わかたんかそれ 猿丸集でのあの世観

こんばんは、上村朋です。

『猿丸集』の最後の歌3-4-52歌の検討で「こむよ」という語句の意は「来む夜」と「来む世」があると指摘した。

3-4-52歌の類似歌(古今集恋五にある1-1-520歌)においては「来む世」であり、その意は俗信の「次の世」であった。現代生きている次に生きるはずの「あの世」である。これは日本人には連綿と信じられている。

その現代の例を挙げる。

  •  亡くなった方を偲び、「今頃は、先に逝ったご主人とお茶をしているのでは」と、言う場合の「今頃一緒にいるだろう亡くなった方ご夫妻がいる世界」が「次の世」であり、あの世である。この「次の世(あの世)」は、仏教でいう来世でもキリスト教でいう天国でもない俗信の次の世(あの世)である。

 仏教もキリスト教も倫理的な規範に従い次の世の生がある、と説いているが、それとはの違う。

② 伊藤光晴氏は、加藤周一氏も、その俗信が生きている世(『雑種文化』のただなか)にいてキリスト教に入信して死を迎えたのではないか、と指摘している(『図書』2019年9月号 岩波書店 「私にとっての加藤周一」)

「加藤さんの母が病に直面しカトリックに入信し「入信してくれたらあの世で会える」と言っていたという。加藤さんもあの世であえると言っているが、これはキリスト教なのであろうか。」と疑問を呈し、「あの世であえるのはキリスト教的というよりも日本人的感情」といい、「仏教が渡来する以前、神道が日本に来る以前の民間信仰である「あの世」観かもしれない。」と指摘している。

 

 このように、宗教を重く考えない日本の文化(加藤さんのいう雑種文化)が連綿と日本人には続いている。仏教もキリスト教も倫理的な規範に従い次の世の生がきまる、と説いているのとは違う、普通の人がもつ世俗的な、普通の感情・願望の表現であるのが日本人の「あの世」観である。

「わかたんかそれ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

次回は来年とします。皆様 良い年をお迎えください。(2019/12/17 上村 朋)