わかたんかこれ 猿丸集と伊勢集の詞書

前回(2020/2/17)「わかたんかこれ 猿丸集と拾遺集の詞書」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と伊勢集の詞書」と題して、記します。(上村 朋)

1.~12.承前 

(『猿丸集』という書名を検討し、「猿丸」という古の歌人名により、類似歌が新解釈であることを示唆している歌集か、と推測した。次に、『猿丸集』の編纂方針を詞書から検討するため、恋の歌が多い『猿丸集』に鑑み三代集の恋の部の詞書を検討した。『古今和歌集』巻第十五恋五では、題しらずという詞書を中立の詞書とみて推測した歌群は歌本文を含めて推測した歌群と歌群順に重なるところがあった。そして『後撰和歌集』巻第十三恋四と巻第十四恋五では、詞書のみからの検討と歌本文を含めての検討が重なったのは、歌群が恋の各段階を通じた挿話方式である、ということだけであり、題しらずという詞書が断然多い『拾遺和歌集』巻第十五恋五では、詞書だけからは歌群のいくつかを指摘できるだけであった。但し『拾遺和歌集』巻第十五恋五の巻頭歌の詞書と歌本文との突合が終わっていないところである。また三代集の恋の部の詞書の書き方と比較すると、『猿丸集』の詞書は、「題しらず」と「返し」が無いことがわかった。)

13.巻第十五恋五の巻頭歌の不明な点

① 巻第十五恋五の巻頭歌を、『新編国歌大観』より引用します(歌は以下同じ)。

  1-3-925歌  善祐法師ながされ侍りける時、母のいひつかはしける

      なく涙世はみな海となりななんおなじなぎさに流れよるべく

小町谷照彦氏は次のように現代語訳を示しています(『新日本古典文学大系7 拾遺和歌集』) 詞書の訳はありません。

「悲しみ泣く私の涙で、この世の中は皆海となってしまってほしいものだ、我が子と同じ渚に流れ寄るように。」

何を同じ渚に流れ寄せたいのかの説明は、ありませんでした。

② この詞書のみを、前回(2020/2/24付けブログ)検討した結果は、次のようなものでした。

第一 この詞書にある事実は、寛平8年(896)当時54歳前後である清和天皇の后(二条后)と東光寺善祐法師の密通が露見したとして、二条后は「廃后」、善祐法師は「配流伊豆講師」となったこと(『扶桑略記』寛平8年(896)9月22日条)

第二 「廃后」も「配流伊豆講師」も左遷。「配流伊豆講師」とは伊豆国国分寺の役職である「講師」に(都の寺に所属し后と謁見ができる僧職から)転出させたということ。

第三 この詞書は、配流という理由で京を離れるという特殊性に注意を促している記述。

第四 この歌は、作者である善祐法師の母が、配流あるいは伊豆の国へ出発の日が決まった子を思う心情を詠う歌であり、詞書に「いひつかはす」とあるので、善祐法師本人に伝えたいことを込めた歌。その心情は、僧の身分をはく奪されなかった子に

「密通までした高貴なお方への思いをしっかり絶ったと誓約したことを忘れずに」 

と諭したかったのか。

第五 この巻頭の歌は、恋が終わっていることを(『拾遺和歌集集』をみる人に)示唆する歌としてここに歌集編纂者は置いたか。

第六 この詞書のある1-3-925歌は巻頭歌でかつ最初の歌群の冒頭歌であり、詞書のみから推測すれば、1-3-940歌までで一つの歌群を成す。

第七 作者は、恋の当事者ではないので、恋の歌という整理が可能かどうか歌本文に当たらない限り疑問が残る。

③ 小池博明氏は、歌本文をも検討して、この歌1-3-925歌について、つぎのように論じています(『拾遺集の構成』)

「これは、母が子にやった歌である。本来なら、別部に入るべき歌である。・・・けれども、善祐法師の配流が、皇太后藤原高子との密通露顕によるものであり、それを恋四と関連づければ、恋五の巻頭に当該歌が配されたことも、首肯されるであろう。また歌の贈り主ともらい手(母と善祐法師)は、互いに思い合っているのに、国家権力の介入という外的事由により両者の仲が裂かれるのである。したがって、恋の段階に置き換えれば、相思の仲であり、逢瀬の段階である。」

氏は、2点から「恋の歌」とみなせる、と言っていると理解できます。恋四の最後の歌(1-3-924歌)に禁忌を犯しても恋を貫こうとする決意が詠まれており、それを受けて同じ題材の歌であることと、母が詠う別れの歌だが「恋の段階に置き換えれば」妥当な恋の歌となり得ること、の2点です。

④ そのうえで氏は、歌本文も考察対象として恋五は、4つの歌群がありその最初925~962(38首)が「逢瀬の段階(冒頭歌は相思の仲だが逢えない歌)から離別の段階に至る」とし、その恋の段階別の歌群として「1-3-925歌のほか題しらずの歌である1-3-930歌および1-3-948歌が冒頭歌となった逢瀬・疎遠・離別の各段階別の小歌群」(計3つ)を認めています。

⑤ 「廃后・配流伊豆講師」という事件に関連がある伊勢の歌がありますので、併せて検討し、上記②の第三以下を確認したい、と思います。

 

14.詞書にある「廃后・配流伊豆講師」事件に関連した伊勢の歌

① 伊勢の歌は、『後撰和歌集』の巻第十九離別羇旅と、『伊勢集』とに、あります。

1-2-1319歌  善祐法師の伊豆のくににながされ侍りけるに   伊勢 

   別れてはいつあひみんと思ふらん限あるよの命ともなし

片桐洋一氏は、次のような現代語訳を示しています(『新日本古典文学大系6 後撰和歌集』) 詞書の訳はありません。

 「別れてしまうと、今度はいつ逢えるだろうと思っていらっしゃるのでしょうか。限りあるこの世のすべてを生きる命というわけでもありませんのに。」

 勅撰集にある歌なので元資料があるのですが、不明です。『後撰和歌集』は『伊勢集』を元資料としていないそうです(付記1.参照)。

   3-15-217歌 いづのかうじにてながされける時に、みな人うたよみけるに

       わかれてはいつあはむとかおもふらむかぎりあるよのいのちともなし

 関根慶子氏と山下道代氏は、次のような現代語訳を示しています(『私家集全釈叢書16 伊勢集全釈』(風間書房 1996))。

 「ある人が伊豆の(国分寺の)講師として流されて行ったとき、人々がそれについて歌を詠んだ折に

    流されてゆく人は、今別れたらいつまた逢えることかと思っているだろうなあ。いつまでと限りのわかっているこの世の命でもないのだから。」 (()内は私が補った)

 関根氏らは、「みな人」とは「温子に仕えていた女房たちか伊勢身辺の宮廷関係者か」及び、「限りある」は「いのち」にかかり、「いつ」に「伊豆」が詠み隠されている、と指摘し、「流されてゆく人の心情を(宮廷女房が)思いやり同情を表している」と評しています。また、この二つの歌は、詞書が一部異り、歌も二句の文字が4字違うのですが、同趣旨を詠う歌と関根氏らは理解されているようです。

② 基本的に勅撰集である『後撰和歌集』の詞書は、その編纂方針に従った記述であり、必ずしも元資料のままではありません。

『伊勢集』にあるこの歌の前後は、元資料のままの可能性が強いことを諸氏が指摘しています(例えば付記1.参照)ので、『伊勢集』の詞書と歌によって、関根氏らがいう原資料(私のいう元資料)での作詠事情を推測します。

③ 詞書を最初に検討します。『伊勢集』の詞書の「・・・ながされける時に、(みな人うたよみけるに)」の「時」とは、「(何か事があり、または、あった)おり。また時期」(『明解古語辞典』)を指す語句でしょう。

 「に」は、体言に付いており、格助詞であり、空間的な場を示したり、時間的な場を示したり、心理的場を示したり、する意があります(同上)。

 「一方が廃后・もう一方が配流伊豆講師」という事件は慶賀といえることではなく、「みな人うたよみける」という「女房達がみな歌を歌う」という状況にストレートに結び付いている事柄とは思えません。この事件を知り、「配流」を題材にして、内裏に勤務する女房たちが、歌を披露しあうでしょうか。高貴な方の密通という事件の当事者に同情的な立場(それは天皇のこの事件に対する公式の立場に反する立場です)の歌をあえて披露しないであろう、と思います。

この事件後、内裏に居住する温子や女房たちに、なんらかの綱紀粛正のお達しがあったのではないか。そのような想像をさせるのがこの事件です。

「みな人うたよみける(に)」とは全員参加が建前の会合があって「公の場ではなく題詠をした機会」の意であり、動詞の連体形に付いている「に」は接続助詞であり、その次に「よめるうた」というような記述が省かれた詞書とみることができます。

その題は、普通の題である「別恋」とか「絶恋」とか「遠恋」とか「国名」とかあるいはそれらのいくつかが出題されたのはないでしょうか。

「廃后・配流伊豆講師」という事件で善祐法師が実際に都を離れたのは、処分決定後の寛平8年か翌9年(896か897)になる、と思います。寛平5年温子のもとに出仕し延喜7年温子が崩じるまで仕えた伊勢は、寛平7年宇多天皇の寵を受け皇子を生んでおり、この事件はその後に起きました。なお、宇多天皇は寛平9年7月退位されています。

 

④ 『伊勢集』のこの歌の前後の各三つの詞書をみてみます。()内は私が補った語句です。

 3-15-214歌  かひ(甲斐)へゆく人に

 3-15-215歌  から(唐)にいきて心かはりける人に

 3-15-216歌  物へ行く人にかづらをやるとて

 3-15-217歌 (再掲) いづのかうじにてながされける時に、みな人うたよみけるに

 3-15-218歌  おもふことありけるに (3-1-219歌にもかかる)

 3-15-220歌  ぶく(服)ぬぎてかへりし (3-1-221歌にもかかる)

 3-15-222歌  前裁うゑさせたまひてすなご(砂子)ひかせけるに、いへ人にもあらぬ人のすなごおこせたれば  (「砂子」とはここでは「砂」のこと)

 3-15-217歌を除く詞書は、歌を贈る相手とか、歌を歌うきっかけの自らの行動・直視した事柄を端的に述べており、これらの書き方に3-15-217歌も準じていれば、歌を詠むきっかけは「みな人うたよみける」です。皆が詠んだ時点について「いづのかうじにてながされける時」という時期について端的に説明を加えている、と理解できます。歌の題についての記述ではありませんし、関根氏らも指摘するように「配流伊豆講師」となった善祐法師の送別の歌を示唆するものでもありません。

 「伊豆」を読み込んでいることを示唆するための詞書であるならば、この時の題詠は「国名」であったのかもしれません。

⑤ だから、伊勢の歌の初句の「わかれては」とは、配流というような事件の渦中の男女を念頭に置いているのではなく、広く、男女の仲が物理的に遠のく状況を指して(詠って)いる、と理解してよい。

なお、二条后は、没後の天慶6年(943年)に朱雀天皇の詔によって(詞を濁して)復位されており伊勢は938年頃没しています。この歌が記載されている『後撰和歌集』は伊勢や二条后没後の天暦7年(953)に完成したと推測されています。

⑥ 次に、『後撰和歌集』巻第十九離別羇旅にある1-2-1319歌を検討します。

 『後撰和歌集』のこの前後の歌の詞書をみてみます。

1-2-1315歌  このたびのいでたちなん物うくおぼゆるといひければ

 1-2-1316歌  あひしりて侍りける女の、人のくににまかりけるに、つかはしける

 1-2-1317歌  返し

 1-2-1318歌  三月ばかり、こしのくにへまかりける人に、さけたうびけるついでに

 1-2-1319歌  (再掲)  善祐法師の伊豆のくににながされ侍りけるに

 1-2-1320歌  題しらず

1-2-1321歌  返し

1-2-1322歌  亭子のみかどおりゐたまうける秋、弘徽殿のかべにかきつけける

1-2-1323歌  みかど御覧じて御返し

1-2-1324歌  みちのくへまかりける人に あふぎ(扇)てうじて、うたゑにかかせたまふ

1-2-1325歌  宗于(むねゆき)朝臣のむすめ、みちのくへくだりけるに

 

1-3-1318までの詞書からは、よく知る相手に贈る歌(とその返し)ということがわかります。

1-3-1319歌は、特定の人物名を上げていますが、作者の伊勢が地方へ行く者(密通露顕したとされる善祐法師とどのような関係があったかわかりません。伊勢がよく知っている(歌の贈答をする)相手とは思えません。ここまでの歌と同様に「ながされ侍りけるに」(「に」は接続助詞)の後に「つかはしける」があるかの印象が最初にあります。しかし、元資料の詞書を略した詞書として理解すると、「に」の後には「よめる」を予想でき、「に」は時点を指す意となります。

「題しらず」という中立的な詞書(1-3-1320歌と1-3-1321歌)ですが、歌本文を元資料でみると、歌を贈ったのはよく知っている相手です。(付記1.参照)

次にある1-2-1322歌の作者は、伊勢です。天皇)にみていただきたい歌なので婉曲な表現で歌をおくる相手を記しています。この1-2-1322歌は、宇多天皇の突然の譲位後のことと諸氏が指摘しています。宇多天皇の女御である温子は弘徽殿を居室としており、温子に仕えている作者の伊勢の部屋もそこにあります。天皇譲位により温子も当然退去ということになったのであり、その時、伊勢が詠って壁に張り出したという歌です。

元資料に近いとされる『伊勢集』にあたり、返歌の1-2-1323歌とあわせて検討すると、温子の代作とも、このように温子に申し上げました、と天皇に言上するために伊勢は壁に張り出したととれる歌です。それは天皇譲位に対する温子の気持ちでもあったのではないでしょうか。直ちに退去ということの感慨を詠っています。

伊勢の詠んだ歌とわかった宇多天皇の詠まれた返歌は、伊勢たち女房に対していうというスタイルで温子を諭しているのではないでしょうか。私と違い内裏での女房という仕事はこれからもある(温子の務めもこれからもある)、と言った歌と理解できます。元資料のこのような理解から、1-2-1322歌は内裏を退出する伊勢(地方へ行く側)が詠いかけていることになりますが、知っている相手に歌をおくる(見ていただきたいとしている)のは1-2-1321歌までと同じです。相手が例外なのは1-3-1319歌のみとなります。

元資料において、代作かと推測した理由は 2点あります。

それなりの女房は主人を替えてまで内裏の勤務をしていないようなので、返歌である1-2-1323歌が伊勢にのみ返事をしている歌ということの可能性は低いこと。現に、伊勢は、宇多天皇が譲位後温子に、亡くなるまで仕えています。

伊勢が女房達もみることができるようなところに張り出すには宇多天皇に直訴しているに近く、温子に迷惑のかからないという判断が伊勢にあることであり、それは温子の承諾のもとの行動と推測できることです。

⑦ さて、この二つの歌本文の検討を、次に行います。

元資料に近い3-15-217歌の詞書と歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「伊豆国国分寺の講師へと、どなたかが都落ちされた頃、(弘徽殿で)皆が歌を詠みあうという機会があり、(詠んだ歌)

別れてしまうと、これからいつ逢うことができようか、と思っているでしょうね、(このように)一緒にいられる夜は(いつも)短いし、この世にこれから命を保っているのも短いのだから。」

 これは疎遠となったころの恋の歌です。題詠の題を省いた記録と思われます。初句にある動詞「わかる」は、人に関しては生き別れにも死に別れにもいいます(『明解古語辞典』)。

 四句「限りあるよ」の「よ」が「世」であるならば、その意は、「a仏教思想での現世・この世 b人の一生 c状態 d男女の仲」などがあります。ここでの「よ」は、「夜」と「この世(仏教にいう現世)」をかけている、とみました。

五句にある「なし」は「無し」、と思います。

⑧ 次に、1-2-1319歌の詞書と歌本文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「善祐法師が伊豆の国国分寺に講師となって下られるということがあった際に(詠んだ歌)  伊勢 

    このまま別れてしまったならば、これからいつ対面できるかと、善祐法師様は思っておられるでしょう。限りがある寿命を(これからは)地方で過ごすということとなり」

 『後撰和歌集』編纂者は、意図的にここに配列しています。地方へ行く、ということで「離別の歌」と理解できなければここに配列していない、と思います。

 二句にある「あひみる」は「相見る」意であり、「逢見る」(男女が情を交わす)ではありません。

 「限あるよ」とは、左遷された善祐法師にとって、(左遷後の)「残りの人生」(上記bの意)、(左遷で伊豆国にいる間だけの)「一時の状況」(上記c)、あるいは(人としての生をせっかく受けたのに悟りをひらけず)「残りわずかになってしまったわが人生」(上記b)の意ともとれます。

 五句にある「なし」とは、動詞「為す」の連用形と理解します。

 左遷を受け、上京は悲観的であり、僧としての活動も厳しいものがあるでしょう。

⑨ なぜ、縁のない善祐法師を気遣った歌を伊勢が詠んだとして勅撰集に記載したのでしょうか。

 配流を受けた恋の当事者である善祐法師は、僧職ですから恋を貫くには還俗するか僧職から追放を受けねばなりません。配流を受け入れたのはその意思がないことを意味します。

 女を見離して男が都を離れるというのであれば、都にいる同性の人々からみれば、都に残る女に同情するのではないでしょうか。とすると二条后に編纂者は配慮しようとしているのかもしれません。二条后の歌は、『古今和歌集』に1首あります(1-1-4歌)。『後撰和歌集』は二条后没後復位されて以後の最初の勅撰集です。

⑩ 二条后を念頭におくと、1-2-1319歌は、つぎように理解できます。詞書は同じです。

「このような別れでは、これから何時対面できるだろうかと思っておられるでしょう。余生は限りのある人生となりますがそれもないのも同然となってしまって。」

 五句にある「なし」は「無し」と理解しました。

 このような理解をすると、1-2-1319歌も、よく知っている人を念頭の歌となります。

⑪ そもそも巻第十九は、「離別羇旅」(1-2-1304歌~1-2-1349歌)と「羇旅歌」(1-2-1350歌~1-2-1367歌)に大別されています。

「離別羇旅」の歌は、巻頭歌1-2-1304歌より1-2-1319歌までの16首が京より地方へ行くことになった人にまつわる「離別羇旅」の歌であり、1-2-1320歌と1-2-1321歌は、国名や詠むきっかけも不明にしている「題しらず」という詞書となり、これに続く一組の歌(1-2-1322歌と1-2-1323歌)は、内裏から住まいを内裏の外に移す人にまつわる歌です。そして、1-2-1324歌以下は、また京より地方へ行くことになった人にまつわる「離別羇旅」の歌です。

ただ、1-2-1319歌だけは、地方へ行く理由が例外で「配流」となっています。巻頭歌の陸奥国から畿内それも内裏へ次第に近づく順序にほぼ配列されてこの歌となります。

このような配列をみると、京を離れて地方にゆく人にまつわる歌群に挟まれて、1-2-1319歌から1-2-1323歌は、「離別羇旅」のうち「離別」を強調する歌のグループである、と理解できます。端的に言えば内裏を去ることになった人にまつわる歌とくくれる歌のグループと理解してよい。具体には譲位されることとなった宇多天皇と弘徽殿に居られた(皇后位を受けたばかりの)温子を『後撰和歌集』編纂者は想定しているようです。このグループの歌は、結局すべて『伊勢集』と共通の元資料による歌のみです。

 このような配列とした『後撰和歌集』編纂者の意図は、今のところわかりません。

 

⑫ 元資料に近い『伊勢集』での歌を検討したところ、伊勢は、3-15-217歌のように直接には知らない善祐法師に関して歌を詠んでいませんでした。「廃后・配流伊豆講師」という事件に、内裏の女房は積極的に発言していません。

後撰和歌集』の編纂者も善祐法師を同情的にみる必要性を感じていない、と推測できます。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

 次回は、『拾遺和歌集』の「善祐法師云々」と詞書にある1-3-925歌を検討したい、と思います。

  (2020/3/2   上村 朋)

付記1. 『後撰和歌集』と『伊勢集』の関係について

  • 本文にも記したように、『後撰集』の1-2-1319歌は、『伊勢集』の3-15-217歌に、1-2-1320歌と1-2-1321歌は、3-1-286歌と3-15-287歌に相当する。後者の2首は、『伊勢集』では「人のはらからなくなりたる、とぶらふとて」を詞書とする歌(3-15-285歌)の返しの歌(3-15-286歌と3-15-287歌)である。3-15-285歌も『後撰集』の巻第二十哀傷に「題しらず 伊勢」として記載がある。
  • これらの歌がある『伊勢集』の雑纂部分(3-15-87歌~3-15-378歌)を、関根慶子氏は「伊勢集の原資料段階の姿をほぼそのままとどめている部分ではあるまいか」と指摘し、『伊勢集』の祖本は「『後撰和歌集』と同時期かあるいはそれほど下らぬ時期にまとめられていてかつ『後撰和歌集』とは関係ない」、とも指摘している(『中古私家集の研究』風間書房 1967)。
  • なお、1-2-1322歌と1-2-1323歌も、一連の歌として『伊勢集』にあり、大和物語などに取り込まれた逸話の歌である。大和物語の編纂者は『後撰集』とは別の理解を示している。

 (付記終わり  2020/3/2   上村 朋)