わかたんかこれ  猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥

前回(2019/8/5)、 「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を表面上励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。(この歌の趣旨が検討の末上記にかわりました)

 

2.~18.承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。さらに類似歌を検討したところ1-1-993歌~1-1-996歌は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群といえる。類似歌等については、用いている「みそぎ」、「ゆふつけ鳥」等の語句について、用例に基づき、類似歌等の推定した作詠時点における意を確認し、現代語訳(試案)をつぎのとおり得た。

類似歌(1-1-995歌)

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

類似歌の元資料の歌

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のように思っていた私は、たつたのやまで繰り返し大声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

 

19.3-4-47歌の現代語訳の例

① 『和歌文学大系18 猿丸集』(鈴木宏子校注 1998)では、詞書にある「あひしれりける女」とは、知人の女、の意としています。

そして、初句~二句は「誰が禊をして木綿を付けた鳥なのか」。と訳し、「たつたのやま」は大和国の歌枕であり、「からころも」は竜田にかかる枕詞としています。五句にある「をりはへて」は、「ずっと続けて」の意としています。

② 鈴木氏は、ゆふつけ鳥が「鶏」であるとこの歌の注釈で断言していません。禊とゆふつけ鳥との関係も説明していません。また、1-1-995歌との違いを認めていないようです。

 

20.3-4-47歌の詞書

① 3-4-47歌を、詞書から検討します。前回試みた現代語訳(試案)(ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27付け))を、歌も含めて全面的に再検討します。

② 『猿丸集』の詞書における「あひしる」という表現については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌 詞書とあひしりたりける人」(2018/1/22付け)で検討したことがあります。同時代に成立した歌集として多数の例がある三代集(但し『拾遺和歌集』には無し)と一例があった『伊勢物語』より推察すると、『猿丸集』の編纂者は、「あひしる」の表現に気を配っており、「(あひしる)人」の意味は一つに限っている」、ということでした。

そして、3-4-5歌の詞書の「あひしりたりける女」とは、「(詠嘆の気持ちをこめて言うのだが)交際していたことのある女」、の意となり、「別れた女」の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「以前交際していたことのある、あの女(の家)」としたところです。

3-4-29歌の詞書は、3-4-47歌の詞書と同じあひしれりける女」であり、馴れ親しんでいたことのある女、男からいうと昔通っていた女、男女の間柄であった女、の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「男女の間柄であった女」としたところです。

③ 「あひしる」は、互いに親しむ・交際する、の意(『例解古語辞典』)であり、「けり」は伝聞の意を表わし、過去の事実をさしますので、「あひしれりける女」とは、表面的には「互いに親しんでいた女」となります。

この3-4-47歌の詞書をみると、その女性が「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」という「けしき」を作者が読み取っているので、作者と「あひしれりける女」との関係は、今は疎遠になっているのは確かであり、3-4-29歌と同じ意と理解できます。女官として勤務上親しくしていただけではなくて、個人的に対面できたことのある女性でしょう。

即ち、この歌の詞書の「あひしれりける女」とは、「以前、懇ろであった女性」の意です。

④ 詞書の「あひしれりける女の」の「の」は、格助詞で主語であることを明示しています。

文の構成としては、

A:あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきける

B(Aという)けしきを見ていひける

となり、文Aの主語は「あひしれりける女」、述語は「なげきける」であり、その理由を、誰かが「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」と推測した文にしてはさんでいます。「人」は特定の人物を念頭においているものの固有名詞をさけた表現方法のひとつです。

Bの主語は、文Aが既知であるので、文Aで理由を推測した「誰か」です。述語は、「見て」と「いひける」となります。「いひける」結果は歌であるので、その「誰か」は、歌の作者でもあります。(前回は、この「誰か」は、この歌を「書きつけた人」でもある、と記しましたが、その表現は「詠んだ人」か「書き留めて猿丸集に記載した人」か明確ではありませんでした。)

Bの主語である「誰か」は、「見」た後「いふ」と言う行動に出るには、他の選択肢を捨てた決断があったのだと思います。その経緯・理由に文Bは直接触れていません。「見る」と「いふ」は多義語であるので、そこにヒントがあるかもしれません。

⑤ なお、詞書が、「いひ(ける)」で終わっているのは、『猿丸集』ではこの歌だけです。この『猿丸集』で一番多いのは「よめる」であり11首(詞書がかかる歌でいうと14首)あります。そのうち「見てよめる」で終わっているのは、1首(3-4-32歌)です。「・・・さくらのさきけるを見てよめる」とあります。

また、詞書が、「見て」で終わっているのは、4首あり、「(花や流水)を見て」が3首、「(なくなりにけるところ)を見て」が1首(3-4-45歌)です。この3-4-45歌の詞書の「見て」は、「(よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を)思いやって(詠んだ歌)」と訳したところです。

⑤ そのほかこの詞書には、多岐にわたる語義を持つ語句があるので確認をしておきます。

第一 動詞「かたらふ」(語らふ)は、『例解古語辞典』につぎのようにあります(以下も同じ)。

a 語り合う・互いに話す。

b 親しく交際する。

c 男女がいいかわす。

d 説いて仲間に入れる。

e 頼み込む、相談をもちかける。

第二 また、詞書にある「なげきけるけしきを見て」の動詞「なげく」には、次のような意があります。

a ため息をつく。

b 悲しむ・また悲しんで泣く。

c 請い願う・哀訴する。

第三 同「なげきけるけしきを見て」の動詞「見る」には、次のような意があります。

a視覚に入れる・見る。

b思う・解釈する。

c(異性として)世話をする。

d経験する。

e見定める。見計らう。

f取扱う。処置する。

第四 動詞「いふ」(言ふ)には次のような意があります。

aことばを口にする・言う。

bうわさをする。

c呼ぶ。

d言い寄る・求愛する。

e詩歌を吟じる・口づさむ。

f 獣や鳥などが鳴く。g(・・・だとして)区別する・わきまえる。

⑥ さて、歌は、文Aの状況を文Bの主語である「誰か」(以後作者と言い換えます)が「みていひける」成果品です。文Aの状況は女のある状態であるので、男女の間の歌とすれば作者は男性となります。文Aの状況を男性としてどのように受け止めたのかによって詠いぶりが変わると思います。「見る」ことで得た情報を作者の既に持っている情報と突き合わせて(或るひとつに結実した)「けしき」というある段階であると判断し、自分の意向と相手の出方を予想して歌に仕上げた結果が、この歌です。

だから、この詞書において男性の作者における動詞「みる」の意は、上記のうち、「a視覚に入れる・見る。」「b思う・解釈する。」「e見定める。見計らう。」が有力となります。そして文Aという情報に接して「けしきをみて」といっているので、「みる」の意は、単に視覚に捉えるではなく、状況を把握する意と推測できますので、上記aは対象外となります。それから「かたらふ」も「d説いて仲間に入れる。」を除く4案が予想でき、他の語句も整理すると、つぎの表のようになります。

  表3-4-47歌の詞書における主たる語句の現代語訳候補の表 (2019/8/5現在)

語句

1案

2案

3案

4案

あひしれりける女

懇ろであった女

 

 

 

人をかたらひて

ある人と語りあって

ある人と親しく交際して

ある人と男女の仲を言いかわして

ある人に、あることで頼み込んで

おもふさま

思いどおりの状態

 

 

 

なげきける

ため息をついていた

悲しみに沈んでいた

悲しんで泣いていた

(誰かに)哀訴していた

けしき

ようす 態度

きげん

意向 考え

受け 覚え

見て

思う・解釈する。

見定める・見計らう

 

 

いひける

ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)

言い寄った

詩歌を吟じた(知っている歌を口づさんでしまった

 

注1)この表は、ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27))で作成した表を改定した。

 ここまでの『猿丸集』の歌で、男女の仲の歌の傾向からいうと、「いひける」の理解においては、第3案の「詩歌を吟じた」は、除外できます。この歌集で唯一「いひける」と表現されていることは、他の歌とは状況が異なると理解できます。「いふ」と同類の語句に、『猿丸集』の詞書の結びの語句として一番多い語句である「よむ」があります。「詠む」と漢字をあてて「和歌をつくる」意となっており、当然相手におくっています。

『猿丸集』ですので、「詩歌を吟じた」ではなくとも「いふ」は、「よめる」という結びではないことを意識すれば第1案の「ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)」がベターであり、第2案のような、和歌を詠む以外の行為が含まれる意を加えなくてもよい、とも思えます。

しかし、男女の仲の歌の多い『猿丸集』なので、第2案に理解されても作者として拒むつもりはないのではないでしょうか。激励の言葉としておくるならば、詞書はこのように婉曲な表現にしない方法があります。「いひける」という表現はこの二つの案の一方に決めつけていない表現であると、といえます。

また、「見て」には、「いひける」の第1案にも第2案にも添う意があります。

⑨ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「以前、懇ろであった女性が、ある人と親しく交際していても、希望したように事が運ばなかったようで、いつもいつも溜息をついている、というので、(その女に)言った(歌)」

 

21.『猿21丸集』編纂時の語句の理解

① 『猿丸集』は、三代集の時代に編纂された歌集です。『新編国歌大観』の「解題」によると、公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集です。

『猿丸集』の類似歌には、『古今和歌集』の歌が多数ありますので、『猿丸集』の編纂時点は『古今和歌集』編纂時(例えば905年)以後から公任の三十六人撰の成立(1006~1009年頃)以前となります。

先に、三代集の歌をも対象にして50年ごとに用例を整理し当時の語句の意を検討しました。(付記1.参照) 『猿丸集』の編纂時点は、そのうち901~1050年に限られます。

② 主な語句について、901~1050年の意は次のようになります。(付記1.参照)

第一 「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意もありますが、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」が優勢となっています。「祭主として祈願する」意の用例がありません。

第二 「ゆふつけとり」は、夕方に鳴いてかつ「逢う」意を含む「あふさかのゆふつけとり」の意のみが943年頃までであり、その後は、暁という後朝の朝に鳴く「ゆふつけとり」の意も併用されてきています。

第三 「からころも」は、「官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)」の意の例と、その防寒外套にその着用者の意を重ねている例が同数13例あり、女性の意を加えた例が4例あります。

第四 「たつたやま」は、都の西方にある山であり、13例が「たつたのかは」と同様「紅葉」ととともに詠まれており、3例が「紅葉」を意識していない例であり2例が「なき名のみたつたの山」、1例が「ぬす人のたつたの山」と詠まれています。

③ このうち、「ゆふつけとり」の意は、これから逢う前に夕方なく鳥「あふさかのゆふつけとり」と、逢って後の後朝の朝鳴く鶏とでは、歌の意がだいぶ異なってくるのではないかと予想できます。

詞書によれば、女はある特定の人と親しく交際しているので、その人と逢うのに大変な努力を要することで悩んでいる訳ではなく、その後のことで悩んでいる、と推測できます。その悩みとは、逢う頻度が期待するほどないとか、その人の正室との関係調整などでの不満などを、想像します。

そうすると、女は、その人と親しくしているのですから、何かの例示・示唆として「ゆふつけ鳥」を用いるならば、「あふさかのゆふつけとり」より、逢って後の後朝の朝鳴く鶏の意のほうが、女の悩みに関係しやすいのではないか、と思います。

 

22.3-4-47歌の現代語訳を試みると

 この歌の文の構成を、検討します。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。この初句のみで、一文を成す疑問文です。初句に言う「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」意または「民間行事の夏越しの祓と言う行事」を指していると思えるので、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」や暁の鶏など鳴く鳥の存在が当時必須ではなく、二句とは別の文となっていてしかるべきです。

② 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が終助詞であれば、二句と三句以下とは別の独立した文である、ということになり、二句のみで一文を成し、終助詞の用法から感嘆文か疑問文かになります。

そして、三句以下は、明示されていない主語が「なく」ということを、普通に叙述している文です。

「ゆふつけ鳥」という語句の意が、上記「21.②」の第二のどちらであってもかまいません。このような理解を三文案と以下いうことにします。

③ 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が係助詞であるならば、二句と三句以下が一つの文を成す可能性が大です。その文の主語と述語の候補は、「ゆふつけ鳥」と「(をりはへて)なく」となります。このような理解を二文案と以下いうこととします。

係助詞の「か」の用法には、

「確かな事がらかどうかについて、心の中で疑っている意を表わす」

「相手に対して、問いたずねる意を表わす」

「疑いまたは問いたずねる形式で述べた事がらに、自ら打ち消す気持ちを込めて、いわゆる反語として用いる」

があります。(『例解古語辞典』)

詞書にいう「いひける」からは、疑問あるいは問いで歌を終えるのがちょっときにかかります。

④ さて、歌の理解は、詞書に従うことになります。

詞書によれば、作者は、女が溜息をつくとか、悲嘆にくれているという事情を、人づてに得ています。そして考慮の結果この歌を「あひしれりける女」(以前、懇ろであった女性)におくっています。

当時女性と対面できたら恋のステップを一つも二つも上がったとみなせますから、作者がその女と対面して事情を知るようなことはあり得ないことです。

人づてに聞いた事がらから、作者は、その女にとっては「みそぎ」もしたいほどの状況だと想像できたのでしょう。

「あひしれりける女」の状況を知った作者には、どのような気持ちが動くのでしょうか(前回の検討を再考しました)。

感情a 紳士的にあるいは好意をもって接する。即ち同情をしてなんとかしてやりたい、または勇気づけたい。

感情b 今は関係のない女性なので傍観者の好奇心から、勝手なアイデアを言いたい。

感情c 今も好意をもっている女性なので、この際女との関係を改めて築きたい。

ここまでの『猿丸集』の男女の仲の歌の傾向からいうと、作者が傍観者の立場の歌は場違いであり、詞書の語句「いふ」からは、感情cを秘めて感情aの立場で詠うのではないか。

 そのため、この歌の構成が三文案の場合、

最初の文(初句)の文「たがみそぎ」の「みそぎ」は、上記「21.② 第一」に示した当時の意のうち、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」ではなく「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意であり、みそぎをして「厄払いのおはらいをしたい気分かね」とその女性に問いかけている疑問文であり、

次の文(二句)の文「ゆふつけとりか」は、その厄払いの対象を、後朝の朝にあたる暁に鳴く「ゆふつけとり」という表現で、婉曲に詞書にいう女が「(かたらひている)人の件」か、とさらに女に問う疑問文であり、

三番目の文(三句以下)は、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、二句までに述べた状況認識に対する作者の決意か確信を直截に表現している主語と述語を明記した普通の文章です。「からころも」が主語となるので、女性の意を含む「からころも」であろうと思います。「たつたのやま」は、「紅葉のたつたの山」が第一候補となります。

⑥ この歌が二文案の場合、

次の文(二句以下)に、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、作者の決意か確信を叙述している文となるはずです。その理由を述べているのが最初の文(初句)の文「たがみそぎ」です。このように端的に言っているので、それは、何かの略称か引用文ではないのか。

その候補は、当時著名な歌で「たがみそぎ」と詠っている歌か、「みそぎ」を詠っている歌に求めることになります。『猿丸集』の編纂時点を考慮すると、その候補は『萬葉集』と三代集にある歌が有力です。

しかし「たがみそぎ」とある歌は類似歌1-1-995歌しかなく、句頭に「みそぎ」とある歌は3首、句中に「みそぎ」とある歌は「せしみそぎ」とある歌が1首しかありません。

1-1-501 第十一恋歌一   題しらず      読人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

(みそぎは、「祭主が祈願する」意)

1-2-162 第四 夏   返し      よみ人しらず

ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふなはみそぎにぞせし

(みそぎは「罪に対してはらいをする」意)

1-2-216 第四 夏   みな月ふたつありけるとし      よみ人(しらず)

たなばたはあまのかはらをななかへりのちのみそかをみそぎにはせよ

(みそぎは「民間行事の夏越しの祓」の意

1-3-293歌 第五 賀   承平四年、中宮の賀し侍りける屏風      参議伊衡

みそぎして思ふ事をぞ祈りつるやほよろずよの神のまにまに 

(みそぎは「神の接遇する資格・許しを得る」意)

詞書の女は「人とかたらふ中」であり、逢う頻度などに悩んでいる女性です。このため、1-1-501歌は「逢う」ことに関する歌であり例示するには不適切と思わますが、男女の間の悩みの一つとくくれば可能性があります。1-2-162歌の作中人物とは男女の仲のステップが全然違いますので、適切ではないであろうと思います。1-2-216歌などもいかがでしょうか。

次に二文案の次の文(二句以下)を検討します。

二句の主語である「ゆふつけ鳥」が、「あふさかのゆふつけとり」では「たつたのやま」で鳴くと詠むのが解せません。「暁の鶏」が鳴くのは、「たつたのやま」との因縁が薄すぎます。

結局これらのことから、二文案よりは、三文案が妥当であろうと思います。

⑦ 前回の現代語訳(試案)は全面的に改めたいと思います。上記の三文案となります。三句の「からころも」(三番目の文の主語)は、少数の用例がある女性の代名詞です。

厄払いのおはらいをしたい気分かね。それは暁に鳴く鶏が関係するのかね。からころもさん、貴方に似合う山である「たつたの山」で声をあげ続けているよ。(お困りのようですね。)

この歌は、女を激励している歌です。女が諦めたとき、作者自身に頼るきっかけの歌(便り)を送ったということです。

23.この歌と類似歌とのちがいなど

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-47歌は詠む経緯を記し、類似歌1-1-995歌は「題しらず」で経緯不明です。

② ゆふつけ鳥の意味するところが変化しています。この歌は、「ゆふつけ」に鳴く「あふさかのゆふつけ鳥」であり、類似歌は、暁に鳴く鶏です。

③ 歌は三つの文章から共に成っていますが、二番目の文(二句)が、この歌は疑問文であり、類似歌は感嘆文です。

④ たつたの山の意味するところが異なっています。この歌は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山であり、類似歌は、障害物の象徴です。

⑤ この結果、この歌は、男が昔知っていた女を励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。

⑥ そして、詞書と歌から、この歌の「ゆふつけとり」の意が暁の鶏であったので、『猿丸集』の編纂が、作詠時点を943年以前と推計した1-10-821歌の作詠以降であることが判りました。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-48歌 ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

     あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

 

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

夏休みをとってから、次回、上記の歌を中心に記します。

2019/8/12   上村 朋)

付記1.語句の検討のブログは、つぎのとおり。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)に記した。

①みそぎ:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)の「9.⑥」

②「ゆふつけとり」:同上ブログ「10.③」 

③「からころも」:同上ブログ「11.②」

④「たつたのやま」:「わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山」(2017/6/25付け)の「表 三代集における「たつたのやま」表記の歌」

(付記終り  2019/8/12     上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も

前回(2019/7/29」、「猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけとり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して、類似歌について記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を誘っている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です(今回の検討で「昔知っていた」(女)を加え、類似歌の「予測」を改めました)。

 

2.~15. 承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。類似歌の前後10首を検討し、巻第十八は失意逆境の歌群であることを前提に、1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群とみなせた。次に、1-1-994歌と1-1-995歌の作詠時点でもある古今集よみ人しらずの時代とその前後の時代ごとの「たつた(の)山」そのほかの語句に関して当時の用例に基づき変遷を確認した。そのうえで、1-1-995歌を構成する文の検討を行った(下記に再掲)。

また、類似歌1-1-995歌の諸氏の現代語訳例に対する疑問点をあげた。次の5点である。

第一 雑下の部の歌は失意逆境の歌群(久曾神氏)というが、どのような点でそれを認めているのか

第二 歌の中で主役となっているとみえるゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは何を言わんとしているか示唆もない

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の関係を不問にしている

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果とだいぶ異なる

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」を省いて現代語訳している例があるが、31文字しかない和歌において、5字も7字も省いても意が通じる場合もあるものの、この歌ではいかがか

 

(再掲) 15.類似歌について現代語訳を試みると その1 

① 『古今和歌集』の配列と語句の検討を踏まえ、「題しらず」という詞書に従うと、類似歌1-1-995歌の現代語訳の前回の試み(2017/11/27のブログ)は誤りでしたので、改訳したい、と思います。

② 語句の意は、元資料の歌としては古今集のよみ人しらずの時代の意ですが、『古今和歌集』の歌ですのでその編纂者の理解している意となります。

③ この歌の文の構成をみてみます。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。

当時の「みそぎ」には、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」など鳴く鳥の存在が必須ではないので、初句と二句は関係ない語句であり、別々の事がらを述べている(二つの文である)、と理解できます。

そうすると、この初句のみで、一文を成す疑問文です。

二句「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞あるいは疑問の助詞の係助詞です。終助詞と理解すると、この句のみで、一文を成します。係助詞と理解すると三句以下とともに一文を成す可能性があります。この場合、主語がゆふつけ鳥になり、「ゆふつけ鳥」と言う表現が「あふさかのゆふつけ鳥」の略称(いうなれば既に一種の歌語)と知っている者にとって、その鳥が「たつたの山」で鳴くと詠むのは常識外れです。『古今和歌集』の編纂者の時代もそうでした。だから、二句は三句以下とも別の独立した文である、ということになります。(この点が前回と異なります)

このため、「か」は終助詞であり、二句のみで一文をなします。

終助詞「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意があります。『明解古語辞典』には「感動を表わす「か」(の用例)は和歌に集中する」ともあります。

三句以下は、そうなると、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

以上の三つの文からこの歌は成る、とみることができます。

16.類似歌について現代語訳を試みると その2

① 最初の文(初句)は、主語が明確されておらず、二句も同じです。また、初句の「みそぎ」をしている人も明記されていません。

だから初句を詠みだしているこの歌の作者と最初の文の主語の関係も分からないままです。

それらを解明するヒントは、『古今和歌集』の配列と詞書と用いている語句にもあるはずです。

② 最初に配列から検討します。久曾神氏の論をベースに、『古今和歌集』巻第十八を位置づけ、991歌~1000歌の配列を検討し、「1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留する)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」を構成すると指摘しました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/20付け)の7.④)。この歌の歌意がこれに添うであろう、と予想できます(これを、ヒント1ということにします)。

配列上奇数番号の歌とその次の歌の共通性を言うには、雑下にある歌全ての検討後のこと(ブログ同上(2019/7/20付け)の7.⑤)ですが、少なくともこの歌の前後においては共通性がありますので、この歌1-1-995歌と1-1-996歌に共通性がある、と予想します(ヒント2)。

また、前歌1-1-994歌に続けて用いている語句「たつたのやま」は、作詠時点が同じ時代であれば、共通のイメージを持っているはずです(ヒント3)。

③ 次に、詞書を検討します。

一般に、『古今和歌集』記載の「題しらずよみ人しらずの歌」は、伝承歌の可能性が高く、多くの諸氏がそのように断言しています。つまり849年以前の作詠時点です(ヒント4)。伝承される所以は、使い勝手のよい便利な恋の歌として実際に用いられていたか、官人の宴席の愛唱歌に相応しいか、のどちらかであると、思います。

恋の歌であるならば、恋人にしたい人に働きかけている歌ですから、歌をおくる相手を元資料の作者は想定しています(ヒント5)。また、恋の歌であれば宴席の愛唱歌になる可能性もあります。

④ 次に用いている語句を検討します。

「ゆふつけとり」のイメージについて時代を追った成果(付記1.参照)からいうと、「あふさかのゆふつけ鳥」を詠い込んだ歌なので、『古今和歌集』の編纂者の手元にあった元資料の歌は、伝承歌でも恋の歌ではないでしょうか(ヒント6)。つまり1-1-995歌は、この元資料の歌を、配列により編纂者の意図を加えている歌となっている、と理解できます(ヒント7)。

② 以上のヒントは、1-1-995歌の理解のためのヒントです。元資料の歌に関するヒントは、そのうち、ヒント3からヒント6であり、まとめると、

「作詠時点が849年以前の歌で、相手を特定している恋の歌」

が元資料の歌となります。元資料の歌を検討したうえで、この歌1-1-995歌を検討することとします。

 

17.元資料の歌

① 最初の文(初句)の現代語訳(試案)候補には、「たが」の意により、

「誰のみそぎか」(以下初句A案と称します)、

「誰がみそぎをするか(あるいは、したか)」(初句B案)

2案があります。初句A案の文の主語は明記されてない代名詞「それ」となります。初句B案の文の主語は「た(誰)」と明記されています。どちらの案も、「みそぎ」をしたのは「た(誰)」とぼかされています。なお、「みそぎ」の意は「祭主として祈願する」ことです。(付記1.参照)

しかしながらヒント6とヒント5から作者とこの歌をおくる相手に関係ない第三者を歌に登場させる必然性はありませんので、「た(誰)」は、作者かこの歌をおくる相手と予想できます。作者は、相手の行動をまだ詳しく知り得ないからこの歌を送り、互いに知り得るような関係になろうとしているところなので、結局「た(誰)」の有力候補は作者となります。

最初の文(初句)は、だから、作者自身の行動を訴えている文ではないかと推測します。「神に祈願したぞ」ということを反語形式で述べている文ではないか。

② 次の文(二句)「ゆふつけ鳥か」の「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意の終助詞なので、二句の現代語訳(試案)候補としては、

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に現れたのだ」と感動している(二句感動案)

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に反映しないのか」と疑問を呈している(二句疑問案)

2案があります。どちらの案でも二句は、作者の感想・判断と思えます。

③ 三番目の文(三句以下)も、主語ははっきりしていませんが、述語は「(をりはへて)なく」と明記されています。この歌で、唯一の動詞です。

ヒント6により恋の歌ですので、作者はこの歌で相手に自分の気持ち訴えているはずですが、二番目の文までにそれは強く表現されていません。三番目の文にあるこの唯一の動詞「なく」に気持ちを込めているようにみえます。そうすると、「なく」主体は作者か、作者を示唆するものである、というのが望ましくなります。

三つの文で構成するこの歌は、最初の文で自分の行動をとりあげ、次の文でその効果を自分で評価し、三番目の文で自分の思いを述べようとしている、と理解するのが一番素直です。つまり、作者自身が行ったことを反語で示しその期待する結果(の予想)を感動文か疑問文で示したあと、決意か確信を直截に表現して相手に訴えた歌が、この歌となります。恋の歌のテクニックとして異端のものでありません。

歌を構成する三つの文をみると、最初の文(初句)には2案が残り、次の文(二句)も2案あり、歌で何を言いたいのか宙ぶらりんです。したがって、三番目の文により初句と二句の意に誤解が生じないようにしなければなりません。

そうすると、三番目の文(三句以降)ではっきりと「なく」のが何者かを明らかにするのが良い方策です。作者を示唆する語句(多分名詞か代名詞か)の候補として、最初の語句(三句の「からころも」)に、注目することになります。「からころも」はその着用者をも指す例が『萬葉集』以来あり、『古今和歌集』編纂後にもあるからです。

④ 先の語句の検討(付記1.参照)から、「からころも」は次のことが指摘できます。

第一 700年代の「からころも」を詠う歌は『萬葉集』に7首のうち、3首において「からころも」(いうなれば耐用年数1年未満となってしまっている防寒用外套)を着るチャンスが多い男性をも指していました。

第二 701~850年代の「からころも」は、三代集にある5例の歌のうち、からころもの意は700年代と同じ単独に用いている歌が3首、衣裳の美称の意が1首のほか、『萬葉集』に引き続き着用者をも指している例が1首あります。

第三 推定作詠時点以降である851~800年代の「からころも」は三代集にある2首の歌のうち、からころもの意を単独に用いている歌は1首、単に衣裳の美称の意が1首あります。

第四 901~950年代でみると24例のうち、単独に用いている歌が9首ありますが着用者をも指している歌9首あります。

これをみると、「からころも」が着用者をも指す用い方は『萬葉集』以来伝統的にある、と理解でき、ヒント4の作詠時点の点からも、この元資料の歌の「からころも」にも十分その可能性があります。

⑤ 一例をここで追加したいと思います。作詠時点がこの元資料の後代(901~950歌が作詠時点)である1-1-410歌です。これまで、単独の意と整理してきましたが、再度検討すると、「からころも」が着用者をも指して作者は用いているのだと理解したほうが妻を思う気持が強く表れ、歌意に適うと思われることに気が付きました。(付記2.参照)。

1-1-410歌は次のような歌です。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる            在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

この歌の三句にある「つま」は、作者在原業平朝臣の妻を意味しています。その「つま」を形容している語句は、「なれにし(つま)」だけではなく「きつつなれにし(つま)」であり、誰が「なれ」ているかと言えば、作者以外の人であるはずがありません。

「きつつなれにし(つま)」の「つつ」は接続助詞であるので、動詞「来」と動詞「成る・慣る」は、同時進行のことであり密接に関係している行為として詠っていることになります。

動詞「来」には、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」の意があります。

「きつつなれにし(つま)」とは、「ともに(人生の)目的地まで歩んで行きかつ親しみも深くなっている(妻)」の意であり、子供達の活動をサポートするなど仲のよい夫婦像のイメージが浮かびます。自分が一緒であったことを「からころも」に込めることができるのですから、現代語訳の際省くのが惜しい語句が「からころも」です。

⑥ さて元資料の歌の検討に戻ります。「からころも」が着用者である男性の作者の代名詞であるので、三番目の文の意は、「からころも(の着用者である作者)が(をりはへて)なく」ということになります。そして、初句は、反語で(いずれでも可能ですがここでは)初句B案とし、二句は、二句感動案とする、恋の歌となります。次の文(二句)の「ゆふつけとりか」ということは、逢うを示唆する鳴声を聞いたということであり、相手の女性側の便りをもらった、ということを婉曲言っていることになります。

⑦ この元資料の歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、「あふさかのゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、(相手からみれば)一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在かと沈んでいた私は、たつたのやまで繰り返し声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

作中人物(この歌では作者自身に重なる)が、「みそぎ」をするという初句を発する根拠は何なのかと考えてみると、恋の歌であるので、進展を確信した時点か、あきらめ切れないと迫る時点に作中人物がいるのではないか、と推測します。前者の例がこの元資料の歌であり、後者の例は『古今和歌集』の恋の部の歌1-1-501歌(およびその元資料)ではないでしょうか。この元資料の歌と1-1-501歌(の元資料の歌)は作詠時点が同時代と推計している歌です。

 

18.類似歌について現代語訳を試みると その3

① この歌1-1-995歌は、『古今和歌集』雑下の部に、編纂者によって配列された歌であるので、上記の元資料の歌に先の残っているヒント(1と2と7)を考慮して検討します。

「たつたのやま」の意は、元資料の歌の作詠時点でも『古今和歌集』編纂者の時代でも壁の意を強調し、抽象的な・実際の所在地を問わない(「あふさかやま」と対を成した)「たつたのやま」となっています。1-1-994歌における「たつたのやま」も比喩的な意味が歌において重きをなしていました。(付記1.参照)

1-1-994歌において作者の相手である男性は、「たつたのやま」を越えて帰っていっていますが、また「たつたのやま」を越えて作者の許に戻ってくると作者は確信して詠んでいます。

ヒント7より、1-1-994歌の直後にある1-1-995歌は、「たつたのやま」を「越えた」(逢うことができる)喜びを詠っている、という配列上にあるといっておかしくありません。そして「たつたのやま」は、恋の分岐点を指し、良い方向に進んだことが、作者が「をりはへてなく」原因である、と推測します。

② 念のため、1-1-995歌として配列した古今和歌集』編纂者の認識・イメージしていた語句の意味を確認します。

「みそぎ」という語句のイメージは、元資料の歌の作詠時点以前より第一に「祭主として祈願する」意および「罪に対してはらいをする」意が続いています。(付記1.参照)

「あふさか」表記のない1-1-995歌の「ゆふつけとり」は古今和歌集』編纂者の時代もあふさかのゆふつけとり」の意です。その日の夕方以降「逢う」期待を夕方に鳴いている鳥に込めた語句であり、鶏という限定はありません。

「からころも」の意が「外套」の意と「それの着用者」の意であるのも変わりませんが、更に衣裳(美称)の意と外来の服の意に女性の意をもっています。

③ 改めて1-1-995歌としての文の構成をみてみます。主な語句の意は、上記②のように元資料の歌の作詠時点と変わっていないので、元資料の歌の文の構成と変わりません。

即ち、この歌は三つの文から成ります。

初句のみで、一文を成し、疑問文です。

二句のみで、一文を成し、「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞であり、「ゆふつけとり」は、「あふさか」で鳴いてこそ詠われるのであり、感動文あるいは、疑問文です。

三句以下は、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

④ 1-1-995歌として現代語訳を、ヒント(1と27)をも踏まえ試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

⑤ 上記「2.~15.承前」であげた諸氏の現代語訳例への疑問を解消した現代語訳(試案)となりました。事項別には次のとおり。

第一 この歌は、みそぎしてまで恋が進展するよう邁進していたが、便りを得たと詠い、「執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」にあっておかしくない歌となっている。

第二 ゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは「あふさかのゆふつけ鳥」なの恋の前進を示し、作者の喜びの表現である。

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の深い関係を利用して歌を詠んでいる。「ゆふつけ鳥」が鳴く意は、「あふさかのゆふつけ鳥」なのでほかの歌の場合と変わらない。この歌において、たつたの山で鳴いているのは、作者自身である。

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果と同じである。

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」の意を十分利用した歌であり、現代語訳には省けなかった。

萬葉集』と『古今和歌集』という和歌集に関しての寓意は、1-1-996歌と共通に詠う「鳥」が『古今和歌集』を、恋の成就が、和歌の隆盛ひいては天皇を中心とした律令の世界の隆盛を暗喩しているとおもいます。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-47歌を中心に記し、類似歌との違いを確認します。

2019/8/5  上村 朋)。

付記1.語句の検討について

① 「みそぎ」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その2 あふさかのゆふつけとり」(2019/7/29付け)の「9.」にまとめている。

② 「ゆふつけとり」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「10.」にまとめている。

③ 「からころも」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「11.」にまとめている。

④ 1-1-994歌の「たつたのやま」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22付け)の「6.」に記している。

 

付記2.1-1-410歌の初句から三句について

① 1-1-410歌は、『古今和歌集』巻第九 羈旅歌 にある歌である。『新編国歌大観』より引用する。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる               在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

② 初句「からころも」とは、『萬葉集』以来の「からころも」の意で用いられており、旅行用の外套の意にその着用者をも意味している。

③ 二句「きつつなれにし(妻)」とは、動詞「来」の連用形「き」+接続助詞「つつ」+動詞「なる」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「き」の連体形「き」となる。

④ 二句にある語句の意を、『例解古語辞典』より引用する。

動詞「来」の意は、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」がある。

接続助詞「つつ」の意は、連用修飾語や接続語をつくる助詞であり、aおおもとは、動作の反復・継続して行われている気持ちを表わすのに用いる。b二つの動作・作用が同時に行われることを表わす場合などもある。

動詞「なる」に漢字も交えた表現でみると、次のよういくつかある。

成る:四段活用。aできあがる。b変化してある状態になる。

業る:四段活用。生業とする。

鳴る:四段活用。音が出る・ひびく。

慣る・馴る:下二段活用。a慣れる。b親しむ・うち解ける。

萎る:下二段活用。衣服がよれよれになる。使い古す。

過去の助動詞「き」。単に、ある事実が過去にあったということを表わすのではなく、過去のことを、確かにあったこととして思い起こす気持ちを表わすのがおおもとの用法であり、a話し手自身の直接体験を回想して述べる。b話し手の経験と無関係に、過去の事実を、確かにあったこととして述べる。

⑤ 詞書の趣旨は、「作者とその友人が京より東の方面に出向き、三河国の八橋というところで休憩した際「かきつはた」の五文字を句の初字として、旅中の心持を詠もうということで詠んだ歌」ということである。つまり、公務ではないと思われる旅行において、都を出発し(言葉遣いも異なる地を意識しつつある)旅中の心持を詠んだ歌が、この歌である。作者の業平の実際の行動であったかどうかは定かなことではない。このように、『古今和歌集』編纂者は詠う場面を設定した、ということである。

この歌は、作者が同じである1-1-294歌と同類の歌であり、詞書に従った題詠である。

⑥ 初句~二句を「唐衣きつつなれにき」とみればその主語は、「からころも」(着用者)である。

⑦ 初句~三句の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった(「からころも着つつ萎れにし(つま)」。私(唐衣)にはここまで共に歩んできて(来つつ)、親しんだ(慣れにし)妻がいるのだが、」

旅行用の外套が十日かそこらで着馴れて褄がよれよれになるのは早すぎます。それでも耐用期間が短いので京からいかに離れた辺鄙な場所まで来たかのイメージは、伝わります。「からころも」が外国からの衣裳の意であると、そのような服を着馴れてよれよれになる、という形容は美的センスが無さすぎます。

⑧ 和歌全体の現代語訳を試みると、次のとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった。私にはここまで共に歩んできて、親しんでいる妻がいるのだが、今回は一緒の旅行でもなく、遠くから想うだけであり、はるばるとこの地にまで来てしまったことを感慨ふかく思うことである。」

⑩ この歌の現代語訳の例を示す。

豪華な衣も何度も着ると柔らかくなって身に馴れるものであるが、私にもそのように馴れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるとやって来たこの旅がいっそうしみじみと思われることであるよ。」(片桐洋一氏古今和歌集全評釈』(講談社1998/2)

「都には長く連れ添って親しくなった妻がいるので、はるばると遠くここまで来た旅を感慨ふかく思うことであるよ。」(久曾神昇氏『古今和歌集』(講談社学術文庫))

(付記終り。2019/8/5    上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第47歌その2 あふさかのゆふつけ鳥

前回(2019/7/22」、「猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その2 ふさかのゆふつけ鳥」と題して、類似歌に関して記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を誘っている歌であり、類似歌は、男が逢えない状況を打開しようとしている歌です(今回の検討で、この歌に「昔知っていた」(女)を加え、類似歌では「予測」を改めました)。

 

2.~7.承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。類似歌の前後10首を検討し、巻第十八は失意逆境の歌群であることを前提に、1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群とみなせた。また、1-1-994歌と1-1-995歌の作詠時点でもある古今集よみ人しらずの時代における「たつた(の)山」の意を確認した。)

 

8.類似歌の現代語訳の例

① 類似歌1-1-995の前後の配列上の検討が終わったので、次に類似歌について、検討します。

最初に、類似歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。

「あれは木綿つけ鳥(鶏)であろうか、立田山にながながと鳴きつづけているが。」久曾神昇氏『古今和歌集』(講談社学術文庫

「「ゆふつけ」鳥という名がついているからには「木綿」(ゆふ)を付けているのだろうが、いったい誰のみそぎの木綿を付けた鳥が、あのように竜田の山に、時節到来とばかり鳴くのか。」(竹岡正夫氏『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版))

② 久曾神氏は次のように指摘しています。

A たがみそぎ」とは、だれのみそぎの木綿(ゆふ)であるか、の意。次の「ゆふつけ鳥」にかかる枕詞。

B 「からころも」(唐衣)とは、衣を裁つ意で、「たつた」にかかる枕詞。

C 「たつたの山」とは、立田山。大和国河内国との交通路に当たる山。

D 「をりはへて」とは、長くひきのばしての意。

E 「ゆふつけ鳥」とは、祭礼のときに木綿(ゆふ)をつけた鳥の意で、鶏をいう。『俊頼髄脳』『綺語抄』『和歌童蒙抄』『袖中抄』などをはじめ、平安時代の歌学書などに諸説が見える。・・・四境祭によって鶏の異名となったと見るのがよかろう。闘鶏の時に木綿をつけたとか、白い尾長鶏とする説もあるが、古歌の歌詞から見るに鶏とするのがよい。

③ 竹岡氏は、次のように指摘しています。

A 1-1-994歌が「風吹けば沖の白波立つ=竜田山」と言葉の上での序があったのを受けて、同様に「誰がみそぎ木綿付け=夕つけ鳥」と言葉の上だけの序を置いている。

B 1-1-994歌で「君が一人越ゆらむ」とある、その「君」がこの歌では今、一人で竜田山を越えていて、夕つけに鳴く鳥の声を聞いてこの歌を詠んでいる趣にもなっている。

C 「唐衣」は、「たつ(裁つ)」の枕詞であるが同時に上の「みそぎ」、「木綿(ゆふ)」と縁があるのであろう。「禊」で「木綿」の「衣」を着用するのである。

D 「夕つけ」を「木綿付け」と見立てたのは、竜田山の神厳な雰囲気から思いつかれたものであろう。

E (古今・後撰の)ゆふつけ鳥」は、「夕つけ」(夕方)に鳴く鳥の意。なく鳥の種類は、各歌(の場面場面)により推測。ここでは、「夕つけ(夕がた)」に鳴く鳥のこと。逢坂の関などには鶏が飼われていたようであるから、その鶏のことを言っているのであろうが、竜田山では・・・夕方になると鳴く鳥の類かとも考えられる。

F 二句の「ゆふつけ鳥か」の「か」は、「誰が・・・か・・・」と詠う歌の例よりみて末尾の「鳴く」と係り結びの関係にある。この歌は「ゆふつけ鳥」が主語である。

G 「みそぎ」とは、川原などで水によって身を浄め、罪や穢れを祓い落すことをいう。(1-1-501歌の釈において)

なお、竹岡氏は、「たつたやま」について語釈していません。その位置を図に示しています(現在の龍田大社付近の図)。

⑤ 2例の現代語訳をみると、次の点が疑問です。

第一 『古今和歌集』巻十八雑下の部の歌は、失意逆境の歌群(久曾神氏)というが、どのような点でそれを認めているのか

第二 歌の中で主役となっているとみえるゆふつけ鳥が、「ながなが鳴い」たり「時節到来とばかり鳴く」のは何を言わんとしているか示唆もない

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の関係を不問にしている

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果とだいぶ異なる

第五 三句「からころも」に加え初句「たがみそぎ」も省いて現代語訳している例があるが、31文字しかない和歌において、5字も10字も省いても意が通じる場合もあるものの、この歌ではいかがか

⑥ ここまでの『猿丸集』の検討は、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考え、和歌集の撰者は、自らの意図で歌を取捨選択し歌集を作っていること(その和歌集における歌の意図と元資料の作者の意図とは別であるということ)、を前提として行ってきました。

それにより、各歌の理解が十分出来、その前提を認めない場合の歌の理解は、その歌集に置かれた歌としては不十分であることが多々ありました。

だから、用いている語句に関して当時の用例に基づき得た成果を踏まえ、この歌も、この前提で検討をしたいと思います。

 

9.歌の語句の当時のイメージ みそぎ

① 類似歌1-1-995歌に用いられている語句で一度検討した語句は、次のとおりです(付記1.参照)。

初句にある、みそぎ

二句にある、ゆふつけ鳥

三句にある、からころも

四句にある、たつたの山

五句にある、をりはへて

たつたの山やゆふつけ鳥と関係が深い、あふさか(山)

② 「当時」とは、1-1-995歌が詠まれたと推定している時点、即ち『古今和歌集』のいわゆる「よみ人しらずの作者の時代」を指します。『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代がこの後に続いています。「当時のイメージ」とは、その語句について当時の歌人の共通理解を言います。その語句のイメージは、当然次の時代にも引き継がれますし、その語句にはあらたなイメージ、派生したイメージが付加されたり、状況の変化で一新している場合もあります。

そのため、次の時代である『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代のイメージも比較のため、ここに改めて確認をすることとします。

③ 語句ごとに検討します。

初句にある「みそぎ」という語句を用いた『萬葉集』歌は、『新編国歌大観』において5首あり、「祭主として祈願する」意が3首、「罪に対してはらいをする」意が2首でした。

「はらへ等」の語句を用いた『萬葉集』歌は、4首あり、「祭主として祈願する」意が1首、及び「羽を羽ばたく」「治める・掃討する」意が3首でした。

合計9首すべて701年~750年の間に詠まれた歌です。(付記2.の①参照)

④ 「みそぎ」の意が、「祭主として祈願する」ということは、「祭主として祈願する」ことがメインの行為(あるいは行事)の略称として、最初に行うところの霊的に心身を清める行為(狭義の「みそぎ」)の通称「みそぎ」を用いている、ということです。メインの行為(あるは行事)については、歌や詞書で判断することになりますので、「みそぎ」の意はいくつもあることになります。少なくとも、和歌にみる「みそぎ」とはメインの行為の略称の場合があるということです。

「祭主として祈願する」場合、それを含む一連の宗教的あるいは民俗的行事とは、行う場所(祭場)を用意し霊的に清め、供物を用意し、狭義の「みそぎ」を済ませた者が、神の接遇する資格・許しを得」た後、何らかの祈願をする宗教的行為をし、これまでの一連の行為の終了を神に告げ、その場所の霊性を除くまでを言います。直会を含む場合も簡略化している場合もあります。

一般に「祭主として祈願する」場合は、水辺における祭場を必須としている訳ではありません。

狭義の「みそぎ」とは、現代においては、水を用いる場合が多く、(神道式の)幣ではらってもらうことを含める場合があります。

⑤ 次に、三代集で「みそぎ」という語句を用いた歌は8首あります。(付記2.の①参照)

作詠時点が801年~850年と推計した歌は、2首あり、「祭主として祈願する」意の歌が1首(1-1-501歌付記2.の②参照)と類似歌1-1-995歌です(その意を今は保留します)。

851年~900年の歌は、ありません。

901年~950年の歌は3首あり、「罪に対してはらう」意と「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意と「神の接遇する資格・許しを得る」意が各1首です。

951~1050年の歌は3首あり、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が1首と「朝廷の特定儀礼」の意が2首です。「祭主として祈願する」意の歌はありません。

三代集で「はらへ等」と言う語句を用いた歌は13首あり、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が4首と「喪明けのはらへ」の意が1首と、「羽ばたく等」の意が8首です。「はらへ等」と言う語句で「祭主として祈願する」意の歌はありません

⑥ これから、「みそぎ」という語句のイメージは、付記2.の①の表にあるように701年~750年の間の「祭主として祈願する」意および「罪に対してはらいをする」意のみから、901年~950年には、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の意が加わり、951~1050年には「朝廷の特定儀礼」の名にもなった、という拡大をみることができます。

「罪に対してはらう」意は「神の接遇する資格・許しを得る」意とともに自らの穢れを落とすという意が通底にある行為であり、また、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」の行為の基本には「罪・穢れを払いおとす・身から遠ざける」行為があります。

なお、『貫之集』をみると、「みそき」表記の歌が3首あり、「はらへ」表記の歌5首とともにいずれも屏風歌でかつ「民間行事の夏越しの祓」を意味しています(付記4.参照)。 また「みそく」と「はらふ」と表記のある歌が1首(3-19-353歌)は、「祭主として祈願する」意です。これらはすべて作詠時点は901~950年です。

⑦ 1-1-995歌の推計作詠時点は、801年~850年ですので、その当時の「みそぎ」という語句のイメージは、『萬葉集』歌以来の「祭主として祈願する」の意の「みそぎ」が主流であった、と思われます。

⑧ この歌のように「みそぎ」とゆふつけ鳥」と言う語句が共に用いられている歌は、『新編国歌大観』全体では10首しかありません。勅撰集には「たがみそぎ ゆふつけ鳥か・・・」と詠うこの類似歌1-1-995歌しかなく、3-4-47歌を除くと年代順には『壬二集』にある3-132-732歌(1215年の順徳院名所百首における詠)がその次に詠まれています。

 

10.歌の語句の当時のイメージ ゆふつけ鳥

① 「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、『新編国歌大観』記載の歌では、採用した推計方法の限界から作詠時点が849年以前としか推計できない次の3首が最古の歌であり、清濁抜きの平仮名表記でみると、みな「ゆふつけとり」表記です。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-995歌 たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

このように、『萬葉集』には「ゆふつけとり」表記の歌がありません。

② この3首を含めて、「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、1050年までには一旦終焉しました。この間に22首あります。この22首には、鳥が「なく」行為を詠んでいる歌が16首あります。「なく」とは、歌の本文に「なく(鳴く)・告ぐ・こゑたつ・きこゆ・ひと声」の表現がある、という意です。

③ この16首を、作詠時点順にみると、「なく」時間帯と「ゆふ」に掛る詞に変遷があります。

第一に、最古の歌から923年以前と推計した歌(5-417-21歌)までの7首は、時点が不明か夕方に「なく」歌であり、そしてすべて「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっていて不合理ではありません。そして「ゆふつけとり」のみの表記が「あふさかのゆふつけとり」の意と決めかねる歌は、「あふさか」表記のない1-1-995歌だけです。さらに、「あふさかのゆふつけとり」は、季節を気にせず鳴き続けています。

また、作中人物は「逢ふ」前の(あるいは逢えると信じてよい)時点で、詠っています。但し、1-1-995歌を留保します。

第二に、8番目に古い943年以前と推計した1-10-821歌と9番目の951年以前と推計した歌5-416-188歌は、暁に「なく」歌であり、歌の鳥の名に夕方の意を掛けているのは不自然です。そしてこの2首における「ゆふつけ」(鳥)は、「あふさかの」と形容されていません。

1-10-821歌は、歌合における 「暁別」 と題する歌であり、その題から鳥の「鳴く」時間帯が作者にとり所与のものであったことが分かります。だから、ゆふつけ鳥が初めて暁に鳴いた歌となり、積極的に「あふさかの」という形容を「ゆふつけとり」にしなくなった最初の歌でもあり、「ゆふつけとり」と表記した後朝の朝おくる歌としても最初の歌です。また、『大和物語』119段の5-416-188歌も、歌に「暁」と「なく」を明記してある歌です。

1-10-821歌 『続後撰和歌集』 兵部卿元良親王家歌合に、暁別   よみ人しらず

したひものゆふつけ鳥のこゑたててけさのわかれにわれぞなきぬる

5-416-188歌 『大和物語』 149段 (直前の地の文)えあふまじきことやありけむ、えあはざりければ、かへりにけり。さて、朝に、男のもとよりいひおこせたりける。

あか月はなくゆふつけのわびごゑにおとらぬねをぞなきてかへりし

第三に、10番目となる955年以前と推計した1-2-982歌以降は、7首のうち3首が、暁に「なく」歌であり、かつ作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っており、そしてその3首は「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であったり、「夕」の表現をわざわざするという工夫を凝らしています。

④ 「ゆふつけ」表記に含意する詞は、最古の歌の「夕べ」から始まり、1-10-821歌で「結ふ」、(967以前の作詠時点と推計した)3-23-26歌で「木綿」(ゆふ)が加わりました。「ゆふつけとり」は、1-10-821歌以降、暁に鳴く鶏の意が定着してゆきます。

⑤この1-1-995歌の作詠時点の頃及び『古今和歌集』編纂時は、上記③の第一の時期に該当し、「ゆふつけとり」表記は、原則「あふさかのゆふつけとり」を意味しており、その日の夕方以降「逢う」ことを期待した意を含意した(期待を込めた)夕方に鳴いている鳥の意であり、鶏という限定はありません。

しかし「あふさか」という地名との関係が不明なのが1-1-995歌です。

⑥ 「あふさかのゆふつけとり」と11文字も費やすのですから、(作者であり、鑑賞者でもある)歌人たち共通の認識があったはずです。そして略称が作れなくて文字数をなかなか減らせなかったと思われます。

⑦ なお、「ゆふつけ」表記あるいは「ゆふつくる」表記の歌にはゆふつけ鳥を意味しない歌もあり、単に「夕べ」、「木綿を付ける」意の歌が各々1首、5首あります。

 

11.歌の語句の当時のイメージ からころも

① 「からころも」については、片岡智子氏が三代集を含めて検討した成果に基づいています。

② 700年代の「からころも」は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)を指します。

また、耐用年数が短いので親しいものがよく新調してあげる(裁つ場合もある)、ということになります。

③ 「からころも」を詠う歌は萬葉集』に7首あり、728年以前と推計する歌から755年以前と推計する歌までです。

「からころも すそ(裾)・・・」と詠う歌が4首、「からこもろ きみにうちきせ(着る)・きなら(着馴らす)・きなし」が3首あり、「たつたの山」に掛かる歌が1首あります。さらに今回確認すると3首は男が「からころも」を着ている状況を詠っています(2-1-2626歌、2-1-2690歌、2-1-4425歌)。

④ 「からころも」を詠う歌は三代集に39首あります。今回再検討すると次のように変わりました(付記3.参照)。

作詠時点の推計が850以前は5首、「からころも」の意は700年代と同じの歌が2首、それにからころも着用者の意を含ませた歌が1首、それに衣裳の意を含ませた歌が1首と、今検討対象の1-1-995歌です。

851年~900年は2首、「からころも」の意は700年代と同じが1首、単純に衣裳の美称の意の歌1首です。後者は、上記のような意から生まれるとは思えない意です。女性むけの外国産の衣(韓衣)を指しているのではないか。

901年~950年は24首、「からころも」の意は700年代と同じが9首、それに女性の意を含ませた歌が4首、それに着用者の意を含ませた歌が9首あり、衣裳の美称の意が1首、外来の服の意に女性の意を含ませた歌が1首です。

これは、「からころも」の意に、700年代の延長上に、着用者を指すことが増え、女性むけの外国産の衣(韓衣)の意が拡大した、ということになります。平安時代の女官の正装である上着の上に着る「からぎぬ」に連なると思えます。

951年~1000年が8首、「からころも」の意は700年代と同じが4首、それに着用者の意を含ませた歌が4首です。

着用者の意を含ませた歌の1例を示します。

後撰和歌集』 巻第十 恋二  1-2-622歌 女につかはしける       よみ人しらず

終夜ぬれてわびつる唐衣相坂山にみちまどひして

⑤ 「からころも たつたのやま」という表記のある歌は、『萬葉集』と三代集で5首あります。作詠時点順にいうと、

最初が2-1-2198歌(738年以前 巻十 秋雑歌 詠黄葉  よみ人しらず)、

次に1-1-995歌(849年以前 巻十八 雑  よみ人しらず)、

三番目以降は1-2-359歌(905年以前 巻七 秋  よみ人しらず)、1-2-383歌(905以前 巻七 秋  よみ人しらず)、1-2-386歌(945年以前 巻七 秋  つらゆき)です。

類似歌1-1-995歌以外の4首は、秋の紅葉を詠んでいます。この4首において、「からころもたつ」とは、「からころも」という衣(防寒用の外套)を所定の形に仕立てる(裁つ)意、となり、仕立てた衣を「たつたのやま」に見立てていることになります。そのため、季節感もあるものであり、毎年秋に新調されて、着馴れて結局着つぶしてしまう衣が、紅葉の山が出現しそして落葉の山へと移ることの比喩となり得ています。類似歌1-1-995歌は部立が雑の部にある歌であり「紅葉したたつたのやま」を詠んでいると断言できません。

⑥ また、「たつ」は、「裁つ・立つ・発つ・(噂が)起つ」などの意がある同音異義語ですが、「からころも」がもともと外套という衣類の一種であって「ころも」の総称・美称に容易に変容できたことから「たつ(裁つ)・裾・袖・衣・たもと」にも「からころも」は掛かるように(抽象化し枕詞的に)なっていっています。

⑦ これをみると、からころもの意は700年代と同じ意のみの歌が17首と4割を超えていますが、それに着用者の意を含めている歌が、850年以前からあり14首と4割近くあります。

 この結果、1-1-995歌が詠われた時代の「からころも」の意は、700年代と同じ意であり、それに着用者の意を含む場合もあるのが判りました。

『例解古語辞典』には「からころも」を立項し、枕詞のほか「からぎぬ」と同じとし「平安時代以後の女官の正装。」と説明していますが、そのような意に変わる以前の時代が、古今集のよみ人しらずの時代と言えます。

 

12.歌の語句の当時のイメージ たつた山

① 「たつた(の)山」については、前回の検討時に次のように確認しました。(付記1.参照)

② 「たつた(の)山」と詠う『萬葉集』の歌は作詠時点がみな700年代ですが、既に、阻む壁の意を強調し、「たつ」に「発つ」「起つ」を掛けて用いられており、「たつた(の)山」という実際の山地の名のほかにそれから離れて抽象的な・実際の所在地を問わない「たつたの山」として(逢うことを予想できる)相坂(山)ではないところの代表地名として万葉集時代に選びとられていたと思われます。

二人の仲を断つ(切り離す・隔てる)意をこめた「たつたの山」が家持作の2-1-3953歌にあります。

③ 『古今和歌集』のよみ人知らずの時代もそれを受け継ぎ、「あふさかやま」と対を成して、たつたの山も抽象化されてきていたのではないか。1-1-994歌においても、そのとおりでした。

④ なお、『古今和歌集』編纂者が活躍する頃、寝殿造りという建物における屏風の需要に対応して万葉集時代その山地の紅葉も詠われている(かつ平安京の西方にある)「たつた(の)山」の山中に、紅葉の映える河として「たつたかは」が創出され、その後その紅葉が「たつた(の)山」にも適用されました(但し、『古今和歌集』の歌には紅葉が詠われていません)。

 

13.歌の語句の当時のイメージ をりはへて

① 「をりはへて」と言う表記は、『萬葉集』にありません。

② 古今和歌集』の成立時点を905年とすると、この年以前に詠まれたと思われる歌の4首にこの表現があり、この「たがみそぎ・・・」の歌)1首だけでゆふつけ鳥がなき、ほかの3首ではほととぎすがなく、と詠まれています。

③ 三代集における「をりはへてなく」とは、一フレーズの時間が長いというよりも、飽きないでそのフレーズを繰り返している状況を指しています。「声ふりたてて」も同じ状況を指しています。

④ しかしながら、ブログ「わかたんかこれの日記 猿丸集からのヒントその1」(2017/11/20)で検討したように、三代集の連語の例のほか、「「をりはへて」の「をり」を、「居り」と「折り」、「はへ」を「延へ(て)」と「這へ(て)」とする理解があります。

例えば、「(たつたのやまに)居りつづけ(延へて)、鳴いている。」とか「(たつたのやまに)居り、心にかけて(延へて)、鳴いている。」とか、連語より、鳴く鳥の行動描写が細かくなります。今、「あふさかのゆふつけ鳥」が「たつたの山」に来て鳴かないのであれば、「鳴き方」の描写と割り切ってもよい、と思いますので、その場合は、連語のみの意として差支えないと思います。

⑤ このように、1-1-995歌の作詠時点の前後、「をりはへて」は同じ意です。

 

14.歌の語句の当時のイメージ あふさか(山)

① 萬葉集』に「あふさか」とある6首は、「あふさかやま」という表記が5首、「あふさかを(うちいでてみればあふみのみ・・・)という表記が1首です。そしてそのうち3首に「逢ふ」意を掛けています。「あふさかやま」の抽象化が始まっている、とみられます。

② 三代集の「あふさかのゆふつけとり」は、850年以前のよみ人しらずの時代から詠まれており。表記した歌5首すべてが「(貴方に)逢ふ」を掛けており、作中人物が「逢ふ」であろうと予測している時間帯の前に「ふつけとり」が鳴いています。つまり、夕方になって作中人物の感情の高まりを表わし、あるいは予祝をするように鳴いていると聞きなしています。

そして、901~950年に歌人は創意工夫して(あふに反するような)あふさかの関を詠み始めています。

③ また、「あふさか(の)やま」と表記された三代集記載の歌10首はすべてに「逢ふ」意が掛かっています。

③ 「あふさか」の景物と言う捉え方をすると、「山」は『萬葉集』の時代からあり、「ゆふつけとり」が、849年以前の1-1-536歌などで生まれ、その時代に、関も「しみつ」(清水)も生れましたが、関の流行は901~950年代です。

④ 1-1-995歌が詠われた頃も、『古今和歌集』の編纂時も、同じ意味合いでした。

 

15.類似歌について現代語訳を試みると その1

① 『古今和歌集』の配列と語句の検討を踏まえ、「題しらず」という詞書に従うと、類似歌1-1-995歌の現代語訳の前回の試み(2017/11/27のブログ)は誤りでしたので、改訳したい、と思います。

② 語句の意は、元資料の歌としては古今集のよみ人しらずの時代の意ですが、『古今和歌集』の歌ですのでその編纂者の理解している意となります。

③ この歌の文の構成をみてみます。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。

当時の「みそぎ」には、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」など鳴く鳥の存在が必須ではないので、初句と二句は関係ない語句であり、別々の事がらを述べている(二つの文である)、と理解できます。

そうすると、この初句のみで、一文を成す疑問文です。

二句「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞あるいは疑問の助詞の係助詞です。終助詞と理解すると、この句のみで、一文を成します。係助詞と理解すると三句以下とともに一文を成す可能性があります。この場合、主語がゆふつけ鳥になり、「ゆふつけ鳥」と言う表現が「あふさかのゆふつけ鳥」の略称(いうなれば既に一種の歌語)と知っている者にとって、その鳥が「たつたの山」で鳴くと詠むのは常識外れです。『古今和歌集』の編纂者の時代もそうでした。だから、二句は三句以下とも別の独立した文である、ということになります。(この点が前回と異なります)

このため、「か」は終助詞であり、二句のみで一文をなします。

終助詞「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意があります。『明解古語辞典』には「感動を表わす「か」(の用例)は和歌に集中する」ともあります。

三句以下は、そうなると、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

以上の三つの文からこの歌は成る、とみることができます。

④ 各文ごとの検討を、次回、行うこととします

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

3-4-47歌を中心に記します。

2019/7/29  上村 朋)。

付記1.語句検討の前提・経緯・結果を記すブログについて

① 1-1-995歌の疑問から始まった和歌検討の前提・経緯・結果は、「わかたんかこれの日記 ・・・」(2017/yy/zz)と題した上村 朋のブログに記してある。(自2017/3/24 2017/12/28

② それを今回再確認した結果、一部別の結論に至ったり改訳したりした部分がある。本文の当該箇所でその旨を断っている。

③ 語句ごとに検討結果を総括あるいは概要を述べているブログの一端を記す。

「みそぎ」:ブログ「わかたんかこれの日記 みそぎの現代語訳の例」(2017/7/17)

ブログ「わかたんかこれの日記 三代集のみそぎのはらへ」(2017/8/21)

「ゆふつけ鳥」:ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけ鳥は最初の200年に20首」(2017/3/31)

ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類」(2017/5/1)

「からころも」:ブログ「わかたんかこれの日記 万葉集からころも」(2017/5/8)

ブログ「わかたんかこれの日記 からころも+たつ 女人往生」(2017/5/22)

「たつたの山」:ブログ「わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山」(2017/6/26

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集994歌」(2017/12/18

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集1000歌」(2017/12/25

さらに、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22

「をりはへて」:ブログ「わかたんかこれの日記 ほととぎすも をりはへてなく」(2017/4/7)

「あふさか」:ブログ「わかたんかこれの日記 平安初期のあふさかその2」(2017/4/27)

ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類」(2017/5/1)

付記2.『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌について

① 作詠年代で「みそき」表記「はらへ等」表記歌を整理すると、次の表のとおり。

表 『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌の作詠時点別「現代語訳の作業仮説の表」のイメージ別一覧 (2017/8/3現在)

期間

語句「みそぎ」と「はらへ等」のイメージ

西暦

神の接遇する資格・許しを得る

罪に対してはらいをする

祭主が祈願

民間行事の夏越しの祓

喪明けのはらへ

羽ばたく・治める・掃討する

朝廷の特定儀礼

保留

(首)

701~750

 

2-1-629

2-1-629イ

2-1-423

2-1-953

2-1-2407

2-1-4055

 

 

2-1-199

2-1-1748

2-1-4278

 

 

 9

~850

 

 

1-1-501

 

 

 

 

1-1-995

 2

851~900

 

 

 

 

 

 

 

 

 0

901~950

 

 

 

 

 

 

1-3-293

 

 

 

 

 

 

1-2-162

 

 

 

 

 

 

1-2-215

1-2-216

1-3-133

 

1-1-416

1-1-733

1-2-275

1-2-478

1-2-770

1-2-771

 

 

11

951~1000

 

 

 

1-3-292

1-3-595

1-3-134

1-3-1291

1-3-254

 

1-3-594

1-3-662

 

 7

1001~1050

 

 

 

 

 

1-3-1341

 

 

 1

三代集の計(首)

 1 (1)

 1 (1)

 1 (1)

 

6 (2)

 1

8

 2 (2)

 1 (1)

21

(8)

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)この表は、ブログ「わかたんかこれの日記 三代集のみそぎとはらへ」(2017/8/21付け)記載の「表 『萬葉集』と三代集の「みそき」表記「はらへ等」表記歌の作詠時点別「現代語訳の作業仮説の表」のイメージ別一覧 (2017/8/3現在)」による。「イメージ」は、ブログ「わかたんかこれの日記 「みそぎの現代語訳の例」(2017/7/17)記載の「現代語訳の作業仮説の表」による。

注3)1—01-995歌は分類を「保留」とした。今後検討する。

注4)赤字の歌番号等の歌は、「みそき」表記のある歌である。そのほかは「はらへ等」表記の歌である。

注5)作詠時点の推定は、ブログ「わかたんかこれの日記 ゆふつけ鳥は 最初の200年に22首」(2017/3/31付け)記載の「作詠時点の推計方法」に従う。

 

② 1-1-995歌と同じ時代の歌1-1-501歌は、つぎのような歌である。ブログ「わかたんかこれ 2017/6/24」で検討した。当時の伝承歌である。

     題しらず                よみ人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

A この歌は、推定した作詠時点順でいうと、勅撰集において最古の「みそき」表記のある歌の一つ。

ここでの「みそき」表記は、初句の「恋せじ」ということを目的とした一連の行為全体を「みそぎ」と称していると理解できる。その「みそき」表記の行為は神に対して行われたものであるからこそ、神が受けなかったといえるのであり、単におのれのけがれを除くための水を用いるという「みそぎ」の意ではなく、「恋せじ」という祈願の一形態である。だから罪も穢れも不問となっている。

B 現代語訳(試案)はつぎのとおり。

「貴方への恋慕を断ち切ろうと、清い川で私はみそぎをして神に祈った。だが、未だにあなたに逢えないのをうらめしく思っている自分がいる。これは神が私の願いを聴いてくれなかったということらしい。(あなたと私が結びつく運命だとそっと知らせてくれた気がする。)」

C (配列から言えば)まだ逢わせてもらえない人におくる歌。単に相手に言い寄っている段階で、言葉で脅している、あるいは、この歌をみてもらいたい相手にやんわりと迫っている歌。手紙などの点検役をしている侍女のもとに、この歌だけでも相手に読み上げてほしいという口上を伴って届けられたこともあるような実用の歌だったのではないか。それが伝承歌として残った所以かもしれない。

 

付記3.三代集の「からころも」表記歌の再検討結果

① 今回現代語訳(試案)を再検討した。また、時期区分の誤りを正し、再集計した。

表 「からころも」表記のある三代集の歌の「からころも」の意味別作詠時期別分類(2019/7/28現在)

時期

外套の意(官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

衣裳(美称)の意

外来の服の意

歌数の計(首)

単独

衣裳も

女性も

着用者も

 

女性も

 

~850

1-1-515

1-1-865

1-1-995*

 

1-2-729(冬嗣)

 

1-1-375

 

 

 

  5

851~900

1-1-410(業平)

 

 

 

1-1-572(つらゆき)

 

  2

901~950

1-1-576(ただふさ)1-1-786(かげのりのおほきみ)

1-2-313

1-2-359

1-2-383

1-2-1329

1-3-149(つらゆき)

1-2-386(つらゆき)

1-2-660(つらゆき)

 

1-2-539

1-2-948

1-2-1317(女)

1-2-1316

(公忠)

 

1-2-622

1-2-713

1-2-848

1-2-849

1-2-1328

1-1-519

1-2-529(桂のみこ)

1-3-327(つらゆき)

1-2-746(右近)

1-1-808 (いなば)

1-1-697(つらゆき)

 24

951~1000

1-2-1114(雅正)

1-3-1189

1-3-321

1-3-326(三条太后宮)

 

 

1-2-804(源巨城)

1-3-703

1-3-704

1-3-1225

 

 

 

  8

歌数(首)

 17

  1

 

  4

 14

 

  2

 

  1

 

39

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)*印の1-1-995歌は、仮に「外套(単独)」に整理している。

注3)「からころも」の意味の分類は次のとおり

・外套:700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

・衣裳(美称):上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

・外来の服:上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

・衣装も:外套の意のほか衣裳一般の意あり。

・女性も:外套の意のほか女性の意あり。

・着用者も:外套の意のほかその外套を着ている人の意あり。

注4)赤数字の歌番号等の歌以外の作者は、よみ人しらず、である。

付記4.『貫之集』の「みそき」等表記の歌について

① 清濁抜きの平仮名表記「みそき」とある歌

 3-19-11歌 3-19-37歌 3-19-403

但し、3-19-37歌については、朝廷の晴儀として住之江に行く要件を想定していれば「みそき」はその晴儀(朝廷の特定儀礼)か。

② 同様に「はらへ」とある歌

 3-19-107歌、3-19-132歌、3-19-363歌 3-19-529歌、3-19-539

(付記終り。2019/7/29    上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集47歌その1 失意逆境の歌か

前回(2019/7/8)、 「猿丸集第46歌 その6 あしけくもなし」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌 その1 失意逆境の歌か」と題して、記します。これまでのように、類似歌から検討を始めたいと思います。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

①『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-47歌 あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてな

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が女を誘っている歌であり、類似歌は、ある人の逢いたいという思いは叶うだろと予測している歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列を検討する歌群

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、配列から検討します。

古今集にある類似歌1-1-995歌は、古今和歌集』巻第十八 雑歌下にあります。

② 古今和歌集』における類似歌(1-1-995歌)前後の歌の配列について、私は検討したことがあります。その論を基本に検討をすすめます。なお、その検討結果は次のブログに記してあります。

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集994歌」(2017/12/18

ブログ「わかたんかこれの日記  配列からみる古今集1000歌」(2017/12/25

(以降「ブログわかたんかこれ2017/12/18」等と略して引用します。)

③ 古今和歌集』の「巻第十八 雑歌下」は、巻頭の933歌から1000歌までの68首で構成され、1-1-995歌はその63番目の歌です。

この部立の名がなぜ「雑」であるのかは、論があるそうです。久曾神昇氏は、『古今和歌集』の雑歌の部は、和歌のうち有心体である短歌(31文字の歌)であって巻第十六までの部類に入らなかった秀歌の部であり、題材でいうと、人事題材を詠作動機により配列した短歌の部と捉え、巻第十七雑上が得意順境の歌群、巻第十八が失意逆境の歌群になる、と指摘しています。これを足掛かりに検討します。

諸氏は、1-1-990歌と1-1-991歌の間に小歌群の区切りがあると指摘しています。例えば、久曾神氏は、1-1-991~1-1-1000歌を離別・疎遠・詠歌に区分し、この3区分を「述懐」の歌群とくくっています。そのため、1-1-995歌の前後の歌として1-1-991歌以降の10首を検討します。

 

3.類似歌の検討その2 配列の特徴

① 1-1-991歌以降の歌を、『新編国歌大観』より引用します。

1-1-991歌 つくしに侍りける時にまかりかよひつつごうちける人のもとに、京にかへりまうできてつかはしける    きのとものり

ふるさとは見しごともあらずをののえのくちし所ぞこひしかりける

 

1-1-992歌 女ともだちと物がたりしてわかれてのちにつかはしける    みちのく

あかざりし袖のなかにやいりにけむわがたましひのなき心ちする

 

1-1-993歌 寛平御時にもろこしのはう官にめされて侍りける時に、東宮のさぶらひにてをのこどもさけたうべけるついでによみ侍りける     ふじはらのただふさ

なよ竹のよながきうへにはつしものおきゐて物を思ふころかな

 

1-1-994歌 題しらず         よみ人しらず

風ふけばおきつ白浪たつた山よはには君がひとりこゆらむ

   左注は後程記します。

1-1-995歌  (上記1.①に記す)

 

1-1-996歌   題しらず       よみ人しらず

わすられむ時しのべとぞ浜千鳥ゆくへもしらぬあとをとどむる

 

1-1-997歌   貞観御時、萬葉集はいつばかりつくれるぞととはせ給ひければ、よみてたてまつりける

文屋ありすゑ

神な月時雨ふりおけるならのはのなにおふ宮のふることぞこれ

 

1-1-998歌   寛平御時歌たてまつりけるついでにたてまつりける   大江千里

     あしたづのひとりおくれてなくこゑは雲のうへまできこえつがなむ

1-1-999歌                              ふじはらのかちおむ

     ひとしれず思ふ心は春霞たちいでてきみがめにも見えなむ

1-1-1000歌   歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける

                                               伊勢

     山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな

③ この10首について、『古今和歌集』の編纂者は、これまでの歌と同様に、元資料の歌を、編纂方針に基づき詞書を工夫し作者名を選び、ここに配列しています。

「ブログわかたんかこれ2017/12/18」等では、各歌の元資料の作詠時点を確認し、現代語訳を確かめあるいは試み、古今和歌集』における歌としての主題等を検討しました。誹諧歌(ひかいか)の部の歌と同様に、雑下の部に配列する理由がある歌のみが、ここにあるはずです。

その結果をまとめたのが次の表です。そのときに、1-1-995歌に関する予測しました。それを<>書きしています。

表 1-1-991歌~1-1-1000歌の特徴 (2017/12/22 pm現在)

歌番号等

作者

相手との関係(歌を送るなどする相手)

歌の主題

拠るべき説話

 

1-1-991

都に戻った作者から地方の友へ

事後の(一段落した後の)疎外感

有り。中国で斧にまつわる説話

 

1-1-992

 女

地方へ行く作者から都に残る友へ

事後の(一段落した後の)疎外感

有り。法華経五百弟子受記品の説話

 

1-1-993

渡海する作者(男)から都に残る上司同僚へ

事前の決意

有り。過去の度重なる遣唐使派遣

 

1-1-994

 女

作者(女)の独り言 あるいは寄り添っている作者(女)からちょっとしたきっかけで離れてゆく男へ

事の終る(たつたやまを越える)前、関係修復の良い展開を確信

有り。「風ふけば」というトラブルが過去にも二人の間にあった。

 

1-1-995

不明

<個人的な独り言>

<良い展開の予測>

<有り。相坂のゆふつけ鳥>

 

1-1-996a

古今和歌集』の撰者(男)

古今和歌集』の撰者から、次の時代の官人

事前に 良い展開を予測

有り。『萬葉集』の経緯。

 

 1-1-996b

男又は女

慕った人物から慕われた人物へ

事前に 良い展開を予測

有り。多くの人の遺言書

 

1-1-997

男と『古今和歌集』の撰者

部下から上司(清和天皇)へ

調査報告事項

有り。『萬葉集』成立時点に関する論争

 

1-1-998

散位の男と『古今和歌集』の撰者

部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

任官陳情と『古今和歌集』(案)の奏呈

有り。有資格者数とポスト数との乖離、萬葉集の存在

 

1-1-999

男と『古今和歌集』の撰者

 

部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

事前に 任官陳情と和歌の隆盛

有り。有資格者数とポスト数との乖離、萬葉集の経緯

 

1-1-1000

 女(歌の名手)と『古今和歌集』の撰者

部下から上司へ(今上天皇醍醐天皇

事前に 撰集の希望と和歌の隆盛

有り。今上天皇の下命と古今集の編纂

 

 

注1)資料は、「ブログわかたんかこれ2017/12/18と「同2017/12/25」による。この表は「同2017/12/25」の「6.巻末の配列の検討」より、引用した。

注2)1-1-995歌の<>書きは、他の歌の傾向からの2017/12/22 pm現在の予測である。

注3)歌番号等とは、『新編国歌大観』の「巻番号―その巻における歌集番号―当該歌集における歌番号」である。

④ 1-1-991歌を例として表の説明をします。

  「作者」欄は、この歌の元資料の確認でもあります。この歌は、「元資料の歌の作者は、紀友則であり、編纂者はそのまま作者名としその性別が男であったこと」という意です。

 「相手との関係」欄は、和歌は歌をおくる人(又は朗詠する場)があるのが普通であるので、その相手(又は朗詠・披露した場)を検討した結果を記しています。この歌は、「作者(作中人物)とこの歌を送る等をしている者と関係が、「都に戻った作者から地方の友へ」というものであったこと」という意です。

 「歌の主題」欄は、巻第十九雑下の配列される歌として「失意逆境」が要件であるとした場合、それが何か、ということを確認したものです。この歌は、それを「「事後の(一段落した後の)疎外感」であると推測した」、という意です。

 「拠るべき説話」欄は、和歌の理解に資する歌の背景になる共通の認識の有無をみたものです。この歌は、「歌のベースに相手と共有する説話の有ること、及びそれが中国における斧にまつわる説話であること」ということです。

歌に、二通りの趣旨が認められる歌(1-1-996歌)については、それぞれの趣旨ごとに、検討しました。

⑤ 歌の配列順に、傾向がある、と認められます。

久曾神氏の巻十八は失意逆境の歌群という立場を前提にして、まとめると、

・個人の疎外感・不協和音。 1-1-991歌から1-1-995歌までか

・今後の不安(あるいは失意逆境を越えるきっかけ)  1-1-994歌から1-1-996歌までか

天皇賛美と和歌の隆盛  1-1-997歌から1000歌

の順に配列されているとみえます。これには、意味があるはずです。

また、歌をおくる相手が、一個人から官人へ、そして天皇へとなり、『古今和歌集』に関係深い天皇、この巻の最後の歌では今上天皇醍醐天皇)となっています。上記の配列の傾向を考え合わせると、歌をおくる相手として個人と官人が重なることとなる1-1-996歌が配列上のターニングポイントにみえます。

これから1-1-995歌が配列上担うものを予測すると、2017/12/22現在、下表の1-1-995歌欄に<>で示したようになります。

⑥ さらに言えば、1-1-991歌以降は、久曾神氏の言う「失意逆境」も極みをすぎて「得意順境」へと変わる時点の歌を含んでいるかに見えます。それは『古今和歌集』の短歌のみで構成する部分の終りを意識した配列であるとも理解できます。

諸氏にも、その分岐点の歌は1-1-996歌である、との指摘があります。例えば、竹岡氏は、「前の歌との続きでは、旅にでも出る際に、自分の形見の書き物(歌など)を残しておく、という意の歌に解せる。次の歌の関連では、自分の和歌を残しておく意の歌と解せる。この両方の意味を持たせて、前を承けて、後の五首へ展開させている」、と指摘しています。

⑦ 久曾神氏は、1-1-996歌について、「自分の死後までも伝えたいと思って詠んだと作者は言う。・・・中国で黄帝の臣蒼頡が、鳥の跡を見て文字を発明したという故事をふまえて、自分の死後までも伝えたいと思って歌をよんだもの。この歌は、自分から離れた者の邪魔にならないよう、慕っていた者が(最近まで)いたということが記憶として残るように、そして気持ちよくこの歌を詠みあげ回想してほしいと願っている歌である。」、と指摘し、『古今和歌集』の構成(配列)において主題を渡してゆく歌と位置付けられていると見える歌の一つではないかと言い、「自然題材のうちの四季推移を主題とするところをはじめ、そのような主題の切り替えにあたる歌との共通的な配慮を、ここにも感じる」と指摘しています。

⑧ 次の歌1-1-997歌が、先行した勅撰集であると当時信じられていた『萬葉集』の成立時点を詠っていることを考えると、1-1-996歌で詠う「はまちどりのあと」とは『古今和歌集』そのものを喩えている、と私には思えます。

先例の『萬葉集』は、当時全ての歌を読み解けないでいました。『古今和歌集』にはそのようなことが生じない工夫をしています。

例えば、真名序を付けました。真名(漢文)であれば十分後世の者が判読できます。万葉仮名でなく平仮名の全面的使用です(歌に使用する文字の制限)。詞書の統一的書法、部立、配列での秩序もその一つであるとみられます。さらに仮名序を用意しています。

⑨ このため、1-1-996歌以降の歌は、古今和歌集』の巻第一から巻十八までの編纂過程を振り返っての歌群とくくることも可能な、失意逆境の歌とは理解しにくい歌になります。1-1-996歌以降の「作者」欄にいう「古今和歌集』の撰者」については付記1.参照。これは下記のような各歌の検討結果です。

 

4.1-1-953歌までの3

① 1-1-991歌から1-1-954歌までの現代語訳(試案)などは、次のようになりました。

1-1-991歌  筑紫(九州)の役所に勤務していた時に、しばしば出掛けて行っては碁を打っていた相手のもとに、都に帰任してから贈った(歌)     紀友則

「ひさびさに戻った私の故郷である都には、かっての面影は少しもありません。斧の柄が朽ちるまで長い間滞在していたあなたのところが恋しくてたまりません。」

これは『新編日本古典文学全集11』を参考にした、私の現代語訳(試案)です。

失意逆境とは、作者の疎外感にあると思います。しかし、その逆境は個人的な馴れ・慣れの範疇に見えますので、越えられる可能性が高いものと思われます。

② 1-1-992歌  女友だちと色々なことを話し込んでしまって、別れて帰ってきてから贈った(歌)」  みちのく

「ずいぶん親しく語り合いましたが、まだ満ち足りない気持ちがたくさん残っていて、その思いがあなたの袖の中にはいってしまったのでしょうか、私は魂が体から抜け出してしまったような気持ちです。」

これは、『新編日本古典文学全集11』の現代語訳です。

作者が話し込むきっかけは、一方の親の地方への赴任かもしれません。この歌は、昨日を振り返って(事の生じた後)詠っている歌です

単純に、話足りなかったことを悔やんでいる歌とみると、悔やんでいるのですから、失意逆境のひとつと思います。しかし、また心行くまで語りあうチャンスはこの二人に確実に訪れます。

作者みちのくは、石見権守橘葛直の娘です。都から地方のトップクラスに任官する階層の官人の娘にとり、法華経が教養の一部となっている例です。官人として地方赴任は得意順境に相当するでしょう。しかし、家族にとっては、京を離れるという失意逆境のひとつかもしれません。官人には京への帰任が既定路線なので、順境になることが確実視されているものです。

③ 1-1-993歌  久曽神氏の訳を引用します。

宇多天皇の御世に、遣唐使の判官に任命せられたときに、東宮御所の侍臣の間で、侍臣たちが酒を賜って飲んだ際によんだ歌         藤原忠房

「(なよ竹の長い節(よ)の上に初霜がおくように)私はこのごろ夜もねむらず起きていて、長い夜すがら、あれやこれやと物思いをしていることであるよ。」

この歌は、詠んだ場面が、侍臣が東宮より酒を賜っての宴席という朝廷内の場であることから、「上司を補佐し使命をいかにして果たすかと日夜考えています」という決意を述べた歌として理解してしかるべき歌です。

生死にかかわる現実の心配事は「往復の船旅の危険」ですが、それのみに拘って一心に考えていますと詠む(公に発表する)場とは考えられません。現実の心配事も宴席の話題ともなったでしょうから、歌には「物をおもふ」という表現を作者はわざわざ選んだのだと思います。

そして、『古今和歌集編纂時から振り返ると、唐と日本とが疎遠になる時点の歌です。『古今和歌集』の詞書が道真の建議前であることを作詠時点として明記しているのは、『古今和歌集』の編集者がその作詠時点の歌として理解せよと示唆している歌である、と考えてよいと思います。渡海にあたっての歌であるので、事の生じる前の時点で詠っている歌です。

この歌において何が「失意逆境」に相当するのかというと、『古今和歌集』編纂時点から振り返ってみて遣唐使派遣中止により準備が無駄になったことを言うのではないか、と思います。

1-1-991歌と1-1-992歌が、事の生じた後を詠っているのに対して、この1-1-993歌は事の生じる前の時点の歌となっており、次におかれている1-1-994歌も事の生じる前の時点(男が、立田山を越え終わっていない時点)の歌であり、同じです。

編集方針は、このような配列を許容していることかと前回の検討時には思いましたが、今思うに、1-1-991歌と1-1-992歌に関する事が終わって次の事が始まるあるいは進行中のことを1-1-993歌と1-1-994歌は詠っている、即ち『萬葉集』と『古今和歌集』を念頭に置いた配列と見ることができます。

 

5.1-1-994歌の「たつた山」

① 1-1-994歌は、類似歌1-1-995歌とともに「たつた(の)山」を詠んでいます。配列と同様に、「たつた(の)山」も一度検討しました。「たつた」という仮名表記できる歌の検討結果を次のブログに記しています。それを基に記します。

   ブログわかたんかこれ2017/5/25~同2017/6/26 (計8回) (付記2.参照)

この歌は、作者がよみ人しらずであり、作詠時点は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代の歌という整理になり、(799年とも848年とも限定できない)849年以前となります。

② 前回の検討で、「たつた(の)山」と詠う15首の『萬葉集』の歌は作詠時点がみな700年代であり、その「たつた(の)山」(の実景)は、

「「遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。」あるいはたつた道から見上げた時、並行する大和川の両岸にみえる尾根尾根。生駒山地の南端(大和川に接する地域)と大和川の対岸の尾根。この道を略して、「たつたのやま」ともいう。」の意があり、歌によって文脈からこの違いを、くみ取らねばならない。」

と解明しました。

大和にある都と副都としての難波宮があった700年代、その難波勤務の官人にとり天皇や妻子がいる地を隔てる山地が、筑紫等から大和に帰任する官人が上陸後越えるべき山々が、それが「たつた(の)の山」でした。どの官道でも(迂回でも直登でも)超えなければならないのが現在でいう生駒山地と南端にある大和川両岸の山々でした。だからそこを通る官道も「たつた(の)山(の道)」でした。

比高が400~600m以上ある生駒山地は難波から望めば急傾斜です。その景が「たつた(の)山」の原イメージかもしれません。「いこまの山」と詠う万葉歌もあり大和と難波を隔てる山々が東西で違う名で歌に詠まれているのかもしれません。

「たつた(の)山」という表現は、阻む壁の意を強調し、また、既に700年代に「たつ」に「発つ」「起つ」を掛けて用いられています。

③ 前回の検討の際あまり触れなかった掛詞の実例を、今回、ひとつ加えたいと思います。

萬葉集』に作詠時点を748以前と推計した歌があります。1-1-994歌や1-1-995歌から最大でも100年遡るだけです。

2-1-3953歌  平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(3953~3964)   平群氏女郎

きみにより わがなはすでに たつたやま たちたるこひの しげきころかも

吉美尓餘里 吾名波須泥尓 多都多山 絶多流孤悲乃 之氣吉許呂可母

この歌は、万葉仮名で判断すると、「・・・既に噂が起ってしまい、その同音のあるたつた山のように、仲を絶たれた恋となって、・・・」と理解してもよい歌です。それは、「あふさか」(相坂)との対比が意識されています。

この歌は、その「たつ」に既に二人の仲を断つ(切り離す・隔てる)意をこめています。「たつた(の)山」という実際の山地の名から離れて抽象的な・実際の所在地を問わない「たつたの山」となって用いられています。

④ 「たつた(の)山」は、「(逢うことを予想できる)相坂()ではないところの代表地名として万葉集時代に選びとられていたと思われます。

 『古今和歌集』のよみ人知らずの時代もそれを受け継ぎ、1-1-536歌の例のように抽象化してきている「あふさかやま」と対を成して、たつたの山も抽象化されて実景を離れてきています。

⑤ 「たつた(の)山」は、寝殿造りという居住空間(兼儀礼空間)における屏風(歌)の需要に応え、作詠時点が824年以前である1-1-283歌で(紅葉の)「たつた(の)かは」が創出され、「都(平安京)から遠く離れた(それも紅葉の)山並み」を「たつたのやま」とも称しはじめ、所在地不定の「紅葉の山」の意も加わっており、この歌の作詠時点のころには、その意で用いられている「たつた(の)山」もありまです(ブログわかたんかこれ2017/06/12参照)。

⑥ この1-1-994歌での「たつた山」は、前者であり、「作者である女」と「たつた山を越える君」の間の障害物という意味と二人の仲を切り離す方策・路をも指しています。

 

6.1-1-994歌の現代語訳を試みると

① 「題しらず」という詞書は、『古今和歌集』の編集方針に従って理解することを編纂者が求めていることになります。左注は、詞書ではありません。

② 初句と二句「かぜふけば おきつしらなみ」に関して『萬葉集』をみると、同文の歌が2首あり、このほか「かぜふけば」と詠う歌4首のうち3首に「(しら)なみ」の語句があります。それらの検討からは「かぜふけば おきつしらなみ」という表現は(その後)特別なことが生じていることを予告している言い方でした。(ブログわかたんかこれ2017/12/18参照)

1-1-994歌の「おきつ白波が立つ」も、「なにか異常なことが生じた」意を含んでいることになります。

五句にある「こゆらむ」の助動詞「らむ」は、現在実現している物ごとについて推量している意を表わします(『例解古語辞典』)。

③ そして、次のような現代語訳(試案)を先のブログでは示しました。

風が吹けばいつでも沖には白波が立ちます。そのようなはっきりした原因があって私との間に「たつた山」ほどの障害ができてしまいました。今は二人の間は暗闇のなかと変りない状況ですが、あなたはひとりで乗り越えてゆくのでしょうか」

④ しかし、この(試案)では、四句にある「よは」の理解において「暁」と十分対比していないことに気が付きました。

また、「たつたの山」が「障害物の例」であること、及び助動詞「らむ」が対象とする「現在実現している物ごと」に関して考察が不十分でした。

そのため、ここで、改訳したいと思います。

⑤ 四句にある「よは」とは、後朝の別れの時間帯である暁ではなく、その前の時間帯を指している語句です。そのような時間帯に例えば男が女の家を出たのは、二人のトラブルが原因であり、火急のことで外出したのではないでしょう。

また、「たつたの山」が「障害物の例」であるならば、「よは」は後朝の別れの時刻に至っていない時間帯です。何かの前の段階を象徴できる語句です。

⑥ 助動詞「らむ」は、誰かが山路にかかる頃合いに、推測を始め以外に、「一人で越えてゆく」と宣言し出発する準備を始めている状態を眺めながら推測していても、用いることができます。

さらに、「たつたの山」が、現に作者が感じている具体の「障害物」の代名詞として用いられているならば、夜中に詠みだす必然性はありません。

⑦ 即ち、作者は、既に別の場所にいる人に、「たつた山を越えるのはまだ早いでしょう(また意見が食い違ったが一線を越えるなどはどんなものでしょう)」と、詠いかけたこの歌を届けさせたのではないでしょうか。

作者は、「たつたのやま」で象徴される道の状況(山の急峻さや道を悪さや夜道であることなど)を気にしているのではなく、白波が立ったことに起因して「たつたのやま」を越えようと決心している者がどのように気持ちを整理するかを気にしているのです。

⑧ 改めて現代語訳を試みると、次のとおり。

「風が吹けば、それは沖には白波が立ちます。同じようなことが私たちの間に生じました。たつたの山のような隔たりを感じているのですか。あなたは、こんな暁にもならないうちに(相坂ではなく)あの「たつた山」をたった一人で越えてゆくのだと、しているのですね。」

この歌は恋の歌です。三句にある「たつ」は掛け言葉であるので、歌の前半は、「今日は、またも思いがけないことになってしまいました」の意と理解でき、後半は、問題を解消するのに「あふ坂」経由でもなく時期も選ばず「たつた山の道」を選ぶあなただから、うまくゆかないでしょうに、と作者は嘆息しています。

この歌を届けられた人は、「かぜふけば」と「たつたのやま」の意を理解できたら、「よはにひとりこゆ」という非常手段に疑問を投げかけている歌に、また逢おう、と返歌をしたと思います。

この歌の「たつたの山」には、紅葉の山である必然性は全然ありません。

⑨ 作者を推測すると、当時は通い婚なので、男ではなく、女でしょう。

⑩ 「たつたの山」は喩えであるので、作者の居る場所は、都(またはその近く)の自宅が最有力です。

⑪ この歌は、今後の彼との関係の修復に自信を持っている女の歌です。二人で乗り越えましょうと期待している歌です。事が起こり収まるまでの間の歌となります。

また、この歌は、「たつたの山」という語句の比定できる山(を通る路)が、都に居る女からみて無数にある、つまり、比喩的にしか「たつたの山」を認識していない例となります。

⑫ さて、この歌が『古今和歌集』編纂と関わりがあるとすると、共同で事にあたったことにあるのでしょうか。るいは、完成前に亡くなった紀友則を偲んでいるのでしょうか。私は前者であり「「ひとりこゆ」はその意は反語であろう、と思います。

この歌の表面的な「失意逆境」の要素は、「ひとりこゆ」という点であろうと思います。

⑬ 念のため、諸氏の現代語訳の一例を示しておきます。

「(風が吹けばいつでも沖の白波が立つが)その立田山を、寂しいま夜中に、いとしい夫はただ一人越えて行かれるのであろうか。」(久曾神氏)

氏は、『萬葉集』の2-1-83歌に拠ってできた歌か、と指摘しています。

この訳でも、個人的な「失意逆境」の歌のひとつと理解できますが、恋の部の歌としなかったはなぜでしょう。それは巻第十八の配列が優先したのであろう、と思います。

 

7.その他配列にみえること

 次に、1-1-991歌以下の配列におけるそのほかの特徴を、検討します。

表の「相手との関係」欄にみるように、作者が歌を贈った人は、1-1-991歌の友から、1-1-996歌以降作者の上司になります。私的な場から公の場に関わる歌に移行させてきている、と理解できます。

1-1-998歌などは元資料(『千里集』)では陳情ベースの内容の歌ですが、『古今和歌集』の歌としてはその配列から『古今和歌集』の嘉納を願っている歌とされているとみなせます。

② 四季の歌では、奇数番号の歌と次の偶数番号の歌には、歌う素材(あるいは語句)などに共通のものがありました。1-1-991歌以降ではどうなっているかを、確認します。

1-1-991歌は、昔から伝わる説話を下敷きにしているのが1-1-992歌と共通です。また、作者の居た場所(空間)をふり返って共通に詠んでいます(「くちし所」、「あかざりし袖」)。そしてその場所(空間)を作者は歌をおくった相手とずっと共有していたかったと願っていることも1-1-991歌と1-1-992歌は共通です。

1-1-992歌には、1-1-993歌との共通点はなさそうです。

1-1-993歌は、自然の摂理より詠いだしている点が1-1-994歌と共通です(「なよ竹のよ」、「かぜふけば、おきつしらなみ たつ」)。また「ま夜中」を指す語句を共通に用いています(「よながの」、「よは」)、

1-1-994歌は、「たつたのやま」を詠み込む点で1-1-995歌と共通です。

1-1-995歌は、鳥を詠っている点で1-1-996歌と共通です。また、「ながい」趣旨の語句が共通にあります(「をりはへて」、「(あとを)とどむる」)。

1-1-996歌は、ふるくより伝わる「ことのは」を詠っている点で1-1-997歌と共通です。

1-1-997歌は、大宮(「宮」、「雲のうへ」)を詠っている点で1-1-998歌と共通です。

1-1-998歌は、越えるべきもののある(「雲」、「春霞」)ことを詠っている点で1-1-999歌と共通です。

1-1-999歌は、目に留まるべきものを詠っている点で1-1-1000歌と共通です。(「(ひとしれず」思ふ心」、「ももしき(の成果品)」

1-1-1000歌:(1-1-1001歌との検討保留)

③ これから、歌番号が奇数番号の歌とその次の歌には、共通の素材(または語句)があり、偶数番号の歌とその次の歌には、それは徹底していない、と言えます。

その共通の素材等には、「永遠性、永久性」という属性があるように見受けられます。そして、期待している事がらであって、保障がないことを理由に失意逆境の範疇の歌、といえるのは、1-1-996歌までであり、1-1-997歌以降は現に実現している「永遠性、永久性」を詠っており、失意逆境の歌とは言えません。

そうすると、1-1-995歌も、期待・希望をしている歌と位置付けることができそうです。

④ このような検討の結果、『古今和歌集』巻第十八における歌群の整理として、次のような三つの歌群となります。

1-1-991歌と1-1-992歌は、親愛の場所(空間)を共有できない「疎外感」を詠う、失意逆境の歌群

1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留する)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群

1-1-997歌以下の4首は、『古今和歌集』の成立に深くかかわった天皇賛歌の歌群

陰陽の循環律(陰極まれば、無極を経て陽に転化し、陽極まれば、無極を経て陰に転化する)をこの配列に適用すれば、古今和歌集』の成立を画期的なこととして得意順境の歌群を導くような配列となっていることになります。

⑤ なお、上記のうち、奇数番号の歌とその次の歌の共通性を言うには、少なくとも雑下にある歌全てに通じての確認を要するでしょう。また、雑下の部全体の配列・構成については巻頭歌(1-1-933歌)と対となる歌の検討も要することです。

⑥ ここまで、類似歌の前後の歌の配列を検討しました。次回は、このような配列にある歌として、類似歌を検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」を御覧いただきありがとうございます。

(2019/7/22    上村 朋)

付記1.実質の作者を古今和歌集』の撰者」とした理由

① 本文の表の作者欄で、古今和歌集』の撰者」(編纂者)を加えている理由の一端を「わかたんかブログ2017/12/18」と「同2017/12/25」より引用する。

② 1-1-996歌:『古今和歌集』のよみ人しらずの歌であるにもかかわらず、恋の歌でも、民謡(伝承歌)風の歌でもない。そして、よみ人しらずの歌であって「逢う」ことよりも「文字」を大事と詠っており、大変特殊である。

③ 1-1-997歌:天皇にお答えした歌の作者(ありすゑ)が不分明過ぎる。幼い天皇の教育の一環での場面でご下問があったかと想像するが、歌で答えよと詞書にはないのに歌を用いて答えている。

④ 1-1-998歌:詞書にいう「ついでに」は、『古今和歌集』の撰者がこの歌の理解を促すために選んだ言葉。天皇に歌を奉呈する機会があった「ついでに」奉った歌である、ということを強調している。元資料である『千里集』(別名『句題和歌』)の3-40-121歌を、撰者らの気持ちの代弁としている。

⑤ 1-1-999歌:詞書は、1-1-998歌に同じ。この歌は、寛平御時に「ついでに」たてまつった歌として理解すべしと、撰者らは言っている。宇多法皇への勅撰集の完成を報告している歌。

⑥ 1-1-1000歌:「ももしきの」は、「ももしきで行われている何か」を略した言い方。天皇の命じた『古今和歌集』編纂を意味する。巻十八の最後の歌であり、『古今和歌集』の短歌の最後の歌。編纂した『古今和歌集』が確かに頼りになる物としてできあがったことを前提にして、作者伊勢が見せてほしいと前向きに詠っていると理解させてくれる歌。

 

付記2.清濁抜きの平仮名表記で句頭に「たつた」とある歌について

① 「たつた」が「竜田(山・河・姫)」の表記である歌を、本文で記したように2017年に検討した(ブログわかたんか2017/5/25以下、同2017/6/26までの8回のブログ)。ことばには、その時代時代の意味がある、として作詠時点を50年毎に区切り検討したものである。

② 『新編国歌大観』に依拠して1050年ころまでの用例を萬葉集』と三代集(『拾遺抄』を含む)に求めたところ、清濁抜きの平仮名表記で句頭に「たつた」とある歌で「たつた」が「竜田(山・河・姫)の「たつた」表記である歌が、『萬葉集』に15首、三代集に重複を許して35首あった。なお、句頭にたたない「たつた」が1首(「にしきたつたの やま・・」と詠む1-2-382歌)ある。萬葉集』では実質「たつたやま」を詠む歌も参考とした。

③ 各歌の作詠時点は、古今和歌集』のよみ人しらずの歌は原則849年以前とし、詞書(題詞)あるいは歌集成立時点、場合によっては左注によって推計した。

④ 三代集の「たつた(の)やま」表記の16首は、勅撰集別にみると、

古今和歌集』では、秋の紅葉と「たつた(の)やま」表記は無関係。

二番目の『後撰和歌集』では、秋の紅葉と「たつた(の)やま」表記は縁語関係となってしまっている。

三番目の『拾遺和歌集』では、歌数が激減し、かみゑに書かれた歌がある。

⑤ 三代集にのみにある「たつたかは」表記の13首のうち11首は秋の紅葉をも詠み残りの2首も関係があり得る。

(付記終り。2019/7/22  上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集第46歌その6 あしけくもなし

前回(2019/7/1)、 「猿丸集第46歌その5 まめなれど」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その6 あしけくもなし」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第45 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句で2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。

 

2.~19.承前

猿丸集第46歌の類似歌を先に検討した結果、類似歌は、古今集巻第十九にある誹諧歌(ひかいか)という部立の歌に相応しい歌であり、その部立のうちにある恋の歌群に配列されたており、「離れゆく恋」(久曾神氏)の歌、あるいは破局の一歩手前の歌と理解できた。)

 

20.類似歌の現代語訳(試案)

① 類似歌1-1-1052歌)について、これまでの検討により、次のような現代語訳(試案)を得ました。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第46歌その5 まめなれど」(2019/7/1付け)の「18.⑤」参照))

「私は誠意を尽くしていると言われているけれど、それでよかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも誠意をみせてくれるよい人なのだ(信頼が薄らぐことなど私にはない。)」(上村 朋)

 その後再考しました。

「まめ」と言ってくれている人は、この歌の当事者の一方であろう、と推測します。そして、「まめ」とは、「まじめ」の意のほか「健康・丈夫」の意もあるので、この二つの意を掛け(同音異義を利用して)当事者の一方は言っているのかもしれません。イントネーションやその時の表情によっては微妙なニュアンスが加わります。「あしけくもなし」も同様に口頭で言われると微妙なニュアンスをも読み取る人がいるでしょう。

この上ではそのほか上記(試案)の五句「あしけくもなし」相当部分には、初句と二句における反語の意がある(その意を補うほうがよい)、と推測しました。五句は、もっと素直に、「それでも悪い人ではない(私ももっと尽そう)」、と訂正します。

③ 改めて現代語訳を試みます。

「(あなたに)丈夫でまじめでと言われているけれど、今まで本当によかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも悪い人ではない(私ももっと尽くそう)。」

④ この類似歌は、初句に引用文をおき、4つの基本的な文よりなり、2カ所で用いた接続助詞「ど」を軸にした対句形式になっています。この歌は、世の中の規範とその適用(の強要)がおかしいと詠っているのではなく、女性が反省し、相手に自分の誠意を直情的に口語的に訴えている歌です。

⑤ 詞書は「題しらず」であり、歌の理解に特段の役割をもっていませんでしたが、この歌が記載されている『古今和歌集』の部立と歌の配列から歌の背景は十分推測でき、文の主語も明確になりました。

⑥ この類似歌は、初句「まめなれど」の意が一つに絞れ、二句にある「なにぞ」の理解がポイントとなる歌でした。

 

21.3-4-46歌の詞書の検討

① 3-4-46歌を、まず詞書から検討します。

 詞書について、主語述語が対応している語句のひとかたまりが一つ以上あれば、それを一つの文と数えると、次のとおり。

1:人のいみじうあだなる

2:とのみいひて、

3:さらにこころいれぬけしきなりければ、

4:我もなにかはとけひきてありければ、

5:女のうらみたりける

.6:返事に

③  1は、文 2の最初にある助詞「と」により、後半部が引用文であることが分ります。詞書の出だしにある代名詞「ひと」は、特定の人物を念頭においた言い方の「人」であり、「いみじうあだなる」という引用文を言った人を指します。全文を引用文とみなくともよいと思います。

このため、文 1の主語は、「人」であり、 述語は明記されていない「いふ」です。「人」が、具体的には誰なのかは、以下の文から推測することになります。

なお、引用文「いみじうあだなる」の主語は明記されていない「貴方」であり述語は「あだなり」です。

2の主語は、明記されていない「引用文を言った人」です。主要な述語部は「いふ」です。「引用文を言った人」とはこのあとの文より推測することになります。

3の主語は、「引用文を言った人」であり、主要な述語部は「(けしき)なりけり」です。

4の主語は、「我」であり、主要な述語部は「ありけり」です。

5の主語は、「女」であり、述語部は「うらみたりけり」となります。最後の語句は助動詞「けり」の連体形であるので、この文全体で、ある名詞句を修飾しているはずです。その連体形であることを重視すれば、その名詞句は、明記されていない「「女」の手紙」であろうと思います。そうすると、文 5は、主語述語の区分のない単なる名詞句とみて、文 6の一部とみなしたほうがよい、ということになります。それを文 6とします。

6及び文 6の主語は、明記されていないこの歌の「作者」であり、文 4における「我」と同じです。主要な述語部は、明記されていない動詞部であり(例として現代語訳で示すと)「記す」です。

④ このような5つの文からなる詞書全体を通読すると、 3までは、一人の女性の言動を述べています。そしてその女性は、文 4の「我」にそれまで親かったところの「引用文を言った女性」です。

4以下は、男である「我」(この歌の作者でもある)の言動を述べています。

⑤ 語句を順に追い、詞書の文意を検討します。

1にある「あだ」(徒)とは、「(人の心、命や花などについて)移ろいやすく頼みがたい。はかなく心もとない」または「粗略である。無益である。」の意です。(『例解古語辞典』以下も原則同じ)

1は、詞書の書き出しなので、代名詞をそのまま生かし、

「ある人が「(あなたは)大変な移り気で頼みがたい(人ですね)」

の意となります。

2は、「そのある人はそれだけ言って」の意となります。

3の述語「(けしき)なりけり」の「なり」は体言に付く断定の助動詞「なり」の已然形であり、それに付いている最後の語句「ば」は、文 4にのべられている行動につながるので、「あとに述べる事がらの起こった原因・理由を表わす」接続助詞のはずです。はっきりとした原因を指しています。

4の述語部の「ありけり」の「あり」はラ変動詞であり、ここでは「(時が)たつ」の意であり、その已然形に付く最後の語句「ば」の意は、文 3の「ば」と同じです。

⑥ 文 4にある「なにかは」とは、連語です。この語句は、歌の二句にも用いられています。

連語「なにかは」の意は、「何が・・・か」、「何を・・・か」または「どうして・・・か」の意です。

「なにかはとけ」の「とけ」は下二段の動詞「解く」の連用形であり、「A結ばれているものが、ほどける。解ける。B解任になる。Cわだかまりがなくなる。うちとける。」の意があります。それは相対的に短時間の作用をさす動詞と思われます。

四段活用の動詞「ひく」には、「引く」と「退く」があり、前者は、「A力を入れて、自分のほうへひく。B引きずる。Cその方へ向けさせる。引き付ける。D長く、またはひろく伸ばす。」意、後者は、「後へさがる。しりぞく。」意があります。それは短時間の作用をさす動詞とも相対的に時間が継続する作用をさす動詞でもあると思われます。

「とけひく」と連語的な語句として『例解古語辞典』は立項していません。

そのため、文 4は、「なにかはとけ」そして「ひきて」そして「ありければ」と理解することとします。

4は、連語「何かは」の意により3案があることになります。

1案 私も、結ばれている何がほどけるのか、それを引きずってそのままにしておいたらば

2案 私も、結ばれている何をほどけるのか(あるいはほどくのか)、それを引きずってそのままにしておいたらば

3a 私も、どうして結ばれているものがほどけるのかと、それを引きずってそのままにしておいたらば

3b 私も、どうして解任になるのか(遠ざけられたのか)と、それを引きずってそのままできたところ

比較すると、二人の仲は既知のことですからほどける理由を問う3案のa,bという理解の方向が妥当である、と思います。

⑦ 詞書全文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「ある人が「(あなたは)大変な移り気で頼みがたい」と、それだけ言って、それから全然私に心を向けていない様子なので、私もどうして遠ざけられたのかという思いを引きずって、そのまま時を過ごしてしまっていたところ、その女が、恨みごとを言ってきた。その返事に(付した歌)。」

⑧ この詞書から、次のことが指摘できます。

第一 この歌は、男が、督促してきた女に返事をした歌である。

第二 「いみじうあだなり」と女から非難され、また、「うらみたる」便りが男にあった。

第三 「うらみたる」とは、前回言ってきた時と同じ「いみじうあだなり」という論をベースにしたものであるらしい(今までの態度を謝罪している便りではないようである)。

第四 男の返事の趣旨は、元の仲に戻るのか、あるいはこの際きっぱり拒否したのであろう。

第五 当時の恋に関する贈答歌の返歌は、おくられた手紙あるいは歌の一部の語句を詠み込むのが常套的な作詠方法であり、この歌は、非難されたことを詠み込んでいると予想する。

⑨ 鈴木宏子氏は、詞書について、つぎのように指摘しています(『和歌文学大系18(1998)『猿丸集』(鈴木宏子校注)。

A 「さらに・・・ければ」とは、「一向に気に入らない様子」

B 「なにかは・・・ければ」とは、「未詳。女がなびかないのに対抗してしらんぷりをきめこむことか」

 

22.3-4-46歌の文章構成など

① 鈴木氏は、二句を「なにかはをけく」で校注し、その歌意を、「真面目にしていても何の良いことがあろうか。好き放題にしていても格別悪いこともない。」としています。

鈴木氏は、「かるかやの」は、刈り取ったかやは乱れやすいことから「乱」にかかる枕詞としています。

② 最初に、歌の文章構成を、類似歌同様に確認しておきます。

主語述語が対応している語句のひとかたまりが一組以上あれば、それを一つの文と数え、また二句にある「て」を接続語と理解すると、類似歌と同じくこの歌には4つの基本の文(下記A,B,C,D)があります。

そして類似歌同様に、主語が分りにくい文ばかりです。

類似歌と語句の上で異なるのは、類似歌は接続助詞が「ど」の1種であったが、この歌は、初句と四句にある「ど」と二句と四句にある接続助詞「て」の2種あることです。前者は、確定逆接の意の助詞ですが、後者は、連用修飾語をつくる場合がおおもとで、原因・理由や断りの役割をもつ接続語をつくる場合もあるという接続助詞です。

もうひとつ、二句にある係助詞が替わっていることです。類似歌中の連語にある「ぞ」が、この歌では連語の「か」となっており、その意がだいぶ違います。

③ 主語を予想しながら、この歌を各文に分けると、つぎのようになります。

 

A:(初句) 「まめなれど」 (類似歌1-1-1052歌と同文)

主語は不明であり、述語は「まめなり」あるいは「なり」と予想する。

また、「まめなり」が引用文かどうかは、類似歌同様この文だけでは不明です。

文 B:(二句) 「なにかはよけて」 (類似歌は「なにぞはよけく」)

主語は「なに」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「よけ」(避ける意の動詞「よく」の連用形)と予想する。

C(三句と四句) 「かるかやのみだれてあれど」 (類似歌と同文)

主語は、「かるかや」または、類似歌と同じように明記されていない「(世のなかの)人」(特定の人の場合も有り)です。鈴木氏は、「かるかやの」を枕詞としていますから、主語は、明記されていない「かるかやのようにみだれる(こともある、世のなかの)人(特定の人の可能性あり)」としていると推測できます。

述語の主要部は「あり」と思われます。なお、このブログでは、用いられている語句は枕詞でも序詞でもその歌の意に特に必要な語句(有意のもの)であるとして検討しています。

D(五句) 「あしけくもなし」  (類似歌と同文)

主語は接尾語「く」がついた「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「なし」と思われる。

 

④ さらに、確定逆接の接続助詞「ど」の役割に、「ど」の前の事がらと後の事がらに密接な関係があることを話者自身は認めている(前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第46歌・・・」(2019/7/1付け)の「13.③」参照))ことの示唆があるので、この歌は、「ど」によってまとまる文ではないか、と予想します。

例えば、

1 初句「まめなれど」の結果が二句「なにかはよけて」であり、三句と四句「かるかやのみだれてあれど」の結果を五句「あしけくもなし」と言う文から成る、とみるケース

その文に用いられている助詞「ど」・「て」を添えて表記すると、この歌は、二つの文にまとまり、

一首全体=《文 A(ど)+文 B(て)》+《( C(て+ど)+文 Dとみるものです。

類似歌(接続助詞「て」は無し)がこのケースに該当します。しかしながら、二つのまとまった文にそれぞれ助詞「ど」と「て」があるものの、その順番が、前の文章と後の文章で逆転しています。

例2) ふたつの「ど」の前の事がらにかかる後の事がらは五句である、とみるケース

この歌は、一首全体=《(文 A(ど)》+《(文 B(て)+ C(て+ど)+文 Dとみるものです。

このケースは、助詞「て」が並列されていることを重視したうえで、助詞「ど」を考慮したものです。「・・・ど、・・・ど」と繰り返し、その二つの「ど」のそれぞれ後にのべる事がらは、同じ表現ができることであるからと文 Aの「ど」の後におくべき「あしけくもなし」は割愛してしている、とみるものです。例1)における助詞「ど」と「て」の連用への理解の別の1案です。

例3) ひとつの「ど」は前の事がらに対して必ず後の事がらが示されるが、一首全体はその歌にとり重要なひとつの「ど」による、とみるケース

この歌は、例えば、五句の直近の(「四句」にある)「ど」を重要とみて、一首全体=《《(文 A(ど)+B)(て)+文 C(て+ど)+文 Dと一部が入れ子となっているとみるものです。

⑤ 類似歌との比較をこの歌の4つの基本の文ですると、次の点を指摘できます。

第一 類似歌同様に各文は、ほとんど主語を割愛している。

第二 二つの接続助詞「ど」の前の事がら、即ち、初句「まめなれど」と三句と四句「かるかやのみだれてあれど」(文Aと文C)に、「まめ」と「みだれ」の対比があり、それは類似歌と同じである。

第三 二つの接続助詞「ど」の後の事がらが、接続助詞「て」により(類似歌と違って)、対となる語句の有無が一見不明である。

第四 類似歌の五句は、相手(男)に対する作者(女性)の評価であった。同様な構図とみれば、この歌の五句も相手に対する作者の評価となる。

第五 この歌にのみ詞書がある。類似歌とちがい、詞書から上記「21.⑧」のようなに色々な情報が明らかになっている。

⑥ 句ごとの検討等を以下に行っていますが、一首全体に試みた現代語訳は下記「24.」に記します。

 

23.3-4-46歌の検討その1 句ごとに現代語訳を試みると

① それでは、歌の各句の意を、順に、検討します。

② 初句「まめなれど」とは、「22.③」で予想したように主語が不明の文です。しかしながら、類似歌の初句と同じ語句であるので、その検討結果を踏襲すれば、次の2案となります。また、この歌の詞書から、この歌は女におくる男の歌であるのが明らかであることからも、この2案は妥当であり、「まめ」は形容動詞の語幹であり、その意を、「まじめ」と「健康・丈夫」に限定してよいと思います。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集46歌その5 まめなれど」(2019/7/1付け)の「15.①~③」参照)

 

第一 全て作中人物の言:形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」:「私か誰かは、当人は「まめ」と思っているけれど」 (以下A-1案と称します。)

第二 他人の言の引用を含む:「名詞句「まめなり」を引用したうえの已然形+確定逆接の接続助詞「ど」:「私か誰かは、「まめ」と言われているけれど」 (以下A-2案と称します。)

「私か誰か」は、二句以下の文と詞書から推測することになります。

なお、「まめなり」と評価する者を明確にする必要は、恋の贈答歌の返歌であれば、あまりない、と思います。この歌では、今後の交際を拒否すると詠うにしても元の仲になろうと詠うにしても、相手が自分を非難してきていたという経緯を相手に思い出させれば十分であるからです。だから、初句を、「私か誰かは、・・・だけれど」(A-A案)という程度にくくって検討することも可能です。

③ 二句は、類似歌の二句と異なり、「なにかはよけて」とあります。この文には、詞書にある「なにかは」と言う語句が用いられています。

この文は、連語「何かは」+動詞「よく」の連用形+接続助詞「て」

となります。

連語「なにかは」は、詞書の検討(上記21.⑥)でも触れました。連語「何かは」の意が詞書では「どうして・・・か」でした。

動詞「よく」(避く)とは、下二段活用で、よける。さける意です。四段活用でも意は同じです。

接続助詞「て」は、連用修飾語をつくるのがおおもとであり、基本的に現代語の「て」と変わらない(『例か古語辞典』以下原則同じ)そうです。連用修飾語をつくる場合は「の状態で」の意とみることができます。

そのほか接続語をつくる場合があり、「それで、そのため、という気持で、あとにのべる事がらの原因・理由などをのべたり、それでいて、そのくせなどの気持ちで、一応の断りをする意」があります。

 

連語「なにかは」の意が3つありますので、二句の意を機械的に記すと、

第一a 何がさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)

第一b 何がさけるか、ということでそのくせ

第二a 何をさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)

第二b 何をさけるか、ということでそのくせ

第三a どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)

第三b どうしてさけるか、ということでそのくせ

となります。

この句において「なにかは」が、詞書における「なにかは」と同じ意で用いられているとすると、二句の意は、上記第三(aまたはb)となります。それを第一候補として検討をすすめます。

④ さて、二句(文 B)の主語は、「22.③」に予想したように、候補が二つありました。

主語が「なに」の場合を最初に検討します。

「なにかはよけて」の意は、この場合、上記③の第一(aまたはb) に該当しますので、詞書における「なにかは」の意と異なります。

次に、二句の主語が、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」の場合を検討します。

「なにかはよけて」の意は、この場合、詞書の場合と同じように上記②の第三(aまたは第三b)の何れかに理解することが可能です。このため、二句の主語は、「それ」であり、例えば(「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」」が候補となります。即ち、

第三aa (「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」は、どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる) (B-1案)

第三bb (「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」は、どうしてさけるか、ということでそのくせ 

B-2案)

どちらにしても、何をさけるのかは、不明のままです。恋の贈答歌なので、「相手の女」あるいは「相手の女が知るきっかけとなる)噂が立つこと」を避ける意ではないか、と思います。「女性側からのアプローチ」を避ける意であるかもしれませんが、返歌の相手のため努力をした意を詠っていると、理解してよい、と思います

 

⑤ 次に、三句と四句の「かるかやのみだれてあれど」は、類似歌と同文です。なお、動詞「みだる」は、下二段活用の動詞として、次の意があります。

A (秩序が)乱れる

B (心が)乱れる・思い悩む

C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ

類似歌の検討結果が適用できるとすると、前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」(2019/7/1付け)の「17.」)が参考となります。

第一 「かるかや」は、名詞「刈茅」であり二つの意があります。即ち、「屋根をふくために刈り取ったカヤ」(葺く前に敷き広げられるカヤ)の意と、秋草の七草の一つのカヤ類の一種」(秋の風に乱れてしまうカヤ)の意です。

第二 「みだる」は、そのカヤの状態の描写であり得ます、その意は、上記の「A (秩序が)乱れる」に相当します。

第三 この歌において、「まめなり」と「みだる」が対比されて用いられているならば、ペアの語としての語意は、類似歌と同様に、人物評価となり、「まめなり」は、「まじめなようす・実直である」と理解し、「みだる」は、「(礼儀・態度が)乱れる・たるむ」の組み合わせが、恋の歌群の歌として第一番目の選択であろう、と思います。「かるかや」という植物が主語であっても、この意を掛けていることも当然考えられます。

第四 カヤが乱れる状況は一時的であるので、相手の人は本来誠実であると作中人物が思っている意も込めることができます。

⑥ さて、「22.③」に予想したように、主語の候補が二つあります。

「かるかや」が Cの主語の場合、恋の歌ですから人物評価の意を掛けている、とみます。

「カヤは一時乱れている状態になるけれど(そのように、もしも男であれば、一時「乱れて」いても)」

C-1案)

次に、文 Cの主語が、明記されていない「(世のなかの)人」の場合を、検討します。

「(世のなかの)人」がたまたま(あるいはある時期)「かるかやがみだれ」ているのに喩えるような状況になることはあり得ます。

このため、文 Cは、

カヤに乱れるときがあるように、(世のなかの)人、即ち作者である男は、一時(礼儀・態度が)乱れるあるいはたるむけれども」 (C-2案)

の意となります。

⑦ 次に、五句(文 D)を検討します。類似歌と同文です。

助詞「も」は係助詞であり、類似の事態をとりたてる用法があります。五句(文 D「あしけくもなし」)には、その類似の事態が明記されていません。

「22.③」に予想したように、主語の候補が二つあります。類似歌の検討結果(前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」(2019/7/1付け)の「17.⑤」など)を参考にすると、

主語が、「あしけく(ということ)」(「悪しきこと」の意)の場合、

悪いということも、ない。」 (D-1案)

主語が「明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」の場合、C-1案の主語に応じて2案があります。

C-1案+「それも悪いということもない」、即ち、

「カヤは一時乱れている状態になるけれど(そのように、もしも男であれば、一時「乱れて」いても)」それも悪いということもない。」 D-21案)

C-2案+「それも悪いということもない」、即ち、

カヤに乱れるときがあるように、(世のなかの)人、即ち作者である男は、一時(礼儀・態度が)乱れるあるいはたるむけれども、それも悪いことでもない。」 (D-22案)

(このように、類似歌と同様に、五句は、四句との関係ではその意は変らないとみられます。)

 

24.3-4-46歌の検討その2 詞書のもとで現代語訳を試みると、

① この歌は、詞書から上記「21.⑧」にもまとめたように、「いみじうあだなり」と女から非難され、そのままほっておいたら、「うらみたる」便りがあったので、返歌している歌です。返歌としてその非難を前提にして「まめなれど」と詠い出しています。すぐ反論(返歌)しないから、再度言い募ってきたという状況です。

② このような返歌は、通常男の立場では、もう拒否するならば無視を続けるでしょう。仲を戻すならば、時間を置いたことに余儀ないことが原因であると主張したり、非が自分に少ないことを訴えるたりするのがよくあるパターンです。

③ 基本の文ごとの検討結果を、主語別に整理すると、次の表のようになります。

  表 文 A~Dの主語別整理

主語

私か誰か

私か誰か

カヤ

それ

文 A (初句)

A-1案   

A-2案

該当なし

該当なし

文 B (二句)

B-1案  B-2案

B-1案  B-2案

該当なし

該当なし

文 C (三句と四句)

C-2案

C-2案

C-1案

該当なし

文 D (五句)

 

 

 

D-1案 D-21案 D-22案

 

③ カヤは、「私か誰か」の比喩でもあることがはっきりしているので、文 A~Cの主語と、文 D

主語の違いは、文 A~ Cと文 Dが別の文であることを示唆しています。

これは、歌の文章構成が「22.④」で検討した例2)や例3)に相当することになります。

④ ここで主語「私と誰か」の絞り込みをしてみます。文 A~文 Cの主語は同一人物のはずなので、この歌が恋の贈答歌であることから「私」即ち「作者である男」になります。主語がカヤの文も比喩的に「私」についてのべています。

類似歌は、二句にある接続助詞「ど」を含む「文 Aと文 B」は、作者(女性)のことを、四句にある接続助詞「ど」を含む「文 Cと文 D」は相手のことを詠っていました。

この歌(3-4-46歌)は二句にある接続助詞「ど」を含む「文 Aと文 B」は、作者(男性)のことを、四句にある接続助詞「ど」のある「文 C」も作者(男性)のことを詠っていますが、文 Dは別の文ですので、要検討です。

⑤ 今この歌を表の最左欄の文の組み合わせで検討してみます。また、文 BB-1案の、文 DD-1案とします。

A「私自身は「まめ」と思っているけれど」 

B(「まめなる」と称する状態にある)私は、どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる) 

C:「カヤに乱れるときがあるように、私は、一時乱れたけれども」

D:「悪いということも、ない。」 (D-1案)

この歌を読むとき、Cと文 Dのあいだで一息ついても良い、と思います。「まめ」を、誉め言葉として目の前で「まじめ」の意で言ってくれても、聞いた者には、話し手の表情、イントネーション、周囲の者の反応などと聞いた者の感性により、「実直」、「相談してきたらはまり込んでしまう生真面目」、あるいは「惜しまない丈夫さ」などを冷徹に指摘しているかに聞こえてしまう場合もあります。そんなニュアンスは書き言葉にすると、難しいところがあります。

この歌の作者で男も同じ悩みを持ちつつ詠ったのだと思います。恋の返歌なので書き言葉という点をあるいは利用しているかもしれません。

主語がない文なので、文 Dの主語は、文 Cまでの主語と異ってもよいし、同じで文が続いてもよい、と理解できます。異なる主語であれば、返歌する相手の女性が候補となります。

そうすると、この歌の趣旨は、文 Dの主語が異なる場合、

「「まめ」な私が、誘惑に負けちょっと浮気したけれど、それは(私が悪いだけであって)貴方も悪いということではない。」(貴方に不満で浮気をしたのではない)

また、文 Dの主語が文 Cまでの主語と同じ場合、

「「まめ」な私が、誘惑に負けちょっと浮気したけれど、そこまででそんなに悪いことではないでしょうよ(私は)。」

となります。

どうも作者は恋の贈答歌を楽しむべく、歌の理解が1案になるように詠もうとしていないと思います。類似歌を承知していた相手の女性は、この返歌に男の機智を感じ、喜んで逢ったことでしょう。気が付かなかった相手の女性は、返歌があったのですから、とりあえず安堵したことでしょう。

⑥ 上記⑤以外の組み合わせでも、同じことが言えました。

⑦ なお、「まめなれど」と言う語句が句頭にある歌は、三代集に2首しかありません。この歌と後撰和歌集』にある1-1-1120歌です。『新編国歌大観』より引用すると、

1-2-1120歌  女のあだなりといひければ      あさつなの朝臣   (巻第十五 雑一)

      まめなれどあだなはたちぬたはれじまよる白浪をぬれぎぬにきて

この歌の「まめなれど」も作中人物(作者自身)に対する評価ですが、その評価・断言している者に言及していません。作中人物は、公平な第三者の評価であるかどうかを明らかにするのを避けて、この歌をみるもの、つまり詞書にある「女」の判断に委ねています(付記1.参照)。

 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「「まじめ」な男が、どうして誘惑を退けようかという状態になり、でも刈茅が一時乱れるようなことになってしまったけど・・・(貴方は)だから悪くないよ。(「まじめ」な男が、どうして避けようか苦労したが、刈茅が乱れるような状況になってしまったけれど、そこまででそれ以上悪くもないよ。)」

この(試案)の歌の文章構成は、例2)と同じになります。

詞書から指摘したことの5事項(「21・⑧」参照)はその通りの歌でしたが、類似歌の文章構成などとの比較で指摘(「22.⑤」参照)した四番目のことは足りないところがありました。

 

25.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書が違います。この歌3-4-46歌は詠んだ事情を縷々記しています。これに対して、類似歌1-1-1052歌は「題しらず」とし、編纂者は経緯不明としています。『古今和歌集』巻十九の誹諧歌(ひかいか)に配列されていることから推測する以外その事情はわかりません。それでもこの歌と類似歌の事情の違いは明確にわかりました。

② 初句「まめなれど」の「まめ」と評価している人物の性が異なります。この歌は、男性である作者であり、類似歌は女性である作者です。また、「乱れてあれど」は、この歌においては作者自身であり、類似歌は作者の相手の男性です。

③ 二句の語句がまったく異なります。この歌は「なにかはよけて」であり、類似歌は「なにぞはよけく」です。

④ 五句の意に違いがあります。この歌は、作者とその相手の二人について述べ、類似歌は、作者の相手にだけ述べています。

⑤ この結果、この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。次回は、その類似歌より検討します。

 

⑥ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/7/8   上村 朋)

付記1.後撰集 1-2-1120歌について

① この1-1-1120歌は、雑部にあり、後撰集編纂者は恋部の歌と扱っていない。

② 初句「まめなれど」は、場合によっては作者が弁明のため言い出している理解も可能である。

③ 三句「たはれじま」は、「たはれ(た人の寄る・拠る)島」の意で、白浪・濡れを言い出す工夫である。

④ 動詞「たはる」(戯る・狂る)とは、「たわむれる・ふざける」「」みだらな行いをする」「心を奪われる」などの意がある(『例解古語辞典』)

(付記終る 2019/7/8  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集第46歌その5 まめなれど 

前回(2019/6/17)、 「猿丸集第46歌その4 我ひとりかは」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その5 まめなれど」と題して、記します。『猿丸集』の第46 3-4-46歌の検討のため、その類似歌を検討します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第46 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句が2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。(「恋の歌」から「恋の」を省き、「女性が詠う歌」を「女性が切々と訴える歌」と改めました。)

 

2.~12.承前

類似歌が置かれている古今集巻第十九の誹諧歌という部立について、巻頭の歌2首と最後の歌2首と類似歌1-1-1052歌の前後の各4首などにより検討してきた。その結果、誹諧歌(「ひかいか」と読む)という部立は、秀歌を漏らさないための部立であり、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」であること(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということとする。)を確認した。そして、類似歌1-1-1052歌に即していうと、次のことがわかった。

第一 1-1-1052歌は、「部立の誹諧歌A」の歌なので、歌に用いている用語には、常識を超えた使い方をしている可能性もある。論理構成においても同じである。

第二 この歌は、恋に関する歌であり、前後の歌とともに恋の進捗順での配列になっており、破局に向っている時点の歌、と予想できる。

第三 前後の歌は、(『新編国歌大観』における歌番号が)奇数番号の短歌とその次の短歌から成る一組の歌が、題材を共通にしている、と予想できる。

第四 古今和歌集』には、この歌の理解に資する歌(題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌)がある、と予想できる。)

 

13.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。詞書は「題しらず」です。

「私は誠実にしているけれど、いったいなにのよいことがあるか。(なんのよいこともないではないか。)また反対に乱れて(浮気して)いる人もあるが、なんの悪いこともない。」(久曾神氏)

「私は、まじめな人間だが、どこにいいところがあったのかね。山で刈る萱のように行いが乱れている人でも、別に不都合もないよ。」(『日本古典文学全集 古今和歌集』)

「(私はこんなに)誠意を尽くしているけれど、いったい何なの、え?良いことって。あのかるかやみたいに、(あの人は)ずいぶん不羈奔放でいるけれど、悪いことなんかちっとも無い。」(竹岡氏)

② 久曾神氏は、「まめなれど」「みだれてあれど」と確定法で述べ「どちらも実際にはなんの相違ないではないかと、現実の社会倫理を揶揄した歌」、と指摘しています。

竹岡氏は、次のように指摘しています。

A 真実一路に恋を思いつめて懊悩している者の、破局に陥ろうとする一歩手前といった歌。

B 二句は口語調。このやけくその端的すぎる表現がおどけた誹諧(竹岡論)とされている。和歌とは、文学としての型(さま)をとって表現するべきもの。

C 撰者たちが、このような歌をも歌と認めて勅撰集に入れていることに注目したい。

D 接尾語「く」を付けた「よけく」「あしけく」は現代語の「善」「悪」に相当する言い方。

なお、「誹諧(竹岡論)」とは、古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

③ 久曾神氏のいう確定法とは、接続助詞「ど」の働きです。

確定逆接の接続助詞と言われる「ど」は、活用語の已然形について、「あとにのべる事がらについて前もって一応断っておく事がらをのべる接続語」、あるいは、「そうしたところで、結局は、いつもあとにのべる事がらが起こる場合の前提の条件を示す接続語」です。(『例解古語辞典』 以下原則として同じ)。

「ど」の前の事がらと後の事がらに密接な関係があることを(好ましく思っているとかの感情には関係なく)話者自身は認めた表現がこの「ど」であり、この歌では、「ど」を二回用いて二組の関係を詠っています。

 

14.類似歌の文章構成

① 類似歌は、主語の明記が無い(あるいは少ない)歌です。最初に、歌の文章構成を確認しておきます。主語述語が対応している語句のひとかたまりが一組以上あればそれを一つの文と数え、諸氏の意見などを参考とすると、この歌には4つの基本の文(下記A,B,C,D)があります。

② 接続助詞「ど」の前後の事がらは一見わかりやすく見えますが、文としては、主語が不分明であり、それを最初に検討します。

 

A:(初句) 「まめなれど」 

主語は不明であり、述語は「まめなり」あるいは「なり」と思われる。

文 B:(二句) 「なにぞはよけく」

主語は「なに」であるか、あるいは明記されていない「それ・人」であり、述語は明記されていない語句(現代語訳で示すと)「(「よけく」)である」と思われる。

C(三句と四句) 「かるかやのみだれてあれど」

主語は「かるかや」または明記されていない「(世のなかの)人」であり、述語の主要部は「あり」と思われる。そして、「(世のなかの)人」は、特定の男の人の場合のケースもあります。

なお、このブログでは、用いられている語句は枕詞でも序詞でもその歌の意に特に必要な語句(有意のもの)であるとして検討しています。

D(五句) 「あしけくもなし」

主語は、接尾語「く」がついた「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「なし」と思われる。

③ さらに、諸氏は、初句にある確定逆接の接続助詞「ど」の後の事がらが、二句で終わっている、とみており、初句と二句で一文(文 E=文 A+文 B)を成しています。

三句以降も、初句と二句と同様に、四句にある確定逆接の接続助詞「ど」の後の事がらが五句であるとみており、別の一文(文 F=文 C+文 D)を成しています。それに対して諸氏は、現代語訳をしています。

このまとまった文 Eの主語は、文A相当の語句であり述語の主要部は「(「よけく」)である」か、または主語が「文 E」全体が相当し述語は明記されていない語句(現代語訳で示すと「よけく」の次におかれる)「(と)言う」と思われます。

このまとまった文 Fの主語は、文C相当の語句であり、文 Dにおいて主語の候補とした「それ」の例に相当します。述語の主要部は「なし」と思われます。

そして、一首全体(35文字の文)も、文E+F(=文 G)で一文を成しています。

一首全体(文 G)には、二つの考え方があります。

A主語は35文字全部であり、述語が省略されており、(現代語訳で示すと)「(ということは事実)である」

B二つの文を並列し三つ目の文(例えば現代語訳で示すと「これが事実である」とか「(この二点に)優劣なし」など)を省略している、

と整理できます。

④ この歌の4つの基本の文をみると、接続助詞「ど」を用いていることから、いくつかの点で、二つの事がらが対比して詠まれています。列挙すると、つぎのとおり。

第一 初句「まめなれど」と三句と四句「かるかやのみだれてあれど」(文Aと文C)により、「まめ」と「みだれ」の対比

第二 二句「なにぞはよけく」と五句「あしけくもなし」(文Bと文D)により、「よけく」と「あしけく」の対比

第三 「まめ」という物あるいは状況は「なにぞはよけく」と評するに値するとしたのに対して、三句以下に「かるかやのみだれてある」という状況は「あしけくもなし」と評していること(文 Eと文 F

最後の指摘(文 Eと文 Fの対比)は、この二つのことがらは優劣がない、と訴えていると理解できます。

詞書が「題しらず」とされた、このような文章である歌に、上記(2~12.承前)でのべた4点に沿った理解が可能かどうかを、確認します。

 

15.類似歌の検討その3 初句の現代語訳を試みると

① 歌の意を、初句から順に、検討します。

初句にある「まめ」は、同音異義の語句であり、名詞「豆」あるいは形容動詞「まめなり」の語幹にあたります。

そのため、初句「まめなれど」は、次のように理解できます。

第一 名詞「豆」+(体言についているので)断定の助動詞「なり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第二 形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

さらに、後者の場合の形容動詞「まめなり」の語幹を名詞句として用いて、「なり」を前者の場合と同様の助動詞とする理解も可能でありますが、確定逆接の接続助詞「ど」が受けるので、その意は上記第二とまったくといってよいほど変わりません。

第一の場合の名詞「豆」は、誰にとっても「豆」という認識でしょうが、第二の場合の形容動詞「まめなり」は、誰かの評価・断定であるので、歌の理解には、少なくとも作中人物自らの言(評価)なのか、他人の言(評価)なのかの確認を要すると思います。これは、「まめなり」が引用文であるかどうかの判定を要することになり、文 Aは別の文を入れ子にした構造である可能性があります。

② あらためて、初句「まめなれど」の理解を、次のように整理し直します。しかし、「まめ(なり)」の意をこの文 Aだけでは同音異義のどちらの意であるか一つに絞りきれません。

第一 全て作中人物の言:名詞「豆」+(体言についているので)断定の助動詞「なり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第二 全て作中人物の言:形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第三 他人の言の引用を含む:「名詞句「まめなり」を引用したうえの已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

③ さて、「豆」は、食用にする豆、とくに大豆の意です。(『例解古語辞典』 以下原則同じ)

形容動詞「まめなり」には、「Aまじめなようす・実直である B健康なようす C(娯楽のためのものをはかなし、あだなり、とみるのに対して)日常生活に役立つ、実用的である」の意、があります。

このため、初句「まめなれど」は、主語を人物と物とに分けて、次のように理解できます。

第一 「これは、豆であるのだが」

第二のA 「私か誰かは、当人は「まじめである」と思っているけれど」

第二のB 「ある特定のものは、私自身からみると日常生活に役立つものと思うのであるのだが」

第三のA 「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど」

第三のB 「ある特定のものは、日常生活に役立つのであると聞いているのだが」

主語のさらなる特定は、二句以下の文から推測することになります。

④ 「まめなれど」と言う語句が句頭にある歌を、『新編国歌大観』第1巻で確認すると、2首あります。この1-1-1052歌と『後撰和歌集』にある1-1-1120歌です(付記1.参照)。

1-2-1120歌  女のあだなりといひければ      あさつなの朝臣   (巻第十五 雑一)

      まめなれどあだなはたちぬたはれじまよる白浪をぬれぎぬにきて

この歌の「まめなれど」は、作中人物に対する評価ですが、その評価・断言している者に言及していません。作中人物は、公平な第三者の評価であるかどうかを明らかにするのを避けています(この歌をみるものつまり詞書にある「女」の判断に委ねています)。それは、女から言い返された場合の担保として誰の評価であるかをさけているのであろう、と思います。

勅撰集にはこの2首しかありません。「豆」・「まめなり」と言う語句は、あまり歌に用いられないものと言えます。なお、『後撰和歌集』の部立には「誹諧歌」はありません。

⑤ そうすると、上記(2.~12.承前)でのべた、「(第一)1-1-1052歌は、「部立の誹諧歌A」の歌」なので、歌に用いている用語には、常識を超えた使い方をしている可能性もある。論理構成においても同じである。」に該当する用語・語句のひとつに、「まめなり」を疑ってよい、と思います。

⑥ この初句には、他人の言を引用している可能性があることを指摘しました。他人の言は、伝聞です。この歌の前の歌1-1-1051歌を想起させます。

1-1-1051歌は、1-1-890歌を下敷きにした歌であり、歌の三句にある「つくるなり」の「なり」は伝聞の意でした(ブログ 2019/6/10付けの「8.⑦」参照)。1-1-890歌を下敷きにした歌、つまり「1-1-890歌に詠われている」という伝聞であり、1051歌が詠われた頃「ながら橋」が実際架け替えらたのかどうかには関係ない歌でした。

そうすると、この歌1-1-1052歌の初句(文 A)に、作中人物が聞いた伝聞があるとすれば、1-1-1051歌と共通の種類の題材を用いているのだ、という理解が成り立ちます。即ち、上記(2.~12.承前)でのべた、「(第四)前後の歌とともに、奇数番号の短歌と次の短歌は、題材を共通にしている、と予想できる」に該当します。

⑦ このため、初句「まめなれど」は、1-1-1051歌と同じ恋に関連した歌であり、上記③に示しているうちの、

第三のA 「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど」

という理解が、有力になります。

「私か誰か」は、二句以下の理解によるところです。

 

16.類似歌の検討その4 二句の現代語訳を試みると

① 二句にある「なにぞは」の理解に、3案あります。

第一 代名詞「何」+強く指示する係助詞「ぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」、

第二 連語「何ぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」

第三 副詞「なにぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」

と理解できます。

代名詞「何」は、不定称であり、作中人物もわからない「何物」かを指しています。それは、物や人をも指すことができ、全体をも一部をも指すことが出来ます。

連語「何ぞ」は、「なぞ」と同じ意で連語(何ごとか等の意)または副詞として用いられています。そのため、第二は、第一と第三と同じと割り切ることとします。

副詞「なにぞ」であれば、疑問「どうして」あるいは反語「どうして・・・か(いやそうではない)」の意です。確定逆接の助動詞「ど」のあとの文にあるので、反語とみます。

② 二句にある「よけく」は、 五句にある「あしけく」と語句の形として対になっています。

「よけく」は、形容詞「よし」の古い未然形(よけ)+準体助詞「く」であり、「良きこと」、の意です。対比している五句にある「あしけく」は、形容詞「悪し」の古い未然形(あしけ)+準体助詞「く」であり、「悪しきこと」、の意。となります。

③ これらを整理すると、二句「なにぞはよけく」には、次の二つの意が考えられます。

第四 主語が「何」の場合、「何が「良きこと」となるのか」

第五 主語が「明記されていない「それ・人」」の場合(「なにぞ」は連語か副詞)、「どうしてそれ又は人が「良きこと」となるのか(いやそうではない)」

④ 次に、初句と二句を一つの文(文 E)として理解すると、接続助詞「ど」の前の事がらでる「まめなり」という評価は、上記「13.③」に記すように後の事がらのための前提であり、その「まめなり」という評価に対する違和感を作中人物が持っているとみられますので、二句の「なにぞ」は連語か副詞)と理解してよい、思います。

そのため、初句と二句(文 E)は、第三のA+第五となり、

E-1(案):「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど、どうしてそれが「良きこと」となるのか(いやそうではない、と思う)」

となります。

 

 

 

 

17.類似歌の検討その5 三句以降の現代語訳を試みると

① 三句にある「かるかや」は、名詞「刈茅」であり「屋根をふくためのに刈り取ったカヤ」か「秋草の七草の一つのカヤ類の一種」の意があります。「かや」とはススキ・スゲなどの草の総称なので、後者であれば尾花(ススキ)を指すのでしょうか。「かるかや」も同音異義の語句といえそうです。

三句の「かるかやの」を、諸氏は、「乱る」の枕詞と指摘していますが、意味ある語句として検討をします。

屋根をふくために刈り取ったカヤを、屋根に葺く準備として庭に敷き広げている状況を(そろえて屋根に葺いてある景に対して)「みだる」という情景であると言い表したと理解すると、それは確かに屋根を葺く際には一時的ですが常にみられる光景です。

また、刈り取る前の自生のカヤの群生が、穂が盛んな秋にどんな風にでもなびき応えている景も、「みだる」と言い表すことも可能です。

この歌は、上記「2.~12.承前」で指摘してあるように、「部立の誹諧歌A」の歌として恋の進捗順における破局に向っている時点の歌と予想しているところです。

前者の意で「みだる」と表現するのは、本来相手の男性は誠実であると思っている意も込めることができるので、この歌の「かるかや」は、「屋根をふくために刈り取ったカヤ」の意として検討を進めることとします。なお、後者の意ならば、風が吹くという誘いがあって乱れるということであり、乱れるのは本意ではないという意を込めることができることになります。

② 「かるかやのみだれてあれど」(文 C)の主語は、「14.①」で、「かるかや」または明記されていない「(世のなかの)人」であると、推定しました。

主語が「かるかや」の場合から、検討することとします。

この場合は、植物である「屋根をふくために刈り取ったカヤ」が屋根に葺いた状態とちがって敷き広がっている状況の描写がこの文 C、となります。

この文のなかでは、「みだる」に人物評価の意はありません。しかし、その意を掛けて歌に「みだる」を用いることは当然できますし、この歌では、上記「15.」で示しているように、初句の「まめ」という語句は人物評価の「まめ」の意であるので、文 Cは、その人物が本来「まめ」なはず、という気持を持っている作者の言である、と思います。

 

 

③ 動詞「みだる」は、下二段活用の動詞として、次の意があります。

A (秩序が)乱れる

B (心が)乱れる・思い悩む

C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ

「まめなり」と「みだる」が対比されて用いられているならば、この歌におけるペアとしての語意は、人物に対する評価の場合「まめなり」は、「Aまじめなようす・実直である」と理解し、「みだる」は、「C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ」の組み合わせが、恋の歌群の歌として素直な選択であろう、と思います。

なお、「みだれて」等動詞「みだる」の和歌における用例は 『古今和歌集』はじめ多数あります。和歌によく用いられている語句といえます。(付記1.参照)

清濁抜きの平仮名表記で「かるかやの」の用例を勅撰集で探すと、9首ありますが、三代集の作者のころはこの歌の1例しかありません。和歌に用いる語句としては珍しい部類に入ります。(付記1.参照)

 

④ 次に、文 Cの主語が、明記されていない「(世のなかの)人」の場合を、検討します。

「(世のなかの)人」の意が特定の一人であったら、例外なくいつも「みだれる」と評価することは有り得ないことです。たまにはそれが常態であるかの時期を過ごす人もいるでしょう。このように一時でもそうなっている人を、「かるかやがみだれ」ている状況に喩えることは出来るでしょう。

だから、「(世のなかの)人」を、「かるかや」にみなし得ることがここまでの文(A~C)で推測できるならば、「かるかやのような(世のなかの)人」とは、特定の状況下における特定の人物を指す代名詞であってもおかしくありません。

⑤ 五句にある「あしけく」は、「よけく」と対比されており、上記16.②で検討したように、「悪しきこと」の意となります。

また、五句は、主語を明記していない文であり、上記14.②で、主語は、「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想し、述語は「なし」と思われる、と記しました。助詞「も」は、係助詞であり、類似の事態をとりたてる用法があります。主語か何かに類似のことが想定されているものの五句(文 D)には明記されていません。

⑥ これらから、三句以降を一つの文(文 F)とみると、次の表の組み合わせがあり得ます。

 

表 文 Fの理解(案)

整理番号

三句の訳(試案)

四句の訳(試案)

五句の訳(試案)

F-1(案)

(この文 Cの主語である)かるかやが

(本来の状況ではなく)乱れているけれど(それは人が乱れていることの比喩でもある)

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

F-2(案)

かるかやのように

(世のなかの)人が、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

F-3(案)

 同上

(もっと特定して)自分か誰かが、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

 

 

⑦ 表における「五句の訳(試案)」欄にある「それ」は、F-1()F-3()において四句の表現していることを指していると思います。そのため、五句の訳(試案)のA案とB案は四句との関係では、その意は変らないとみてよいと思います。

「も」が示唆しているのは、植物の「かるかや」ではなく、初句にある「まめなり」と評価されている人でしょう。

表における「四句の訳(試案)」欄にある「」は、この歌が恋に関連した歌であるので、男女間の贈答歌の可能性が高く、特定した人物を指す、つまり作中人物か作中人物に近い人をさす、と理解できます。

このため、作中人物からみれば、表のどの(案)でも妥当な理解です。

 

18.類似歌の検討その6 一首全体の現代語訳を試みると

① この歌1-1-1052歌は、恋に関連した歌であり1-1-1051歌と題材を共通にしていること、初句にある形容動詞一語の文「まめなり」が引用文であることから、一首全体(文G)を構成する文E と文F の現代語訳を仮に、E-1(案)+F-3()とすると、概略つぎのようになります。しかし、未だに「私か誰か」は、宙ぶらりんです。

E-1(案):私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど、どうしてそれが「良きこと」となるのか(いや、そうではない、と思う)

F-3(案):かるかやのように(もっと特定して)自分か誰かが、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが、それも悪くはない

② 「私か誰か」は、作中人物(この歌の作者でもあると思う)と作中人物の恋の相手が有力です。

この歌の本文から推測できないとすれば、この歌を記載している『古今和歌集』の配列は有力な手がかりになります。

この歌の前後は、恋に関連した歌であり恋の進捗順の配列でした。1-1-1048歌から1-1-1056(1-1-1052歌を除く)について検討し、次のように推定しています。(付記2.参照)

第一 1-1-1051歌は、また逢える可能性のある歌3首に続いたあとにあり、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌

第二 1-1-1053歌と1-1-1054歌は、名がたつことを題材とし噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌

第三 1-1-1055歌と1-1-1056歌は、破局を覚悟したかの歌。ちなみに1-1-1057歌以降は破局を認めた歌

このため、この歌は、「逢える可能性がかなり遠のいたと自覚する歌」か、「噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌」、と予想できます。

③ そのうえで、「私か誰か」を、先の仮訳で仮定して比較してみると、

E-1(案)において、私(作中人物)が「まじめである」と言われているのであれば、「良きこと」であったか、と反問しています。(イ)

誰かがそういわれているのであれば、E-1(案)は、作中人物にはそんなふうにはみえなかった(まじめでなかった)、と批判しています。(ロ)

F-3(案)において、自分(作中人物)が、自分自身は、かるかやのように乱れていたと判断しているものの、それは悪いものではない、と主張しています。(ハ)

誰かがかるかやのように乱れていると判断したならば、F-3(案)の作中人物は、その誰かをそんな人ではなく良い人であったと思っています。(ニ)

④ 配列から歌の趣旨を上記②で二つ予想しましたが、(イ)~(ロ)をみると、この歌は、「噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌」とはおもえません。

「逢える可能性がかなり遠のいたと自覚する歌」として、(イ)と(ニ)の組み合わせが良いと思います。

これは、F-1()F-2()でも同じです。

⑤ 現代語訳を、先の仮訳で試みると、次のとおり。

「私は誠実であったといわれるほど貴方に尽くした。しかし、それでよかったであろうか(いや、そうではなく足りないところがあったに違いない)。カヤはいづれ屋根にちゃんと葺かれるように、はめをはずしただけの貴方の評価を云々することなどしない私です。」(上村 朋)

⑥ この歌において、文 F1案に絞る必然性が全然ありませんので、現代語訳(試案)は、次のようになります。

「私は誠意を尽くしていると言われているけれど、それでよかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも誠意をみせてくれるよい人なのだ(信頼が薄らぐことなど私にはない。)」(上村 朋)

この歌は、恋の贈答歌として相手に送られます。詞書は「題しらず」ですからこの想定は可能です。この現代語訳(試案)のように、相手が理解できたのならば、どのような展開になったでしょうか、竹岡氏の現代語訳のように、相手が理解した場合と、同じとなるでしょうか。

⑦ この歌の理解に資する歌を、『古今和歌集』で探すと、なかなかありません。

Aであれど、非Bならば 同じ評価を与えられない、という構図で、詠う歌があります。

1-1-11歌  はるのはじめのうた     みぶのただみね

       春きぬと人はいへどもうぐひすのなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ

「すでに春が来たと人は言うけれども、春を告げしらせるうぐいすの鳴かないうちは、まだ春ではないだろうと、私は思うのである。」(久曾神氏)

また、AでありBであるが、それはどちらもCの一面である、と詠う歌があります。

1-1-833歌  藤原敏行朝臣の身まかりにける時によみてかの家につかはしける

     ねても見ゆねでも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢には有りける

「亡き人のお姿は、寝ても夢に見えますし、寝ないでいても心に思い浮かべております。もっとも、普遍的にいえることは、うつせみのようなはかないこの現世こそが夢なのであります」(久曾神氏)

19.類似歌検討のまとめ

① 類似歌(1-1-1052歌)の現代語訳(試案)をしたところ、この歌は、世の中の規範とその適用(の強要)がおかしいといっているのではなく、個人的な問題として、女性が、相手に自分の誠意を直情的に口語的に訴えている歌です。

竹岡氏のいうように、破局寸前の女の嘆きの歌となりました。

② 詞書は「題しらず」であり、歌の理解に特段の役割をもっていませんでした。しかし、部立と歌の配列から歌の背景は十分推測できました。

③ この歌は、同音異義の語句(「まめ(なれど)」と「かるかや」)が、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現」であり、かつ、主語を省いた文を重ね、引用句もあり文の構造にも特色があります。

④ 秀歌と認め恋部に配列すると、道徳・常識批判から相手に訴えかけているととられかねないので、自省して訴えている歌であることを明確にするため、「部立の誹諧歌A」に『古今和歌集』編纂者は配列したものと思われます。

⑤ 『古今和歌集』の恋部の最後の歌1-1-828歌は、「離れゆく恋」(久曾神氏)の歌であり、不満足ながらあきらめる歌で終わっています。この歌は、その一歩手前の歌となっています。

⑥ 歌の文章構成で、四つに基本の文から行った一首全体(35文字の歌)の推測ははずれましたが、歌の正しい理解にたどりついた、と思います。

⑦ 上記「2~12.承前」で1-1-1052歌に関して予想していたことに関して整理すると、つぎのようになります。

第一 「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、歌に用いている用語には口語調もあり、常識にとらわれない特徴と文の運びがあった。

第二 恋に関する歌であり、『古今和歌集誹諧歌の部における恋の進捗順での配列になっていた。

第三 1-1-1048歌以降、(『新編国歌大観』における歌番号が)奇数番号の短歌とその次の短歌から成る一組の歌は、題材を共通にしていた。

第四 『古今和歌集』には、この歌の理解に資する歌(題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌)が多分すべてにあるのであろうが、この歌に関しては未だ不明である。

⑧ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

次回は、この1-1-1052歌が類似歌であると言われている3-4-46歌を、検討したいと思います。

2019/7/1     上村 朋)

 

付記1.『新編国歌大観』第1巻の歌の句頭の用語(清濁抜きの平仮名表記)について

① 「まめなれと」:2首  句頭に「まめ」とあるのもこの2首のみ

② 「なにそ」:10

  「なにそはよけく」:1首(1-1-1052歌のみ)

  「なにそはありて」:4首 うち古今集1-1-382歌の1首あり

  「なにそはつゆの」:3首 うち古今集1-1-615歌の1首あり

  「なにそは(とりの、なのみ、にほふ)」:各1

③ 「かるかやの」:9首 うち古今集1-1-1052歌の1首あり。勅撰集の年代順ではつぎの歌は千載集1-7-242

④ 「かるかやも」:1

⑤ 「かるくさの」:6首  1-8-184以下の勅撰集のみ。

⑥ 「みたれて・・・」、多数ある。古今集1-1-261-1-532歌、、1-1-583歌、1-1-1052歌の4首ある。

⑦ 「みたれてあれど」 この1首のみ

⑧ 「みたれける」という歌も古今集1首ある(1-1-424歌)

⑨ 「あしけく」は「あしけくもなし」の用例で1首のみ(この1首のみ)

以上は、句頭における用例である。

 

付記2.類似歌の前後の歌の配列上の特徴

① 配列の検討を、何回かのブログで行ってきたが、この歌の前後の歌1-1-1048歌から1-1-1056歌(類似歌1-1-1052歌を除く)に関しては、2回のブログ(「わかたんかこれ 猿丸集・・・」の2019/6/10付け及び2019/6/17付け)において、行った。そのまとめは、2019/6/17付けブログの「12.」に記してある。本文はそれからの引用である。

② 関連のある歌として検討した歌のうち1-1-1031歌は検討途中である。

(付記終り 2019/7/1  上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第46歌その4 我ひとりかは

前回(2019/6/10)、 「猿丸集第46歌その3 今ははつかに」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その4 我ひとりかは」と題して、記します。『猿丸集』の第46 3-4-46歌の検討のため、その古今集における類似歌の前後の歌を継続して検討します。(上村 朋)

 

1.~9.承前

類似歌のある古今集巻第十九にある誹諧歌という部立について検討し、巻頭の歌2首と最後の歌2首と類似歌の直前に配列されている歌4首を検討してきた。その結果は、次のとおり。

第一 『古今和歌集』は、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということとする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」を詠い、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などをしており、滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、特別に凝縮した表現のため、用語は雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向がある。

第六 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、『古今和歌集』のその他の部立に題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌のある傾向がある。

第七 「部立の誹諧歌A」のうちの恋の歌群に含まれるとみられる歌4首は、恋の進捗順の配列であると推測できた。)

 

10.古今集にある類似歌の直後にある歌の検討

① 類似歌1-1-1052歌の次の歌から4首の検討をします。類似歌を含め『新編国歌大観』より引用します。

1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

     なにかその名の立つ事のをしからむしりてまどふは我ひとりかは

1-1-1054歌  いととなありけるをとこによそへて人のいひければ      くそ

     よそながらわが身にいとのよるといへばただいつはりにすぐばかりなり

1-1-1055歌  題しらず      さぬき

     ねぎ事をさのみききけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ

1-1-1056歌  題しらず      大輔

     なげきこる山としたかくなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける

 各歌の現代語訳の例又は私の試みを、順に示します。

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

「浮名の立つことなど、どうして惜しかろうか(惜しくもない)。浮名の立つことを知っていながら、色香に迷っているのは私ひとりだけであろうか(そんなことはあるまい)。」(久曾神氏)

「一体なんで、そんな評判の立つことが惜しかろうぞ。承知の上で取り乱しているのは、私一人なものか」(竹岡氏)

久曾神氏は、「内心では恐れているのである。ほんとになんとも思っていないならば口にださないだろう。」と指摘しています。

竹岡氏は、「「その」と特定されていることもあり、「あの名の立つこと」を「しりて」となる」と指摘し、「全体に強い語気にあふれており、一首全体が自暴自棄の破れかぶれといった調子。その端的すぎる表現がおどけた誹諧(竹岡論)」であり、前の歌1-1-1052歌と同じ趣の誹諧歌(誹諧(竹岡論)の歌)」とも指摘しています。

「誹諧(竹岡論)」とは、「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

③ この歌は、二人の評判が世の中に知れ渡ったと仮定してその後を予測し、相手に逢うことを迫っている歌といえます。恋の歌として相手から送られた歌として理解されることを想定している歌です。

同じような場合の歌を『古今和歌集』より引用します。

1-1-603歌  題しらず      ふかやぶ

     こひしなばたが名はたたじ世中のつねなき物といひはなすとも

1-1-627歌  題しらず      よみ人しらず

     かねてより風にさきだつ浪なれやあふことなきにまだききたつらむ

1-1-629歌  題しらず       みはるのありすけ

あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに

1-1-630歌  題しらず      もとかた

     人はいさ我はなきなのをしければ昔も今もしらずとをいはむ

(歌本文の)現代語訳の例を示すと、つぎのとおり、

1-1-603歌 「もし私が恋いこがれて死んでしまったならば、たとえ相手がどんな人であろうと、うわさのたないということはない。私の死を、たんなる現世の無常のことと、あなたが関係ないように取りつくろいなされようとも。」(久曾神氏

1-1-627歌 「あらかじめ、風が吹く前に立つ波であるからであろうか、まだ恋人に逢うこともないのに、うわさがさきに立つようであるよ。」(久曾神氏

1-1-629歌 「理由もなくて、まだそんなこともないのに無実の評判が立ったからとて、立田川を渡らないで、途中でやめてしまうような逢う瀬ではないのに。」(久曾神氏

1-1-630歌 「あの人はどう思うか知らないが、私は無実の評判を立てられるのが惜しいので、昔も今もそんな人は知らないと言おう。」(久曾神氏

なお、『古今和歌集1-1-628歌から1-1-631歌までの4首は「なき名」を題材にした歌となっています。

④ この歌は、語彙に俗語を用いている訳ではありませんが、竹岡氏が指摘するように、一首全体の調子がほかの歌と異なり、下句も、婉曲な表現を取らずに開き直った物言いが、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想をしている、とみなせます。

そして、この歌を渡された人は、あるいは渡すのだと公表するならば、それは乱暴な言い方で逢うことを強要している歌、と取られかねません。恋歌の部の歌の表現のなかに配列すれば、前後の歌とあまりにもトーンが違い過ぎます。この歌を秀歌と認めるならば、他の部立に馴染まない短歌であり、恋に関する歌としては、「部立の諧諧歌A」の歌が相当する、と思います。

このような詠い方は男の立場からの歌です。

⑤ 次は、1-1-1054歌です。久曾神氏は、詞書を「いとこなりけるをとこ・・・」とある藤原定家筆伊達本『古今和歌集』を底本としていますが諸本により「「いと」となありけるをとこ・・・」と改め、最後に「よめる」を追加しています。竹岡氏は、同じ底本を詞書はそのままで評釈しています。

1-1-1054歌  「糸」という名であった男に私が関係あるように、人々が言ったのでよんだ歌  

    くそ(源つくるの娘)

「まったく無関係でありながら、私に「糸」が近づくというので、私はただいつわり(うそ)であるといって、聞き流しているだけである。」(久曾神氏)

「縒(よ)った糸は針に通すだけ、――それと同じで、(私といとことは)無関係ながら、(世間の人が)私の身にいとこの寄るというもんだから、ただそんな「いつはり」=デマのうちに過ぎていくばかりなのだ。」(竹岡氏 詞書は割愛)」

久曾神氏は、「男の名「糸」に因んで縁語を多く使用している。」と指摘しています。

竹岡氏は、次のように指摘します。

A 通釈は古来まちまち。

B 同音異義の語句がある。いと(従兄弟の「いと」と糸)、よる((男女が近)寄ると縒る)、いつはり(偽りと五針)、すぐ(過ぐとすぐ(針に糸を通す))の4つの語句。

C 恋の歌を徹底的に日常茶飯事にからめ寄せて、上述のごときおどけた感じの伴うところに誹諧(竹岡論)がある。

D 五句にある「なり」は解説の意。

⑥ この歌は、繋げることができる「糸」の縁語を多数連ねて、繋がることを願うのではなく無関係であることを巧妙に訴えています。この歌と同じように「糸」を題材にした歌を、巻第十一恋歌一 より1首示すと、つぎのとおり。

1-1-483歌  題しらず     よみ人しらず

     かたいとをこなたかなたによりかけてあはずはなにをたまのをにせむ

五句「たまのをにせむ」とは、「玉を貫く緒にしようか、でも緒がないではないか」、つまり「なにを魂の緒にしようか、貴方と親しくならなければ」の意を含み、この1-1-483歌は恋の成就を願っている歌です(付記1.参照)。

これに対して、1-1-1054歌は、糸は五針(いつはり)でとまっていると、繋がっていない事を詠っています。秀歌と編纂者が認めたのであれば、よく使われている糸のイメージに反することを言おうとしており、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想の歌であり、他の部立にある「糸」を詠う歌に馴染まない短歌として「部立の誹諧歌A」に配列することが可能な歌です。また、この歌は、女の立場の歌です。

⑦ このように理解しましたが、繋げることができる「糸」の縁語を用いて関係無い、と主張していることが、気になります。この歌は、「部立の誹諧歌A」に配列してある恋の歌であるはずと予想してきたところであり、また、開き直った物言いの歌が、逢うことを強要する歌と理解できることを想起すると、この歌は、「糸」と言う語句とその縁語を用いてしらを切った歌ではないか、そして、恋の相手には「糸」を題材にしていることが本意のヒントとなっていると訴えている歌ではないか、と疑いを持ちました。

恋の歌群の詞書を通覧すると、1-1-1022歌から恋の歌群の次の歌群にある1-1-1066歌まで題しらずの歌が続く配列のなかで、具体の詞書のあるのは、1-1-1031歌とこの歌だけです。前者は、歌合の歌であることに注意をむけさせ、後者は、「糸」を意識させる詞書となっています。

この歌で、恋の相手に伝えたかったのは、恋の歌として真逆のことを詠わざるを得ない立場になった作者が、「噂が収まるのをしばらく待ちましょう」と伝えている歌ではないか、と推測できるところです。

この歌の元資料は、「いつはり」(偽り)を詠み込んだ物名の部の歌であったのかもしれません。このように理解できる歌なので、『古今和歌集』編纂者は、元資料の事情は不問として新たに詞書を用意し「部立の誹諧歌A」の歌に相応しい歌として配列したと推測します。(1-1-1031歌については付記2.参照)

⑧ 1-1-1055歌  題しらず      さぬき(安倍清行朝臣の娘)

「お参りに来た人の願いごとをたいそう聞きなさったであろうお社は、最後には人々の嘆きが集まって、ほかならぬ、嘆きの木で出来た森となることでしょうよ。」(片桐氏)

「人々の願い事を、そのまますべて聞き届けたと思われる社が、最後には「嘆き」という木の森となるのであろう。」(久曾神氏) 

「神様の御加護を祈願する言葉を、むやみと聞いたのであろうが、そんな神社こそ、しまいには、嘆きという木が集まって茂ったあの「嘆きの森」となっているのであろう。」(竹岡氏)

片桐氏は、滑稽味は、神を皮肉っている点としています。

久曾神氏は、つぎのように指摘しています。

A 初句の「ねぎ事」とは、参詣者などの祈願をいい、「やしろ(社)」とは、神社をいう。

B 抽象的な嘆きを具体的な森と結びつけたところに諧を感じたのであろうが、女房の歌であるので、多くの男性の愛情を受け容れる場合を考えることもできよう。

竹岡氏は次のように指摘しています。

A 初句の「ねぎ事」とは、諸注が「願い言」とするのは不十分で「神の心を安め、その加護を願う」(『時代別大辞典』)とするのが正解。それが恋に適用されているところに誹諧(片岡論)がある。「(ねぎ)事」(という漢字により表現されているが、ここ)は「ことば」をいう。

B 二句にある「ききけむ」の「けむ」は、過去に実現した事がらについての推量を表わす助動詞であり、五句にある「らめ」(現在推量の助動詞「らむ」の已然形)に対応する。二句は、過去において「さのみ」聞いたであろうと思われるがそんなやしろ(社)こそが、の意となる。「やしろ」は上代においては森であった。

(下記⑨と付記3.参照)

C  (この歌は)多くの男たちの「ねぎ言」を、男の救済の神みたいに心広く聞き届けていた女が、今はあんなに「嘆きの森」同然になっているという意を寄せたもので、事もあろうに神社に寄せているところに恋の歌として型破りで、誹諧(誹諧(片岡論)の歌)たるゆえんがある。

D この歌の前後は、終着駅に達したような恋で、恋としてはあるまじきとんでもない事物に寄せたり、俗語をまじえたり、俗事を詠んだりして、いづれもおどけて、型破りの表現をとっている歌が続く。

⑨ この歌は、当時の種々な神社において本殿などが森林に囲まれているという状況に至っている故事来歴を不問にして、個人単位の「ねぎ事」とその森林との関係が深いのだ、という発想の転換をして詠っています。まさに、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」です。

日本の神々に対して建物を用意するのは、中央集権国家を強く目指した天武天皇の政策である、というのが、神社建築史の方々の意見です。それまでは、神に対して一時的に降臨を仰いだ空間、即ち一族にとり特別なエリアの森林を用意していただけだったのが、仏教の寺に対抗して(仏像を安置する建物に対する)降臨する際の神の宿舎として、突然現れたのが、神社の本殿である、と言われています。

神は、依代に現れ、祭が終われば帰っていただく、と観念され、古代・中世の神の重要な属性は祟りであり、客人を丁重にもてなす作法が重視されています。

一時的に降臨を仰いだ空間は、一族単位で降臨を仰いでいたので、族長の居宅などではなく、耕作地でもなく、広場を確保できる森林内に設けられていた、ということです。祭を盛大に行うため降臨を仰ぐのですから広い空間が必要でした。また、氏族単位で別々の空間(森林)を選んでいます。降臨を仰いだ空間と祭りを行う空間(森林)は神聖な空間でした。

「なげきのもり」という発想は、歴史的には神を冒涜するととられかねない発想ですが、宮仕えをしていると思える作者の女性はすらりと詠んでおり、その歌を『古今和歌集』編纂者は秀歌(しかるべき部立に配列が可能な歌)と認めています。天皇や上級貴族も編纂者を含めた官人も非難していないのですから、随分と世の中が変わってきていたのだと思います(付記4.参照)。

なお、「なげき」の「き」に「木」が掛かっている点については次の歌において検討します。

⑩ この歌の作者は女性です。久曾神氏も竹岡氏も一人の女性の恋愛遍歴を想定しているようです。「なげきのもり」になるまでには同じような女性が大勢いたことになります。そのような見聞又は経験を持つ作者は、同僚の女性に注意を促すべくこの歌を送ったことが想定できます。「その昔神様がそうして森をつくられたと聞いているが、貴方も、そうならないように」と詠っている歌ではないでしょうか。表面の言葉を追えば、片岡氏の訳となります。

しかし、元資料は、女房の歌なので、同僚への忠告歌というよりも、課題を定めた私的なサロンでの作と推測します。

この歌のように当事者でないものが他人の恋の行方を心配している歌は、恋歌の部に馴染まないと思います。そして、神社に関する発想や諸氏の指摘のように、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想であり、秀歌であれば、「部立の誹諧歌Aの恋の歌群に置かざるを得ない歌であると思います。

作者である女性の父親の安倍清行朝臣の生歿は、天長2年(825)~昌泰3(900)です。

古今和歌集』には、神に祈り成就できなかったと詠う歌があります。恋の当事者が作者です。

1-1-501歌  題しらず     よみ人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

禊する河に注目して、願いは神によって聞き流されてしまったと詠います。「恋せじ」という願いでしたので、巻第十一恋歌一にあることから、この1-1-501歌に詠われる神は、諦めることはない、と作者をはげましている歌、と理解できます。

⑪ 1-1-1056歌  題しらず     大輔(源弼の娘か)

「私の嘆きが凝りかたまり、木を伐り出す山のように高くなってしまったので、何をするにも頬杖ばかりが、すぐつかれることである。」(久曾神氏)

「私の嘆きが、嘆きという木を伐採する山というふうに高くなってしまったもんだから、山登りの杖じゃないが、思案に暮れて頬杖ばっかりがまっさきについつかれたわ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、五句にある「つかれる」とは、杖にたよることに自然になる。「れる」は自発の助動詞。」と指摘しています。

片岡氏に、つぎのような指摘があります。

A 四句にある「つらづゑ」とは、「ほおづえをつく」ことと、「杖をつくこと」とを掛けるが、「つらづゑ」などは普通の歌に用いられるような語ではなかったであろう。

B 「なげき」を題材の歌が1-1-1055歌から3首ならぶ二首目がこの歌。

⑫ この歌は、「なげき」の「き」に「「嘆き」の「き」」と「木」を掛けています。

古今和歌集』で句頭に「なげき」とある歌は、7首あります。誹諧歌の部にある3首のほかの1-1-455歌など4首(付記5.参照)は「嘆き」の「き」」と「木」を掛けていません。「嘆き」の意で歌に用いるのは普通のことであっても「木」を掛けているのは誹諧歌の部にある3首だけです

これからみると、「なげき」と歌で用いるのは異例ではないが、「木」を掛けるのは特別な発想ということが言えます。

このほか、「こる」(木を伐る意)は古語であり、「つらづゑ」も普通の歌に用いない用語であり、「なげきこる山」と言う発想は特異なものであると思います。

このため、この歌を秀歌と認めたとしたら、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある歌であり、この発想を際立たせるには、恋歌の部を避けて、「部立の誹諧歌A」に配列するのが妥当である、と思います。

なお、「なげき」は一つの恋にまつわるものか、複数の人の恋にまつわるものか、用いている語句からは判断しかねます。先の1-1-1055歌も同じでした。

⑬ 「なげき」を詠っているもう1首、1-1-1057歌を、念のため検討します。

1-1-1057歌  題しらず      よみ人しらず

なげきをばこりのみつみてあしひきの山のかひなくなりぬべらなり

「なげき」を伐採して積むばかりなら谷(かひ・峡)もなくなり嘆いたことのかひ(代ひ・替ひ=代償)もないようだ(片岡氏)、と詠います。この歌を秀歌と認めたならば、「なげ木こる」とともに掛詞の「かひ」の発想は特別に個性的な発想であり、その発想の歌であることに意識をむけるには恋部の歌ではなく「部立の誹諧歌A」に配列するのも妥当である、と思います。

⑭ 『古今和歌集』には、山のかひがなくなるのと同様な心境を詠う歌があります。

1-1-659歌  題しらず     よみ人しらず

     おもへども人めつつみのたかければ河と見ながらえこそわたらね

この歌には同音異義の語句が二つあります。つつみ(人の目を遠慮・用心する意の慎みと堤)と河(彼はと河)です。目の前に見えていても逢う手立てがみつからないと詠い、1-1-1056歌は嘆きの山は見上げるばかりで手をこまぬいている、と詠っています。

 

11.恋の歌群の最後の歌の検討

① 以上で類似歌の前後にある各4首について、歌ごとの検討が終わりました。

巻第十九の誹諧の部の恋の歌群は、1-1-1059歌までと言われています。恋の歌群は、恋の進捗順に配列されているとする推測を1-1-1059歌まで確認しておきたい、と思います。

② 1-1-1058歌  題しらず     よみ人しらず

       人こふる事をおもにとになひもてあふごなきこそわびしかりけれ

四句にある「あふご」とは「朸(おうご)・天秤棒」のことであり、「逢う期」を掛けて用いられています。久曾神氏と竹岡氏の評釈に基いても、この歌は「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、逢える見込みがなくなったと詠う歌です。

③ 1-1-1059歌  題しらず     よみ人しらず

       よひのまにいでていりぬるみか月のわれて物思ふころにもあるかな

この歌は、久曾神氏と竹岡氏の評釈に基いても、この歌は、「三日月のわれて」という比喩など「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、逢える見込みがなくなったと詠う歌です。

④ 1-1-1060歌  題しらず     よみ人しらず

       そゑにとてとすればかかりかくすればあないひしらずあふさきるさに

初句にある「そゑ」とは「故」・「所以」の訓であり、初句は、「そうであるからといって」の意です。漢文に馴染んでいる男性の会話の例を竹岡氏は示しています。五句「あふさきるさに」は「行きちがっている」意の当時の口語です。久曾神氏と竹岡氏の評釈に基けば、和歌からみれば「さま」になっていない歌であり「部立の誹諧歌A」に相当する歌です。

しかし、相手に逢えるかどうかではなく、もっと広く、物事が予測の範囲で進展しないことにいら立っている歌です。恋に限定して詠んだ歌ではなさそうです。

⑤ このように、恋の歌群は、1-1-1059歌が最後であると認められ、恋の進捗順に配列することは守られている、とみることができます。

 

12.類似歌の前後にある歌8首のまとめ

① 検討した1-1-1048歌から1-1-1056歌(類似歌1-1-1052歌を除く)は、恋に関する歌であることを確認しました。配列が恋の進捗順であるならば、それぞれ以下の()のように理解できる歌となっています

② 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を改めて整理すると、直前の4首は次のとおり。

1-1-1048歌 たまには逢えている男の立場の歌(。再会が叶うと見込んでいる歌)

1-1-1049歌 絶対逢いにゆくという男の立場の歌(多分、再会の許しを女から得た直後の歌)

1-1-1050歌 浮気ばかりしている相手を諦めきれない女の立場の歌(許したにもかかわらず来てくれないと嘆く歌)

1-1-1051歌 復縁を婉曲に迫る女の立場の歌(復縁を求めている歌)

この4首は、相手に既に逢ったことがある時点で、今後も逢える可能性があると作中人物が信じている歌3首に続き、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌1-1-1051歌)が配列されている、とみることができます。

③ 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を直後の4首について整理すると、次のとおり。

1-1-1053歌 名は惜しくない、それより恋の成就が第一とする男の立場の歌(強引に女に迫る歌)

1-1-1054歌 軽い口調で噂を無視すると言いふらす女の立場の歌(逢うのをしばらく止めようと伝える女の歌)

1-1-1055歌 続けて裏切られた同僚女性に注意を促した女の立場の歌(いつも途中で途切れてしまう女への忠告)

1-1-1056歌 チャレンジが失敗続きの女の立場の歌(恋が進展せず破局ばかり迎える女の歌)

この4首の前半2首は、1-1-1051歌以降という恋の進捗状況にあって、噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌であり、後半2首は、破局を覚悟したかの歌となっています。

④ 恋の歌群の1-1-1057歌以後についても整理すると、つぎのとおり。

1-1-1057歌 嘆きがつもるばかりと詠う歌(破局を認めた歌)

1-1-1058歌 得る者がなかったと詠う歌(破局を認めた歌)

1-1-1059歌 かけらとなったと詠う歌(破局を認めた歌)

このようにみると、少なくとも1-1-1048歌以降は、再会が叶うと見込んでいる歌以降破局へ至る恋の進捗に沿った配列となっています。

⑤ 次に、四季の歌は連続する2首がペアとみなせる歌が配列されていましたので、この9首において連続する2首で共通点などがあるかどうかをみてみます。

1-1-1048歌と1-1-1049歌に共通の題材がありません。題材が月と山に別れています。ともに再会の可能性がある段階の歌です。

1-1-1049歌と1-1-1050歌は、共に著名な山を題材としています。歌の趣旨において、女のもとにすぐ行く(つもりの)男と遊び惚けている男とが対比されています。

1-1-1050歌と1-1-1051歌は、題材に共通のものはありません。題材の著名な山と著名な橋が対比され、未だ信頼されていると信じている女と信頼を失ったと苦慮する女とが対比されています。

1-1-1052歌の検討がこれからなのでこの歌とペアとなる歌の検討は、今保留します。

1-1-1053歌と1-1-1054歌は、名がたつこと(噂)を題材とし、破れかぶれの歌と軽口の歌の対比となっています。歌の趣旨は、強要をしてでも逢いたいと暫く間をあけましょうとが対比されています。

1-1-1054歌と1-1-1055歌は、題材が異なります。対比しているのは歌の趣旨でもなく、冷静な当事者の女性と当事者に忠告したい女性という歌の作者が対比されています。

1-1-1055歌と1-1-1056歌は、「なげき」を共通の題材としています。森と山を対比し、心広い女性と縁がなかんかつくれない女性とを対比しています。

1-1-1056歌と1-1-1057歌は、「なげき」と「こる」と「山」を共通に用い、恋の成果なしと共通に詠います。

1-1-1057歌と1-1-1058歌は、恋の重みを共通の題材として、「なげき」と「逢う期」を対比しています。

このような整理が可能なので、奇数番号の歌とその奇数の次の歌とをペアとして、『古今和歌集』の編纂者は、題材などで共通のものを選び、歌の趣旨が異なる歌を配列しているのではないか、と推測できます。

⑥ このように、1-1-1052歌前後の各4首は、1-1-1052歌のみは未検討なので留保しますが、「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、かつ恋に関連した歌として破局を認めるまでの恋の進捗順に、『古今和歌集』編纂者は題材などで共通する歌を奇数番号の歌と次の歌とをペアとして配列して構成している、と推測できます。

1-1-1052歌も同様な配慮のもとの歌ではないか、と予想できます。

⑦ 次回は、その1-1-1052歌を検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

2019/6/17  上村 朋)

付記1. 糸を題材にしている歌

① 本文にあげた歌のほか、つぎのような歌がある。

1-1-26歌(あをやぎのいとよりかくる・・・)

1-1-27歌(あさみどりいとよりかけて・・・)

1-1-114歌(・・・心は糸によられなむ・・・)

1-1-180歌(・・・かしつる糸の打ちはへて・・・)

1-1-225歌(・・・つらぬきかくるくものいとすじ)

1-1-415歌(いとによる物ならなくにわかれぢの・・・)

② 糸という語句は、繋げるものという意に連なって用いられている。

 

付記2.詞書のある1-1-1031歌の現代語訳(試案)について

① 『新編国歌大観』より、1-1-1031歌を引用する。

1-1-1031歌  寛平の御時きさいの宮の歌合のうた          藤原おきかぜ

      春霞たなびくのべのわかなにもなり見てしがな人もつむやと

② この歌は、同音異義の語句を利用して、次のように現代語訳(試案)できる。寛平の御時きさいの宮の歌合で春歌に記載されている歌とは違う意味の歌となっている。検討中であるが2案示す。a案がよい。

 a「春霞がたなびく野辺で呼ばれる我が名にもふさわしい形(姿)を、見てみたいものである。さもなければ火のように思いがたまる(燃えさかる)ばかりですよ。(上村 朋)

 b「春霞がたなびく野辺にいる我が名の形(姿)を、見てほしいものである。誰が(つまり私ですが)貴方のために控えているかを」(上村 朋)」

③ 同音異義の語句は次のとおり。

A 「わかな」:当時の和歌は清濁抜きで平仮名書きされていた。「若菜」と「我が名」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者。

B 四句(なりみてしがな)にある「なり」:四段活用の動詞「成る」(変化して有る状態になる)の連用形と名詞「なり(形・態)」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者。

C 五句(人もつむやと)の「人もつむ」:「ある人が摘む」と火を「積む(積る・たまる)=燃えさかる」かのように」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者

「一定の場所に役目として控えている。つめる」意の「詰む」もあるが、用例に近松の「冥土飛脚」を引いている(『例解古語辞典』)。

④ 1-1-1031歌の詞書は、歌合では春歌として番わされている元資料の歌を、別の意の恋の歌として、ここ「部立の誹諧歌A」に配列している、という『古今和歌集』編纂者の意思表示である、とみることができる。

語句の意が意表を突いていて、発想がユニークであり、歌合の歌の平仮名表記を読み替えることを意識して行って恋の歌に変換している。それでも秀歌と認めて、この1-1-1031歌を「部立の誹諧歌A」に相応しい歌として編纂者は配列している。

⑤ 1-1-1031歌は、「部立の誹諧歌A」の恋の歌群にあり、恋の進捗時点は、前後の歌も逢える期待がある時期の歌である。また、作者おきかぜは、古今集17首入集し、3首が「部立の誹諧歌A」にある作者である。

⑥ 『寛平御時后宮歌合』にあるこの歌(5-4-10歌)は、『新撰万葉集』の元資料にもなっている。『新編国歌大観』より引用する。『新撰万葉集』は漢詩と番なので当該漢詩も引用する。

5-4-10歌  (春歌二十番) 右        興風

     はる霞たなびく野辺のわか菜にもなりみてしかな人もつむやと

2-2-249歌  (春歌廿一首)

     春霞 起出留野辺之 若菜丹裳 成見手芝鉋 人裳摘八斗

2-2-250歌  (春歌廿一首)

     何春 何処霞飛起 陰陽毎年改山色 野人喜摘春若菜 山人往還草木楽

⑦ 1-1-1031歌は、古今集編纂者によるアイデアによって「部立の誹諧歌A」に配列されていることが2-2-250歌により理解できる。

⑧ 古今集において、1-1-1-31歌と題材を共通にした歌はあるが、検討中である。「春霞」の例を1首記す。

1-1-999歌  寛平御時、歌奉りけるつひでに奉りける     藤原勝臣

ひとしれず思ふこころは春霞たちいでて君が目にもみえなむ

 

付記3.神社・神域について

① 神社の本殿とは、神が常在する神の占有空間を持つ建築をいう。拝殿ではない。(三浦正幸「神社本殿の分類と起源」:『国立歴史民俗博物館研究報告 第148集』(2008/12)の85頁以下)

② 天武天皇は、在地首長が神と一体化する儀礼を行う「祭殿」を破壊させ、官社制創始により「神に仕える」神社をつくった(丸山茂氏の意見)。日本列島における支配地域を統一して治めるためである。

③ 現在の京都市にある上賀茂神社下鴨神社など、天武天皇即位以前ある神社は、そこで神を祀るためのエリア(森林)が既に神聖視されていた。『萬葉集1-1-404歌や1-1-405歌に詠われるように、現在の奈良市にある春日大社の鎮座地は標縄で広大な神域を囲っていた。

④ 現在でも本殿を持たない神社がある。

奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社

長野県諏訪市諏訪大社上社

埼玉県神川村の金鑽神社

 

付記4.2世紀前

① 今年2019年の200年前、1819年は、日本では文政2年。

文化文政時代(1804~1830)は徳川幕府11代将軍家斉の時代。政治経済文化の中心は上方から江戸に移った。『北斎漫画』(初版1814)、文政の改鋳(1819)があり、外交関係では異国打払令(1825)、シーボルト事件(2828)がある。北斎の『富岳三十六景』の出版はその後である。

② 今年2019年の200年前、1819年に、米国がスペインからフロリダを購入した。

この前後は、ナポレオンがワーテルローで敗北(1815)、ベートーベン死去(561827)、米国モンロー主義宣言(1828)、フランス7月革命(1830)が起こる。ダーウィンの『種の起源』発刊は1859年である。

 

付記5.古今和歌集』で句頭に「なげき」とある歌について

① 7首あるが、3首が誹諧歌の部にある3首、1-1-1055歌、1-1-1056歌、1-1-1057歌であり、みな「嘆き」の「き」」と「木」を掛けている歌である。

② そのほかの4首は、次のとおり。

1-1-455歌  なし なつめ くるみ      兵衛(ただふさがもとに侍りける)

     あぢきなしなげきなつめそうき事にあひくる身をばすてぬものから

1-1-521歌  題しらず      よみ人しらず

     つれもなき人をこふとて山びこのこたへするまでなげきつるかな

1-1-985歌  ならへまかりける時にあれたる家に、女の琴ひきけるをききてよみいれた

                                        よしみねのむねさだ

     わびびとのすむべきやどと見るなべに嘆きくははることのねぞする

1-1-1001歌  短歌      よみ人しらず

あふことの まれなるいろに ・・・ すみぞめの ゆふべになれば ひとりゐて あはれあはれと なげきあまり せむすべなみに ・・・)

③ なお、句頭ではないが、句の途中に「なげき」と用いている歌があるが、「木」と掛けていない。

1-1-606歌  題しらず     つらゆき

人しれぬ思ひのみこそわびしけれわが嘆をば我のみぞしる

(付記終り。 2019/6/17   上村 朋)