わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第13歌など

前回(2020/8/10)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第13歌など」と題して、記します。(上村 朋)

 

 1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-12歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

2~4.承前

5.再考第四の歌群 第13歌

①「第四の歌群 あうことがかなわぬ歌群」(3-4-12歌~3-4-18歌)の最初の3-4-12歌は、前回検討したところ、恋の歌でした。ただし恋の歌の要件の第三が保留中です。

今回は、歌群の二番目の歌3-4-13歌より検討を始めます。『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとに歌が2首あります。この歌と次の3-4-14歌です。

 3-4-13歌 おもひかけたる人のもとに

   あづさゆみすゑのたづきはしらずともこころはきみによりにけるかも

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/5/7付け参照)。

 詞書:「懸想し続けている人のところに(送った歌)」

 歌本文:「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、どのような方法をとったらよいのかわかりません。でも、私の気持ちは貴方に纏いついてしまったようなのです、本当に。」

 この歌は、詞書にある「おもひかけたるひと」を、下二段活用の連語の動詞「おもひかく(思ひ懸く)」の連用形+助動詞「たり」の連体形+名詞「ひと」と理解したところです。また、歌本文にある「あづさ弓」は、「あづさ」と呼ぶ木で作った弓であり、歌語としては「ひく」等にかかる枕詞でもあります。しかし、この歌は、弓の種類は関係なく、弓一般の特性しか歌に用いていないとみました。男女の間に起こるであろう事態を「すゑ」と見立てているとすると、過去の男女どちらかの問題行動とか出逢いが「本」になると理解したところです。

③ 同音異義の語句を確認したところ、二つありました。詞書にある「おもひかけたるひと」と歌の五句「よりにけるかも」です。前者は見落とし、後者は確認が不十分でした。

④ 「おもひかけたるひと」の意は、上記②のほかに、次の理解が可能です。

名詞「おもひ(思ひ)」+下二段活用の動詞「かく(欠く・懸く)」の連用形+助動詞「たり」の連体形+名詞「ひと」

 名詞「思ひ」には、「思うこと・思慮」とか「願望」、「心配・もの思い」、「思慕の情・恋心」、「喪に服すること・喪中」の意があります。(『例解古語辞典』)

 下二段活用の動詞「欠く」は、「不足する・欠ける」の意です。

 下二段活用の動詞「懸く」の場合は、下二段活用の連語の動詞「思ひ懸く」と同じ「思いをかける・慕う」意と同じか、と思います。

 また、下二段活用の動詞「思ひ懸く」もあり、上記のほか「予測する・あらかじめこころに浮かべる」の意もあります。

 助動詞「たり」は、「動作・作用が引き続いて行われる意」、「動作・作用がすでに終わって、その結果が存続している意」とか「動作・作用が完了した意」を表します。

 そうすると、「おもひかけたるひと」は同音異義の語句であって、「思ひ」と「かく」と「たり」の意の組合せが、いくつもあることになります。この歌の詞書においての意を、『猿丸集』の配列から絞りこめるかどうかを最初に検討します。

⑤ 前の歌群の歌(3-4-10歌や3-4-11歌)は、オミナエシに親どもを暗喩した恨み節の歌(3-4-10歌)と、親の反対を押し切っても成就したいと詠う歌(3-4-11歌)でした。この歌群の最初の歌は、不退転の決意を披露した歌(3-4-12歌)でした。

 この三首の延長上にこの歌があるので、恋の進捗は順調ではない時点の歌であることが予想できます。燃える思いの二人と思いこんで詠み送っているはずです。

 しかしながら、3-4-13歌の詞書では、助動詞「たり」を用いて、現在から振り返って相手の人も評価したかにもとれる文言です。即ち、助動詞「たり」が「動作・作用が完了した意」の意であり、現在は、過去の事と割りきって『猿丸集』に記載している、と理解できます。

 このため、平仮名表記されている「おもひかけたるひと」とは、上記②の詞書の現代語訳(試案)での意、即ち

 「懸想し続けている人」 (「思ひ」は作者の思慕の情、「かく」は懸く、「たり」は引き続き行われている)よりも、次のいづれかではないか、と思います。

 第一 思慮の不足していた人 (「思ひ」は相手の思慮)

 第二 (作者への)思慕の情が欠けていた人」(「思ひ」は相手の思慕の情)

⑥ さて、もう一つの同音異義の語句は、歌本文にある、五句「よりにけるかも」です。

 その「よる」を、上記の現代語訳(試案)では、「撚る」としたところです。この歌の類似歌の五句「よりにしものを」の「よる」は、「寄る」の意でした。仮名表記が「よる」である動詞は、この他「依る 因る 拠る 縁る」などがあります。

 また、五句「よりにけるかも」にある「ける」は助動詞「けり」の連体形です。その意は、4つあります。即ち 

 第一 ある事がらが、過去から現在に至るまで、引き続いて実現していることを、詠嘆の気持ちをこめて回想する意を表す。

 第二 ある事がらが、過去に実現していたことに気がついた驚きや詠嘆の気持ちを表す。

 第三 今まで気づかなかったり、見すごしたりしていたこと眼前の事実や、現在の事態から受ける感慨などに、はじめてはっと気づいた驚きや詠嘆の気持ちを表す。

 第四 伝聞や伝承された過去の事実を回想していう意を表す。(『例解古語辞典』)

 上記②に記す現代語訳(試案)では、第三の意に理解し、親の説得にあったが、相手に対して、強い気持ちが増してきていることに、自分でも驚いている意が込められている、とみたところです。

⑦ この歌は、作者が、「恋に横やりがはいった時点」で相手に送ったものですが、詞書が回想文だから、その後の進展ははかばかしくなかったのでしょう。そうであれば、この歌を詠ったときは、説得を受け入れずに相手もいると信じていたので、「けり」は上記の第二の意、終助詞「かも」は感動文をつくる意である、と思います。

⑧ 歌本文の現代語訳を改めて試みます。

 詞書:「(私への)思いが欠けてしまっていた人のところに(送った歌)」

  (「13歌詞書 新訳」)

 歌本文:「(あづさ弓には末と本がありますが、そのような)本から生じて末にたどりつくには、どのような方法をとったらよいのかわかりません。でも、私の心は貴方の心に纏いついてしまったことだなあ。」 (「13歌本文 新訳」)

⑨ この歌(3-4-13歌)は、類似歌(2-1-2998歌)が男の愛情には不安を感じつつも受け入れようとしている女の歌であるのに対して、(結果はともかく)相手を信じ切っておくった歌であり、恋の歌の要件の第一と第二を満足し、第四も満足しています。第三は後程検討します。

⑩ この歌の作者の状況は、女でも男でもあり得る、と考えられます。「ぎ」をしのぐ事態がどちらに多いか不明です。詞書には、「人」におくった歌、と記してあり、「女」におくったと記していません。「人」の性別が明らかになれば、恋の相手である作者の性別も定まります。

 『猿丸集』での「人」という字の用いられ方やこの詞書のもう一つの歌3-4-14歌本文を再確認し、さらに『猿丸集』と同時代と思われる三代集での詞書での「人」の用例をみてから作者の性別を判断したい、と思います。

 

6.再考第三の歌群 第14歌

① 3-4-14歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌は2首あり、直前の3-4-13歌とこの歌です。

 3-4-14歌 (詞書は3-4-13歌に同じ(おもひかけたる人のもとに))

   あさ日かげにほへるやまにてる月のよそなるきみをわがままにして

 ② 現代語訳として、詞書は、上記5.の⑧の「13歌詞書 新訳」として、歌本文を「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)から引用します(ブログ2018/5/14付け参照)。

 詞書:「(私への)思いが欠けてしまっていた人のところに(送った歌)」

 歌本文:「朝日が射してはなやかに染まっている山にまけず、かがやいている月のように、私には(今は仰ぎ見る)遠い存在であるあなたとの距離を、いずれ私ののぞむ状態に(したいものです)」

 この歌は、五句「わがままにして」を、「我が+儘+に+して」であり、自分の思うままに、の意としたところです。

③ 同音異義の語句の語句とみなすべき語句がやはりありました。歌本文における、「わがままにして」と「きみ」です。「わがままにして」は、上記のほかに、

「我が+真(接頭語)+魔+に+して」 (「魔」は仏教語で仏道修行の妨げをする悪神)

が考えられます。

 「我が」と形容している「魔」が「きみ」であると、「きみ」(君)は恋の相手ではなく説得をした親を想定することになります。

 そして、この歌は、「して」の接続助詞「て」の後の行動を示唆する表現(例えば動詞)が記されていません。それにより三句にある格助詞「の」の理解によっては、この歌は、次のような文からなる、といえることになります。

 文A あさ日かげにほへるやまにてる月の(如くになった)

 文B (それは)よそなるきみをわがままにして(しまう)」

 文C (そのことは我を惑わせる。あるいはそのことは我に決意させる。)」

④ それを現代語訳すると、次のとおり。

 文A 「朝日が射してはなやかに染まっている山にまけず、かがやいている月のように、私には(今は)遠い存在にあなたはなってしまった。」

 文B 「それは、私たちとは無関係であってよいどなた様かを私の仏道修行の妨げをする悪神と見立ててしまうような状況です。そして、」

 文C 「それは困惑の極みです。」あるいは「そうであっても、私は、あなたと添い遂げたいと思っています。」

⑤ このような理解が上記の「13歌詞書 新訳」のもとで成り立つならば、「わがままにして」は同音異義の語句と言えます。

 四句「よそなるきみを」の「よそ」は、「余所、自分と無関係なところ・無縁な状態にあること」の意です。ここまでの歌の配列を重視するならば、「よそ」とは、「恋の相手がにわかに近づけなくなった状況に置かれたこと」を指します。だから、遠くに月が西の空に沈む状況を景として歌のはじめに詠ったものと思います。光かがやく月(である貴方)は今遠くにいってしまっている、と言う感覚です。

 女の親も男が近づくのを防ぐ手段を講じたことを意味し、「13歌詞書 新訳」のもとで上記のような理解は成り立ちます。現代語訳(試案)も上記の理解も類似歌と歌意が異なっており、『猿丸集』の歌の要件の第二を満足します。

⑥ このため、2案を比較するならば、詞書において「かく」を「欠く」と理解しているのでこの新しい理解のほうを採りたいところです。しかし、『猿丸集』の編纂時点からみればそうであったかもしれませんが、現にこの歌を相手におくった時点では、この歌の作者にとって「かく」は「懸く」でもあったはずです。「欠く」という認識を持って詠った歌かどうかは微妙です。そのため、要件の第三の検討のひとつである歌群検討時まで現代語訳は両案併記とします。

 さて、上句は、類似歌(2-1-498歌)とまったく同じなので、歌本文の上句は、土屋氏の訳を拝借して、現代語訳(試案)は、次のように修正したい、と思います

 「朝日の光の美しくさす山になお、光りつつ残っている月のごとくに、遠く今は離れた状態であるあなた。そのあなたは、(いつか)私の思い通りに(なってほしい)。」(14歌本文 現代語訳修正試案)

 上記の新しい理解には、次のような現代語訳を試みました。五句の「して」のあとの割愛されている語句は、「14歌本文 現代語訳修正試案」と同様に、願望の語句としました。

 「朝日の光の美しくさす山になお、光りつつ残っている月のごとくに、私には遠い存在にあなたはなってしまった。それは、私たちとは無関係であってよいどなた様かを私の仏道修行の妨げをする悪神と見立ててしまいたくなる状況であり、そうであっても、私は、あなたと添い遂げたいと思っています。 」(14歌本文 新訳)

 ⑦ この歌は、未来の夫婦を夢見た恋の歌であり、恋の歌の要件第一を満たしますこの歌の類似歌(2-1-498歌)は、単身赴任にあたり「見飽きない君」(土屋氏)を残して出立することになってしまったと詠う「単身赴任で離れてしまうことになる愛しい妻をおもう歌」であり、歌の趣旨が異なり、要件の第二を満たしており、第四も満たしていますただ要件の第三は、この歌群の歌すべての確認が済むまで保留します。

 なお、2018/5/14付けのブログでの3-4-14歌と類似歌との違いの指摘での「男の横恋慕ともみえる歌」というこの歌の理解は、誤りでした。

⑧ さて、3-4-13歌から持ち越している「人」と作者の性別です。歌の五句「わがままにして」という発想は男の発想であろうと推察しますが、用例が未確認であり、作者の性別も未定です。「人」の用例が、この歌群にさらに2つありますので、それらの歌を再確認し、また『猿丸集』編纂の時代である三代集の恋の歌の詞書での「人」の用例をも参考にして検討したい、と思います。

7.同じ詞書における歌として

① この2首の詞書に記されている「かく」を同音異義の語句として見直し、両歌とも新訳(3-4-14歌についてはあわせて現代語訳(修正試案))を得ました。その現代語訳は、少なくとも3-4-10歌以後の歌の傾向と不自然な乖離はありませんでした。

② この2首は、『猿丸集』を離れて、一つの詞書における一対の歌として理解すれば、「かく」は現代語訳(試案)における「懸く」もあり得ます。その趣旨は、『猿丸集』における2首と異なるものであり、類似歌とも異なります。だから、別の意を許した歌が、3-4-13歌と3-4-14歌の現代語訳(試案)であり、恋の歌の第四の要件を満たす歌と言えます。とりあえず、この2首の現代語訳(試案)は、第四に該当する理解でもある、と整理しておきます。

③ 今回の歌の検討結果に前の歌群の歌の検討結果をあわせてまとめると、次のようになります。すべて恋の歌となりました。また、作者の性別は今のところ宿題です。

 

表 3-4-10歌~3-4-12歌の現代語訳の結果 (2020/8/17 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第三

訪れを待つ歌群

 

3-4-10

10歌詞書 現代語訳(試案)

10歌本文 新訳

 

なし

なし

3-4-11

11歌詞書 現代語訳(試案)

11歌本文 新訳

なし

なし

歌群第四

あうことがかなわぬ歌群

3-4-12

12歌詞書 現代語訳(試案)

12歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-13

13歌詞書 新訳

13歌本文 新訳

13歌詞書現代語訳(試案)

13歌本文

現代語訳(試案)

3-4-14

同上

14歌本文 新訳及び14歌本文現代語訳(修正試案

同上

14歌本文現代語訳(試案)

 

④ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

 次回は、引き続き第四の歌群の歌を中心に記します。

 (2020/8/17   上村 朋)

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

 

表「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/8/17現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10

 

3-4-10歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付け

3-4-11

3-4-11歌の現代語訳(試案)

2018/4/23付け

3-4-12

3-4-12歌の現代語訳(試案)

2018/4/30付け

3-4-13

3-4-13歌の現代語訳(試案)

2018/5/7付け

3-4-14

3-4-14歌の現代語訳(試案)

2018/5/14付け

3-4-15~

3-4-17

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/5/zz付けほか当該関係ブログ

3-4-18

3-4-18歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け

注1)歌番号等欄: 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

(付記終わり 2020/8/17   上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など

 前回(2020/8/3)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第8歌など」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-9歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

2.再考第三の歌群 第10歌

① 今回は、「第三の歌群 訪れを待つ歌群」(3-4-10歌~3-4-11歌)の歌を検討します。最初に3-4-10歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-10歌 家にをみなへしをうゑてよめる

   をみなへしあきはぎてをれたまぼこのみちゆく人もとはんこがため

 ② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/9付け参照)。

詞書:「居宅の屋敷に、オミナエシを植えた際に詠んだ(歌)」

歌本文:「植えた女郎花は、秋に、充分花がついている枝を、折り取りなさい(我が子よ)。子供のところへたまぼこの道を通ってゆく人も、その子供を訪ねる際には充分花がついている枝(である私をも)を折り取りなさいな。」

 この歌は、植えた場所は屋敷内の常識的には前庭ではないかと推測したところです。オミナエシという植物名で、類似歌(2-1-1538歌)を喚起させ、歌の意の方向を固めています。植え付けの時の作者の思いを汲めと示唆しているととれます。ただ、「をみなえし」が何を暗喩しているのかわからないままでした。

 また、「をみなえし」の植え時は太陽暦の2~3月であるので、陰暦では1~2月前後の時期となります。詠んだ時点は秋でないのにかかわらず、花の咲く頃の行動を詠んでいます。これは、「たまぼこの道を通ってゆく人」がそれまで全然訪れないことを予期しているかにとれる現代語訳になってしまっており、恋の歌としては随分とのんびりしていることになります。

恋の歌としては異例であり、同音意義の語句を見逃して現代語訳を誤った可能性があります。

③ 詞書より再検討します。同音意義の語句はないようです。そうすると、作詠時点は、(陰暦でいう)春ということを再確認できました。

④ 歌本文には、見逃していた同音異義の語句を、今回2つ確認できました。

 「あきはぎてをれ」と「こがため」です。

 「あきはぎてをれ」は、名詞「秋」+動詞「剥ぐ」の連用形+助詞の「て」+動詞「折る」の已然形(命令形とみたのは誤り)と理解でき、「秋となれば剥ぎ取るようにして折り取る」という、上記の現代語訳(試案)とは別の理解がありました。

動詞「はぐ」とは、庭に植えたオミナエシを折り取る行動となり、乱暴に、いうなれば刈り取るかの行動です。

 もうひとつは、「こがため」です。今、「恋の歌」として検討していますので、「あきはぎてをれ」が上記の理解をすれば、「みちゆく人もとはんこ(児・子)」ではなく、「みちゆく人もとはん こ(籠)がため」と下句は理解したほうが良い、と思います。

 道行く人が問うのは、こ(籠)に盛った乱暴に刈り取ったオミナエシについて問うのではないか、と推測しました。枕詞の「たまぼこの」を冠する「みちゆく人」は特定の個人をイメージするよりも道を通る不特定多数の人々を意味することも可能です。

 「こ」を「子」とみたのは類似歌にとらわれてすぎていました。この歌の詞書と初句~三句から導きだせたのが「籠(あるいはさらに限定して伏せ籠)」(『例解古語辞典』)です。オミナエシを置いた籠であり、花器にきれいに生けたようなオミナエシではない、ということです。

⑤ 以上の検討を踏まえて、「恋の歌」として、詞書に従い、歌本文の現代語訳をあらためて試みると、

 「オミナエシは秋になったら花を剥ぐようにむしり取れ、そうしたら、たまぼこの道を通る人も置いてある籠をみて尋ねようものを」 (10歌本文 新訳)

⑥ 作者は、人の目に立つところに種をまき、半年先を楽しみにしているかのように詠いだしています。そして、秋になったら、花を生けようとするのではなく、乱暴に雑草の花のような扱いで(多分、植えた場所に置いた)籠にオミナエシを入れようとしています。このような扱いをするオミナエシを歌に詠むのは官人として異例です。

 この歌は恋の歌ですので、オミナエシは異性の特定の人物か、何かを暗喩しているかにみえます。それを、詠っているように乱暴に扱いたいのかもしれません。この歌集の前後の歌と関連させれば推測ができるかもしれません。今は宿題としておきます。

⑦ この歌は、それでもオミナエシに暗喩のある、恨み節の歌に違いないので、恋の歌の要件第一を満足していると思います。

 類似歌2-1-1538歌は、類似歌の二句「あきはぎをれれ」の万葉仮名は「秋芽子折礼」で植物の萩であるのは確実であり、(都でも見ることができるハギの花を)子のために土産は用意していると詠う恐妻家の戯れ歌であるので、歌の意が異なります。このため要件第二を満足し、もちろん第四も満足しています。

 第三については、次歌とともに検討します。

 なお、作者の性別も不定のままです。

  3.再考第三の歌群 第11歌

① 3-4-11歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-11歌  しかのなくをききて

  うたたねのあきはぎしのぎなくしかもつまこふことはわれにまさらじ 

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/23付け参照)。

 詞書:「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 歌本文:「うたたねに心地よい秋の季節ですが、親どもの説教に堪え忍び、(逢えないことに)涙も流していますが、ごらんのように 貴方との逢引のきっかけをつかもうと努力しています。このような私に(ほかの人が)勝ることはありますまい。」

 この歌は、「あきはぎしのぎ」を同音意義の語句とみて「秋は義(を)凌ぎ」と理解したところです。「義」とは、「儒教五常のひとつである、人のふみ行うべき道」とか、「意味」とか、「説教・教え」など、の意があります。この歌が、恋の歌であれば、「義」は、「説教・教え」、具体的には親兄弟の諌止とか説得という理解が有力となります

③ 同音異義の語句を確認すると、詞書にある「しか」は、「鹿」のほか「師家」であるかもしれません。それでも詞書は、上記の現代語訳が妥当と思われます。

④ 歌本文には上記の語句のほか、ひとつありました。「うたたねの」です。即ち、

 名詞「うたた寝」+格助詞「の」、

 副詞「うたた」+名詞「音」+格助詞「の」

の二つの意があります。

 後者の場合、「はなはだしい音の」の意であり、「秋は義(を)凌ぎ」の意の「あきはぎしのぎ」になじみます。

⑤ 今から思えば歌本文の上記の現代語訳は、作者に思い入れしすぎており、また、相手にこの歌をおくったのであれば、表面上の意も通る歌となっているはずです。それらをも考慮して、改めて現代語訳を試みたい、と思います。

⑥ この歌は、二つの文から成る、と理解できます。

 文A 「うたたねのあきはぎしのぎなく」

 文B 「あきはぎしのぎなくしかもつまこふことはわれにまさらじ」

 つまり、「あきはぎしのぎなく」は同音意義の語句であり、両意を用いた歌です。

うたた寝に心地よい秋萩(はなはだしい声でこの秋に聞かされる親・親類の説得を堪え忍び、あなたを慕い涙涙の毎日です)。その秋萩を押しふせて鳴く鹿も妻を恋する点では私に勝ることはありますまい。」 (11歌本文 新訳)

 この歌の作者(作中主体)は、恋に関して説得にあっています。だから恋の相手も親兄弟から説得されている状況である、と思います。この歌は、私が貴方を慕うのは、誰の説得でも変わらないと詠っている恋の歌となっています。

⑦ この結果、恋の歌の要件第一は満足しており、類似歌(2-1-1613歌)が貴方を慕うのは鹿より強いと単に自負している歌(慕う気持の強いことを訴えるだけの歌)であるので、歌意が異なり、第二の要件(および第四)も満足しています。第三の要件は後程確認します。作者の性別は、不定の歌に見えます。

⑧ この3-4-11歌は、恋の当事者である作者とその相手がそれぞれ(交際するなと)説得を受けた上記のような新訳となったことから、3-4-10歌を検討すると、オミナエシは親たちを暗喩しているか、と推測できます。

親には仕えるべきですが、それに差し支えないはずのことに要らぬ説得を受けていら立っている作者(作中主体)の詠んだ歌がこの3-4-10歌ではないか、と思います。

⑨ また、決意表明するのは男の場合が多いとおもうものの、作者の性別も不定となります。少なくとも3-4-10歌と3-4-11歌は、同一の作者であるとは断言できます。

⑩ さて、この歌群は、以上の2首から成り、「訪れを待つ歌群」というネーミングでした。

 しかしながら、3-4-10歌は、改訳されて「オミナエシに暗喩をこめた、恨み節の歌」となり、3-4-11歌は、「親の反対を押し切ってでも恋を成就したいと詠う歌」であり、この2首とこの歌群のネーミングはあっていません。このため、「あうことがかなわぬ歌群」と整理してある次の歌群の歌をも検討した後に、歌群の範囲と新たなネーミングを考えたい、と思います。

 続いて3-4-12歌にすすみたい、と思います。

 なお、直前の歌群の歌と前回認めた3-4-9歌は、3-4-10歌とは明らかに歌意が異なるので、新しい歌群が、3-4-10歌から始まるのは確かなようです。

 

4.再考第四の歌群 第12歌

① 3-4-12歌~3-4-18歌を第四の歌群(「あうことがかなわぬ歌群」)としています。その最初の歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-12歌 女のもとに

  たまくしげあけまくをしきあたらよをいもにもあはであかしつるかな

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/30付け参照)。

 詞書:「女のもとに(おくった歌)」

 歌本文:「化粧箱を開けるではないが、その「あける」という音に通じる「明け」てほしくない、勿体ない夜を、あなたに逢うこともかなわなず、寝もやらず朝を迎えてしまったことよ。」

 この歌は、五句にある「あかしつるかな」を、「四段活用の動詞「明かす」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形+終助詞「かな」と理解(「夜を明かしてしまったなあ」、の意)したところです。

③ なお、この歌については、2020/5/25付けブログにおいて「関係改善のできる機会となるはずの夜」の意に上句を理解すべきと指摘しました。二人の仲が不仲になっていると予想した指摘であり、現代語訳の新訳を得た3-4-11歌の次に配列されていることを考慮すると、この予想は外れてしまいました。

 この3-4-12歌は、説得を受けたことなどの情報を共有し二人の仲を確認する機会であったのに」という気持ちの歌であろう、と思います。

④ 同音意義の語句は、ありませんでした。

⑤ 歌の語句に忠実に、現代語訳(試案)を、次のように修正したい、と思います。

「化粧箱を開けるではないが、その「あける」という音に通じる「明ける」にはもったいないほどの夜を、あなたにあうこともないままに、夜を明かしてしまったよ。」(現代語訳(修正試案)」 

 二人は今のところ明るい見通しがたっていません。夜明けのイメージの中の歌として理解するのを避けました。

⑥ この歌は、訪問が叶わなかった男が女に翌朝不満を述べた歌ではなく、前の歌3-4-11歌の次にある歌であるので親に反対された際の、不退転の決意を披露した歌とみることができます。

⑦ この結果、「恋の歌」の要件第一を満足しています。

類似歌(2-1-1697歌)は、旅中での男の独り寝のつまらなさ・あじけなさを就寝前に述べた歌(羈旅の歌)であり、この歌と異なった歌となっており、第二の要件を満足しています。第四も 当然満足していますが、第三は後程検討します。

⑧ この歌は、「あうことがかなわぬ」現状を詠った恋の歌であり、3-4-10歌と3-4-11歌もそのような歌である、と言えそうです。この歌の作者(作中主体)は詞書から男となります。そして、歌の内容の傾向を思えば前の2首も同一の人物が作者(作中人物)ではないかと推測します。

 いづれにしても、この歌群(3-4-18歌まで)の検討をしてから、歌群全体を、作者を含めて確認したい、と思います。

⑨ 今回の歌の検討結果をまとめると、次のようになります。すべて恋の歌となりました。あらたな歌群設定は第四の歌群の歌すべてを検討後とします。

表 3-4-10歌~3-4-12歌の現代語訳の結果 (2020/8/6 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第三

訪れを待つ歌群

 

3-4-10

10歌詞書 現代語訳(試案)

10歌本文 新訳

 

なし

なし

3-4-11

11歌詞書 現代語訳(試案)

11歌本文 新訳

なし

なし

歌群第四

あうことがかなわぬ歌群

3-4-12

12歌詞書 現代語訳(試案)

12歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

⑩ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。次回も第四の歌群の歌を確認します。

(2020/8/10  上村 朋)

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-12歌を例示すれば、次のとおり。

 

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/8/5現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10

 

3-4-10歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付け

3-4-11

3-4-11歌の現代語訳(試案)

2018/4/23付け

3-4-12

3-4-12歌の現代語訳(試案)

2018/4/30付け

3-4-13~

3-4-17

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/5/7付けほか当該関係ブログ

3-4-18

3-4-18歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

 (付記終り 2020/8/10   上村 朋)

   

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第8歌など

 前回(2020/7/27)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第6歌など」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第8歌など」と題して、記します。あわせて第二の歌群の歌の総括をします。(上村 朋)

 

1.~7. 承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-7歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

8.再考第二の歌群 第8歌

① 今回は、「第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群」(3-4-4歌~3-4-9歌)の3回目です。最初に3-4-8歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとにある歌はこの1首だけです。

 3-4-8歌 はるの夜、月をまちけるに、山がくれにて心もとなかりければよめる 

   くらはしの山をたかみかよをこめていでくる月のひとりともしも

 ② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/3/26付け参照)。

 詞書: 「春の夜、昇ってくる月を待っているのだが、いまだに山に隠れているような状態なので、不安になって詠んだ(歌)」

 歌本文:「くらはしの山が高いからなのか、(2-1-1767歌のように)待ち遠しい状態になったが、それでも月(下弦の月)は(暁とならない)夜が深いうちに昇ってきてさやけく輝いている。それに比べて、私は、この宵は独りで乏しい(さびしい)思いをすることになるなあ。」 

 この歌は、男が来てくれないことを嘆く女の恋の歌と理解したところです。

 しかしながら、詞書には、「月を待つ」とあるものの、「男のもとに」と言う語句はありません。恋の歌で月を待つというならば月=男という先入観で、この現代語訳(試案)は理解しているところです。

③ 詞書から再検討します。

 出だしの「はるの夜」とは、陰暦1月~3月の夜、と理解しました。ところが、歌本文をみると、季節をなぜ限定しているのか、わかりにくいところです。同音意義の語句と疑うと、

 「春の夜」:季節が春である夜

 「張るの夜」:「こころをゆるみなくもって、がんばる、と言う状況の夜」

の2案がありました。

 上記の現代語訳(試案)は「春の夜」としたところであり、後者の検討が済んでいません。

④ 単に相手の来訪が遅いことに不安を感じるのは、「春の夜」でなくとも生じ得る不安です。

 作者(作中主体)が、アプローチできないでいる(時間待ちしているとか返事を待っているとか)、という状況で不安が募って詠んだ歌、即ち、(気持ちが)「張る今夜」であるから詠んだ歌であるのであれば、詞書の「張るの夜」が歌の理解を限定していることになります。

 また、詞書にある「心もとなし」とは、「ようすがはっきりしないで不安だ・心もとない」意のほかに「待ち遠しいくもどかしい・じれったい」とか「ようすなどをよく知らない・不案内だ」の意などがある(『例解古語辞典』)同音異義の語句です。

⑤ なお、詞書にある助動詞「けり」は、詠嘆の気持ちをこめて回想する意を表しますので、上記の詞書の現代語訳(試案)は現在進行中のこととしており、不適切でした。

 『猿丸集』の編纂者は、作者に、詠嘆的に回想させて歌を記している、とみることができます。月の出は、歌本文に「よをこめて」とあるので、(十五夜かもしれませんがとりあえず歌本文の現代語訳(試案)で想定している)十七夜以降の月であり、昇ってくる月を人々は満足気に迎えるのに対して、自分はそのようにならなかったことを回想している場面の歌と、あらためたい、と思います。

⑥ 次に、歌本文について検討します。

 歌本文にある「くらはしの山」は、「障害となる山」の意であり特定の山を指していません。また、「くらはしのやまをたかみか」という語句は、作者の時代には、『萬葉集』の解読も進んでいる時代ですので、類似歌(2-1-293歌と2-1-1767歌の2首)を想起させる語句であります。 

⑦ 類似歌とこの歌について、歌本文同士を比較すると、三句と五句が異なります(類似歌の「よごもりに」が「よをこめて」、「ひかりともしき」あるいは「かたまちかたき」が「ひとりともしも」)。

 類似歌2首の三句の万葉仮名は、2-1-293歌が「夜隠」、2-1-1767歌が「夜窂」であり、漢字そのものの意が、「隠れる、隠す」など、あるいは「いけにえ、かこい」という字を借りてきています。だから三句「よごもりに」とは2-1-293歌では「夜の帳(とばり)がおりるなか」と私は現代語訳したところです。

⑧ これに対して、この歌の三句「よをこめて」には、(連語ではなく)句として「夜を籠めて」に「まだ夜が深いうちに」の意があります。この意は類似歌と同じく夜間の時間帯を指しています。この語句を同音意義の語句とみると、

 「よ」に、「世」や「夜」があります。「世」には、「(仏教思想の特に)現世」、「世の中・世間」、「人の一生・生涯・その運命」や「男女の仲」の意があります。

 下二段活用の動詞「籠む」に、「(かすみなどが)一面に広がる」、「中へいれる・とじこめる・こもらせる」、「胸におさめておく」や「混雑させる」の意があります。

「よをこめて」を、

 名詞「よ」+助詞「を」+下二段活用の動詞「籠む」の連用形+接続助詞「て」

とみると、現代語訳候補は、月を待っている時の歌なので素直に「夜を籠めて」がよい、と思います。句の意のままでよい、と思います。同音意義の語句とみなくともよいようです。

⑨ 五句の「ひとりともしも」は、「一人(あるいは独り)という状態は乏し」の意であり、誰が「乏し」なのか(作者か、作者が訪ねてゆくはずの相手か)は歌全体から決まるのではないか、と思います。

 詞書の「けり」の理解からは、作者が「ともし」という状態を指していると思います。上記の現代語訳(試案)では女性の作者としたところです。

⑩ 作者(作中主体)は、「はるの夜」という言い方から男ではないかと、推測しますが、情報が不足しており、歌の配列等からの検討が必要です。今、仮に作者を男として、詞書と歌本文の現代語訳を改めて試みると、次のとおり。

 詞書:「気が張っている夜、月の出を待っていたのだったが、いまだに山に隠れており、待ち遠しくもどかしかったので、詠んだ歌。」 (8歌詞書 新訳)

 歌本文:「くらはしの山が高いからだろうか、(それでも)まだ夜が深いうちに月は人々の前に昇ってくる。(友や訪れた人とともに月を待ち望んでいた人たちと異なり)それを独り見る私はさびしいね。」(8歌本文 新訳)

 月が待ち遠しかった作者は、過去に同じように月の出を待ったことを思い出し、詠ったという理解をしました。その時は月を一人で見上げたのでした。

 類似歌では、2-1-293歌が月明りを頼りに夜道を行く歌であり、2-1-1767歌が月の出にかこつけて開宴を促している歌でした。

⑪ この歌は、このように、恋の歌の要件の第一を満足しています。

 類似歌である2-1-1767歌は開宴を求める歌であり、もう一つの類似歌である2-1-293歌は初月の光を頼る羇旅の歌(ブログ2018/3/26付け参照)です。恋の歌であるこの歌とは、ともに趣の異なる歌です。

 このため、要件の第二を満足し、第四も満足しています。第三の確認は後程行います。

 

8.再考第二の歌群 第9歌

① 次に、3-4-9歌を、検討します。『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとにある歌はこの1首だけです。

 3-4-9歌 いかなりけるをりにか有りけむ、女のもとに

   人まつをいふはたがことすがのねのこのひもとけてといふはたがこと

 

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/2付け参照)。また、ブログ2020/5/25付けで、詞書にある「いかなるをり」を同音意義の語句として認め、別案を得ています。それも再検討します。

 詞書:「どのような事情のあった時であったか、女のところに(おくった歌)」

 歌本文:2案あります。両案併記で1案に絞っていません。

 第1案: 「いふ」の内容、即ち、この歌を送った相手の女が何を言ったかというと、初句と四句を言った、となります。

 「通ってくる人を待つ」と、(男に)文を送ったのは、どなたがされる事でしょうか。すがのねのように長い紐が、自然にとけて乱れてしまってというのは、どのような方のことばでしょうか。」(二句は「誰が事」。

 五句は「誰が言」の意で反語であり女を指す。)詰問の歌です。この歌集では、ここまで睦言の歌はありませんでした。

 第2案:初句は相手の女の行為で、四句は女ではない別の人の行為とみると、

  「通ってくる人を待つと言われたのは、誰を待っているのですか。すがのねのようなひもが、とけて乱れてと(いうことがおこったよと)返事をくれたと貴方が言われる人は、誰のことですか。(二句は「誰が事」。五句も「誰が事」。)

 この理解でも詰問の歌となります。両案とも類似歌と同様に、二句と五句の「いふ」は同一人物(相手の女)の発言であり、「たがこと」と問うているのは作者であると理解したところです。

③ 別案は次のとおり。「いか」を、「五十日(いか)の祝い」の略称とみた試案です。

 詞書:「五十日の祝いをした折にであったか、女のもとに(おくった歌)」

 歌本文:「(この子はもう)人を待つ、と言われるのは誰のお言葉ですか、すがのねのように赤子の紐がほどけてきた(などと、)と言うのは、誰のお言葉ですか。(私は長く待てないのに。)」

 この別案は、三句「すがのね」が「乱る」にかかる枕詞でもあるので、作者は祖父と仮定したものです。しかしながら、恋の歌として男を祖父と限定するのが強引であり、『猿丸集』の前後の歌との整合を考えると、年齢を限定しているのは不都合です。また、祝いの儀式であるので、「五十日(の祝い)のをり」と言う方が「五十日なるをり」よりも素直な言い方であり、同音意義の語句としてとらえたら「形容動詞「いかなり」の連体形+名詞「をり」としての理解をまず検討すべきである、と思います。

④ 同音異義の語句については、そのほかには、みあたりませんでした。

⑤ 前後の歌(の詞書と歌本文)との比較等より、現代語訳を1つに絞りたい、と思います。

 詞書から検討します。「いかなりけるをりにか」とは、事情をぼかした言い方です。上記の現代語訳(試案)では、「裏切られた状況を、ぼかして言っている」と理解していました。

 しかし、助動詞「けむ」は、過去に実現した事がらについての推量を表します。これに注目すると、直前の歌3-4-8歌とともに過去を振り返って詠んでいる歌となります。3-4-8歌が、叶わなかった相手へおくった歌とみるならば、この歌も、同様な歌とみることができます。女を詰問した歌ですが、詞書にある「けむ」を踏まえると、くやしくて詰問したことを回想する歌、と言えます。そうであれば、その原因の追究をした、第2案の理解を採りたい、と思います。また、別案は、3-4-8歌との整合では第2案より劣ります。

⑥ この結果、この歌は、男である作者が、作者(作中主体)を選ばなかった女を、くやしくて詰問したことを回想した歌となり、類似歌は、言い寄る男を人妻が拒絶している歌と表面上はなっていますが、相聞往来歌の1首として巻第十二の相愛の歌の間に置かれているので、婉曲に男を受け入れようとしている歌であり恋の成就を期待している歌です。このため、この歌の趣旨とは異なります。

 このため、この歌は、恋の歌の要件の第一と第二と第四を満足し、第三のうち同一詞書のもとの歌としての整合もあります。歌群全体等の検討は後程することとします。

⑦ これにより、3-4-8歌の作者(作中人物)は、男である、と断定してよい、と思います。

 

9.歌群の確認

① ここまで、3-4-4歌~3-4-9歌の6首は、恋の歌として一つの歌群(第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群)にある歌と仮定して検討をすすめてきました。

 そして、同一の傾向を持つ歌として、作者(作中主体)の立場の共通性に注目して、現代語訳の確認をしたところです。この6首の作者の立場と詞書とを整理すると、つぎの表のとおりです。なお、参考として、次の第三の歌群の冒頭2首の「現代語訳(試案)」での作者(作中主体)のイメージも例示します。

表 第二の歌群における歌の比較(3-4-4歌~3-4-9歌 

付:現代語訳(試案)での3-4-10歌、3-4-11歌)     (2020/8/3現在)

歌番号等

詞書

作者 (作中主体)

歌本文の現代語訳

3-4-4

ものおもひけるをり、ほととぎすのいたくなくをききてよめる

相手に袖にされていた男

4歌本文 3案

3-4-5

あひしりたりける女の家のまへわたるとて、くさをむすびていれたりける

あきらめきれない女々しい男

5歌本文 現代語訳(修正試案)

3-4-6

なたちける女のもとに

自嘲した男

6歌本文 現代語訳(修正試案)

3-4-7

なたちける女のもとに

無念の思いの男

7歌本文 新訳

3-4-8

はるの夜、月をまちけるに、山がくれにて心もとなかりければよめる

月を一人で見上げことを回想している男

8歌本文 新訳

3-4-9

いかなりけるをりにか有りけむ、女のもとに

くやしくて詰問したことを回想している男

9歌本文 第2案

(参考)

3-4-10

家にをみなへしをうゑてよめる

(参考)子の父親によびかける母となった女

10歌本文 現代語訳(試案)

(参考)

3-4-11

しかのなくをききて

(参考)親の説教でも愛は変わらないと訴える男

11歌本文 現代語訳(試案)

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番注2)歌本文の現代語訳欄:この表作成時点での現代語訳の略称。3-4-4歌~3-4-9歌は恋の歌としての検討結果、3-4-10歌と3-4-11歌は、その検討以前の現代語訳。

 

② 6首すべてが恋の歌として理解が無理なくできました。

 作者(作中主体)からみると、3-4-4歌から3-4-9歌は、みな男からみて女との仲が破綻している状況の歌に統一されていると見えます。これから恋の歌として検討予定の3-4-10歌が子の父親を詠っている恋の歌とか、3-4-11歌が親の意見でも変わらないと詠う歌という理解であれば、3-4-9歌までとは相手の認識が異なり、3-4-10歌などは別の歌群の歌かと思えます。

③ この歌群の歌は、作者が詠む時点で、女との仲が破綻している相手にその女が選んだ男がすでにいることを示唆する歌があります(3-4-9歌)。この歌が歌群の最後の歌とすると、それまでの歌の作中主体を同一人に見立てることが可能です。各歌をみると、

3-4-4歌は、詞書で助動詞「けり」を用いています。回想の歌です。相手の女は別の男と共に、この月を待っているであろう、と想像している歌と、理解できます。女との仲は破綻直後(十分癒しの期間を経ていない頃)と推測できます。

3-4-5歌は、詞書で助動詞「けり」を用いています。そして「下紐」を結べず「草を結ぶ」というのは、再チャレンジが出来ない(女は誰かと結ばれた)時点の歌か、と理解可能です。

3-4-6歌と3-4-7歌の詞書の「な」は、相手の女が某という男と結ばれた噂と推定できます。「女」に、それでも思いを訴えた歌なのでしょう。

3-4-8歌は、歌で「ひとり」と詠い、相手は結ばれた男と今夜の月を見上げているだろう、と想像しています。十七夜以降と推測していますが、行事で月待ちをする第一は八月十五夜ですので、この歌を詠った夜は十七夜以降ではないかもしれません。2020年9月3日(月齢15.0)の月の出は京都では19時14分であり(日没は18時21分)、同年9月5日(月齢17.0)のそれは20時08分であり、「山が高ければさらに遅い時刻になります。この歌も破綻直後と推測可能です。

3-4-9歌は、回想の歌であり、誰と結ばれたのか、とその時に問いただしたという歌です。相手が誰だか(わかっているものの女に)やはり確認したい思いが募ってきた破綻直後と推測できます。

⑥ この歌群は、回想の歌から始まり回想の歌で終わる一つのグループを作っているのではないか、と推測できます。このように恋の歌の第三の条件を6首が一組となってすべて満足しています。

 さて、歌群のネーミングですが、第二の歌群は 「逢わない相手を怨む歌群」と仮称してきました。しかしながら、6首は、みな、(女の選択基準に達しなかったというよりも)女を決定的に自分から離れさせた男がいたという歌が並んでいます。このため、ネーミングは、「別の男がいた女への歌群」としてはどうか、と思います。

⑦ この歌群の歌の検討結果をまとめると、次のようになります。すべて恋の歌であり、作者はすべて一人の男となりました。

 

表 3-4-4歌~3-4-9歌(別の男がいた女への歌群の歌)の現代語訳の結果 

 (2020/8/3現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第二

別の男がいた女への歌群

 

3-4-4

4歌詞書 現代語訳(修正試案)

4歌本文 第3案

 

なし

なし

3-4-5

5歌詞書 現代語訳(試案)

5歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-6

6歌詞書新訳

6歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-7

同上

7歌本文 新訳

なし

なし

3-4-8

8歌詞書 新訳

8歌本文 新訳

なし

なし

3-4-9

9歌詞書 現代語訳(試案)

9歌本文第2案

なし

なし

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧しただき、ありがとうございます。

 次回は、次の歌群の歌を検討します。

 (2020/8/3  上村 朋)

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

 

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/6現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ(わかたんかこれ・・・)

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

3-4-9歌の現代語訳(試案)及び2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2018/4/2付け*3 及び

2020/5/25付け(例示訳(試案))

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けまたは2018/4/23付け

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

(付記終わり 2020/8/3  上村 朋)

 

 

 

  

 

  

 

*1:試案

*2:試案

*3:試案

わかたんかこれ 猿丸集その109恋歌確認6歌から

 前回(2020/7/20)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第4歌など」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第6歌など」と題して、記します。(上村 朋)

1.~3. 承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-5歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。また、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )

4.再考第二の歌群 第6歌の詞書

① 今回は、「第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群」(3-4-4歌~3-4-9歌)の2回目です。3-4-6歌と3-4-7歌を、『新編国歌大観』から引用します。この2首は同じ詞書のもとにおける歌です。

 3-4-6歌   なたちける女のもとに  

    しながどりゐな山ゆすりゆくみづのなのみよにいりてこひわたるかな  

    3-4-7歌   (3-4-6歌に同じ)

    しながどりゐなのふじはらあをやまにならむときにをいろはかはらん 

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/3/12付け及び2018/3/19付け参照)

 3-4-6歌詞書:「噂がたった(作者が通っている)女のところへ(送った歌)」

 3-4-6歌歌本文:(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」(ともに行動しよう)という声を声高に、それも猪名山に谷音ひびかせて下る川のようにわめく悪鬼(儺)だけが、ひっきりなしに夜になって貴方がほしいと乞うているのだねえ(貴方も迷惑しているでしょうが、がまんしてください)。」

 3-4-7歌詞書: (3-4-6歌に同じ)

 3-4-7歌歌本文:「しながとりが「率な」と誘う猪名の柴原(ふしはら)とちがい、富士の裾野の原が、新しい山にと変化するとなれば、その山の頂(噴火口)は色が鮮やかになるでしょうよ(私たちはそのようなことの起こらない「率な」に通じる猪名の柴原(ふしはら)にいるのだから、そのようなことになりません。噂にまどわされないようにしてください。)」

③ 詞書から検討します。「な」とは噂を意味する「名」として現代語訳したところです。しかしながら、この詞書は、どのような内容の「名」であるか(「な」が「噂」の意であれば、女が誰に関して噂されているのか)とか作者と女の関係については直接触れていません。2首の歌本文を検討後、詞書は再確認します。

④ 名詞で「な」は同音意義の語句のひとつです『例解古語辞典』より)。

「名」:(a)名称・名前。(b)名声、評判、聞こえ、うわさ。 

「肴」:魚、鳥獣の肉など、副食の総称。

「菜」:葉が食用となる草。

「魚」:うお。

「儺」:追儺のときに追い払う悪鬼 (儺やらい・追儺(ついな)という邪気払いの儀式において追い払う悪鬼であり、宮中での年中行事が民間に広がり定着する過程で、矛と盾とを持ち大声で鬼を追い払っていた側が鬼と見なされるようになっていった。)

 このほか代名詞に「汝」があります。

⑤ 動詞の「たつ」も同音意義の語句のひとつですが、「女」を修飾していることから「なたつ」を「噂がたつ・評判がひろがる」意としたのが上記の現代語訳です。

 

5.再考第二の歌群 第6歌の歌本文

① 次に 、3-4-6歌の歌本文を検討します。初句「しながどり」は、三代集では1首(1-3-586歌)しか用例がありません。『萬葉集』に5首あります。「ゐな」とか「あは」にかかる枕詞と言われています。「しながどり」の萬葉集での実態は、「明らかでないが鳰(にを)であろうと言はれる」と土屋文明氏は指摘しています。鳰(にを)は「かいつぶり・かいつむり」のことで湖沼・沼・河川に棲む水鳥で留鳥であり、夏、水草を集めて「鳰の浮巣」と呼ばれる巣を作るほか夏になるとくびの部分が栗色になります。

②「ゐな」とは地名の「猪名」であるとともに、「動詞「率る」の未然形+終助詞「な」」でもあることばであると、萬葉集歌人はとらえていたのではないか。「率な」とは、「引き連れてゆこう、行動をともにしよう(共寝をしようよ)」と誘っている意となります。「ゐぬ(率寝)」という連語の動詞もあります。「しながどり」は鳰の生態から「ゐな」にかかる枕詞と言われています。

③ 歌本文にも同音異義の語句があります。例えば、

二句にある「ゐな」:上記5.②参照

四句にある「な」:上記4.④参照

五句にある「こひわたる」:後述。上記の現代語訳を得たときは検討が不十分でした。

④ 短歌で用いられている語句は、枕詞であっても序詞であっても、その文字を生かして現代語にする方針です(付記1.参照)。

 この歌の上句 「しながどりゐな山ゆすりゆくみづの」(なのみ・・・)は、結局、

「(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」に通じる猪名の山々の間を水音をひびかせ下る川のように騒ぎ立てる」(儺という鬼)

となり、四句の最初にある「な」(名詞)を修飾することになります。

 なお、「な」を「名」(うわさ・評判)とした理解が、類似歌(2-1-2717歌の一伝)であり、この違いにより歌の意が異なることになります。

⑤ 下句 「なのみよにいりこひわたるかな」の「(な)のみ」を、漢字かな交じりで表すと、

「儺のみ夜に入り乞ひ渡るかな」

として現代語訳しています。

⑥ 通常追い払うべき悪鬼(儺)がわめいて付きまとうのは迷惑なことです。だから、この歌本文の上記の現代語訳(試案)は、作者が、良く知っている相手の噂がたったことに同情しているあるいは励まそうとしている歌である、と理解したところです。

⑦ しかしながら、上記4.③に指摘したように詞書は「名たちける女」とあるのみなので、「なたちける女」と作者の関係には直接一言も触れていません。

 この歌を「恋の歌」として理解する場合、「女」を、作者と男女の仲となっていると決めつけなくとも、男女の仲になり損ねた(作者には残念な)女性であっても「なたちける女」という表現が可能です。「な」の内容がこの詞書では全然わかりませんので、予想を勝手にさせる現代語訳がふさわしい。ということになります。『猿丸集』の配列等から、内容がしぼられても、その意をくみとれるようなものがふさわしい、と思います。

⑧ そのため、歌本文の五句「こひわたるかな」も、恋の歌として、動詞「恋渡る」(たえず恋しく思い続ける)+終助詞「かな」に改めることとし、詠嘆の助詞「かな」に拘り何を根拠に詠嘆的になっているかを明確にしないよう気を付けて、あらためて現代語訳を示すと、次のとおり。

「(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」(ともに行動しよう)という声を声高に、それも猪名山に谷音ひびかせて下る川のようにわめく悪鬼(儺)だけが、ひっきりなしに夜になってもたえず恋しく思い続けているなあ。 (6歌本文の現代語訳(修正試案))⑨ そして、この修正した現代語訳は、恋にまつわる歌であり、類似歌(2-1-2717歌の一伝)の女に逢えたと、吹聴している歌(あるいは事実はともかく、そう宣言している歌)と異なっており、「恋の歌」の要件の第一と第二と第四を満足しています。第三は後程確認します。

 

6.再考第二の歌群 第7歌

① 現代語訳(試案)は、上記4.②に示しました。この訳は、二句にある「ふじはら」を類似歌との比較を経て「富士(山の裾野)の原野」と理解し、三句からの「あをやまにならむ(とき)を、噴火した時の意であり、貞観大噴火(864~868)を前提に詠まれた歌と、推定したものです。

② しかしながら、 同音異義の語句が、「(ならむとき)にを」にあることを見逃していました。それにあわせて富士山が示唆するものを再検討したい、と思います。

歌本文を再掲します。

 3-4-7歌 しながどりゐなのふじはらあをやまにならむときにをいろはかはらん

③ この歌(3-4-7歌)は、五句にある「心はかはらん」の条件を、景に借りて提示しているとみることができます。この歌の文の構成は、

文A :しながどり(と言う枕詞を冠する)ゐなのふじはら

文B : (それが)あをやまにならむ

文C : (その)ときにを (あるいは、(その)ときに)

文D :心はかはらん (あるいは を 心はかはらん)

となります。

 文Aから文Cの条件のもとに文Dがあります。

 また、誰の心かといえば、作中主体(この歌では作者自身)の心か相手の心です。それは四句までの景が示唆している、と推測します。 

④ 文Aから、順に再検討します。

 初句にある「しながどり」と二句にある「ゐな」に関しては3-4-6歌と同じ意です。

 二句は、類似歌と一文字異なり「ゐなのふじはら」とあり、作者が工夫している語句と想定できます。この3-4-7歌の類似歌は、2首あり、『拾遺和歌集』巻十神楽歌にある類似歌1-3-586歌では「ゐなのふし原」、「神楽歌 大前張(おおさいばり)」の 「伊奈野(41~43)」と題する歌のひとつである類似歌は、万葉仮名で、「井奈乃不志波良」です。

⑤ 1-3-586歌の諸氏の現代語訳では「猪名の柴原」であり、「神楽歌」では臼田甚五郎氏が「猪名の柴(しば)の生えている野原」と訳しています。(ブログ2018/3/19付けブログ参照)。どちらの類似歌も「猪名のふしはら」に「しぎ」が飛び回ると詠っています。「しぎ」は、渡り鳥であり、シギ科の鳥の総称を現在では鴫(しぎ)としています。類似歌の「しぎ」が、現在いうところの鴫であるとすると、くちばしと脚が長い、水に潜ることができない渡り鳥です。春と秋日本に飛来します。私は1-3-586歌の現代語訳を試み、「しなが鳥が雌雄並んで遊ぶ場所、その猪名川に広がる原野」と訳しました(ブログ2018/3/19付けブログ参照)。

⑥ 「ゐなのふし原」の「ゐな」が地名であるならば、猪名川下流の原野が想定でき、シギの飛来がよくあるところでもあると容易に推測できます。この歌(3-4-7歌)では、「ゐなのふじはら」と詠っているので、類似歌との比較で、「ゐな」と誘うものの猪名川下流の原野ではない別の原野を指している、と理解できます。「ゐな」と誘う場所を誤っていた、という言外の意があるのでしょうか。

⑦ それはともかくも、「ふじと形容するはら」を探すと「形容詞+原」あるいは「地名などの名詞+原」では、「富士(山・川)にある原」が浮かびます。「ふじのね」とか「ふじのやま」という語句が句頭にある歌が、『萬葉集』や『古今和歌集』にありますが、「ふじはら」はありません。それでも、「富士原」という語句は、「富士の裾野の原野」という理解は可能です。このほか、漢語になりますが、負恃(たのみとする。たよる)があり、「たのみとする原野(しながどりが棲める原野か)」があります。

⑧ また、富士山は三代集成立のころは活火山と認識されており(付記2.参照)、燃える山であるので噴火のたびに山容が変わる、つまり新しくなる山と言えます。『古今和歌集』において富士山は「燃える、思いの火」と詠われています。客観的には、燃える山であるので、度々の噴火で樹木も生えない山である(比叡山やたつたの山とは違う姿)とも言えます。

 また、三句にある「あをやま」の「あを」は接頭語であり、幅広い青色を指すほか、未熟な、の意を添える語でもあります。四句「ならむときにを」は、同音意義の語句に関して検討が不足していました。

⑨ 上記の訳では、「に」を格助詞「に」とし「を」を、五句にある動詞の主語ではないかとみて、名詞の「を」の候補から「峰」を取り上げたところです。この場合「男」も候補の一つになっていました。

 このほかに、「に」を格助詞「に」とし「を」を間投詞とみることができます(詠嘆などの気持ちの意を添える)。詩歌の一句ですので、四句までで一文がまとまり、五句の七文字だけで別の文の前に「を」は位置しており、詩歌の文としてこの理解のほうが素直ではないか、と今は思います(例歌は付記3.参照)。

 また、「とき」は、「時」ですが、その意は「(何か事があり、またはあった)おり・時期」とか「その場面・その場合」の意があります(『例解古語辞典』)。

⑩ なお、初句の「しながどり」を「にを」と言い換えて用いるのは、「しながどり」が枕詞という理解であれば、用いない用語であろうと思います。

 五句にある「いろ」も (a)色彩、美しさ (b)豊かな心・情趣、(c)恋愛・情事、(d) 顔色・たいど、と同音意義の語句です。

⑪ 次に、文A~文Cまで(四句まで)と文D(五句)の関係を確認します。

 五句は、ある条件下で、「心」が変わる、と作者は作中主体に意思表示させています。恋の歌として理解しようとすると、四句までが、その条件の例であり、「ふじはら」が「あをやまになる」という景がそれにあたると作中主体は言っています。その景は相手の行動を指しているはずですので、「ふじはら」は相手が作中主体にみせていた今までの態度を、「あをやま」は、その態度を豹変した後を指して、詠んでいる、と思われます。

 二句を類似歌と同じ「ゐなのふしはら」としても「あをやま」になるならば大変化です。それを火山活動が盛んな「富士の裾野の原」を意味させ得る「ふじはら」としたのは、「富士」に込めた作者の気持ちがあるのだろう、と思います。

 歌を引用している『新編国歌大観』の底本は、書写本なので「ふしはら」を「ふじはら」と誤ったのかとちょっと疑ってしまったところです。

⑫ このように「ふじはら」を理解し、上記の文A~文Dの現代語訳を試みると、つぎのとおり。

文A:しながとりが「率な」と誘っていた(猪名のふしはらならぬ)富士の裾野の原、

文B:その原は燃える山にあるが、それが青々とした山になるだろう、

文C:そうなったと聞いたとき、ああ、(「とき」の理解を「何か事があったおり」とする)

    あるいは、(そのようなことに)となったという

文D:(私の)こころは、変わるだろう。

    あるいは、 (そうであれば、)心は替わるだろう。

 初句から四句まで縷々事情を婉曲に言っていますので、五句にある「かはらん」は、そうなるだろうという確実な予測であり、自分から結論を出したのではなくそのように追い込まれた、という雰囲気のある歌です。

⑬ 歌本文全部について、改めて現代語訳を試みると、次のとおり。「を」は間投詞とみます。

「しながとりが「率な」と誘っていた(猪名のふしはらならぬ)富士の裾野の原。その原は燃える山の裾野にあるのに、青々とした山になるという。そう聞いたとき、ああ、(私の)こころは、変わるだろう(今までと違った状態、落ち込んだ状態に。)。」 (7歌本文の新訳)

 この歌において「ふじはら」は、富士山に例えた作中主体の燃える思いを象徴し、「あをやま」は青々とした山なので自然の景色であるので、燃える思いの行き先が突然消えてしまったと思う気持ちを象徴しているのではないか。だからこの歌は、やむを得ずあきらめる境地の歌ではないか、と理解しました。

⑭ この新訳は、恋の歌の要件の第一を満足し、類似歌(沢山のシギがいることを喜んだ歌)と意が異なるので第二も満足し、第四も満足しています。第三の要件を満足するには、同じ詞書のもとにある3-4-6歌との違和感がなく、および同一歌群での配列へのなじみなどがあることが必要です。

 

 

 7.詞書と2首の整合性について

① 同じ詞書のもとにある2首間の整合をここで確認し、また、詞書の現代語訳を再度検討したい、と思います。

② 3-4-6歌は、五句に詠嘆の助詞「かな」を用いて詠み終わり、3-4-7歌は間投詞「を」を文中に用いています。ともに、表面上は詠嘆調の歌となっています。3‐4‐7歌は「心かはらん」と作中主体が恋を終焉させる、とはっきり言っており、同じ詞書のもとにある3-4-6歌も、同様な作中主体の決意を詠っているとみると、作者は作中主体自身を儺(悪鬼)になぞらえた自嘲的な歌とみるのがバランスのとれた理解である、と思います。この両首は作者が落胆した際の歌として統一がとれていることになります。 「名」の内容は、作者のアプローチを拒否したことが明確にわかるものであったと推測できます。

③ そうすると、3-4-6歌と3-4-7歌の詞書にある「女」とは、作中主体からいえば、懸想していた女、という推測が成り立ちます。

④ それでは、あらためて、詞書の現代語訳を試みます。つぎのとおり。

 「うわさが耳に入ってきた女のところへ(送った歌)」 (6歌詞書新訳)

⑤ 3-4-6歌と3-4-7歌は、この詞書のもとで整合のとれた歌である、と言えます。

 今回の1題2首の再検討結果をまとめると、次のようになります。

作者(作中主体)は、恋の歌ですので、詞書から男となり、歌本文でそれを否定できません。歌をおくった相手は、(懸想していた女に違いありませんが)袖にされたことがはっきりした女です。

⑥ 今回の1題2首の再検討の結果をまとめると、次のようになります。

 すべてが改まり、共通の詞書と、3-4-7歌本文は、今回改まり、3-4-6歌本文も検討の前提である現代語訳(試案)が修正となりました。

表 3-4-6歌~3-4-7歌の現代語訳の結果  (2020/7/20 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌(序の歌)として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第二

逢わない相手を怨む歌群

3-4-6

6歌詞書新訳

6歌本文の現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-7

同上

7歌本文の新訳

なし

なし

 

⑦ 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2020/7/27  上村 朋)

 

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

 

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/6現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ(わかたんかこれ・・・)

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けほか当該関係ブログ

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

 

付記2.富士山の噴火(『新・国史大年表』(日置英剛編)より)

① 記録の初見は、『続日本紀天応元年(781)7月6日 富士山噴火し降灰のため木葉みな枯れる。

② 延暦19年(800)3月14日~4月18日 昼は暗く夜は火光天を照らしその音雷の如く灰は雨の如く降り、川水はこのため紅色となる。

③ 以後1000年までの記録は、6回ある。延暦21年5月19日、天長3年(826)月日未詳(相模・寒川神社記録)、貞観6年(864)5月24日より十余日、 貞観12年(870)月日未詳(相模・寒川神社記録)、承平7年(937)11月 日未詳、長保元年(999)3月7日

④ 864年より886年にわたる貞観大噴火は、大規模な割れ目噴火であり、北麓にあった湖の大半を埋没させた。溶岩流の上に後年青木ヶ原樹海が形成された。

⑤ 翌年、陸奥国貞観地震(869)があった。陸奥国にあるという末の松山を譬喩としている歌が生まれている。

1-1-1093歌  東歌 みちのくのうた(1087~1093)     (よみ人しらず)

  君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ

 ⑥ 三代集における「ふじのね」(富士の峰)・「ふじのやま」の表現の例

 「ふじのね」:1-1-680歌 1-1-1001歌 1-1-1002歌 1-1-1028歌 

        1-2-565歌 1-2-647歌 1-2-648歌 1-2-1014歌 1-2-1015歌

               1-3-891歌 

 「ふじのやま」:1-1-534歌

⑦ 延暦の噴火(800年〜802年)の際、当時の東海道駿河国相模国の国境の峠越えは、沼津から永倉駅(長泉町)を経て横走駅(御殿場)を経由し足柄峠を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われていたが、駿河側の復旧に時間を要したため、臨時に三島から小田原へ至る箱根路が開かれた。

  

付記3.間投詞「を」の例歌 (文中にある場合)

①『萬葉集』巻五 2-1-909 (長歌) 恋男子名吉日歌  三首長一首短二首

    ・・・ ちちははも うへはなさがり さきくさの なかにをね(寝)むと うつくしく ・・・

②『萬葉集』巻五 2-1-811歌   伏して来書を厚くし、つぶさに芳旨を承く。忽に意(こころ)を痛ましむ。唯 ねがわくは去留つつがなく遂に披雲を待たむのみ。 歌詞両首 太宰師大伴卿 (810,811)

    うつつには あふよしもなし ぬばたまの よるのいめにを つぎてみえこそ③『古今和歌集』巻十三 恋三 1-1-630歌  題しらず    もとかた

    人はいさ我はなきなのをしければ昔も今もしらずとをいはむ

④『古今和歌集』巻四 秋歌上 1-1-224 題しらず    よみ人しらず

    萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも

(付記終わり 2020/7/27    上村 朋)

*1:試案

*2:試案

わかたんかそれ 新型コロナウイルス対策の歌

 こんばんは。上村 朋です。

 新型コロナウイルス対策で三密を私は実行しています。生き抜くためです。高齢ですが死ぬことの準備は疎かにしていました。

 コロナウイルスで自粛要請の生活その他を多くの方が短歌を詠んでいます。そのなかで、杉山さんの歌にであい、反省しました。

『短歌人』六月号同人1欄 杉山春代さんの作品

     思ひ出横丁

  相聞歌つくらぬままに終はるらむ遅く短歌に入りたるわれは

  忠兵衛は首だけ残るストラップ梅川恋ひて千年生きる

                       (以下5首略)

 したかったことを詠いご主人への感謝の歌を、最初においています。

仲のよい、すばらしいご夫妻ではないかと思います。

 新型コロナウイルスの確認者が、検査をした人のうちで、全国で22日だけで800人に迫りました。死者も前日から1人増え増した。気を付けたい、と思います。

(2020/7/23  上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第4歌など

 (2020/7/13)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌など」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第4歌など」と題して、記します。(下記3.の集約の誤りを2022/1/15訂正した )(上村 朋)

(上村 朋)

 

1.再考第二の歌群 第4歌

① 前々回(2020/7/6)より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中です。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行ったうえ、歌群ごとにすすめています。第一の歌群は、3首すべてが「恋の歌」であることを、これまでに確認できました。

 今回は、「第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群」(3-4-4歌~3-4-9歌)の1回目です。 

② 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義しています。(付記1.参照)。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと③ 第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群」から、最初の詞書2題のもとにある歌計2首を『新編国歌大観』より引用します。

3-4-4歌   ものおもひけるをり、ほととぎすのいたくなくをききてよめる 

        ほととぎす啼くらむさとにいできしがしかなくこゑをきけばくるしも 

3-4-5歌  あひしりたりける女の家のまへわたるとて、くさをむすびていれたりける

    いもがかどゆきすぎかねて草むすぶかぜふきとくなあはん日までに  

④ 3-4-4歌の詞書にある「ほととぎす」が男を示唆するとみれば、一見女性が作中主体(多分この歌の作者でもあります)か、と思わせます。作中主体の性別も検討することとします。

 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/2/26付け参照)。

 詞書:「もの思いにふけっている折に、ホトトギスがたいそう鳴くのを聞いたので詠んだ(歌)(お元気だという噂だけ聞こえてきて姿を見せないあなたを詠んだ歌)」

 歌本文:「ホトトギスが鳴くのをよく聞くという里にきて、そこで妻を呼ぶ鹿の鳴き声を聴くのは、つらいことではないですか。」   

 この訳は、3-4-4歌の詞書にある「ものおもふ」は連語と理解したものであり、詞書から、作中主体にとって男の訪れが遠のいていたと推測し、この歌は、女である作中主体のところへの訪れが途絶えた男へのいやみの歌、と理解したところです。

⑤ ホトトギスについては、恋の歌であれば、『猿丸集』の編纂時点に近い『古今和歌集』の恋の部を参考にしてよい、と思います(付記2.参照)。未確認でしたのでここで検討します。

 『古今和歌集』の恋の部には「(やま)ほととぎす」と言う語句を用いた歌が7首あり、ホトトギスが鳴くのは恋焦がれている象徴となっています。作中主体が恋い焦がれている場合のほかに相手が恋い焦がれている場合(1-1-710歌、1-1-719歌)があります。

 いずれにしても、作者が聴覚で得た情報に基づく歌です。(付記2.参照)。それは、夏歌でも哀傷歌でも同じであり、しかも鳴いたか鳴かなかったという二者択一であり、鳴き方を詠んでいる歌は皆無です。鳴き方については、この歌の類似歌(2-1-1471歌)を検討した土屋文明氏に、なぜ多くの者に「待たれるのか」と不思議に思うような「(聞くに堪えぬまで苦しく感じる)あの鋭い声」という指摘があります。

 『古今和歌集』に詠われているホトトギスは、鳴くのを聴いて喚起するものにいくつかのパターンがありました。「待たれているもの」、「恋い焦がれているもの」、「昔を思い出させるもの」と「冥途にゆききするもの」のイメージです。

 『猿丸集』が『古今和歌集』以後の編纂であるのは確実なので、『古今和歌集』の恋部に登場するホトトギスを第一に予想して検討します。このため、恋焦がれているのが、作中主体なのか、その相手なのかを確認します。

⑥ 詞書を、最初に検討します。詞書には、作者(あるいは作中主体)の性別の決め手がありません。上記の現代語訳での()書きは作者を女性と決め込んでおり、再検討が必要です。

⑦ また、「なくをききてよめる」と、歌を詠むきっかけを記しています。しかし、ホトトギスが鳴いて作中主体が連想したのが、作中主体が待ち望んでいる(恋い焦がれるている)のか、またはその相手が待ち望んでいる(恋い焦がれるている)のか、はっきりしていない詞書の文です。

⑧ このため、作者の性を固定しないよう、詞書は、上記の現代語訳(試案)より()で補った部分を省くべきだと思います。

⑨ なお、詞書における同音意義の語句を確認すると、一つありました。

 文の初めの「ものおもひけるをり」の「ものおもふ」には連語のほかに、「もの」を「思ふ」という理解があります。ここでの「もの」は、「個別の事物を、直接に明示しないで、一般化していう」場合の「もの」と理解すると、何に思いがいっているのか、詞書の文では不明です。

 そして、その不明部分について、3-4-9歌までの再検討からヒントを得ました。「ものおもひける(をり)」とは、「作中主体が待ち望んでいる(恋い焦がれるている)」とする場合等のほかに、恋が破れたかもしれないという場合も含んだ表現である可能性です。詞書の文は、作中人物の性別のほかにも恋の進捗段階についても、直接には触れていない、ということです。

 恋の歌と仮定して今検討していますので、歌集の4番目の歌であってもう後者の場合というのは予想していなかったのですが、今のところ否定しきれません。

 また、助動詞「けり」の意は「詠嘆の気持ちをこめて回想する意がありますが、上記の現代語訳(試案)は十分に表現していません。

 そのため、詞書の現代語(試案)から()を省き、助動詞「けり」に留意し、修正したい、と思います。

 「もの思いにふけってしまっていた折に、ホトトギスがたいそう鳴くのを聞いたので詠んだ(歌)」(4歌詞書 現代語訳(修正試案)

⑩ 次に、歌本文を検討します。同音意義の語句を確認します。候補は、つぎの三つです。上記の現代語訳(試案)を得たときは、十分検討していませんでした。 

 この歌と類似歌の二句は異なり、「なかるくに」から、推理した場所である「啼くらむさと」に替わっています。その「啼くらむ」の「らむ」。

 この歌と類似歌の四句も異なり、「そのなくこゑ」から、「しかなくこゑ」に替わっています。その「しかなくこゑ」。

 五句にある「くるし」。

⑪ 「らむ」には、現在推量の助動詞「らむ」と連語「らむ」(完了の助動詞「り」の未然形+推量の助動詞「む」)の意があります。

 助動詞「らむ」の「推量の対象は、もっぱら、過去や未来と対比してとらえられる現在の物ごと」(『例解古語辞典』)となります。だから、ホトトギスがよく鳴くというのは、この歌の場合過去にあったことであり、それに引き換え今はそのような状態ではない、ということを初句と二句は表現していると理解できます。上記の現代語訳(試案)はこの意にとらえ「ホトトギスが鳴くのをよく聞くという里」とし、そのような里は今作者の近くにない(のでその里に向かった)、という意を含意しているとしています。

 連語「らむ」は「・・・ているだろう」の意です。推量の助動詞「む」のおおもとの意は、「きまっていないことについての推量です。連体形を用いてそうなることを仮定して婉曲にいう場合にも用いられています。だから、初句から二句の「ほととぎす啼くらむさと(に)」とは、「ホトトギスが鳴いているだろう里」となり、単純な想定をしている、ということになります。

⑫ 「しかなくこゑ」は、「鹿鳴く声」のほかに、「然鳴く声」(そのように鳴く声)とも理解できます。それは、「ほととぎす(の鳴き声)」が「待たれる鳥の声」(恋い焦がれるている相手の声とかふみ)と聞こえた、ということになります。作中主体かその相手かは、歌本文などの情報でわかる歌なのでしょう。

⑬ 「くるし」には、3意あり、(a)「(精神的・肉体的に)苦痛である。つらい。」と、(b)「気にかかる・気苦労である。」と、(c)「不都合である・さしつかえがある。」です。

⑭ 上記の現代語訳(試案)は、これらについて、現在推量の助動詞の「らむ」+「鹿鳴く声」+(a)の「くるし」の組合せの訳です。今から考えると、この訳であっても類似歌とは異なる意であることから、そのほかの可能性を確認しないまま恋の歌への思い込みで、詞書に()を補うなどしたことになります。

⑮ その思い込みを払拭し、詞書での「ものおもひけるをり」の理解を再確認し、「然鳴く声」(そのように鳴く声)で、現代語訳を試みます。

 「ものおもひけるをり」だけでは、恋の進捗段階も不明です。恋の歌として仮定しており、歌集の4番目の歌であるけれど破局寸前の歌も、今のところ否定しきれません。また、詞書に「なくをききてよめる」とあり、歌本文の「ほととぎす啼くらむさと」とは、実際に「なくを聞」いた作詠時点に作者(作中主体)が居た場所を指しているのか、と理解が可能です。そうすると、「らむ」の理解と恋の進捗段階によりいくつかの現代語訳が有り得ることになります。

⑯ 最初に、現在推量の助動詞の「らむ」の場合で、恋の段階が破局寸前ではないとすると、

 「ホトトギスが鳴いていると聞いてきた里にきて、そこであの恋い焦がれている声を聴くのは、(それだけでは)つらいではないですか。薄情ですよ。」(4歌本文第1案)

 次に、連語の「らむ」の場合で、恋の段階が破局寸前ではないとすると、

 「ホトトギスが鳴くだろうという里にきて、そこで恋い焦がれている声(それだけ)を聴くのは、薄情ではないですか。」(4歌本文第2案)

 次に、現在推量の助動詞の「らむ」の場合で、恋の段階が破局寸前であるとすると、

 「ホトトギスが鳴いていると聞いてきた里にきて、あの恋い焦がれている(他人の)声を聴くのは(聞かされる)のは、不都合である」(4歌本文第3案)」

 次に、連語の「らむ」の場合で、恋の段階が破局寸前であるとすると、

ホトトギスが鳴くだろうという里にきて、あの恋い焦がれている(他人の)声を聴く(聞かされる)のは、不都合である」(4歌本文第4案)」

⑰ 歌は、詞書を前提に理解しなければなりません。ホトトギスの鳴き声を聞いたのは、「さと」に来たからだ、と作者は見立てて、この歌を詠んでいます。しかしながら、歌本文五句では「きけばくるしも」と詠っています。恋い焦がれるている鳴き声であっても、自分が関わらないことだから聞くのは「くるし」ではないでしょうか。そうすると、ホトトギスの鳴き声とは、相手の女と文を交わしたり逢ったりすることに重ねて、作者はこの歌を詠んでいるものの、そのように過去に自分が経験したことを今他人がしている(自分が今は無関係)のはつらいことだ(あるいは薄情な仕打ちだ)、と詠ったのではないか。この歌は、客観的には、袖にされた男の歌、となります。

⑱ そのような「ほととぎす啼くらむさと」とは、過去と対比してとらえている「さと」であり、現在推量の助動詞の「らむ」が妥当する、と思います。歌群の配列としてなじみが増すのであれば、上記の「4歌本文第3案」が一番妥当な訳である、と思います。

⑲ この歌の作中主体は、出向いているのですから、男の立場の歌です。これらの訳と、上記の現代語訳(試案)とを比較すると、暗喩可能は生物を1種にしているこれらの訳のほうが素直な詠いぶりです。

 このため、3-4-4歌は、「4歌本文第3案」に改訳します。

⑳ 改訳案は、ともに類似歌2-1-1471歌の、「あの鋭い声」が、なぜ多くの者に「待たれるのか」ということを揶揄している歌と異なる歌意の歌であり、恋の歌の要件第一と第二を満足しています。第四も満足していますが、第三は今後の検討になります。

 

2.再考第二の歌群 第5歌

① 3-4-5歌の現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/3/5付け参照)。

 詞書: 「以前交際していたことのある、あの女の家の前を通り過ぎる、ということになり、草を、結んで投げ入れたり、(地面に生えている)草を蹴る(その時の気持ちを詠った歌)」

 歌本文:「貴方の家の前を通り過ぎることとなったので、予て思っていたように草を、結びましたよ。対面できる日までは結んだ草をほどかないで、風よ。」

② 詞書にある「くさをむすぶ」とは、類似歌(2-1-3070歌の一伝)の検討において、諸氏は俗信かと推測しています。

 動詞「むすぶ」とは、一つになった状態にする行為なので、「むすぶ」に俗信があり、お互いが身近の何かを結びあって俗信となるのでしょう。結ぶのに下紐といえば二人の関係は相愛に近く、「草」ではもう一方結ぶかどうかも疑われ、二人の関係は遠いように思えます(2018/3/5付けブログ参照)。

③ 次に、詞書にある「いれたりける」は、同音異義の語句であり、「いれたりける」は、「投げ入れたり、蹴る」、の意と理解した訳です。詞書と歌本文における同音異義の語句の確認をしましたが、このほかありません。それにしても、「いれたりける」という行動は、よほど悔しい思いが女にあるのではないか、と想像させます。この歌も3-4-9歌までの再検討からヒントを得ました。3-4-7歌から3-4-9の作者は、断られてもあきらめきれない男であろう、という推測です。

④ この歌の作者は、約束を果たせ、といやみを言っているかにみえます。さらに、「結んだ草を投げ入れる」ことに俗信があるならば、いやがらせに当たります。この歌は、女々しい男の述懐の歌と理解したのが上記の現代語訳(試案)です。

⑤ この訳は、しかしながら、恋の段階を明確にした方がよい、と思います。そのため歌本文を、その語順で素直な現代語訳に改めます。

 「貴方の家の前はただ通り過ぎることができず、草を結びましたよ。風よ、ほどくなよ、会うことができる日までは。」(5歌本文 現代語訳(修正試案))

 この歌は、恋の最終段階であってもあきらめきれない女々しい男の歌である、と理解したところです。

⑥ この歌は恋の歌の第一は満足しています。この歌の類似歌(2-1-3070歌の一伝)は、片思いの最中の歌であり恋の段階が異なりますので、恋の歌の要件の第二を満足します。第一と第四は満足していますが、第三の要件を保留します。

 

3.第一と第二の歌群の区分

① 第一の歌群のあとの詞書2題の歌計2首の再検討が終わりました。『猿丸集』の3-4-1歌から3-4-5歌までの配列を確認します。3-4-4歌から第二の歌群となるかどうかの確認です。

② 3-4-1歌から3-4-3歌は、「あひしりたりける人」への返歌であり、その人を礼讃・見直ししている歌でした。3-4-4歌と3-4-5歌は、返歌ではなく、ともに女が意に従っていないのが前提の歌でした。歌の内容の傾向が全く違います。

③ また、3-4-4歌と3-4-5歌が「恋の歌」以外の別の意の歌となっている可能性は無いのではないか。

④ このため、3-4-3歌までの歌群に3-4-4歌と3-4-5歌は入らず、新たな歌群をスタートさせている2首である、と言えます(この2首だけではまだどのような歌群かはわかりませんが)。

⑤ 今回の2題2首の再検討結果をまとめると、次のようになります。

3-4-4歌は、改まり、詞書については検討の前提である現代語訳(試案)を修正し、歌本文は新訳となりました。3-4-5歌は、詞書の現代語訳(試案)のままですが、歌本文は同(試案)を修正し、改まりました。詞書は、2題とも検討前提の現代語訳です。

3-4-5歌の詞書以外の現代語訳が、今回改まったことになります。

表 3-4-4歌~3-4-5歌の現代語訳の結果  (2020/7/15 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌(序の歌)として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第二

逢わない相手を怨む歌群

3-4-4

4歌詞書 現代語訳(修正試案)

4歌本文 第3案

なし

なし

3-4-5

5歌詞書 現代語訳(試案)

5歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

 なし

 ⑥ 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2020/7/20  上村 朋)

付記1.「恋の歌」の要件について

① 要件は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.④に記す。

② 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-1歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/20現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ(わかたんかこれ・・・)

3-4-1

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭歌本文の新訳

2020/5/11付け

3-4-2

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭第2歌の新訳

2020/5/11付け

3-4-3

3-4-3歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け及び2018/2/19付け

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けほか当該関係ブログ

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

 

付記2. 古今集ホトトギスを詠む歌は、次のとおり。

① 恋歌でホトトギスを詠む歌:7首:聴覚の情報から詠を詠んであり。視覚情報から詠んだ歌はない。

1-1-469歌:恋一巻頭歌:題しらず:ホトトギスはなき、作中主体(性別不明)は悲恋になく。

1-1-499歌:恋一:題しらず:ホトトギスはなき、作中主体(性別不明)は恋焦がれている。

1-1-578歌:恋二:題しらず:ホトトギスは夜通しなき、作中主体(性別不明)も同じように物悲しい(作者は男)。

1-1-579歌:恋二:題しらず:ホトトギスは空近く梢でなき、作中主体(性別不明)の心はそらになる恋をする(作者は男)。

1-1-641歌:恋三:題しらず:ホトトギスが暁に鳴き、作中主体(男)は後朝の別れに放心状態。

1-1-710歌:恋四:題しらず:ホトトギスは近くにいるが、誰かはどこの里でなくか。作中主体は女。

1-1-719歌:恋四:題しらず:ホトトギスは秋になり消える、作中主体(性別不明)も秋(飽き)と気付いて消える。

② 夏歌は34首あり、うち28首がホトトギスを詠み、すべてホトトギスを聴覚で捉えた景である。鳴き声のほかにホトトギスが移動するのを聴覚で捉えている歌がある(1-1-151歌~1-1-154歌)。ホトトギス(の鳴き声)は待たれるものであるか、昔を思い出させるもの(8首)と詠われている。

③ 夏歌で詞書に「(やま)ほととぎす」の語句がある歌が8首ある。1首だけホトトギスは昔を思いださせるものと詠う(1-1-163歌)

 「・・・ほととぎすのなくをききてよめる」:1-1-142歌、1-1-160歌  (2首) 

「ほととぎすの(・・・)なきけるをききてよめる」:1-1-143歌、1-1-162歌~1-1-164歌 (4首)

「ほととぎすのなくをよめる」:1-1-144歌 (1首)

下命の歌(ほととぎすまつうたよめ):1-1-161歌 (1首)  

詞書に「(やま)ほととぎす」の語句がない歌:計20首

題しらずの歌:1-1-135歌(巻頭歌)、1-1-137歌、1-1-138歌、1-1-140歌、1-1-141歌、1-1-145歌~1-1-152歌、1-1-159歌 (14首)

歌合せの歌:1-1-153歌~1-1-158歌 (6首)

④ 哀傷歌:2首:1-1-849歌(ホトトギスは昔を思い出させる鳥)、1-1-855歌(ホトトギスは冥途に通う鳥)

⑤ 雑体・誹諧歌:1首:1-1-1013歌:(ホトトギス死出の田長)

⑥ 春歌と雑歌には、ホトトギスを詠う歌はない。そのほかの部立ての歌は未確認。

(付記終り 2020/7/20   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

*1:試案

*2:試案

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌など

 前回(2020/7/6)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌総論」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第1歌など」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.~4.承前

(前回(2020/7/6)より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するか確認中である。すでに「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。3-4-1歌の詞書から再検討を始め、詞書にある「ふみ」に「恋のふみ」(付記1.参照)の理解も可能であることがわかり、詞書について3案の現代語訳を得た。

・「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と仮定し、「いふ」を「吟じる」と理解して

 「旧知であった人が、ものの道理より説いた書き付けを、菅笠に載せて差し出し、「これはどのようにご覧になりますか」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」 (「巻頭歌詞書の新訳」) 

・「ふみ」を「恋のふみ」と仮定し、かつ「いふ」を「言う」と理解して、 

「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と言われたので、詠んだ(歌)」 (1歌詞書第1案)

・「ふみ」を「恋のふみ」と仮定し、かつ「いふ」を「吟じる」と理解して、

「よく存じ上げている人が、あるところから(わざわざ)きて、すげの葉で「ふみ」(恋のふみ)を指して、これをどのようにみるか」と(言いつつ、詩歌の)一節を吟じたので、詠んだ(歌)」(1歌詞書第2案) )

 

5.「恋の歌」の要件再録 (前回ブログの2.④参照)

①『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義しておきます。

 第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

 第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

 第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと

 第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと 

② 検討の前提となるこれまでの成果等は、付記2.を参照ください。

 

6.第一の歌群 第1歌 歌本文

①第一の歌群「相手を礼讃する歌群」の最初の歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-1歌  あひしりたりける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる 

   しらすげのまののはぎ原ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら 

②詞書の概要は、「あひしりたりける人」が、「ふみ」を見せて、「いひたりける」結果、作者はこの3-4-1歌を詠んだ、ということです。この歌は返歌の位置にある歌、と言えます。常識的な「恋の歌」であるならば、「あひしりたりける人」と作者(作中主体)の関係が気になるところです。

③歌本文にある語句について2点確認しておきます。

 歌本文の初句「しらすげの」の「の」は前回整理したように主格の助詞です。また、初句「しらすげの」については、この歌の類似歌(『萬葉集』2-1-284歌)の現代語訳において「枕詞」であるからとして訳出していない人もいます。しかし、「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです」(前回ブログ2.①参照)ので、有意の語句として訳出することとします。

 次に、二句にある「まののはぎ原」は、類似歌(2-1-284歌)にある、「まののはりはら」を前提にした語句です。萬葉集歌である類似歌において、「まの」は、「真野」であり現在の神戸市長田区内の地名と想定されています。「まののはりはら」とは「真野にあるハンノキが一面にある野原」の意です。類似歌も初句に「しらすげの」と詠み始めているのをみると、「しらすげ」(植物)も多々ある野原のようです。それを、この歌は「まのの“はぎ原”」としているのは「はぎ」を強調していることになります。恋の歌と見立てると、この歌においては女性を暗示しているのではないか、と推測できます。④歌本文は、二つの文からなります。初句にある「しらすげ」の述語部(行為)が、三句「ゆくさくさ」であるか省略されているとみるかで、2案があります。

 三句は上下の文に掛かるとみると、

しらすげの まののはぎ原<を>ゆくさくさ」+(ゆくさくさ)「きみこそ見えめまののはぎはら」 (1案 三句切れの歌) 

 三句は下の文のみに掛かるとみると、

しらすげの まののはぎ原<である>」+「ゆくさくさきみこそ見えめまののはぎはら」

(2案 二句切れの歌)  

⑤この両案を、詞書の3つの理解ごとに検討します。

 最初に、詞書の「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」と仮定した「巻頭歌詞書の新訳」の場合、詞書にある「いひたりけるに」(一節を吟じたので)とは、その書き付けかその内容を示唆する一言であり、「偈」のようなものとみると、「しらすげ」は、「知らす偈」(お治めになる偈)となります(ブログ2020/5/11付け参照)。「しらすげ」は同音異義の語句であることになります。

 なお、「しらすげ」が植物の「白菅」の意とすると、この歌で「白菅」が「ふみ」を象徴している理由がわかりません。

⑥「巻頭歌本文の新訳」を参考に、この両案の現代語訳を試みると、次のとおり。

 1案の現代語訳:「(ふみのもたらすものを)知らしめる偈」が、「真野のはぎ原」を行ったり来たりしています。あなたには、それが当然見えてますよね。「真野のはぎはら」が。」

 2案の現代語訳:「(ふみのもたらすものを)知らしめる偈」は、「真野のはぎ原」。あなたが行ったり来たりする度にそれが当然見えてますよね。「真野のはぎはら」が。」

 ⑦1案において、「偈」が「野原を行ったり来たりする」とは、おかしな理解を求めている歌です。「偈」が人かその他の生物を暗喩していなければ意をなしません。しかし、それは「偈」を「書き付け」とみる前提条件で歌が成立しているはずですから、暗喩抜きで意が通じる歌であるのが条件です。

 2案は前提条件に反していません。「まののはぎ原」と言う語句そのものが偈である、と理解できます。だから、「まののはぎ原」に暗喩があればその意を探ることができます。しかし、下記で検討するように、「しらすげ」を偈より植物の白菅とみた方が歌がわかりやすところです。

⑧次に、詞書の「ふみ」を、「恋のふみ」と仮定した「1歌詞書第1案」の場合を、検討します。

⑨初句の「しらすげ」を植物の「白菅」の意としての検討となります。「2020/6/15現在の現代語訳成果」である2018/1/29付けブログの歌本文の訳を参考とします。歌本文で繰り返される「まののはぎはら」の「はら」は、二句と五句で表記が異なります。

 「はら」は同音異義の語句であり、この表記はそれを示唆しているととると、二句は「地名が真野というところにあるハギ即ち特定の女性」、五句は「地名が真野というところに咲くハギの花即ち女性の腹(の子)」という理解が可能です。また、ハギに比較すれば、白菅は、花より実用性が尊ばれている植物です。その実利のあることを初句は強調しているのかもしれません。また、すげは、「すげにふみをさして」と詞書にも触れられています。

⑩詞書が上記の「1歌詞書第1案」であって、「しらすげ」を植物の「白菅」の場合、ハギが女の意を含むので、白菅は、男と推測できます。

歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。ます。

 1案の現代語訳:(三句切れの歌):「しらすげになぞらえられる男が、(真野のはりはらではなく)真野のはぎ原(ハギに例えられる女性の許)に行ったり来たり。それが、あなたには、しっかりと見えてますよね、さらにその真野のハギの「はら(腹の子)」が。(おめでとうございます。)(1歌本文第1案)

 2案の現代語訳:(二句切れの歌):「しらすげになぞらえられる男は、(真野のはりはらではなく)真野のはぎ原(ハギに例えられる女性の許)へ。行ったり来たりしているあなたは、しっかりと見えてますよね、さらにその真野のハギの「はら(腹の子)を」

⑪この両案の現代語訳を比較すると、三句の「ゆくさくさ」は相手の男の行動を指しているとみるほうが恋の歌として素直であろうと思います。そのため、前者(1案)が妥当な訳であると思います。以後「1歌本文第1案」ということとします。

 詞書の「ふみ」は歌本文に登場していません「あひしりたりける人」が差し出した「ふみ」は、男からの贈答の「ふみ」であったのでしょうか。

⑫この訳は、類似歌2-1-284歌の意(送別の宴席における、妻が夫の無事の帰任を願っている歌)と異なっています。

⑬「まののはりはら」ならぬ「まののはぎはら」とは、「真野」という地名が示唆するように「朝廷の中枢から遠い家族の女」を暗喩している、とみえます。「あひしりたりける人」は、受領(現地に赴任して行政責任を負う筆頭者)階級の一人であるならば、その資力に魅力を感じた上流貴族の男がいた可能性もあります。

 家柄のよい男と縁ができてその子供が生まれるのは、子供が男女いずれであっても「あひしりたりける人」の家にとっては繁栄につながるのだから、3-4-1歌の作者は、「恋のふみ」の実物まで持ってきて喜んでいる人に挨拶を申し上げたのがこの歌である、と理解したところです。 

⑭次に、詞書が「1歌詞書第2案」である歌として検討します。

 詞書における「吟じた」ものが歌本文に詠まれているとみると、初句にある「しらすげ」(「知らす偈」)となります。そして、主格の助詞「の」によって「しらすげ」を文の主語として検討することになります。

 そうすると、先に検討した詞書の「ふみ」が「ものの道理より説いた書き付け」の場合(「巻頭歌詞書の新訳」)の歌本文」と同じような現代語訳になります。さらに「しらすげ」が男をも示唆するとみるならば、「1歌詞書第1案」の詞書と理解する方が無理の少ない推測です。

⑮このため、「恋の歌」として3-4-1歌を理解しようとすると、「ふみ」が「恋のふみ」を指す詞書である「1歌詞書第1案」であって歌本文が上記の「1歌本文第1案」という組み合わせが有力となります。

 この案の場合、3-4-1歌は、当事者の男女の間を往復した歌ではありませんが、第三者が恋の成就を祝って詠っているとみてよい歌です。このため、「恋の心によせる歌」と理解でき、「恋の歌」の要件の第一(「成人男女の仲」に関して詠んだ歌)を満足している、と思います。

 要件の第二(当該類似歌と歌意が異なる歌)も第四(別の理解も許す)も満足しています。

 しかし、残りの一つ(第三の要件)、即ちこの詞書のもとにおける3-4-2歌本文とのバランスなどは3-4-2歌の検討後の確認となります。

⑯なお、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である詞書の現代語訳、即ち「巻頭歌詞書の新訳」における格助詞「に」も、「1歌詞書第1案」同様に「動作・作用が行われるための方法・手段を示す」意と理解し、現代語訳を修正したいと思います。次のとおり。

「よく存じ上げている人が、ものの道理より説いた書き付けを、すげの葉で指して、「これはどのようにみるかね」と(言いつつ)、一節を吟じたので、詠んだ(歌)」

 これを以後、「巻頭歌詞書の改訂新訳」ということとします。

 また、3-4-1歌の歌本文の現代語訳も、初句の「の」を主格の助詞と理解し、二句で文が切れているとみて、「巻頭歌本文の新訳」より次のように修正します。

 二句の「まの」は地名に「真の野」(接頭語「ま」+名詞「野」)が掛かっていることと、「はぎ原」が「ハギが咲く野原(人々がハギ同様に愛するはずの所説)」の意であることを明確にし、五句にある「はぎはら」が猿丸集を掛けているとみて、「こそみえめ」を意訳したい、と思います。

「(ふみに記された所説を)知らしめる偈は、「真野のはぎはら」。真野の地のハンノキの原のなかにあってもハギの一群れは楽しめるもの。おなじように、行きつ戻りつして楽しめるのが、和歌の真の歌集『猿丸集』であり、あなたにはそれが当然わかっておいででしたね。」(和歌を誤りなく理解する方法を) 

 以後この訳を「巻頭歌本文の改訂新訳」ということにします。

 

7.再考第一の歌群 第2歌

① 3-4-2歌の詞書は、3-4-1歌の詞書と同じです。3-4-1歌では、詞書の「ふみ」を、「恋のふみ」と仮定した「1歌詞書第1案」で歌本文は「恋の歌」と理解できました。

 3-4-2歌の歌本文も、この詞書(「1歌詞書第1案」)のもとで、初句にある「(からひと)の」を3-4-1歌などと同様に主格の助詞と理解して、「恋の歌」となるかどうかを検討します。(②は欠)

②歌を、『新編国歌大観』から引用します。

 3-4-2歌   (詞書は3-4-1歌に同じ) 

    から人のころもそむてふむらさきのこころにしみておもほゆるかな

 初句にある「からひと」を、外国からきた人、あるいは遠来の人、の意を掛けていると理解すると、詞書にある「あひしりたりける人」を指す語句ではないか、と予想できます。

③3-4-2歌を、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である2018/2/5付けブログの訳は、初句にある「の」を主格の助詞としていない訳でした。そして、2020/5/11付けブログに記す「巻頭第2歌の新訳」では主格の助詞とみていますので、3-4-1歌と同様にそれを参考として歌本文を検討すると、次のとおり。

 「から人が(遠来の貴方が)衣を染める(染めさせる)材料という紫草。それに覆われる野原は、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」

3-4-1歌にならい、「2歌本文1案」ということにします。

④五句にある「かな」は、「詠嘆的に言いきる」終助詞です。

⑤この訳では、詞書にある「ふみ」に言及がないことになります。しかし、初句の「から人」は、「ふみ」を持参してきた人と重なり、詞書にある「あひしりたりける人」への関心は3-4-1歌と変わりなくあります。

⑥この現代語訳の3-4-2歌は、男女の間を往復した「ふみ」による成果を予想しており、前回のブログ(2020/7/6付け)の付記1.に例示した歌同様に、「恋の心によせる歌」の1種であり「恋の歌」の要件第一を満足する、といえます。

第二と第四も参考とした現代語訳と同様満足しています。

⑦そして、同じ詞書のもとで3-4-1歌と3-4-2歌は、「1歌本文1案」と「2歌本文1案」と理解できるので、歌の内容も一連の歌と認められます。このため、第三の要件「誰かが編纂した歌集記載の歌であるので、歌の配列上違和感のないこと」をも両歌は満足しています。

⑧なお、「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」の意とみた場合は、3-4-2歌は次のような訳が得られます。「ころもそむてふむらさき」とは、限定した衣を染める材料を強調しており、それは『猿丸集』を構成する「詞書の記載の各歌」(元資料の歌)を示唆しているのではないか。

 「から人が衣を染める材料という紫草(元資料の歌)。それに覆われる野原(詞書を新たにして配列された『猿丸集』)に、強い関心をいだくものだと、自然に思われてくるなあ。」(巻頭第2歌の改訂新訳)

 

8.再考第一の歌群 第3歌

①次に、3-4-3歌を、検討します。現代語訳(試案)(「2020/6/15現在の現代語訳成果」)のままで恋の歌になっていますが、その理解では、3-4-1歌から3-4-3歌から成る第一の歌群となるための上記2.④の第三の要件を満足するかどうかが気がかりな歌です。そのため、詞書から再検討します。

『新編国歌大観』から歌を引用します。

 3-4-3歌  あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる 

   いでひとはことのみぞよき月くさのうつしごころはいろことにして

②2018/2/19付けブログより、詞書のみ現代語訳(試案)を引用します。

 「心許ないと思っていた人が、そうでもないのではないか、私には頼みになるように思わせながら素っ気ない態度ばかりとっていたと見えていたが、と思いなおし、よくよく相手の気持ちを見定めたので、詠んだ(歌) 」(3歌詞書の現代語訳(試案))

③詞書の最初にある「あだ」には「(人の心・命・花などについて)はかない・心もとない」意のほかに「粗略である・無益である」意があります。最後にある「みる」も同音意義の語で、「思う・解釈する」意もあります。

④これらの意を踏まえて現代語訳を試みると、

 「無益で役にたたないお人ではないかと見ていた人は、(実は)そうでもなく、ずっと頼みに思わせていて無情なだけ(頼みを聞いてくれてないふりをしていた)という状況であったということがわかり、その人の心情を推し量り、詠んだ(歌)。」 (3歌詞書の別訳) 

⑤恋の歌でありかつ第一の歌群の歌であれば、この歌の詞書にある「あだなりける人」は、直前にある詞書の「あひしりたりける人」を指しているのではないか、と推測できます。この詞書は、「あだなりける人」に敬意を表しています。そういう気持ちが歌本文でも読み取れるかどうか、です。

それを、確認します。

⑥これまでの成果である「3歌詞書の現代語訳(試案)」を前提にした場合、歌本文の現代語訳(試案)は、次のとおりです(2018/2/19付けブログより)。

 「いやもう、男の方は本当にすること為すことがご立派でありますね。月草で染めたものがすぐ色の褪めるように変る移し心をお持ちであっても。そのように思っていたあなたのふるまいは、特別でしたね(移し心を持っていても貴方は別格でした。あなたを信じています)。」(3歌本文の現代語訳(試案))

 初句と二句に示された「事」に関する作者の感慨が、一般論の感慨であるのに対して、下句では個別論で「こと」に関した感慨を詠んでいる、と理解したところの現代語訳です。

⑦新しい詞書の理解(3歌詞書の別訳)を前提とした場合、 同音異義の語句「こと」の理解(事)を踏襲しても、歌本文の上記⑥に示す現代語訳(試案)のままでは、「男の人」などの訳が不適切です。 

 また、前の2首を受けて詠んでいる歌と理解すれば、初句~二句は、一般論ではなく、「あひしりたりける人」がかかわる3-4-1歌と3-4-2歌に詠われている具体的な事例を受けて詠いだしていることになり、特定の人の特定の行動を評している、とみたほうがよい、と思います。三句以下の文も同様に、初句~二句に重ねて特定の人の特定の行動を評している、とみることができる、と思います。個別論で評した後一般論で立派だと念押しする必要はありません。

⑧二句にある「こと(事)」を、「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ・ふるまい」の意とし、五句にある「いろ」を「豊かな心情」、五句にある「こと(殊に)」を「とりわけ・格別であるようす」の意とすると、次の現代語訳となります。

「いやもう、あなた様は本当にすること為すことがご立派でありますね。月草で染めたものがすぐ色の褪めるように変る移し心とは異なる本心による、あなたの(この度の)心配りは格別のことでしたね。」(3歌本文別訳)

⑨3-4-3歌本文でも、「あだなりける人」は前の詞書にある「あひしりたりける人」を指しており、この度のことでご立派な方だと気が付いた、と詠っています。

 この歌の作者は、だから、3-4-1歌などを詠んだ人から話を聞いた人であっても良い、と思います。

⑩このような理解は、恋の成就に当たった苦労話にまつわる歌であり「恋の心によせる歌」の1首です。「恋の歌」の要件の第一を満足し、恋の当事者間での歌であった類似歌と異なるので第二を満足しています。もちろん第四も満足しています。

 3-4-1歌~3-4-3歌は「あひしりたりける人」を礼讃した歌という共通点があり、作者(作中主体でもある)の想定も次のような関係を想定できます。このため、この3首は一連の歌とみなせますので、第三の要件も満足しています。

 3-4-1歌:「ふみ」を持参した人の親戚の男(官人)か「ふみ」を持参した人の夫人 

 3-4-2歌:男 3-4-1歌の作者と同じ人物か「ふみ」を持参した時に同席していた人(男女どちらでも可) 

 3-4-3歌:女 3-4-1歌の作者と同じ人物か「ふみ」を持参した時に同席していた人(男女どちらでも可)あるいは3-4-1歌の作者から話を聞いた人(男女どちらでも可)

⑪このように、3-4-1歌から3-4-3歌は、「ふみ」を「恋のふみ」と仮定をすると、「恋の歌」として一つの歌群を成してもおかしくありません。そして歌群のネーミングも「相手を礼讃する歌群」というのは妥当であろう、と思います。『猿丸集』全体の配列からの歌群のネーミングの検討と次の歌3-4-4歌と一組の歌群を成すかどうかの検討は後ほど行うこととします。

⑫なお、3-4-1歌の詞書にある「ふみ」を「ものの道理より説いた書き付け」とした場合でも3-4-3歌は、『猿丸集』の序の歌として、「あひしりたりける人」を礼讃しており、詞書と歌本文も「ふみ」を「恋のふみ」とする場合と同じ現代語訳が妥当である、と思います。作者についても同様です。

 そして、3-4-1歌から3-4-3歌は同じ話題について、立派な人だと詠っており、特定の人の特定の行動を繰り返し評している歌であり、一つの歌群を成している、と言えます。また、歌群のネーミング(相手を礼讃する歌群)も適切である、と思います。作者は、「ふみ」を「恋のふみ」と仮定した場合と同様であるので、3首すべて男ということも可能となりました。

⑬『猿丸集』の最初の歌群の3首の再検討結果をまとめると、つぎのようになります。詞書と歌本文は、3首すべての現代語訳が今回改まったことになります。

 

表 3-4-1歌~3-4-3歌の現代語訳の結果  (2020/7/13 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌(序の歌)として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第一

相手を礼讃する歌

3-4-1

1歌詞書第1案

1歌本文第1案(しらすげは植物&男)

巻頭歌詞書の改訂新訳

 

巻頭歌本文の改訂新訳(しらすげは植物&偈)

3-4-2

同上

2歌本文第1案

同上

巻頭第2歌の改訂新訳

3-4-3

3歌詞書の別訳

3歌本文別訳

3歌詞書の別訳(恋の歌と同じ)

3歌本文別訳(恋の歌と同じ)

 

 

「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。次回は、次の歌群(歌群第二)の歌を検討したい、と思います。

(2020/7/13    上村 朋)

付記1.「恋の歌」について

①「恋の歌」かどうか検討するため、「恋のふみ」を、前回のブログ(2020/7/6付け)の「4.②」に定義した。

②引用すると、次のとおり。

「恋のふみ」とは、「男女の間で贈答した書き付け」とし、さらに「男女の結び付きの、きっかけから死に別れあるいは別れが確定したと当事者が認識するまでの間に当該男女のやりとりした書き物」をとくに指す。

 

付記2.これまでの成果等について

①恋の歌の確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集が恋の歌か 第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.参照。

②恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-1歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。

表「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/6現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-1

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭歌本文の新訳

2020/5/11付け

3-4-2

巻頭歌詞書の新訳 &

巻頭第2歌の新訳

2020/5/11付け

3-4-3

3-4-3歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け及び2018/2/19付け

3-4-4~

 3-4-5

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/2/26付けまたは2018/3/5付け

3-4-6~

3-4-7

3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案

2020/5/25付け(訂正案) 及び

2018/3/12付け*1と2018/3/19付け*2

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10~

3-4-11

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付けほか当該関係ブログ

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

(付記終わり 2020/7/13  上村 朋)

*1:試案

*2:試案