わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか

 前回(2021/6/21)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第21歌 かぜをいたみ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第22歌 類似歌はいつ贈ったか」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。これまで、3-4-21歌まではすべて恋の歌であることを確認した。

 なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

 

2.再考 第五の歌群 第22歌の課題

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-22歌を再考します。

『新編国歌大観』から引用します。類似歌が2首あります。

3-4-22歌  おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

  ちりひぢのかずにもあらぬわれゆゑにおもひわぶらんいもがかなしさ

 

3-4-22歌の類似歌 2-1-3749歌  中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~3807)

  ちりひぢの かずにもあらぬ われゆゑに おもひふわぶらむ いもがかなしさ 

  (知里比治能 可受爾母安良奴 我礼由恵爾 於毛比和夫良牟 伊母我可奈思佐)

 この歌にかかる左注があります。「右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752)」

3-4-22歌の類似歌 1-3-872歌  題しらず    よみ人しらず

  ちりひぢのかずにもあらぬ我ゆゑに思ひわぶらんいもがかなしさ

 この歌は、『拾遺和歌集』巻第十四 恋四 にあります。

 

② 三代集と『猿丸集』は、同時代の作品でありそれぞれの編纂者は同時代の人です(ブログ2017/11/9参照)ので、3-4-7歌の場合同様に『拾遺和歌集』の歌も、類似歌として検討対象となります。清濁抜きの平仮名表記をすると、2-1-3749歌と1-3-872歌は四句の一字の違い(「む」と「ん」)だけであるので、以前検討(2018/7/9付けブログ)したときは2-1-3749歌を代表の類似歌として検討しました。しかし、『萬葉集』と『拾遺和歌集』それぞれの編纂方針が異なっているはずなので、各歌集の配列により歌意が異なることも有り得ます。そのため今回はそれぞれ検討することとします。

③ このほか、同音意義の語句の有無なども検討し、3-4-22歌の歌意を再確認します。

 類似歌2-1-3749歌から確認します。

3.再考 類似歌2-1-3749歌 配列から 

① 2-1-3749歌は、 『萬葉集』巻第十五の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」と題する歌群にある歌です(「なかとみのあそみやかもり と さののおとがみのをとめご の ぞふとふするうた」と読みます)。

 再検討すると、この歌群の題詞や配列にはいつくかの疑問が生じました。その疑問が2-1-3749歌の理解に影響があるかどうか、の確認を、最初にしました。

② その結果は、次のとおり(付記1.参照)。

 第一 宅守と、その贈答の相手である狭野弟上娘子が既に相愛の仲であり、「夫婦」であることを念頭に贈答したかどうかは確認を要する。諸氏は、流罪前もその後も相愛であるとみている。

 流罪者は、妻妾を連れて行かねばならないという養老律令の規定は実行されているはずだから、流罪の時点では西本願寺本の目録が「夫婦」と記す根拠は娘子が宅守の妻妾であることではなく、事実上の「夫婦」であったことであり、流罪の前後とも「相愛」であったことを目録は強調しているか。後年二人が「夫婦」となったと認められる資料は現存しない。

 第二 各歌の贈答の時期と各左注の関係について、統一的な理解に苦しむ。例えば、宅守が娘子に贈った形見に関わる歌の配列と宅守に贈られた形見に関わる歌との関係は無関係の時点のようにとれる。

 第三 類似歌は、「4首連作した羈旅の歌のひとつとして理解してよい」とした、以前(2018/7/9付けブログ)の理解は、不正確であった。

 第四 類似歌の検討のためには、第一と第二の小歌群(付記1.⑤参照)は一対の小歌群であると仮定してよい。

 第五 二人が贈答しあった歌であるのならば、対応する娘子の歌をさがしその歌は参照する必要がある。そのうえで左注を考慮して歌を理解すべきである。だから、左注のみを根拠としてこの4首の作詠時点あるいは贈答した時点が連続している(あるいは全て共通の時点)とは即断できない。

 第六 どちらが詠んだ歌かという現行の左注のようなくくりをしたのは、『萬葉集』巻十五の編纂者か元資料作成者か、判然としない。

③ 歌群全体の作詠順、二人の関係その他の検討は、宿題とし、上記②の第四に従い、類似歌2-1-3749歌に対応するはずの娘子の歌の確認と作詠時点・贈答時点の推測を試みます(その結果、2-1-3749歌の歌意は、以前の検討(2018/7/9付けブログ)時とほぼ同じとなりました。)

4.第一の小歌群の検討

① 2-1-3749歌に対応するはずの娘子の歌は、「右四首右四首 娘子臨別作歌」と左注がある第一の小歌群の歌4首(3745~3748歌)の何れか(単数か複数の歌)です。4首を『新編国歌大観』より引用します。

  2-1-3745歌 あしひきの やまぢこえむも するきみを こころにもちて やすけくもなし

  2-1-3746歌 きみがゆく みちのながてを くりたたね やきほろぼさむ あめのひもがも

  2-1-3747歌 わがせこし けだしまからば しろたへの そでをふらさね みつつしのはむ

  2-1-3748歌 このころは こひつつもあらむ たまくしげ あけてをちより すべなかるべし

② 諸氏の現代語訳の1例を示します(『萬葉集私注 八』(土屋文明))。

  2-1-3745歌 アシヒキノ(枕詞)山路を越えようとする君を、心の中に強く思って居て、安らけくもない。

  2-1-3746歌 君の行く、道の長い道を、手ぐり畳んで、焼きほろぼし、なくしてしまふ、天の火も欲しいものである。

  2-1-3747歌 我が背子は、若し京を去るならば、シロタヘノ(枕詞)袖を振りたまへよ。それを見て思ひしのびませう。

  2-1-3748歌 此の頃、即ち今の間は、恋ひこがれてもどうにか生きて居りましょう。タマクシゲ(枕詞)夜明けて其の後からは、せむすべも無いでありませう。

③ 氏は、次のように指摘します。

 2-1-3745歌の五句について「心の中に保持して、深く思っての意であらう。特殊な表現である」。

 2-1-3746歌の五句の「あめのひ」について、「不思議の火、天からの火であらうが、或いは「天火」といふ漢語から思ひついたのであらうか。天火は、人力によらない火災である。原因不明の火災を呼んだものと見える。」、「二句~三句も何か由来する所のある表現らしくも見える。」、「ともかく表現が誇張的で、現在ならば姿體が見えすぎると評さるべき作品」。

 2-1-3747歌について、「袖を振るのは別(れ)に際して、実際行はれたことであらう」、「しかし、この歌なども誇張の少なくない表現であらう」。

 2-1-3748歌の「をち」とは「彼方、時については以後である。」、「四句も巧に見えながら、わざとらしく響く。(左注に)「臨別」とあるが、実質は別れる前後位と見てよいだらう」。

④ 宅守の流罪の刑が予想できる状況となれば、2-1-3745歌~2-1-3747歌の3首は詠むことができるでしょう。宅守に贈るとなれば、3首とも流罪の刑確定直後が最早の時点ではないか。そして、宅守の、流罪地到着の報に接する頃が最遅の時点ではないか。いずれにしても、流罪確定後の宅守に贈る最初の機会が一番ふさわしいと思います。

 この3首は宅守への思いがあふれる歌である、と思います。ただ、3首目の2-1-3747歌で、流罪地に向かう者に対して「しろたへのそでをふらさね」と願うのは場違いではないか。土屋氏の指摘はもっともです。

⑤ これに対して最後の2-1-3748歌は、初句「このころは」の理解に悩みます。前の3首と同じく宅守が都を離れる頃合いを「このころ」と表現することも、それまで娘子は宅守には逢えていなかったでしょうから可能ですが、左注にいう「臨別作歌」であれば、最後の4首目に流罪地到着後の宅守に対する思いの歌を加えてもよい、と思います。そして、2-1-3745歌で自分の気持ちを「やすらけくもなし」と詠っていますので、その気持ちをくりかえして詠うよりも、宅守の気持ちを問う歌と理解してよいのでは、と思います。

 この歌を贈る時期は、宅守が都を離れる頃合いを「このころ」と表現しているとみれば、最初の3首と同じく流罪確定直後が最早の時点であり、流罪地到着の報に接する頃が最遅の時点ではないか。宅守の流罪地到着以降の時点前後を「このころ」と表現しているならば、宅守の流罪地到着時が最早の時点ではないか。つまり、ほかの3首の後に贈った可能性がある歌となります。

⑥ この4首の左注と題詞は、「流罪地に向かう(あるいは到着している)者」に贈った歌という限定を付けていません。「流罪となった後の宅守」が相手であると限定するのは、西本願寺の目録を重視しかつ『続日本紀』で宅守の流罪を承知しているからです。

 この時点での二人を「夫婦」と呼ぶのをためらう私は、左注と題詞の語句を忠実に理解して検討を今は続けよう、と思います。(もちろん『萬葉集』が題詞に流罪をにおわす表現をわざわざ避けている可能性もあります。)

⑦ さて、歌意をみると、最初の3首は、相愛の相手に地方への出張時や赴任時でも贈ることが可能です。例えば1首目の「やまぢこえむ」に対して都近くに「ならやま」や「たつたのやま」があります。2首目の(天皇の意思が及ばない)「あめのひ」を持ち出す発想にアイデアがあり、また3首目の「そでをふらさね」と言う表現の疑問はなくなります。

 3首が赴任時の歌であれば、4首目も同じであり、「このころ」とは、赴任地到着頃のことを指し、作中人物の気持ちを詠うか、相愛である相手も作中人物と同じように「恋ひつつあらむ」と推測した歌と言う理解ができます。

⑧ また、この4首を含め、この題詞のもとにある歌(63首)は、都を離れる理由に触れることなく詠っており、長期間の別居を余儀なくされた都に残る立場の人物(を作中人物としたところ)の歌、というのが、左注と題詞から指摘できることです。地方赴任では、公務で都に来て報告すべきこともあり、都で逢う機会が待ち遠しいところがあります。

 宅守の詠う2-1-3762歌のように「あはずしにせめ」とか2-1-3766歌の「みじかきいのち」、これに応えるかに娘子の詠う2-1-3767歌の「いのちあらば」とか2-1-3770歌の「ひとくには」のような、誇張的な表現は、恋の歌ですので当時においては非常識ではないと思います。(当然、宅守が流罪となった際の歌というのは周知の事実であるという前提を置いて題詞は記されているとも理解できますので、すべての歌の検討が必要です。)

⑨ また、この4首は、自主的にも受動的にも贈ることが出来る歌です。どちらの場合でも宅守に贈ったのですから娘子は宅守を思っているはずであり、二人が相愛である、と理解しておかしくありません。

 しかし、第二の小歌群の理解によっては、娘子独りが思っているだけかもしれません。流罪の宅守に2-1-3747歌を贈る感性や2-1-3748歌の「すべなかるべし」という決めつけた詠い方にどのような感慨を宅守は持ったのでしょうか。

5.再考 類似歌2-1-3749歌 作詠時点・贈答時点

① 「右四首 中臣朝臣宅守上道作歌」と左注がある4首は、次のとおり。

  2-1-3749歌 類似歌(上記1.参照)

  2-1-3750歌 あをによし ならのおほぢは ゆきよけど このやまみちは ゆきあしかりけり

  2-1-3751歌 うるはしと あがもふいもを おもひつつ ゆくばかもとな ゆきあしかるらむ

  2-1-3752歌 かしこみと のらずありしを みこしぢの たむけにたちて いもがなのりつ

 

② この宅守作の4首の作詠時点と贈歌した時点を検討してみます。

 類似歌2-1-3749歌を除く3首に、都より流罪地に向かう途次の感興ではないかと推測できる語句が、歌にあります。「このやまみちはゆきあしかりけり」とか「ゆけばかもとな」とか「みこしぢのたむけにたちて」という語句です。

 贈答するならば、流罪地到着直後が最早でしょう。各歌ごとの贈答であれば当該地点通過直後が可能です。

 この3首と2-1-3749歌は、歌の内容がだいぶ違います。この3首のどれかを2-1-3749歌と一緒に贈る必然性(3首の何れかと2-1-3749歌を対の歌として理解しなければならない必然の理由)はない、と思えます。

 2-1-3749歌は単独の歌でもよい歌である、と思います。

③ 2-1-3749歌は、「私のために辛い思いをしているであろう」(これは、つまり、宅守の推測です)と娘子を思いやっている歌、と理解できます

 この歌を贈答しようとする機会は、娘子と知りあって後、相愛となっていれば常識的には宅守自身が罪を問われたり流罪を自ら予想するようになった時点以降に生じるでしょう。そして再会を果たすまでの間に可能性があります。

 中でも、二人が相愛であれば自主的に詠い贈ることになり、(長い別居となる)流罪が予想できるようになった頃が最早の時点であり、以後まだ都に居る流罪確定時点、都を立ち流罪の実感が増す「上道」の時点、流罪地に到達し生活を始めた時点などが有料な候補ではないか、と思います。

 受動的に贈るのであれば、流罪が予想できるようになった以後であって、宅守への思いを娘子が訴えてきた最初の贈答歌(あるいは文)を受けとった時点が最早の時点であり、以後娘子の歌を受け取る度に、この思いが生じたことでしょう。

 このような流罪との関係からの一般的な推測に対して、2-1-3749歌は、(流罪地に向かうという)「上道」で作る歌と左注にあります。左注に従えば、都を離れる(都から追放される)ことを肌身に感じた時点が作詠時点であり、この歌を贈った時点は不明となります。

 自主的に贈るのであれば、都を出立前に作りかつ贈れたはずです。二人は、逢うこと以外にも第三者を通じての情報交換も禁止されていたのでしょうか。娘子の気持ちの揺らぎの有無を知る手立てが宅守には全然無かった、とは思えません。

 既に相愛であれば、文通が都を実際に離れる時点まで法令上禁止されていたとしても、人づてにでも贈る努力を宅守はしなかったのでしょうか。

④ 左注の配列(小歌群)が時系列であるならば、この歌は、娘子の歌に接して後の返歌となりますので、受動的に贈ったことになり、宅守は、娘子との愛を一旦諦めていた(あるいは断念した)ところに娘子の歌が届いたことがきっかけである、と思います。第一の小歌群に属する歌が作られて直後に贈られてきたのならば、宅守はまだ都に居た可能性もあります。

 娘子の恋の復活を何らかの方法で確認し、それを受け入れる決心をした時に歌を贈るでしょう。場合によっては都に居る自分の親などにも相談してからのことになるでしょう (暫くは逢うことのない状況であることが周知のことであっても流罪前の二人の関係が復活したとみなせる行動は、自分にもまた親にも影響があるかもしれませんので)。

 だから、都にいて受け取ったとしても時間をかけ、歌を贈るのは流罪地に到着後のことではないか。

⑤ この場合、歌を改めて贈ることにした娘子の行動の意図はいまのところ不明です。止むを得ない理由で中断をしていたならば、慎重に再開するはずです。

 なお、この歌を既に贈答していたとしても、刑が決った後、改めて相愛の娘子に自分の思いを伝える(贈答する)ならば、宅守の歌に、例えば次のような歌もあります。

  2-1-3763歌  いのちをし またくしあらば ありきぬの ありてのちにも あはざらめやも

  2-1-3785歌  たびといへば ことにぞやすき すべもなく くるしきたびも ことにまさめやも

  2-1-3786歌  やまかはを なかにへなりて とほくとも こころをちかく おもほせわぎも

⑥ 次に、歌意を検討します。ここまでは、諸氏の理解する歌意によりました。例を示します。

  • 「塵や泥のように、物の数にも入らないこの私故に、辛い思いをしているであろうあなたが いとおしく切なく思われます。」(阿蘇氏)
  • 「塵か泥土の如く、物の数でもない私の為に、思ひわびしがるであらう妹が、可愛いそうなことである。」(土屋氏)

 阿蘇氏は、五句にある「かなしさ」には、「いとしい思いと、にもかかわらず離れなければならない悲しい思いとが含まれている」と理解しています。

 土屋氏は、五句に対して特段のコメントをしていません。

⑦ この歌と対となる歌から、この歌を検討します。

 対の歌は、1首であるならば、この歌群の筆頭歌である、2-1-3745歌ではないか。「やすらけくもなし」(都で貴方を待ちますが心が穏やかなことはありません)、と訴えられて、今は寄り添ってあげることもできない自分を顧みての歌が、2-1-3749歌ではないか、と思います。

 留意すべき同音異義の語句はありません。

 五句にある「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない情感を表す。「愛し」であれば「身もしみて、いとしい。じいんとするくらいにいじらしい。」意。「悲し・哀し」であれば「身にしみて、あわれだ。ひどく切ない。やるせなく悲しい」意」(『例解古語辞典』)です。

 現代語訳を試みると、次のとおり。

「塵か泥土と同じで、物の数にも入らない私の為に、(人の目の多い都に居て)辛い日々を過ごしているだろう貴方をおもっても、何もできません。胸にせまりひどく切ない気持ちです。」

⑧ このように、上記「3.② 第四」の前提で、歌の理解ができました。

 また、第一の、「相愛」であったかどうかは、小歌群の第一と第二は、贈答をくりかえした歌と見ることが可能であって相愛が不明のままでもこの1首の歌意に影響はない、と思います。

第五の、対応する娘子の歌は、あった、と判断できました。

検討の結果、現代語訳(試案)を得ました。

⑨ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、もう一つの類似歌1-3-872歌を検討します。 記載している『拾遺和歌集』は、よみ人しらずとして編纂しています。

(2021/6/28   上村 朋)

付記1.萬葉集巻十五の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」(なかとみのあそみやかもり と さののおとがみのをとめご の ぞふとふするうた)(全63首)の検討 (2021/6/28 現在)

① 『萬葉集西本願寺本の巻十五の目録には、つぎのようにある。

「中臣朝臣宅守娶蔵部女嬬狭野弟上娘子之時勅断流罪越前国也於是夫婦相嘆易別離一レ会陳慟情贈答歌六十三首」

 これに対して、題詞は、「宅守と娘子が贈答しあった歌」の意であり、二人が何時贈答しあったのかには触れていない。二人の関係も、贈答しあっているのだから、「相愛」であろう、という一般的な推測以上のものではない。

 「相愛」であるのは歌本文にあたってわかってくることである。

② 流罪になると、養老律令の凡流応配条に「凡そ流犯して配すべくは、三流俱に役一年。妻妾は従へよ。父母・子孫、随はむと欲(ねが)はば聴せ・・・」とあり、「家人は従ふる例にあらず」ともある。

 妻妾は義務として同伴せねばならず、家人は随行命令を拒否できた、ということであり、この規定から判断すると、流罪となった時点で娘子は宅守の妻妾に該当しなかったのが事実ではないか。

 また、二人が詠っている歌を信じれば、歌の贈答時に住んで居たところは、「みこしぢの」先にある国と都であり、別れたままである。流罪の時点で宅守の妻妾ではない、となり、歌の内容から凡流応配条は宅守にも適用されている状況である。

③ だから、二人は相愛の仲であり京に戻った宅守が娘子を妻妾の一人にしたという(しかし現在知られていない)資料を目録作成者が見ていない限り、この『萬葉集』の全63首より本願寺本の目録は、「娶」と記し、二人を「夫婦」と称していると思われる。これは諸氏も指摘している。

 当時の法令でいう妻妾ではない形でも「夫婦」と呼べる形態があったのであろう。(下記⑰参照)

 歌をみると、相愛と思える歌を贈りあっているものの、いくつかある形見を詠う歌に注目すると二人の仲を疑いたくなるような配列にもとれる(下記⑩以下参照)。

 左注だけから二人は相愛である、と即断できない。

④ 二人が贈答しあった歌63首は、『後撰和歌集』の恋の部の配列のような一問一答式のスタイルで配列されていない。『萬葉集』あるいは元資料の編纂者が、現行のような「左注」を用いたスタイルにしている。

 一般に、一度に十数首の歌を贈るということは、相愛の仲であってもしないと思う。相愛の仲であれば多くの回数の便りをしたいものではないか。そして遠方に居る者に贈る歌は、歌だけを贈るのではなく、文とか送る物に付けた歌というスタイルが多いのではないか。そして、贈った歌に関係ある相手の歌が少なくも一首はあるはずである。

 このような一般論にたてば、この歌群の左注の仕方は、歌を整理して記録した後の姿、と推測できる。

⑤ 具体の左注は、誰の歌であるかを主として記している。それによって次の順に配列されている。

第一 「右四首 娘子臨別作歌」 :(3745~3748歌  第一の小歌群と称する。以下同じ)

第二 「右四首 中臣朝臣宅守上道作歌 」: (3749~2752歌)

第三 「右十四首 中臣朝臣宅守」 :(3753~2766歌)

第四 「右九首 娘子」(3767~3775歌)

第五 「右十三首 中臣朝臣宅守」:(3776~3788歌)

第六 「右八首 娘子」:(3789~3796歌)    

第七 「右二首 中臣朝臣宅守」: (3797~3798歌)

第八 「右二首 娘子」: (3799~3800歌)

第九 「右七首 中臣朝臣宅守 寄花鳥陳思作歌」(3801~3807歌)

 このうち、第一と第二の左注は、作詠時点を推測できるかのような事情を付加した語句よりなる、例外的な左注である。

⑥ 題詞と左注の語句のみから判断すると、第一の小歌群は娘子が、宅守との「臨別」のとき作った歌からなる小歌群であり、題詞により、宅守に贈られた歌群となる。贈られた時点は作った時点が第一候補であろうが、その後も有り得る。

 第二の小歌群は宅守が「上道」(目的地に向かっている)のときに作った歌からなる小歌群であり、贈った時点を明示していない。そして、題詞により、宅守が娘子に贈った小歌群である、と理解できる。

 そして、宅守は流罪になっていることが『続日本紀』で分かるので、流罪地に向かうときに作った歌と推測ができる。そして第一と第二の小歌群は連続して配置されているので、ペアの小歌群となっていると推測でき、第一の小歌群の左注にある「臨別」とは、宅守が流罪地に向かうということが確定し都に居るか出発した頃をさす、と理解できる。

 このため、この二つの小歌群はほぼ同時期に、それぞれの思いを詠み、それを贈答しあった歌からなるのではないか、と漠然と推測できる。ただ、贈答しあった時点は左注だけではわからない。

⑦ 小歌群が時系列による配列とすれば、娘子から贈答を始めており、娘子は宅守をこの時点で恋の相手としていることがわかる。流罪の身の上となった宅守も、それに応えて相愛であることを再確認している、と推測できる。

 そして、第二の小歌群にある2-1-3749歌(3-4-22歌の類似歌)を宅守が贈答する直接のきっかけとなった(あるいはこの歌に応えた)歌も娘子の詠う第一小歌群にあると推測できる。

⑧ 次に、第三の小歌群以下は、その左注の語句だけでは、ペアとなった歌群である可能性のほかは、何時作られ贈答されたかは明らかにならない。しかし、宅守が流罪となっていること、及び題詞と小歌群の語句の比較より、第三の小歌群以降もこの順序が時系列になっている可能性が高いと推測できる。しかし、小歌群ごとの作者は、第一が娘子で第二が宅守であり、以下第三からは宅守、娘子、の順で3度繰り返されて最後が宅守、という順である。第一の小歌群を娘子の歌にしているのは、何か理由があるのか。

 諸氏の多くは、小歌群を単位として時系列に配列されている、とみている。宅守の流罪期間中大赦があって、それに漏れたことが『続日本紀』の天平12年6月19日条の大赦の記事にあり、その時点での作詠と思える歌や娘子の熱意が冷めている印象の歌が後半にある等からである。

 いづれにしても、贈答経緯を確認するには、小歌群単位ではなく各歌における時系列の検討をするに越したことはない。

⑨ また、遣新羅使使節団の歌群で、題詞は『萬葉集』巻十五の編纂者が元資料を整理してつけたのではないか、という仮説を示した(2021/6/21付けブログ「3.」参照)。

 この全63首も、上記④で述べた一般論にたてば、後に誰かが編纂したものとなる。その元資料が宅守側あるいは娘子側のもの1種類であったかどうかも不明である。

 その後「夫婦」になった場合や、「夫婦」になることを娘子が願っているにも関わらず、宅守がその後妻妾の一人にしていない場合も想定できる。後者であると苦い思い出の贈答歌としてまとめたのが元資料であるかもしれない。

 また、娘子が何かを認めたことで宅守が流罪となったのならば、自己保身の証拠として残す必要を感じて娘子側がまとめたのがこの元資料となる。宅守が保存していた理由もあり得る。その解明は歌全ての検討を要する。

⑩ 時系列の歌を小歌群ごとにまとめているという仮定(上記⑦)には、疑問を感じる。その例を以下に挙げる。

 題詞の「中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌」という語句は、「宅守の流罪を契機として歌を贈答し始めた(歌をまとめた歌群)」という限定をしていない。語句の意味するところは、精々「ある時期、男女の仲であった二人が贈答しあった歌」という理解が妥当である。

 第一と第二の小歌群も左注だけではその前後関係は分からない。第二の小歌群の歌がきっかけで歌の贈答が始まった、という理解も可能である。つまり、第一と第二の小歌群は対の小歌群である、と理解できるが、この二つの小歌群の前後関係を左注の語句からは決められない。相愛の仲であっても、少なくとも宅守が最初に(流罪地から)贈答したのではない、という説明がむずかしい。

 また、歌の全てが宅守の流罪以後の作でありかつ以後の時点の贈答歌であるかどうかも、左注の語句だけではわからない。

⑪ (娘子の)「形見の衣」と詠う歌が宅守にある(2-1-3755歌)。この歌の後に配列されている娘子の2-1-3773歌に「形見の衣を贈っていたであらう。わざとらしい注文だが・・・」と土屋氏が評する歌があり、そのあとの2-1-3775歌が「形見にと縫った衣だ」、と詠う歌の順になっている。この3首が(小歌群単位で、歌単位でも)時系列に並んでいるとすれば、娘子は迎合して歌を贈ったという印象を受ける。

 そのため、この題詞のもとでの娘子作の最後の歌2-1-3800歌の本音は、手元に有りもしない「衣(手)」を手に持って祈りなさいという歌にみえる。この歌は、恋しい・逢いたいと直接詠わぬ歌である。 

 つまり、第三の小歌群と第四の小歌群がこの順で時系列であるという仮定がおかしいことになる。 

⑫ 宅守の最後の「右七首 中臣朝臣宅守 寄花鳥陳思作歌」は、対応する娘子の歌からなる小歌群がない。娘子の何れかの小歌群に、この七首に対応する歌が配置されているとすれば、小歌群単位で時系列の配列になっているという仮定はなりたたない。

 また、最初の一首を除きすべてほととぎすを詠い、「ものもふときに」が前後四首も続出している。贈答をした歌であれば、連作をしたのではなく、贈る時期を違えている歌ではないか。 土屋氏は、「宅守の歌には、民謡からの発想や下敷きにする歌がある。発想が娘子と比べると豊かな人ではなさそうである」、といっている。

 例) 2-1-3760歌の3句~5句は民謡の慣用句(土屋氏の指摘)

    2-1-3762歌には2-1-旧605歌(笠郎女)がある

⑬ 2-1-3787歌は、宅守が娘子に形見を贈ったと詠う。2-1-3788歌もその形見に関して詠う。

 宅守が形見を贈られたと詠う2-1-3755歌とは小歌群が異なる。形見は、普通には同時期に贈りあうのではないか。2-1-3787歌にしてもその形見と同時に相手に届けた歌ではないか。

 また、2-1-3787歌等の返歌と思える娘子の歌が見当たらない。

 小歌群にまとめたのは、時系列ではなく別の基準があるのではないか。

⑭ 2-1-3794歌は天平12年の大赦に漏れた後の歌である。この歌以後の娘子の歌は、小歌群単位で数えると2首のみである。相愛であるはずの娘子が歌の贈答を減らした理由は何か。

⑮ これらだけからも、この63首は、歌単位でも時系列に配置されているとは言えない。歌本文によって流罪と定まった時点の思いを詠んでいると思える歌を中心に最初の小歌群を構成しているのがヒントとなるのであろうか。

 特定の目的をもって意図的に編纂されたのがこの63首の歌群である、と言える。 

目録は、宅守が流罪となった理由に触れていない。目録の作者の関心は、長期にわたり地方と都とに別居した者の相聞ということに注がれているかにみえる。

⑯ 63首全体の構成等の検討は別の機会に譲り、上記⑥、⑦及び⑩に記したように、第一と第二の小歌群は一対の小歌群と認められるので、それを類似歌検討の前提とする。

⑰ なお、狭野弟上娘子は、後宮蔵司に勤める卑官(女嬬)であって、役職上男官と日々接触する立場であり、土屋氏は、「女嬬(という役職そのもの)が御物に準ずべきもの故、それを管理監督する立場でありながら管理監督する物を盗んだ、とみなされ流罪となったのか」と論じている(『萬葉集私注』(巻十五追考)。これが流罪の理由ならば、男女の間の禁を犯した者は別々に住まわせるという規定もあり、適用されたのであろう。

(付記終わり  2021/6/28  上村 朋)