前回(2018/11/5)、 「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」と題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集第36歌 いまもなかなむ」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第36歌 3-4-36歌とその類似歌
① 『猿丸集』の36番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-36歌 卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる
さ月まつやまほととぎすうちはぶきいまもなかなむこぞのふるごゑ
3-4-36歌の類似歌 1-1-137歌 題しらず よみ人知らず
さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなむこぞのふるごゑ
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、同じですが、詞書が、異なります。
③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに嘆息した歌であり、類似歌は、ほととぎすに早く来て鳴いてくれと日を定めず願っている歌です。
2.類似歌の検討その1 配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。
類似歌は 『古今和歌集』巻第三夏歌34首のなかの一首です。
② 『古今和歌集』巻第三夏歌の配列は、前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」(2018/11/5)で、検討しました。
その方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」(2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、その作業結果を同ブログ(2018/11/5)に、そして各歌の元資料の歌について同ブログの付記1.の各表(補注含む)に示しました。
但し、『猿丸集』の類似歌になっている2首(の元資料の歌)は、視点2(披露の場所)の判定を保留しています。いま検討している3-4-36歌の元資料の歌は後ほど、また3-4-35歌の元資料の歌は同ブログ(2018/11/5)で別途確認しました。
③ その結果を、引用します。
第一 『古今和歌集』の元資料の歌は、夏の歌と見做せる歌である。そして、『古今和歌集』の編纂者は、語句の一部を訂正して、必要に応じて詞書をつけて『古今和歌集』に用いている。
第二 『古今和歌集』の元資料の歌は、三夏の季語である郭公(ほととぎす)を詠む歌が28首あり夏歌の82%を占める。
第三 『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌を、詞書や歌の語句を適宜補い、初夏から、三夏をはさみながら仲夏、挽歌の順に並べている。
第四 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。
第五 その歌群は、つぎのとおり。巻第三の総歌数は少ない。
初夏の歌群 1-1-135歌~1-1-139歌
ほととぎすの初声の歌群 1-1-140歌~1-1-143歌
よく耳にするほととぎすの歌群 1-1-144歌~1-1-148歌
盛んに鳴くほととぎすの歌群 1-1-149歌~1-1-155歌
戻ってなくほととぎすの歌群 1-1-156歌~1-1-164歌
夏を惜しむ歌群 1-1-165歌~1-1-168歌
第六 この類似歌は、初夏の歌群(1-1-135歌~1-1-139歌)に置かれている。
④ 次に、初夏の歌群での配列をみてみます。
1-1-135歌 題しらず よみ人しらず
わがやどの池の藤波さきにけり山郭公(やまほととぎす)いつかきなかむ
1-1-136歌 う月にさけるさくらを見てよめる 紀としさだ
あはれてふ事をあまたにやらじとや春におくれてひとりさくらむ
1-1-137歌 題しらず よみ人しらず
さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなむこぞのふるごゑ
1-1-138歌 題しらず 伊勢
五月(さつき)こばなきもふりなむ郭公まだしきほどのこゑをきかばや
1-1-139歌 題しらず 伊勢
さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする
(参考:次の歌群の最初の歌) 1-1-140歌 題しらず よみ人しらず
いつのまにさ月きぬらむあしびきの山郭公今ぞなくなる
⑤ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/11/5)の付記1.の表1参照)
1-1-135歌 私のところの池の藤は咲いた。ほととぎすはいつきて鳴いてくれるのか、待ち遠しい。
元資料の歌は屏風歌b(下記に記す付記1.参照) 又は相聞歌と推定
1-1-136歌 誉め言葉を自分だけにと、他の桜より遅れた時期に独り咲くのだろうか、この桜木は。
元資料の歌は宴席の歌と推定
1-1-137歌 五月を待つほととぎすよ、去年の鳴き声でよいから今鳴いてくれ。 (仮訳)
元資料の歌は保留
1-1-138歌 五月が来ると新鮮さがなくなる。だからいまのうちにほととぎすよ、初音を聞かせて。
元資料の歌は下命の歌と推定
1-1-139歌 五月を待って咲く花橘がはやくも香りはじめた。その枝を袖に入れて迎えてくれたあの人を思い出させてくれる。(付記2.参照)
元資料の歌は屏風歌b又は宴席の歌と推定
(参考)1-1-140歌 いつのまに五月になったのか、山のほととぎすが今鳴き出した。
元資料の歌は挨拶歌又は宴席の歌又は下命の歌と推定
⑥ この歌群の歌で、作者は、ほととぎすの来訪を望んでいるほか、季節はずれの桜や季節の花により、初夏が到来を感じています。
この歌も、作者は、ほととぎすを詠み、その来訪を望んでいる、と思われます。
3.類似歌の検討その2 現代語訳の例
① 諸氏の現代語訳の例を示します。
「五月になるのを山で待っているほととぎすよ。羽をうち振って今でも鳴いてほしいものであるよ、去年のあの古い鳴き声で。」(久曾神氏)
「五月をおのが季節として待っているほととぎすよ。今すぐにでも翼を羽ばたいて鳴いてほしい。去年のままの古馴染の声でいいから。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)
② 久曾神氏は、「ほととぎす」に話しかける口調で詠まれている。二句、四句切れで、よみ人しらず時代の古い調子が感じられる。」とし、『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』も「五七音を二つ繰り返しさらに七音を添えたのは、古い調べの歌である。(「うちはぶき」とは、)鳥の姿を実際に写しているのではなく、鳴く前の準備行動を観念的にうたったものだろう。」と指摘しています。
③ 1-1-137歌は、夏歌の最初の歌群である「初夏の歌群(1-1-135歌~1-1-139歌)にある歌ですので、別途現代語訳を試みたい、と思います。
4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると
① 三句「うちはぶき」とは、上記の訳例のように動詞「うち羽振く」の連用形であるとともに、接頭語「うち」+動詞「省く」(省略する、の意)の連用形、でもあり、「うちはぶき」とは、「ちょっとしたことをなにげなく省く」、即ち「堅苦しく考えず、省略・節約し(鳴き声の練習も省いてよいから)」の意も、作者は込めたのではないか。几帳面に五月を待つことはないではないか、という催促の意です。
② 羽ばたくことと鳴くことの間に実際どのような関連があるか不明です。恐らく、五月の到来をじっと待つのにくたびれて(作者自身がするように)少しは体を動かし、ほととぎすも気分を変えるのだろう、という作者の思いが、動詞「うち羽振く」に込められている、とみます。
③ 四句「今もなかなむ」の「なか」は、動詞「鳴く」の未然形であり、それに付く「なむ」は終助詞であるとしたのが上記の訳例です。
「なか」が活用語であるとすると、四段活用の「鳴く」の未然形しかありません。なお、未然形につく語句は、このほか終助詞の「な」、打消しの助動詞「ず」、係助詞の「なむ」もありますが、上記の終助詞の「なむ」として、あつらえの意としているのは、素直な理解であると思います。
④ 五句にある「ふるごゑ」は、『明解古語辞典』において、歌語の名詞としてこの歌を例にあげ「古声:昔のままのなつかしい声」と説明しています。
「ふる」には、「古る・旧る」の動詞のほか、「降る」、「振る」という動詞もあります。
「古る・旧る」は、「古るくなる・時がたつ」とか「新鮮さがなくなる」とか「飽きられて捨てられている」の意があります。
⑤ これらの語意を踏まえ、現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「五月になるのを、ときには羽をうち振り、待っているほととぎすよ。堅苦しく考えないで練習なども省き、昔のままのなつかしい声で(試演としてでよいから)、今、鳴いてほしいよ。」
この試訳でも、『古今和歌集』巻第三の配列から「初夏の歌群」での特徴である「ほととぎすを詠むならばその来訪を望んでいる」を満足しています。
⑥ 年中行事というくくり方が生じている時代ですので、鳴き方も前年にならったもので良いのですから、練習も省けるではないか、と作者は訴えていると思います。作者は、時期を違えないことも、ほととぎすに期待しているものの、試演とか内覧的なことは、その前に当然するものが年中行事であるのだから、ほととぎすよそういうことをしないのか、という諧謔の気持ちが溢れた歌である、と思います。
5.3-4-36歌の詞書の検討
① 3-4-36歌を、まず詞書から検討します。
詞書において、詠んだ時点を「卯月のつごもり」と限定しています。類似歌では、題しらずであり、詠まれた日時を「卯月のつごもり」のたった一日に限ることはない、と理解してよい詞書となっています。これは歌の理解のヒントかもしれません。
② 詞書の「郭公をまつ」とは、一人静かに待つのではなく、聞く集いがあり、くたびれるほどほととぎすに待たされている状態を、言っているのではないか。年中行事的発想をすると、旧暦四月の晦日はほととぎすが試演する最後の日、内内に聞かせる最後の日です。
③ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「旧暦四月の末日に、ほととぎすを(聞く集いで)待ちくたびれているとき詠んだ(歌)」
6.3-4-36歌の現代語訳を試みると
① 初句「さ月まつ」とは、言い換えると「まだ四月であり、さ月は到来していない」ことを確認していることになります。
② 三句「うちはぶき」は、ほととぎすが鳴くならば、五月が到来していないので、接頭語「うち」+動詞「省く」の連用形です。ほととぎすが鳴かないならば、ほととぎすの鳴くのとの関係が不明である動詞「羽ぶく」です。
③ 四句「今もなかなむ」の「なかなむ」は、幾通りかの理解が可能です。(『例解古語辞典』による)
A 名詞「汝」+名詞「可」+係助詞「なむ」 (「汝は(それを)行うのがよい(できる)、確かに」の意となるか)
B 動詞「鳴く」の未然形+終助詞「なむ」 (類似歌での理解)
C 動詞「鳴く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の未然形+推量の助動詞「む」
(予測してみると「鳴かないだろう」あるいは、実現しようとする意志・意向を表わす「鳴くまい」、の意)
この歌では鳴くのを待っている場面であり、類似歌と異なる趣旨の歌であると仮定すると、Cがこの歌における候補となると思います。
④ 五句「こぞのふるごゑ」の「こぞ」は、「今夜 昨夜 去年 」の意があります。
「ふるごゑ」は、連語としては上記3.④にも引用したように、歌語の名詞として「昔のままのなつかしい声」となります。
「ふる+こゑ」と理解すると、「振る声」よりも「古声」が妥当すると思います。「古る」には、「古くなる・時がたつ」とか「新鮮さがなくなる」とか「飽きられて、捨てられている」の意があり、「声」には、「人や動物の発する声」のほか「よい声」とか「訛り」とかの意もあります。
このため、「ふる+こゑ」は、
時がたったがよい声
新鮮さがなくなった声
などとも理解できます。
⑤ 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「陰暦五月になるのを、ときには羽をうち振り、(律儀に)待っているほととぎすよ、今日は四月の晦日だから、去年のあのよい声で今夜も鳴かない(と決めている)のかねえ。」 (ほととぎすに質問をしている歌)
7.この歌と類似歌とのちがい
① 詞書の内容が違います。この歌3-4-36歌は、詠む事情を述べていますが、類似歌1-1-137歌は、題しらずであり、不明です。
② 三句にある語句「うちはぶき」の意が違います。「うち」は両歌ともに接頭語ですが、この歌3-4-36歌は、「羽ぶく」意であり、これに対して、類似歌1-1-137歌は、「省く」に「羽ぶく」の意も掛けています。
③ 四句にある語句「なかなむ」の「なむ」意が違います。この歌は、三語の連語であり、「鳴かないと意志を固めている」意です。これに対して、類似歌は、終助詞の「なむ」で「鳴いてほしい」の意となります。
④ この結果、この歌は、陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている、あるいは嘆息した歌であり、類似歌は、ほととぎすに早く来て鳴いてくれと日を定めず願っている歌です。
⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。
3-4-37歌 あきのはじめつかた、物思ひけるによめる
おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ
3-4-37歌の類似歌
その1 1-1-185歌: 題しらず よみ人知らず (『古今和歌集』巻第四 秋歌上)
おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ
その2 3-40-38歌 秋来転覚此身衰 (『千里集』 秋部)
大かたの秋くるからに我が身こそかなしきものとおもひしりぬれ
3-4-36歌とその類似歌も、趣旨が違う歌です。
⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
次回は、上記の歌を中心に記します。
(2018/11/12 上村 朋)
付記1.屏風歌bについて
① 屏風歌bとは、その和歌が詠われた(披露された)場所として、歌合とか屏風歌とか恋の歌としておくった歌(相聞歌)と並び、検討時設定した区分の一つであり、その定義は上村朋がしている。
② 『新編国歌大観』記載の歌集において、詞書などで屏風歌(紙絵なども含む)と明記されている歌を屏風歌aと称する。
② 屏風歌bは、上記屏風歌a以外で、ブログ「わかたんかこれの日記 よみ人しらずの屏風歌」(2017/6/23)の「2.②」で示す3条件(下記③に引用)を満たすよみ人しらずの歌を指して上村朋が定義している。それを拡張し、誰の歌であっても3条件を満たした歌としている。
屏風歌bは、歌の再利用も念頭に想定したものなので、歌を披露する他の場の区分(歌合とか宴席の歌とか)と重なることがある。
③ 屏風歌bの判定基準は、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、屏風に書きつける得る歌と推定する。
第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、屏風に書きつける得る歌と推定する(屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌あるいは屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌と推定できること)。また、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと。
第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨には用いられていないこと。
第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。
③ この方法は、歌の表現面から「屏風歌らしさ」を摘出してゆくものであり、確実に屏風歌であったという検証ではなく、屏風作成の注文をする賀の主催者が、賀を行う趣旨より推定して屏風に描かれた絵に相応しいと選定し得る歌であってかつ歌に合わせて屏風絵を描くことがしやすい和歌、を探したということである。
付記2.1-1-139歌について
① 1-1-139歌の理解は、小松英雄氏の理解(『みそひと文字の抒情詩―古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(笠間書院)で論じている)によるところが大きい。
② 「元資料の歌は屏風歌b又は宴席の歌」と推定したのは上村朋である。作者は官人であると推定できる。
<付記終り 2018/11/12 上村 朋>