前回(2018/11/12)、 「わかたんかこれ 猿丸集第36歌 いまもなかなむ」と題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その1 古今集の類似歌」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第37歌 3-4-37歌とその類似歌
① 『猿丸集』の37番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-37歌 あきのはじめつかた、物思ひけるによめる
おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ
3-4-37歌の類似歌a 1-1-185歌a: 題しらず よみ人知らず
おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ
3-4-37歌の類似歌b・・3-40-38歌 秋来転覚此身衰
大かたの秋くるからに我が身こそかなしきものとおもひしりぬれ
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、同じですが、詞書が、異なります。
③ 類似歌aは、『古今和歌集』、類似歌bは、『千里集』にある歌です。これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は秋の心情を詠い、類似歌は秋の自然の移り変わりの影響を詠う(と、仮説をたてたところです)。
2.類似歌aの検討その1 古今集の配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。歌番号順に検討します。
類似歌aは 『古今和歌集』巻第四 秋歌上の、「秋くる」と改めて詠む歌群 の2番目にある歌です。
② 巻第四 秋歌上の歌の配列については、前々回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」(2018/11/5)で検討しました。方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」(2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、『古今和歌集』の歌を、その元資料の歌と比較等した結果(同ブログの付記1.参照)を、再説すると、次のとおりです。
第一 『古今和歌集』の元資料の歌は、恋の歌が3割以上あるが、現代の俳句の季語でいうと初秋の歌と雁を含めた三秋の歌であり、菊が登場しないがすべて秋の歌と見做せる歌である。そして『古今和歌集』の編纂者は、語句の一部を訂正して、必要に応じて詞書をつけて『古今和歌集』に用いている。
第二 『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌を、詞書や歌の語句を適宜補い、初秋から、三秋をはさみながら仲秋、晩秋の順に並べている。
第三 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。また歌群ごとに歌の内容は独立している。
第四 その歌群は、つぎのとおり。
・ 立秋の歌群 (1-1-169歌~1-1-172歌)。
・ 七夕伝説に寄り添う歌群 (1-1-173歌~1-1-183歌)
・ 「秋くる」と改めて詠む歌群 (1-1-184歌~1-1-189歌)
・ 月に寄せる歌群 (1-1-189歌~1-1-195歌)
・ きりぎりす等虫に寄せる歌群 (1-1-196歌~1-1-205歌)
・ かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌)
・ 鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌)
・ 萩と露に寄せる歌群 (1-1-219歌~1-1-225歌)
・ をみなへしに寄せる歌群 (1-1-226歌~1-1-238歌)
・ 藤袴その他秋の花に寄せる歌群 (1-1-239歌~1-1-247歌)
・ 秋の野に寄せる歌群 (1-1-248歌)
③ 次に、「秋くる」と改めて詠む歌群 (1-1-184歌~1-1-189歌)での配列を、みてみます。つぎのような順で歌が配列されています。
1-1-184歌 題しらず よみ人しらず
このまよりもりくる月の影見れば心づくしの秋はきにけり
1-1-185歌 題しらず よみ人しらず
おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ
1-1-186歌 題しらず よみ人しらず
わがためにくる秋にしもあらなくにむしのねきけばまづぞかなしき
1-1-187歌 題しらず よみ人しらず
物ごとに秋ぞかなしきもみぢつつうつろひゆくをかぎりとおもへば
1-1-188歌 題しらず よみ人しらず
ひとりぬるとこは草ばにあらねども秋くるよひはつゆけかりけり
1-1-189歌 これさだのみこの家の歌合のうた よみ人しらず
いつはとは時はわかねど秋のよぞ物思ふ事のかぎりなりける
(参考)1-1-190歌 かむなりのつぼに人々あつまりて秋のよをしむ歌よみけるついでによめる
みつね
かくばかりをしと思ふ夜をいたづらにねてあかすらむ人さへぞうき
④ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定は、2018/11/5のブログの付記1.の表1参照)
1-1-184歌 木の間を漏れて届く月の光をみると、人の心をすり減らる(さまざまに物思いをさせる)秋がやってきたのだと感じる。
元資料の歌は、宴席の歌と推定。
1-1-185歌 誰にでも来る秋も悲しいが、自分が一番悲しい存在であるとわかったことである(仮訳)。
元資料の歌は、下命の歌と推定。
1-1-186歌 私のためだけに秋が来るのでもないのに、(秋がきて)虫の鳴き声を聞くと、どうしようもない悲しみが湧きおこってくる。
元資料の歌は、歌合の歌。
1-1-187歌 何を見ても秋は悲しく思われる。茂っていた草木が紅葉して枯れて散ってゆくのはどうしようもないと思うと。
元資料の歌は、宴席の歌と推定。
1-1-188歌 独り寝の私の床は草の葉ではないけれど、秋が来た今夜は、床も私も湿っぽいよ。
元資料の歌は、宴席の歌と推定。
1-1-189歌 季節が限られている訳ではないが、秋の特に夜は物思いの極みとなるよ。
元資料の歌は、歌合の歌と推定。
(参考)1-1-190歌 これほどまで時がたつのが惜しい夜を、楽しまないでそのまま寝てしまったであろう人もやるせないことだ(四句を「ねであかすらむ」と解すると、歌もできずに寝ないですごしてしまうだろう人は、歌もそうだが寝れないことも辛いことよ、の意となる)。(付記1.参照)
元資料の歌は、宴席の歌と推定。
⑤ 各歌を、このような理解をすると、この歌群の歌の各作者は、秋が来ると、いろいろと思い、気をもむことが多い、と感じているのではないかと推測できます。
それを、用語で確認するため、詞書や歌中の「あき・秋」表示の有無等をこの歌群関連の歌についてみると、つぎの表になります。
表 詞書と歌中の「あき・秋」表示の状況(1-1-183歌~1-1-195歌) 2018/11/13 19時現在
歌番号等 |
詞書 |
作者名 |
歌中の「あき・秋」 |
歌群 |
1-1-183 |
(やうかの日)よめる |
名あり |
(「あき・秋」の文字なし) |
A |
1-1-184 |
題しらず |
よみ人しらず |
心づくしの秋(はきにけり) |
B |
1-1-185 |
題しらず |
よみ人しらず |
おほかたの秋(くる) |
B |
1-1-186 |
題しらず |
よみ人しらず |
わがためにくる秋 |
B |
1-1-187 |
題しらず |
よみ人しらず |
秋(ぞかなしき) |
B |
1-1-188 |
題しらず |
よみ人しらず |
秋くるよひ(はつゆけかりけり) |
B |
1-1-189 |
(・・・の)歌合のうた |
よみ人しらず |
秋の夜(ぞ物思ふ事のかぎりなりける) |
B |
1-1-190 |
(・・・秋のよをしむ歌よみけるついでに)よめる |
名あり |
(「あき・秋」の文字なし。「ねてあかすらむ人さへぞうき」とる) |
C |
1-1-191 |
題しらず |
よみ人しらず |
秋のよの月 |
C |
1-1-192 |
題しらず |
よみ人しらず |
(「あき・秋」の文字なし) |
C |
1-1-193 |
(・・・の)歌合のうた |
名あり |
わが身ひとつの秋 |
C |
1-1-194 |
(・・・の)歌合のうた |
名あり |
秋(はなをもみぢすればや) |
C |
1-1-195 |
(月を)よめる |
名あり |
秋の夜の月のひかり(しあかければ) |
C |
1-1-196 |
(・・・ききて)よめる |
名あり |
秋の夜(の長き思ひ) |
D |
注1)歌番号等:『新編国歌大観』記載の巻番号―その巻での歌集番号―その歌集での歌番号
注2)歌群:上記の「② 第四」に示す歌群区分。
A:七夕伝説に寄り添う歌群 (1-1-173歌~1-1-183歌)
B:「秋くる」と改めて詠む歌群 (1-1-184歌~1-1-189歌)
C:月に寄せる歌群 (1-1-189歌~1-1-195歌)
D: きりぎりす等虫に寄せる歌群 (1-1-196歌~1-1-205歌)
⑥ この類似歌a 1-1-185歌のある歌群(上記表の「備考欄」B)の歌は、表の「歌中の「あき・秋」」欄にみるように、各歌において、秋に関して(景観ではなく)作者の心情につながるような形容をしている歌のみであることが確認できます。
配列からいうと、歌群Bは、あきらかに、前後の歌群と異なる思いが歌となっています。この歌群の歌の各作者は、秋が来ると、いろいろと思い、気をもむことが多い、と確かに感じています。
この歌の作者も、この歌群のほかの歌の作者とおなじように感じて、詠っていると推測できます。
⑦ また、各歌の詞書は、当然ながら歌を詠む事情を記しています。その事情が分からない歌が「題しらず」と記されており、作者もよみ人しらずとなっています。しかし、前々回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」(2018/11/5)で『古今和歌集』秋歌上の歌を検討したところ、よみ人しらずの歌は(諸氏も指摘いるように))元資料の歌が不明なのに例外的に、1-1-185歌は判明し『千里集』のなかの1首でした。
『古今和歌集』の巻第一の春歌上から巻第四秋歌上までにある「題しらず」の歌で、元資料の歌が判明しているのは、次の歌しかありません。
1-1-5歌:催馬楽 呂歌・梅枝 (作者はよみ人しらず)
1-1-185歌:『千里集』3-40-38歌 (作者は大江千里 秋部の歌 詞書として詩句あり)
1-1-192歌:『萬葉集』1-1-1705歌 (作者はよみ人しらず 「献弓削皇子歌三首」と題する歌の一首)
1-1-211歌:『新撰万葉集』歌2-2-153歌
(作者はよみ人しらず 秋歌の歌 詞書として詩句あり なお、付記2.参照)
1-1-247歌:『萬葉集』2-1-1355歌 (作者はよみ人しらず 「寄草」と題する歌の一首)
元資料のうち、『千里集』と『新撰万葉集』の編纂時点は、『新編国歌大観』によれば寛平5年(893)と寛平9年(897)なので、『古今和歌集』編纂者にとり、それほど時代が離れている訳ではありません。
⑧ 1-1-185歌の詞書の書き方は、『千里集』記載の詩句を直接記すことを避ける工夫は色々考えられるし、『千里集』の作者である大江千里は、下命に応えてこの歌集を献上しており、朝廷からみて、勅撰集において律令の建前から名を秘す理由はありません。にも拘わらず、「題しらず よみ人しらず」と『古今和歌集』の編纂者はしています。
これらのことから、1-1-185歌については、『古今和歌集』の編纂者が、配列のうえから、元資料の詞書と作者名を積極的に伏せた、と理解できる扱いをしているといえます。それは、この歌は元資料である『千里集』を一旦忘れて理解せよ、という示唆ととれます。また、1-1-5歌などほかの歌についても、何らかの配列からの配慮が予想できます(検討は後日とします)。
⑨ この歌群の歌は、「題しらず よみ人しらず」という詞書に従い、各歌の作者の心情に留意して理解すべきです。
尤も、この歌群に関して、『古今和歌集』の編纂者が、書き残したものが今日まで伝わっている訳ではないので、この理解は一つの仮説です。
3.類似歌aの検討その2 現代語訳の例
① 諸氏の現代語訳の例を示します。
「地上すべてのものに秋が来るとともに、悲しい思いにさせられるが、この自分自身こそ、悲しいものであると、身にしみてわかったことである。」(久曾神氏)
「誰の上にでも来る秋が来ただけなのにつけても、私の身の上こそ誰にもまして悲しい身の上なのだと、身にしみて感じとったよ」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)
② 久曾神氏は「秋という季節が悲しくさせると思っていたが、自分自身こそ、その悲しみの根源であると悟った歌」と指摘しています。
③ 『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「「おほかた」の人の中でも、自分一人が特に悲しい意というのである」と、指摘し、また、「大江千里の『句題和歌』にこの歌がある。それによれば、白楽天の詩句「秋来只識此身哀」「秋来リテ只此ノ哀シキヲ識ル」の翻案。」と指摘しています。
しかし、後ほどの類似歌bの検討で示されるように、白楽天の詩句は「秋来転覚此身衰」ですし、『新編国歌大観』記載の『千里集』でも「秋来転覚此身衰」とされています。
④ これらの訳例は、類似歌bの誤解された詩句「秋来只識此身哀」を意識しているかもしれませんが、『古今和歌集』の歌であることにどの程度留意しているか不明です。
4.類似歌aの検討その3 現代語訳を試みると
① この類似歌a 1-1-185歌の詞書は、「題しらず」であり、よみ人しらずの歌です。類似歌bの詞書(「秋来只識此身衰」)は、この類似歌aの詞書ではありません。上記2.の⑧と⑨に留意して現代語訳を試みます。
② 初句にある「おほかた」は、形容詞の語幹であり、「ひととおりだ。普通だ。」の意があります(『例解古語辞典』) 副詞としての使い方もあり、「一般に、おしなべて(一様に・普通に・世間並みに)。あるいはひととおり・とおりいっぺん。あるいはそもそも・だいたい。」などの意がある、としています(同上)。
『古典基礎語辞典』では、「この語の用法は非常に多岐にわたり、総じて中古文学では名詞が多く、中世にはいると副詞や接続助詞の例が増えて来るが形容動詞の例はどの時代も余り多くない」と説明し、名詞「おほかた」に、「あたり全体。だいたい・ほとんど・総じて。普通・ひととおり・世間一般」と語釈しています。
なお、『万葉集』に「おほかたの」の表記はありませんが、「おほかたは」の例が2例(「凡者」表記の2-1-2925歌と「大方者」表記の2-1-2930歌)あります。
③ 工藤重矩氏は、「おほかた」について、『平安朝和歌漢詩文新考 継承と批判』(風間書房 2000)の「I 和歌解釈の方法」で、つぎのように述べています。
A 「おほかた」は、真意を言外に潜めて、それとは反対のことを一般論として表現する。
B 対概念を予想させ、その言外の個の事情に真意が存するという用法である。
C 意図通りの真意が伝わるのは、(歌の場合)「それぞれ(歌の)作者と享受者とが共有する具体的な場面・人間関係の中で詠まれた(歌)」だから。
D 当事者には全く誤解の心配はなかったが、場への考慮が薄れた和歌解釈で誤解が生じた。
E 「おほかた」が対概念を持っていることは、早く「かざし抄」(付記3.参照)にある。
F 歌におけるその例をあげる(抜粋)。
1-1-185歌は、(題しらずよみ人しらずの歌だが)詞書が、白楽天の特定の詩の一句であることが明確である3-40-38歌を引用しているという認識を皆が持っているので、「おほかた」の意は同一の理解をしている。
1-1-388歌は、詞書で作詠事情が分かりしかも旅立つものが作者であるので理解しやすい。
1-1-789歌は、題しらずの歌であるが『伊勢物語』88段に描かれているような場面での詠と理解して然るべきである。
④ 工藤氏は、1-1-185歌の訳を示している訳ではありません。「おほかた」の意に共通の理解が得られているのは、3-40-38歌と全く同じであることを理由にあげているだけです。
「おほかた」の理解を、ここでは、工藤氏の論の上で検討します。
しかし、『古今和歌集』の編纂者が、この配列の工夫から「おほかたの」の理解に「題しらず」であっても誤解は生じないとしているとして、検討します。
⑤ 二句にある「あき」は、季節の「秋」のほか、動詞「飽く」の名詞化とも考えられます。
しかし、この歌は、題しらずよみ人しらずの歌として『古今和歌集』巻第四秋歌における、「秋くる」と改めて詠む歌群(1-1-184歌~1-1-189歌)にあります。
このため、二句にある「あき」は、秋の意が第一義であり、初句~二句にまたがる「おほかたの秋」は、
「世間一般に言われている秋、即ち、この歌群の他の歌の作者が、「秋が来ると、すべていろいろと思い、気をもむことが多い、と感じる」という秋のことであり、対概念として「私に訪れてきたのはそうでもない秋、」を含意している、と思います。
⑤ 二句にある「からに」は、接続助詞です。その意は、
A あとに述べることが、そこから直ちに始まるという気持を表す。・・・するだけでもう・・・。
B あとに述べることの起こる原因・理由を表わす。・・・ので。・・・から。
などがあり、上記3.での訳例では、Bの意、と思います。
⑥ 三句にある「わが身」は、ここでは、「身」が「からだ・肉体」とか「人の運・身の上」とか「自分自身」とかの意(『例解古語辞典』)なので、「わが身」とは、「作中の主人公の(漠然とした)今後の行末」とか「作中の主人公が何者かに行動を強いられて生きるようになること」とかのようなことを意味している、と思われます。
⑦ 四句「かなしき物」の「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない感情を表わす」語であり、「愛し」と理解すれば「身にしみて、いとしい、じいんとするくらいにいじらしい」意であり、「哀し・悲し」と理解すれば、身にしみて、あわれだ。ひどく切ない。やるせなく、悲しい」意となります(『例解古語辞典』)。
『古典古語辞典』では、「かなし」とは、「愛着するものを死や別れなどで喪失するときのなすべきことのない気持ち。別れる相手に対して何の有効な働きかけもしえないときの無力の自覚に発する感情。」等と最初に説明し、次の語釈をあげています。
A 悲しい。せつない。現代の「かなしい」と基本的に同じ。
B せつないほどいいとおしい。かわいくてかわいくてしかたがない。
C 心打たれてせつに感じ入る。
D 貧しい。中世以降、「たのし(楽し、おかねの)」の対義語。
⑧ 四句「かなしき物」の「物」とは、『例解古語辞典』には、「個別の事物を直接明示しないで一般化していう。特に物語などで飲食物・衣服・調度の類をばくぜんと遠回しに示していうことが多い。」のほか「普通のもの。世間一般の事物。」、「ものの道理」や、「(形式的名詞として連体修飾語を受けて用いられ)それが一般的な事実や原則であることを表わす。(例)あけぬれば暮るるものとは知りながら、なほ恨めしき朝ぼらけかな(後拾遺集・恋二))と」説明しています。
また、『古典基礎語辞典』では、「もの」は「物・者(であり)、古い時代の基本的な意味は、「変えることができない不可変のこと」と説明し、
a 運命。既成の事実。四季の移りかわり。
b 世間の慣習。世間の決まり。
c 儀式。
d 存在する物体。
e 「物思ひ」とは、上記の「もの」のaの意を受け、恋慕にせよ、悔恨にせよ、胸の中にじっとたくわえつづけていること。
f 怨霊のモノやモノノケのモノは、由来の異なる別語。
と説明しています。
⑨ ここでは、訳例のように二句にある「からに」が、「あとに述べることの起こる原因・理由を表わす」(上記の⑥にいうBの意)であれば、「もの」の意味するところを、初句と二句にある「おほかたの秋くる」を原因・理由として、考えることになります。
このため、「かなしき物」とは、「自分の力で如何ともしがたくて、己が行動や言葉を選んでいる状態にある、と自覚した、ということ」、の意であると思います。
⑩ 五句にある「おもひしる」は、「理解する。思い知る。」の意ですが、「おもふ(思ふ)」には「a 心に思う。b いとしく思う。愛する。c 心配する。d 回想する。なつかしむ。e 表情を出す(・・・という顔つきをする)」の意があります(『例解古語辞典』)。
⑪ さて、以上の検討の上に、この歌の現代語訳を、題しらず、よみ人しらずの歌として、配列を意識しつつ詞書に従い、試みると、つぎのとおり。
「この歌群の他の歌の作者が、「秋が来ると、すべていろいろと思い、気をもむことが多い、と感じる」と言う世間一般の秋になったので、私もそう感じたが、私に訪れてきたのはそうでもない秋であり、私自身は特別になんともしがたい状況にこの秋はなったということをしっかりと感じたのであるよ。」
⑫ このように、「からに」の意は、Bの意であり、この歌は、作者にとり、今年の秋は、まだ秋となったばかりであっても、とんでもないことを経験する(あるいは確実にそうなる)と予感している、と詠った歌ではないでしょうか。
もう少し現代語訳を、ほかの歌の作者などに言及せず、とんでもないことを経験するのが、「秋」に通じる「飽き」に関係しているとみて、試みると、つぎのとおり。
「普通に秋が訪れてきただけのやるせない気分であると思っていたのが、私に訪れてきた秋は、秋は飽きに通じていてそれを私は引き留められない状況に今立ち至っていることを痛感する秋であることよ」
⑬ 上記3.の訳例よりも、「おほかた」の意を汲んでいる訳であると思います。そして配列からの要請とみなせる条件「作者は、秋が来ると、いろいろと思い、気をもむことが多い、と感じた」歌です。
⑭ 次に、類似歌bの検討となりますが、次回とします。
ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
(2018/11/19 上村 朋)
付記1.1-1-190歌について
① この歌は、諧謔な歌と思うが、歌の理解において「うし」の対象が最初よくわからなかった。
五句「人さへぞうき」の「さへ」は副詞であり、さらにそのうえに加わる意を添える。
作者が「人」と並べて「うし」としているのは、なにか。人や事物も対象となり得るので、配列での整合も対象に詞書に従い、検討した。
② 詞書によれば、「秋のよをしむ」という題でその夜歌を詠む集いがあり、そのついでに(つまり題に無関係に)詠んだのがこの歌ということになる。歌の披露をするだけを目的として集うとは考えられないので、宴会で、主催者より出題されそれぞれが歌を披露したという場面ではなかろうか。
五句にいう「人」とは、この集いに参加している人で、「いたづらにねて(または「ねで」)あかす人を指している。作者のみつねからみれば、出題されて歌を披露しなかった人は、その集いの楽しみの一つを放棄した人々になる。歌の披露をしなくとも主催者が特段に咎めない程度のものであっても、下僚であるみつねがそのような人を詠い込んだ歌を積極的に披露するのは場違いであるしおこがましい。歌の披露をしないひとがいたのを確認した主催者の命で、みつねはこの歌を詠んだのではないか。
④ 歌にいう「うし」とは、みつねが「うし」と思うのではなく、主催者が「うし」と思う、というものであろう。
「うし」とは「憂し」(形容詞)であれば、「ままならぬ世の中を生きていくところから生ずる重く気がふさがるような心情、つらさ、むなしさ、やるせなさなどを表わす」意をこめた「つらい、ゆううつだ、いやだ」であると『例解古語辞典』は説明している。
④ その夜歌を詠もうとしなかった人や詠むのに苦労していた人もいたとすると、その人らを対象にした諧謔な歌として、この歌を理解できる。
⑤ この歌の前の歌群の「「秋くる」と改めて詠む歌群(1-1-184歌~1-1-189歌)で、秋が来ると、すべていろいろと思い、気をもむことが多い、と感じて詠っているので、配列からは、秋は気をもむことが多いがこのような例もある、てとして、月に寄せる歌につなふ位置にある歌とも理解できる。
そうすると、この歌の趣旨は、本文2.④の理解を一歩すすめて、
「秋は憂いが昂じる季節だ、この集いは月に寄せてそれを打ち消そうとのものであったのに、歌を詠まないで今夜を過ごそうという人がいる。それも憂いね」
という趣旨の歌に理解してよい。それでも「あきのよをしむ」という出題にも添った歌となっている。
⑥ このため、五句「人さへぞうき」の「さへ」は、「秋が憂い」ということを前提に用いており、作者が「人」と並べて「うし」としているのは、「秋」である。
少なくともこの『古今和歌集』ではそのように理解してよいように配列している、と思われる。
付記2.1-1-211歌について
① この歌は、『忠岑集』にも類似歌がある。2-13-32歌と2-13-179歌である。前者は歌合の歌という部立にあるが、現存する当該歌合資料になく、後者は増補ともいうべき部立にあり、古今集が参考とした元資料は、『新撰万葉集』のみと整理した。
② 忠岑は『古今和歌集』の編纂者の一人であり、編纂作業のために歌集を献上しているが、それは残っておらず、この『忠岑集』は後代の他撰と考えられている。
① 『挿頭抄』は、富士谷成章(ふじたになりあきら)著の語学書で明和4年(
② デジタル大辞泉によれば、「名 (な) 、装 (よそい) 、脚結ぶ (あゆい) 」とともに彼の四大品詞分類の一つを形成する「挿頭」を解説したもの。だいたいいまの代名詞、接続詞、,副詞、感動詞、接頭辞書などに相当する。該当する 200あまりの語をあげ、それぞれに適切な口語訳をつけ,その意味,用法を述べ,部分的に口語訳をつけた証歌をひいている。
(付記終り 2018/11/19 上村 朋)