前回(2020/7/20)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第4歌など」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第6歌など」と題して、記します。(上村 朋)
1.~3. 承前
(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-5歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。また、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。
第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること
第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること
第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと
第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと )
4.再考第二の歌群 第6歌の詞書
① 今回は、「第二の歌群 逢わない相手を怨む歌群」(3-4-4歌~3-4-9歌)の2回目です。3-4-6歌と3-4-7歌を、『新編国歌大観』から引用します。この2首は同じ詞書のもとにおける歌です。
3-4-6歌 なたちける女のもとに
しながどりゐな山ゆすりゆくみづのなのみよにいりてこひわたるかな
3-4-7歌 (3-4-6歌に同じ)
しながどりゐなのふじはらあをやまにならむときにをいろはかはらん
② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/3/12付け及び2018/3/19付け参照)
3-4-6歌詞書:「噂がたった(作者が通っている)女のところへ(送った歌)」
3-4-6歌歌本文:(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」(ともに行動しよう)という声を声高に、それも猪名山に谷音ひびかせて下る川のようにわめく悪鬼(儺)だけが、ひっきりなしに夜になって貴方がほしいと乞うているのだねえ(貴方も迷惑しているでしょうが、がまんしてください)。」
3-4-7歌詞書: (3-4-6歌に同じ)
3-4-7歌歌本文:「しながとりが「率な」と誘う猪名の柴原(ふしはら)とちがい、富士の裾野の原が、新しい山にと変化するとなれば、その山の頂(噴火口)は色が鮮やかになるでしょうよ(私たちはそのようなことの起こらない「率な」に通じる猪名の柴原(ふしはら)にいるのだから、そのようなことになりません。噂にまどわされないようにしてください。)」
③ 詞書から検討します。「な」とは噂を意味する「名」として現代語訳したところです。しかしながら、この詞書は、どのような内容の「名」であるか(「な」が「噂」の意であれば、女が誰に関して噂されているのか)とか作者と女の関係については直接触れていません。2首の歌本文を検討後、詞書は再確認します。
④ 名詞で「な」は同音意義の語句のひとつです『例解古語辞典』より)。
「名」:(a)名称・名前。(b)名声、評判、聞こえ、うわさ。
「肴」:魚、鳥獣の肉など、副食の総称。
「菜」:葉が食用となる草。
「魚」:うお。
「儺」:追儺のときに追い払う悪鬼 (儺やらい・追儺(ついな)という邪気払いの儀式において追い払う悪鬼であり、宮中での年中行事が民間に広がり定着する過程で、矛と盾とを持ち大声で鬼を追い払っていた側が鬼と見なされるようになっていった。)
このほか代名詞に「汝」があります。
⑤ 動詞の「たつ」も同音意義の語句のひとつですが、「女」を修飾していることから「なたつ」を「噂がたつ・評判がひろがる」意としたのが上記の現代語訳です。
5.再考第二の歌群 第6歌の歌本文
① 次に 、3-4-6歌の歌本文を検討します。初句「しながどり」は、三代集では1首(1-3-586歌)しか用例がありません。『萬葉集』に5首あります。「ゐな」とか「あは」にかかる枕詞と言われています。「しながどり」の萬葉集での実態は、「明らかでないが鳰(にを)であろうと言はれる」と土屋文明氏は指摘しています。鳰(にを)は「かいつぶり・かいつむり」のことで湖沼・沼・河川に棲む水鳥で留鳥であり、夏、水草を集めて「鳰の浮巣」と呼ばれる巣を作るほか夏になるとくびの部分が栗色になります。
②「ゐな」とは地名の「猪名」であるとともに、「動詞「率る」の未然形+終助詞「な」」でもあることばであると、萬葉集の歌人はとらえていたのではないか。「率な」とは、「引き連れてゆこう、行動をともにしよう(共寝をしようよ)」と誘っている意となります。「ゐぬ(率寝)」という連語の動詞もあります。「しながどり」は鳰の生態から「ゐな」にかかる枕詞と言われています。
③ 歌本文にも同音異義の語句があります。例えば、
二句にある「ゐな」:上記5.②参照
四句にある「な」:上記4.④参照
五句にある「こひわたる」:後述。上記の現代語訳を得たときは検討が不十分でした。
④ 短歌で用いられている語句は、枕詞であっても序詞であっても、その文字を生かして現代語にする方針です(付記1.参照)。
この歌の上句 「しながどりゐな山ゆすりゆくみづの」(なのみ・・・)は、結局、
「(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」に通じる猪名の山々の間を水音をひびかせ下る川のように騒ぎ立てる」(儺という鬼)
となり、四句の最初にある「な」(名詞)を修飾することになります。
なお、「な」を「名」(うわさ・評判)とした理解が、類似歌(2-1-2717歌の一伝)であり、この違いにより歌の意が異なることになります。
⑤ 下句 「なのみよにいりこひわたるかな」の「(な)のみ」を、漢字かな交じりで表すと、
「儺のみ夜に入り乞ひ渡るかな」
として現代語訳しています。
⑥ 通常追い払うべき悪鬼(儺)がわめいて付きまとうのは迷惑なことです。だから、この歌本文の上記の現代語訳(試案)は、作者が、良く知っている相手の噂がたったことに同情しているあるいは励まそうとしている歌である、と理解したところです。
⑦ しかしながら、上記4.③に指摘したように詞書は「名たちける女」とあるのみなので、「なたちける女」と作者の関係には直接一言も触れていません。
この歌を「恋の歌」として理解する場合、「女」を、作者と男女の仲となっていると決めつけなくとも、男女の仲になり損ねた(作者には残念な)女性であっても「なたちける女」という表現が可能です。「な」の内容がこの詞書では全然わかりませんので、予想を勝手にさせる現代語訳がふさわしい。ということになります。『猿丸集』の配列等から、内容がしぼられても、その意をくみとれるようなものがふさわしい、と思います。
⑧ そのため、歌本文の五句「こひわたるかな」も、恋の歌として、動詞「恋渡る」(たえず恋しく思い続ける)+終助詞「かな」に改めることとし、詠嘆の助詞「かな」に拘り何を根拠に詠嘆的になっているかを明確にしないよう気を付けて、あらためて現代語訳を示すと、次のとおり。
「(枕詞のしながとりにちなむ)「率な」(ともに行動しよう)という声を声高に、それも猪名山に谷音ひびかせて下る川のようにわめく悪鬼(儺)だけが、ひっきりなしに夜になってもたえず恋しく思い続けているなあ。 (6歌本文の現代語訳(修正試案))⑨ そして、この修正した現代語訳は、恋にまつわる歌であり、類似歌(2-1-2717歌の一伝)の女に逢えたと、吹聴している歌(あるいは事実はともかく、そう宣言している歌)と異なっており、「恋の歌」の要件の第一と第二と第四を満足しています。第三は後程確認します。
6.再考第二の歌群 第7歌
① 現代語訳(試案)は、上記4.②に示しました。この訳は、二句にある「ふじはら」を類似歌との比較を経て「富士(山の裾野)の原野」と理解し、三句からの「あをやまにならむ(とき)を、噴火した時の意であり、貞観大噴火(864~868)を前提に詠まれた歌と、推定したものです。
② しかしながら、 同音異義の語句が、「(ならむとき)にを」にあることを見逃していました。それにあわせて富士山が示唆するものを再検討したい、と思います。
歌本文を再掲します。
3-4-7歌 しながどりゐなのふじはらあをやまにならむときにをいろはかはらん
③ この歌(3-4-7歌)は、五句にある「心はかはらん」の条件を、景に借りて提示しているとみることができます。この歌の文の構成は、
文A :しながどり(と言う枕詞を冠する)ゐなのふじはら
文B : (それが)あをやまにならむ
文C : (その)ときにを (あるいは、(その)ときに)
文D :心はかはらん (あるいは を 心はかはらん)
となります。
文Aから文Cの条件のもとに文Dがあります。
また、誰の心かといえば、作中主体(この歌では作者自身)の心か相手の心です。それは四句までの景が示唆している、と推測します。
④ 文Aから、順に再検討します。
初句にある「しながどり」と二句にある「ゐな」に関しては3-4-6歌と同じ意です。
二句は、類似歌と一文字異なり「ゐなのふじはら」とあり、作者が工夫している語句と想定できます。この3-4-7歌の類似歌は、2首あり、『拾遺和歌集』巻十神楽歌にある類似歌1-3-586歌では「ゐなのふし原」、「神楽歌 大前張(おおさいばり)」の 「伊奈野(41~43)」と題する歌のひとつである類似歌は、万葉仮名で、「井奈乃不志波良」です。
⑤ 1-3-586歌の諸氏の現代語訳では「猪名の柴原」であり、「神楽歌」では臼田甚五郎氏が「猪名の柴(しば)の生えている野原」と訳しています。(ブログ2018/3/19付けブログ参照)。どちらの類似歌も「猪名のふしはら」に「しぎ」が飛び回ると詠っています。「しぎ」は、渡り鳥であり、シギ科の鳥の総称を現在では鴫(しぎ)としています。類似歌の「しぎ」が、現在いうところの鴫であるとすると、くちばしと脚が長い、水に潜ることができない渡り鳥です。春と秋日本に飛来します。私は1-3-586歌の現代語訳を試み、「しなが鳥が雌雄並んで遊ぶ場所、その猪名川に広がる原野」と訳しました(ブログ2018/3/19付けブログ参照)。
⑥ 「ゐなのふし原」の「ゐな」が地名であるならば、猪名川下流の原野が想定でき、シギの飛来がよくあるところでもあると容易に推測できます。この歌(3-4-7歌)では、「ゐなのふじはら」と詠っているので、類似歌との比較で、「ゐな」と誘うものの猪名川下流の原野ではない別の原野を指している、と理解できます。「ゐな」と誘う場所を誤っていた、という言外の意があるのでしょうか。
⑦ それはともかくも、「ふじと形容するはら」を探すと「形容詞+原」あるいは「地名などの名詞+原」では、「富士(山・川)にある原」が浮かびます。「ふじのね」とか「ふじのやま」という語句が句頭にある歌が、『萬葉集』や『古今和歌集』にありますが、「ふじはら」はありません。それでも、「富士原」という語句は、「富士の裾野の原野」という理解は可能です。このほか、漢語になりますが、負恃(たのみとする。たよる)があり、「たのみとする原野(しながどりが棲める原野か)」があります。
⑧ また、富士山は三代集成立のころは活火山と認識されており(付記2.参照)、燃える山であるので噴火のたびに山容が変わる、つまり新しくなる山と言えます。『古今和歌集』において富士山は「燃える、思いの火」と詠われています。客観的には、燃える山であるので、度々の噴火で樹木も生えない山である(比叡山やたつたの山とは違う姿)とも言えます。
また、三句にある「あをやま」の「あを」は接頭語であり、幅広い青色を指すほか、未熟な、の意を添える語でもあります。四句「ならむときにを」は、同音意義の語句に関して検討が不足していました。
⑨ 上記の訳では、「に」を格助詞「に」とし「を」を、五句にある動詞の主語ではないかとみて、名詞の「を」の候補から「峰」を取り上げたところです。この場合「男」も候補の一つになっていました。
このほかに、「に」を格助詞「に」とし「を」を間投詞とみることができます(詠嘆などの気持ちの意を添える)。詩歌の一句ですので、四句までで一文がまとまり、五句の七文字だけで別の文の前に「を」は位置しており、詩歌の文としてこの理解のほうが素直ではないか、と今は思います(例歌は付記3.参照)。
また、「とき」は、「時」ですが、その意は「(何か事があり、またはあった)おり・時期」とか「その場面・その場合」の意があります(『例解古語辞典』)。
⑩ なお、初句の「しながどり」を「にを」と言い換えて用いるのは、「しながどり」が枕詞という理解であれば、用いない用語であろうと思います。
五句にある「いろ」も (a)色彩、美しさ (b)豊かな心・情趣、(c)恋愛・情事、(d) 顔色・たいど、と同音意義の語句です。
⑪ 次に、文A~文Cまで(四句まで)と文D(五句)の関係を確認します。
五句は、ある条件下で、「心」が変わる、と作者は作中主体に意思表示させています。恋の歌として理解しようとすると、四句までが、その条件の例であり、「ふじはら」が「あをやまになる」という景がそれにあたると作中主体は言っています。その景は相手の行動を指しているはずですので、「ふじはら」は相手が作中主体にみせていた今までの態度を、「あをやま」は、その態度を豹変した後を指して、詠んでいる、と思われます。
二句を類似歌と同じ「ゐなのふしはら」としても「あをやま」になるならば大変化です。それを火山活動が盛んな「富士の裾野の原」を意味させ得る「ふじはら」としたのは、「富士」に込めた作者の気持ちがあるのだろう、と思います。
歌を引用している『新編国歌大観』の底本は、書写本なので「ふしはら」を「ふじはら」と誤ったのかとちょっと疑ってしまったところです。
⑫ このように「ふじはら」を理解し、上記の文A~文Dの現代語訳を試みると、つぎのとおり。
文A:しながとりが「率な」と誘っていた(猪名のふしはらならぬ)富士の裾野の原、
文B:その原は燃える山にあるが、それが青々とした山になるだろう、
文C:そうなったと聞いたとき、ああ、(「とき」の理解を「何か事があったおり」とする)
あるいは、(そのようなことに)となったという
文D:(私の)こころは、変わるだろう。
あるいは、 (そうであれば、)心は替わるだろう。
初句から四句まで縷々事情を婉曲に言っていますので、五句にある「かはらん」は、そうなるだろうという確実な予測であり、自分から結論を出したのではなくそのように追い込まれた、という雰囲気のある歌です。
⑬ 歌本文全部について、改めて現代語訳を試みると、次のとおり。「を」は間投詞とみます。
「しながとりが「率な」と誘っていた(猪名のふしはらならぬ)富士の裾野の原。その原は燃える山の裾野にあるのに、青々とした山になるという。そう聞いたとき、ああ、(私の)こころは、変わるだろう(今までと違った状態、落ち込んだ状態に。)。」 (7歌本文の新訳)
この歌において「ふじはら」は、富士山に例えた作中主体の燃える思いを象徴し、「あをやま」は青々とした山なので自然の景色であるので、燃える思いの行き先が突然消えてしまったと思う気持ちを象徴しているのではないか。だからこの歌は、やむを得ずあきらめる境地の歌ではないか、と理解しました。
⑭ この新訳は、恋の歌の要件の第一を満足し、類似歌(沢山のシギがいることを喜んだ歌)と意が異なるので第二も満足し、第四も満足しています。第三の要件を満足するには、同じ詞書のもとにある3-4-6歌との違和感がなく、および同一歌群での配列へのなじみなどがあることが必要です。
7.詞書と2首の整合性について
① 同じ詞書のもとにある2首間の整合をここで確認し、また、詞書の現代語訳を再度検討したい、と思います。
② 3-4-6歌は、五句に詠嘆の助詞「かな」を用いて詠み終わり、3-4-7歌は間投詞「を」を文中に用いています。ともに、表面上は詠嘆調の歌となっています。3‐4‐7歌は「心かはらん」と作中主体が恋を終焉させる、とはっきり言っており、同じ詞書のもとにある3-4-6歌も、同様な作中主体の決意を詠っているとみると、作者は作中主体自身を儺(悪鬼)になぞらえた自嘲的な歌とみるのがバランスのとれた理解である、と思います。この両首は作者が落胆した際の歌として統一がとれていることになります。 「名」の内容は、作者のアプローチを拒否したことが明確にわかるものであったと推測できます。
③ そうすると、3-4-6歌と3-4-7歌の詞書にある「女」とは、作中主体からいえば、懸想していた女、という推測が成り立ちます。
④ それでは、あらためて、詞書の現代語訳を試みます。つぎのとおり。
「うわさが耳に入ってきた女のところへ(送った歌)」 (6歌詞書新訳)
⑤ 3-4-6歌と3-4-7歌は、この詞書のもとで整合のとれた歌である、と言えます。
今回の1題2首の再検討結果をまとめると、次のようになります。
作者(作中主体)は、恋の歌ですので、詞書から男となり、歌本文でそれを否定できません。歌をおくった相手は、(懸想していた女に違いありませんが)袖にされたことがはっきりした女です。
⑥ 今回の1題2首の再検討の結果をまとめると、次のようになります。
すべてが改まり、共通の詞書と、3-4-7歌本文は、今回改まり、3-4-6歌本文も検討の前提である現代語訳(試案)が修正となりました。
表 3-4-6歌~3-4-7歌の現代語訳の結果 (2020/7/20 現在)
歌群 |
歌番号等 |
恋の歌として |
別の歌(序の歌)として |
||
詞書 |
歌本文 |
詞書 |
歌本文 |
||
歌群第二 逢わない相手を怨む歌群 |
3-4-6 |
6歌詞書新訳 |
6歌本文の現代語訳(修正試案) |
なし |
なし |
3-4-7 |
同上 |
7歌本文の新訳 |
なし |
なし |
⑦ 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」をご覧いただきありがとうございます。
(2020/7/27 上村 朋)
付記1.恋の歌確認方法について
① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。
② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)
③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-11歌を例示すれば、次のとおり。
表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/7/6現在)
歌番号等 |
現代語訳成果の略称 |
記載のブログ(わかたんかこれ・・・) |
3-4-4~ 3-4-5 |
3-4-**歌の現代語訳(試案) |
2018/2/26付けまたは2018/3/5付け |
3-4-6~ 3-4-7 |
3-4-**歌の現代語訳(試案)の少々訂正案 |
2020/5/25付け(訂正案) 及び |
3-4-8 |
3-4-8歌の現代語訳(試案) |
2018/3/26付け |
3-4-9 |
2020/5/25付けブログの例示訳(試案) |
2020/5/25付け |
3-4-10~ 3-4-11 |
3-4-**歌の現代語訳(試案) |
2018/4/9付けほか当該関係ブログ |
注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す
付記2.富士山の噴火(『新・国史大年表』(日置英剛編)より)
① 記録の初見は、『続日本紀』天応元年(781)7月6日 富士山噴火し降灰のため木葉みな枯れる。
② 延暦19年(800)3月14日~4月18日 昼は暗く夜は火光天を照らしその音雷の如く灰は雨の如く降り、川水はこのため紅色となる。
③ 以後1000年までの記録は、6回ある。延暦21年5月19日、天長3年(826)月日未詳(相模・寒川神社記録)、貞観6年(864)5月24日より十余日、 貞観12年(870)月日未詳(相模・寒川神社記録)、承平7年(937)11月 日未詳、長保元年(999)3月7日
④ 864年より886年にわたる貞観大噴火は、大規模な割れ目噴火であり、北麓にあった湖の大半を埋没させた。溶岩流の上に後年青木ヶ原樹海が形成された。
⑤ 翌年、陸奥国に貞観地震(869)があった。陸奥国にあるという末の松山を譬喩としている歌が生まれている。
1-1-1093歌 東歌 みちのくのうた(1087~1093) (よみ人しらず)
君をおきてあだし心をわがもたばすゑの松山浪もこえなむ
⑥ 三代集における「ふじのね」(富士の峰)・「ふじのやま」の表現の例
「ふじのね」:1-1-680歌 1-1-1001歌 1-1-1002歌 1-1-1028歌
1-2-565歌 1-2-647歌 1-2-648歌 1-2-1014歌 1-2-1015歌
1-3-891歌
「ふじのやま」:1-1-534歌
⑦ 延暦の噴火(800年〜802年)の際、当時の東海道は駿河国と相模国の国境の峠越えは、沼津から永倉駅(長泉町)を経て横走駅(御殿場)を経由し足柄峠を越え、坂本駅(関本)に至る足柄路が使われていたが、駿河側の復旧に時間を要したため、臨時に三島から小田原へ至る箱根路が開かれた。
付記3.間投詞「を」の例歌 (文中にある場合)
①『萬葉集』巻五 2-1-909 (長歌) 恋男子名吉日歌 三首長一首短二首
・・・ ちちははも うへはなさがり さきくさの なかにをね(寝)むと うつくしく ・・・
②『萬葉集』巻五 2-1-811歌 伏して来書を厚くし、つぶさに芳旨を承く。忽に意(こころ)を痛ましむ。唯 ねがわくは去留つつがなく遂に披雲を待たむのみ。 歌詞両首 太宰師大伴卿 (810,811)
うつつには あふよしもなし ぬばたまの よるのいめにを つぎてみえこそ③『古今和歌集』巻十三 恋三 1-1-630歌 題しらず もとかた
人はいさ我はなきなのをしければ昔も今もしらずとをいはむ
④『古今和歌集』巻四 秋歌上 1-1-224 題しらず よみ人しらず
萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも
(付記終わり 2020/7/27 上村 朋)