わかたんかこれ  猿丸集第39歌その2 あきやま おく山

前回(2019/1/14)、 「猿丸集第39歌その1 もみぢふみわけ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第39歌その2 あきやま おく山」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第39 3-4-39歌とその類似歌

① 『猿丸集』の39番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 3-4-39歌の、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 3-4-39歌の、寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌(類似歌c

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

② 類似歌bの参考にする1詩があります。

参考 2-2-114歌 秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせきはれいれい びろくのなくこゑあまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりていうえんするところ ともなくさけなくしてこころなほつめたし)

③ さらに類似歌cの参考にする歌があります。5-4-82歌に番えられた歌です。

参考 5-4-83

      わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ぞかなしき

 

④ 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や五句と詞書に、3-4-39歌と他の歌とでは異なるところがあります。

⑤ これらの歌のなかで、3-4-39歌と、他の歌とは、趣旨が違う歌です。この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌です。

 

2.~4. 承前

5.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その1 配列から

① 二つ目の類似歌(『新撰万葉集』にある類似歌 2-2-113)を検討します。

最初に、『新撰万葉集』自体の配列について検討します。今日の『新撰万葉集』の形は、和歌と漢詩からなる詩歌集です。この歌は、『新撰万葉集』巻之上に、参考歌2—2-114歌と番えて記載されています。

『新編国歌大観』にある今日の『新撰万葉集』記載の和歌の元資料の歌は、主に是貞親王家歌合と寛平御時后宮歌合の歌です。女郎花歌を除くと242首あり、前者から16首、後者から185首採られ、巻之上にはだいたい後者の左歌が採られています。その和歌に、対とするべく漢詩を新たに誰かが詠んでいる体裁であるのが2巻からなる今日の『新撰万葉集』です。巻之上にある序は、和歌に触発された漢詩を一部置くといっていますが、巻之上は全て番えた形となっています。なお、漢詩については古来の訓読がないので『新編国歌大観』では担当された木越隆氏の私意によるところが一部あるそうです。

『新撰万葉集』巻之上の序を、当初の編纂時に作文されたものとして信頼し、かつ作業を率直に序に述べているとも信じるとすれば、『新撰万葉集』の今日の形は序に述べることと異なる(拡充されている)ので、何度かの編纂を経ていることになります。その経緯は諸氏によっても今のところもつまびらかでなく、当初の『新撰万葉集』は、寛平5(893)菅原道真の撰と伝えられていますので、この類似歌も当初からある歌である可能性があり、『猿丸集』歌の類似歌となり得る所です。

② 巻之上の特徴は、諸氏によると、次のように整理されていますが、歌の配列方針がわかりません。

     巻之上の部立は五部。四季がまずあり、次いで恋部がある。

     和歌を与件として対(番えようと)とするべく漢詩を詠んでいる。

     和歌は、元資料である『寛平御時后宮歌合』の歌などと、語句が微妙に異なる歌が多い。

     和歌は、『萬葉集』を模して、漢字で表記している。助詞(か、が、ぞ、など)には原則一つの漢字を用いているなど、『萬葉集』とは別の、少なくとも巻之上は独自の表記である。

     番えている和歌と詩に共通するはずの主題は明示されていない(詞書もなし)ものの、詠むにあたって寄せる物が共通であると思われる。

     さらに渡辺秀夫氏は、「共通の題のもとによる競詠として編纂されており、少なくとも巻之上は和歌を漢詩に翻案したものではない」及び「和歌と漢詩の関係は、それぞれの本意を比較・対照する多分に遊戯的な試みであり、序も、正格な晴儀の詩賦文章と同列ではないはず。」と指摘している(『和歌の詩学 平安朝文学と漢文世界』(渡辺秀夫 勉誠出版 2014/6)「第一部和歌の詩学 和歌と漢詩のひびきあい 第五章 『新撰万葉集』論――上巻の和歌と漢詩をめぐって」)。

③ 渡辺氏のあげている例を3組抜粋します。

     2-2-17歌(和歌)は、春山の煙霞を白い花に見立てたのに対して、(それと番えている)2-2-18詩(漢詩)は、「霞(朝焼け・夕焼け)」の虹彩を、仙境のイメージのある桃源郷の花盛りに見立てたもの。漢文世界の「霞」には、この世を越えた神仙の理想郷を表象する場合がある。

     2-2-149歌(和歌)は、田に置く露を「(いなおほせどり)の涙」という悲哀の涙とみなし、2-2-150詩(漢詩)は、(露は漢詩本文に登場してないが)天のくだした甘露を太平の治世を表わす祥瑞とし、その治世の様を漢詩四句に詠う。第四句は隠れた賢臣の登用が実現したという故事をいう。

     2-2-181歌(和歌)は、菊により切実な恋の懊悩(どうにかしてあいたい)を詠み、2-2-182詩(漢詩)は、菊ならば陶淵明の故事とばかり酒のない所在なさから友人の訪れを期待すると詠う。

④ 2-2-113歌(類似歌bは、巻之上の秋部にあり、和歌としては秋部の15番目にあたる歌です。部立のなかの配列方針をみるべく、秋部の和歌全36首について、現代の季語を参考に、配列をみると、三秋の季語をまじえつつ、巻頭の歌は初秋ですが、4番目は雁が登場し晩秋の歌となり、巻末の歌は秋立つと詠み初秋となります。また、秋部の多くの和歌の元資料である『寛平御時后宮歌合』の順番とも、『是貞親王家歌合』の順番とも相違しています(付記1.参照)。

時節の推移の順を示そうとする意識がなく、また、歌材(寄せる物)ごとにまとめる意識がない、と見えます。

なお、秋部の漢詩36詩にのみ注目した配列は、未検討です。

⑤ このため、配列は漢詩の製作順とか何かルールがあったのでしょうが、詩歌の理解は、番えている詩歌のみで完結しているものとみなして前後の詩歌との関連を重視しないで、かつ渡辺氏の説を踏まえて、2-2-113歌(類似歌b)の現代語訳を試みるものとします。(付記2.参照)

 

6.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その2  現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の一例を示します。

     奥山で(降り積もった)もみぢを踏み分けて鳴いている鹿の声を聞いている時が、ことさらに秋が悲しく感じられる。」(『研究叢書346 新撰万葉集注釈 巻上(二)』(新撰万葉集研究会 (有)和泉書店 2006))

番えられている2-2-114歌の現代語訳も同書より引用します。

     秋の山は人の声も無く静かで、(もみじした)草木の葉が降り始める。

  鹿やおおじかの鳴く声があちらこちらに聞こえる。

  景色の良い所を尋ねて来たが、ここはかって遊宴した場所。

  (今は、以前にはいた)友人も無く、(以前にはあった)酒も無くて心は冷ややかに寂しい

② 同書には、2-2-113歌に関して次のような説明があります。

     用いている漢字について、万葉集麋を「しか」と訓む例はなく、この集の和歌で3例ある。この集に「鹿」字の使用がない。また、「悲しき」と訓む歌が本集に7例あり6例が「金敷」。『萬葉集』の用例に「金敷」はない。「金敷」とは、当時使われていた作業台の金属製の敷物を意味するか。

     114詩は確かに山に入って鹿の鳴く声を聞く人を画き出すが、113歌においても鹿が奥山に居り、その声を聞く人が山に入っていても一向差支えがない。従って、114詩の存在が113歌の意味を決定することはないと考える。そうであるならば「奥山に」という初句が二句「もみぢふみわけ」にかかり、二句が「鳴く鹿の」に掛かるのは自然である。

     配列に配慮した松田『新釈』は、113歌を萩と関連させていない。この説に従い、(ふみわけるのは)萩の黄葉ではなく一般のもみぢの落葉とみる。「ふみわけ」は、鹿がねぐらに帰る道を求めているさま、と解する。意識して歩む道を求める動作。例)1-1-327&1-1-970

     鹿が鳴くのは多くの場合、牡鹿が妻を求めて鳴くと考えられる。

③ 同書には、2-2-114詩に関して、次のような説明があります。

     「寂寂(せきせき)」とは、人が訪れず寂しいさま。「零零」とは、葉などが墜ちること。「麋鹿(びろく)」とは、おおじかとしか。

     「無朋無酒」により、秋の悲しさを表わす。

     「冷(すさま)じ」は、韻字なので、泠(下平声九青韻)を用いたか。しかしその意は「さとす、さとる、清らかなど」。意味としては「つめたい(冷(上声二十三梗韻))」となるところ。

     「無朋無酒意猶冷」は、友も酒も無くて気持ちが冷え切っている意。113歌では、奥山の鹿の鳴き声を聞いている作中人物の状況は明確ではないが、本詩の方は、一人で秋の山に行楽に来ており、夕方になって鹿の鳴き声を聞いているという状況である。

 

7.『新撰万葉集』にある類似歌の検討その3  現代語訳の試み

① 渡辺氏の説を踏まえて、現代語訳を試みます。

② 2-2-113歌と2-2-114詩の違いを、上記6.の理解により最初に見ます。

     2-2-113歌初句の「おく山」を、2-2-114詩では「秋山」に置き換えている。「秋山」は熟語として漢和辞典にある。「遠山眉」という熟語がある。そのほか「深山」「深谷」「深海」「深田」も熟語としてあるが「奥山」は、無い。(付記3.参照)

     2-2-113歌では、「鹿」は1種類。2-2-114詩では、2種類。鳴き声を聞き分けたようである。日本国内の生息は1種類(ニホンカモシカ)。

     鹿と萩は当時の和歌によく詠まれている。漢詩ではどうか。未調査である。また、2-2-182詩のように、「白氏文集」にはかって遊宴した折りを詠う詩がある。

     2-2-113歌は、鹿が紅葉を踏む音をも聞いており頭数が不明ながらこの訳例では少ないと推測しているのではないか。2-2-114詩は、秋山のあちこちで鳴いていると、秋山が鹿の住む場所であることを主張しており、紅葉を踏む音が第一の関心事ではない。「麋鹿(びろく)」とは多くの鹿のいることを指して言っているのかもしれない。

     2-2-113歌では、和歌における鹿と萩の関係を想起し、妻恋の鹿(鳴いているのを作中人物が聞いた時間は上記の訳例では特定していない)と理解し、2-2-114詩では、仲間を呼ぶかのように聞きなしている(鳴いているのを作中人物が聞いた時間は上記の訳例では夕方のこととしている)。

     2-2-113歌では、鹿の鳴き声で秋の悲しみを作者は感じている。2-2-114詩は、鹿の鳴き声はかって遊宴した場所の説明をしている。そこを1人訪ね、無聊・悲しみを詠う。

 

③ このように、和歌は、鳴き声で詠い出していますが、紅葉の景をも想像させ自然をも詠んでいます。漢詩は、友との交わりのないという人事の世界を詠んでいるように見えます。「鹿の鳴き声が聞こえた」ことを共通の事としているものの、2-2-114詩は2-2-113歌とは異なる感慨を詠った別の詩歌と理解できます。

④ また、2-2-113歌は、元資料である『寛平御時后宮歌合』の歌の引用であり、歌そのものも清濁抜きの平仮名表記でまったく同じです。『新撰万葉集』の和歌の配列方針がわからないながらも、平仮名表記をまったく同じにしているのは、この歌集独自の理解を元資料の歌に求めていないという指示とみることが出来ます。このため、元資料の歌の理解と同じで良い、と思います(元資料の歌は以下で検討します)。

2-2-114詩は、上記の訳例でよい、と思います。2-2-113詩と同趣旨の歌ではありませんし。

 

8.寛平御時后宮歌合にある類似歌の検討その1  配列から

① 三つ目の類似歌(この寛平御時后宮歌合にある類似歌5-4-82歌:類似歌c)は、『寛平御時后宮歌合』が「秋歌二十番」の三番目に番えている二首のうちの左歌です。5-4-83歌と番えられています。

この歌合は、机上の操作による撰歌合ともみられており、当初には作者名の記載もなかったそうです。共通の何かによって番えた可能性が強いのであれば、秋部の二十番それぞれについてそれを見出すことが出来るでしょう。

この二つの歌では、秋は「かなしき」と詠っているところが共通であり、動物の鳴き声を聞くことによる歌であることも共通しています。

② このように秋部の番えてある歌全てについて、共通の何かから秋部の配列について検討します。あわせて現代の季語の各歌における分布状況も検討しました(付記4.参照)。

その結果次のことを指摘できます。

     和歌は、すべて部立されている秋の季節によせた歌である。しかし、その配列は時節の推移順ではない。

     『新編国歌大観』記載の並び順で番えられているとすると、秋部の歌は、主題ごとに番えられたという想定は十分可能である。

     類似歌cと番えられている歌に関しては、題であるならば、悲秋、秋悲 悲愁の類が、寄物であるならば、「鳴」が共通である。これらの歌の前後に番えられている歌と異なる共通項である。

③ このため、類似歌cの理解は、当然前後の番えられている歌等とも異なるほかに、番えられている歌とは異なる理解となってしかるべきということになります。

④ さて、上記4.(前回のブログ(2019/1/14)参照)で次のように分析しました。

「(五句の)「秋はかなしき」という感慨は、実際に鹿の鳴き声を聞いたから作中人物に生じたものです。あるいは、聞いたら生じるものである、と作中人物が理解していることを意味します。・・・どちらであるかを判断する材料は、この歌のなかのことばには見出されず、詞書や披露する場の状況による、と思われます

⑤ 歌合での歌であるので、上記4.の後者であってかまいません。5-4-83歌の「虫の音」はともかくも、5-4-82歌の「おく山」に向かう(あるいはおく山にいる)鹿の声を実際に聞くのは、都に在住している官人ならば稀なことでしょう。

歌合している場所において、「秋はかなしき」を演繹的に、想像あるいは創造したのがこの歌、という理解が可能です。撰歌合であっても同様です。

秋はかなしき」の例として、作中人物が、狩の対象としていない鹿の声をあげようとするならば、作中人物のいる場所は、どこでもかまいません。

さらに、作中人物に、経験を語らせたいならば、鹿の声を朝方聞ける場所として、常の住いではない山荘か、里山が近くに見える屋敷の女性を訪れた翌朝の暁の戻り路、という設定が一番不自然さの少ない景と思います

 

9.寛平御時后宮歌合にある類似歌の検討その2  現代語訳を試みると

① この歌5-4-82歌は、秋の歌として撰歌合に採用された歌あるいは歌合で披露された歌ですので、上記4.の後者として現代語訳を試みます。「秋はかなしき」の例を詠んでいる、と思います。

② 四句「声きく時ぞ」とは、五句に述べる感慨の前提条件を括った表現です。

③ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「おく山へと向かって萩の黄葉を踏み分けながら鹿が鳴く声を聞くとしたならば、(男であるならば戻らざるを得ない暁時の行動と重なる。だから、)秋は特にやるせなく悲しいものであるのを実感することである。」

④ この歌5-4-82歌と、番えられている5-4-82歌とは、歌意が異なるはずです。その5-4-82歌の現代語訳をも試みます。歌を再掲します。

わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ずぞかなしき

⑤ 三句にある「なくに」は、文中に用いられた連語であり、詠嘆の気持ちを込めた接続語をつくり、ここでは、逆説的な確定条件を表わします。

⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「私を悲しませる為にだけに訪れる秋であるとは思わないのに、虫の鳴き声が聞こえてくれば、(やはり秋を感じて)まず悲しい気持ちとなるよ。」

⑦ 番えている2首を比較します。

この2首は、視覚ではなく、聴覚で得た情報で秋を感じているのが共通ですが、感じるきっかけが異なっています。5-4-82歌は、(屋敷内ではなく遠くで)鳴く鹿の声であり、5-4-83歌は足元で鳴く虫の音です。

さらに、5-4-82歌は、後朝の別れを連想させる詠いぶりですが、5-4-83歌は夫婦である相手方の女性のさまざまな訴えを連想させ、「秋」が「飽き」にも通じているかの詠いぶりです。

このようにこの2首の歌意は異なっていますので、この現代語訳(試案)は妥当である、と思います。

⑧ 以上で、類似歌3首の検討を終えました。猿丸集3-4-39歌について次回には検討し、あわせて類似歌3首との比較を行います。

 ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

2019/1/21  上村 朋)

 

付記1.『新撰万葉集』巻之上 秋部の和歌にある現代の季語などについて

① 下記の表の「歌番号等」欄の数字は、『新編国歌大観』による。巻の番号―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

② 現代の季語と時節の区分は、『NHK出版 季寄せ 』(平井照敏 2001)による。

③ 「和歌の元資料a(歌合)」欄は、新撰万葉集に先行する歌合にある類似歌である。

④ 「和歌の元資料a(歌合)」欄及び「和歌の元資料b(左以外)」欄の符号「有」又は「無」は、『新撰万葉集』歌との比較で語句に一部不一致の有無をさす。

⑤ 《》は、補注のあることを示す。表の下段に記す。

表 『新撰万葉集』巻之上 秋部の和歌にある現代の季語等一覧 (2019/1/14 現在)

歌番号等

現代の季語

左による時節

和歌の元資料a(歌合)

和歌の元資料b(左以外)

2-2-85

秋(風) 藤袴 きりぎりす

初秋

5-4-94 有

1-1-1020 有

2-2-87

白露 秋(の野)

三秋

5-4-90 有

1-2-308 無

2-2-89

きりぎりす 大和なでしこ

初秋《》

5-4-80 無

1-2-244 無

2-2-91

秋(風) 雁

晩秋

5-4-78 有

1-1-207 有

2-2-93

をみなへし 

初秋

5-4-88 無

1-1-229 有

2-2-95

秋(の夜) 白露

三秋

5-4-98 無

――

2-2-97

白露 萩 (下)黄葉 秋(は来)

初秋(秋は来により)

5-4-102 有

――

2-2-99

晩秋

5-4-100 有

――

2-2-101

はなすすき 秋(風) 

三秋

5-4-104 無

1-2-353

2-2-103

秋(の野) (花)薄 

三秋

5-4-86 無

1-1-243 無

2-2-105

もみぢ葉 

晩秋

5-4-96 無

1-1-264 無

2-2-107

雁がね 

晩秋

5-4-92 有

――

2-2-109

秋の蟬 

初秋《》

5-4-112 無

――

2-2-111

ひぐらし 秋

初秋《》

5-4-84 無

――

2-2-113

もみぢ  秋 鹿&

晩秋

――

1-1-214 無(&3-4-39)

2-2-115

雁 虫

晩秋(雁による)

――

――

2-2-117

秋(風) 雁

晩秋

5-4-110 有

1-1-212 無

2-2-119

秋(山) 鹿 

三秋

5-4-116 無

――

2-2-121

三秋

5-4-108 有

――

2-2-123

秋(の月) 露

三秋

5-4-114 有

――

2-2-125

涼し 秋立つ日

初秋

――

1-2-217 有

2-2-127

秋萩 鹿

初秋

――

1-1-127 有

2-2-129

竜田姫《》 秋

三秋

――

1-2-265 有&是貞親王家歌合30歌 有

2-2-131

白露 秋

 

――

1-1-257 有

2-2-133

秋霧 もみぢ

 

――

1-1-266 有

2-2-135

秋(の色) 

三秋

――

1-1-263 有&是貞親王家歌合19歌 有

2-2-137

藤袴 秋來る 

初秋

――

1-1-239 有

2-2-139

秋(の野) 虫

三秋

――

1-2-372 有

2-2-141

三秋

――

1-1-296 無&是貞親王家歌合22歌か?

2-2-143

をみなへし 秋

初秋

――

1-2-34 有3&

是貞親王家歌合37歌 有

2-2-145

秋(風) きりぎりす

初秋

――

――

2-2-147

たなばた 

初秋

――

――

2-2-149

秋 露

三秋

――

1-1-306 有&是貞親王家歌合1歌 有

2-2-151

秋(の野)

三秋

――

――

2-2-153

かりがね 萩

初秋《》

――

1-1-211 無&1-3-1119 有

2-2-155

秋(来) 

初秋

――

――

補注

《2-2-89歌:元資料が秋歌であるので「なでしこ」により初秋とする》

《2-2-109歌&2-2-111歌:ひぐらしは蝉の一種で晩夏。元資料では秋歌であるので初秋とする》

《2-2-129歌:竜田姫は、時代が違い『HHK出版 季寄せ』に無いが、平安時代であれば、三秋の季語。》

《2-2-153歌:かりがねは晩秋。渡り鳥とかりがねを捉えると三秋なので、萩から初秋とする》

(補注終り)

付記2.『新撰万葉集』の成立について

① 『新撰万葉集』の巻之上の構成の検討のため序を読んだところ、『千里集』同様に成立経緯について疑念を生じたので、気が付いたことをここに記しておく。これは、以後の2-2-113歌(類似歌b)の現代語訳の試みに影響するものではない。

② 序は、和歌についての記述に終始している。にも拘わらず、漢詩をすべての和歌に番えている。詩歌集である今日みるところの『新撰万葉集』の序として漢詩の扱いが等閑である。当初の『新撰万葉集』が成立したと言われる寛平ころの朝廷における漢詩の地位・扱いの詩歌集としていぶかしい。

③ 序をみると、この歌集は、私撰集である。下命による撰集ではない。ところが別途の下命の業務に触れている。首尾一貫した表現ではない。渡辺秀夫氏の指摘する「序も、正格な晴儀の詩賦文章と同列ではないはず。」との指摘が妥当である。

日本紀略』寛平5年(893525日条にある「菅原朝臣撰進新撰万葉集二巻」からも、諸氏は下命に否定的である。

④ 序に記す撰集作成過程が信じられない。

私撰集のために、下命により献上された歌集を、勝手に閲覧しようすること(『後撰和歌集』撰集の際は「撰和歌所」への闌入が禁止されている)や、撰歌したら特定の歌合の歌が大多数を占めた、という作業結果は信じられない。『古今和歌集』は、「今の歌のすばらしさ」を示すのに種々な資料(官人の歌集や歌合の記録や伝承歌など)を用いている。

また、下命の作業の状況は、古今集成立以後であれば、その真似をして記すことが可能である。

 撰歌した他人の和歌に番える詩歌を作者名未詳のまま漢詩を製作していることは、つまり漢詩の習作である。習作であるならば、徐々に今の形になったということも説明できる。それを私的に歌集としてまとめて残そうとしたのがこの『新撰万葉集』ではないか。

日本紀略』の記述より歌集名を借用したのが今日みる『新撰万葉集』なのではないか。下巻の序も同時に創作されている可能性もある。この歌集の編纂者(達)には、官人の一家系の数代にわたる人々にも可能性がある。先生とは最初に習作した人を指すか(それは祖先の一人でもある)。

⑧ これは、底本の校訂にまで立ち入らないままの仮説(案)の提案である。

このような漢詩の習作説のほか、『新撰万葉集』の巻之上は、和歌の世界と漢詩の世界(という文化の違い)言葉の綾を楽しんだ者達の創作説がある。渡辺秀夫氏が、寛平という時代に限った文化活動として、成り立つとして、この論を述べている。

 

付記3.漢詩での「〇山」等の用例 (2019/1/14 現在)

① 『新釈漢文大系109巻 白氏文集 十三』(明治書院)の語彙索引は、語釈の見出し語から二字熟語中心に作成されている。

     索引に無かった五句:遠山、奥山、秋山、春山、無朋、無酒

     秋悲:9361 

     秋思:435012巻上70ほか多数 

     秋光:2巻上258ほか 

     &秋気:12巻上153 

     秋意:2巻下635 

     秋雲:12巻下712 

     秋水:1157ほか

② 『漢詩体系 4 古詩源 下』(集英社)の陶潜(淵明)の詩には、秋山無し。西山と南山あり。

     「飲酒」 第2首に「積善云有報 夷叔在西山」、第五首に「采菊東籬下 悠然見南山」

     「歸田園居 五首」 第3首に「種豆南山下 草盛豆苗稀」

③ 『文華秀麗集』の巨勢識人(?~820頃)の詩「秋日別友」には、「行人獨向邊山雲」がある。「邊山雲」とは「辺地の雲」の意。

付記4.『寛平御時后宮歌合』秋歌にある全41首における現代の季語と番えた歌の共通項について(2019/1/5現在)

① この歌合は番われているので共通の何かがあるはずであり、その共通の事項を推測してみた。併せて現代の季語の有無を確認した。現代の季語は『NHK出版季寄せ』(平井照敏編 NHK出版 2001)による。

② 共通事項は、恋部がこの歌合に別途あるので、叙景あるいは行動・行為での共通事項を推測してみた。

 その結果を下表にまとめて示す。

③ その結果次のことを指摘できる。

     歌は、すべて部立されている秋の季節によせた歌である。しかし、その配列は時節の推移順ではない。

     番えられる歌2首の共通の季語は「秋」(多数)や「露」(3組)や「月」(1組)があるが、番えられた2首に共通の季語のないものもある。

     『新編国歌大観』記載の並び順で番えられているとすると、秋部の歌は、主題ごとに番えられたという想定は十分可能である。

     当時の詩宴においては題が与えられており、それに倣うならば歌合でも、単に寄物の指定よりも、題が与えられたのではないか。『古今和歌集』成立前後の時点の詩宴の題の例を、下記④に示す。949年には詩歌献詠の題として「花も鳥も春のおくりす」が記録されている(『新・国史大年表 第1巻』(日置英剛編 国書刊行会2007))。

     秋部最後の歌5-4-118歌は番われていない。しかし、5-4-117歌と竹を共通に詠っている。

     推測した共通事項から番えている単位に四字の題を想定するのは難しかった。

     類似歌cと番えられている歌に関しては、題であるならば、秋悲 悲愁、寄物であるならば、「鳴」が共通である。これらの歌の前後に番えられている歌と異なる共通項である。

表 『寛平御時后宮歌合』秋部の和歌にある現代の季語等一覧 (2019/1/16    11h 現在)

歌番号等

現代の季語

左による時節

番っている歌の共通点の例

5-4-78

あき(風) (初)雁

晩秋

秋空 

5-4-79

(たつ)秋 霧

三秋

秋空 

5-4-80

きりぎりす (やまと)なでしこ

初秋

秋の野

5-4-81

秋(の野) 白露

三秋

秋の野

5-4-82

紅葉 鹿 秋

晩秋

秋悲 秋悲 悲愁 鳴く きく

5-4-83

(来る)秋 虫

初秋

秋悲 秋悲 悲愁 鳴く きく

5-4-84

ひぐらし 秋(の野山)

初秋

錦秋 紅葉(黄葉)

5-4-85

秋 

三秋

錦秋 紅葉(黄葉)

5-4-86

あき(の野) 花薄

三秋

黄葉 錦

5-4-87

秋 紅葉

晩秋

黄葉 錦

5-4-88

をみなへし

初秋

秋の野遊び(あるいは宿)

5-4-89

秋(風) 雁がね

晩秋

秋の野遊び(あるいは宿)

5-4-90

白露 秋(の野)

三秋

稔る秋 秋の野

5-4-91

秋(穂)

三秋

稔る秋 秋の野

5-4-92

雁 

三秋

秋鳥 秋夕 秋晴れ

5-4-93

秋(の草)

三秋

秋鳥 秋夕 秋晴れ

5-4-94

あき(風) 藤ばかま きりぎりす

初秋

秋風

5-4-95

秋(の夜) 紅葉

晩秋

秋風

5-4-96

紅葉ば 

晩秋

落葉

5-4-97

秋(の木のは)

三秋

落葉

5-4-98

秋(のよ)  月(の光) 白露

三秋

白露

5-4-99

あき(のの) 露

三秋

白露

5-4-100

雁がね

晩秋

うつろふ秋

5-4-101

花 菊 (うつろふ)秋

三秋《》

うつろふ秋

5-4-102

白露 萩 紅葉 あき

初秋

5-4-103

秋(虫) 露

三秋

5-4-104

はなすすき 秋(風)

三秋

秋の花

5-4-105

花(見) 秋(の野)

初秋《》

秋の花

5-4-106

雁がね 秋(のよ) 虫

晩秋

紅葉

5-4-107

あき(風) 紅葉ば 

晩秋

紅葉

5-4-108

露(けきは) (我が身の)あき

三秋

 露

5-4-109

秋 露 紅葉

晩秋

 露

5-4-110

あき(風) 雁

晩秋

秋風

5-4-111

紅葉ば 

晩秋

秋風

5-4-112

秋(のせみ) せみ

初秋《》

 衣又は落葉

5-4-113

あき(のよ) 月

三秋

 衣又は落葉

5-4-114

秋 月 露

三秋

月光 錦秋 衣

5-4-115

秋(のみやま) 

三秋

月光 錦秋 衣

5-4-116

あき(山) 雁

晩秋

秋の夜

5-4-117

七夕

初秋

秋の夜   七夕

5-4-118

七夕

初秋

七夕

補注

《5-4-101歌&5-4-105歌:秋の花を見る歌》

《5-4-112歌:「秋の蟬」により初秋》

(補注終り)

④ 『新・国史大年表 第1巻』(日置英剛編 国書刊行会2007)などより、抜粋するとつぎのとおり。

詩の披露を求められる機会は、七夕、重陽の詩宴のほか、十五夜での宴、『日本紀』饗宴や再々行われている神泉苑行幸の際など当時多数ある。その時の題の例は次のとおり。

 861/9月 菊暖花未開

 866/3 落花無数雪(左京染殿第行幸

 868/9 喜晴

 870/9 天錫難老

 890/7 七夕秋意詩   890/9 仙譚菊

 891/7 牛女惜暁更

 893/3 賦惜殘春     893/9 観群臣偑茱萸

 894/7 七夕祈秋穂    894/9 天澄識賓鴻

 895/9 秋日懸清光

 897/8 秋月如珪    897/9 観群臣挿茱萸

 898/9 菊有五美

 900/9/10 秋思

 906/9 茱萸玉偑

912/9 爽籟驚幽律

918/9 草木凝秋色

921/9 秋菊有佳色

927/9 秋日無私照

(付記終り 2019/1/21  上村 朋)