前回(2018/7/9)、 「猿丸集第22歌 おもひわぶらん」と題して記しました。
今回、「猿丸集第23歌 ものおもひわびぬ」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の23番目の3-4-23歌とその類似歌
① 『猿丸集』の23番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-23歌 <なし>(3-4-22歌の詞書をうける)
おほぶねのいづるとまりのたゆたひにものおもひわびぬ人のこゆゑに
3-4-23歌の類似歌 万葉集 2-1-122歌 弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)
おほぶねの はつるとまりの たゆたひに ものもひやせぬ ひとのこゆゑに
(・・・物念痩奴 人能児故尓)
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の一字と四句の三字と、詞書が、異なります。
③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、熱愛の相手を慰めている歌であり、類似歌は、逢えないため痩せてきたと相手に訴えた歌です。
2.類似歌の検討その1 配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。
類似歌は 『萬葉集』巻第二の「相聞」(2-1-85歌~2-1-140歌)にある歌です。
この歌の前後の歌の詞書(題詞)をみてみます。
但馬皇女在二高市皇子宮一時思二穂積皇子一御作歌一首(114)
勅二穂積皇子一遣二近江志賀山寺一時但馬皇女御作歌一首(115)
但馬皇女在二高市皇子宮一時竊(ひそかに)接二穂積皇子一事既形而御作歌一首(116)
舎人皇子御歌一首(117)
舎人娘子奉和歌一首(118)
弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)
三方沙弥娶二園臣生羽之女一未レ経二幾時一臥レ病作歌三首(123~125)
石川女郎贈二大伴宿祢田主一歌一首
即佐保大納言大伴卿第二子母曰二巨勢朝臣一也(126)
大伴宿祢田主報贈歌一首(127)
同石川女郎更贈二大伴田主中郎一歌一首(128)
大津皇子宮侍石川女郎贈二大伴宿祢宿奈麿一歌一首
女郎字曰二山田郎女一也、宿奈麿宿祢者大納言兼大将軍卿之第三子也(129)
② これらの詞書(題詞)の末尾は、「・・・御作歌◯首」、「・・・御歌◯首」、「奉和歌◯首」、「・・・作歌◯首」、「・・・贈・・・歌◯首」、「・・・歌◯首」という書き分けがなされています。
類似歌が該当する詞書(題詞)「弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)」は、「・・・御歌◯首」のタイプであり、弓削皇子の歌、ということになります。
③ 「相聞」の部の歌の作者名をみると、巻第二の編纂者は、「相聞」の歌をほぼ編年体に配列し、そして天皇家一族を優先しています。このような詞書(題詞)の並びをみると、他の詞書に関係なく、当該詞書において独自性のある歌であれば、この歌はよい、ということになります。
3.類似歌の検討その2 現代語訳の例
① 詞書(題詞)の現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首(119~122)」
この詞書(題詞)は、「・・・御歌◯首」とあり、「・・・御作歌◯首」と記されていないので、弓削皇子ご自身の詠作とこの文言からは断言できません。さらに、弓削皇子の歌という建前で記載した歌、とも理解できます。
以下では、弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による弓削皇子の歌)という仮説を確認するという方法で検討します。
② 諸氏の現代語訳の例を示します。
・「大きな船が停泊する港の波がゆらゆら揺れるように、揺れる思いにすっかり痩せてしまった。あの人のせいで。」(阿蘇氏)
・「大船が碇泊する港において、揺れ動いて定まらぬごとく、ためらいながら物思ひに痩せてしまった。此のをとめのために」(土屋氏)
③ 阿蘇氏は、五句に関して、「万葉集において「人の兒(子)」の用例は10例。(大伴家持作の)2-1-4118歌(「賀陸奥国出金詔書歌一首幷短歌」 )では子孫の意だが、そのほかは親を持つ子の意、つまり恋や妻問の対象になる女性。現に対象としているという限定は必ずしもない」と指摘し、土屋氏は、「民謡の改作、あるいは民謡をそのまま用いたか。相聞の歌には多い(傾向)。「たゆたひ」の主語は船」と指摘しています。
④ 初句~二句は、三句にある「たゆたひ」の序と諸氏が指摘しています。動詞「たゆたふ」とは、「ためらう。ちゅうちょする」意と、「漂う」意とがあります(『例解古語辞典』)。
4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると
① 初句と二句に、格助詞「の」が重ねて用いられています。三句の「たゆたふ」という動詞の主語が「おおふね」です。初句の「の」は、主語であることを明示する主格の助詞であり、二句の「の」は、「たゆたふ」場所を限定している連体格の助詞である、となります。
停泊している舟、それも当時の大きな船は、波の比較的穏やかな停泊地においても揺れ続けている、というのは、当時の常識であったのでしょう。
② 四句は、恋の一般論でもありますが、詞書により、ここでは、一般論に当てはまる人物である私が現にここにいる、ということを 言っています。
③ 作者とされる弓削皇子は、天武天皇の皇子のひとり(母は天智天皇の皇女)であり、26,7歳で薨去されています。
紀皇女は、天武天皇の皇子である穂積皇子(母は蘇我赤兄の娘)の同母妹であり、二人が実際に結婚を念頭に置いていたのかどうかは推測する資料もなく不明です。弓削皇子は、持統天皇から、皇位継承の有資格者として警戒されていたとの諸氏の指摘があります。そうであれば、皇子(が中心の一族)同士の結託ともとられかねない行動には弓削皇子側は慎重になっていたであろうとみるのが常識的な推測ではないでしょうか。
弓削皇子への献呈歌(作者未詳)が、『萬葉集』第第九 雑歌にあるところをみると、同じように巻第九に献呈歌のある忍壁皇子や舎人皇子とともに、和歌を披露する機会を私的に設ける(人々が参集する)ことができる立場に弓削皇子はあったと思われるので、それだけでも弓削皇子は自分の置かれている政治的立場を認識せざるを得ないと思います。
この相聞歌4首も、政治的に、言い訳ができる歌を詠んでいるとみるのが妥当であろうと思います。
④ 弓削皇子の作とする歌が、『萬葉集』に8首あります。そのうちで歌を贈った相手からの返歌が記載されているのは額田王におくった一首だけです。相聞歌として扱われていますが、相手への思いより共通の話題を互いに詠っている歌です。また、諸氏のいうように紀皇女が浮名の立ちやすい人物と評判になっていたとすると、その人物を想定した片恋の一連の歌は、同じ皇族のひとりである弓削皇子が詠うならば、さもありなん、という範疇のこととして評判になり得る、とおもいます。
この詞書(題詞)のもとの4首に対し、(代作依頼も可能な立場にいる)紀皇女の歌は『萬葉集』にありません。だから私的に二人が逢ったことには『萬葉集』歌からは否定的です。穂積皇子と但馬皇女の場合は、両者の歌が『萬葉集』巻第二の「相聞」に記載されおり、舎人皇子と舎人娘子の場合も同じですが、弓削皇子と紀皇女の場合は、巻第二の編纂者にとり、そうしたくともできる材料がなかった、とも推察できます。
このようなことから、この相聞歌4首は、すくなくとも紀皇女を思い詠った弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による弓削皇子の歌)というのには否定的になります。しかし、宴席等での弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による弓削皇子の歌)という仮説は、残ります。
また、弓削皇子に仮託して「諸方の歌を集めて集成した面」が強いという見方(伊藤博氏)もあります。
⑤ そのため、作者の特定はせず、この歌は、大人の男女の軽い相聞歌と理解します。土屋氏のいう「民謡を用いたか」という意見の方向と同じであります。(下記「5.⑦」及び付記1.参照)
⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「大船が、(例えば住之江の津のような)波の静かな港に停泊している時も、揺れ動き続けている。そのように、私はずっと捕らわれたままで、物思ひに痩せてしまった。この乙女のために」
大船の動きに自分を喩えているのは、相手にへりくだっている印象がありません。贈られた女性はどう思うでしょうか。
2-1-122歌の四句の万葉仮名は、「物念痩奴」ですが、「痩」という漢字を用いてなければ、また違った理解も生じたところです。即ち、四句「ものもひやせぬ」を、動詞「ものもふ」の連用形+係助詞「や」+動詞「為」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形とする理解です。歌の趣旨が変わってしまうところです。
5.同一の詞書(題詞)の歌について
① 同一の詞書(題詞 「弓削皇子思紀皇女御歌四首」)に4首ありますので、そのなかにおける類似歌の独自性を確認することとします。
なお、2-1-120歌は、『猿丸集』の3-4-25歌の類似歌であり、その3-4-25歌の詞書は、この歌3-4-23歌と同じです。
② 2-1-119歌
よしのがは ゆくせのはやみ しましくも よどむことなく ありこせぬかも
現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「吉野川の早瀬のところが暫くの間でも淀まないように、私の場合もなってくれないものかなあ。」)
③ 2-1-120歌
わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらまし
(吾妹児尓 戀乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾)
現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「あの人にいくら恋しても詮無い状態になってきたが、それでも、あの人が、(私の愛でる)秋萩のように咲いたら散るという花であってくれたらなあ」
③ 作者の弓削皇子は、「こひつつあらずは」を2-1-1612歌でも用いています。
「こひつつあらずは」を阿蘇氏は「恋い続けていないで」と訳しています。つまり相手にされていないことに気が付いたが恋を作者は諦めているわけではないので、の意です。だから、三句以下は、相手の心変わりを期待している意であると、理解しました。
連語「有らまし」は、事実とは異なる状態を想像し、そうあったらよいのに、という気持ちを表わします。
「こひつつあらずは」と表現する歌は、『萬葉集』に18首あります。良く詠われているフレーズといえます。
④ 三句にある「あきはぎ」の万葉仮名は、「秋芽之」です。『萬葉集』における「はぎ」 の詠み方について、『新日本文学大系1萬葉集1』(佐竹他)で、「萬葉集に萩を詠む歌は141首。その1/4以上が花の散り過ぎることに言及し、平安朝以後の萩の歌が下葉の紅葉や露を好んで主題とするのとは傾向を異にする。「萩」の字は万葉集に登場しない。『新撰万葉集』も「芽」の字。」と指摘しています。
ハギ(萩)は、マメ科ハギ属の落葉低樹で、高さ1.5m位で細い枝が土にしだれます。花が総状につきます。紅紫の花や白もあります。万葉時代には、野の花であり、ハギのあるところは、生活空間の周辺であり郊外を彷彿とさせることばです。
⑤ なお、土屋氏は、「こひつつあらずば」と訓み、『萬葉集私注』で論じています(十巻18p~)。また、「恋愛心の表現にすぐ生死を言ふのは萬葉集(時代の人)の表現技法だけの問題」として、次のように訳し、 2-1-119歌と同様民謡などの調子が感ぜられる、と氏は評しています。
「吾妹子に戀ひ戀ひて生きてをれないならば、秋萩の咲けば散ってしまふ花になって散り失せ死ぬる方がましであらう。」
諸氏の多くも、このようであれば作者は花になったほうがましだ、と詠っていると解釈していますが、この歌を相手におくったら、「ご勝手にどうぞ」と言われる可能性があります。そのような返歌の心配のない歌を詠んだのだと主張する立場に作者を置いて理解した(相手に哀願する歌を贈る)ほうが、相聞歌としてよい、と思います。
⑥ 2-1-121歌
ゆふさらば(暮去者) しほみちきなむ すみのえの あさかのうらに たまもかりてな
現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「もしも夕方が過ぎると、(暗さが本格的になるし)潮は満ちて来てしまう。だから、住之江の浅香の浦の (この夕方という時間帯のうちに)玉藻を刈ってしまいたい。」
初句は「ゆふされば」ではなく「ゆふさらば」であり、名詞「夕」+動詞「去る」の未然形+助詞「ば」です。
「夕(べ)」は、夜を中心とした時間の始まりで、「夕映え」という語からも知られるように、日暮れ時分で、まだ暗くない頃であり、「宵」が「夕(べ)」に続く暗い時間です(『例解古語辞典』)。
⑦ 4首を比較すると、2-1-122歌は現代語訳(試案)のように2-1-121歌と住之江という地名が共通ともとれますが、最後の2-1-122歌も含めこの4首は恋の進行順ではなく、すべて、逢うことができない状況で繰り返し訴えている、片恋の歌で、それぞれ独立しています。
⑧ 片恋の歌であることは、弓削皇子と紀皇女は結びつかなかったという理解をしてもらえる材料の一つになるでしょう。また、誰かが、皇女と皇子の間の片恋の歌に仕立てるとしても弓削皇子は20代で薨じており子孫への迷惑もない存在だったのではないでしょうか。
6.3-4-23歌の詞書の検討
① 3-4-23歌は、3-4-22歌の詞書がかかる数首のうちの一首ですので、その詞書を再掲します。
おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる
② その現代語訳(試案)を、3-4-22歌に関するブログ(2018/7/9)から引用します。
「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」
7.3-4-23歌の現代語訳を試みると
① 初句の「おほぶね」という表現は、『萬葉集』に多数ありますが、『古今和歌集』には1首のみです。題しらず・よみ人しらずの歌であり、作詠時点を推測すると、『猿丸集』の同時代の歌あるいはその直前の歌、とみてよい、次の歌です。
1-1-508歌 題しらず よみ人しらず
いで我を人なとがめそおほ舟のゆたのたゆたに物思ふころぞ
「おほ舟」が「ゆたのたゆたに」なる、と表現している歌です。この表現は、2-1-122歌と同じ発想です。「おほ舟」はどの停泊地においても揺れてしまうもののようです。
② 初句~二句「おほぶねのいづるとまりの」とは、大船が出向する港、即ち、「大問題が生じている(親どもが折檻するという)一家・一族」、の意となります。
③ 三句「たゆたひに」の主語は、「とまり」であり、女の一家・一族を指します。
④ 四句「ものおもひわびぬ」となる理由が、五句です。「もの」とは、個別の事情を明示しないで一般化していっている語句であり、「おもひわぶ」とは、つらいと思う、思い悲しむ意であり、「ぬ」は、完了の助動詞「ぬ」の終止形です。家族にとりこめられている女になにもしてやれない無力さを感じていることの表現です。
⑤ 五句の「ひとのこ」は、特定の人物を念頭においた表現の「人」で、その意は、詞書より「とりこめられていみじう」されても作者を慕ってくれている女」を指しています。つまりその女と作者は愛し合っています。
⑥ これらの検討の結果、3-4-23歌の現代語訳を、詞書に従い試みると、つぎのとおり。
「大きな船が出港する停泊地はゆらゆら波が揺れ止まりしていないようですが、思いがいろいろ浮かび辛いことです。親に注意をうけても慕っていただける貴方のことで。」
⑦ 「親ども」は、この歌を当然知るところとなるでしょう。『萬葉集』記載の類似歌を承知していれば、歌人としての才は認めてもらえたかもしれません。それだけで交際が許されるとは思えません。
8.この歌と類似歌とのちがい
① 詞書の内容が違います。 この歌3-4-23歌は、作者が愛する女の置かれている状況を明かにしており、類似歌2-1-122歌は作者が愛を得たい女性の名だけ明らかにしているだけです。
② 二句の語句が異なります。この歌は、「いづるみなと」で出発する港の意で、問題が発生していることを示唆しています。類似歌は「はつるとまり」で停泊する港の意で、停泊しているのにかかわらず揺れるという表現につながり、気持ちのおちつかないことを示唆しています。
③ 四句の動詞が異なります。この歌は、「おもひわび(ぬ)」で、心に関しての動詞です。類似歌は、「やせ(ぬ)」で外見に関しての動詞です。
④ 五句の「ひとのこ」の意が異なります。この歌は、特定の人物を念頭においた表現の「人」で、その意は、詞書により、おやどもに「とりこめられていみじうされても作者を慕ってくれている女」を指しています。そしてその女と作者は愛し合っています。
類似歌は、特定の人物を念頭においた表現の「人」であるのは変わりなく、詞書により紀皇女を指していますが、軽い相聞歌なので、その二人の関係は、作者の片思いであってもかまわないものです。
⑤ この結果、この歌は、愛情を交わした女に対する作者の心のうちを詠って、相手を慰める歌であり、類似歌は、恋の進展のないことにより外見が変わったと訴えた歌です。
⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。
3-4-24歌 <詞書なし>
人ごとのしげきこのごろたまならばてにまきつけてこひずぞあらまし
類似歌は万葉集歌2-1-439:和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440)
ひとごとの しげきこのころ たまならば てにまきもちて こひずあらましを
(人言之 繁比日 玉有者 乎尓巻以而 不恋有益雄)
この二つの歌も、趣旨が違う歌ともいえます。
⑦ ご覧いただきありがとうございます。
次回は、上記の歌を中心に記します。
(2018/7/16 上村 朋)
付記1.弓削皇子について
① 弓削皇子は、天武2年(673)に生れ(寺西貞弘氏ら)。持統天皇7年(693)同母兄長皇子とともに浄広井弐。持統天皇10年(696)高市皇子薨去後の皇嗣選定会議において4歳ほど年長にあたる葛野王に叱責されている。そのような会議に出席できる立場なので、発言が政治的に解釈されることを理解していたと思われる。文武天皇3年(699)歿。
② 弓削皇子の作の歌とある歌は、『萬葉集』に8首ある。相聞の歌6首と雑の歌2首である。
このほか献呈歌(作者未詳)が、『萬葉集』第第九 雑歌にある。
③ 相聞の歌6首は、つぎのとおり。
いにしへに こふるとりかも ゆづるはの みゐのうへより なきわたりゆく
この歌は、巻第二の相聞にある。この歌に対して、額田王は「額田王奉和歌一首 従倭京進入」と題する歌(2-1-112歌)と「従吉野折取蘿生松柯遣時額田王奉入歌一首」と題する歌(2-1-113歌)の2首を贈っている。
この歌のみに返歌がある。男女の間の歌の交歓なので、雑ではなく、相聞とされたと推測できるが、共通の話題について互いに詠っており、この歌の贈答は、昔を忍ばせる贈り物に添えた歌のように感じられる。
2-1-119歌以下の4首( 弓削皇子思紀皇女御歌四首)は、本文5.参照。
この四首は、巻第二の相聞にある。この四首に応えたと思われる紀皇女の歌は、『萬葉集』に記載がない。
2-1-1612歌 弓削皇子御歌一首
あきはぎの うへにおきたる しらつゆの けかもしなまし こひつつあらずは
この歌は、巻第八 秋相聞30首の3番目の歌である。下句「けかもしなまし こひつつあらずは
」が同じとなる歌が、2-1-2258歌など3首ある。五句の表現の歌は『萬葉集』に18首ある。
類歌が、巻第十に3首あり、土屋氏はこの歌も「本来は民謡であったのを巻第二との類似により、弓削皇子に帰せしめられたたのであらう」、と指摘している。
④ 雑の歌は、つぎのとおり。
2-1-243歌 弓削皇子遊吉野時御歌一首
たきのうへの みふねのやまに ゐるくもの つねにあらむと わがおもはなくに
春日王が、この歌に対して「春日王奉和歌一首」と題する歌(2-1-244歌)で応えている。
この歌は、巻第三 雑歌にある。また、『萬葉集』には「或本歌一首」と題する2-1-243歌と発想の似た「みふねのやま」を詠む歌(2-1-245歌)が記載され、その左注に「人麿之歌集出」とある。
2-1-1471歌 弓削皇子御歌一首
ほととぎす なかるくににも ゆきてしか そのなくこゑを きけばくるしも
この歌は、巻第八 夏雑歌の、ホトトギスを詠む13首の3番目の歌である。
この歌の類似歌は、『萬葉集』にない。
この歌は、『猿丸集』にある3-4-4歌の類似歌となっている(ブログ2018/2/26参照)。
⑤ 弓削皇子に献じられた歌が、巻第九 雑歌にある。 「献弓削皇子歌三首」と題する歌3首(2-1-1705歌~ 作者未詳)と、同「献弓削皇子歌一首」と題する歌(1713歌 作者未詳)がある。
また、「弓削皇子薨時置始東人作歌一首幷短歌」がある。(2-1-204歌~2-1-206歌)
⑥ 歌を披露(朗詠)し記録される機会のひとつに、朝廷の公的な宴席や有力皇族や貴族の私的な宴席が想定される。そのほか贈答品に添えた歌(あるいはお返しの歌)も、和歌をたしなむ者は記録すると、思える。
巻第十五にある中臣宅守と佐野弟上娘子のような個人的な贈答の歌が第三者に残される可能性は一般的には低いであろう。朝廷の処罰の対象になったような事件に関係した歌は公的あるいは噂として記録されたりしたのであろうか。
(付記終り 2018/7/16 上村 朋)