「逢瀬」(が継続している)段階の歌と認めています。

 元資料の歌であろう『萬葉集』の2-1-2507歌でも土屋文明氏は、初句~三句までは鏡を比喩とした序詞としており、『拾遺和歌集』集編纂時点でも「見れども」をいいだす序詞と認識されていたのではないか、と思います。

 その場合、詞書が「題しらず」なので、反語として詠っている歌(「疎遠」の段階の歌)という理解も可能です。しかし、伝承されてきた歌であることの証左として「人麻呂歌集出」と明らかにしている編纂者の意図は、素直に理解せよとのことと推測できるので、「逢瀬」の段階の歌ということであろう、と私も思います。

 そして、1-3-855歌の作中人物が1-3-856歌の返歌を得た後に、1-3-857歌を詠むには、僥倖があったかのような飛躍が必要です。1-3-857歌から、別の恋に関する歌が始まっているという理解が、歌集としては素直である、と思います。第一歌群は1-3-856歌までの歌から成る、と思います。

⑦ 次に1-3-858歌は、四句が、思い通り逢えない現状をさし、五句が将来での期待を詠っているので、疎遠を認識した「疎遠」の段階の歌である、と氏は指摘しています。

 この指摘に同意できるのは、歌の配列が決め手です。この歌の初句~三句は序詞です。元資料の歌であろう、『萬葉集』にある2-1-3078歌について、土屋文明氏は「アリを繰り返す序である。(ほかの歌でも用いられているのは)序が面白いので、民謡として流布し異なった形も生じたのであらう」と指摘しています。

 「在りて後」と詠うときの常套句の一つであるという指摘であり、逢ってくれない状況下で五句「あはんとぞ思ふ」と詠っているのであり、現在の恋の段階が「逢瀬」の前の段階である「求愛」の段階の歌である可能性があります。

 『拾遺和歌集』の歌として、氏のいうように疎遠を認識している、とこの歌をみなすのは、1-3-857歌の次に配列されているからこそである、と思います。

⑧ さて、これらの歌の作者の性別を検討したい、と思います。

  1-3-856歌を、再確認します。その初句~三句は、作中人物から遠い存在の相手の比喩と理解できます。離れた小島にあるオミナエシなどの美しい花でも桜でもない樹木に相手をなぞらえているような歌を詠う作中人物は、疎遠になった相手にお世辞も言っていません。このような序を用いる作中人物は男であろう、と思います。1-3-855歌の返歌という位置の配列からも作中人物は男です。

 1-3-857歌は、初句~二句にある鏡を見るという行為を、日々行うのは専ら女性です。そのようなことを序に用いる作中人物は男ではなく女であることが明白です。

 1-3-858歌は初句が2-1-3078歌の「ひとみなの」から「みな人の」と変わっていますが、三句までが「あり」をいう序詞であって、歌意はどちらの歌でも「(色々のことを乗り越えた)後にも会おうと思う」という趣旨がおなじです。作中人物を男と決めつけていない歌です。

 第一歌群と違う作中人物の組合せで第二歌群ははじまっているのではないか。そうであれば、各歌群の主人公、即ち作中人物(達)は、歌群ごとに異なる、あるいは、同一人物の別の恋に関する歌という建前で編纂されているのではないか、と思います。

 

7.類似歌1-3-872歌の検討 

① 第二歌群の中で、類似歌の前後の配列を検討します。類似歌とその前後の歌各5首は、つぎのとおり。

 1-3-867 題しらず    よみ人しらず

   いその神ふるの社のゆふだすきかけてのみやはこひむと思ひし

 1-3-868 題しらず    よみ人しらず

   我やうき人やつらきとちはやぶる神てふ神にとひ見てしかな

 1-3-869  題しらず    よみ人しらず

      住吉のあら人神にちかひてもわするる君が心とぞきく

 1-3-870 題しらず    右近

   わすらるる身をばおもはずちかひてし人のいのちのをしくもあるかな

   (『拾遺抄』 1-3’-351歌では、五句が「をしくも有るかな」)

 1-3-871 女をうらみて、さらにまうでこじとちかひてのちにつかはしける 実方朝臣

   何せむに命をかけてちかひけんいかばやと思ふをりも有りけり

    (『拾遺抄』 1-3’-352歌では、すべて平仮名表記で、「なにせんにいのちをかけてちかひけむいかばやとおもふをりもありけり」

 『実方集』 3-67-89歌では、(詞書 )ある女(ママ)、いかなる事かありけむ、さらにとはじなどちかひてかへりて、ほどふるほどにいかがおぼえけむ、いかまほしかりければ

  「なにせむにのちをかけてちかひけむいかばやとおもふをりもありけり」)

 1-3-872 題しらず    よみ人しらず

   ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 1-3-873 題しらず    人まろ

   こひこひて後もあはむとなぐさむる心しなくはいのちあらめや

   (『萬葉集』 2-1-2916歌では、五句が「いきてあらめやも」)

 1-3-874 題しらず    人まろ

   かくばかりこひしき物としらませばよそに見るべくありけるものを

(『拾遺抄』 1-3’-261歌では、 四句~が「よそにぞ人を見るべかりける」

 『萬葉集』 2-1-2377歌では、「かくばかり こひむものぞと しらませば とほくもみべく ありけるものを」)

 1-3-875 題しらず    よみ人しらず

   涙河のどかにだにもながれなんこひしき人の影や見ゆると

(『貫之集』 3-19-563歌では、 二句が「いづるみなかみ」)

1-3-876 題しらず    つらゆき

   涙河おつるみなかみはやければせきぞかねつるそでのしがらみ

1-3-877 万葉集和し侍りける歌   源したがふ

   なみだ河そこのみくずとなりはててこひしきせぜに流れこそすれ

(『拾遺抄』 1-3’-313 歌では、 二句が「そでのみくずと」)

 

② この11首に関して、『拾遺和歌集』以前に、編纂された歌集や既に故人となっている官人の名を冠した歌集において、元資料と思われる歌(類似歌)を、『新編国歌大観』記載の現存する歌集で確認すると、次のとおり。

   表 拾遺集歌の類似歌推計  (2021/7/5現在)

拾遺集の歌番号等

拾遺抄

萬葉集

他の歌集

備考

1-3-867

 

 

赤人集3-2-208

 

1-3-868

 

 

無し

 

1-3-869

 

 

無し

 

1-3-870

1-3’-351

 

 

 

1-3-871

1-3’-352

 

実方集3-67-89

 

1-3-872

 

2-1-2449

猿丸集3-4-22

 

1-3-873

 

2-1-2916

 

 

1-3-874

1-3’-261

2-1-2377

 

 

1-3-875

 

 

 

 

1-3-876

 

 

貫之集3-19-563

 

1-3-877

1-3’-313

 

無し

順集に無し

 

③ 小池氏の指摘を踏まえると、これらの歌は、次のような理解ができます。

 1-3-867歌の四句と五句は、作中人物(作者)が恋の相手になかなか逢えていない、つまり恋の相手は(作中人物と同性の)誰かをも訪ねていることを示しています。1-3-868歌の初句~二句も同じです。男が複数の女のもとに通うことが官人身分であれば当時は普通のことであるので、女は、逢う頻度の少なくなっているのを咎めているという「疎遠」の段階の歌です。

 1-3-869歌は、相手が、作中人物を愛していることを誓ってくれても信じられない、と詠います。「疎遠」の段階の歌であり、離別を決意した歌ではありません。

 1-8-870歌は、初句~二句から、相手に見放されたことを作中人物が自覚しているとみることができ、「離別」の段階の歌と指摘しています。三句以下は、命を掛けて誓うと言った貴方の命がどうなるか心配です、と不誠実な相手を突き放しています。

 配列の前後の歌に関係なく単独の歌として理解すると、「たった一つの命を失わない方法もあるのに」と謎をかけている歌とも理解でき、「疎遠」の段階の歌とも理解できます。類似歌ではどちらの意であったか不明ですが、このように前後の歌の間の歌であれば、氏の理解が妥当である、と思います。

④ 1-3-871歌の作中人物は詞書で示すように相手に通告をしておいて思い返した歌であるとして、復縁を願っているので、「疎遠」の段階の歌である、と氏は指摘します。

 詞書で設定している場面は、男にも女にも生じ得ることであり、この歌本文はどちらからも相手におくることができる内容です。

 『拾遺和歌集』編纂者は、女にも同じ気持ちが生じるとして、作者実方を代作者に仕立てているとみることが出来ます。そうすると、ここまでの5首の作中人物の想定は、女性となります。なお、この歌は次の歌とともに後程再検討します。

⑤ 次に、1-3-872歌について、小池氏は、次のように指摘しています。

 「男のためにつらい思いをする妻を、夫が愛しく思っており、男女が夫婦関係にあることが知られる。復縁の意向を詠んだ1-3-871歌の後に位置して、夫の妻への愛情表白(「逢瀬」の段階)を詠む。」 だからこの配列から「復縁が成就したことを読み取りえよう。」

 そして氏は、(作者でもある)作中人物は男とみなしています。 

⑥ この歌とこの歌の類似歌2-1-3749歌の歌本文同士は、平仮名表記では、前者の四句に「わぶらむ」とあるのが後者では「わぶらん」と一字異なるだけですが、詞書(題詞)が異なります。前者の作者名を「よみ人しらず」と編纂者は記しており、後者は、中臣朝臣宅守という男です。『拾遺和歌集』編纂時点で後者は既によく知られていた歌ですので、前者の作者名をわざわざ「よみ人しらず」としているのは、女が作中人物であることの示唆ではないか。

 『萬葉集』で女の作者(作中人物)が「われ」と詠う歌は、額田王、鏡王女、人麻呂妻、坂上郎女などにあります。三句「我ゆゑに」の「我」は女とも理解できます。(なお、「われゆゑ」と平仮名表記できる歌は2-1-3749歌のみです。)

 この歌は、類似歌であるので、前後の歌の検討後に、改めて検討を加えることとします。

⑦ 1-3-873歌は、氏の指摘するように、将来の逢瀬に望みを託しています。前後の歌の配列から、初句「こひこひて」は、逢瀬の段階のあった作中人物を想定させ、現在は「疎遠」の段階にある、と言えます。

 1-3-874歌は、四句と五句より、相手と関係があって後の恋しさであり、しかも現状に満足していないとして「疎遠」の段階の歌と、氏は指摘しており、同意できます。

 1-3-875歌から1-3-877歌は、初句が「涙河」です。逢瀬が途絶えた故に流れる涙を川に見立てており、「疎遠」の段階と氏は指摘しており、同意できます。ここまでの歌も、作中人物は女とみなせます。

 なお、1-3-877歌の詞書の意は、「萬葉集記載の歌を取り上げて、その内容を自分の立場から詠む」の意とする説などがあります。しかし、この歌がどの歌を取り上げているのか不明です。 

⑧ そして、第二歌群の最後の歌は、1-3-886歌であり、「関係断絶の段階の歌に至る」と、氏は指摘し、第二歌群は、「逢瀬の段階に始まり、いったん離別の段階に至って復縁するが結局関係断絶に至る」恋の歌群と指摘しています。

 なお、1-3-878歌以降も確認すると、1-3-878歌を、作者藤原惟成が女の代作をしている(『拾遺和歌集』編纂者がそのように位置付けている)、とみなせば以降の作中人物を、すべて女とみなすことが可能です。代作でない、とみれば、「涙河」を連続3首並べて歌群を閉じ、新たな歌群を男の歌で始めたか、と見ることができます。

⑨ 歌群設定の検討は後日に譲っても、現在の検討対象の1-3-872歌とその前後の歌計11首の整合が取れていれば、3-4-22歌の類似歌の検討はとりあえず終えてもよいのではないか、と思います。

 小池氏の恋の7段階説で確認すると、小池氏の判定と異なり、下表のように、全て「疎遠」の段階の歌が配列されている可能性が高い。

「疎遠」の段階は、作中人物の気持ちが、行きつ戻りつしているところであり、1-3-871歌は、復縁を望んでいる(今は逢うことが拒否されている)のだから、氏の言う「疎遠」の段階に作中人物が居る。と言えます。1-3-872歌の作中人物がこの歌を詠った時点が、逢う前であることを、歌より推測できます。しかし、題知らずという詞書のもとの歌本文のみから理解しようとすると、逢うことを作中人物が了解した歌(返歌であり「逢瀬」の段階ともいえる)なのか、単に逢いたいと願い出た歌(「疎遠」の段階)なのかは判別しかねます。恋の段階は保留します。

表 「7.⑨」までの検討における1-3-871歌前後の歌の、恋の段階一覧  

対象歌番号等

恋の段階(小池博明氏判定)

恋の段階(上村の判定)

1-3-867~1-3-869

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

1-3-870

「離別」の段階

「疎遠」あるいは「離別」の段階

1-3-871

「疎遠」の段階 (復縁を迫る)

「疎遠」の段階 (復縁を迫る)

1-3-872

「逢瀬」の段階 (復縁成る)

保留 (下記⑫参照)

1-3-873~1-3-877

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

「疎遠」の段階 (訪れが疎)

参考:1-3-886

「離別」の段階

未検討

備 考

各歌の作中人物は男女あり

各歌の作中人物は女のみ

注)恋の段階:小池氏の設定した7区分の段階(付記2.③の第六参照)


⑩ 小池氏がいう第二歌群にある歌の作中人物がすべて女と推測できました。第一歌群とはっきり異なる作者(達)になりました。これを前提に、1-3-871歌と1-3-872歌を改めて検討します。

 1-3-871歌は、上記⑤で指摘したように、男ならこのように詠む場面、という例示とみることができます。

 類似歌の詞書を比較します。『拾遺抄』1-3’-352歌では「・・・までこじとちかごとをたてて・・・」と記されています(上記① 1-3-871歌部分参照)。「誓言を立つ」とは「神仏に対して、願い事などを、条件を添えて、はっきりと言う」意の理解も可能であり、この歌での「・・・まうでこじとちかひて・・・」での、「誓ふ」は、「心に誓う」意の理解も可能なように、外見的にはその思いを見せないかのようなニュアンスの違いが感じられます。比較すると、「まうでこじ」(参るまい・行くのは止そう)という気持ちがこの歌では和らいでいる印象があります。

 類似歌の『実方集』3-67-89歌の詞書は、さらに文字を費やして「まうでこじ」の意気込みが強い表現となっています。『拾遺和歌集』の編纂者が詞書の文言を吟味しているのがよくわかるところです。

 このため、「おとこをうらみて、ちかった」後に考え直して詠んだ歌を代作したとみたてているとみて、現代語訳を試みれば、次のとおり。四句「いかばや」を、「生かばや」と理解します。

 「どうして、命を懸けてこれからは断ろう、と神に誓ってしまったのか。誓いを破ったら死ぬというが、それでも命が助かって・・・、と思ったときもありました。」

⑪ 次の歌1-3-872歌の詞書は「題しらず」です。しかしながら、歌の配列には配慮すべきであり、1-3-871歌の詞書と歌本文との整合を考慮してよい、と思います。

 即ち、上記③~⑤の検討を踏まえて、作中人物は同じよう立場にいる女を前提として検討することとします。1-3-872歌で作中人物は思い直しています。相手は対等に物を言ってよい人ではなく、作中人物にとってかけがえのない大切な人であることに気付いた時の歌が1-3-871歌と1-3-872歌ではないか。

 初句にある「ちりひじ」とは、作中人物自身を譬えています。相手の人からみて大切な存在ではないものの、塵や泥のように迷惑なものに作中人物がなっている、そのようなことをしてしまっていることに気が付いた、として謝罪をし、復縁をお願いしている歌、とこの歌は理解できます。

 1-3-872歌の現代語訳を試みれば、次のとおり。

「塵や泥などのようにとるに足りない私のために、(逢わないと心に決めたばかりに)つらいと思った日々があったであろう貴方がいとしい(と思っています)。」 

 次の歌1-3-873歌の作中人物は、「将来にはきっと逢えるだろうと自ら慰める気持ちがなければ生き続けていけようか」と詠い、反省しつつまだ逢えない状況下にいます。作中人物の女は、1-3-872歌による復縁には失敗した、ということになります。

⑫ このように、この前後の作中人物は、氏の指摘するような復縁がいったん成った、というよりも復縁を迫った時点の歌であり、復縁への明確なアプローチの歌と理解してよい、と思います。その次の歌をみると、それは失敗しており、この歌は「疎遠」の段階の歌ではないか。

 1-3-872歌と類似歌2-1-3749歌の作中人物の共通点は、

 過去愛し合っていたと思っていること、

 現在逢える手段がないこと、

 それでも今は逢いたいこと、

があります。

 違っている点は、性別、物理的な距離感の違い、であろうと思います。

恋の段階は、類似歌2-1-3749歌が未判定なのでなんともいえません。

⑬ 類似歌2-1-3749歌の現代語訳(試案)をブログ2021/6/28より引用しておきます。

 作中人物でもある作者中臣朝臣宅守とその相手の狭野弟上娘子が相愛か否かは不明のままでもこの1首の歌意に影響はない、と思った歌でした。

 「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」)

⑭ この二つの歌をみると、少なくとも歌集編纂者によって、前後の歌と当該詞書が異なってしまうと、作中人物の立場を変えることができる、という一つの見本と思えます。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、3-4-22歌を検討したい、と思います。

(2021/7/5 上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の4要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.恋四の理解について(『拾遺集の構成』(小池博明 新典社 1996)による) (2021/7/5 現在)

① 小池博明氏は、歌集の「構成」を重視した歌の理解をしている。私も同様な立場で『猿丸集』を検討している。

② 小池博明氏は、次のように定義した後に、論じている。

構成:一首と一首との相互関係、歌群と歌群との相互関係、部立てと部立てとの相互関係、そうしたことから導かれる歌集全体の組み立てられ方をいう。換言すれば、部分と部分とがどのように関係してあって、歌集全体を組み立て、秩序だてているかという力学が、「構成」である。

配列:この語は並びという語に置き換えられることからもわかるように、隣接する歌と歌との関係しか視野に入れることができない。それでは、部立てひいては歌集全体の成り立ちを考察しえない。「配列」という語は、隣接するもの相互の関係に限って用いている。

(私の用いている「配列」という語句の意は、氏の定義される「配列」以外に、氏の「構成」の意も意味している場合がある。つまり氏の定義で使用していない。「編纂者の意図」なる語句を「構成」の替わりに用いている場合がある。)

③ 氏は、次の点を指摘している。

 第一 古今集拾遺集も、恋部は、段階的推移(三分法ならば不会恋・会恋・会不会恋)を構成の基準としている。

 第二 歌々を関連付けて解すれば、それぞれの歌がどの段階に位置するか、ほぼ理解し得る。既に顕昭の注釈に見られ、契沖、眞淵、景樹に継承されている。

(歌集とは、その編纂者の著作物である。部立がない『猿丸集』の歌の理解は、その詞書と、その歌の類似歌と、配列(に代表される歌集全体の構造)に矛盾がないのが正解である、という仮説に従っている(2020/1/13付けブログ)。記載した歌の元資料各々は編纂者にとり素材である。)

 第三 人が経験する恋は、最終的に成就も破綻もある。人からみれば恋の遍歴全体が一つの恋とみえることもある。恋とは、それも含んだ表現である。

 第四 塚原鉄雄氏が分類した散文の文章形式が、歌集の構成に適用できる。

文章には、文章の要点となる事柄を記した段落と、要点の説明となる事柄を記した段落とに分類可能な文章(統合型文章)と、そうでない文章(列挙型文章)がある。

後者は、列挙の方法の基準で並列型と追歩型がある。歌集の四季部や恋部のように時間的移行あるいは段階的推移に従った構成は、追歩型である。

 第五 拾遺集の恋部の各巻の巻頭歌と巻軸歌(最後の歌)は、(構成を考えるにあたり)大きな指針となる。恋部全体は、恋一の巻頭歌(忍ぶ恋の露顕)と恋五の巻軸歌(恋愛遍歴の完了)により、恋の推移から見て首尾呼応する。

 第六 恋の成就を基準とした三分法をベースに恋の段階を七段階設定すると、恋一~恋五の構成がわかる。すなわち、

無縁→忍恋(恋愛対象は知らない段階)→求愛(情交に至る前まで)(ここまでは「逢瀬前の段階」)→

逢瀬(が継続している段階)→

疎遠(恋愛主体はそれでも関係継続しているはずと認識している段階)→離別(の認識又は決意した段階)→絶縁、

である。

 第七 恋部は五巻よりなる。巻を単位として漢詩・絶句の「起承転結」がある。

恋一と恋二は、逢瀬に至らなかった恋と結局破綻した恋の発端を並列している「起」、

恋三は、執着・恋情を断念する「承」、

巻四は、恋情が蘇った「転」、

巻五は、結局逢瀬が実現せず恋の遍歴が完了する「結」、

である。

 恋部(一~五)は、「逢瀬」の段階で終わる歌群が無い。各巻とも、持続しえなかった恋を表現している。

 第八 恋四の巻頭歌(1-3-849歌)は、恋三の最後の歌が逢瀬を断念する歌で終わっているので、恋情の復活と理解できる。巻軸歌(1-3-924歌)は、越えてはならない斎垣を越えようと詠っている。この2首から巻四は、恋を一度断念した相手への執着が再び生じた歌と想定できる。

 第九 恋四は、7つの歌群からなる。最初から6つ目までは並列された歌群である。

(付記終わり  2021/7/5  上村 朋)