2017/5/22 前回、「三代集のからころもも 外套」と題して記しました。
900年代の「からころも」が、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着ですが、例外として衣裳一般の意の歌があることを指摘しました。
今回は、「からころも+たつ 女人往生」と題して、記します。
1.「からころも」表記が、「たつ」を形容している歌
① 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記のある歌は、『萬葉集』と三代集で5首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。
2-1-2198歌 738以前 巻十 秋雑歌 詠黄葉 よみ人しらず
1-1-995歌 849以前 巻十八 雑 よみ人しらず
1-2-359歌 905以前 巻七 秋 よみ人しらず
1-2-383歌 905以前 巻七 秋 よみ人しらず
1-2-386歌 945以前 巻七 秋 つらゆき
秋の紅葉を、4首詠んでいます。最初の歌(2-1-2198歌) でいうと、「たつ」表記は、衣を「裁つ」という動詞と地名の「たつた」を掛けて詠んでいます。
「からころもたつ」とは、「からころも」表記の衣(外套)を所定の形に仕立てる意、となります。仕立てた衣を「たつたのやま」に見立てていることになります。
「からころも」が毎年秋に新調されて、着馴れてゆくのが、紅葉の山が出現し、そして落葉の山へと移ることの比喩となり得ています。
② 残りの1首(1-1-995歌)は、しかし、部立が「雑」の歌であり、「からころも」の表記があるからと言って「紅葉したたつたのやま」を詠んでいると断言するには、一抹の不安があります。
③ なお、つらゆきの歌の作詠時点は、この歌が貫之の没年以上遡れなかった結果の「945年以前」であり、20年、30年作詠時点が遡ったとしても不思議ではないところです。『五千和歌集』のよみ人しらずの歌も、推計ルールとして直前の勅撰集成立としているので、つらゆき歌同様20~30年の遡ることは有り得るところです。
④ 「からころも」表記に引き続き「たつたのやま」表記以外の「たつ」のある歌は、『萬葉集』に無く、三代集で6首あります。作詠時点順に示すと次のとおり。
1-1-375歌 849以前 巻八 離別 よみ人しらず
「たつ」の意は、裁つと発つ
1-2-539歌 905以前:後撰集 巻九 恋 よみ人しらず
「たつ」の意は、裁つと(うわさが)起つ
1-2-713歌 905以前:後撰集 巻十一 恋 よみ人しらず
「たつ」の意は、裁つと発つ
1-2-1317歌 948以前 巻十九 離別羈旅 女
「たつ」の意は、裁つと発つ
1-3-1189歌 955以前 拾遺抄 巻十八 雑賀 よみ人しらず
「たつ」の意は、裁つと竜(の口)
1-3-321歌 964以前 巻六 別 よみ人しらず
「たつ」の意は、裁つと発つ
同音二意の例は、『万葉集』に既に 「あふ(逢うと相坂) 」があり、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代から、このように増えてきています。三代集では、「たつ」のほか、「ゆふ」、「から」、など多くが用いられています。 「からころも」を折りこんだ業平の1-1-410歌が数語の同音二意をもちいていることを諸氏が指摘しています。
⑤ また、「たつ」は、このように、多くの意味があり、「からころも」がもともと外套という衣類の一種であって「ころも」の総称・美称に容易に変容できたことから相性の良い組み合わせとなったのではないでしょうか。
⑥ 「たつたのやま」表記の検討をこの後に行いますが、三代集では、「からころも」表記に合せた「たつたやま」表記がなく、すべて「たつたのやま」の表記でありました。これは『萬葉集』での表記と同じであります。(それは五七調という制約の詩であることも理由の一つであると思います。)
2.「からころも」の縁語
①「からころも」は、多くの縁語を持っています。『万葉集』で「からころも」表記の歌7首では、「たつたのやま」のほか「きなれ(着馴れ)」とか「き(着)」、衣の一部の名称である「すそ」があります。
② 三代集の39首では、これらの外に、上記の「たつ(裁つ・発つ等)」、「かへす、かく、よそふ」などが新たに用いられています。
衣の一部の名称では「すそ」のほか「ころも」「たもと」そで」が新たに用いられています。
③ 三代集に、「たつ」が、竜の口をも指した歌があります。
3.「たつ」に「竜」を掛けた歌
1-3-1189歌 灌仏のわらはを見侍りて よみ人しらず
唐衣たつよりおつる水ならでわが袖ぬらす物やなになる
① 灌仏とは、4月8日の釈迦誕生日を祝う灌仏会の略称であり、現代の花祭に相当する恒例の儀式を指します。これは、当時の上流貴族が行った時の歌です。
その儀式において所定の役を担っている「わらは」が務め終り、かつ注いだ甘露が竜の口から誕生仏(像)にかかっているのをみて、自分の袖も濡れているのに気付いたのが作者です。
② 『拾遺和歌集』では、巻第十八「雑賀」に置かれている歌です。(同様の歌が、『拾遺抄』巻第九「雑上 百二首」にもあります(1-03'-448歌))。
雑賀の巻頭歌(1-3-1159歌)は、紀貫之の「延喜二年五月、中宮御屏風、元日」と詞書のある歌です。朝議を詠う歌ではありませんが、元旦を迎えたことを寿いだ歌です。
また、次の歌もこの部にあります。
1-3-1162歌や1-3-1172歌 子の将来を予祝して詠う
1-3-1185歌 人の変心を物に寄せて詠う この歌から以後は、男女の間のことに関して詠う歌が続く
1-3-1207歌 昔の交友を回想し詠う
1-3-1209歌 巻尾の歌である。突然の出家に唖然とする家人が詠う
③ 『拾遺沙註』は、この歌について思慕して流す涙といっていません。作者の袖を濡らしたのは、童を恋う涙ではない、と言っています。
④ 朝廷の灌仏会は、神事と重なると停止されることが多く平安中期には内裏で行われることが少なくなって、東宮や中宮などで行われるようになります。作法は内裏に準じていたと思われます。上流貴族もそれにならって行います。
『八代抄』に曰く「本云、灌仏日、女御布施、童女持参。殿上人扶持、如五節。」
灌仏会は男が中心で行い、女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加して仏縁を結ぶという状況でした。女御・更衣などは男子が終わったあとに、布施を間接的にさずけ灌水しました。
⑤ 灌仏会の天蓋を「からころも」(外套)で表現していると理解しました。その材質は華美なものであることを初句の「からころも」が示唆しているかもしれません。
⑥ わらはとは、「元服」(男子が成人になったのを祝う儀式であり、平安時代初期では多くは10歳から16歳の間に行われた)を、していない子、またそのような男に対応する女の子を指します。また、その姿を指します。
竹鼻氏は、ここでは、灌仏会の行事に奉仕する童女。灌仏会に女御の布施を持参する女童(めのわらは)。但し仏前に運ぶのではなく、女房達の布施を蔵人に渡す段などでの役を務め幼い子を言う、と説明しています。
『拾遺沙』での「わらは」の表記をみると、232歌の詞書の「わらは」は人の子。
448歌の詞書の「わらは」は人の子。533歌の「わらは」は人の子(権中納言実資の子どもの頃) であります。
⑧ この歌は、「雑賀」の部に置かれている歌です。1-3-1185歌以後の悲恋に終らないようにと訴えるのが、「賀」であるというかのような歌が続いています。少なくとも撰者の意は、次の巻の「雑恋」にはこれらの歌は含められないという決心をしているとみえます。
⑨ さて、当時の女性の立場です。竹鼻氏は、「当時、女性は女性である限り救われなくて、生まれ変わった後の精進の結果で救われる成仏する。大人にまじって、晴の儀式に殊勝にふるまっている童女をみて、童女の成仏までの長い道程を思い、口から注いでいる竜と釈迦像と童女からがれる王と童女から竜女成仏のことを連想したか。」と指摘しています。
⑩ 五句の「なになる」とは、作者の感涙です。「人身受け難し既に受く。仏法聞きがたし既に聞く。」という状況に自分があり、さらに女人であるが、灌仏会で女性からのお布施のものの中継ぎをする役を務めている幼い子が役を務め終ったのをみて、仏縁の深まったことを確信した作者自身涙したことです。
⑪この歌の作者は、女性であるはずです。
4.当時の仏教と死体の始末
① 当時の仏教について、確認します。
神仏の習合は奈良時代にも行われています。本地垂迹説を説き、神前で仏教経典が読まれたり官社に僧侶が置かれたりしました。仏教を守る存在として寺院に鎮守の神として祀られるようになった八幡神は、このような神仏習合神として最も早くまつられた神であります。
長岡京から平安遷都した桓武天皇の末年、最澄と空海は、国家に対して宗派としての主体性をもった天台・真言両宗を立てました。しかし天皇家や上流貴族の支持がなければ存立は難しく、庶民の支持にのみ頼れない状況であり、氏族というより家単位で寺の維持が図られました。灌仏会も天皇・春宮・藤原道長家という家単位で行われています。
② 灌仏会は男が中心で行うものです。女は、不浄なものとして間接的にあるいは、別に参加し仏縁を結ぶ以外ありませんでした。
③ 日本では女性の生理(月経と出産)を不浄とみる民俗があり、神は不浄を忌むというところから神道的神事も男性中心に行われてきています(と言われています。延喜式巻五・神祇五は斎宮(いつきのみや)に充てられ「凡天皇即位者。定伊勢太神宮齋王。・・・」云々と斎王の規定があり、これは女性です。でも、上流貴族の奉仕する祭では、祭主は確かに家長(即ち、男子)が、勤めています)。
このため、この観念は日本にもたらされた仏教の女性観と抵触せず、そのため仏教においても様々な女性差別が見られました(と言われています)。
女性の仏教修行も認められ、最澄は『法華経』の竜女成仏を例として即身成仏を説き、空海も男女、身分にかかわりなく万人が仏教徒いう器といっています。
しかし、比叡山に女人禁制を最澄が定めてのち高野山・大峰山も同様とされました。後代の鎌倉期に法然は、阿弥陀仏の第十八願(念仏往生の願)と第三十五願(女人往生の願)を合わせ、変成男子のかたちで女人往生を説きました。
道元は、修行と成仏に関して徹底した男女平等を説いて、当時の大寺院における女人禁制を強く批判しています。
④ 庶民は、死後風葬されました。平安時代、京の庶民は、死骸を三大風装地とひとつの水葬地に運んで野辺送りをして捨てました。
⑤ この時代には、旱魃・洪水・地震などの災害が相次ぎ深刻な飢饉と疫病の蔓延がありました。寺に弔って葬られる死者は、高僧か高貴な身分の者に限られ、民衆には葬式も墓も許可されていません。
都は、野垂れ死の死骸が道端にごろごろし糞尿やほこりが舞っていました。鳥辺野は平安時代、京の三大風葬地のひとつであり、東山三十六峰のひとつ、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、東福寺にいたる一帯を指します。修行僧は、野晒にされた民の死体を集めて荼毘にふし、鳥辺野の山中に阿弥陀堂を建て供養しました。六道珍皇寺は鳥辺野の風葬地を管理し死者に引導を渡す場所でありました。
⑥ 三大風葬地とは、鳥辺野(とりべの、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、)、化野(あだしの、嵐山の麓)、及び蓮台野(船岡山の麓)です。
鴨川の川原(三条河原~六条河原)は水葬地でありました。鴨川の一番大切な役割は、洪水時に、死者の遺体を流し去ることでありました。
⑦ 政治的には、貴族たちの支配権が衰え僧兵が横暴を極め武士が進出してきている時代です。宇治の平等院鳳凰堂建立が、今1-1-995歌のための検討対象期間としている期間(~1200年)の下限に近い1053年です。
⑧ 雑の部に置かれる「からころも たつたのやま」の解明は進みませんでしたが、次回は、たつたのやまを中心に、記します。
御覧いただき、ありがとうございます。
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