わかたんかこれ 猿丸集の詞書その3 部立て

前回(2020/4/6)、 「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その2 類似歌の詞書」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その3 部立て」と題し、詞書からの検討をします。

 

4月7日、新型コロナウイルス対策に関して(新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づき)緊急事態宣言が発令されました。東京都などが対象です。

自らの感染予防のため、あるいは、知らずに人に感染させてしまうのを避けるため、

いつもの時間に食事をし、体をこまめに動かすなどして、体調を常に整えましょう。

外出時の会話は十分距離をとりマスクをして、帰宅後は十分手洗いを、などなど徹底しましょう。

日々検温をしてメモしておくなど、過去数日間のデータを残すようにしましょう。

宣言の対象地域に私の生活拠点がありますので、実行しています。(上村 朋)

 

1.~2.承前 

 (『猿丸集』全体の配列・構成などについて「詞書」を材料に検討を始めた。『猿丸集』の歌52首には詞書が35あり、類似歌計62首には詞書が62ある。「題しらず」または「返し」という詞書は『猿丸集』にない。類似歌の詞書をみると類似歌のみの配列方針はないようにみえ、類似歌の並びは『猿丸集』の歌の配列に従っていると理解してよい。『猿丸集』の歌にある詞書は、『猿丸集』の歌同士の関係及び歌本文との関係から記述されているものと推測でき、各歌の詞書は、類似歌とともに歌本文の理解を限定しているようである。なお、歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測を捨てることにはなっていない。)

 

3.詞書のみからの部立ての想定

①『猿丸集』には52首あるので部立ての可能性を再度検討しておきます。恋の歌の詞書が多いので恋の歌(詞書)の細分をもしてみます。作者と歌を贈った相手の性別と恋の段階を、三代集の恋部で行ったように詞書のみから、判定してみます。

恋の段階は、小池博明氏の整理に従い、「恋部の段階的推移は、無縁・忍恋→求愛→逢瀬→疎遠→離別(復縁迫る)→絶縁と推移する。(一つの恋での時間軸での推移)」という分類をもとに、次の区分を設けました。

A:求愛以前の段階:詞書より無縁・忍恋あるいは求愛の段階の歌のみを想定できる段階

B:逢瀬:詞書より逢瀬の段階のみを詠う歌を想定できる詞書段階

C:逢瀬以降の段階:詞書より逢瀬あるいは疎遠以降をも詠う歌が想定できる段階

D:疎遠以降の段階:詞書より疎遠あるいは離別以降をも詠う歌が想定できる段階

E:離別以降の段階:詞書より離別あるいは絶縁をも詠う歌が想定できる段階

② その結果が次の表2です。この表は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」(2020/1/13付け)の表を再検討したものです。

 

表2 猿丸集の詞書のみから三代集にならった部立ての想定 (2020/4/1現在 )

詞書のある歌番号等

作者と歌を送った相手

推定した歌の部立と恋歌の段階

備 考

3-4-1

男→男

雑 (注3)

人は男を指す語句

3-4-3

女→男

恋D

うらむのは関係が遠のいている段階

3-4-4

女か→男か

恋か

「ほととぎす」は、訪れる男をイメージさせるが断定しにくい。また、前後の歌の詞書との連続性を重視すると「恋か」

3-4-5

男→女

恋E

 

3-4-6

男→女

恋C

男は今逢えていないが別れる気もないとみる

3-4-8

女→男

恋B

月とともに訪れるはずの男を待つ

3-4-9

男→女

恋C

 

3-4-10

?→?

恋か

前後の詞書よりみて恋か 

3-4-11

?→?

恋か

鳴く「しか」は牡であり、男を連想させる。

3-4-12

男→女

恋C

3-4-42と同じ段階とみる

3-4-13

女→男

恋C

「ひと」は男。男へ女が文を出しているので、恋Aではなく恋Cか

3-4-15

女→男

恋C

既に地方と京と住むところが離れている

3-4-18

女→男

恋CまたはD

 

3-4-19

女→男か

恋か (注3)

女を「おやどもがせいする」となれば恋の件とみて「恋か」

3-4-21

男→?

雑 (注3)

「物へゆく」とは京を離れること

3-4-22

男→女

恋B

 

3-4-27

男→?

四季か・雑か(注3)

 

3-4-28

男→?

四季か・雑か(注3)

 

3-4-29

女→男

恋B

また逢えたので、恋Cから恋Bに戻った仲

3-4-31

?→?

四季か (注3)

梅の花」が人を暗喩するかが不明、「四季か」

3-4-32

男→?

四季か (注3)

「やまでらにまかる」のは男か。女なら寺というか。恋ではない。

3-4-33

女→男

恋B

「人」は男。逃がす手伝いをするのだから恋B

3-4-34

?→?

恋か (注3)

「山吹」に人の暗喩があるか不明であるが、前後の歌の詞書との連続性から「恋か」

3-4-35

男→女

恋C

 

3-4-36

女→男

恋か

「卯月つごもり」のほととぎすなので男の暗喩か。

3-4-37

?→?

恋か

作者の性別は不明だが、「あき」が同音異義の語句なので「恋か」

3-4-39

?→?

恋か

「しか」の暗喩が不明だが、同じ「しか」を詞書でいう3-4-11歌と同じく四季よりも「恋か」

3-4-42

男→女

恋C

3-4-12と同じ段階とみる

3-4-43

男→女

恋B

 

3-4-45

?→?

恋か (注3)

「あひしれるける人」は男と思う。その男が亡くなっての弔問歌か。それより、前後の歌の詞書との連続性から「恋か」

3-4-46

男→女

恋C

 

3-4-47

男→女

恋A

これから交渉の段階

3-4-48

男→女

恋A

ふみの交換の段階

3-4-50

男→?

四季 (注3)

さくらは春

3-4-51

男→?

四季 (注3)

さくらは春

詞書の数の計

 35

恋     18

恋か      9

その他   8

 

注1)「歌番号等」欄の数字は、『新編国歌大観』の巻数-当該巻での歌集番号―当該歌集の番号

注2)「恋歌の段階」は、恋を小池博明氏の整理に従い、「恋部の段階的推移は、無縁・忍恋→求愛→逢瀬→疎遠→離別(復縁迫る)→絶縁と推移する。(一つの恋での時間軸での推移)」という分類をもとに、次の区分を設けた。

A:求愛以前の段階:詞書より無縁・忍恋あるいは求愛の段階の歌のみを想定できる段階

B:逢瀬:詞書より逢瀬の段階のみを詠う歌を想定できる段階

C:逢瀬以降の段階:詞書より逢瀬あるいは疎遠以降をも詠う歌が想定できる段階

D:疎遠以降の段階:詞書より疎遠あるいは離別以降をも詠う歌が想定できる段階

E:離別以降の段階:詞書より離別あるいは絶縁をも詠う歌が想定できる段階

注 3)「推定した歌の部立と恋歌の段階」欄の「注3」(計11首)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」(2020/1/13付け)の表作成時に詞書のみからの判定で「雑歌等」と判定した詞書である。

 

③ 詞書より判定した部立ては、「恋」と「恋か」をくくった恋関係、雑及び四季の3種だけであり、恋関係の詞書が27となりました。そして、歌集の始まりと終わりの詞書は、恋の部立てではありませんでした。

④ 恋関係以外の残りの8首の詞書の概略はつぎのように理解できます(歌本文による検証は後日行います。以下同じ)。

 3-4-1歌 男から男へ  地方(あるいは田舎)から京に戻ってきた男が持ってきた文の感想を述べる歌か

 3-4-21歌 男から?へ  地方(あるいは田舎)へゆくとき珍しい景をみた歌か

 3-4-27歌 男から?へ  地方(あるいは田舎)へ行く途中天候不順となった時の歌か

3-4-28歌 男から?へ  地方(あるいは田舎)へ行く途中蝉の声を聞いた時の歌か

3-4-31歌 ?から?へ  建物近くの梅が咲いたのに気がついたときの歌か

3-4-32歌 ?から?へ  山寺に行ったとき 桜が咲いているをみての歌か

3-4-50歌 男から?へ  花を見に言ったとき山側の「いし」にせかれたはなをみての歌か

3-4-51歌 男から?へ  山に花を見にいったときの歌か

これらの8首は、歌をおくる相手の情報が詞書にありません。

⑤ 上記④での「?」は、男女の判定が詞書の文からはできない、という意です。各歌の詞書を検討します。

『猿丸集』の最初にある3-4-1歌の詞書は、部立てを「雑」と推定しました。文の感想を述べるのだから官人の男が作者であり、歌をおくった相手(京へ戻ってきた人物)も男である、と推測しました。この詞書のように、京に戻ってきたときの歌は、ほかの7首にも、恋関係の歌27首の詞書にもありません。

京から離れようとしているときと思われる詞書は、恋関係以外の部立てでは6つあり、3-4-21歌、3-4-27歌、3-4-28歌、3-4-32歌、3-4-50歌および3-4-51歌の詞書、また恋関係の詞書で1つ、3-4-5歌の詞書だけです。

⑥ 3-4-21歌の詞書の「物へゆくに」の「もの」が、任国などではなく相手の屋敷をぼかしていっているならば、この歌をおくる相手が女という恋の歌であるかもしれません。

3-4-27歌の詞書と3-4-28歌の詞書では「ものへゆきける“みち”に」とあり同様の推測が成り立ちます。しかし3-4-21歌の詞書にある「あさりするものどものある」の「あさり」が餌をさがすこと、魚をとることの意であるので、「あさりする」が何を象徴しているのかが問題であり歌本文にあたることが条件になりますが、とりあえず3-4-21歌の詞書にも可能性があると指摘できます。

3-4-31歌以下の詞書にある、「梅の花」と「さくら(のはな)」に女性の暗喩があるならば、各歌は男から女へおくった歌という可能性が生じます。

そうすると、3-4-21歌以下の7首は、詞書を吟味すると作者が男で女におくった歌の詞書ではないかという仮説が成り立ちます。3-4-1歌以外は、すべて、ある男の恋にまつわる歌、という一つの整理(一つの仮説)が詞書からできます。

3-4-1歌の詞書にある「ものよりきた」という男と上記の「ある男」の関係も歌本文で確認を要すると思います。

⑦ 次に、恋関係の歌27の詞書にもどり検討します。「恋か」と判定した詞書を除き恋の段階を整理できた18の詞書に注目し、疎遠以降の段階である恋D(または離別以降の段階であるE)で、恋の挿話が終わる等とすると、歌群は次のようなものが想定できます。

3-4-1歌の詞書~3-4-5歌の詞書 (恋Eまでの挿話 歌数は5首)

3-4-6歌の詞書~3-4-18歌または3-4-19歌の詞書 (恋Dまでの挿話 歌数は13~15首)

3-4-19歌または3-4-21歌の詞書~3-4-37歌の詞書(恋Cのあとの「恋か」までの挿話 歌数19~16首) あるいは恋関係以外の8首のいずれかで分割しているかもしれない。

3-4-39歌の詞書~3-4-46歌(恋Cまでの挿話 歌数は8首)

3-4-47歌の詞書~1-3-51歌の詞書 (恋Aのままか 歌数は6首)。

⑧ また、詞書の文言を通覧すると、3-4-1歌の詞書の「すげにふみさしていかがみるといひたりける」に「よめる」(返事した)というのは、直接問いかけられている場面を記述していることであり、このような詞書は、3-4-1歌と3-4-35歌しかありません。前者は、恋の歌の詞書とはストレートにはわかりませんが、後者の3-4-35歌は恋関係の歌というのがはっきりわかる詞書となっています。

⑨ 表2で想定した部立てで、「雑」と想定したのは、3-4-1歌の詞書と3-4-21歌の詞書の2つとなりました。この二つの詞書は、四季の景に言及せず、人の動きに触れており、それが「雑」の部立ての理由でもあるのですが、前者は作者に働きかけている動きであり、後者は、作者が注目した動きという違いがあります。

3-4-1歌の作者について表2の想定を捨て女性とすれば、「ふみ」の内容によっては、男女の間の歌のひとつにこの3-4-1歌もなるかもしれませんが、それは歌本文の確認を要します。

⑩ このように理解すると、3-4-1歌の詞書は、

第一 ほかの歌の詞書が恋関係ばかりであるのに、恋関係の歌としてはなはだ理解しにくい詞書であること

第二、対面してその場で歌を詠んでいるかのような詞書であり、歌でいうならばいわゆる「返し」に相当する歌を示唆する詞書となっており、そのような詞書はほかにないこと

第三 「もの」から京に戻った際と明確に言っているのはこの歌だけであること

という特徴を指摘できます。

 

3.詞書のみを対象とした検討結果のまとめ 

① 『猿丸集』の詞書を材料として検討してきて、指摘できることがいくつかある、とわかりました。

第一 『猿丸集』の編纂者は、歌集の常として、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)は特別視しているのではないか。少なくとも3-4-1歌の詞書の文言は、この歌集のなかで独特なものである。

第二 3-4-1歌は、恋の歌集を象徴する歌というよりもこの歌集の序の役割をも担っているのではないか。但し、最後の3-4-52歌の詞書は3-4-51歌と同じであり、巻頭歌と最後の歌(掉尾の歌)の関係の確認は、歌本文をみなければ断言はできない。

第三 『猿丸集』の編纂者は、恋に関する歌集を目指しているのではないか。ただし、「返し」という詞書がないのだから、2首で一対となる歌双方を記載するのは避けているとみえる。

第四 『猿丸集』は52首もあるので、部立てあるいはいくつかの歌群からなる歌集ではないか。

第五 『猿丸集』のすべての歌は、それぞれの類似歌の詞書とで異なる詞書を編纂者が用意しているので、『猿丸集』の歌は、類似歌と異なる歌になっている、と推測できる。

第六 詞書のみからの検討では、歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測を捨てられない。

 

② これらは、もちろん歌本文による推測と同じであるとは今のところ限りません。次回からは、歌本文も対象に検討することとし、上記の第一を最初に検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2030/4/13  上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集の詞書その2 類似歌の詞書

前回(2020/3/30)、 「わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その2 猿丸の歌」と題して記し、また、今年初め(2020/1/13) 「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その1」と題して記しました。

今回 「わかたんかこれ 猿丸集の詞書その2 類似歌の詞書」と題し、詞書よりの検討をします(上村 朋)。 

(新型コロナウイルス感染の予防と人に感染させないため、関東などに生活拠点のある方々、いつもの時間に食事をし、体をこまめに動かすなどして、体調を常に整えましょう。外出時の会話はマスクして離れて、帰宅後は手洗い、などを徹底しましょう。私も実行しています。)

1.今年初めのブログのまとめ

①『猿丸集』全体の配列・構成などについて「詞書」の検討から始めました。『猿丸集』の歌52首には詞書が35あります。ほかの歌もそれらの詞書のもとにあり、「題しらず」及び「返し」という詞書が『猿丸集』にはありません。また類似歌も(『猿丸集』に記述は省略されているものの)詞書の一部、ともみることができました。

② そのような詞書の並び順(歌の配列)については、一見すると勅撰集のような整然としたものではなく、恋と雑歌等が雑多に並んでいる印象です。

③ 歌集名の検討で得た、『猿丸集』は類似歌に関する新しい理解を示した歌集、という推測を捨てることにはなりませんでした。

 

2.類似歌の詞書との比較

① 詞書のみの比較をします。『猿丸集』の各歌の詞書とその類似歌の詞書(相当)の部分を、『新編国歌大観』より引用すると、つぎの表1のようになります。『猿丸集』の詞書は35あります。『猿丸集』の歌1首に類似歌が2首以上あると認めた歌もあり、類似歌の詞書は歌の数だけ、合計62あります(題しらずも詞書としてカウントしています。また集計もれが1首あり訂正しました。)(付記1.参照)。

②『猿丸集』の歌52首にかかる詞書は、その歌を詠むに至った事情を簡潔に述べているスタイルの詞書ばかりです。作者の立場に触れている詞書もありますが、作者の固有名詞もそれを推測させる語句もありません。

③ 類似歌のうち、『古今和歌集』にある類似歌の詞書24がみな「題しらず・よみ人しらず」なのに対して、『萬葉集』にある類似歌の詞書(相当)の部分は、「題しらず」が11あるものの、半数近くの詞書では作者名を明らかにしています。『神楽歌』や『拾遺和歌集』・『寛平御時后宮歌合』・『新撰萬葉集』・『人丸集』にある類似歌の詞書は、みな「題しらず・よみ人しらず」です。しかし『千里集』にある類似歌は題詠です。

萬葉集』歌の場合、「題しらず」(と整理した)歌とは、類似歌の詞書(相当)の部分で作者名を明らかにしているので、誰が詠ったかわからない歌、という意にとれます。

④ 類似歌の62の詞書には、「題しらず」が、結局42あります。三代集の恋の部は、詞書に「題しらず」が多いと歌の配列等の考察ができませんでした(付記2.参照)ので、類似歌の配列等の情報が得られないのはやむをえません。

類似歌の現代語訳の試みも一昨年来行ってきましたが、諸氏の現代語訳と異なることになった例があります(付記3.参照)。そして、類似歌の前後の歌の配列や当時の官人の行動慣行等を踏まえると、詞書は歌の理解に欠かせないものであることを痛感しました。そして、『猿丸集』の歌が、その類似歌がそれとわかる語句を用いた歌としていることは、その理解に類似歌の理解が欠かせないことを示唆していると強く感じたところです。

だから、類似歌については、類似歌のみの配列方針はなく、『猿丸集』の歌の配列に従っていると理解してよく、『猿丸集』の歌にある詞書は、『猿丸集』の歌同士の関係及び歌本文との関係から記述されているものであり、各歌の詞書は、類似歌とともに歌本文の理解を限定している、と推測できます。

表1  『猿丸集』の詞書と類似歌等の詞書(題詞)との対比 (2020/4/6現在)

                              (萬:『萬葉集』歌 古:『古今和歌集』歌 )

歌番号等

『猿丸集』の詞書

類似歌の詞書(相当)の部分

3-4-1

あひしりたるける人の、ものよりきてすげにふみをさしてこれはいかがみるといひたりけるによめる

萬284: 黒人妻答歌一首 (雑歌)

3-4-2

 (同上)

萬572: 大宰師大伴卿(だざいのそちおほとものまへつきみ)、大納言に任(まけ)らへ、京に入らんとする時に、府の官人(つかさびと)ら、卿を筑前国(つくしのみちのくに)の蘆城(あしき)の駅家(うまや)に餞(うまのはなむけ)する歌四首(571~574 )  (左注に「右二首大典麻田連陽春)

3-4-3

あだなりける人の、さすがにたのめつつつれなくのみありければ、うらみてよめる

古711: 題しらず  よみ人しらず (恋四)

3-4-4

ものおもひけるをり、ほととぎすのいたくなくをききてよめる

萬1471: 弓削皇子御歌一首 (夏雑歌)

3-4-5

あひしりたるける女の家のまへわたるとて、くさをむすびていれたりける

萬 3070ノ一傳: 題しらず (古今相聞往来歌・四茂野陳氏)

3-4-6

なたちける女のもとに

萬 2717の一伝: 題しらず (古今相聞往来歌・寄物陳思)

3-4-7

 (同上)

①   拾遺586:詞書なし (神楽歌)

②   神楽歌41: 伊奈野(41~43) 本 (神楽歌 大前張(おおさいばり))

3-4-8

はるの夜、月をまちけるに、山がくれにて心もとなかりければよめる

①   萬293: 間人宿祢大浦初月歌二首(292,293)(雑歌)

②   萬 1767: 沙弥女王歌一首 (雑歌)

3-4-9

いかなりけるをりにか有りけむ、女のもとに

萬2878: 題しらず (古今相聞往来歌・正述心緒)

3-4-10

家にをみなへしをうゑてよめる

萬1538: 石川朝臣老夫歌一首 (秋雑歌)

3-4-11

しかのなくをききて

萬1613: 丹比真人歌一首 (秋相聞)

3-4-12

女のもとに

萬1697: 紀伊国作歌二首(1696,1697) (雑歌)

3-4-13

おもひかけたる人のもとに

萬2998: 一本歌曰<2997の異伝>(古今相聞往来歌・寄物陳思)

3-4-14

 (同上)

萬498: 田部忌寸櫟子任大宰時作歌四首(495~498)

3-4-15

かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに

①   萬2642: (右一首上見柿本朝臣人麿之歌中也、但以句句相換故載於茲)(古今相聞往来歌・寄物陳思)

②   萬 2506; 題しらず(古今相聞往来歌・寄物陳思)

3-4-16

(同上)

① 萬1934: 問答(1930~1940)

③   萬1283: 旋頭歌

3-4-17

(同上)

古760: 題しらず よみ人しらず(恋五) 

3-4-18

あひしれりける人の、さすがにわざとしもなくてとしごろになりにけるによめる

①   萬786: 大伴宿祢家持贈娘子歌三首(786~788) (相聞)

②   萬1905: 寄花(1903~1911) (春の相聞)   

3-4-19

おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

萬3005: 題しらず (古今相聞往来歌・寄物陳思)

3-4-20

(同上)

古490: 題しらず   よみ人しらず (恋一)

3-4-21

物へゆくにうみのほとりを見れば、風のいたうふくに、あさりするものどものあるを見て

萬3683: 海辺望月作歌九首(3681~89)(風待ちの遣新羅使一行の歌の一歌群)

3-4-22

おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやりける

①   萬3749:(右四首中臣朝臣宅守上道作歌(3749~3752))(相聞)

②   拾遺集 872: 題しらず  よみ人しらず (恋四)

3-4-23

(同上)

萬122: 弓削皇子思紀皇女御歌四首(119~122)

3-4-24

(同上) 

萬 439: 和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440) (挽歌)

3-4-25

 (同上)

萬120: 弓削皇子思紀皇女御歌四首(119^122)

3-4-26

 (同上)

萬2354: 寄夜 (よみ人しらず 冬相聞)

3-4-27

ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりけるに

萬1144: 摂津作 (雑歌)

3-4-28

物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

古204: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

3-4-29

あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

萬2841: 左注右一首、寄弓喩思 (古今相聞往来歌・譬喩)

3-4-30

 (同上)

①   人丸集216: 題しらず

②   拾遺集954: 題しらず (人まろ 恋五)

3-4-31

まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

古34: 題しらず  よみ人しらず (春上)

3-4-32

やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

古50: 題しらず  よみ人しらず (春上)

3-4-33

あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

古122: 題しらず  よみ人しらず (春下)

3-4-34

山吹の花を見て

古121: 題しらず  よみ人しらず (春下)

3-4-35

あだなりける女に物をいひそめて、たのもしげなき事をいふほどに、ほととぎすのなきければ

古147: 題しらず  よみ人しらず (春下)

3-4-36

卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる

古137: 題しらず  よみ人しらず (春下)

3-4-37

あきのはじめつかた、物思ひけるによめる

①   古185: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

②   千里集38:秋来転覚此身衰 ちさと 

3-4-38

 (同上)

古198: 題しらず  よみ人しらず (秋上)

3-4-39

しかのなくをききて

①   古215:これさだのみこの家の歌合のうた よみ人知らず(秋上)

②   新撰萬葉集113:<詞書無し>(秋歌三十六首)

③   寛平御時后宮歌合82:<詞書無し>(秋歌二十番)

3-4-40

 (同上)

古208: 題しらず よみ人しらず(秋上)

3-4-41

 (同上)

古287: 題しらず よみ人しらず(秋下)

3-4-42

女のもとにやりける

古224: 題しらず よみ人しらず(秋上)

3-4-43

しのびたる女のもとに、あきのころほひ

古307: 題しらず よみ人しらず(秋下)

3-4-44

 (同上)

萬2672: 題しらず  よみ人しらず (古今相聞往来歌類之上 寄物陳思)

3-4-45

あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

萬154:石川夫人歌一首(挽歌)

3-4-46

人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

古1052: 題しらず よみ人しらず(誹諧歌)

3-4-47

あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

古995: 題しらず  よみ人しらず(雑歌下)

3-4-48

ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

古817: 題しらず よみ人しらず(恋五)

3-4-49

 (同上)

古29: 題しらず よみ人しらず(春上)

3-4-50

はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

古54: 題しらず よみ人しらず(春上)

3-4-51

やまにはな見にまかりてよめる

古65: 題しらず よみ人しらず(春上)

3-4-52

 (同上)

古520: 題しらず  よみ人しらず (恋一)

同種の詞書を除くと35

62 (同種の詞書なし)

  • 注1)歌番号等:『新編国歌大観』における巻番号―その巻における歌集番号―その歌集における歌番号 但し、3-4-7歌の類似歌の神楽歌は『新編日本古典文学大系42 神楽歌催馬楽梁塵秘抄閑吟集』における歌番号
  • 注2)「題しらず」とは、詞書のない歌(無記)をも含む。古今集歌には作者(「よみ人しらず」)を付記した。
  • 注3)「類似歌の詞書(相当)の部分」欄の()内は類似歌の記載された歌集の部立て。ただし3-4-21歌の類似歌の場合は詠う時点を記した 
  • 注4)3-4-37歌に類似歌を2020/4/6追記した(3-40-38歌)。この表の作成漏れであった。
  • ⑤次回は、『猿丸集』の詞書のみから、部立て・歌群を改めて想定したい、と思います。「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただき ありがとうございます。(2020/4/6     上村 朋)

 

付記1.猿丸集の歌とその各類似歌の詞書(相当部分)について

① 本文の表1より、集計すると以下のとおり。

② 猿丸集の歌52首には同一の詞書のもとの歌があるので、詞書は計35ある。

③ 類似歌は62首を認めたので、題しらずも詞書としてカウントして全ての歌にあり62となる。62首の内訳は、『古今和歌集』にある類似歌24と『萬葉集』にある類似歌30首とその他にある類似歌8首となる。2首の類似歌があるのは、3-4-7歌、3-4-8歌、3-4-15歌、3-4-16歌、3-4-18歌、3-4-22歌、3-4-30歌および3-4-47歌、3首あるのは3-4-39歌である。

④ 類似歌のうち『古今和歌集』にある類似歌24首は、すべて題しらず・よみ人しらずの歌である。

⑤ 類似歌のうち『萬葉集』にある類似歌30首のうち11首の詞書は題しらず・よみ人しらずの歌(無記の歌を含む)であり、14首の詞書は、作者を明らかにしており、1首(3-4-21歌の類似歌)は、作者のその属性を明らかにしている(風待ちしている遣新羅使一行の歌の1首)。残りの4首は作者もその属性もわからないが寄花・寄夜・摂津作・寄弓喩思と詠む趣旨の一端を記した詞書となっている。

⑥ 類似歌のうち『拾遺和歌集』にある類似歌2首は、題しらず・よみ人しらずの歌である。

⑦ 類似歌のうち『人丸集』、『神楽歌』、『新撰萬葉集』、『寛平御時后宮歌合』にある類似歌5首は、すべて題しらず・よみ人しらず(無記の歌)である。また、類似歌のうち『千里集』にある類似歌1首は、題詠であり千里作である。

付記2.三代集の恋の部の詞書の検討は次のブログに記す。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と古今集の詞書その1」(2020/1/20付け)

  ~

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書  付1-3-925歌」(2020/3/16

 

付記3.類似歌の現代語訳(試案)が、諸氏の現代語訳と異なることになった例

① 3-4-1歌の萬葉集にある類似歌 2-1-284歌:諸氏の言う様に黒人と妻が一緒に旅行しているのではなく、妻は都で留守番をし、相手(作者の夫と一行)の無事を祈っている

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)参照)

② 3-4-12歌の萬葉集にある類似歌 2-1-1697歌:妻の袖を離れてではなく、声を掛けた女性が応じてくれないで一人寝ると詠う。官人の、紀伊国に拘らない旅中の宴の席での応酬歌。

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第12歌 あけまくをしき」(2018/4/30付け)参照)

③ 3-4-37歌の古今集にある類似歌 1-1-185歌:秋という季節ではなく自分自身が悲しみの根源というよりも、自分に特別な秋が来た(例えば秋が「飽き」に通じるようなことが自分に起きてしまった)と詠う。

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その4 千里集の配列その2ほか」(2018/11/19付け)参照)

④ 同上の千里集にある類似歌3-40-38歌:1-1-185歌と違い、七夕が除目を暗喩しているグループの歌であり、老いを感じる秋に除目にあえないとさらに辛いと詠っている歌

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その4 千里集の配列その2ほか」(2018/11/19付け)参照)

⑤ 3-4-47歌の古今集にある類似歌 1-1-995歌:「ゆふつけとり」とは「あふさかのゆふつけとり」の略であり、「たつたのやま」とは、『古今和歌集』編纂者の時代でも壁の意を強調し、実際の所在地を問わない(「あふさかやま」と対を成した)「たつたのやま」である。恋の成就を詠い和歌の隆盛ひいては天皇を中心とした律令の世界の隆盛を暗喩している歌

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」(2019/8/5付け)参照)

⑥ 3-4-49歌の古今集にある類似歌 1-1-28歌:春の除目を重ねた理解が可能

(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌その3 別の配列」(2019/9/23付け)参照)

(付記終わり 2020/4/6   上村 朋) 

わかたんかこれ 猿丸集と同時代人の私家集その2 猿丸の歌

前回(2020/3/23)、 「わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その1 三十六人撰から」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その2 猿丸の歌」と題して、記します。(上村 朋)

(関東などに生活拠点のある方々、新型コロナウイルス感染予防のため、いつもの時間に食事をし、体をこまめに動かすなどして、生活リズムを整えましょう。外出時の会話は離れてマスク、帰宅後の手洗い、など徹底しましょう。私も実行しています。)

 

1.~3.承前

(『三十六人撰』巻頭の人麻呂から13人の歌人の私家集を材料に、私家集編纂面からの比較検討を行った。参考とし得る私家集がありながら、『猿丸集』の編纂者は、それに倣っていないこと、元資料(類似歌)とは異なる趣旨の歌として収載していること、一人の人物を中心とした作品集とは思えないこと、にもかかわらず「猿丸の歌集」と名付けていること、編纂の終了時期の推測には幅があり『後撰和歌集』成立以後から『三十六人撰』直前までであること、などがわかった。そして推測した編纂の終了時期を左右する『三十六人撰』に、実在が疑われる猿丸が選ばれている疑問が沸いた。)

 

4.『三十六人撰』で作者が猿丸とされている歌 

①公任の『三十六人撰』には、作者を猿丸と明記した歌が3首あります(5-267-59歌~5-267-61歌)。

 ところが、この3首は、『三十六人撰』成立以前に成ったのが確実な歌集のいくつかに、よみ人しらずの歌として下表のように記載があります。さらに『猿丸集』にもありますが、初句が「おくやま」と変わるなどしているほか詞書からも作者の個人名は導き出せません。なお、この3首は、現存の『萬葉集』、『人丸集』、『赤人集』及び『家持集』にはありません。

 

表 成立が三十六人撰以前の歌集における三十六人撰の歌相当の歌(2020/3/30現在)

三十六人撰での歌番号等

寛平御時后宮歌合での歌番号等

新撰萬葉集での歌番号等

古今集での歌番号等

古今和歌六帖での歌番号等

猿丸集での歌番号等 

5-267-59 

無し

無し

1-1-29

2-4-4465

3-4-49

5-267-60 

無し

無し

1-1-204

2-4-4007

3-4-28

5-267-61

5-4-82

2-2-113

1-1-215

無し

3-4-39

歌集成立時点は1006~1009年頃

892年

菅原道真による撰で893年か

914年以前

兼明親王あるいは源順を編纂者に想定し976~982年頃

三十六人撰以前

  • 注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
  • 注2)3首の歌本文は各歌集で異同のある歌もある
  • 注3)歌集成立時点:原則『新編国歌大観』解題より
  • 注4)三十六人撰』は猿丸と小町を番えている。その小町の歌は次の3首である。

5-267-62歌  (詞書無し) 小町

    はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに

5-267-63歌  (詞書無し) 小町  

    おもひつつぬればや人のみえつらむゆめとしりせばさめざらましを

5-267-64歌  (詞書無し) 小町  

     いろみえでうつろふものは世中の人の心のはなにざりける

 

③3首の一番目の歌とその歌相当の歌を、順に記します(『新編国歌大観』より。以下同じ)

〇 5-267-59歌 (詞書無し)   猿丸

      をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

 1-1-29歌 題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 2-4-4465歌   よぶこどり(4463~4465歌の詞書)  

      をちこちのたつきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこ鳥かな

   3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

三十六人撰』の歌(5-267-59歌)は、『古今和歌集』の歌(1-1-29歌)の引用か、と見えます。猿丸集の歌(3-4-49歌)は、古今集の歌にわざわざ詞書を加えています。

2-4-4465歌が記載されている『古今和歌六帖』は、この歌集の編纂方針から題別に収載しており、その題名が動物名の「よぶこどり」ということです(付記1.参照)。

③二番目の歌とその歌相当の歌を、順に記します。

〇 5-267-60歌    (詞書無し)   猿丸

     ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとみしは山のかげにざりける

1-1-204歌  題しらず         よみ人知らず

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける 

2-4-4007歌  ひぐらし(4002~4010歌の詞書)    

     ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとみえしは山のかげにぞ有りける

 3-4-28歌  物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもへばやまのかげにぞありける

三十六人撰』の歌は、『古今和歌集』の歌(1-1-204歌)をベースに四句の動詞を替えている、と見えます。『猿丸集』の歌(3-4-28歌)は、四句の助詞「は」を「ば」に替えるなどするほか『古今和歌集』の歌にわざわざ詞書を加えています。

④3番目の歌とその歌相当の歌を、順に記します。

〇 5-267-61歌 (詞書無し)   猿丸 

おくやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ秋はかなしき

5-4-82歌  秋歌二十番    (無記)

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

2-2-113歌  秋歌三十六首    よみ人しらず

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 なお、対とされている漢詩は次のとおり。

2-2-114歌  秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせき はれいれい びろくのなくこゑ あまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりて いうえんするところ ともなくさけなくして こころなほつめたし)

 

1-1-215歌  これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

三十六人撰』の歌は、『古今和歌集』の歌(1-1-215歌)をベースに初句の助詞を替えている、と見えます。『猿丸集』の歌(3-4-28歌)は、初句を「あき山」へ、五句を「物はかなしき」へと『古今和歌集』の歌から替え、さらにわざわざ詞書を加えています。『新撰萬葉集』の歌(2-2-113歌)は、『古今和歌集』の歌の元資料です。

 

⑤この3首に関しては、『三十六人撰』と『猿丸集』も共通の資料(多分『古今和歌集』)からそれぞれ独自に編纂している、といえます。

そして、『三十六人撰』のみが、この3首の作者を「猿丸」であると断定しています。現存の『猿丸集』においては、この3首のみならず各歌に作者名は詞書にも記されていません。

⑥『猿丸集』の歌については、昨年までに、全52首の現代語訳を試みが終わりました(付記2.参照)。その結果は、元資料(これまでの私の用語でいうならば類似歌)の歌とはその趣旨がすべて異なりました。

『猿丸集』の編纂者は、意図的に詞書を新たにして歌の趣旨を替えているのに対して、『三十六人撰』の編纂者は、この3首について、『古今和歌集』における理解に沿ってしている、と思えます。

⑦『古今和歌集』にあるこの3首の作者は、その配列からも作者名はよみ人しらずと諸氏も断定しています。よみ人しらずとは、『古今和歌集』編纂者が作者像を隠している疑いがあるかもしれません。少なくとも三番目の歌は、『古今和歌集』での詞書に「これさだのみこの家の歌合のうた」とあり、作者は歌合の主催側の天皇家の者か上級の官人か、あるいは紀貫之などのような主催者に召された専門歌人です。そのような人物が、『古今和歌集』の編纂者からみて名を秘さなければならないような身分の低い人物であるとは認めがたいところです。

⑧このような状況にあって、公任はこの3首について「猿丸」を作者であるとして明記しました。そのように認めたヒントは、この歌集が秀歌撰ということ、上下に記すなど歌人を番える形にしているスタイルであること、にあるのではないでしょうか。

 

5.公任の思い

①公任は、秀歌撰として萬葉歌人から最近故人となった歌人までから36人を『三十六人撰』に撰んでいます。10首撰歌の歌人と3首しか撰歌しない歌人がいるのですから、撰歌の基準に、秀歌を詠んだ歌人というのはあるのでしょうが、それ以外が、はっきりわかりません。

②『萬葉集』に作者名として明記のある人丸・赤人・家持の『三十六人撰』の歌を、現存の『萬葉集』などと対比すると下表が得られます。

③表をみると、人丸作とした歌10首のうち、三代集にもある歌9首は、既に三代集の編纂者により作者名が付されていますが、「人丸」とあるのは5首のみです。そしてその10首は、現存の『萬葉集』では4首が「よみ人しらず」の歌であり、4首が『萬葉集』に無い歌なのですが、公任は『三十六人撰』で10首すべてを「人丸」作と認めています。

三十六人撰』で赤人作または家持作とした計6首のうち、三代集では家持作が1首、「よみ人しらず」も1首であり、残りの4首は三代集にありません。それらを公任は改めて赤人作または家持作と認めています。ただ、赤人作と認めた3首は『赤人集』にあります。

そして、秀歌と公任が認め猿丸の歌として撰歌した3首は、『萬葉集』や『人丸集』などに記載がない『古今和歌集』のよみ人しらずの歌です。

 

表 三十六人撰が人丸・赤人・家持の作としている歌と萬葉集等との対比(2020/3/30 現在)

三十六人撰

人丸集

赤人集

家持集

萬葉集

三代集

5-267-1

 

3-2-141

3-3-2

2-1-1847よみ人しらず

1-3-3赤人作

5-267-2

3-1-169

 

 

2-1-1431赤人作

1-3-18人丸作

5-267-3

3-1-170

 

 

なし

 

1-1-334よみ人しらず*

5-267-4

3-1-173

3-2-260

 

2-1-1985よみ人しらず

1-3-125よみ人しらず

5-267-5

 

 

3-3-127

2-1-2214よみ人しらず

1-1-284人丸作& 1-3-219人丸作*

5-267-6

3-1-217

 

 

なし

1-1-409よみ人しらす

5-267-7

3-1-208

 

 

なし

1-3-848人丸作

5-267-8

3-1-212

 

 

2-1-2813よみ人しらず

1-3-778人丸作

5-267-9

3-1-221

 

 

なし

1-3-128人丸作

5-267-10

3-1-21

 

 

2-1-266人丸作

なし

5-267-41

 

 

 

2-1-4514家持作

なし

5-267-42

3-1-149

 

 

2-1-1602家持作

なし

5-267-43

 

3-2-116

 

2-1-1450家持作

1-3-21家持作

5-267-44

 

3-2-2&

3-2-354

 

2-1-1431赤人作

なし

5-267-45

 

3-2-3

3-3-11

2-1-1430赤人作

1-2-22よみ人しらず

5-267-46

 

3-2-115 &

3-2-352

 

2-1-924赤人作

なし*

  • 注1)番号は『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌番号―当該歌集での歌番号
  • 注2)「*」印は注記有りの意。下記のとおり

1-1-284歌&1-3-219歌:下句が異なるが古今集では人丸作としている

1-1-334歌:古今集の左注に「ある人曰く人麿が歌也」とある

1-1-409歌:古今集の左注に「ある人曰く人麿が歌也」とある

なし(5-267-46歌の三代集欄):古今集序の古注に引用がある

注3)「三十六人撰が人丸・赤人・家持の作としている歌」の歌本文は付記3.参照

④この表より次のことが言えます。

第一 公任は,『三十六人撰』の撰歌にあたり、三代集のほか現存の『萬葉集』で当時解読できていた歌のみならず、それまで官人が蒐集していた人丸歌など(編纂が終われば現在の『人丸集』などになる素材)も参考にできる状況であった。

第二 公任は、自分が撰んだ『前十五番歌合』や六条宮具平親王撰の『三十人撰』より古の秀歌を重視して『三十六人撰』を編んだのではないか。『前十五番歌合』と比べると、人丸と赤人のほかに家持と猿丸とが加わっている。さらに、小町と番う歌人を求めていたのではないか。

第三 『三十六人撰』で人丸の歌として撰歌した歌は、先人(三代集の編纂者たち)が古歌より既に撰んでいる秀歌から撰んだ9首と公任独自の1首である。そのすべてを、第一人者である人丸の歌と追認整理している。六条宮具平親王撰の『三十人撰』の人丸歌10首とは7首が一致するだけであり、公任独自の撰歌である。

第四 そして古歌の次善の秀歌9首を公任撰として新たに撰歌した(付記4.参照)。それを3人の歌人の作と整理している。赤人・家持の歌として撰歌した6首の歌は、現存の『萬葉集』にあたると当人の作であるので、当人の歌から撰んだと思える。家持作とした3首は、六条宮具平親王撰の『三十人撰』の家持歌と一致している。

第五 古の歌の秀歌重視のため、古の次善の秀歌9首の3人目の歌人として、『萬葉集』に登場しない人物であってかつ三代集にも詠作が一首もない歌人を創作した。

なお、この推測は、公任の撰歌基準の推測と36人の歌のそれから評価、および公任の歌論との関係など歌人としての活動の中での位置づけが未検討の状況です。

⑤「猿丸」という名は、既に古の人物として『古今和歌集』の真名序に名のある「猿丸大夫」がヒントになったとみます。歌風が異なる小町と同時代の古の歌人として、また詮索を受けても「猿丸大夫」に直結しないよう「猿丸」としたのではないでしょうか。「猿丸」とは、公任にとってよみ人しらずとくくられている複数の作者をグループ化して仮に名付けた、あくまでも記号に変わらないものであったと思います。結果として「猿丸」という人物の発見者に、公任はさせられてしまいました。

⑥『三十六人撰』で猿丸作とある3首のうち2首が、(『三十六人撰』が編纂終了以前の、)976~982年頃編纂された『古今和歌六帖』に、あります。しかし、『古今和歌六帖』編纂者は共に「よみ人しらず」の歌としています。少なくとも976~982年頃には、この3首が「猿丸」という一人の人物の詠作と歌人たちに認めてもらっていないと言えます。だから、たとえ976~982年頃までにこの3首の記載がある『猿丸集』が歌人たちに知られていたとしても、その歌の作者が「猿丸」なる人物である、とは歌人たちは認めていなかった、ということになります。

⑦「猿丸」という人物の詠作した歌が、公任の時代まで『三十六人撰』にある歌以外になく、また官人としての履歴も不明なのは、このような事情で生まれた人物なので、やむを得ないことなのです。

 

6.現存の『猿丸集』と『三十六人撰』との関係

①さて、現存の『猿丸集』と現存の『三十六人撰』との関係です。現存の『猿丸集』の編纂の終了時期の推測には幅があり最早は『後撰和歌集』成立以後、最遅は『三十六人撰』直前、と確認しました(前回のブログ(2020/3/23付け)参照)。既に『猿丸集』という名になっていたと思われるその歌集にある公任が「猿丸」の歌と認めた歌3首のうち1首(3-4-39歌)は、初句と五句の語句が異なります。これだけからも編纂方針(とそれに基づいた撰歌)が、『猿丸集』と『三十六人撰』とでは違うといえます。

②詞書を新たに作る作業をしている『猿丸集』編纂者も『古今和歌集』の真名序に名のある「猿丸大夫」にあやかって歌集名に「猿丸」の名を頂戴したと思われます。『猿丸集』の編纂者は、「猿丸」という語句に、『猿丸集』の歌よりも、その類似歌(諸氏のいう異伝歌)に対する留意を込めているのではないか、と私は推測しているところです(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」(2020/1/6付け)参照)。

『猿丸集』と『三十六人撰』は、元資料を単に共通にしている、ということであろう、と思います。たまたま公任が撰んだ歌を含めて『猿丸集』が成立したことになります。『猿丸集』において、この3首は、歌集の筆頭に置かれているわけではなくバラバラの配列であり、『猿丸集』を参考に公任が『三十六人撰』の3首を撰んだとは思えません。この論はしかし、『猿丸集』の成立時点を、上記①からさらに狭めるものではありません。

③上記②とは別の推理も可能です。『三十六人撰』に「猿丸」が登場してから、同音異議の語句を利用した歌をいくつか集めていた歌集群を、現在の『猿丸集』という形にした、という推理です。

同音異議の語句を利用した歌は世の中に多数あるのですから、元資料を古今集歌にとった歌集も別に存在していて(萬葉集歌や後撰集歌を元資料とした歌集も当然つくられ)、古の歌人として「猿丸」を得て、「猿丸」編纂というスタイルの歌集を改めて誰かが編纂したのが現存の『猿丸集』である、という推理です。編纂にあたり補った歌もあったことでしょう。

この二つの推理の優劣は今のところ決めかねるので、現存の『猿丸集』の最終的な編纂時期は、『三十六人撰』の編纂時期からの推測では不定である、ということが指摘できるだけです。

 

7.わかったこと

①『三十六人撰』に実在が疑われる猿丸を選んだのは、公任が、古の秀歌を重視した結果であり、必要となった歌人名を創作した、と思われます。もちろんほかの視点からの検討事項も残っています。

②『猿丸集』は、『三十六人撰』とは関係なく編纂が進められた、「猿丸」という人物名には共通に「古の優れた歌人」というイメージが込められています。 

しかし期待している人物像は違います。『猿丸集』編纂者は言葉のテクニシャンとして、『三十六人撰』編纂者(公任)は「古に秀歌を詠った人々」として。

③前回のブログで指摘した現存の『猿丸集』の最遅編纂終了時点(『三十六人撰』直前)は、再検討を要します。『猿丸集』の歌本文や詞書に推測のヒントがあるかもしれません。

④ご覧いただき ありがとうございます。

次回からは、『猿丸集』の詞書を検討したい、と思います。

(2020/3/30 上村 朋)

付記1. 『古今和歌六帖』における作者名記載の例

①『古今和歌六帖』((宮内庁書陵部桂宮旧蔵本(510・34)))の成立時期は、兼明親王あるいは源順を編纂者に想定し貞元~元元(976~982)頃が有力(『新編国歌大観』の解題)。『三十六人撰』にある3首の「猿丸」歌のうちの2首がある。ともに「よみ人しらず」の歌。

②『古今和歌六帖』で、「よぶこどり」と題する歌の作者名は次の通り。

 4463歌  無記

 4464歌  おほとものさかの上郎女

 4465歌  無記

③また、「ひぐらし」と題する歌の作者名は次の通り。

 4002歌 無記

 4003歌 へんぜう

 4004歌 つらゆき二首

 4006歌と4007歌 無記

 4008歌 つらゆき

 4009歌と4010歌 無記

 

付記2.『猿丸集』記載の歌とその元資料などについての現代語訳の試みは、次のブログに記した。

①序論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集その1」(2018/1/15付け)及びブログ「わかたんかこれの日記 猿丸集の特徴」(2017/11/9付け)

②各論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)~ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け)の 約80のブログに分載している。

③『人丸集』にある歌を『猿丸集』の元資料(類似歌)としたのは1首ある。3-4-30歌の元資料である3-1-216歌であり、『拾遺和歌集』にある1-3-954歌も元資料である。3-1-216歌以外にも『人丸集』等にある歌が元資料となり得る歌が5首あるが、これらは上記のブログでは元資料から割愛して検討した。『古今和歌集』あるいは『萬葉集』にある歌が元資料となっていたからである(古今集歌でよみ人しらずの歌3首(3-4-34歌の3-3-305歌、3-4-37歌の3-2-61歌、3-4-50歌の3-2-308歌)と萬葉集歌の2首(3-4-16歌の3-2-211歌、3-4-26歌の3-1-168歌))

 

付記3.『三十六人撰』の歌抜粋(同相当歌を注記する)

〇5-267-1歌 昨日こそ年はくれしか春霞かすがの山にはや立ちにけり

   (3-2-141歌と3-3-2歌と1-3-3歌は平仮名表記で同じ 2-1-1847歌二句「としはたてしか」)

〇5-267-2歌 あすからは若菜つまむと片岡の朝の原はけふぞやくめる

   (3-1-169歌は初句「あすよりは」 2-1-4431歌初句「あすよりははるなつまむとしめののにきのふもけふもあかしかねつも」 1—3-18歌は平仮名表記で同じ)

〇5-267-3歌 梅花其とも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば

   (3-1-170歌四句「あまぎるきりの」 萬葉集に無し 1-1-334歌四句平仮名表記で同じ

〇5-267-4歌 郭公鳴くやさ月の短夜を独りしぬればあかしかねつも

   (3-1-173歌と3-2-260歌と1-3-125歌は平仮名表記で同じ 2-1-1985歌二句三句「きなくさ月のみじかよも」)

〇5-267-5歌 飛鳥河もみぢば流る葛木の山の秋風吹きぞしくらし

   (3-3-127歌は下句「山のこのははいまかちるらむ」

    2-2-2214歌は五句「いましちるらし」

1-1-284歌は「たつたかは(あるいはあすかがは)もみぢばながる神なびのみむろの山にしぐれふるらし」  1-3-219歌は「竜田河もみぢ葉ながる神なびのみむろの山に時雨ふるらし」(人丸))

〇5-267-6歌 ほのぼのと明石の浦の朝ぎりに島がくれ行く舟をしぞ思ふ

   (3-1-217歌は平仮名表記で同じ 1-1-409歌の左注に人丸の歌とある)

〇5-267-7歌 たのめつつこぬ夜あまたに成りぬればまたじと思ふはまつにまされる

   (3-1-208歌は平仮名表記で同じ 1-3-848歌四句「・・・ぞ」)

〇5-267-8歌 葦引の山鳥の尾のしだりをのながながし夜をひとりかもねむ

   (3-1-212歌・2-1-2813歌と1-3-778歌は平仮名表記で同じ)

〇5-267-9歌 わぎもこがねくたれがみをさるさはの池の玉もと見るぞかなしき

   (3-1-221歌と1-3-1289歌は平仮名表記で同じ 大和物語150段にある歌)

〇5-267-10歌 物のふのやそ宇治河のあじろ木にただよふ浪のゆくへしらずも

   (3-1-21歌四句は「いざよふ波の」 2-1-266歌四句は「いざよふなみの」)

〇5-267-41歌 あらたまのとしゆきがへり春たたばまづわがやどにうぐひすのなけ

   (2-1-4514歌は「あらたまのとしゆきかへる春たたばまづわがやどにうぐひすはなけ」 参考歌1-3-5歌「あらたまの年立帰朝より待たるる物は鶯の声」(延喜御時月次御屏風に 素性法師) )

〇5-267-42歌 さをしかのあさたつをのの秋はぎにたまとみるまでおけるしらつゆ

   (2-1-1602歌の二句は「あさたつのへの」五句が「おけるしらなみ」 3-1-149歌「さをしかのあさふすをののくさわかみかくれかねてか人にしられぬる)

〇5-267-43歌 春ののにあさるきぎすのつまごひにおのがありかを人にしれつつ

   (3-2-116歌は五句が「人にしられつつ」 2-1-1450歌は二句が「あさるきぎしの」四句が「おのがあたりを」 1-3-21歌は平仮名表記で同じ )

〇5-267-44歌 あすからはわかなつまむとしめしのに昨日もけふもゆきはふりつつ

   (3-2-2歌と3-2-354歌の初句は「はるたたば」 2-1-1431歌は「あすよりははるなつまむと・・・」)

〇5-267-45歌 わがせこにみせむとおもひしむめのはなそれともみえずゆきのふれれば

   (3-2-3歌と3-3-11歌と1-2-22歌は平仮名表記で同じ )

〇5-267-46歌 わかのうらにしほみちくればかたをなみあしべをさしてたづなきわたる

   (3-2-115&3-2-352歌と2-1-924歌は平仮名表記で同じ )

 

付記4.公任について

藤原公任(きんとう)の生没は、康保3年(966)~長久2年(1041)。万寿元年(1024)に59歳で致仕し、2年後出家。『拾遺抄』、『和歌朗詠集』、『金玉集』、『前十五番歌合』、『三十人撰』(現存しない)、『三十六人撰』の編纂者。歌論書『新撰髄脳』と『和歌九品』、儀式典礼書の『北山抄』の著者。 

②公任は、『三十六人撰』の前に、 『前十五番歌合』を撰んでいる(1007,1008頃)。その時の歌人はつぎのとおり。『三十六人撰』と比べると、家持および猿丸は入っていない。古今集に作者名を明記された歌がある敏行や興風も入っていない。

紀貫之・躬恒 素性・伊勢 在五中将・遍昭僧正 忠岑・能宣 公忠・忠見 

堤中納言・土御門中納言 友則・清正 小野小町・元輔 是則・元真 仲文・輔昭 

斎宮女御小大君 傳殿母上・帥殿母上 重之・順 兼盛・中務 人丸・赤人 

③『前十五番歌合』の人丸歌は5-267-6歌と、赤人歌は5-267-46歌と同じである。

(付記終わり  2020/3/30   上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その1 三十六人撰から

前回(2020/3/16)、 「わかたんかこれ 猿丸集と三代集 付1-3-925歌」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その1 三十六人撰から」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.公任の『三十六人撰』の歌人の私家集

①『猿丸集』の成立後、歌合形式の秀歌撰である公任の『三十六人撰』が、1006~1009年頃成立しています(『新編国歌大観』解題より)。

② 猿丸の名は、この『三十六人撰』にあります。『三十六人撰』は、巻頭の人麻呂・貫之・躬恒・伊勢の4人と巻末の兼盛・中務の2人は各10首、そのほかの30人は3首撰抜されています。3首選抜の最初は家持・赤人、次いで業平朝臣遍昭僧正、素性・友則、猿麿・小町、兼輔卿・朝忠卿、敦忠卿・高光、・・・・という順番に上下に記されています。 

 これらの歌人は、猿麿と藤原元真を除き、作者として名を明記された歌が『萬葉集』あるいは三代集にあります。そのうち『萬葉集』と『古今和歌集』に作者として名が明記されている歌人を含む前半の約1/3の兼輔卿までの13人の名を冠した私家集について比較してみます。

 なお、『古今和歌集』に作者として名が明記されている興風や敏行なども『三十六人撰』後半におり、また、藤原元真は『後拾遺和歌集』以下に作者として名が明記された歌があります。

③『三十六人撰』における人麻呂から兼輔卿までの13人の私歌集は現存しており、それを対象に、成立時期や収載歌数や詞書の有無などを整理すると、下記の表となります。

 編纂時期についてはその最早と最遅の時期を諸氏の説などにより推定してみました。

④ この13人の私家歌集編纂に、時代の反映があれば、同一の時代には詞書などや配列にも共通する特徴があるのではないかと思います。三代集の恋部の詞書の検討結果(付記1.参照)を踏まえ、勅撰集の成立で時代を区分するものとします。

人丸集

301

萬葉集&伝承歌

無し

後撰集(955頃)以後

古今六帖(976 ~982頃)・拾遺集(1006?)頃

貫之集

913

自家の控え&古今集など

第五を除きほとんどにある

有り 

貫之生前 A

後撰集以後拾遺集前 A

躬恒集

482

自家の控え

全部ただし類題名もある

無し

拾遺集以前 B

底本書写(1109 ~1110頃)以前

伊勢集

483

自家の控え&伝承歌

全部

有り

伊勢没(939以降)後後撰集以前 C

底本書写(1106~ 1112)前 C

家持集

318

萬葉集&伝承歌&古今集撰者時代

無し

無し

古今六帖と拾遺集の間 D

公任没(1041)後 D

赤人集

354

萬葉集&千里集

無し

後撰集以後かつ初期の人丸集以後

拾遺集以後

業平集

82

古今・後撰&伊勢物語

全部

 

有り

後撰集伊勢物語以後 F

拾遺集以前 F

遍昭

34

古今集&ほか

全部

無し b

後撰集・大和物語(951頃)以後

拾遺集以前

素性集

65

三代集・新古今など・宮滝御幸記

ほとんどにある

無し

後撰集以後

拾遺集以後

友則集

72

古今・後撰・拾遺抄&ほか

ほとんどにある

1首あり

拾遺抄以後拾遺集以前

拾遺抄以後拾遺集以前

猿丸集

52

萬葉集古今集

全部

無し

後撰集以後 G 

1006~1009以前 G

小町集

116

古今・後撰&想定歌

有り

後撰集以後

平安時代中期)

兼輔集

128

自家の控えか

全部

有り

生前(自選説933 没)

後撰集以前

 

注1:歌集の概要は原則『新編国歌大観』の「解題」と『和歌大辞典』による。それによらないものにローマ字を付し、下記注4に記す。

注2:『新編国歌大観』における底本はつぎのとおり。

『人丸集』:宮内庁書陵部本(506・8)

『貫之集』:陽明文庫蔵本(近・サ・68)

『躬恒集』:西本願寺三十六人集中の躬恒集

『伊勢集』:国宝の西本願寺本の複製本

『家持集』:宮内庁書陵部本(510・12) 

『赤人集』:西本願寺本 

『業平集』:尊経閣文庫「在中将集」 

遍昭集』:西本願寺蔵本

『素性集』:西本願寺本

『友則集』: 西本願寺本

『猿丸集』:書陵部蔵甲本

『小町集』:陽明文庫所蔵十冊本三十六人集所収の本 

『兼輔集』:宮内庁書陵部本(511・2)

注3:「主たる元資料」欄の「自家の控え」とは、「当該歌人に関する独自の控え」相当の書物をいう。

注4:ローマ字を付した事項の注記を記す。

A 『貫之集』の編纂終了時期は、『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之――あるかなきかの世にこそありけれ――』(神田龍身 ミネルヴァ書房 2009)による。

B 『躬恒集』の編纂終了時期の最早案は、『和歌文学大系19 貫之集・躬恒集・友則集・忠岑集』(田中喜美春・平沢竜介・菊地靖彦 明治書院 1997)による 

C 『伊勢集』の編纂終了時期は、『私家集全釈叢書16 伊勢集』(関根慶子・山下道代 風間書房 1996)による

D 『家持集』の編纂終了時期は、『全釈叢書33 家持集』(島田良二 風間書房 2003)による

E (欠)

F 『業平集』の編纂終了時期の最遅案は、『和歌文学大系18 小町集・遍昭集・業平集・素性集・伊勢集・猿丸集』(室城秀之・高野晴代・鈴木宏子 明治書院 1998)による

G 『猿丸集』の編纂終了時期の最早案は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書 付1-3-925歌」(2020/3/16付け)により、編纂終了時期の最遅案は、『新編国歌大観』による。

注5:『兼輔集』は、大和物語および後撰集との共通歌が多い。

 

2.13人の名を冠した各私家集の比較その1

① 公任の『三十六人撰』の巻頭の人麻呂から兼輔卿まで13人の名を冠した私家集は、すべて(13集)現存しています。それぞれいくつかの伝本があります。 

② 最初の『人丸集』は、天暦5年(951)にはじまった梨壺の五人による『萬葉集』の訓読後、関心が高まり編まれ始めたと諸氏が指摘しています。続いて『萬葉集』の巻第十中心に『赤人集』が、『萬葉集』の色々の巻からの抜粋がはじまりそれを『家持集』にまとめることが始まったといわれています。『赤人集』には後ほど『千里集』の歌が増補され、『家持集』には素性の歌や古今集歌と後撰集歌と勅撰集に記載のない古歌も編纂されています。

 しかし多くの『萬葉集』歌(と『古今和歌集』歌)を元資料としているもう一つの私家集『猿丸集』にはその流れにのっているというような論が、諸氏にありません。

③ 編纂した人を問わず、当該私家集の元資料として当該歌人に関する独自の控え(以下自家の控えという)が大きな部分を占めると指摘されているのは、次の4集です。いずれも『古今和歌集』に作者名明記の歌がある歌人です。

『貫之集』

『躬恒集』

『伊勢集』 (その後、歌枕関係の古歌が増補されました)

『兼輔集』 (恵慶の干支歌21首が増補されました)

④ 自家の控えがなく、古今集等の三代集などに多くを依っているのは次の5集です。

『業平集』 (また、伊勢物語と先後関係があります)

遍昭集』

『素性集』 (素性に関係ない古歌も増補されています)

『友則集』

『小町集』 (小町に関係ない古歌も増補されています)

⑤ 元資料に自家の控えがなく、『萬葉集』及び『古今和歌集』等の三代集にも作者名として明記された歌がないのにかかわらず私家集が編纂されたのは『猿丸集』のみです。元資料とされる『萬葉集』の歌には猿丸とは別人の作者名を明記した歌があります。また元資料とされる『古今和歌集』の歌は、すべてよみ人しらずの歌です。

⑥ 現存の私家集の編纂終了時期の最遅案をみると、次のとおり。

後撰集以前 : 『兼輔集』

後撰集以後拾遺集前: 『貫之集』  『業平集』 『遍昭集』 『友則集』

古今六帖・拾遺集頃 : 『人丸集』 (その後また平安中期に増補あり)

拾遺集以後 : 『素性集』 『赤人集』

公任生前(~1041):1006~1009以前 : 『猿丸集』

公任没後(1041~) : 『家持集』

底本書写時代(1109~) : 『躬恒集』 『伊勢集』

平安時代中期 : 『小町集』     

 これら13集がすべて編纂終了時期の最遅案の時期に成立したと仮定すると、『猿丸集』編纂者が参考にできた私家集は『兼輔集』をはじめ8集であり、編纂あるいは増補過程にある私家集も『家持集』以下『小町集』まで4集も、目にすることができる状態であった、ということができます。また、13集はすべて一度の編纂で成ったわけではなく、また、これら13集の私家集の名称が、現存の歌集名(『人丸集』等)に固まったのは、編纂終了時点であろうと諸氏は指摘しています。

⑦ 現存の私家集13集の編纂終了時期の最早案をみると、次のとおり。

後撰集(955頃)以前:貫之集 伊勢集 兼輔集

後撰集前後:遍昭

後撰集(955頃)以後:人丸集 赤人集(人丸集の後) 業平集(伊勢物語後) 素性集 猿丸集 小町集

拾遺集以前:躬恒集 家持集 友則集

 現存の私家集13集すべての編纂終了時期が最早案であったと仮定すると、『猿丸集』編纂者が、参考とできる私家集は『貫之集』、『伊勢集』、『兼輔集』及び『遍昭集』の4集であり、『萬葉集』を元資料とする『人丸集』は、諸氏の指摘するように梨壺の五人による『萬葉集』訓読後にしか開始できないとすれば、いまだ編纂途中の可能性があります。

 『赤人集』や『家持集』の編纂は始まっていなかったかもしれません。その他の『業平集』や『躬恒集』は編纂が始まっていれば、参考にできたかもしれません。

⑧『猿丸集』の元資料は、大別して『萬葉集』と『古今和歌集』にある歌があります。そのうち前者に基づく『猿丸集』歌も、『人丸集』と同様に梨壺の五人による『萬葉集』訓読後にしか開始できないとすれば、編纂にかかれるのが最早で後撰集(955頃)以後ということになります。

 後者に基づく『猿丸集』歌は、「よみ人しらず」として官人に既に知られていた歌が元々の元資料ですから『古今和歌集』成立前にまで編纂終了時点を遡れます。伝承歌における同音異議の語句のある歌を用いる際の技術の一つとして学んでいた官人もおったでしょう。

 しかしながら、同音異議の語句は万葉仮名ではなく平仮名書きした歌であってこそ、その面白さが作者にも読者にも感じられますので、平仮名書きが十分広まった段階の、(朗詠して楽しむ歌ではなく)平仮名書きの歌への関心が強くなって掛詞が盛んに用いられるようになった頃以降の作業であろうと思います。

 そうすると、編纂にかかれるのは、『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代、すなわち、『古今和歌集』成立の直前、というところが妥当であろう、と思います。その経験により『萬葉集』による『猿丸集』歌の編纂を後撰集(955頃)以後なら直ちに始められます。

 『猿丸集』の編纂終了時期の最早案は、現在の『猿丸集』(『萬葉集』による『猿丸集』歌と『古今和歌集』歌による『猿丸集』歌からなる歌集)は、上記の表に示したように「後撰集以後」が妥当であろう、と思います。

 『古今和歌集』歌による『猿丸集』歌のみの歌集であればそれ以前に一応の編纂は終了していてもおかしくありません。

⑨ さらに『後撰和歌集』収載の歌にも同様な同音意義の語句に注目した試みがあったかもしれませんし、『拾遺和歌集』収載の歌にも同じことが言えます。それが『猿丸集』にないのは、「猿丸」という人物に仮託しようとすると、『古今和歌集』の真名序に登場する「猿丸大夫」を念頭において、編纂者は三代集では『古今和歌集』までしか元資料としなかったのではないか、と推測します。

 元資料をこの二つの歌集に限ったとしても、『猿丸集』の編纂は『拾遺和歌集』以後でもできますので、『猿丸集』の編纂終了時期の最遅案は、『新編国歌大観』が記すような「『三十六人撰』成立以前も、理に適うことになります。さらに、『三十六人撰』成立後であっても理に適いますので、『三十六人撰』成立以前に限ると推測する理由があるはずです。

 『猿丸集』にある歌に、「猿丸」を作者と明記している歌はありませんので「猿丸」の歌と認めたのは『三十六人撰』が先とも考えられます。「猿丸」の歌と認められた歌がある歌集を、『猿丸集』と名付けたという推測を否定する必要があります。

 

3.13人の名を冠した各私家集の比較その2

① 搭載歌数、元資料や詞書などについて比較します。

② 歌数が300首以上の私家集が、6集あります。『萬葉集』に作者として明記されている人麻呂、赤人および家持の名を冠する私家集と、『古今和歌集』に作者として明記されている貫之、躬恒および伊勢の名を冠する私家集です。

 前者の3私家集の元資料は、第一に『萬葉集』です。しかし、各人が作者として明記されている歌は少なく、『萬葉集』でのよみ人しらずの歌が多数あります。『萬葉集』や『猿丸集』の編纂終了までの間の勅撰集にも記載のない歌(伝承歌)もあります。また詞書はほとんどありません。

 後者の3私家集の元資料は、第一に自家の控えの歌集です。すべてに他人の詠んだ歌も記載しています。また、詞書は大変多い、という特徴があります。

 歌数が300首未満100首以上の私家集が、2集あります。小町と兼輔にあり、『古今和歌集』にある当人の歌を含み、詞書も多くあり、詞書に「かへし」(すなわち問答歌の片方。他人の歌の場合もある)があります。 

 歌数が100首以下の私家集には、『猿丸集』を除き古今集以後の勅撰集を重要な元資料とし詞書がほとんどにあります。『業平集』のように関連ある物語も重要な元資料となっている私家集もあります。また、詞書に「かへし」とある私家集もあります(『遍昭集』と『素性集』)。

 これに対して『猿丸集』は、『萬葉集』と『古今和歌集』が重要な元資料であり、すべてに詞書があり、詞書に「かへし」がありません。

③ 「かへし」という詞書が無い私家集のうち、編纂終了時期の最早案で、『猿丸集』編纂者が参考とできた私家集は、後撰集前後に終了した『遍昭集』だけになります。『遍昭集』は、元資料を古今集等に依っており、しかも女へ送った歌はありません。男女の仲の贈答歌を収載した私家集は、編纂終了時期の最早案で、後撰集(955頃)以前に終了した 歌数の多い『貫之集』と『伊勢集』と『兼輔集』があります。

 このように『猿丸集』は、編纂方針がほかの私家集とだいぶ異なっているとみることができます。

④ 昨年までに、『猿丸集』記載の歌全52首の現代語訳を試みてきました(付記2.参照)が、その結果は、元資料(これまでの私の用語でいうならば類似歌)である他人の歌とはその趣旨がすべて異なりました。

 同音異義の語句の巧みな利用とそれを可能にする新たな詞書によりすべて新たな歌(趣旨の違う歌)となっていました。元資料の歌の現代語訳も同時に行ってきましたが、その結果は元資料の歌に当時のオーソドックスな解釈とは異なる別の解釈を提示しているとの理解ができました。

これは、ほかの12人の私家集とおおいに違うところです。

⑤ また、名を冠している猿丸という人物に関して、赤人の比ではなくはっきりしていないことです。『古今和歌集』は、仮名序で「山の辺のあかひと」を「うたにあやしくたへなりけり」と紹介しています。真名序でも「山辺赤人」を「和歌聖」と記しているのに対して、古に「猿丸大夫」なる歌人がいたと存在だけに触れるだけです。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌の左注などで「猿丸大夫」の作と推測されている歌はありません。

⑥ 『三十六人撰』の最初の13人の名を冠する私家集をここまで比較検討してきました。

 そして歌人として名を成している歌人の名を冠する私家集に、異端の人物の名を冠する私家集が1集あり、その異端の人物によると明記された歌は、その私家集(『猿丸集』)にも『萬葉集』にも『古今和歌集』にもありません。第一に、元資料の歌が趣旨の異なった歌に仕立てられています。

 そのため、一人の人物を中心として編纂された作品集とは思えないのが、この『猿丸集』です。

 このように、『猿丸集』の編纂者は、ほかの私家集(付記3.参照)に倣うことをせず、独自の視点で歌を選定し、独自の編纂方針を持っていることがわかりました。 

 そして編纂の終了時期の最遅案を左右するのが『三十六人撰』となりましたが、そもそも『三十六人撰』はなぜ作者名に「猿丸」と明記しているのでしょうか。

 次回は、その点を検討したい、と思います。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・ 」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2020/3/23  上村 朋)

 

付記1.猿丸集の歌集名と三代集の恋部の詞書を以下の8回のブログで検討した。

ブログ「「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」」(2020/1/6付け)」~ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書 付1-3-925歌」(2020/3/16付け)

 

付記2.『猿丸集』記載の歌とその元資料などの現代語訳の試みは、次のブログに記した。

① 序論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集その1」(2018/1/15付け)

② 各論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)~ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け) 約80のブログに分載している。

付記3.私家集という分類について

① ここまで、「私家集」とは、『新編国歌大観』の第3巻に収載している歌集と同傾向の歌集の意で用いている。

② 「私家集」とは、勅撰集や私撰集に対し個人の歌集で、主に近代以前のものをいう(デジタル大辞泉)という概念も、ある。この概念に『千里集』や『猿丸集』が該当するか疑問である。『家持集』などにも疑念を持つところである。千里や猿丸の作詠した歌が主体を成す歌集と言い切れないから、無名の者による私撰集という範疇の歌集ではないか。

③ 私家集という概念は、「家集」という概念を含むものであって然るべきならば、その概念を、「編纂者が、意図的に、固有の人物に拘らず、同じ傾向の歌を一つあるいは複数集めた歌集である」、とすると、『新編国歌大観』の第3巻に収載の歌集すべてに該当すると思う。同じ傾向とは、(単数または複数の)特定人物でもまたは特定人物の作風でも、よい。一つの集団の記録(『村上御集』や『大斎院前御集』など)も、この概念に含みうる。

 私撰集とは作者数と同じ傾向というものの数の多少が、歌合とは編纂するスタイルが、違う。

(付記終わり 2020/3/23   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書  付1-3-925歌

前回(2020/3/2)「わかたんかこれ 猿丸集と伊勢集の詞書」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書  付1-3-925歌」と題して、記します。(上村 朋)

 1.~14.承前 

(『猿丸集』という書名を検討し、「猿丸」という古の歌人名により、類似歌が新解釈であることを示唆している歌集か、と推測した。次に、『猿丸集』の編纂方針を詞書から検討するため、恋の歌が多い『猿丸集』に鑑み三代集の恋の部の詞書を検討した。『古今和歌集』巻第十五恋五では、題しらずという詞書を中立の詞書とみて推測した歌群は歌本文を含めて推測した歌群と歌群順に重なるところがあった。そして『後撰和歌集』巻第十三恋四と巻第十四恋五では、詞書のみからの検討と歌本文を含めての検討が重なったのは、歌群が恋の各段階を通じた挿話方式である、ということだけであり、題しらずという詞書が断然多い『拾遺和歌集』巻第十五恋五では、詞書だけからは歌群のいくつかを指摘できるだけであった。但し『拾遺和歌集』巻第十五恋五の巻頭歌については詞書と歌本文との突合途中である。また三代集の恋の部の詞書の書き方と比較すると、『猿丸集』の詞書は、「題しらず」と「返し」が無いことがわかった。)

 

15.拾遺集の歌本文よりの確認その2

① 巻第十五恋五の巻頭歌の検討を続けます。『新編国歌大観』より再度引用します(歌は以下同じ)。

  1-3-925歌  善祐法師ながされ侍りける時、母のいひつかはしける

      なく涙世はみな海となりななんおなじなぎさに流れよるべく

 小町谷照彦氏は次のように現代語訳を示しています(『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』) 詞書の訳はありません。

 「悲しみ泣く私の涙で、この世の中は皆海となってしまってほしいものだ、我が子と同じ渚に流れ寄るように。」

何を同じ渚に流れ寄せたいのかの説明は、ありませんでした。

② この巻の最初の歌群の冒頭歌は、巻頭歌でもある1-1-925歌です。

1-3-926歌以下1-3-929歌までの題しらずの歌は、歌本文にあたってみると、恋の歌として疎遠以降の段階の心情の歌であってもおかしくありません。配列からは、疎遠以降の段階の歌と予想できます。

 この歌の作者は、詞書より、善祐法師の母となります。二条后と密通をしたとして「配流伊豆講師」(896)となった男の母です。母は、二条后にも非があるように詠むことは避け、ひたすら「配流」で済んだ善祐法師を諭している調子が詞書から感じます。

 また、『猿丸集』の歌で同音異義の語句の例をたくさん見てきました。1-3-925歌でもその可能性を検討したいと思います。

③ 初句「なく涙」から検討します。

 平仮名の「なく」は、動詞として「泣く」と「鳴く」、形容詞として「無し」の連用形があります。「なくなみだ」と言う語句では動詞しか該当しません。

「なく涙」と詠う先例は、3首あります。

古今和歌集』巻第十六 哀傷歌の巻頭歌

1-1-829歌  いもうとの身まかりにける時よみける     小野たかむら朝臣

なく涙雨とふらなむわたり河水まさりなばかへりくるがに

後撰和歌集』巻第二十 慶賀 哀傷

1-2-1397歌  返し                        兼輔朝臣

      なく涙ふりにし年の衣手はあたらしきにもかはらざりけり 

当時の伝承歌のひとつとみなせる『赤人集』 にある歌

2-2-45歌  なくなみだこふるたもとにうつりてはくれなひふかきやどとこそあれ

 初句の「なく涙」は、歌の作者が嘆いて泣いた結果の涙です。河になれば嘆きを止めるような働きをするかもしれないが、結局涙は問題を解決してくれない、嘆きを訴える手段にすぎない、という認識の歌です。

 このほか『古今和歌集』には、「なみだかは・なみだのかは」と詠う歌が1-1-529歌ほか8首あり、「袖・たもと」と「なみだ・(白)玉」とを詠う歌が1-1-556歌ほか3首あります。このようなイメージを受けて、嘆いている状態を示し得る語句として初句のみの体言止めの文とみなすことが可能であり、それで一文となり得ます。

④ 二句「世はみな海と」の「世」については、多くの意があります(『例解古語辞典』)。

第一 (仏教思想で)過去・現在・未来の三世。特に、現世。

第二 時代・時世・時

第三 世の中・世間

第四 俗世間・浮き世

第五 世間の風潮・時流

第六 国政・国

第七 人の一生・生涯・運命

第八 境遇・状態

第九 渡世・生活・家業

第十 男女の仲・「よのなか」

また、「世」を、「よ」と表記している伝本があります。

 平仮名の「よ」は名詞として「世」、「夜」、「余」(そのほか・それ以外)、「節」「予」(自称)の意があります。

⑤ 「世は」の「は」は、「体言が中核となる、主語や連用修飾語などに付いて、その語句を主題・題目としてとり立てる意を表します。また他と対比して限定する気持ちを加えてとりたてることがあります」(『例解古語辞典』)。

「みな」には、名詞「皆」と副詞「みな」(すっかり・ことごとく)の意があります。(同上)

 この二句には述語に相当する語句がありませんので、動詞を含む三句「なりななん」とともに一文となっているとみなせます。

 三句「なりななん」は、四段活用の動詞「なる」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+助詞「なむ(なん)」と分解できます。

活用語の未然形につく「なむ(なん)」は終助詞であり、「他または相手に対して、・・・してほしいと望む気持ちを表し」ます。(同上)

 「なむ(なん)」は、この歌の作者の気持ちですので、二句~三句は、

 「私(作者自身)は、(「世はみな」という)他または相手に対して、「海となりぬ」という状態になることを望んでいる」

という文となります。「(世はみな」という)他または相手が「海となりぬ」」という文が入れ子になっているのがこの二句~三句ということになります。

 その理由が、助動詞「べし」の連用形で終わっている四句以下の文ではないか。

 なお、一句~三句で一文となっている可能性もありますが、とりあえず二句~三句で一文とみるケースから検討します。

⑥ 入れ子の文を検討します。

 入れ子の文の、主語となり得る候補が、名詞としての「世」と「みな」です。

 「海となりぬ」の「と」(格助詞)の意は、次の二つが想定できます。

 「移り変わり変化していった結果を示す」

 「たとえていうのに用いられている。・・・ように」

 前者の意であれば、「海」は、琵琶湖や紀伊半島沖の海などという広い水域という実際にある空間を指すことになり、「海となりぬ」とは、今動詞「なる」を仮に「成る」とすれば「広い水域に変化し終わる」意となります。その空間は、初句にある涙が最後にたどり着くところであるとも言えます。

 その海に、「世」あるいは「みな」が「成る」ということは、それが水域を構成する物質あるいは溶け込みうるもの(例えば氷山、屍骸など)とみなせなければあり得ませんので、通常では不自然です。

 なお、「成る」の意は、「できあがる」、「変化して、ある状態になる」及び「できる・かなう」があります(同上)。

後者の意であれば、「海」は、広い水域を何かのたとえとしていることになり、「海となりぬ」とは、「広い水域が持つイメージにあうものに他または相手が変化し終わる」意となります。

 『古今和歌集』で、海あるいは海辺を詠う歌の先例(付記1.参照)をみると、「海」に関してはおだやかな大海原・寄せる白波が詠われています。(1-1-994歌(かぜふけば おきつしらなみ たつたやま)のような例外的な歌や浦(恨む)や松(待つ)をいいだし、海の状況に触れていない歌もあります。)

 これから、当時の「海」のイメージは、「広い水域」であり、それは「おだやかなもの」であり、「すべてを受け入れるもので泰然としているイメージ」で歌に多く詠われ、そうではない嵐の海など困難を予想するイメージではほとんど詠まれていない、と言えます。

 このため、入れ子の文は、「「世」あるいは「みな」が、海のように穏やかなものに変化し終わる」、という意になり、二句~三句からなる文は、

「私(作者自身)は、「「世」あるいは「みな」が海のように穏やかなものに変化し終わる」ということを望んでいる」

という意になります。

⑦ ここまでは、動詞「なる」は「成る」と仮定してきましたが、同音異義の「業る」(生業とする)と「鳴る」もあります。しかし、格助詞「と」との関係で意味が通じそうなのは格助詞「と」が後者の意の場合のみであり、「海となりぬ」は、「広い水域全体に響き渡りきる・音が鳴り終わる」となる意となり、なんとなく通じるものの、動詞「なる」は、「成る」を第一候補に以降検討します。

 また「海」の平仮名表記である「うみ」には動詞を名詞化した「産(生)み」、「倦み」(いやになる・飽きる意)及び「績み」(麻などの繊維を細く裂き長くよりあわせる・紡ぐ)があり得ますが、文として意味をもつのは「海」が一番です。さらに、名詞「膿」もありますが和歌に詠まれにくい意である、と思います。

⑧ ここまでの二句~三句の検討における、同音異義の語句を表にすると、次のようになります。

表 二句と三句からなる文における同音異義の語句検討表(「◎」のみを以下検討)

意味区分

世は(イ)

みな(ロ)

海と(ハ)

なりななん(ニ)

意味A

世は(主語)*◎

皆(名詞)◎

海と(2案あり)◎

成りななん◎*

意味B

世は(とりたて)*◎

 

 

 

意味C

夜は(2案あり) ◎

みな(副詞)◎

産(生)みと

業りななん

意味D

余は(2案あり) ◎

 

倦みと

鳴りななん

意味E

節は(2案あり)

 

績みと

 

意味F

予(自称)は

 

 

 

注1:「*」はさらに案が多数あることを示す。

注2:「は」の意は、上記⑤に記したように2案ある。

 

⑨ 次に、二句~三句にある入れ子の文の主語、具体には「世」と「みな」と表記されている語句について、検討します。

 作者である善祐法師の母が、他または相手が「海のように穏やかなものに変化し終わる」ことを期待等しているのは、それが子の善祐法師の身分・生活に影響するからである、と思います。

 母の心配には、我が子が、配流となった自分を冷静にみて配流地で過ごすことができるか、あるいは配流となった我が子の周辺の状況がこれ以上の悪化がなく好転してくれるか、の2点がある、と思います。

 前者の場合「世」の意は、子の善祐法師自身に関することなので、上記のうち、第七「人の一生・生涯・運命」あるいは第八「(子の)境遇・状態」ではないか、と思います。

 後者の場合「世」の意は、上記のうち、第二「時代・時世・時」あるいは第三「世の中・世間」あるいは第五「世間の風潮・時流」ではないか、と思います。我が子は伊豆国にいるのだから第六「国政・国」ではない、と思います。

 どちらの場合でも、「みな」は副詞(すっかり・ことごとく)がふさわしい、と思います。

 そうすると、入れ子の文は、例えば

「子の善祐法師の伊豆国における(精神)状態が海のように穏やかなものに変化し終わる」

「子の善祐法師の伊豆国における周囲の反応(世間の風潮など)が海のように穏やかなものに変化し終わる」

となるでしょう。

⑩ 次に、主語「世」が、夜等の意の場合(上表の意味C~F)を確認しますと、副詞「みな」との関係で、「余」だけが候補として残ります。即ち、二句~三句は、

「私(作者自身)は、「そのほかのものはすべて海のように穏やかなものに変化し終わる」ということを望んでいる」

 「余」とは、朝廷の御意思以外のもの(例えば、現地の国分寺の僧・国守等の官人の温情など)、の意と理解が可能です。

⑪ 次に、「世は」が副詞句であって、「みな」を名詞として主語とみると、その「みな」とは、母の後者の心配(我が子の周辺の状況がこれ以上の悪化がなく好転してくれるか)に関わるものすべてを指し、とりわけ官人(とりわけ国守等)の子に対する態度が、該当すると思います。

 この場合、「世は」の意は、「第五の世間の風潮・時流として」、とか「第三の世の中・世間にあって」ということが該当するのではないか。

 二句~三句は、例えば

「私(作者自身)は、「伊豆国の官人その他の人々にあっては、皆が海のように穏やかなものに変化し終わる」ということを望んでいる」

となります。

⑫ つぎに、四句~五句(おなじなぎさに流れよるべく)を検討します。この一文は、条件文であり、本文が二句~三句になるのでしょうか。

 同音異義の語句に、「ながれよる」及び「べし」があります。

 複合動詞「ながれよる」の意は、「なぎさ」が「渚」と表現される「川や海や湖などの波打ち際」の意しかありませんので、

 第十一 流れて近寄る

 第十二 しだいに移って行きなびき寄る・しだいに移って行き集まりあう

の意であろう、と思います。

 助動詞「べし」は、つぎのような意があります(同上)

 第二十一 確実な推理・予想を表す。・・・にちがいない

 第二十二 意思・決意を表す。・・・つもりだ

 第二十三 当然だ、適当だと判断する意を表す。・・・はずだ

 第二十四 勧誘・命令の意をあらわす。・・・なさい

 第二十五 可能の意を表す。・・・ことができる

二句~三句の意を優先させれば、第二十五の「可能の意を表す。・・・ことができる」が妥当であろうと思います。

 また、同音意義の語ではありませんが、「おなじなぎさに」の「おなじ」は、この歌で該当しそうなものがいくつかあります。

 第三十一 作者が近寄ることができる鴨川の渚と同じ(作者の子が配流となっている伊豆国の渚に)。

 第三十二 出家しているほかの僧侶とおなじように(煩悩を超越した悟りの境地を意味する彼岸に作者の子至る)。

 第三十三 朝廷との子との関係が今までどおりであるように。ひいては朝廷の特別の配慮を頂ける(配流期間の短縮等)ように。

 二句~三句の意を優先させれば、第三十三あるいはそれを象徴する場合の第三十一が有力ではないか、と思います。

⑬ ここまで、この歌(1-3-925歌)を三つの文からなる、として検討してきました。

 文A なく涙

 文B 世はみな海となりななん

 文C おなじなぎさに流れよるべく

 そして文Cは、文Bの条件文と予想しています。 

 各文のこれまでの検討結果を、上記⑤なお書きに記した一句~三句で一文という可能性を含めて整理すると、つぎの3つの表が得られます。

表 1-3-925歌の文A(なく涙)の現代語訳の素案

案の区分

文A:なく涙

初句が一文

A1:私が泣いて生まれた涙があります。

初句が二句の主語を修飾

A2:嘆いて泣いた涙(にくれる私)

 

表 1-3-925歌の文B(世はみな海となりななん)の現代語訳の素案

案の区分

文B:世はみな海となりななん

世=名詞:第二案または第三案または第五案

&みな=副詞

B1:「子の善祐法師の伊豆国における周囲の反応(世間の風潮など)が海のように穏やかなものに変化し終わる」ことを私は望んでいる

世=名詞:第七案または第八案 

&みな=副詞

B2:「子の善祐法師の伊豆国における(精神)状態が海のように穏やかなものに変化し終わる」

ことを私は望んでいる

世=名詞:(実は)余 

&みな=副詞

B3: 「私(作者自身)は、「そのほかのものはすべて海のように穏やかなものに変化し終わる」ということを望んでいる」

 「余」とは、朝廷の御意思以外のもの(例えば、現地の国分寺の僧・国守等の官人の温情など)

世=名詞世と余の掛詞

B4掛詞:B1*B3の案など

みな=名詞

&世は=副詞句

B5:「私(作者自身)は、「伊豆国の官人その他の人々にあっては、皆が海のように穏やかなものに変化し終わる」ということを望んでいる」

 

表 1-3-925歌の文C(おなじなぎさに流れよるべく)の現代語訳の素案

案の区分

文C:おなじなぎさに流れよるべく

おなじなぎさ:第三十一案

 

C1: 作者がよく行く鴨川の渚のように子が配流となっている伊豆国の渚に流れて近寄よってゆけるように

おなじなぎさ:第三十二案

 

C2: 同僚・弟子の僧侶と同じように煩悩を超越した悟りの境地にしだいに移ってゆけるように

おなじなぎさ:第三十三案

C3: 朝廷との子との関係が今までどおりであるように。ひいては朝廷の特別の配慮を頂ける(配流期間の短縮等)ように。

 

⑭ 文Bは、条件文が文Cとみて、文Cの検討後とします。

作者が、配流されている者の母親ということに留意すれば、母の願いの第一はC3ではないでしょうか。

配流の理由が理不尽とも思えることであっても、それをあからさまに詠まないと思いますし、配流は転出・転勤であり、出世はともかくも帰京はかないますから、二条后との関係断絶は当然のことであり、朝廷との関係をこれ以上悪くしないように、子に行動を慎む(あるいは僧侶として務めに励む)よう「いひつかはす」のが普通であろうと思います。それは、廃后とされた二条后と朝廷との関係好転をも願っていることになります。

このため、この歌は、二文からなる歌の理解が有力となります。

(A2+B1)+C3

(A2+B2)+C3

(A2+B3)+C3

(A2+B5)+C3

⑮ ただ、それを「いひつかはす」のに、ストレートに和歌に当時は表現しないと思いますので、表面上の歌意を、別に用意してある歌となります。

そうすると、この歌は、配流の子を追ってゆくのは憚れるので、「作者の泣いた涙だけでも、子のいる伊豆国の渚にながれよることができるように、世の中に私の涙の通り道としての海が出来上がってほしい、と訴えている歌と理解してもよい、と思います。文Bは新たなB3’となります。

即ち、この歌は、二句の「世」に「余」を掛け、二つの意を詠み込んだ歌であり、

表の意は、文A1+文B3’(入れ子の文の主語余は、作者の涙以外の物)+文C1 (三つの文からなる歌)

裏の意の有力案は、(文A2+文B2(入れ子の文の主語世は善祐法師の伊豆での精神状況))+文C3 (二つの文からなる歌)

となります。(この両案の現代語訳の試みは、割愛します)

⑯ 1-3-925歌の詞書については、2020/2/24付けブログで、詞書のみから巻第十五に関して、次の点を指摘しました。

第一 この詞書にある事実は、寛平8年(896)当時54歳前後である清和天皇の后(二条后)と東光寺善祐法師の密通が露見したとして、二条后は「廃后」、善祐法師は「配流伊豆講師」となったこと(『扶桑略記』寛平8年(896)9月22日条)

第二 「廃后」も「配流伊豆講師」も左遷。「配流伊豆講師」とは伊豆国国分寺の役職である「講師」に(都の寺に所属し后と謁見ができる僧職から)転出させたということ。

第三 この詞書は、配流という理由で京を離れるという特殊性に注意を促している記述。

第四 この歌は、作者である善祐法師の母が、配流あるいは伊豆の国へ出発の日が決まった子を思う心情を詠う歌であり、詞書に「いひつかはす」とあるので、善祐法師本人に伝えたいことを込めた歌。その心情は、僧の身分をはく奪されなかった子に

「密通までした高貴なお方への思いをしっかり絶ったと誓約したことを忘れずに」 

と諭したかったのか。

第五 この巻頭の歌は、恋が終わっていることを(『拾遺和歌集集』をみる人に)示唆する歌としてここに歌集編纂者は置いたか。

第六 この詞書のある1-3-925歌は巻頭歌でかつ最初の歌群の冒頭歌であり、詞書のみから推測すれば、1-3-940歌までで一つの歌群を成す。

第七 作者は、恋の当事者ではないので、恋の歌という整理が可能かどうか歌本文に当たらない限り疑問が残る。

⑰ 歌本文との突合をした結果、上記⑯に記した、 

 第三は、歌本文に反映しています。配流の理由が密通をとがめた処分であり、恋の強制的な絶縁ということを詞書が示しています。作者である一方の当事者の母は、その絶縁を前提に歌を詠み、一見非現実的なことを願っているかのような表の意の歌となっています。また、歌本文の理解にあう詞書である、といえます。

 第四も、歌本文からも同じように推測できました。表の意では、子を思う母の思いだけを詠ったと理解できる歌という可能性が大きく残っている歌ですが、配流の理由を忘れるなと子を諭す歌であることを否定していません。

 第五も、歌本文からも同じように推測できました。裏の意がこの歌(1-3-925歌)に生じていることを認めて『拾遺和歌集』編纂者はこの歌を恋の断絶の状態の歌と認めています。配流となり、京から遠く離され、かつ、本人の意思により元の仲に戻れないことがはっきりしているので、恋の歌としては絶縁の状態以外に理解されない歌として恋五の巻頭歌に配置したと思われます。のではないか。

表の意でも、二人の信頼関係を断つという朝廷の立場に立ち、非現実的なことを願い、後戻りは客観的に不可能なことをしっかり示唆しています。 

 第六は、小池氏の指摘する「題しらず」の歌が冒頭歌に成り得るということの検討を要します。

 第七は、杞憂でした。「廃后・配流伊豆講師」の事件とは、二人の信頼関係は(恋に関わりがあろうとなかろうと)強制的に断絶・離別・絶縁となった事件です。元資料の歌としては、単に子を思う歌と人々が理解したかもしれませんが、以上検討してきたように、『拾遺和歌集』の恋五の歌として、作者の行動だけを記すのみの詞書のもとにある歌本文からは、恋の歌の疎遠よりも絶縁の段階の歌と位置づけることが可能です。

 巻四の最後の歌からの関連以外にそのように主張できる歌の内容であることがわかりました。

⑱ このため、詞書に関する推測と歌意の検討結果は齟齬をきたしていない、と判断できます。わざわざ巻頭歌にこのような歌を置いている理由に二条后の廃后と復位に関係があるのでしょうか。いづれにしても、『拾遺和歌集』巻第十五の巻頭歌の詞書は、編集方針に従っていると推測できます。

 

16.三代集の恋の部の詞書検討のまとめ

① 三代集の恋の部より計5巻をとりあげ、その詞書を検討してきました。詞書が「題しらず」タイプや歌合などと披露した場所などのみの「詠んだ場所・理由」を記すのみのタイプでもない、「歌を詠んだ動機につながる情景」を記述するタイプに注目すると、一巻にある複数の歌群の推測が可能でした。

しかし、恋の部では歌本文にあたると、「題しらず」の歌を冒頭歌とする歌群が認められ、「題しらず」の歌も多く、「歌を詠んだ動機につながる情景」を記述するタイプの詞書のみから歌群とその構成(編纂方針)を推測するのは、不正確に終わることがわかりました。

 また、詠う情景の記述の多少(直接には題しらずの多少)と文の表現に、その歌集の編纂方針の違いが明確でありました。『猿丸集』にも独自の編纂方針があるはず、と確信します。

② 恋の歌群の推測は、四季の歌(付記2.参照)と違い、他律的に適用してみようとする基準は恋の進捗の度合いを示すものしかありません。しかし、『古今和歌集』はその最初の段階のステップに2巻をあてている、と諸氏が指摘しています。恋の歌の編纂は各歌集それぞれ異なる編纂方針によっていることがわかりました。

③ 恋の歌の多い歌集『猿丸集』の編纂方針にも、時代の風潮が反映しているとみると、三代集のうちでは「題しらず」の歌が大変少ない『後撰和歌集』の影響下にあるか、と思われます。

そして、『後撰和歌集』編纂と並行して行われていた『萬葉集』の訓読で提案された色々の意見が、『猿丸集』の類似歌である萬葉集歌に反映されているとすれば、同音異義を用いた古今集歌の別の理解にも思いが至ったかもしれません。

そのため、『猿丸集』が一度の編纂で成ったという仮定を置けば、成立は、『後撰和歌集』成立時点以降の遠くない頃、と推測します。

この推測は、3-4-47歌の検討において、「ゆふつけ鳥」の意に追加があり、3-4-47歌はそれを利用しているので、1-10-821歌の作詠時点以降(943年以降)に3-4-47歌が成立したと推測した(付記3.参照)ことと、矛盾しません。

④ 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、『猿丸集』編纂時ころの他の私歌集との比較を試みたい、と思います。

(2020/3/16 上村 朋)

付記1.古今集で海あるいは海辺を詠う歌の例   (2020/3/16 現在)

語句

歌番号等

歌抜粋(平仮名表記)

海の状況

いせのうみに

1-1-509

・・・つりするあまの

おだやか・うらら

いせのうみの

1-1-510

・・・あまのつりなは

触れていない

わたのはら

1-1-407

・・・やそしまかけて こぎいでぬと 

おだやか・うらら

わたのはら

1-1-912

・・・よせくるなみの しばしばも

おだやか・うらら

しらなみに

1-1-301

・・・あきのこのはの うかべるを

おだやか・うらら

しらなみの

1-1-472

・・・あとなきかたに ゆくふねも

おだやか・うらら

おきつなみ

1-1-915

・・・たかしのはまの はままつの

(地名の高師の浜)触れていない

おきつしらなみ

1-1-360

こゑうちそふるおきつしらなみ

(賀にある屏風歌)おだやか・うらら

かぜふけば

1-1-671

・・・なみうつきしの まつなれや

(待つ)緊張・荒れる

かぜふけば

1-1-994

・・・おきつしらなみ たつたやま

(波立つ)緊張・荒れる

するがなる

1-1-489

・・・たごのうらなみ たたぬひは あれどもきみを

(波立つ)緊張・荒れる

なにはがた

1-1-913

・・・しほみちくらし

おだやか・うらら

なにはがた

1-1-916

・・・たおふるたまもを

おだやか・うらら

なにはがた

1-1-974

・・・うらむべきまも おもほへず

浦(恨む)触れていない

なにはのうらに

1-1-973

・・・ありしかば うきめをみつの

浦(恨む)触れていない

あかしのうらの

1-1-409

ほのぼのと・・・あさぎりに

おだやか・うらら

すみのえの

1-1-559

きしによるなみ よるさへや

(寄るなみ)おだやか・うらら

すみのえの

1-1-779

・・・まつはくるしき ものにぞありける

(待つ)触れていない

すみのえの

1-1-905

・・・ひめまつ いくよへぬらむ

触れていない

おきつのはまに

1-1-914

・・・なくたづの

触れていない

おほふねの

1-1-508

・・・ゆたのたゆたに ものおもふころぞ

おだやか・うらら

注1:「海あるいは海辺」を詠う歌とは、「わたのはら・波・江・浦・潟・浜・かぜふけば・おほふね」を詠う歌から抜粋している。

注2:「海の状況」とは、歌において海の表現が「おだやか・うらら」か「緊張」か触れていないかあるいは判定保留の四者からの択一である。

 

付記2.『拾遺和歌集』の巻第一の詞書から配列の推測

① 三代集の四季の巻は、下記の『拾遺和歌集』巻第一春を含めて総じて季節の運行順に歌が配列されている。

② 『拾遺和歌集』巻第一春には、78首が配列されている。うち、季節の景を詞書に記してあるのは、屏風の絵という説明の詞書をも含めて12首しかない。この12首の順番は季節の運行順である。

③ その12首は次のとおり。

1-3-3歌  霞を詠み侍ける

1-3-11歌  鶯を詠み侍ける

1-3-15歌  冷泉院御屏風の絵に、梅花ある家に客人来たる所

1-3-20歌  若菜を御覧じて

1-3-22歌  大后の宮に宮内といふ人の童なりける時、」醍醐の帝の御前に候ひけるほどに、御前なる五葉に鶯の鳴きければ、正月初子の日仕うまつりける

1-3-24歌  入道式部卿の親王の子日し侍ける所に

1-3-25歌  延喜御時、御屏風に、水のほとりに梅花見たるところ

1-3-49歌  斎院屏風に、山道を行く人ある所

1-3-54歌  権中納言義懐家の桜の花惜しむ歌詠み侍けるに

1-3-62歌  荒れはてて人も侍らざりける家に桜の咲き乱れて侍りけるを見て

1-3-69歌  井出といふ所に、山吹の花のおもしろく咲きたるを見て

1-3-78歌  閏三月侍けるつごもりに

  

付記3.「ゆふつけ鳥」の意味の追加について

① ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」(2019/8/12付け)参照。

② 『新編国歌大観』にある歌では、1-10-821歌が、「暁という後朝の朝に鳴く鶏」で「ゆふつけ鳥」を(年代的には)詠った最初の歌である。それまで、「ゆふつけ鳥」とは、夕方に鳴いてかつ「逢う」意を含む「あふさかのゆふつけ鳥」の略称であった。

(付記終わり 2020/3/16 上村 朋)

 

 

 

わかたんかそれ 忘れない

 3.11が近づきました。上村朋です。わかたんかこれ 猿丸集・・・は勝手ながら今週休みます。

 川越線の駅に止まった電車に、そのとき座っていました。電車が左右におおきく揺れました。その揺れの長いこと。ホームの屋根も音を立て続けました。

 翌12日の東電福島第1原発1号炉で爆発があり、放射能の恐怖をじわじわ感じつつ過ごしました。2000kmもぱっと離れられるのはわずかな人だけです。

 今も汚染除去などの対症療法が続いていますが、長期的な視点からの再臨界の予測と対策も、その結果の重大性を考えると看過し得ない、との指摘があります。

 世界の英知も加わり各方面のプロの方々の理論・実験・予測がすすみ、かつプロの間の意見交換により子孫の憂いをなくせるものと期待しています。

 地域の復興も発展も思い込みを反省しながら、今前へとあゆんでいる・もがいているようにみえます。目標としている時期に自活できるよう、これからも、倦まず休まず楽しくみんなを信じ、やれることをしてゆきたいと思います。

 猿丸集の勉強も倦まず休まず楽しく、やってゆこうと思います。

 御覧いただきありがとうございます。(2020/3/9 上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集と伊勢集の詞書

前回(2020/2/17)「わかたんかこれ 猿丸集と拾遺集の詞書」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と伊勢集の詞書」と題して、記します。(上村 朋)

1.~12.承前 

(『猿丸集』という書名を検討し、「猿丸」という古の歌人名により、類似歌が新解釈であることを示唆している歌集か、と推測した。次に、『猿丸集』の編纂方針を詞書から検討するため、恋の歌が多い『猿丸集』に鑑み三代集の恋の部の詞書を検討した。『古今和歌集』巻第十五恋五では、題しらずという詞書を中立の詞書とみて推測した歌群は歌本文を含めて推測した歌群と歌群順に重なるところがあった。そして『後撰和歌集』巻第十三恋四と巻第十四恋五では、詞書のみからの検討と歌本文を含めての検討が重なったのは、歌群が恋の各段階を通じた挿話方式である、ということだけであり、題しらずという詞書が断然多い『拾遺和歌集』巻第十五恋五では、詞書だけからは歌群のいくつかを指摘できるだけであった。但し『拾遺和歌集』巻第十五恋五の巻頭歌の詞書と歌本文との突合が終わっていないところである。また三代集の恋の部の詞書の書き方と比較すると、『猿丸集』の詞書は、「題しらず」と「返し」が無いことがわかった。)

13.巻第十五恋五の巻頭歌の不明な点

① 巻第十五恋五の巻頭歌を、『新編国歌大観』より引用します(歌は以下同じ)。

  1-3-925歌  善祐法師ながされ侍りける時、母のいひつかはしける

      なく涙世はみな海となりななんおなじなぎさに流れよるべく

小町谷照彦氏は次のように現代語訳を示しています(『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』) 詞書の訳はありません。

「悲しみ泣く私の涙で、この世の中は皆海となってしまってほしいものだ、我が子と同じ渚に流れ寄るように。」

何を同じ渚に流れ寄せたいのかの説明は、ありませんでした。

② この詞書のみを、前回(2020/2/24付けブログ)検討した結果は、次のようなものでした。

第一 この詞書にある事実は、寛平8年(896)当時54歳前後である清和天皇の后(二条后)と東光寺善祐法師の密通が露見したとして、二条后は「廃后」、善祐法師は「配流伊豆講師」となったこと(『扶桑略記』寛平8年(896)9月22日条)

第二 「廃后」も「配流伊豆講師」も左遷。「配流伊豆講師」とは伊豆国国分寺の役職である「講師」に(都の寺に所属し后と謁見ができる僧職から)転出させたということ。

第三 この詞書は、配流という理由で京を離れるという特殊性に注意を促している記述。

第四 この歌は、作者である善祐法師の母が、配流あるいは伊豆の国へ出発の日が決まった子を思う心情を詠う歌であり、詞書に「いひつかはす」とあるので、善祐法師本人に伝えたいことを込めた歌。その心情は、僧の身分をはく奪されなかった子に

「密通までした高貴なお方への思いをしっかり絶ったと誓約したことを忘れずに」 

と諭したかったのか。

第五 この巻頭の歌は、恋が終わっていることを(『拾遺和歌集集』をみる人に)示唆する歌としてここに歌集編纂者は置いたか。

第六 この詞書のある1-3-925歌は巻頭歌でかつ最初の歌群の冒頭歌であり、詞書のみから推測すれば、1-3-940歌までで一つの歌群を成す。

第七 作者は、恋の当事者ではないので、恋の歌という整理が可能かどうか歌本文に当たらない限り疑問が残る。

③ 小池博明氏は、歌本文をも検討して、この歌1-3-925歌について、つぎのように論じています(『拾遺集の構成』)

「これは、母が子にやった歌である。本来なら、別部に入るべき歌である。・・・けれども、善祐法師の配流が、皇太后藤原高子との密通露顕によるものであり、それを恋四と関連づければ、恋五の巻頭に当該歌が配されたことも、首肯されるであろう。また歌の贈り主ともらい手(母と善祐法師)は、互いに思い合っているのに、国家権力の介入という外的事由により両者の仲が裂かれるのである。したがって、恋の段階に置き換えれば、相思の仲であり、逢瀬の段階である。」

氏は、2点から「恋の歌」とみなせる、と言っていると理解できます。恋四の最後の歌(1-3-924歌)に禁忌を犯しても恋を貫こうとする決意が詠まれており、それを受けて同じ題材の歌であることと、母が詠う別れの歌だが「恋の段階に置き換えれば」妥当な恋の歌となり得ること、の2点です。

④ そのうえで氏は、歌本文も考察対象として恋五は、4つの歌群がありその最初925~962(38首)が「逢瀬の段階(冒頭歌は相思の仲だが逢えない歌)から離別の段階に至る」とし、その恋の段階別の歌群として「1-3-925歌のほか題しらずの歌である1-3-930歌および1-3-948歌が冒頭歌となった逢瀬・疎遠・離別の各段階別の小歌群」(計3つ)を認めています。

⑤ 「廃后・配流伊豆講師」という事件に関連がある伊勢の歌がありますので、併せて検討し、上記②の第三以下を確認したい、と思います。

 

14.詞書にある「廃后・配流伊豆講師」事件に関連した伊勢の歌

① 伊勢の歌は、『後撰和歌集』の巻第十九離別羇旅と、『伊勢集』とに、あります。

1-2-1319歌  善祐法師の伊豆のくににながされ侍りけるに   伊勢 

   別れてはいつあひみんと思ふらん限あるよの命ともなし

片桐洋一氏は、次のような現代語訳を示しています(『新日本古典文学大系6 後撰和歌集』) 詞書の訳はありません。

 「別れてしまうと、今度はいつ逢えるだろうと思っていらっしゃるのでしょうか。限りあるこの世のすべてを生きる命というわけでもありませんのに。」

 勅撰集にある歌なので元資料があるのですが、不明です。『後撰和歌集』は『伊勢集』を元資料としていないそうです(付記1.参照)。

   3-15-217歌 いづのかうじにてながされける時に、みな人うたよみけるに

       わかれてはいつあはむとかおもふらむかぎりあるよのいのちともなし

 関根慶子氏と山下道代氏は、次のような現代語訳を示しています(『私家集全釈叢書16 伊勢集全釈』(風間書房 1996))。

 「ある人が伊豆の(国分寺の)講師として流されて行ったとき、人々がそれについて歌を詠んだ折に

    流されてゆく人は、今別れたらいつまた逢えることかと思っているだろうなあ。いつまでと限りのわかっているこの世の命でもないのだから。」 (()内は私が補った)

 関根氏らは、「みな人」とは「温子に仕えていた女房たちか伊勢身辺の宮廷関係者か」及び、「限りある」は「いのち」にかかり、「いつ」に「伊豆」が詠み隠されている、と指摘し、「流されてゆく人の心情を(宮廷女房が)思いやり同情を表している」と評しています。また、この二つの歌は、詞書が一部異り、歌も二句の文字が4字違うのですが、同趣旨を詠う歌と関根氏らは理解されているようです。

② 基本的に勅撰集である『後撰和歌集』の詞書は、その編纂方針に従った記述であり、必ずしも元資料のままではありません。

『伊勢集』にあるこの歌の前後は、元資料のままの可能性が強いことを諸氏が指摘しています(例えば付記1.参照)ので、『伊勢集』の詞書と歌によって、関根氏らがいう原資料(私のいう元資料)での作詠事情を推測します。

③ 詞書を最初に検討します。『伊勢集』の詞書の「・・・ながされける時に、(みな人うたよみけるに)」の「時」とは、「(何か事があり、または、あった)おり。また時期」(『明解古語辞典』)を指す語句でしょう。

 「に」は、体言に付いており、格助詞であり、空間的な場を示したり、時間的な場を示したり、心理的場を示したり、する意があります(同上)。

 「一方が廃后・もう一方が配流伊豆講師」という事件は慶賀といえることではなく、「みな人うたよみける」という「女房達がみな歌を歌う」という状況にストレートに結び付いている事柄とは思えません。この事件を知り、「配流」を題材にして、内裏に勤務する女房たちが、歌を披露しあうでしょうか。高貴な方の密通という事件の当事者に同情的な立場(それは天皇のこの事件に対する公式の立場に反する立場です)の歌をあえて披露しないであろう、と思います。

この事件後、内裏に居住する温子や女房たちに、なんらかの綱紀粛正のお達しがあったのではないか。そのような想像をさせるのがこの事件です。

「みな人うたよみける(に)」とは全員参加が建前の会合があって「公の場ではなく題詠をした機会」の意であり、動詞の連体形に付いている「に」は接続助詞であり、その次に「よめるうた」というような記述が省かれた詞書とみることができます。

その題は、普通の題である「別恋」とか「絶恋」とか「遠恋」とか「国名」とかあるいはそれらのいくつかが出題されたのはないでしょうか。

「廃后・配流伊豆講師」という事件で善祐法師が実際に都を離れたのは、処分決定後の寛平8年か翌9年(896か897)になる、と思います。寛平5年温子のもとに出仕し延喜7年温子が崩じるまで仕えた伊勢は、寛平7年宇多天皇の寵を受け皇子を生んでおり、この事件はその後に起きました。なお、宇多天皇は寛平9年7月退位されています。

 

④ 『伊勢集』のこの歌の前後の各三つの詞書をみてみます。()内は私が補った語句です。

 3-15-214歌  かひ(甲斐)へゆく人に

 3-15-215歌  から(唐)にいきて心かはりける人に

 3-15-216歌  物へ行く人にかづらをやるとて

 3-15-217歌 (再掲) いづのかうじにてながされける時に、みな人うたよみけるに

 3-15-218歌  おもふことありけるに (3-1-219歌にもかかる)

 3-15-220歌  ぶく(服)ぬぎてかへりし (3-1-221歌にもかかる)

 3-15-222歌  前裁うゑさせたまひてすなご(砂子)ひかせけるに、いへ人にもあらぬ人のすなごおこせたれば  (「砂子」とはここでは「砂」のこと)

 3-15-217歌を除く詞書は、歌を贈る相手とか、歌を歌うきっかけの自らの行動・直視した事柄を端的に述べており、これらの書き方に3-15-217歌も準じていれば、歌を詠むきっかけは「みな人うたよみける」です。皆が詠んだ時点について「いづのかうじにてながされける時」という時期について端的に説明を加えている、と理解できます。歌の題についての記述ではありませんし、関根氏らも指摘するように「配流伊豆講師」となった善祐法師の送別の歌を示唆するものでもありません。

 「伊豆」を読み込んでいることを示唆するための詞書であるならば、この時の題詠は「国名」であったのかもしれません。

⑤ だから、伊勢の歌の初句の「わかれては」とは、配流というような事件の渦中の男女を念頭に置いているのではなく、広く、男女の仲が物理的に遠のく状況を指して(詠って)いる、と理解してよい。

なお、二条后は、没後の天慶6年(943年)に朱雀天皇の詔によって(詞を濁して)復位されており伊勢は938年頃没しています。この歌が記載されている『後撰和歌集』は伊勢や二条后没後の天暦7年(953)に完成したと推測されています。

⑥ 次に、『後撰和歌集』巻第十九離別羇旅にある1-2-1319歌を検討します。

 『後撰和歌集』のこの前後の歌の詞書をみてみます。

1-2-1315歌  このたびのいでたちなん物うくおぼゆるといひければ

 1-2-1316歌  あひしりて侍りける女の、人のくににまかりけるに、つかはしける

 1-2-1317歌  返し

 1-2-1318歌  三月ばかり、こしのくにへまかりける人に、さけたうびけるついでに

 1-2-1319歌  (再掲)  善祐法師の伊豆のくににながされ侍りけるに

 1-2-1320歌  題しらず

1-2-1321歌  返し

1-2-1322歌  亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿のかべにかきつけける

1-2-1323歌  みかど御覧じて御返し

1-2-1324歌  みちのくへまかりける人に あふぎ(扇)てうじて、うたゑにかかせたまふ

1-2-1325歌  宗于(むねゆき)朝臣のむすめ、みちのくへくだりけるに

 

1-3-1318までの詞書からは、よく知る相手に贈る歌(とその返し)ということがわかります。

1-3-1319歌は、特定の人物名を上げていますが、作者の伊勢が地方へ行く者(密通露顕したとされる善祐法師とどのような関係があったかわかりません。伊勢がよく知っている(歌の贈答をする)相手とは思えません。ここまでの歌と同様に「ながされ侍りけるに」(「に」は接続助詞)の後に「つかはしける」があるかの印象が最初にあります。しかし、元資料の詞書を略した詞書として理解すると、「に」の後には「よめる」を予想でき、「に」は時点を指す意となります。

「題しらず」という中立的な詞書(1-3-1320歌と1-3-1321歌)ですが、歌本文を元資料でみると、歌を贈ったのはよく知っている相手です。(付記1.参照)

次にある1-2-1322歌の作者は、伊勢です。天皇)にみていただきたい歌なので婉曲な表現で歌をおくる相手を記しています。この1-2-1322歌は、宇多天皇の突然の譲位後のことと諸氏が指摘しています。宇多天皇の女御である温子は弘徽殿を居室としており、温子に仕えている作者の伊勢の部屋もそこにあります。天皇譲位により温子も当然退去ということになったのであり、その時、伊勢が詠って壁に張り出したという歌です。

元資料に近いとされる『伊勢集』にあたり、返歌の1-2-1323歌とあわせて検討すると、温子の代作とも、このように温子に申し上げました、と天皇に言上するために伊勢は壁に張り出したととれる歌です。それは天皇譲位に対する温子の気持ちでもあったのではないでしょうか。直ちに退去ということの感慨を詠っています。

伊勢の詠んだ歌とわかった宇多天皇の詠まれた返歌は、伊勢たち女房に対していうというスタイルで温子を諭しているのではないでしょうか。私と違い内裏での女房という仕事はこれからもある(温子の務めもこれからもある)、と言った歌と理解できます。元資料のこのような理解から、1-2-1322歌は内裏を退出する伊勢(地方へ行く側)が詠いかけていることになりますが、知っている相手に歌をおくる(見ていただきたいとしている)のは1-2-1321歌までと同じです。相手が例外なのは1-3-1319歌のみとなります。

元資料において、代作かと推測した理由は 2点あります。

それなりの女房は主人を替えてまで内裏の勤務をしていないようなので、返歌である1-2-1323歌が伊勢にのみ返事をしている歌ということの可能性は低いこと。現に、伊勢は、宇多天皇が譲位後温子に、亡くなるまで仕えています。

伊勢が女房達もみることができるようなところに張り出すには宇多天皇に直訴しているに近く、温子に迷惑のかからないという判断が伊勢にあることであり、それは温子の承諾のもとの行動と推測できることです。

⑦ さて、この二つの歌本文の検討を、次に行います。

元資料に近い3-15-217歌の詞書と歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「伊豆国国分寺の講師へと、どなたかが都落ちされた頃、(弘徽殿で)皆が歌を詠みあうという機会があり、(詠んだ歌)

別れてしまうと、これからいつ逢うことができようか、と思っているでしょうね、(このように)一緒にいられる夜は(いつも)短いし、この世にこれから命を保っているのも短いのだから。」

 これは疎遠となったころの恋の歌です。題詠の題を省いた記録と思われます。初句にある動詞「わかる」は、人に関しては生き別れにも死に別れにもいいます(『明解古語辞典』)。

 四句「限りあるよ」の「よ」が「世」であるならば、その意は、「a仏教思想での現世・この世 b人の一生 c状態 d男女の仲」などがあります。ここでの「よ」は、「夜」と「この世(仏教にいう現世)」をかけている、とみました。

五句にある「なし」は「無し」、と思います。

⑧ 次に、1-2-1319歌の詞書と歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「善祐法師が伊豆の国国分寺に講師となって下られるということがあった際に(詠んだ歌)  伊勢 

    このまま別れてしまったならば、これからいつ対面できるかと、善祐法師様は思っておられるでしょう。限りがある寿命を(これからは)地方で過ごすということとなり」

 『後撰和歌集』編纂者は、意図的にここに配列しています。地方へ行く、ということで「離別の歌」と理解できなければここに配列していない、と思います。

 二句にある「あひみる」は「相見る」意であり、「逢見る」(男女が情を交わす)ではありません。

 「限あるよ」とは、左遷された善祐法師にとって、(左遷後の)「残りの人生」(上記bの意)、(左遷で伊豆国にいる間だけの)「一時の状況」(上記c)、あるいは(人としての生をせっかく受けたのに悟りをひらけず)「残りわずかになってしまったわが人生」(上記b)の意ともとれます。

 五句にある「なし」とは、動詞「為す」の連用形と理解します。

 左遷を受け、上京は悲観的であり、僧としての活動も厳しいものがあるでしょう。

⑨ なぜ、縁のない善祐法師を気遣った歌を伊勢が詠んだとして勅撰集に記載したのでしょうか。

 配流を受けた恋の当事者である善祐法師は、僧職ですから恋を貫くには還俗するか僧職から追放を受けねばなりません。配流を受け入れたのはその意思がないことを意味します。

 女を見離して男が都を離れるというのであれば、都にいる同性の人々からみれば、都に残る女に同情するのではないでしょうか。とすると二条后に編纂者は配慮しようとしているのかもしれません。二条后の歌は、『古今和歌集』に1首あります(1-1-4歌)。『後撰和歌集』は二条后没後復位されて以後の最初の勅撰集です。

⑩ 二条后を念頭におくと、1-2-1319歌は、つぎように理解できます。詞書は同じです。

「このような別れでは、これから何時対面できるだろうかと思っておられるでしょう。余生は限りのある人生となりますがそれもないのも同然となってしまって。」

 五句にある「なし」は「無し」と理解しました。

 このような理解をすると、1-2-1319歌も、よく知っている人を念頭の歌となります。

⑪ そもそも巻第十九は、「離別羇旅」(1-2-1304歌~1-2-1349歌)と「羇旅歌」(1-2-1350歌~1-2-1367歌)に大別されています。

「離別羇旅」の歌は、巻頭歌1-2-1304歌より1-2-1319歌までの16首が京より地方へ行くことになった人にまつわる「離別羇旅」の歌であり、1-2-1320歌と1-2-1321歌は、国名や詠むきっかけも不明にしている「題しらず」という詞書となり、これに続く一組の歌(1-2-1322歌と1-2-1323歌)は、内裏から住まいを内裏の外に移す人にまつわる歌です。そして、1-2-1324歌以下は、また京より地方へ行くことになった人にまつわる「離別羇旅」の歌です。

ただ、1-2-1319歌だけは、地方へ行く理由が例外で「配流」となっています。巻頭歌の陸奥国から畿内それも内裏へ次第に近づく順序にほぼ配列されてこの歌となります。

このような配列をみると、京を離れて地方にゆく人にまつわる歌群に挟まれて、1-2-1319歌から1-2-1323歌は、「離別羇旅」のうち「離別」を強調する歌のグループである、と理解できます。端的に言えば内裏を去ることになった人にまつわる歌とくくれる歌のグループと理解してよい。具体には譲位されることとなった宇多天皇と弘徽殿に居られた(皇后位を受けたばかりの)温子を『後撰和歌集』編纂者は想定しているようです。このグループの歌は、結局すべて『伊勢集』と共通の元資料による歌のみです。

 このような配列とした『後撰和歌集』編纂者の意図は、今のところわかりません。

 

⑫ 元資料に近い『伊勢集』での歌を検討したところ、伊勢は、3-15-217歌のように直接には知らない善祐法師に関して歌を詠んでいませんでした。「廃后・配流伊豆講師」という事件に、内裏の女房は積極的に発言していません。

後撰和歌集』の編纂者も善祐法師を同情的にみる必要性を感じていない、と推測できます。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

 次回は、『拾遺和歌集』の「善祐法師云々」と詞書にある1-3-925歌を検討したい、と思います。

  (2020/3/2   上村 朋)

付記1. 『後撰和歌集』と『伊勢集』の関係について

  • 本文にも記したように、『後撰集』の1-2-1319歌は、『伊勢集』の3-15-217歌に、1-2-1320歌と1-2-1321歌は、3-1-286歌と3-15-287歌に相当する。後者の2首は、『伊勢集』では「人のはらからなくなりたる、とぶらふとて」を詞書とする歌(3-15-285歌)の返しの歌(3-15-286歌と3-15-287歌)である。3-15-285歌も『後撰集』の巻第二十哀傷に「題しらず 伊勢」として記載がある。
  • これらの歌がある『伊勢集』の雑纂部分(3-15-87歌~3-15-378歌)を、関根慶子氏は「伊勢集の原資料段階の姿をほぼそのままとどめている部分ではあるまいか」と指摘し、『伊勢集』の祖本は「『後撰和歌集』と同時期かあるいはそれほど下らぬ時期にまとめられていてかつ『後撰和歌集』とは関係ない」、とも指摘している(『中古私家集の研究』風間書房 1967)。
  • なお、1-2-1322歌と1-2-1323歌も、一連の歌として『伊勢集』にあり、大和物語などに取り込まれた逸話の歌である。大和物語の編纂者は『後撰集』とは別の理解を示している。

 (付記終わり  2020/3/2   上村 朋)