わかたんかこれ 猿丸集第46歌その3 今ははつかに

前回(2019/6/3)、 「猿丸集第46歌その2 誹諧歌の巻頭歌など」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その3 今ははつかに」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第46 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う恋の歌であり、類似歌は破局寸前の女性が詠う歌です。

 

2.~6.承前

 (猿丸集第46歌の類似歌を先に検討することとし、最初に類似歌がある古今集巻第十九にある誹諧歌という部立について検討し、巻頭の歌2首と最後の歌2首で確認した。その結果は、次のとおり。

第一 『古今和歌集』が、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」を詠い、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などをしており、滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、特別に凝縮した表現のため、用語は雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向がある。

第六 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、『古今和歌集』のその他の部立に題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌のある傾向がある。)

 

7.類似歌の検討その1 配列から

① この類似歌(古今集にある1-1-1052歌)の配列からの検討を行うため、前後の各4首の歌をみてみます。すべて、「部立の誹諧歌A」に相当するはずです。今回は、そのうち直前にある歌を中心に検討します。その歌を、『新編国歌大観』より、引用します。

1-1-1048歌  題しらず      平中興

     逢ふ事の今ははつかになりぬれば夜ぶかからでは月なかりけり

1-1-1049歌  題しらず      左のおほいまうちぎみ

     もろこしのよしのの山にこもるともおくれむと思ふ我ならなくに

1-1-1050歌  題しらず      なかき

     雲はれぬあさまの山のあさましや人の心を見てこそやまめ

1-1-1051歌  題しらず      伊勢

     なにはなるながらのはしもつくるなり今はわが身をなににたとへむ

1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず   (3-4-46歌の類似歌)

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

     なにかその名の立つ事のをしからむしりてまどふは我ひとりかは

1-1-1054歌  いととなありけるをとこによそへて人のいひければ      くそ

     よそながらわが身にいとのよるといへばただいつはりにすぐばかりなり

1-1-1055歌  題しらず      さぬき

     ねぎ事をさのみききけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ

1-1-1056歌  題しらず      大輔

     なげきこる山としたかくなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける

② 織田正吉氏は、巻十九の「誹諧歌」にある恋にからむ歌は「生彩を帯び、いかにも俗謡風である」と評しています。『古今和歌集』は、恋の部に五巻あて恋の進捗順に配列しています。「誹諧歌」の恋の歌群もそのような配列となっているか確認をします。

 

8.類似歌の直前にある歌

① 類似歌の前に配列されている歌4首について、現代語訳の例又は私の試みを、順に示します。

1-1-1048歌  題しらず      平中興

「二十日になってしまうと、夜が深くなくては月がない――私の恋もそうで、逢うことが今はもうほんのちょっとになってしもうたもんだから、夜が深くなくては、逢うのに適当なとっつきがなかったなあ。」(竹岡正夫氏)」

「(この前)あなたに逢ってから二十日になりました。本当にわずかに逢えるだけですね。(今日は)二十日の月ですので明るくなるのは夜が更けてからであり、宵のうちの空に月は無く、(月を理由に訪ねることもできず、まったく)行くきっかけがないのだが(それでも訪ねますから)。(上村 朋)

この歌の同音異義の語句は、二句にある「はつか」(「二十日前」と「僅か」と「二十日の月」)及び「月」(「月」と「付き(手立て)・きっかけ」)の2語です。

竹岡氏は、「恋の歌とするにはあまりにもダジャレに走り過ぎておどけた趣になってしまい、雅致にかける。」と指摘しています。

② 同音異義の語句「つき」に俗語の「「付き(手立て)・きっかけ」を用いています。この俗語は、普通の歌ならば「すべ」と言い換えているところでしょう。

二十日前に逢った時は新月で夕方から朝まで月が空にありませんでした。今夜も月がないのに変わりありません。今夜は訪ねますよと素直な口上の挨拶歌でよいのに、「はつか」のダジャレを楽しんでいます。このように「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」をしている歌ですが、竹岡氏のいうように雅致にかけており、恋の歌としては異例な挨拶歌です。秀歌という編纂者の判断を尊重しますと、恋の部には馴染まない歌であり、「部立の誹諧歌A」の歌となります。男性の立場の歌である、と思います。

掛詞としている「はつか」に注目すれば、『古今和歌集』には、1-1-481歌があります。

1-1-481歌  題しらず     凡河内みつね

     はつかりのはつかにこゑをききしより中ぞらにのみ物を思ふかな

この歌の作者は、月のない空のもと結局逢えていますが、1-1-481歌は、何もない空をみあげて逢えないままです。

③ 1-1-1049歌  題しらず     左大臣 藤原時平

「たとい、あなたが唐国の吉野の山に籠るとしても、あとに取り残されようと思う私ではないのに」(竹岡氏)

竹岡氏は、『顕註密勘』の説を支持するとし、「とても行きにくい外国の「もろこし」、わが国では特別の聖地として行者が修行のために籠る深山幽谷である「吉野の山」、それを組み合わせて誇大におどけて言っているところに「誹諧(竹岡論)」がある。たとい日の中、水の中という調子」と指摘しています。

「誹諧(竹岡論)」とは、「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

④ この歌は『伊勢集』にもあり、伊勢の贈歌(1-1-780歌でもあります)に対する答歌に利用され、作者も枇杷左大臣藤原仲平となり、下句は「おもはむ人におくれめや」となっています。

「もろこしの吉野の山」の喩えも「特別に凝縮した表現」ですが、そもそも遣唐使も中止した時点で、女性の私費留学生という発想もない時に、このように言い出すという「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」がこの歌にあります。秀歌という編纂者の判断を尊重しますと、遣唐使中止の提起をした人物を思い出させる藤原時平を作者としているので、滑稽に紛らわせ他の部立に馴染まない短歌として「部立の誹諧歌A」相当の歌としてここに配列したのではないでしょうか(付記1.参照)。

この歌は、男の立場から、首ったけだよと詠う恋の歌ですが、その相手は既に逢ったことのある女性かどうかは不明です。前の歌1-1-1048歌と同じ恋の進捗状況時の歌とすれば、関係修復時の歌となります。

また、この歌は、1-1-780歌が本歌とする1-1-982歌に応えた歌、と思われます。恋しかったらいらっしゃい、と言う女の歌に、たとえ貴方がもろこしにいるとしても(改めて誘ってくれたのだから)ゆきますよ、と応えている歌です。宴席で披露された歌と推測します。(1-1-780歌は本歌取りして1-1-982歌の返歌とはなっていません。)

1-1-982歌  題しらず     よみ人しらず

     わがいほはみわの山もとこひしくはとぶらひきませすぎたてるかど

この1-1-982歌は、古来神詠とされる一方、宴会に歌われて来たとも言われています。

⑤ 1-1-1050歌 題しらず     なかき 

「あの人の心が、噴煙の雲の晴れない浅間山の山と同じだったとは、あさましくあきれかえってしまうなあ。あの人の心底をとくと見てとったうえで私の恋も精算しよう。」(竹岡氏)

「あの人は、噴煙の雲の晴れない浅間山のような人ですね。あきれてしまいます。それなのにまだ、よくよく話し合いもして貴方の心を思い定め冷静に判断して別れましょう、なんて思っていて。」(上村 朋)」

竹岡氏は、次の点を指摘しています。

A 恋人のことをいうのに、物凄い「雲はれぬあさまの山」に寄せるなど全く「あさまし」く、そこがおどけた「誹諧(竹岡論)」になっている。

B 和歌中の「人」の単独用例232例は「我」の意のものは一例もなく、そういう場合はすべて「自分のことを一般化して言う」(『時代別大辞典』)あるいは自分をも含む一般人の意である。

C 1-1-817歌とともに、上句が嘱目景で第三句が契点となって《情》の表現に転じる型で当時の和歌の型。その景が単に景で終わるか、あるいは下の情の具象化さらに抽象の域にまで達しているかで、景への寄せ方の優劣が決まる訳である。単に無心の序などと片付けてはならない。

D 「雲はれぬあさまの山」は「人の心」の具象化・譬喩。「人のこころ」と詠う歌(1-1-61歌など15例)はいずれも相手又は一般人の心である。1-1-817歌が参考となる。

 1-1-817歌とこの歌は、下句が同じです。

巻第十五 恋歌五   題しらず       よみ人しらず

    あらを田をあらすきかへしすきかへしても人の心を見てこそやまめ

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(竹岡氏)

なお、1-1-817歌は、3-4-48歌の類似歌なので、その時改めて検討します

⑥ この歌は、誰もコントロールなどできない噴煙あがる浅間山を、勝手気ままな相手の男に喩えています。浅間山は当時も火山活動が活発であり、これは、当時においては、このような男を喩えるのに常套的なものの捉え方と思います。

この歌に同音異義の語句があります。三句「あさましや」が掛詞であり、(上句においては)「あきれた・不快だ」の意と(下句においては)「見苦しい・恥ずかしい」意とを掛けています。「あきれた・不快だ」からすぐ別れると思いきや、まだ信頼を作者は寄せています。即ち、「勝手気ままな相手にはあきれたが」と「そんな男をまだ諦めずにいるのは見苦しいのだが」です。よみ人しらずの歌1-1-817歌を承知している作者はこの歌の下句をわが歌に引用した、と理解したのが、上記の私の現代語訳(試案)です。男を信じて止まない女の歌です。

掛け詞とした「あさまし」に相手への批判と自分への批判を重ねている「特別に凝縮した表現がある」歌です。恋歌としては「あさまし」を自分にも言っていることや、悲恋の歌ではないので、秀歌と認めた『古今和歌集』編纂者が部立の恋の部に馴染まないとして「部立の誹諧歌A」に置いたのが、この歌であろうと思います。

古今和歌集』編纂者は、この歌と1-1-817歌を対の歌ととらえている、と思います。

なお、当時有名な土地を譬喩とした歌は、『古今和歌集』にあります。例えば、

1-1-594歌  題しらず      よみ人しらず

     あづまぢのさやの中山中中になにしか人を思ひそめけむ

 初句~二句は、三句「なかなかに」の序と理解でき、三句が上にも下にも意味で繋がっているのではなさそうです。そこが、この歌(1-1-1050歌)は違います。

⑦ 1-1-1051歌  題しらず      伊勢

「(古い物の代表とされている)難波にあるあの長柄の橋でさえも新営するというじゃないの。今は、このわたしの身を何にたとえよう」(竹岡氏。「つくるなり」は「作る」+伝聞の「なり」です。)

「難波にある長柄の橋は造り直した、とこのたび聞いた。私たちの仲と同じように、たびたび手直ししてきて今回も造り直すというではないか。それなのに(これからはそんなことはない、とおっしゃる。)これから私は何にたとえればよいでしょう。(旧来の仲にもどれないのでしょうか。)」(上村 朋 「つくるなり」は「作る」+伝聞の「なり」です。)

長柄の橋は1-1-890歌に詠われるように古くからあるもの(つまり長続きしているもの、させたいもの)の代表例とされてきています。古くから本当に長い期間利用されていたとするならば、それは要路にある橋であり、(当時はまだ基礎構造をしっかり作れないので洪水に弱いから)当局が毎年修繕怠らず壊れても壊れても作り直そうとしているからです。そして、作り直しが間に合わない間はその残骸が残っていることになります。(付記2.参照)。

竹岡氏はつぎのように指摘します。

A 三句にある「つくる」は、「作る」である。仮名序の「長柄の橋もつくるなりと聞く人は」(という文)の表現は、この歌にもとづく。(この文の)「なり」は「聞く人は」から伝聞を表わすと理解できる。伝聞の「なり」は終止形に接続するのだから「つくる」は終止形。動詞「尽く」は上二段活用でその連体形は「つくる」となる。『新註国文学叢書 古今和歌集』(小西甚一 講談社1947)の説が明解である。

B (長柄橋も更新されて)この身だけが取り残されたという救いようのないあばあちゃんね、この身は、という気持(の歌)。殺風景な長柄の橋にたとえていることがおどけた誹諧(竹岡論)がある。1-1-890歌も老いを嘆くが、この歌は恋の歌として嘆いているから誹諧歌(誹諧(竹岡論)の歌)となる。

C この歌は、1-1-890歌を下敷きにした歌。つまり1-1-890歌に詠われているという伝聞であり、1051歌が詠われた頃架け替えがあったかどうかには関係ない歌。

D 『打聴』(賀茂真淵賀茂真淵全集1 古今和歌集打聴 上田秋声修訂(寛政元年刊)』)は「1-1-1050歌は、既に絶んとする中の恋歌。1051歌は「ふりはてし中を嘆く」と説く。1-1-826歌と比較せよ。1052歌は破局に陥ろうとする一歩手前の歌。

⑧ 二句にある「ながら」とは、同音異義の語句であり、「長柄」と言う橋の名と「流らふ・長らふ・永らふ」(流れ続ける・長い間継続する)の意で用いられています。

三句にある「つくるなり」とは、詞書など考慮せずこの歌の文章のみからはいくつかの理解が可能です。

即ち、

「作る(製作する・新しい形にする)の連体形+断定の助動詞なり」、

「作る(製作する・新しい形にする)の終止形+伝聞・推定の助動詞なり」、

「尽くの連体形+断定の助動詞「なり」

の意があります。どの意でも作者の伊勢をものすごく老いた女性のイメージへと誘えます。竹岡氏はそのうち「作る(製作する・新しい形にする)の終止形+伝聞・推定の助動詞なり」に限定して理解しています。

⑨  「ながらの橋」を詠う歌が、『古今和歌集』に4首あります。この歌のほかは、つぎのとおり。

1-1-826歌  題しらず     坂上これのり

     あふ事をながらのはしのながらへてこひ渡るまに年ぞへにける

1-1-890歌  題しらず     よみ人しらず

     世中にふりぬる物はつのくにのながらのはしと我となりけり

1-1-1003歌  ふるうたにくはへてたてまつれるながうた      壬生忠岑

     くれ竹の 世世のふること ・・・ かくしつつ ながらのはしの ながらえて なにはのうらに たつ浪の ・・・

この3首は、「ながらのはし」が「ながらへて在る」か「古りぬる物」と詠っています。それは、「修繕されつつ長く実用に供されてきた」か、「要路にある橋なので壊されたたらまた架け直そうとされてきている橋」を詠っています。この3首は、そのようにして今日に至っていることを形容しています。

また、五句が1-1-826歌と同様に「年ぞへにける」とある1-1-825歌で詠まれる「うぢはし(宇治橋)は、「宇治橋の中絶たる事、古記になし」と古注にあります(延喜式には、「宇治橋ノ敷板、近江国十枚、丹波国八枚、長サ各三丈、弘サ一尺三寸、厚サ八寸」とあるそうです)。だから、1-1-825歌の上句「わすらるる身をうぢはしの中たえて」とは、「忘れられているこの身の憂いことは宇治橋が(流されないで)ながくいつでも渡れるように(状態が変わらず)、仲が途絶えた状態が続きそのまま(年ぞへにける)」の意であり、宇治橋も「修繕されつつ長く実用に供されてきて今日に至っている」ことを詠っています。

それに対して、この歌(1-1-1051歌)は、何故長く使用に堪えたか、長く利用できる由縁に焦点をあてて詠み、長良橋を捉えるスタンスが全然これらの歌と違います(付記2.参照)。

竹岡氏も指摘するように、作者の伊勢は、歌にこのようにあるではないか、と詠っているのです。

 

⑩ このように、この歌は俗な言葉も用いていませんが、長柄橋の捉え方が他の歌と違い、特別に個性的な発想と言えます。そのため、三句にある「つくるなり」の「なり」が上記のいづれの理解であってもよく、さらにいづれの理解をも許している歌として、特別に凝縮した表現がある歌(序に引用した歌でなくともよい歌)の可能性を否定していません。短歌として秀歌であることを認めれば、ほかの3首と長柄橋の捉え方の違いをはっきりさせるには他の部立に馴染まない恋の歌として、「部立の誹諧歌A」におくのが相当である、と思います。

古今和歌集』の編纂者が、誹諧歌の部の恋の歌群にふさわしい、としてここに置いているのが、1-1-1051歌ですので、このように理解するのが妥当ではないかと思います。

その結果、現代語訳は、復縁を遠回しに迫る歌として、かつ序に引用した歌として上記⑨に記した2番目の現代語訳(私の試案)のほうが、よい、と思います。

また、題材に長柄橋をとった恋の歌である、巻第十五恋五にある1-1-826歌が、趣旨を対比しやすい歌である、と思います。

 

9.類似歌の直前にある歌4首のまとめ

① 1-1-1052歌は、類似歌であるので、直後の歌(1-1-10531-1-1053歌以下4首)も検討した後とします。ここまでの4首について、まとめると、つぎのとおり。

② 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を改めて整理すると、次のとおり。

1-1-1048歌 たまには逢えている男の立場の歌

1-1-1049歌 絶対逢いにゆくという男の立場の歌

1-1-1050歌 浮気ばかりしている相手を諦めきれない女の立場の歌

1-1-1051歌 復縁を婉曲に迫る歌 女の立場の歌

この4首は、作者は相手に既に逢ったことがある時点で、逢える可能性のある歌3首に続き、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌1-1-1051歌)が配列されている、とみることができます。

元資料を離れて、『古今和歌集』の編纂者恋の歌群に、このように配列している、と理解したところです。

③ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

2019/6/10     上村 朋)

付記1.藤原時平1-1-1049歌の作者)について

① 1-1-1049歌の作者「ひだりのおほうちぎみ」とは、藤原時平であり、昌泰2(899)2月より延喜9年(909薨去するまで左大臣の職にあった。その間、『日本三代実録』『延喜式』の編纂、最初の荘園整理令があり、『古今和歌集』の編纂の下命があった。

② 藤原時平は、藤原基経の長男であり、『伊勢集』でこの歌の作者になっている藤原仲平は、藤原基経の次男である。

付記2.古代の長柄橋について

① 長柄とよばれた地域を流れていた川を横断していた橋を指す。『日本後記』の嵯峨天皇弘仁3年(812)夏六月再び長柄橋を造らしむとあるが、『文徳実録』の仁寿3年(85310月条には損壊の記事がみえる。当時の橋は、川の中の島と島をつないだものだったようである。

伊勢の活躍したのは、『古今和歌集』の成立前後の時代である。要路にある長柄の橋であったが、此の頃は、(下記③の歌のように)修復に着手していない状態の橋であり、通行不能であった可能性が強い。

② 摂津の国の「歌枕」でもあるが、「ながらのはし」という語句は、「長柄の地にある(又はあった)橋ではないが」とその地名との語呂合わせ的に「ながらへて」を導き出すためにも用いられている。摂関時代以後の中世には廃されていたようで、橋柱を描く屏風絵や歌があり、橋柱が詠まれ、朽ち「尽きる」橋と詠まれる場合が一般的である。

③ 例歌)『後撰和歌集

1-2-1117歌  法皇御ぐしおろしたまひて    七条后 

人わたす事だになきをなにしかもながらのはしと身のなりぬらん

1-2-1118歌  御返し                 伊勢

ふるる身は涙の中にみゆればやながらのはしにあやまたるらん

 法皇宇多上皇)の出家は、昌泰2年(89910月。伊勢は七条后に仕えるとともに上皇の寵を受けたことがある。この2首は七条后から和歌(と多分手紙)を頂いた伊勢との間の贈答歌である。

七条后は、1-1-1117歌において、

「人を渡すことができない長柄の橋のようになぜなってしまったのだろうか(出家をされた宇多天皇のお側を離れた私は抜け殻同様です)。」 あるいは、

「今の長良橋は人を渡すことがないのに、残っている。そのような残り物に私はなってしまったようだ」、

と詠い、伊勢は、1-1-18歌において、

「いえいえ、古くなったと見えた者は、涙で曇っていたからでしょう、お后様ではなくそれは(その昔寵愛を離れた)私と見誤ったのではないでしょうか。私が古びた通行も出来ない状態で橋杭をさらしている長柄橋なのです(お后様は、そんなことはありません)。」

と返歌している。

「ながらのはし」は、「古びた長柄の橋」、「古くからある長柄の橋」に違いないが、この贈答歌2首は、通行できる状態の橋をイメージしている訳ではない。長柄の橋は、まさに「尽きている橋」の例となっている。

④ 例歌)『拾遺和歌集

1-3-468歌  天暦御時御屏風のゑに、ながらのはしばしらのわづかにのこれるかたありけるを

                                         藤原 きよただ

あしまより見ゆるながらのはしばしら昔のあとのしるべなりけり    (巻第八 雑上)

1-3-864歌  題しらず     よみ人しらず 

限なく思ひながらの橋柱思ひながらに中やたえなん       (巻第十四 恋四)

 天暦の年号使用は947~957年。村上天皇の時代である。1-3-468歌は、七条后らの歌より約60年後の作詠となる。ながらのはしの橋杭が(中州など、流水の当たらない位置にある橋脚だけが)残っている状況を詠っている。

(付記終り  2019/6/10   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第46歌その2 誹諧歌の巻頭歌など 

前回(2019/5/27)、 「猿丸集第46歌その1 誹諧歌とは」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その2 誹諧歌の巻頭歌など」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.~4.承前

 (猿丸集第46歌の類似歌を先に検討することとし、最初に類似歌がある古今集巻第十九にある誹諧歌という部立について検討した。その結果は次のとおり。

第一 『古今和歌集』は、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌は、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」であり、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などから滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう。)

 

5.古今集巻第十九にある誹諧歌の巻頭歌など

 誹諧歌の部に記載されている歌が、具体に「部立の誹諧歌A」に該当するかを確認してみます。

最初に置かれている歌2首から始めます。諸氏は、部立の最初の歌や最後の歌とその作者は、『古今和歌集』編纂者が特別な配慮をしている、と言っています。

1-1-1011歌  題しらず       よみ人しらず

     梅花見にこそきつれ鶯の人く人くといとひしもをる

1-1-1012歌  題しらず       素性法師

     山吹の花色衣ぬしやたれとへどこたへずくちなしにして

 

その現代語訳の例を示します。

1-1-1011歌  題しらず       よみ人しらず

「私は梅の花が見たくて、来ただけなのに、鶯が「ヒトク、ヒトク」と私を嫌って枝に止まってがんばっているのはなぜだろう。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

「私は梅の花を見に来ただけなのに、鴬がヒトクヒトク(人来、人来)と鳴いて、私をいやがりながら梅の枝にがんばっているよ。」(片桐洋一氏)

梅の花はほかでもない、こうして見にこそ来たのよ。それを、鴬が「ヒトク ヒトク」(人が来る、人が来る)と、そんなにもまあわしを忌み嫌っておるなんて!」(竹岡正夫氏)

 

1-1-1012歌  題しらず       素性法師

「その山吹色の着物の持ち主は誰かね。聞いてもくちなしとみえて、答えてくれないね。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

「山吹の花のような色の衣に、「持ち主はどなたですか」と質問するのだけれども、答えてくれない。その色を染めたくちなしの実と同様に口無しであって。」(片桐氏)

「山吹のこの美しい花色の衣、「持ち主は誰かい?」。問うても答えない。口無し(梔子色)であって。」(竹岡氏)

② この2首には滑稽味があります。

その滑稽味は、1-1-1011歌での鳥の鳴き声の見立て(人が来る)に、1-1-1012歌での「くちなし」(植物の山吹)を衣服に見立てているのにあると久曾神氏はじめ諸氏も指摘しています。また、この2首は春を詠う歌でもあるのは確かなことです。なお、この2首の歌の元資料(あるいは最初に披露された場所)については、資料がないのでどのような事情の元で披露されたかは不明です。

③ 竹岡氏は、1-1-1011歌について、次のように指摘しています。

A 「鴬の鳴き声を賞さないで、まことに無風流にも俗語(擬音語)で「ひとくひとく」と捉え、擬人化しておかしく非難しているところが「誹諧歌」の見本といえよう。

B 「「いとふ」とは、折角咲いている梅の花を人が取りにきたのかと忌み嫌う意。

C 「二句と五句の連体止めという、事柄だけを提示するような表現のしかたにも、わざと途方にくれている、とぼけたユーモアがかもしだされている。

氏のいう誹諧とは、「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」を意味します。(『古今和歌集全評釈』 右文書院1983補訂版)。氏のいう誹諧を以後「誹諧(竹岡論)」と称することとします。

また、1-1-1012歌について、氏は次のように指摘しています。

A 一首全体が話し言葉の調子になっている。

B 風情ある山吹の花の色を「口無し」と俗っぽくいっている。

C 「とへどこたへず」と非難の気持ちで言っている。

D これらに、山吹の花に対して「誹諧」(「誹諧(竹岡論)」)の気持ちがうかがえる。

④ この2首が、『古今和歌集』巻第十九にある「誹諧歌の部」に相応しい歌であるかどうか、即ち「部立の誹諧歌A」に相当するかを確認します。

1-1-1011歌より検討します。初句にある「梅」、三句にある「鴬」は、よく題材にして和歌が詠まれています。『古今和歌集』でも清濁抜きの平仮名表記をして歌を比較すると、句頭に「うめ」を詠んだ歌だけでも18首あります(「うめかえに」が1首、「うめのか」が2首、「梅の花」が15首)。そのうち11首が梅の香を詠み、7首が梅の香を詠まない歌です。後者は次のような歌です。

1-1-5歌  題しらず     よみ人しらず

梅がえにきゐるうぐひすはるかけてなけどもいまだ雪はふりつつ

1-1-36歌  むめの花ををりてよめる     東三条の左のおほいまうちぎみ 

鴬の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくると 

1-1-45歌  家にありける梅花のちりけるをよめる     つらゆき

くるとあくとめかれぬものを梅花いつの人まにうつろひぬらむ

1-1-334歌  題しらず     よみ人しらず

梅花それとも見えず久方のあまぎる雪のなべてふれれば

1-1-352歌  もとやすのみこの七十の賀のうしろの屏風によみてかきける

春くればやどにまづさく梅花君がちとせのかざしとぞ見る 

1-1-1011歌  上記5.の①に記載

1-1-1066歌  題しらず     よみ人しらず 

梅花さきてののちの身なればやすき物とのみ人のいふらむ

これらの歌のうち、春歌の、まだ咲いていない梅(1-1-5歌)、散る梅(1-1-45歌)は春への作者の感慨を詠い、冬歌の、待ち遠しい梅(1-1-334歌)と、賀歌の、かざしとする梅の花1-1-352歌)は喜びを詠っており、梅に対する普通の発想の歌とみることができます。そして春歌の、梅の枝を折る際の歌(1-1-36歌)も梅を目出度いものとして詠っています。誹諧歌の、1-1-1011歌と1-1-1066歌を除くと、このように、香りを詠む歌を含めて春の到来への喜びや華やぐその場を盛り上げる歌となっています。

⑤ これに対して1-1-1011歌には、花の咲く梅の枝に鴬が執着し、かつ作者の喜びの感情が詠われていません。五句にある「いとふ」という動詞は、「折角咲いている梅の花を人が取りにきたのかと忌み嫌う」意であり、五句「いとひしもをる」とは、作者にとり心外なこと、というニュアンスがあります。また、1-1-1066歌は、梅の実を題材にしてそれをすきもの(酸きものに好色者の意を掛ける)と表現しています(また「好色者」は当時においては俗語であり、公宴のような歌には用いられていないのではないか)。これは、梅に関して1-1-5歌などとはまったく異なるものの捉え方です。

なお、18首の句頭のほかに句の途中に「うめ」とある1-1-337歌があります。この歌は雪とのまぎれを詠い香りを詠っておらず梅の枝を折るのに苦労する、とうれしい戸惑いを詠っており、それとの比較でも1-1-1011歌の梅に寄せる作者の感慨は特異なものである、といえます。

⑥ 次に、鴬を詠んだ歌を検討します。『古今和歌集』には27首あります。清濁抜きの平仮名表記をして歌を比較すると、句頭に「うくひす」とある歌23首と「きゐるうくひす」などと句の途中にある歌3首と詞書にのみ「うくひす」とある歌1首という内訳になります(付記1.参照)。

巻第一と第二の春歌では、19首が「鴬がなく」という表現であり、ただ1首(1-1-36歌)のみが「鴬が笠を縫う」とあり、これは巻第二十の大歌所御歌1-1-1081歌も同じ表現です。いずれの歌も鳴き方まで表現していません。

巻第十の物名の2首も、巻第十一恋一の1首も、巻第十八の1首も、「鴬がなく」という表現で鳴き方まで表現していません。

これに対して、巻第十九の2首は「鴬がなく」という表現ではなく、1-1-1046歌は、鴬の「こぞのやどり」と表現し、1-1-1011歌は、鴬の鳴き方を表現しています。鴬を詠んだ歌が27首のうち鳴き方を表現している唯一の歌が1-1-1011歌となっています。

どのように作者に聞こえたかと言うと「ひとくひとく」だそうですが、今日鴬を聞いてそのように見立てる人は少ないと思います。それは兎も角、その鳴き声を作者は「人来、人来」とも聞きなして鴬に自分が嫌われたと、思い込み立腹しているかに、あるいはおかしがっているかに詠んでいます。

⑦ このように、この歌は、梅に対するアプローチが他の歌とは全然異なり鴬と梅との関係に関心を集中し、鴬を題材にした歌の中で唯一鳴き方に注目し、特異な聞き成しをして口語の「人来、人来」と形容しており、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現」があり、鴬に嫌われてしまったと意表をつく捉え方は、春の歌としては異質であり、巻第一などには馴染まない短歌である、と言えます。秀歌という判断は編纂者の意見を尊重します。

⑧ このため、この歌は、「部立の誹諧歌A」に相当する歌となっています。この歌と対の歌と思われる歌が『古今和歌集』にあります。上記④に記した1-1-36歌です。

鴬が「いとふ」のは手折ってしまう人が梅に近づくことであり、梅の花がなくなれば鴬はまた咲いている梅の花を見付けにゆかなければなりません。しかし1-1-1011歌の作者は、手折る気はありませんので、心外なことだ、と鴬に訴えているのがこの歌です。「梅の枝を折る」という情景に関して1-1-1011歌と1-1-36歌は対の歌となっています。(後者の現代語訳を試みたいのですが、割愛します。)

⑨ 次に、1-1-1012歌の検討です。

古今和歌集』には、山吹(の花)を詠んだ歌が6首あります。巻第二春下に5首、巻第十九の誹諧歌に1首です。清濁抜きの平仮名表記をして歌を比較すると、句頭に「やまふき」とある歌4首と「ゐてのやまふき」などと句の途中にある歌1首(1-1-125歌)と詞書にのみ「やまふき」とある歌1首(1-1-124歌)です(付記2.参照)。

 巻第二にある歌は、みな、山吹の花を愛で、散るのを惜しんでいますが、この歌(1-1-1012歌)のみ色の名前とも捉えて表現しています。「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」と言えます。

その色の衣を擬人化して問いかけ、同音異義の語句「くちなし」(植物の山吹と口無し)により初句にある「やまぶき」も同音異義の語句(色の名と植物の名)であることに気づかせるという詠い方になり、意表を突いた表現です。

このように、この歌は、同音異義の語句を2語句(やまぶき、くちなし)用い、色を表現するという山吹を詠む歌としては異端の発想の歌となっており、巻第二にある山吹を愛でている歌と同列に配するには違和感のある内容の歌です。また、秀歌という判断は編纂者の意見を尊重します。このため、「部立の誹諧歌A」に相当する歌となっています。

⑩ この歌と同じように「ぬしやたれ」というフレーズの歌が『古今和歌集』巻第十七 雑歌上 にあります。

 

1-1-873歌  五せちのあしたにかむざしのたまのおちたりけるを見て、たがならむととぶらひてよめる

                     河原の左のおほいまうちぎみ

     ぬしやたれとへどしら玉いはなくにさらばなべてやあはれとおもはむ

二句にある「しら玉」は、「真珠」と「(知らないと)しらをきるごせちの舞を舞った娘達」とを掛けている語句です。この1-1-873歌は、竹岡氏のいうように、落ちていた真珠の持ち主を問うのにかこつけて、舞を舞った娘達の主人が不明であるならば、と作者は下句で無遠慮な要求を娘達にしています。五せちの舞は規定により未婚の女性達が勤めます。真珠を落とした人だけではなく舞を舞った娘達全員を「あはれ」と思うからね、とからかっている歌であり、俗語は用いず、がさつなところのない、落ちていた真珠を宿所にとどけさせた際の挨拶歌です。

「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある」歌であっても、その場の雰囲気をしらけさせるような詠い方ではありませんし、秀歌であったら「部立の誹諧歌A」でなくともよい歌です。現にこの歌は「雑」の部に、五せちのまひひめを詠う歌(1-1-872歌)のつぎに配列され、后宮へ酒のおねだりを断られた際に送った歌がつづいてあります。

なお、この二首は、鴬あるいは山吹により春の歌群の歌となっています。

 

6.古今集巻第十九にある誹諧歌の最後にある歌など

① 巻第十九の誹諧歌の最後は、次の2首となっています。

1-1-1067歌  法皇、にし河におはしましたりける日、さる、山のかひにさけぶといふことを題にて、よませたもうける        みつね

     わびしらにましらななきそあしひきの山のかひあるけふにはやあらぬ

 

 1-1-1068歌  題しらず      よみ人しらず

      世をいとひこのもとごとにたちよりてうつぶしぞめのあさのきぬなり

その現代語訳を例示します。

 1-1-1067歌  宇多法皇大堰川行幸なさった日に、「猿叫峡」という題を出してお詠ませになった時の歌         凡河内躬恒  『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

 「猿よ、そんなに心細そうに鳴いてくれるなよ。山の峡(かひ)にいるお前たちには、法皇様をお迎えしたこの日こそいい声で鳴いて鳴きがいのある今日(峡)ではないか。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

 「そんなにわびしそうに、猿よ鳴くな。法皇の御幸をお迎えして、まことに鳴くかいのある今日ではないか。」(久曾神氏)

 「いかにもしょんぼりした声で、エテ公よ、そんなに鳴いてくれるな。この山のかい(峡=効験)のある今日=峡ではないかよ。」(竹岡氏)

 

 1-1-1068歌  題しらず    よみ人しらず

 「私は世を捨てた行雲流水の身の上、木陰があれば今夜の宿とうつぶしますが、そんなに(着古して)着ている衣をうつぶし染めの麻の衣というのです。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

 「この衣は、現世をいとって世をすて、行方定めず行脚し、あちらこちらの木蔭に立ち寄って、うつ伏し宿るが、そのうつぶし(空五倍子)で染めたそまつな麻の着物(粗末な僧衣)である。」(久曾神氏)

 「世を厭い、樹の下ごとに立ち寄ってうつぶす、そのうつぶし染めの麻の衣である。」(竹岡氏)

 

② 1-1-1067歌について、久曾神氏は次のように指摘しています。

 A大堰川行幸の際の和歌会で詠んだ歌であり、俳諧歌として詠んだ歌ではあるまい。

 B 「あしびきの」を峡ある意で「かひある」にかけた序詞も俳諧と言うべきではあるまい。

 C 強いて考えれば「わびしらに・・・ななきそ」という所を注意したのであろうか。

 氏は、『古今和歌集』編纂者が、この歌を「部立の誹諧歌A」に配列しているのに戸惑っているようです。

③ 1-1-1067歌について、竹岡氏は次のように指摘しています。

 A 題にある「猿」の語は当時一般に用いられていた呼称。悲しい声と聴きなすのは、漢詩で既に多数ある。これに対して(「まし」や)「ましら」は動物の猿をいう俗語。

 B 「まし」だけで猿をいうのに「ら」(うぬとかきゃつに付く接尾語でののしる気持ちを強める)をつけているところに「誹」が認められる。

C 俗語に押韻している(わびしらとましら)。

D 同音異義の語句の「かひ」(峡と効験)はともかく、「けふ」(今日と音読みの峡)がある

E 「わびしらに」鳴く「ましら」を承けている三句以下はちぐはぐでつり合いがとれておらず、そこにおどけた軽口が見られる。

F 作者の気持ちは猿をなじっている。

G 法皇の御命令、ものものしい題「猿叫峡」、二重尊敬語の詞書とこの歌の詠み方は全くそぐわない。

 H このように、この歌は誹諧歌(「誹諧(竹岡論)」の歌)の見本である。

④ 宇多法皇は、この行幸のこの日漢字三文字で九題だしており、「鶴立洲」の題の歌が巻第十七雑歌上にあります。

 1-1-919歌  法皇 西川におはしましたりける日、つるすにたてりといふことを題にてよませ給ひける

     あしたづのたてる河べをふく風によせてかへらぬ浪かとぞ見る

 

 この歌の作者を、諸氏は貫之としていますが、『古今和歌集』には作者名が記されていません。『貫之集』にもありません。

 竹岡氏は、この歌について、「「たてる」→「ふく」→「よせて」→「かへ(る)」ところを「かへらぬ」で時間の流れをとめている。」、「「河べ」は、「吹く風」のほか「浪かとぞみる」にも続いている」及び「一瞬そう見えたという気持がうかがえる」等を指摘し、「まことに玄妙な作になっている。」と評しています。

⑤ この歌(1-1-919歌)は、「鶴立洲」の「洲」に立っている「鶴」を、浪にみたてた歌です。冷静に考えてみると、鶴と見立てる白い浪の波高は、鶴の背丈を思うとさざ波の波高の比ではありません。

鶴の足元をも詠んでいるかにみえる初句から四句の「よせてかへ(る)」までの描写は、作者から鶴のいる洲までの近さを感じさせます。そして「よせてかへ(る)」以下の描写は、鶴の大きさと白波の大きさを同等と見、かつ即座にそれは一瞬の錯覚であった、と詠っています。

鶴の大きさと白波の大きさの常識はずれの比較をしたことにはっと気が付くまでの作者の心理の経過を詠っており、それは、羽をひろげた鶴の瞬間を接写した写真の引き伸ばしを見せられて大きな白波の印象を受けたかのような歌になっています。

遠景の水際線にたち並ぶ一列の鶴を白波に見立てるのでは、鶴が主語である「鶴立洲」という題にそぐわない歌となります。

この見立ては意表を突いています。表現は心の動きを忠実に追い、「あしたづ」と歌語を用い、語彙に俗語を加えていません。異様な言葉遣いとは遠い存在の歌となっており、誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)には該当しない、と思います。

このように、『古今和歌集』編纂者は、1-1-919歌と1-1-1067歌を意識しており、雑歌と誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)の違いの例にしているかのようにみえます。

⑥ 1-1-919歌と違い1-1-1067歌は、竹岡氏の指摘のように俗語を用い、音読みの峡を「けふ」に掛けるなどにより、語彙の統一をわざと壊し、なだめすかすかのような、なじるかのような猿への呼びかけという詠み方で、人を対象に詠っておらず、雅に近い詠い方とは思えません。この歌は誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)にふさわしく、1-1-919歌のように雑歌に配列しにくい歌です(付記3.参照)。

なお、1-1-1067歌の現代語訳は、竹岡氏の訳が良い、と思います。

⑦ 次に1-1-1068歌について、竹岡氏はつぎのように指摘しています。

 A 「うつぶす」という動詞は、『国歌大観』(正・続)に「うつぶし染め」以外にはない。当時の俗語か。また、うつむきに寝る場合は「うつぶせにふす」というから動詞「うつぶす」だけであれば寝る意まで含まない。

 B 同音異義の語句は「うつぶし」。黒色の染料で染めだす「うつぶし染め」と動詞「うつぶす」。出家者の着る衣は墨染めの衣とも言われる。(「うつぶし染め(空五倍子染)」とは、五倍子で薄墨色に染めること。)

 C 樹木ごとに厭世遁世の振りをしてきたというのは、かっこよすぎる行動。雅になり損ねている。これが誹諧(竹岡論)にあたる点か。

 D 西国三十三カ所巡りなどの遍路では満願の最後の寺に、それまで着用していた衣などを一切脱いで納めて置く風習がある(但し当時あったかどうかは不明)。この歌(1-1-1068)も四季、恋・・・雑、誹諧と遍歴してきた個人詠を締めくくるにふさわしい歌。全巻の幕がおろされた。(巻第二十は、大歌所御歌) 

『新編国歌大観』の1巻~5巻を調べたところ、動詞「うつふす」の用例はなく「うつぶしぞめ」と詠う歌のみです。僧衣は、「うつぶしぞめのあさのきぬ」というよりも「すみぞめのころも」というほうが当時は一般的でしょう。

なお、久曾神氏のいう和歌は、巻第一から巻第十九までの歌になります。竹岡氏の上記Dは、別途検討します。

⑧ 出家者の生活規律に「住は樹下座」というものがあるそうです。四依のひとつです(付記4.参照)。また、「うつぶす」には(竹岡氏が指摘しているように)臥す意はありません。俗語「うつぶす」は「座(す)」とは意が少々異なるものであり、木を見付けたら「その都度」うつぶすのは「住は樹下座」という規律の順守の行為ではなく、「このもとごとにうつ伏す」行為は規律違反に問われかねません。

序詞を俗語「うつぶす」につけて用いた上、誤解等を押し通して説明しようという詠い方は、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想であり、かつ、秀歌と編纂者は認めたようであり、誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)に馴染みます。

⑨ この歌は、僧衣を題材にした歌ですが、「すみぞめの」と詠う歌が『古今和歌集』にあります。

1-1-843歌  おもひに侍りける人をとぶらひにまかりてよめる     ただみね

    すみぞめの君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる

1-1-844歌  女のおやのおもひにて山でらに侍りけるを、ある人のとぶらひつかはせりければ、返事によめる            よみ人しらず

    あしひきの山べに今はすみぞめの衣の袖はひる時もなし

ともに僧衣と涙が詠われています。出家した人を「日常の常住坐臥に涙しがちな人」と詠い、この歌1-1-1068歌の「このもとごとにたちよりてうつぶす人」を対比している、とみることができます。

これらの歌と誹諧歌にある1-1-1068歌は対の歌として配列されているのではないでしょうか。

⑩ このように、巻頭の2首及び最後の2首は、『古今和歌集』の部立では誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)にしか置けない歌でありました。つまり、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある」歌であり、普通の語彙を逸脱し、和歌の詠い方も異端であったので巻第一から巻第十八の部立に馴染まなかったが、紹介すべき歌であると編纂者が主張している歌群の部立が誹諧歌(「部立の誹諧歌A」)である、と言うことになります。賀や哀傷にも該当する歌があったと思いますが、さすがにそれは秀歌と認めなかったのであろうと思います。

⑪ 検討してきた4首の語彙や題材の捉え方をみると、上記「1~4承前」の検討結果の第四で推測したように滑稽味のある歌でありましたが、「部立の誹諧歌A」と確認した4首に共通する次の点を、第五と第六として付け加えたい、と思います。

「第五 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌は、特別に凝縮した表現のため、用語は雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向がある。

第六 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌は、『古今和歌集』のなかで誹諧歌の部の歌と題材を共通にした歌のある傾向がある。」

⑫ 次に、類似歌の前後の歌が「部立の誹諧歌A」であるかどうか、また配列の特徴の有無を、確認したいと思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

2019/6/3  上村 朋)

付記1.古今集で鴬を詠っている歌(計27首)

① 巻第一 春上:11

1-1-4歌~1-1-6歌、1-1-10歌、1-1-11歌、1-1-13歌~1-1-16歌および1-1-32歌は「鳴く」と詠む。

ただ一首1-1-36歌のみ、「鴬が笠を縫う」と詠む。これは 大歌所御歌1-1-1081歌と同じ。

1-1-36歌 むめの花ををりてよめる    東三条の左のおほいまうちぎみ

鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいかくるやと

② 巻第二 春下:9首 すべて「なく」と詠む。

1-1-100,1-1-105歌~1-1-110歌および1-1-128歌および1-1-131

1-1-109 うぐひすのなくをよめる  そせい

    こづたへばおのがはかぜにちる花をたれにおほせてここらなくらむ

1-1-131歌は「なけやうぐひす」と詠む。

③ 巻第十 物名:2首  ともに鳴き方を表現していない。

この部立にある歌は、物の名を詠み込んでいること(歌を平仮名表記すると物の名がある歌)が条件になっている。この部立は、表現様式に基づくものと推定されている。

1-1-422歌は「鴬」と「憂く、干ず」を掛けた同音異義の語句。部立「物名」の巻頭歌である。

1-1-422歌 うぐひす   藤原としゆきの朝臣

    心から花のしづくにそほちつつうくひずとのみ鳥のなくらむ,

1-1-428歌 すもものはな      つらゆき

    今いくか春しなければうぐひすもものはながめて思ふべらなり

竹岡氏は、次のような現代語訳を示している。

1-1-422歌 「自分の意志から花のしずくにしとどにぬれてはそのたびに、どうして、「いやなことに、乾かないわ」とばかりひたすらに鳥が鳴いているのだろう。」

1-1-428歌 「もう、あと何日?春といって無いものだから、このぶんではうぐいすも、物をばじっとうち沈んで思い悩んでいそうなあんばいだ。」

 

④ 巻第十一 恋一:1首 「なく」と詠む

1-1-498歌 

⑤ 巻第十八 雑歌下:1首 「なく」と詠む

1-1-958歌  題しらず      よみ人しらず

    世にふれば事のはしげきくれ竹のうきふしごとに鴬ぞなく

⑥ 巻第十九 雑体 誹諧歌:2首 鳴声を「うくひず」と詠む歌1首と「こぞのやどり」と詠む歌1首。

1-1-1011歌  本文の1.参照

1-1-1046歌  題しらず     よみ人しらず

    鶯のこぞのやどりのふるすとや我には人のつれなかるらむ

⑦ 巻第二十 大歌所御歌:1首 「鴬が笠を縫う」と詠む。

1-1-1081歌  神あそびのうた  かへしもののうた

    あをやぎをかたいとによりて鴬のぬふてふ笠は梅の花

 

付記2.古今集で山吹をよむ歌(計6首)

① 巻第二 春下:1-1-121歌~1-1-125

② 巻第十九 雑体 誹諧歌:1-1-1012

 

付記3.誹諧歌の元資料が歌合の歌などの例

① 1-1-919歌と1-1-1067歌は、宇多法皇の出題に応えた歌であった。宇多法皇は両歌とも嘉納されている。秀歌と編纂者が認めた巻第十九の誹諧歌も礼を失する歌でないないことの例証である。

② 巻第十九の誹諧歌に、詞書に歌合の歌であると明記した歌がある。1-1-1020歌は元資料歌が5-4-94歌であり、1-1-1031歌は元資料歌が5-4-10歌である。詞書を信じれば、巻第十九の誹諧歌に配列した2首も、礼を失する歌でないないことの例証である。

また、元資料の歌が、歌合の歌であれば、滑稽味を競う歌ではあり得ない。

③ 巻第十九の誹諧歌に配列したということは、元資料の歌を、視点を替えて歌を鑑賞すれば秀歌である、という編纂者の意志であるかもしれない。よみ人しらずの元資料の歌と同様に、元資料は素材である、ということの表明であるかもしれない。例をあげる。

巻第十九の誹諧歌にある、よみ人しらずの1-1-1022歌は、後の『拾遺和歌集』巻第十四恋四に、作者名が別名で選ばれている。

巻第十九の誹諧歌にある、おきかぜ作での1-1-1064歌は、紀貫之撰の『新撰和歌』の「恋幷雑百六十首」の部128番目の歌2-3-329歌としてある。新撰和歌』では、古今集巻第十五恋五にある1-1-813歌(2-2-328歌でもある)と番にされている。なお、『新撰和歌』に古今集巻十九の歌を採っているのはこの歌1首であり、『新撰和歌』の「雑」という分類は、古今和歌集の「雑」という部立とは異なる仕分けをされていると思われる。

 

付記4. 樹下座について

① ブッダは、在世時、「私の弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財をすてなければならない。教えのためにこれらすべてを捨てたものは私の相続者であり、出家とよばれる。」というブッダの弟子(出家者)は、四つの条件を生活の基礎としなければならない、と言ったとパーリ律大品にある。

② 「出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。二つには托鉢によって食を得なければならない。三つには木の下、石の上を住みかとしなければならない。四つには糞尿薬のみを薬として用いなければならない。」(パーリ 律蔵大品 1-30  『和英対照仏教聖典』(仏教伝道協会)387頁)

③ 後年の経典編纂編述時点に、これらを総称する四依(しえ)という言葉が生まれた。そして、受戒のとき唱えるべきであるとされ、例えば「出家生活は樹下座による。ここにおいてないし命終まで勤めるべし。余得は僧院・平覆屋・殿楼・楼房・地窟である。」(『パーリ律』「大品」(vol. p058)と具体的になる。

ブッダは、四依という言葉を用いていない。その後に、中国経由で日本に伝わった言葉である。四依とは、食は乞食、衣は糞掃衣、住は樹下座、薬は陳棄薬に依るべきであるという意であり、漢訳された『五分律』(大正22 p.112 下)は「若授具足戒時應先爲説四依。依糞掃衣依乞食依樹下坐依殘棄藥」とするのみであり、また『四分律』(大正22 p.811 中)は単に「四依」というのみである。

④ 南都の仏教でも当時の新来の天台系、密教系の仏教においても四依を厳格に実行している者は日本に当時どのくらいいたであろうか。帰依者である天皇や有力貴族は、僧に田畑を付けて寺院を与えている。

⑤ Web版新纂浄土宗大辞典』によれば、今日の「四依(しえ)」とは、「仏教をたもつための四つの依り所」の意であり、法・人・行の三種があるという(『四分律行事鈔資持記』正蔵四〇・一六一中)。法四依は修行者の判断基準。人四依は『涅槃経』四依品(正蔵一二・六三七上)の正法を護持し世間の拠り所となる人物の種別。行四依は、また四聖種ともいい、出家者の障害を取り除く要素。糞掃衣乞食樹下坐腐爛薬(陳棄薬)をいう。良忠は『伝通記』(浄全二・二九五下)において用欽『白蓮記』を引き、『無量寿経』に法四依が明されているとする。また、これらとは別に真諦訳(梁訳)『摂大乗論』(正蔵三一・一二一中)では仏の説相に隠れた意図を四依(秘密とし、これを説四依という

(付記終り 2019/6/3   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第46歌その1 誹諧歌とは

前回(2019/5/13)、 「猿丸集第45歌その3 類似歌の元資料」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その1 誹諧歌とは」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第46 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず」

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句が2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が詠う歌です。

 

2.誹諧歌という部立

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-1052歌は、古今和歌集巻第十九雑体歌のなかの誹諧歌の部(1011歌~1068)にある歌です。その配列からの理解に資するため、誹諧歌の部という部立を最初に確認します。

② 契沖がいうように、誹諧歌の部の配列は巻第一から巻第十八の類別の順に配列されている、とおもわれます。また、四季の歌については、隣り合う歌に共通項を認めることができます。

その類別を歌群と捉えると、凡そ次のようになります。

春の歌群:1-1-1011歌~1-1-1012

夏の歌群:1-1-1013

秋の歌群:1-1-1014歌~1-1-1020

冬の歌群:1-1-1021

恋の歌群:1-1-1022歌~1-1-1059

雑の歌群:1-1-1060歌~1-1-1068

このように、賀歌の歌群(巻第七相当)から物名の歌群(巻第十相当)までと哀傷歌の歌群(巻第十六相当)をたてていない、と見られています。

③ 巻第十九にある誹諧歌の部の「誹諧」には、読み方が二つあります。即ち、「はいかい」と「ひかい」です。それは誹諧歌の理解(あるいは定義)にかかわっています。

大漢和辞典』(諸橋轍次)では、「誹」字は「ひ」と読み、「そしる」の意とし、「諧」字は「かい・がい」と読み、「あふ・かなふ」の意を第一にあげ、「やはらぐ」、「たぐふ・ならぶ」などのあとの9番目に、「たはむれ・じゃうだん。おどけ」もあげています。また「誹諧」も説明し「ひかい」と読み、「おどけてわる口をきく」意とあります。

古今和歌集』にある「誹諧」という漢語にだけ、「はいかい」という訓がほどこされていることになります。

久曾神氏は、「「誹諧」も古くは俳諧と同じで滑稽の意で、『奥義抄』以下諸書に詳しい論がある。この種の歌は、他にも少なからず混在している。」と紹介しています。「この種の歌」とは、「巻第十九にある誹諧歌の部に配列してある歌と同様な歌」の意でしょう。「混在」とは、本来別々の部立の歌ではないのか、と問うニュアンスにとれます。

それは、四季の部立(巻第一~巻第六)にある歌には、恋の部立に配列しておかしくない歌(巻第十一~巻第十五)がある、という指摘とは異なります。『古今和歌集』には四季の部立に恋に寄せた歌がありますが、それは恋に寄せて詠っているかいないかに注目した視点から言えばそうなりますが四季の部立の趣旨にはずれている歌が、当該四季の部立に配列されている、ということではではありませんでした。だからこれを「混在」と諸氏は認識していません。ほかの部への「混在」を許しているかの歌の類をもって構成・配列している不思議な部立から検討をしたい、と思います。

④ 久曾神昇氏は、『古今和歌集』の構成について、整然と類別されているとして、次のように指摘しています。(講談社学術文庫古今和歌集全訳注(四)』の「解説」より)

第一 各巻の歌は、和歌と歌謡(巻第二十に記載した歌)からなる。

第二 和歌は、表現態度によって有心体と無心体(すべてが誹諧歌)に大別している。

第三 有心体の歌は、歌体により短歌、長歌、旋頭歌に3分し、短歌以外は雑体とくくる。

第四 短歌は、題材によって自然と人事に二分し、さらに細分して排列している。

自然題材は、四季推移・詠作動機(賀・離別・羈旅)・表現技法(物名)に細分できる。

人事題材は、事件過程(恋一~五)と詠作動機(雑上下)とに二分できる。

第五 誹諧歌は、短歌の類別と同様である。

第六 歌謡の細分は、神歌ほか六分となる。

⑤ このような氏の区分は、誹諧歌の部に置かれた歌も、和歌の部類に入る、と言っていることになります。その和歌を最初に区分する基準になっている表現態度とは、心の内で感じて咀嚼したものを外に向って客観化するための、ものの捉え方と表出方法の種々相を指す言葉でありますので、二大別している有心体と無心体とは、当時の官人の大方の人びとにとり、「ものの捉え方と表出方法」として普通といえる幅のうちにあるものと一見なにを言いたいのか理解しにくい異端(当然異端は極く少数)・独自性の強いものという区分と言い換えられると思います。

氏が指摘する誹諧歌の細分が短歌の類別と同様であるということは、表現態度を問わなければ、誹諧歌の部にある歌はすべて巻第十八までのどれかに配列してよい歌である、ということです。

氏は、また、巻第十九の誹諧歌の部にある歌が滑稽を表出しているとしていますが、他の巻にも滑稽を表出している歌がある、とも指摘しています。これは、部立の内容に重複を許していない整理をされているならば、滑稽の表出が表現態度のみに原因が有るわけではない、ということです。誹諧歌の部に配列すべき理由が滑稽の表出ではない証しと思います。

⑥ 『古今和歌集』には、序があり、編纂の意図などを記しています。各歌については後程検討することとし、序における、巻第十九の誹諧歌への(間接的)言及の状況をみたいと思います。

久曾神氏がいう「和歌と歌謡」という言葉は、『古今和歌集』収載の歌や『日本書紀』にある童謡も、『萬葉集』に集録されなかった東歌も、日常的な挨拶歌もすべて含む日本語による詩歌を指しているのは明らかですが、『古今和歌集』編纂者は、それを「やまとうた」と言って、仮名序を書き出しています。漢文世界の漢詩に匹敵するやまとことばの世界の詩が「やまとうた」です。真名序では、「夫和歌者 託其根於心地・・・」と書き出しています。

仮名序の最初の文章「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。世の中にあるひと・・・心におもふことを見るものきくものにつけていひだせるなり。」は、「やまとうた」たる要件は、人が心に思うことを表現したものである、ということを述べています。『古今和歌集』収載の歌をみると、或るリズム感のある文章(韻文)であるので、そのリズム感も編纂者は要件と考えていますし、官人らの意思疎通に用いている語彙・文章の構成法であることも要件であるのは当然のことです。

そして(仮名序にその表現が無いのですが、)真名序では「(是以逸者 其声楽 怨者 其吟悲)可以述懐 可以発憤」(かくして、我が意中を述べることができ、かくして憤りをあらわすことができる(久曾神氏訳))と書き記しています。

この文章は、「心におもふこと」には喜怒哀楽に渡ることがあることを、改めて言っています。

だから、勅撰和歌集である『古今和歌集』は喜怒哀楽に渡る歌の代表例で編纂していることになります。

仮名序は、六歌仙を評し、その歌の内容に「まことすくなし」(真情がものたりない・遍照)、表現(詞)において「はじめをはりたしかならず」(きせん)、歌全体の「さまいやし」(ものの捉え方表現がみすぼらしい・くろぬし)などと記しています。六歌仙は歌謡の作者ではないので、「やまとうた」のうち久曾神氏のいう「和歌」に、色々な見方からの詠み方、語句の使用などがあることを例示している文章になっています。

⑦ また、仮名序は、「(今上天皇は)万えふしふにいらぬふるきうた、みづからの(うた)をもたてまつらしめたまひてなむ。」と記し、当時の官人が推薦した古い歌と自ら選んだ歌が『古今和歌集』編纂の資料となっていると明記しています。これは、この『古今和歌集』が、課題を事前に定めて募集した歌からの撰歌集ではない、ということです。また、それらから偏らぬように撰歌する基準と漏れのないようにする手段を講じていること示唆しているのが、この文章です。

⑧ このように、事前に歌題が定められておらず、各自が推薦する「やまとうた」の古歌と他薦ではない自選により集まった「やまとうた」から、「心におもふこと」の範囲を限定せず秀歌を選び、配列するにあたり部立を準備して編纂したのが『古今和歌集』である、と序は、説明していることになります。

だから、編纂上、四季とか恋とか雑とかの部立に律しきれない秀歌があるとすれば、それらを収載すべき部立を用意していたことが分ります。誹諧歌の部は久曾神氏のいう「和歌」の最後に置かれた部立であり、そのような役割を編纂者は担わせている、と言えます。

⑨ また、『例解古語辞典』付録の「和歌の表現と解釈」では、和歌を、次のように解説しています。

第一 「和歌は、美しいことばを美しいリズムで表現する言語芸術である。用語も語法もその方向で洗練され、日常的な日本語は多くの面で特徴的な違いがある。」

第二 「平安時代以後は(和歌、特に三十一文字による短歌は)仮名の成立により、個性的な発想と凝縮した表現とを駆使することによって、豊富な内容を盛り込むようになった。」

第三 「『古今和歌集』の和歌(短歌)は、(豊富な内容を盛り込めるようになったので)錯綜した二次元の面的表現が基本になっており、声に出して直線的に読んでも理解できないものが多い。(それを読み解きその巧みさを味わう)知的な言語ゲームである。

 

当時の和歌(短歌)は、『古今和歌集』以外にも各種資料に残されて今日に至っています。諸氏が指摘しているように、長寿を祝う賀の席を飾る屏風に添える歌の需要が多かったこと、官人らは挨拶として短歌を遣り取りしていたこと、を想起すると、和歌(短歌)に期待された重要な役割にはその場の雰囲気を高めることがあったであろう、と言えます。当事者であれば理解し得るという当意即妙の「ものの捉え方と表出方法」による歌も、その役割を果たしたはずです。それらの歌は、当事者の事情の類型化により共通に楽しめる「やまとうた」(による言語ゲームの一モデル)となり得る、と言うことです。このように色々な視点・前提条件で和歌(短歌)が詠われていました。

⑩ そして『古今和歌集』は、当時の「やまとうた」を代表させるべく編纂しようとしています。奥村恒哉氏は、『古今和歌集』は、「全編の組織が一貫した方針のもとに整然と統一されている。」と指摘し、「円熟した律令体制のもとで、律令官人によって、「大夫之前」にあるにふさわしいものとして撰述された。律令体制の理想を文字の上に具現したものである。」と指摘しています。(『古今集の研究』臨川書店1980/1/31初版)。撰歌したすべての歌が勅撰集に相応しい歌である、という自負が編纂者にみなぎっています。

⑪ これらのことから、久曾神氏のいう和歌を対象にして用意された部立の最後の部立として置かれている誹諧歌の部は、(和歌の秀歌集とするために例外を設けないため)それ以前の部立に配列出来ない秀歌を配列できるような部立となっている可能性が強い。

⑫ 以上久曾神氏の構成論、『古今和歌集』の序及び『例解古語辞典』付録の「和歌の表現と解釈」を材料に検討してきました。その結果、「誹諧歌」とは、

「ひかいか」と読む部立名であり、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」ではないか、と思います。

そこに配列されるであろう短歌は、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」であり、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などから滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう、と推測できます。

古今和歌集』の部立に関する検討から、誹諧歌にある歌はこのように整理できます。

⑬ なお、久曾神氏のいう和歌は、1-1-1歌が最初の歌であり、1-1-1068歌が最後の歌となります。この2首をペアの歌として特段の意義を『古今和歌集』編纂者が認めていると推測します。それは、どのようなことを意味するか興味が湧くところですが、別の機会に検討したいと思います。

 

3.諸氏の誹諧歌の理解 その1

① 次に、誹諧歌について諸氏の意見を検討します。

② 「誹諧」を「はいかい」と読んで、「俳諧と同じ滑稽」の意として、類似歌1-1-1052歌を現代語訳している一例を先にあげます。

「私は誠実にしているけれど、いったいなにのよいことがあるか。(なんのよいこともないではないか。)また反対に乱れて(浮気して)いる人もあるが、なんの悪いこともない。」(久曾神氏)

久曾神氏は、「まめなれど」「みだれてあれど」と確定法で述べ「どちらも実際にはなんの相違ないではないかと、現実の社会倫理を揶揄した歌」、と指摘しています。久曾神氏は、その点で「滑稽」の意がこの歌にあるとみているようです。

③ この久曾神氏の理解において、上記2.の⑬にいう「誹諧歌」という部立の歌であるかどうかを確認してみます。

第一点目に、「現実の社会倫理を揶揄する」という発想は、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」の一例である、と言えます。ただし、上記2.の②に示した歌群の「恋の歌群」にあるこの歌の発想として「揶揄」が第一であるのは疑問です。「まめなれど」と「みだれてあれど」という対比には、恋の歌として「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」がある、と言えます。普通の詠み方であれば、どちらか一方から詠んでいる歌が多いところです。

第二点目に、上記2.の②に示した歌群の「恋の歌群」にあるこの歌は、常の恋の歌であれば逢ってくれることを期待して詠うところなのに歌のトーンがまったく違っており、巻第十一などの恋の部に馴染みにくい短歌である、と言えます。

第三点目に、題しらず・よみ人しらずの歌と明記し、最初は個人の事情からヒントを得たものであったでしょうが、一般化した詠い方として配列しており、雑の部の歌にも馴染むと思えますが、配列からは「恋の歌群」の歌と理解すべきであるので、雑の部に馴染まない短歌である、と言えます。

第四点目に、秀歌という判定が妥当かどうかは、総合判断なので、編纂者の判定を尊重します。

このように、この歌は、「揶揄」によってではないものの、「誹諧歌の部」に配列するのが秀歌であれば『古今和歌集』のなかでは、一番妥当ではないか、と思います。

④ 久曾神氏は、「誹諧も古くは俳諧と同じで滑稽の意。」と説明し、「この種の歌は、他にもすくなからず混在している」と指摘していることを、既に紹介しました。つまり、他の巻にも滑稽味の強い歌があり、「滑稽」が「誹諧歌」だけの特徴でないものの、この歌はそれが特徴である、という整理は、上記②の⑬が妥当であるとしたら、この歌が誹諧の部にある恋の歌群の歌でるのはちょっとちぐはぐです。

⑤ 『古今和歌集』における誹諧の部の位置づけの理解が、歌の理解に影響しているとみることができますので、諸氏の誹諧の部の理解を、検討のうえ、当該歌の現代語訳を参考にしたい、と思います。

 

4.諸氏の誹諧歌の理解 その2

① 誹諧歌の「誹諧」に関する諸氏の説明を、いくつか紹介します。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「解説」において「巻第十の「物名」と巻第十九の「雑体」は歌の修辞法か特殊の歌体(長歌・旋頭歌)に注目した、いわば外形を規律とした分類である。」とし、頭注において「誹諧」とは、「俳諧」とも書き滑稽の意で中国の詩で用いられた用語」としたうえで、「誹諧歌」の部に収めた歌は、「縁語や掛詞、卑俗な語句、擬人法などを意識的に用いて滑稽味を出そうとしたものである。撰者たちは(古今集が)帝への奏覧を目的としながらも、公的ならざる私的な場から生まれた歌を集めた」といっており、滑稽であることと公的ならざる場の歌であることが要件となっていると指摘しています。

しかしながら、1-1-1031歌は、詞書に「寛平御時后の宮の歌合の歌」と明記しており、この歌の元資料は歌合の歌です。この歌合を公的ならざる場という位置づけとするのは『古今和歌集』編纂者にとり至難の業です(律令の制度上そのような権限を与えられていない立場に編纂者はいます。)。歌合が律令に基づく儀式に伴うものではない、と上司に整理してもらった、という理解をしなければなりません。

みつねの作である1-1-1067歌(後ほどでも検討します)は、詞書によれば元資料は宇多法皇の御幸における漢字で示された題に応えた歌です。御幸中の法皇のパフォーマンスが公的か否かをいちいち判断した上司とは誰になるのでしょうか。そのような整理をしてもらって編纂したのが『古今和歌集』であるとはとても思えません。

公的な場の歌かどうかは、誹諧歌の部の歌の要件ではない、と理解してよい、とおもいます。

② 次に、佐伯梅友氏は、「誹諧歌」とは「萬葉集巻十六にある戯れの歌の系統で、正格の、改まった歌に対し、一ふし笑いを含むものを言う」と説明しています(『古今和歌集 佐伯梅友校注』岩波文庫)。「正格」とは「正しいきまり」とか「正しいきまりにあっていること」、の意の熟語です。

織田正吉氏は、『古今和歌集』はまじめさと遊戯性、雅びと笑いが混在する書であり、「誹諧」とは「おかしみ、諧謔のこと」であり、「誹諧歌」とは「笑いのある歌のこと」と説明しています。(『『古今和歌集』の謎を解く』(講談社選書メチエ))

③ 片桐洋一氏は、「誹諧歌」とは「俳諧歌ではなく「ひかいか」であり、誹は相手を誹謗すること、諧は相手と共に楽しむこと(である。だから)非和歌的な語、非雅語的な語を用いて、相手にざっくばらんに言いかける歌」と説明しています。また「古今集の和歌の真の姿は、「うつろひゆく」を惜しみ、「我が身世にふる」はかなさを嘆く抒情の文学以外の何物でもない」とも説明しています。(『原文&現代語シリーズ 古今和歌集笠間書院)。

④ 竹岡正夫氏は、「誹諧」とは「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきなのである」と論じ、「滑稽」や「戯笑」を旨とする「雑戯」の類、「俳諧」とは同じものでは決してない」と指摘し、「(誹諧歌の部とは)表現のしかたに観点を置く」もの)」と説明しています。

そして、「古今集における一般の和歌は・・・文学としての型をとっており「雅」の世界に属し、「誹諧歌」はその型においてまさに型破りであり、対象のとらえ方やそれを表現する用語において、卑俗なおどけた態度が認められ、到底「雅」の世界に属するとはいえない歌」、と指摘しています。(『古今和歌集全評釈』(右門書院 1981補訂版))。

⑤ 鈴木宏子氏は、「一つの歌集の中で、およそ和歌に詠まれ得るすべての「こころ」、つまり人間の感情生活の全体を網羅的一体的に捉えて、各巻のテーマとして掲げたのは「古今集」が最初であった」とし、

「誹諧」を「はいかい」と読み、「たわむれ、滑稽といった意味である。どのような歌を「誹諧歌」とみなしたのか、撰者のコメントが残っていない」ので集められた歌から推して「(「誹諧歌」とは)三十一文字の短歌体ではあるが、内容的に正統から逸脱する性状のあるものなのであろうと考えられている」、と指摘しています。(『『古今和歌集』の創造力』(NHKBOOKS1254 NHK出版 2018/12))

⑥ このような諸氏の理解に共通していると思われることをみると、「誹諧歌」とは、次のように表現している歌に該当しないが和歌である、と『古今和歌集』編纂者が認め、他の部立の歌とも認めなかった歌ではないか、と思えます。

 有心体の歌(久曾神氏、)

 公表された特定の歌(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)(通常の応答歌、献上歌、依頼歌の類)

 正格の、改まった歌(佐伯氏)

 まじめさと雅び(それぞれ遊戯性と笑いの対概念とされている)の歌(織田氏

 ざっくばらんに言いかけるものいいでない歌、「うつろひゆく」を惜しみ「我が身世にふる」はかなさを嘆く抒情歌(片桐氏)

 文学としての型をとっており「雅」の世界に属する歌(竹岡氏)

 内容的に正統から逸脱する性状のない歌(鈴木氏)

 

⑦ 先に、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」と推測しましたが、次の理由により、上記⑥に記した各氏に共通する誹諧の歌の定義を、その推測は含んでいる、と言えます。

 第一に、上記⑥の箇条書きの歌でない歌は、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある。

 第二に、上記⑥の箇条書きの歌でない歌は、他の部立に馴染まないと十分推測できる。

 第三に、編纂者の見識により和歌の秀歌であるとされたのであれば、その判断を尊重して然るべきである。

⑧ そうすると、『古今和歌集』における「誹諧歌の部」には、文学の型にとらわれない詠み方の歌や、雅語とか書き言葉に拘らぬ語彙を用いた歌や、現在の川柳に通じる爽快さ・意表さがある歌が配列してあっておかしくない、と思います。鈴木氏のいう「内容的」だけでなく「外見的」にも「正統から逸脱する性状のある歌の秀歌集が「誹諧歌の部」である、と思います。

⑨ 次回は、誹諧歌の部の歌が、上記2.の⑪の「誹諧歌」という部立の歌に相応しいかどうか具体に確かめたい、と思います。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

(2019/2/27   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ猿丸集 第45歌その3 類似歌の元資料

前回(2019/5/6)、 「猿丸集第45歌その2 いまもしめゆふ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第45歌その3 類似歌の元資料」と題して、記します。(上村 朋)

追記:万葉集の作者たちと編纂者の時代における死者と生者の関係を再確認し、挽歌の定義を修正しました。2021/10/4付け及び2021/10/11付けのブログでも巻二の挽歌を検討した結果です。また誤字脱字を補いました。修正は斜体の文字部分です。(2021/10/11)

 

.~7.承前

 (猿丸集第45歌の類似歌 萬葉集にある類似歌2-1-154歌を、『日本書紀』を基本にして、先に現代語訳(試案)し、この歌3-4-45歌を類似歌と比較しつつ現代語訳(試案)したところ、この二つの歌は趣旨が異なることが分りました。)

 

8. 『萬葉集』巻第二にある挽歌の部の疑問

① 検討中、気にかかることがありました。類似歌のある『萬葉集』巻二の挽歌の元資料のことです。

② 『萬葉集』巻第二の挽歌の部に、挽歌の対象者自身が死の直前に詠んだ歌(作者は有馬皇子と柿本人麻呂が含まれていることからの疑問です。

③ 巻第二の編纂者は、挽歌の最初の歌群の5首目の2-1-145歌に左注して、「右件歌等 雖不挽棺之時所作 准擬歌意 故以載于挽歌類焉」(「右の件(くだり)の歌等は、棺を挽く時つくる所にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」)と記しています。これらの歌をもって挽歌の部を構成したと言っています。

その言わんとしていることは、

この巻第二の挽歌の部の歌とは、「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」である、ということというよりも、「死者と生者の当時の理解からは、死者の送魂と招魂に関わる歌と編纂者が認めた歌」です。

挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしています。

今日でいうと、会葬の席で用いられた歌と、時・処に関係なくその人を偲ぶ歌(死者を弔いいわゆる成仏してほしいと願うことでもある歌)として詠われた歌とをも指すことになります。その人の好きであった歌曲を、歌ったりBGMに用いれば、それは挽歌である、というのが巻第二の編纂者の定義です。今この世で生きている者がその死者に邪魔されないで生きてゆくのに歌を詠みあるいは披露し、その死者の霊を慰めるのは、当然(あるいはそのような慣例が残っていた)であり、だから送魂と招魂の歌として利用された時、その歌は挽歌なのです

そのため、この挽歌の部の歌の元資料はどのようなものだったのか、という疑問・興味です。

④ 次に、『萬葉集』において、「挽歌の部」がある6巻のうち、巻第二の挽歌の部にだけ、挽歌の対象者に天皇天智天皇天武天皇)が登場することです。それは、支配権の集中を高めた指導者として律令体制の基礎を創った天皇として特別の敬意でしょうか。そうすると編纂作業との関連はどうなのか確認したくなりました。

萬葉集』は全巻が同一のグループの者の編纂ではないので、それぞれの巻の編纂方針に特徴があるはずですので、これらは、巻第二にある挽歌の部に関した、私の疑問・興味です。

 

9.挽歌の部を持っている各巻

① 『萬葉集』の6巻にある挽歌の部の歌を比較し、巻第二の挽歌の部の特徴を探ります。

② その部にある歌について、元資料と思われる歌の作詠時点と作者を、詞書と歌本文と『日本書記』から特定します。挽歌として用いられた時点(と場所)を、その後に推定し、特徴を探ります。

作詠時点は、挽歌の対象者の生前か、死後の別、作者は、挽歌の対象者と作者の関係別で各巻を整理すると、次の表が得られます。

表 部立「挽歌」にある歌の元資料歌の作詠時点別作者別一覧 (2021/10/11現在)

元資料の作詠時点と作者の区分

巻二

巻三

巻七

巻九

巻十三&十四

亡くなる直前に本人が詠う

2-1-141~142

2-1-223

2-1-419

無し

無し

無し

本人が亡くなる直前に妻が詠う

2-1-147~148

無し

無し

無し

無し

亡き人に所縁のある地にきて詠む

(「見・・・屍」タイプを含む)

2-1-143~144

2-1-146

2-1-220~222

2-1-230~232

2-1-418

2-1-429

2-1-434~436

2-1-437~440

2-1-449~453

2-1-454~456

 

2-1-1799

2-1-1800~1803

2-1-1804

2-1-1805~1807

2-1-1811~1812

2-1-1813~1815

2-1-3353~3357

経緯を踏まえて上記に追和して詠む(上記以外)

2-1-145

 

 

 

 

 

亡くなった後の普通の挽歌

 79首

 52首

 14首

 3首

 20首

その巻の歌数総数

 94首

 69首

 14首

 17首

 25首

各巻の歌の題詞

全ての歌にある

全ての歌にある

雑挽と羈旅歌とあるのみ

全ての歌にある

2-1-3353~ 3357歌にのみあり(屍を見て)

注1)歌:『新編国歌大観』の「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で元資料の歌を指すことにする。

注2)亡くなった後の普通の挽歌:「棺を挽く時つくる歌」と後日偲んで関係者が詠んだ歌(下命による代作を含む)。即ち上覧に特記した区分の歌以外の歌。

注3)2021/10/11に、2-1-145歌を独立した区分とした。

③ これをみると、亡くなった後の普通の挽歌の占める割合は、巻第九が異常に低い。ほかの巻はほぼ8割を占めています。

巻第二の特徴の第一は、元資料に挽歌の対象者本人生前時の歌(あるいは編纂者が生前に詠ったと信じている歌)があることです。亡くなる直前に本人が詠った歌は、6巻のなかで3組(対象者3人)ありますがそのうち2組が巻二に、また妻が生前に詠った歌は一組(1人)巻二にだけにあります。

第二の特徴は、6巻のうち一番歌数が多いことです。それは挽歌の対象者に天智天皇天武天皇のほか皇子と皇女を多く対象者にしている結果のようです。

第三に、歌数で比較する事柄ではありませんが、天皇の御代ごとに歌群(標目)として括り、配列しているのがこの巻二だけです。但し2021/10/11現在天皇の御代ごとの標目というのは仮説です。

④ このように、巻二(の挽歌の部)の編集方針は、その後巻の編纂者に引き継がれていない、と理解してよい、と思います。先に私が疑問とした点は、巻二の特徴と重なりました。

 

10.巻二の挽歌の部の特徴その1 本人生前時の歌など

① 本人生前時の歌を、巻二の編纂者が挽歌としてここに配列した理由は、推測すると、次のようなことだと思います。

② その最初の1組である有馬皇子の歌2首の題詞は、「有馬皇子 自痛結松枝歌二首」です。巻第二の編纂者は、挽歌の部の最初に置いています。

有馬皇子の歌2首(2-1-141歌と2-1-142歌)は、題詞が無ければ、単なる羈旅の歌ともとれる歌です。諸氏の中には、この2首を、有馬皇子の実作とみない説や護送される時の作ではない、とする人もいます。

また、題詞のもとの歌としても2-1-141歌の内容は、絶望的状態でありながらも一縷の望みを求めている歌であり、死が必然であると覚悟していたとは理解しにくい歌です。

しかしながら、この直後に、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌4首が配列されているので、振り返ってみて有馬皇子本人が詠んだこの2首は、刑死を覚悟した時という推測が可能となっています。だから本人は残念に思っているであろうという推測が可能となるような配列になっていると言えます。

そして、亡き人に所縁のある地に来た長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)らによって、有馬皇子が詠う2首を前提に(場合によってはその2首を披露(誦する・朗詠する)した後にこの4首が詠まれたであろう、という想定もできる配列です。

この配列により、実際にいつどこで(場合によっては誰が)詠んだのか不明であっても有馬皇子は非業の最後という前提はゆるぎない状態での4首となり、あわせて6首がこの詞書と配列により、有馬皇子への(巻第二の編纂者が言う)挽歌になっていると理解できます。

有馬皇子の歌が刑死の年(斉明天皇4年(658))に本人が詠んだとすると、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌4首のうち長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の歌は持統太上天皇文武天皇行幸(701)時であり、40有余年後に年有馬皇子を公然と偲ぶことができたことになり、あるいは長忌寸意吉麿がその時には代作出来たということになります。その時点で詠うということには、偲ぶこと以外に、その時代の理由があったともいえます(この一文2021/10/11追記)。

③ 巻第二にある本人生前時の歌の別の1組は、死の直前の柿本人麻呂が詠った歌2-1-223歌です。

この歌の初句(「鴨山之」)は他の山名、地名に差し替え可能です。土屋文明氏は、(鴨山とは)「死後行くであろうところ」として大和の地名であると指摘しています。

そうすると、推測するに、この歌は、辞世の歌の模範例として当時官人には衆知の歌だったのではないでしょうか。「君はそんな気持ちで逝ったのだねえ」と友人が披露する歌なのでしょう。官人の葬礼でよく用いられた歌の一つではないでしょうか。人麻呂作とされていた伝承歌とも考えられます。

④ 巻第三にある本人生前時の歌もここで検討しておきます。

その歌は、刑死する直前の大津皇子の歌2-1-419歌(付記1.参照)であり、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌を伴っていませんが、巻第二に、大津皇子の妹の作である挽歌が既にあります。この歌(2-1-419歌)は、「亡き人に所縁のある地に来て詠んだ」歌(つまり代作の歌)という見方もできます。伝大津皇子の歌、という形です。巻第二に、有馬皇子の歌群のように配列するには大津皇子持統天皇に排除された事件は時代が近すぎて編纂者は遠慮したのかもしれません。

この歌を(編纂者の言う)挽歌として披露した時・処は、大津皇子の忌日の儀式があったとすれば、死後数年の後、忌日の儀式も出来ない状態であれば、近侍した者が私的に行う偲ぶ会のような時であったでしょうか。

⑤ 本人生前時の歌3組は、その題詞のもとで「亡き人に所縁のある地に来て詠んだ」歌とともにあるので、確かに(編纂者の言う)挽歌に違いない、と理解できます。

しかし、刑死した人への(編纂者の言う)挽歌を、最初に配列したという挽歌の対象者の選定方針がまだよくわかりません。(このことは、2021/10/1付けブログで検討しました)。

⑥ 次に、本人が亡くなる直前に妻が詠った歌は、1組だけあり、巻第二にある2首(2-1-147~148歌)だけです。作者が、天智天皇の皇后です。

2-1-147歌は、予祝した歌という理解が可能な歌であり、常識的な「歌の意」は、死者に対する哀悼の意とか生前の活躍・功労を讃える意ではない、と思えます。嬪(もがり)に際し、用いられたであろうからこそ、巻第二の挽歌の部に配列された、と思います。

2-1-148歌は、歌本文をみると、地名と思える「木幡」の上になぜ魂が通うのか判然としませんが、詞書を信じると、今日の脳死直前のような状況か、あるいは皇后でありながら天智天皇に面会が許されない状況で詠われたのか、と推測します。この2首は、挽歌の部に2-1-149歌や2-1-150歌などの前に配列されておることから、嬪(もがり)に際し、用いられたという認識で、編纂者は巻第二の挽歌の部に配列した、と思います。(編纂者の言う)挽歌に該当するのですが、ただ1天智天皇皇后の歌だけである(あるいはこの歌だけを巻二に配列した)のには、何かへの配慮があると思います。

⑦ 次に、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌を検討します。10組(対象者10人)あり、巻第二、三、九及び十三にあります。 

巻第二にあるのは、有馬皇子への挽歌(2-1-143~146歌)と狭岑島で見た行路死人の挽歌(2-1-220~222歌)と見姫嶋松原美人屍への挽歌(2-1-230~232)です。

みな、平常な死ではない、異常な死と言うべき状態への挽歌です。

巻第三にあるのは、行路死人の類をみて詠った聖徳太子の歌(2-1-418歌)、(再度登場する)見姫嶋松原美人屍を詠う3首(2-1-437~440歌)、並びに大伴旅人が任終わり上京途中及び京の家に戻った時(大宰府で亡くなった)妻を偲んだ歌8首(2-1-449~456歌)です。

異常な死と言う状態への挽歌と、故郷から遠く離れた地で亡くなった妻(妻と詠う旅人からみれば尋常でなかった死)へ挽歌です。

巻九にあるのは、挽歌の部の最初にある「宇治若郎子宮所歌一首」及び「紀伊国作歌四首」とある人麻呂歌集にある歌(2-1-1799~1803歌)と「過蘆屋處女墓時」「詠勝鹿真間娘子」「見菟原處女墓」の歌です。宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)は、『古事記』に宇遅能和紀郎子と記される応神天皇の子で、応神天皇が近江の国への途次木幡村であった宮主矢河枝比売と会った結果生まれた子です。地名の「木幡」は、天智天皇の皇后が詠う2-1-148歌にも出て来る地名です。

みな悲劇の人への挽歌なのでしょうか。

巻第十三にあるのは、行路死人の類をみて詠った歌(2-1-3353~3357歌)です。

これらの歌は、亡き人に所縁のある地の視察とか無事帰任を祝うとか行幸時などの儀式や宴席で披露(奏上)作詠され披露されたのが、元資料と思われます。

⑧ このように、上記の表において、「元資料の作詠時」の区分で「亡くなった後の普通の挽歌」を除いた挽歌は、平常な死ではない、異常な死と言うべき状態への挽歌がほとんどで、例外は人麻呂本人が詠う歌(2-1-223歌)がその状況が不明の歌です。上記③では平常な死と勝手に思い込んで推測してしまいましたが、実際は異常な死であったのかもしれません。そうであっても、その異常の程度は位階の高くないので、多くの官人が該当する恐れのある程度であって、官人の志半ばでの死に際しては友人が詠っても非難は受けないで抵抗なく再利用できた歌であろう、と思います。

 

11.巻第二の挽歌の部における特徴その2 歌群 天皇への挽歌

① 巻第二の挽歌の部だけ天皇の御代ごとに歌群として括り、配列しています。

② 天皇への挽歌は二人だけです。当然亡くなった順の配列であり、天智天皇への挽歌は皇后の歌からはじまる9首(うち4首が皇后の作)であり、天武天皇への挽歌は皇后(持統天皇)の歌4首のみです。

前者の挽歌は、嬪(もがり)の最中に用いられた(儀式で披露・奏上された)と推測可能な歌8首と、埋葬後に詠まれたと推測する歌1首です。『日本書紀』が記述を省いた葬儀の一端を伺えるような配列です。後者の挽歌は、皇后の歌だけで他の歌をすべて割愛しています。

③ 『日本書紀持統天皇の大宝212月条には、つぎのような記述があります。

「(2日に)勅(みことのり)してのたまはく、「九月九日、十二月三日は先帝の忌日なり。諸司、是の日に当たりて廃務すべし」とのたまふ。」

九月九日は天武天皇、十二月三日は天智天皇の命日です。『萬葉集』巻第二の編纂者は、この二人を同等に扱おうと編纂しているのではないでしょうか。『日本書記』に嬪(もがり)の状況も十分記述されている天武天皇への挽歌としては皇后(持統天皇)の歌4首のみを配列し、それと遜色ないように、天智天皇への挽歌にも皇后の歌を4首配列しています。その4首は、埋葬前の嬪に用いた歌が3首、後年の儀式に関係すると思われる歌が1首という組合せが、共通です。さらに、天智天皇への挽歌として巻第二の編纂者は、埋葬前の嬪を彷彿する歌を加えて配列しています。

巻第二で一番多くの挽歌を寄せられているのは、日並の皇子(草壁皇子)ですが、天皇とは異なり妻の立場の挽歌がありません。

④ この二人の天皇の間に、十市皇女への挽歌を3首置いています。御代ごとの歌群なので、隣り合った配列となっていますが、確実に時代の隔たりを意識させようとする配列に見えます。なお、十市皇女は、大友皇子の妃でした。

⑤ 全体の配列は、皇族男子は、没年月日順に歌群を配しています。皇女のうち、十市皇女は、没年月日順ですが、明日香皇女が川嶋皇子の次に、また但馬皇女高市皇子の次に配列されています。その理由は直前の皇子との個人的なつながりなのでしょうか。

 

12.歌群の歌の元資料の探求 その1

① 『萬葉集』の編纂者が、資料として集めた歌集などが今に伝わっている訳ではないので、資料記載の歌(元資料の歌)を探求する資料も、『萬葉集』自体が第一の資料となります。そのため、当該歌の詞書が無いものとしての歌の理解から始まることになります。

② 挽歌ですので挽歌の対象者ごとに、『萬葉集』における一つの歌群ととらえて以下記します。

③ 巻第二の挽歌の部の最初の歌群は、有馬皇子への挽歌の歌群です。

2-1-141歌と2-1-142歌の元資料の歌は、上記10.の②以下において検討しました。元資料の歌は単なる羈旅の歌の可能性が強いと思います。

2-1-143歌から2-1-146歌の元資料の歌は、題詞にいうように、亡き人に所縁のある地にきて詠んだ、羈旅の歌などであろう、と思います。

④ 次に、天智天皇への挽歌の歌群です。

上記10.の⑥でも検討したところです。

2-1-147歌は、歌本文からは予祝の歌と理解でき、天智天皇存命中の公的な儀式に伴う寿ぎの歌ではないか、と思います。作者の候補は皇后に限らない、と思います。

2-1-148歌は、皇后でありながら天智天皇に面会が許されていない状況を、その時あるいは状況判明後に詠ったのか、と推測します。

2-1-149歌は、詞書を信じるならば、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として皇后(又はその代作者)が、詠われた歌、と思います。詞書を信じないならば、初句の「人」は、不特定の個人を意味しており普通の相聞の歌であり、伝承歌の可能性もあります。また、2-1-150歌の反歌として詠まれた歌であるかもしれません。短いが長歌である2-1-150歌には反歌を直後に置いていません。

2-1-150歌は、初句と二句より、天皇崩御を悼んでいる、と理解できますので、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として婦人(又はその代作者)により詠われた、と思います。もっとも天皇天智天皇でなくとも構わない詠いぶりです。

2-1-151歌は、詞書を信じれば、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として詠われたのが作詠時点となります。詞書を信じなければ、天智天皇崩御の知らせを聞いて、その崩御のきっかけとなった船遊びか船による志賀の唐崎への渡御を思い出して詠んだ歌か、と思います。作者は天智天皇とともに乗船していたと思われます。嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)できる歌です。

2-1-152歌も同じです。

2-1-153歌は、生前の天智天皇舟遊びの時が作詠時点ではないか。天智天皇皇后が作者であるかどうかは、詞書を信じるか否かによる、と思います。崩御の後の嬪宮(新宮)あるいはその後の年忌の儀式に用いられた、と思います。

2-1-154歌は、この配列では嬪の最中に披露されている歌ですので、昔を懐かしく思い出し、天智天皇を偲んでいる歌となります(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第45歌その1 しめゆふ」(2019/4/29付け)参照)が、忌日で用いることが可能です。詠われたのは、没後であればいつでも可能です。一番遅い時点は儀礼の直前となります。2-1-154歌も、崩御直前のことをふり返り嘆いている歌ですので、作詠時点の一番遅い時点は儀礼の直前となります。(同上ブログ参照)

2-1-155歌は、詞書を信じれば、埋葬時あるいはその後の時点でご陵の前の儀式後に詠んだ歌と理解できます。嬪が壬申の乱と重なるならば、天武天皇のとき、『日本書記』に記載はないが、朝廷として葬儀を執行した際の光景を詠ったものかもしれません。

⑤ 次に、十市皇女への挽歌の歌群です。十市皇女は、天武天皇額田王の間の娘であり、大友皇子の妃となり、壬申の乱後、父のもとに戻っていました。天武747日宮中で急死し、葬儀は414日です。

このような『日本書紀』の記述を踏まえ、かつ題詞を信じると、

2-1-156歌の三句と四句の定訓が無いそうですが、2-1-157歌と2-1-158歌と3首一組の挽歌として、作詠され、嬪の際用いられた歌となります。

⑥ 次に、天武天皇への挽歌の歌群があります。題詞を信じれば、4首とも、皇后(持統天皇)の歌です。

2-1-159~2-1-161歌の作詠時点は、天皇崩御した朱鳥元年(68699日以降の嬪の際であり、かつ嬪に用いられた歌です。

2-1-162歌の作詠時点は、崩御8年目の法会(持統79月(693))の夜の夢を詠っているので、その後間もなくに詠まれた歌です。持統天皇は、この歌を、何時どこで披露したかというと、内輪の私的な会合の席かと想像します。

さらに、「古歌集中出」と題詞に注があり、これを信じれば、伝承歌の類になります。巻第二の編纂者は崩御以後しばらくたった時点に天武天皇を偲んだ歌としてここに配列したもの、と思います。なお、崩御直後の3首と年月が経ち偲んだ歌1首の計4首は、天智天皇の皇后が詠まれた挽歌と同じ構成です。

 

13.歌群の歌の元資料の探求 その2 

① 次の歌群は、大津皇子への挽歌の歌群です。大津皇子朱鳥元年(686103日刑死しています。作者は、大津皇子の妹である大来皇女(おほくのひめみこ)です。詞書を信じれば、

2-1-163歌と2-1-164歌は、朱鳥元年11月以降が作詠時点(皇子死亡の直後)

2-1-165歌と2-1-166歌は、本埋葬が決まった後(刑死の翌年か)、となります。ともに私的な会合で披露されたのか、と推測します。

② 次に、日並皇子への挽歌の歌群です。持統3年(689)亡くなりました。

2-1-167歌とそれに続く短歌2-1-168歌と2-1-169歌は、嬪の最中に披露(奏上)すべく作詠された歌です。2-1-169歌の左注を信じれば、高市皇子の嬪のときも用いられており、このような内容の挽歌は、要するに使いまわしされていた、という例になります。

2-1-170歌は、歌の初句と二句にある「嶋宮」、「上池」は、差し替え可能な名詞であり、伝承歌がベースの歌ではないか、と思います。

2-1-171~2-1-193歌は、作者は舎人たちです。嬪の最中に披露(奏上)するべく作詠されたと思います。伝承歌をベースにした歌もあると思います。

③ 次に、持統5年(69199日歿の川嶋皇子への挽歌の歌群です。以下宇治若郎子以外は、天武天皇に近い時代の皇子と皇女への挽歌です。

2-1-194歌と2-1-195歌は、詞書を信じます。嬪に際して作詠された一組の資料ではないか。

④ 次に、文武4年(70044日歿の明日香皇女への挽歌の歌群です。

2-1-196歌と2-1-197歌と2-1-198歌については詞書を信じます。一組の資料からの歌です。嬪での儀礼歌として作詠され、用いられた歌です。

⑤ 次に、持統10年(696107日歿の高市皇子への挽歌の歌群です。

2-1-199歌~2-1-201歌は、詞書を信じます。一組の資料からの歌です。嬪での儀礼歌として作詠され、用いられた歌です。

2-1-202歌は、左注にもあるように、阿蘇氏は、この歌は別の人の嬪(もがり)にも用いられたと推測しています。

⑥ 次に、和銅元年7086月歿の但馬皇女への挽歌の歌群で1首のみです。

2-1-203歌は、題詞を信じれば、埋葬後の冬が作詠時点です。この歌を作らせた穂積皇子は、作詠直後であれば仕えていた者達に示したのでしょうか。後日の忌日の席なのでしょうか。

この歌にある「吉隠」や「猪養乃岡」は、差し替え可能な地名です。「安播」も地名であると推測した土屋氏は、「吉隠」に行く途中の地名とも解され得るとして初瀬近くの小字と解しています。初瀬は、埋葬儀礼がよく行われる地域でもあります。そうすると、伝承歌をベースの歌を、穂積皇子の埋葬時の儀礼に用いたという推測も成り立ちます。

⑦ 次に、文武3(699)721日歿の弓削皇子への挽歌の歌群です。

2-1-204歌~2-1-206歌の3首は、嬪の際用いられるべく、その時作詠されたと推測します。

⑧ 次に、人麻呂の妻への挽歌の歌群です。題詞を信じれば嬪の際に用いようと人麻呂が作詠した歌でしょう。

2-1-207歌~2-1-209歌は、 歌中の「軽」という地名は差し替え可能です。2-1-210歌~2-1-212歌にある「羽易山」という山名は差し替え可能です。これらは、その後嬪の際の典型的な歌、となったのではないか。

2-1-213歌~2-1-215歌は、2-1-210歌~2-1-212歌の異伝歌であるので、同じです。

2-1-216歌は異伝歌への追加の短歌です。みな伝承歌となった歌なのでしょう。

⑨ 次に、吉備の津の采女への挽歌の歌群です。

2-1-217歌の作詠時点については種々論議があるそうです。

長歌2-1-217歌と短歌2首が、一組として一つの元資料にある歌であれば、夫がいたらしい采女の在職中の死であり、短歌の内容から3首すべてが近江朝での死の直後が作詠時点であり、嬪に用いられた歌かと推測します。2-1-218歌の初句と二句にある地名や2-1-219歌の二句の地名「大津」も差し替え可能の歌であり、種々その後用いられた歌なのではないでしょうか。

長歌と短歌が別々の資料によるものとすれば、長歌は天武朝のときも可能性あり。短歌は近江朝時代にすでに嬪(もがり)で用いられていた伝承歌の可能性があります。

⑩ 次に、讃岐の狭岑嶋に、石の中の死人への挽歌の歌群です。

2-1-220歌および短歌2-1-221~222歌の3首です。

この歌は、金倉川河口の港を出港し、10kmも行かないところにある「狭岑嶋」に船は急遽避難した、と詠っています。

「・・・梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯而尓・・・」(・・・梶引き折りて をちこちの 嶋多けど 名ぐはし 狭岑之嶋の ありそに・・・)

現代語訳を試みると、「(にわかの風(時津風)で)梶も折れんばかりに強く引くなどという航海となり多くの島のうちでも名高い「狭岑嶋」の荒磯に・・・」

題詞にいう「狭岑嶋」は、瀬戸内の難所の一つとみられる瀬の近くにあることで名高い島の名、という意です。瀬によって知られた島です。難を逃れようと上陸し仮小屋を造った浜ではなくて岩に死体があるのは海難の結果とみるには不自然であり、遺棄されたか、忌避された遺体でありその理由は不明であり、理不尽な死を迎えた者との認識をしたのでしょうか。荒れた海の危険は避ける方法があったがそれも出来ない一例が岩にある死体であり、それはこの巻第二の配列上何かの示唆をしているのかもしれません。

⑫ この歌は、人麻呂の経験か、官人の経験談により詠まれている、と思います。作詠時点は、その旅中か、都に帰任した後の何かのニュースの際の『日本書記』にある童謡の類の歌であるかもしれません。

巻第二の編纂者は、(編纂者の「いう)挽歌と認めてここに置いているのだから、いわゆる出張報告の類に元資料を求めるとねぎらいの公的な宴席で披露(朗詠)しにくい歌であり、その可能性は低いと思います。

後日2021/10/11付けブログでもこの歌に触れました。この歌は「(にわかの風(時津風)で)」でと詠っており、それは、「忌避された遺体」に呼び寄せられた、認識され、それにふさわしいことを船頭らは行って難を逃れたのだと思います。それを人麻呂は聞かされたのではないか、今は理解しています。適切な対応例ですから公的な宴席で披露(朗詠)出来た歌であると思います(この一文は2021/10/11追加))。

⑬ 次に、柿本朝臣人麻呂への挽歌の歌群です。

2-1-223歌の初句(「鴨山之」)は他の山名、地名に差し替え可能です。土屋文明氏は、(鴨山とは)「死後行くであろうところ」として大和の地名であると指摘しています。

題詞を信じます。作詠時点は、本人の死の直前あるいは死を覚悟したときであり、家族へ伝言を同僚に依頼したと推測する渡瀬昌忠氏の指摘(『註釈万葉集《選》)に賛成です。作者人麻呂の死亡時点は定かでありません。挽歌としては、嬪(もがり)中や埋葬時、その後の忌日で披露されたのでしょう。

2-1-224歌と2-1-225歌の作者は、人麻呂の妻です。前者の三句「石水之」、後者の三句「石川尓」はともに差し替え可能な語句であり、伝承歌であった可能性があります。

2-1-226歌と2-1-227歌もそれぞれ伝承歌であった可能性があります。どこでも誰にでも挽歌となる歌がこの歌群の歌です。

⑬ 次に、姫嶋の松原に屍となった娘子への挽歌の歌群

2-1-228歌は、題詞を信じれば、和銅4年(711)に作詠されたか、その後年です。顛末を聞いた作者がその娘子を思いやって詠った歌であり、娘子の葬儀で披露された歌ではないでしょう。

同じ主題で2-1-437~440歌があります。そのうちの2-1-439歌が、『猿丸集』歌の類似歌のひとつであり、「わかたんかこれ 猿丸集第24歌 ひとごと」(2018/7/23付け)で作者などを検討しました。(さらに2021/10/11付けブログなどでも検討しています。)それを御覧ください。

2-1-229歌も2-1-228歌に同じです。

⑭ 次に、志親王への挽歌の歌群です。

2-1-230歌~2-1-234歌の題詞には,志貴親王について、霊亀元年(715)9月に、『続日本紀』の霊亀28月条では、11日に死去、とあります。火葬時の葬列を詠い、高円山での火葬をも詠っているので、埋葬に際して作詠された歌が元資料の歌と推測します。埋葬に際して披露(奏上)された歌です。

 

14.まとめ

① 最初にあげた疑問2点を検討してきましたが、次のようになりました。

第一 すべての歌に元資料があった。用いられてこそ挽歌である、と言う立場を貫き、題詞(詞書)を付けて(あるいは省いて)、元資料の歌を、編纂の方針に従い巻第二の編纂者は配列している。

元資料の歌には、挽歌でない歌も必ずしも普通の挽歌でない歌や伝承歌もある。

第二 『日本書紀』の記述を前提にし、編纂者は編纂している。巻第二の挽歌の部の編纂者は、持統天皇の意向を汲んだ方針をたてたと思われる。

特に、天智天皇天武天皇への挽歌は慎重にバランスをとっている。

なお、上記12.④の補足を少々します。天智天皇天武天皇への挽歌のバランスから、2-1-162歌の夢の歌に対応する2-1-155歌の作詠時点は、天武天皇の時代に、山科御陵の前の景を想像して詠んだ机上の歌であろう、と思います。有力官人が山科御陵の前に集うことには疑問を感じます。

③ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-46歌 人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

   まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

類似歌は、古今集にある1-1-1052歌 題しらず    よみ人しらず

   まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑥ 次回は、類似歌より検討します。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌について記します。

2019/5/13& 2021/10/11   上村 朋)

 

付記1. 巻三にある大津皇子の歌

① 2-1-419歌 大津皇子 被死之時磐余池坡(つつみ)流涕御作歌

     ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ

        <左注> 右藤原京朱鳥元年冬十月

② 大津皇子は、文武天皇が朱鳥元年(68699崩御され、その嬪(もがり)中の102日謀反ありとされ、翌3日死を命じられ「訳語田(おさだ)の舎(いえ)」で死んだ。24歳。

③ 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

 「百に続く磐余、いつも見慣れてきた磐余の池に鳴く鴨を見るのも、今日が最後で、私は雲の彼方に隠れる(死ぬ)のだなあ」

(付記終り 2019/5/13   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第45歌その2 いまもしめゆふ

前回(2019/4/29)、 「猿丸集第45歌その1 しめゆふ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第45歌その2 いまもしめゆふ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第45 3-4-45歌とその類似歌

① 『猿丸集』の45番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-45歌  あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

さざなみやおほやまもりよたがためにいまもしめゆふきみもあらなくに

 

その類似歌  萬葉集にある類似歌 2-1-154歌  石川夫人歌一首

     ささなみのおほやまもりはたがためかやまにしめゆふきみもあらなくに

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句から三句まで各一文字と、四句の三文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、今は亡き友人の妻に語りかけた歌であり、類似歌は、天智天皇の嬪(もがり)の際の歌です。

 

2.~5. 承前

 (類似歌を検討し、天智天皇の嬪の最中に詠まれた歌として、次のように現代語訳を試みました。

「ささなみのと形容される地の大山守は、(このように)誰のために山に標を結っているのか。もはや大君は、この世におられないのに(標をそのままにしてあるのを見るのは、悲しいことだ。無念である)。」)

 

3-4-45歌の詞書の検討

① 3-4-45歌を、まず詞書から検討します。

② 「あひしれりける人」とは、この『猿丸集』では、男を指すようです。「あひしれりける人(女)」という詞書はほかに2首あり、3-4-18歌では「人」で男、3-4-29歌は「女」とあり女でした。この歌の作者は官人ですので普通に考えれば、この歌の「あひしれりける人」である男も、官人となります。

③ 「なくなりにけるところ」の「ところ」には、『古典基礎語辞典』によれば、「周囲より高く平らになっていて周囲と区別される場所(祭祀場所・役所・邸宅)」とか「(そのように)区別された場所にいる貴人」の意のほか、「という場面」という動的な状況を含む意などもあります。

④ 動詞「見る」には、「視覚に入れる・見る」意のほか、「思う・解釈する」、「見定める・見計らう」、「(異性として)世話をする」などの意もあります。

この詞書では、「(あひしれりける人の、)なくなりける「ところ」」を、作者は「見」て行動を起こして(歌を詠み、かつ送って)いますが、この詞書の語句だけでは、なんとも限定しにくく、歌との照合が必要です。

⑤ 詞書の現代語訳を試みると、上記のように「ところ」と「見る」の意に従い、つぎの複数案があります。

詞書第1案 「よく知っている人が、亡くなられたその住まいを見て(詠んだ歌)」

   「ところ」は、「場所、即ち、住んでいる土地あるいは屋敷」の意、

「見る」は、「視覚に入れる・見る」の意、とした案です。

詞書第2案 「よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を思いやって(詠んだ歌)」

   「ところ」は、「という場面、即ち、知人の葬儀関係の一段落した時」の意、

   「見る」は、「思う・見定める」意、とした案です。

詞書第3案 「よく知っている人が、亡くなってその後の夫人の生活をみて(詠んだ歌)」

   「ところ」は、「と言う場面、即ち、夫人一人の生活が落ち着いて」の意、

「見る」は、「思う・見定める」意、とした案です。

 

7.3-4-45歌の現代語訳を試みると

① 初句「さざなみや」を最初に検討します。

「さざなみや」の用例をみると、『萬葉集』になく、勅撰集では『拾遺和歌集』が初出です(付記1.参照)。「さざなみの」と同様に「さざなみや」も枕詞とみると、掛かる地名(近江など)がこの歌にありません。

② 「さざなみや」は、接頭語「さざ(ささ)」+名詞「なみ」+疑問の係助詞か詠嘆の間投詞の「や」からなると、みると、

接頭語「ささ」(細・小)は、「体言について細かい・小さい・わずかなの意を表わし賞美していう意を添え」(『古典基礎語辞典』)ます。

「なみ」が「波」であるならば、その意には

水面に起こる起伏の動き

並のような起伏があるもの、あるいは起伏のある動きのあるもの

顔のしわ・波のように伝わっていくもの・世の騒乱のたとえ

があります。

③ 二句にある「おほやまもり」は、この歌3-4-45歌が天皇家に関わる歌でもないので「大山守」では不自然です。同音異義語を探すと、接頭語「おほ(大)」+名詞「屋・家」+動詞「守る」の名詞句「守り」があります。「おほ(大)」には、数・量・質の大きく優れている意があります。

このため、「おほやまもり」とは、「大事な建物(であるが今は主のいない家屋)の管理人」つまりこの歌では「夫を失った後の女性」を指すことができます。

④ 四句にある「しめゆふ」の「しめ」は名詞「標」のほかに、動詞「しむ」が下二段活用した場合の連用形(動詞「ゆふ」につくので連用形でなければならない)でもあり、いくつか同音異義があります。『古典基礎語辞典』によれば、

染む:他動詞。A色を浸透させる。B香りを浸透させる。C趣などを深く身に着ける。などなど

占む:他動詞。A占有のしるしをつける。B土地を占有する。C自分の物とする・身に備える。

締む:他動詞。A紐などを固く結ぶ。縛りつける。B何かに締める。C愛する人の手をしっかりと握る・ぐっと抱く・契りを結ぶ。D圧搾する。などなど。

などの語があります。

⑤ 四句にある「しめゆふ」の「ゆふ」には、類似歌のような「標を結う」意のみではなく他の意もあります(2019/4/29付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集第45歌その1 しめゆふ」の3.⑤など参照)。

この歌のように、女性に詠いかけているのであれば、「ゆふ」とは、

ほどいてはいけないと思いながら、貞操を守るしるしの下紐を結ぶ。縛る。

髪を結び整える(接触・立ち入り・開放の禁止の意が薄れて生じた用法)

などの意で用いているかもしれません。

⑥ このため、四句「いまもしめゆふ」とは、二句にある「おほやまもり」の意を踏まえると、

第一 今もまだ、(内面に)立ち入るなと標を自分のまわりに結いまわしている。(標結ふという理解)

第二 今もまだ、(亡き夫との)契りを大事にして下紐を結ぶ。(染めつつ結うという理解その1)

第三 今もまだ、(亡き夫への)思いを抱きしめ髪を結び整える。(染めつつ結うという理解その2)の理解が可能です。

⑦ 五句にある「きみ」は、代名詞の「きみ」(君・公)です。平安時代には(奈良時代の夫婦や恋人の間だけでなく)親子や同僚など敬意を込めて親しい相手を呼ぶのに使われることが一般的になり、平安時代の和歌は作者の性別の指標になりえない(『古典基礎語辞典』)そうなので、ここでの「きみ」は、「友人であった貴方のご主人」の意とも「亡くなった友人の妻」とも解することが可能です。しかし。「きみもあらなくに」と詠んでいるので、前者の意と思います。

⑧ 以上の検討を、句ごとに、まとめて整理すると、次のとおり。

初句「さざなみや」の意は、「わずかに顔のしわが増してきた君」という呼びかけ。

二句「おほやまもりよ」の意は、思い出が多々ある屋敷を守る人よ(亡き友人の奥様よ)」。

三句「たがために」の意は、「誰のために」。

四句「いまもしめゆふ」の意は、上記⑥の3案があります。

五句「きみもあらなくに」の意は、「友人も今はいないのに」。

このように、四句以外は1案と見てよいようです。

⑨ 詞書の3案と、四句の3案のなかのベストな組み合わせを検討します。

1案 詞書第1案「よく知っている人が、亡くなられたその住まいを見て(詠んだ歌)」のもとの歌であれば、夫婦で住んでいた住まいに一人で居続けているのを見て、という趣旨ととり、住いを変えてはどうか(夫の菩提の弔うための出家)と問うた歌として、四句は第三の案がよい。即ち

「わずかに顔のしわが増えてしまった、大切な思い出が詰まった屋敷を守る人よ。誰のために今もまだ、(亡き夫への)思いを抱きしめ髪を結び整えているのか、貴方のご主人も今はいないのに(ご主人を弔うための出家はなさらないのですか。)」

 

2案 詞書第2案「よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を思いやって(詠んだ歌)」のもとの歌であれば、四句は第一又は第三の案がよい。前を向いてと励ましている歌である。即ち、四句を第一の案で例示すると、

「わずかに顔のしわが増えてしまった、大切な思い出が詰まった屋敷を守る人よ。誰のために、今もまだ、ご自分の周りに標を張っておられるのですか。十分菩提を弔った貴方のご主人も今はいないのに。」(気晴らしのお相手もしますよ、伺いましょうか。)

 

3案 詞書第1案「よく知っている人が、亡くなってその後の夫人の生活をみて(詠んだ歌)」のもとの歌であれば、夫人は長く部屋に閉じこもっているかの印象が強いので、四句は第一の案がよい。

「わずかに顔のしわが増えてしまった、大切な思い出が詰まった屋敷をじっと守り続けている方よ。誰のために、今もまだ、かたくなに、門を閉ざしておられるのですか。十分菩提を弔った貴方のご主人も今はいないのに。」

  前を向いてゆきましょう、と励ましているし、後ろ盾になってもよい気がある言い方になります。

⑩ 詞書によれば、夫を亡くした女性に対して、時期を見計らっての挨拶歌がこの歌であるので、四句の第二の案は、スマートな挨拶ではないと思います。

また、初句が顔のしわを例にあげて問いかけているので、女性の身だしなみに関する「(髪を)染め」と「ゆふ」という語句を用いたかと推測すると、四句は第三の案が良いかもしれません。

さらに、男女間の歌が多い『猿丸集』歌であることを考慮すると、作者にとり「チャンス」到来とみた挨拶歌ではないかと推測します。このため、3-4-45歌の現代語訳(試案)としては、上記の3案を比較すると、第2案で四句が第三の案が妥当ではないかと思います。それをベースに改訳すると、次のとおり。

 詞書:「よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を思いやって(詠んだ歌)

 歌本文:「わずかに顔のしわが増えてしまった、大切な思い出が詰まった屋敷を守る人よ。誰のために、今もまだ、かたくなに閉じこもっているのですか、(十分菩提を弔ってもらった)貴方のご主人も今はこの世に未練を残しておられないのに」(気晴らしのお相手もしますよ、お伺いましょうか。)

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、男の詠むに至る状況を説明しており、類似歌は、いわゆる「題しらず」であり、その歌群の配列より、挽歌と推測できるところです。

② 初句にある「さざなみ」の意が異なります。この歌は、「顔のしわ」を喩えています。類似歌は、「楽浪」の意です。

③ 二句の「おほやまもり」の意が異なります。この歌は、「建物の管理人」、の意であり、そこに住む亡くなった知人の夫人を喩えています。これに対して、類似歌は、「大山守」(役職名)、の意です。

④ 四句の「しめゆふ」の意が異なります。この歌は、「染めて髪を結い上げる」、の意であり、類似歌は、「標を結う」、の意です。

⑤ この結果、この歌は、今は亡き友人の妻に語りかけた歌であり、類似歌は、天智天皇の嬪(もがり)の際に朗詠(奏上)された歌です。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-46歌 人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

   まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

類似歌は、古今集にある1-1-1052歌 題しらず    よみ人しらず

   まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ その検討の前に、類似歌2-1-154歌のある巻第二の挽歌の部について、次回にもう一言、記したいと思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/5/6   上村 朋)

付記1.勅撰集で句頭に「ささなみや(さざなみや)」とある歌の初出の歌について

① 『拾遺和歌集』が初出であり、2首ある。「ささなみや(さざなみや)」は、ともに、枕詞とも、直後にある地名にかかる「さざ波の寄せる」意の修飾語ともとれる。猿丸集3-4-45歌も同時代に詠われたのか。

② 『拾遺和歌集』 巻第八 雑上

1-3-483歌  大津の宮のあれて侍りけるを見て     人麿

   さざなみや 近江の宮は 名のみして かすみたなびき 宮木もりなし

③ 『拾遺和歌集』 巻第二十 哀傷

1-3-1336歌  少納言藤原統理に年頃契ること侍けるを、志賀にて出家し侍とききて、言ひつかはしける             右衛門督公任

   さざなみや滋賀の浦風いかばかりこころの内の涼しかるらん

(付記終り 2019/5/6   上村 朋)

 

 

 

 

わかたんか 猿丸集第45歌 しめゆふ

前回(2019/4/22)、 「猿丸集第44歌 その2 同じ詞書の歌2首」と題して記しました。

今回、「猿丸集第45歌その1 しめゆふ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第45 3-4-45歌とその類似歌

① 『猿丸集』の45番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-45歌  あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

さざなみやおほやまもりよたがためにいまもしめゆふきみもあらなくに

 

その類似歌  萬葉集にある類似歌 2-1-154歌  石川夫人歌一首

     ささなみの おほやまもりは たがためか やまにしめゆふ きみもあらなくに

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句から三句まで各一文字と、四句の三文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、今は亡き友人の妻に語りかけた歌であり、類似歌は、天智天皇の嬪(もがり)の際の歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

萬葉集にある類似歌 2-1-154歌は、『萬葉集』巻第二の挽歌の部(2-1-141~2-1-234)にある歌です。

挽歌とは、萬葉集』が行っている歌の内容からの3大部立の一つ(ほかに雑歌、相聞)です。中国において元々人を葬るときに棺を挽く者がうたう歌を指していましたが、葬送の歌、死を悲しむ歌なども含むようになり、『萬葉集』は『文選』の「挽歌詩」(歌謡性を持つ挽歌と作られた挽歌を含んでいます)という部立に由来すると言われています。

萬葉集』には、「挽歌」の部を立てている巻は、第二を含め六巻に過ぎませんが、他の巻にも実質挽歌があります。

巻第二の編纂者は、挽歌の部に配列する歌について独自の定義をしています。即ち、2-1-145歌の左注に、「棺を挽く時つくる歌にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」と定義しています。配列された歌をみると、作者が対象者の関係者でなくとも、対象者の生前に詠んだかにみえる歌でも、また埋葬後幾十年経て後に詠っても挽歌として扱い、ここに配列しています。

巻第二の構成は、相聞の部をおき、56首を配列し、次に挽歌の部を立て、後岡本宮御宇天皇代(・・・にあめのしたをさめたまひしすめらみことのみよ)より各御代を単位とした歌群として94首を配置しています。この類似歌は、近江大津宮御宇天皇代(147~155)の歌群の最後から二番目にある歌です。この天皇は、後に天智天皇と諡(おくりな)されました。

② 近江大津宮御宇天皇は、『日本書紀』によると、白雉10年(671123近江大津宮崩御され、同月11日「新宮に殯(もがり、)」されました。50歳にならない若さと諸氏は断定しています。具体の陵墓の地や埋葬年月日や殯の期間が他の天皇と違って一切記述がありません。また「殯宮」という表現はなく、この天皇だけ「新宮」と記述しています。

③ 殯とは、もともとは、倭人の葬礼で重要な位置を占めている儀礼であり、埋葬までの一定の期間遺体を身近に安置し、種々の儀礼をおこない、亡くなった人の魂を慰撫する行為のことです。誄(るい)など中国古代の葬礼の儀式を天皇の葬礼にあたり取り入れるようになり、大化の薄葬令では、殯宮を設けるのは天皇のみとし皆はするな、としています。

天皇の代替わりにあたるので、殯の期間中は政治的に不安定となる可能性があり、次の支配者からみると服従を再確認する場という位置づけになります。殯の期間は1年を超える天皇の場合もあり、天武天皇の場合は22か月にわたり、発哭・発哀(みね)に始まり誄(しのびごと)をたてまつり歌舞奏上などを(いまでいう施主・親戚や各界代表が)行っています。天智天皇の場合は、多くの天皇と同じように近江宮の内に殯宮(もがりのみや)が設けられた(すなわち新宮)と諸氏は推測しています。(付記1.参照)

④ この歌群の歌は次のとおり。()内は、題詞(詞書)に記された、詠まれている情景に関する現代語抄訳です。

2-1-147歌 天皇聖躬不豫之時大后奉御歌一首(天皇が御病気のとき・・・)

     あまのはら ふりさけみれば おほきみの みいのちはながく あまたらしたり

2-1-148歌 一書曰近江天皇體不豫御病気急大后奉獻御歌一首(天皇が危篤のとき・・・)

     あをはたの こはたのうへを かよふとは めにはみれども ただにあはぬかも

2-1-149歌 天皇崩後之時倭大后御作歌一首(天皇崩御された時・・・)

     ひとはよし おもひやむとも たまかづら かげにみえつつ わすらえぬかも

2-1-150歌 天皇崩時婦人作歌一首  姓氏未詳(天皇崩御された時・・・)

     うつせみし かみにあへねば はなれゐて あさなげくきみ さかりゐて あがこふるきみ たまならば てにまきもちて・・・あがこふる きいぞきぞのよ いめにみえつる

2-1-151歌 天皇大殯之時歌二首  (ご遺体を殯宮にお移しした後、大殯の儀礼の時・・・)

     かからむと かねてしりせば おほみふね はてしとまりに しめゆはましを  額田王

2-1-152歌 同上

     やすみしし わごおほきみの おほみふね まちかこふらむ しがのからさき  舎人吉年

2-1-153歌 大后御歌一首  (情景に関する表現無し)

     いさなとり あふみのうみを おきさけて こぎくるふね へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもふとりたつ

2-1-154歌 石川夫人歌一首 (この類似歌  情景に関する表現無し)

      (上記1.に記す)

2-1-155歌 從山科御陵退散之時額田王作歌一首(山科の御陵(殯宮)から人々が退散する時・・・)

     やすみしし わごおほきみの かしこきや みはかつかふる やましなの かがみのやまに・・・ももしきの おほみやひとは ゆきわかれけむ

 

⑤ このうち、最初の2-1-147歌の題詞(詞書)にある 「天皇聖躬不豫之時大后奉御歌一首」の「不豫之時」に注目すれば、この歌が詠まれた時点は、天智天皇生前となります。2-1-148歌も、題詞(詞書)の「御病気急大后奉獻」に注目すれば、2-1-147歌と同じです。

しかしながら、「歌の意(こころ)をなずらふ」歌が挽歌であるという巻第二の編纂者の方針なので、最初から8首目までは、嬪(もがり)中の何らかの儀式でも披露(奏上など)された歌、つまり、天皇を偲んだ歌として選ばれた歌と理解できます。最後の1首だけは、嬪中の儀式において披露できる歌ではありませんので、御陵に埋葬後に(自宅に作者は帰って後に)詠んだ歌と推測できます。即ち、この9首は、題詞に時点の明記のない2首(2-1-153歌と2-1-154歌)が2-1-155歌の前に配列されているので、嬪中に披露(奏上)された歌8首を、最初に歌が詠まれた時点順(生前、次に死後)という経時的な配列にし、最後に埋葬後に詠んだ歌を配列しているように思えます。

嬪中の歌は2首一組で一つの情景を詠み、身分の高位の作者を先にしています。

なお、2-1-154歌は2-1-153歌に和している、という理解を諸氏もしています。

⑥ 中西進氏は、天智天皇の死をめぐって後宮の女性たちが奏上した挽歌9首が、時間的・段階的に採録されているとして、鑑賞されています(『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫))。(付記2.参照)

 このような配列のもとにある類似歌であるので、その歌の理解の要件は、この歌群のなかで天智天皇の病臥中から御陵に葬られるまで時系列に添っていることと、挽歌が捧げる対象者ごとに、互いに独立しているものの当該歌群内(すなわち天智天皇の挽歌のうち)で独自の内容であること、の二つがあります。

 

3.類似歌2-1-154の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

楽浪の大山守は誰のために山に標縄(しめなわ)を張って番をするのか、大君もいらっしゃらないのに。(『新日本文学大系1萬葉集1』)

ささなみの土地の大山守は、誰のためにやまに標を結っているのか。もはや大君は、この世におられないのに。(天智天皇の死を悼む歌である。)」(阿蘇氏)

② 作者の石川夫人(いしかわのぶにん)について、阿蘇氏は、「壬申の乱後、蘇我氏は石川氏を名乗る。蘇我出身の夫人であろう。常陸娘の可能性が高い。蘇我赤兄の娘で山辺皇子の生母」と指摘しています。「夫人」とは律令天皇の妻と定められた妃(ひ)・夫人・嬪(ひん)の第2位であり、『後宮職員令』では「夫人三員、右は三位以上」とあります。妃は皇女が占める地位であったから一般氏族からの妻としては最高位となります。(なお、皇后とは天皇の嫡妻の名称です。)

③ 初句「ささなみの」とは、万葉仮名で「神楽浪乃」と、また「おほやまもり」とは、「大山守」とあります。

④ 『古典基礎語辞典』は、「ささなみの」について、「枕詞。後、「さざなみ」と濁音化した。少なくとも室町時代には。」、「「ささなみ」は、近江国南西部の古地名。琵琶湖の南西沿岸地方。今の滋賀県大津市のあたり。また近江国全体の古名。」とし、「「楽浪」の表記は、「神楽(ささ)浪」の略。神楽の囃子にササと掛け声をかけることからとも、または神楽に簓(ささら)を用いるからともいう。」と説明しています。また『萬葉集』では、「ささなみの滋賀」「ささなみの大津」などのように近江国の地名に冠して用いる例が多い」ことも指摘しています。

枕詞としてはササナミが寄ることから「寄る」「寄す」及び「寄る」と同音の「夜」にもかかります。

⑤ 四句にある「しめゆふ」は、「占む」の名詞句である「しめ(標)」+動詞「結ふ」と分解できます。「しめ(標)」とは、自分の占有や人の立ち入りを禁止する意のしるし(結んだ草、打った杭、張った縄など)をいいます。

「結ふ」とは、「他人が入り込んだり手を付けたりすることを禁じるために、しるしとして紐状または棒状のものを結び付けるのが原義」であり、つぎのような意があります(『古典基礎語辞典』)。

 第一 他人の侵入を禁じるために、紐条または棒状のものを結びつけて自分が独占している表示とする。

 第二 ほどいてはいけないと思いながら、貞操を守るしるしの下紐を結ぶ。縛る。

 第三 髪を結び整える(接触・立ち入り・開放の禁止の意が薄れて生じた用法)

 第四 組み立てて作る。造り構える。

 第五 糸などでつづる。つくろい縫う。

 このように、「ゆふ」には、「出るのを禁止する」意はありません。

⑥ なお、「標」には、『萬葉集』において、2-1-115歌や2-1-1346歌のように、単にしるしの意で「標」という万葉仮名を用いている例もあります。

 

4.「標結ふ」を詠う2-1-151歌の検討

① この歌群で「標結ふ」と詠っている歌が類似歌のほかにもう1首ありますので、それをあわせて検討します。それは額田王が詠う2-1-151歌です。

② 五句「しめゆはましを」の「まし」は非現実的な事象についての推量を表わす助動詞です。この五句は、もし過去にさかのぼれるなら、「標結ふ」を行っておきたかった、という意となります。

③ 諸氏の現代語訳の例を示します。

「かうあらうとあらかじめ知って居たなら天皇のみ船のとまった港にしめをはって船もとどめませうものを」(土屋氏)

「・・・大君のお船の泊まっている港に標を結うのでしたのに。」(阿蘇氏)

土屋氏の理解では、み船を港にとどめるために「標結ふ」を行っておきたかったのか、港にみ船が入らないように「標結ふ」を行っておきたかったのか、判然としません。阿蘇氏は、「お船が港の外に出ないように」と説明をしています。

土屋氏の理解が、前者の意であると、それは「標結ふ」という言葉としては例外的な用い方です。

氏の理解が、後者であれば、「立ち入り禁止」、「一線を越えて中に入ってはいけない」という意で一般的な「標結ふ」の用い方となります。

④ さて、次に、三句「おほみふね」です。その意は「天智天皇が専ら用いておられた船」であり、生前を懐かしみあるいは偲んで詠っているならば、天智天皇の御座船であり、天智天皇を意味していることにもなります。四句にある「はてしとまり」とは、嬪中で披露されている歌であるので、ご遺体の安置場所である嬪宮(新宮)を意味すると思います。

「おほみふね」が嬪宮を指すならば、「はてしとまり」とは、ご陵を意味すると思いますが、それでは嬪中で披露されている歌ではなくなります。ご陵にお移しするのはこれからなのですから。

⑤ 五句「しめゆはましを」は、そうすると、「嬪宮に入ってはいけない」、という「標結ふ」をしたかった、ということになり、2-1-151歌は御存命であってほしかったという願いの歌となり、挽歌としてふさわしい歌であると思います。「標結ふ」の意は、「一線を越えて中に入ってはいけない」意で理解できます。

⑥ 2-1-151歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

「このような事態になると、かねてより承知をしていれば、天皇が乗船されているみ船が、今着船している船着き場に、事前に「しめ」を張って、着船できないようにしておくのであったものを。」

 この歌は、「天皇大殯之時歌二首」という題詞(詞書)に添った歌意となります。

2-1-151歌の次に配列してある1-1-152歌は、乗船されている船が御存命のときの御座船ならば志賀の唐崎にも行けるのだが、と嘆いている歌、と理解できます。1-1-151歌によく唱和しているです。

 

5.類似歌(2-1-154歌)の検討その3 現代語訳を試みると

① 作詠時点が類似歌と同じとみられる1-1-153歌をまず確認します。歌を再掲します。

2-1-153歌 大后御歌一首

     いさなとり あふみのうみを おきさけて こぎくるふね へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもふとりたつ

② 諸氏の現代語訳の例を示します。

「鯨をとる海、その海ではないが、近江の海を、沖に離れて漕いで来る船よ。岸辺に近く漕いで来る船よ。沖の舟の櫂で、水をひどく撥ねないでおくれ。岸辺の舟の櫂で、水をひどく撥ねないでおくれ。若草のようにいとしい、わたしの夫の愛していた鳥が飛び立つから。」(阿蘇氏)

「(いさなとり)近江の海を 沖から離れて 漕いで来る船よ ・・・(若草の)夫(つま)の君が いつくしんでいらした鳥が飛び立っているではないの」(『新編日本古典文学全集6 萬葉集』)

③ どちらの訳も不自然ではありませんが、どの時点の情景かの推測がありませんでした。この歌は、嬪の最中に披露されている歌ですので、昔を懐かしく思い出し、天智天皇を偲んでいる歌となります。

④ さて、類似歌(1-1-154歌)の検討です。初句にある「ささなみ」という表現は、『古今和歌集』にありません。

⑤ 二句にある「おほやまもり」は、『萬葉集』においてはこの歌1首にしか登場しません。「やまもり(山守)」が句頭にある歌は4首あり(付記3.参照)、「おほ」とは、接頭語でここでは、天皇に関わることとして聖なることとして敬意を表しています。ここでの「おほやまもり」は、天智天皇が都とした琵琶湖の南西沿岸地方の山々を司る山の番人です。山の番人が「標結ふ」のは、常々天智天皇のために立ち入り禁止している区域と、行幸に伴う臨時の区域(例えば臨時に狩場に指定した区域)であり、その準備の期間から行うと思います。あるいは、天智天皇の御陵新設用のエリアに「標結ふ」こともあるかもしれませんが、天智天皇は、その準備をしていません(付記1.参照)。

なお、『古今和歌集』で、句頭に「やまもり」とか「おほやまもり」とある歌はありません。

⑥ 諸氏の現代語訳の例を示します。阿蘇氏の現代語訳は、次のとおり。

「ささなみの地の大山守は、誰のために山に標を結っているのだろうか。もはや大君は、この世におられないのに。」(阿蘇氏)

「近江ささなみにある天皇のお山の山守は、誰のためにしるしを立てるのか。その天皇も世にあらせられないのに。」(土屋氏)

そして、阿蘇氏は「死と共にすべての(天智天皇の)権勢が失われたことのはかなさを悼んでいるようにも思われる。」と指摘しています。土屋氏は、「天皇崩御によりその行幸のために標を立てられた山の、徒になったことから、天皇を悲しんで居るのであるが、そこに理を附けて感ずべきものではあるまい」と指摘しています。

⑦ 1-1-153歌を、昔を懐かしみ、偲んでいる歌と理解しましたので、1-1-153歌と同様に崩御直前のことをふり返り嘆いているとみてよいので、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「ささなみのと形容される地の大山守は、(このように)誰のために山に標を結っているのか。もはや大君は、この世におられないのに(標をそのままにしてあるのを見るのは、悲しいことだ。無念である)。」

その区域にした「標結ふ」状態は、ご陵に埋葬されても、そのまま保っているのでしょうか。天皇が使われた机・冠その他のものが大切にされるように、最後に「標結ふ」したところが最後に立ち寄られた所(その予定であった所)ということで大事にされ、その「標」そのものもしばらく大切にされていたのでしょうか。

⑧ 長歌には多くの場合反歌や短歌が続いて配列されています。漕ぎ続けている船を詠っている153歌を受けて、154歌は、「標結ふ」状況が続いているのを詠い、皇后の漕ぎ続けている船への思いに唱和した歌となっています。

⑨ この類似歌は、嬪の最中に披露されるに違和感のない歌の内容であり、またこの歌群にある他の歌とこの類似歌とは内容的に重複していません。このため、この現代語訳(試案)は、この歌群において、天智天皇の(巻二の編纂者のいう)挽歌として妥当な理解である、と言えます。

萬葉集』巻二の編纂者が、この歌群の中に配列した類似歌は、このように理解できる、と思います。

⑩ 次回は、3-4-45歌の検討をしたいと思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/4/29   上村 朋)

 

付記1.天智天皇の死亡原因と殯(もがり)について

① 天智天皇について、本文では、『日本書紀』の記述に従い、『萬葉集』のこの歌群(近江大津宮御宇天皇代(147~155)の歌群)の歌の題詞(詞書)に基づき、記した。『萬葉集』巻第二の編纂は、2-1-158歌の左注にみられるように『日本書記』の記述を前提にしている。

② 天智天皇崩御を、日本書紀』では、「十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。于時、童謠曰、・・・」と記している。嬪宮を「新宮」と言うのは天智天皇のみである。

天智天皇の死亡原因については、『日本書紀』の記述以外に、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗後の天智天皇の治世方針と外交を背景とした暗殺説もある。遺体そのものが発見できなかったという。(『扶桑略記』)

③ 嬪(ひん)とは、古代中国では,招魂儀礼のあとに遺体を仮埋葬する儀式を指す。七世紀成立した『隋書倭国伝』に「嬪」とでてくるが、それは,遺体を死後すぐに埋葬せず一定期間安置しているという倭国の風習(もがり)を指して用いている。

④ 嬪(もがり)は天皇の場合、嬪宮のうちでの私的な「もがり」が近親の女性により行われ、公的な「もがり」が嬪宮の外(嬪庭)で行われた。後者は、後継者選びと天皇への服従儀礼となり、誄を官の各組織、有力豪族・蝦夷などが述べるの重要な儀礼が含まれる。

⑤ 天武天皇の嬪(もがり)は、かってない大掛かりのもので、『日本書紀』は、嬪宮が10日余で完成し嬪の期間が22か月と記し、主要な喪葬関連の記事は31あるそうである。

⑥ 『日本書紀天武元年是月条に、天智天皇陵造営のための人夫徴発の記述があり、御陵をこれから造営するのだから嬪の行事が御陵にご遺体を葬ることで終るならば、壬申の乱の期間と天智天皇の嬪の期間が重なっている可能性がある。山科御陵の前に、いつ有力官人は集いそして2-1-155歌が詠われたのだろうか。

⑦ なお、『日本書紀』は天武天皇が編纂を命じてその孫が天皇の時代に完成したものである。

 

付記2.2-1-149歌などに関する中西進氏の理解

① 中西進氏は、『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)で2-1-149歌と2-1-153歌を秀歌として鑑賞されている。この著作は、『中西進著作集22』(講談社)が底本である。

② 天智天皇の死をめぐって後宮の女性たちが奏上した挽歌9首が、時間的・段階的に採録されているとして、鑑賞している。

2-1-149歌は、飛鳥にあった皇后が途中木幡で2-1-148歌を詠み急ぎ駆け付け、天皇崩御前に詠んだ歌とみている。「天翔ける天智の幻影をみながら、現し身に逢えないもどかしさ詠うのであろう」と指摘している。

2-1-153歌は、嬪の期間の歌で、(歌の最終句にある)「水鳥は、夫の天智がいまもなお生きているように思わせる鳥である。」とも指摘している。また、「鳥は霊魂を運ぶものだから、いまの鳥も天智の霊魂の宿ったものであり、天皇の魂と相呼応している鳥なのである。その鳥が飛び立たぬように、櫂よゆっくり漕げという。」と指摘している。

③ 中西氏は、天智天皇の嬪がいつ終了したか(いつ御陵に埋葬したか)について『万葉の秀歌』では推測を述べていない。

 

付記3.萬葉集』で句頭に「やまもり」とある歌は、つぎの4首。「山の番人」の意で用いられている。

① 巻第三 譬喩歌

2-1-404歌  大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首  

やまもり(山守)の ありけるしらに そのやまに しめゆひたてて ゆひのはじしつ

② 巻第三 譬喩歌

2-1-405歌  大伴宿祢駿河麻呂即和歌一首

やまもり(山主)は けだしありとも わぎもこが ゆひけむしめを ひととかめやも

 巻第六 雑歌(912~)

2-1-955歌  五年戊辰幸于難波宮時作歌四首

   おほきみの さかひたまふと やまもりすゑ もるといふやまに いらずはやまじ

この歌について阿蘇氏は、歌謡的と思われる内容と形式を持ち、行幸先の宴席で即興的に作られたものの例、と指摘している。

④ 巻第七 雑歌 臨時(1259~

2-1-1265

   やまもりの さとへかよひし やまみちど しげくなりける わすれけらしも

この歌は、「臨時」と言う題詞の歌群の歌であり、作中人物を第三者的に呼び掛けている歌2首のうちの1首である。揶揄している歌。もう1首は「今年ゆく新島守」と呼び掛けている。

(付記終り 2019/4/29   上村 朋)

 

わかたんかこれ  猿丸集第44歌その2 同じ詞書の歌

前回(2019/4/15)、 わかたんかこれ  猿丸集第44歌その1 こひのしげきに」と題して記しました。

今回、「猿丸集第44歌 その2 同じ詞書の歌2首」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第43歌と44歌とその現代語訳(試案)

① 同じ詞書にもとに連続してある歌2首(3-4-43歌と3-4-44歌)を比較検討します。その2首を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-43歌  しのびたる女のもとに、あきのころほひ

ほにいでぬやまだをもるとからころもいなばのつゆにぬれぬ日はなし 

 

3-4-44歌  <詞書無し>

ゆふづくよあか月かげのあさかげにわが身はなりぬこひのしげきに

 

② この2首は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集43歌 からころもは女性」(2019/3/18付け)とブログ「わかたんかこれ 猿丸集44歌その1 こひのしげきに」(2019/4/15付け)で個別に検討しました。その結果である現代語訳(試案)をそれらのブログより引用します。

3-4-43歌の詞書

「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、(飽きに通じる)秋の頃合いに(送った歌)」

 

3-4-43歌の現代語訳(試案)

「穂も出ない時期から出没する動物を追い払うなど山田を守ろうとしている者のように、外来の美しい貴重な服のようなあこがれのあなたを私は大事にしているのに。(私を去って)往ってしまうならば、山田を守る者が稲葉にかかる露に濡れない日がないのと同じく、私は涙で袖を濡らさない日はありません。(私も逢いたくて機会を伺っているのですが・・・)

 

3-4-44歌の現代語訳(試案)

「空に月のでている夕方、その明るい月の光で出来た薄いがはっきりしている影のような状態に(今私は)なってしまった。朝影になったわけではなく古今集551歌の人物のように、貴方を大切に思い不退転の決意でいるのだから」

 

③ この3-4-43歌は、次のように個別の検討時に総括しました。

「(3-4-43歌の類似歌との違いをみると)この3-4-43歌は、この歌は、詞書に従えば、逢う機会が少ないと訴える女性に私も辛いのだと慰めている歌であり人目を忍ぶ恋の歌であるのに対して、類似歌は、(多分男らしさを)強くアピールして女性にせまっている恋の歌です。」

④ また、この3-4-44歌は、次のように個別の検討時に総括しました。

「この歌は、類似歌のような相手に恋心を強く訴える歌ではなく、いま私は貴方の影法師と同じように貴方と離れられない存在になっていると作中人物は詠い、必死に相手の女性の気持ちをつなぎ止めようとしている歌、と言えます。」

 

2.詞書の改訳

① まず、詞書ですが、2首の歌の本文の現代語訳(試案)からふり返ってみると、「あき」をもっと重視した現代語訳であったほうがよかったのか、と思います。

② 詞書「しのびたる女のもとに、あきのころほひ」は端的な物言いであり、「あきのころほひ」の現代語訳は、説明調の文言を加えずに「「あき」の頃合いに(送った歌)」とし、「あき」とわざわざ平仮名にしてある説明は 歌でおのずと分るので歌に譲った方がよい、と思います。

③ 詞書は、『猿丸集』の編纂者がここに配列するにあたり作詠する事情を記しているものであり、送られた相手の女のその後の反応が、恋の成り行きとしては大事ですが、『猿丸集』の編纂者の関心は、そこにありません。「飽く」感情を女から訴えられた時の男の歌の例を示すことに編纂者は注力しているので、その点を考慮して詞書の現代語訳を試みたほうがよい、と思います。

④ 改めて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、「あき」の頃合いに(送った歌)」

 

3.歌本文の改訳

① 3-4-43歌について、つぎのように改訳します。山田を守る状況部分の訳が不自然でした。

「穂も出ない時期から出没する動物を追い払うなど山田を精力的に守ろうとしている者のように、外来の美しい貴重な服のようなあこがれのあなたを私は大事にしているのに。(私を去って)往ってしまうならば、山田を守る者が稲葉にかかる露に濡れない日がないのと同じく、私は涙で袖を濡らさない日はありません。(私も逢いたくて機会を伺っているのですが・・・)

② 3-4-44歌は改訳は不要と思います。古今集551歌の理解が作者と女とで異なったとしても、別れたくないという意思はこれで伝わると思います。

 

4.二首の順番

① 『猿丸集』では、この順番で歌が配列されています。その意味を確認したいと思います。

② この2首の歌を比較すると、最初の歌3-4-43歌)では、相手の女性が訴える逢う頻度の少ないという認識に賛意を示し、そのうえで「(私を去って)往ってしまうならば、」私は困る、と訴えています。最初の歌の類似歌(付記1.参照)が、「(多分男らしさを)強くアピールして女性にせまっている恋の歌」であり、相手の女性もその歌を承知しているので、この類似歌も女性に一緒に送ったようなものです。だから、愛情に揺らぎのないことを示している歌ともなっています。

その次の歌(3-4-44歌)は、貴方の影法師と同じようなわたしだから、と二人の関係継続の意思を強く訴えています。しかし具体策は何も伝えていません。それがないと相手の女は不安が消えないと思いますが間に立つ者が口頭でつたえたのでしょうか。この歌の類似歌(付記1.参照)も、「愛している」というだけであり、3-4-44歌の五句「こひのしげきに」も情熱は有りあまっているものの具体的な手立ては示唆していません。しかし、この歌は、『萬葉集』ではなく官人たちにとり教養として共有している『古今和歌集』の恋一の最後に置かれた1-1-551歌により、つぎのステップへの意気込みを示しており、口頭でつたえた事柄が抽象的であってもこの五句の語句はプラスに働いた、と思います。

このため、2首を実際に送るのであるならば、作中人物はこの順番に詠んだと理解してほしいところであり、『猿丸集』のそのように配列している、と思います。

③ それにしても、もっと素朴な表現の歌で訴えることが出来るのに、詞書にある作詠事情のもとでわざわざ複雑にした歌、技巧に走った歌という印象が、この2首にあります。

現実の恋の経過において送った歌であるならば、おくる側の人と受け取る側の人に誤解が生じないことが特に肝要です。受け取る側の人には、歌のほかに手紙や口上や贈り物などがあったりして、衆知を絞って総合的な判断も可能です。『猿丸集』では、歌の文字遣いと簡潔な詞書しかないので、誤解が生じないように、編纂者は十分配慮しているとみて理解しなければなりません。

この2首一組の歌は、相手の女性の持っている和歌の鑑賞力(と作詠力)を高く評価しているように思えます。『古今和歌集』の歌の意をよく知り、『萬葉集』歌に造詣のある女性(あるいはそのような家人のいる女性)は限られているでしょう。そうすると、実際にやりとりした歌ではなく物語を創造しようとした官人の間の遊びとしての詠み比べが、この2首ではないかという想像も働きます。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-45歌  あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

さざなみやおほやまもりよたがためにいまもしめゆふきみもあらなくに

 

類似歌は萬葉集にある2-1-154歌  挽歌(141~) 石川夫人歌一首(154)」  巻第二 挽歌(2-1-141~)

     ささなみの おほやまもりは たがためか やまにしめゆふ きみもあらなくに

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。(2019/4/22  上村 朋)

 

付記1.類似歌など

① 『猿丸集』の43番目の歌の類似歌と、諸氏が指摘する歌

古今集にある類似歌 1-1-307歌  題しらず  よみ人しらず

    ほにいでぬ山田をもると藤衣いなばのつゆにぬれぬ日ぞなき 

② 『猿丸集』の44番目の歌び類似歌と、諸氏が指摘する歌

萬葉集』にある類似歌 2-1-2672歌       よみ人しらず」

     ゆふづくよ あかときやみの あさかげに あがみはなりぬ なをおもひかねて

(万葉仮名表記は「暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝呼念金丹」)

③ 『猿丸集』の44番目の歌の五句の参考歌 参考歌

  『古今和歌集』 巻八 恋一

1-1-551歌     題しらず      よみ人しらず

     奥山に菅の根しのぎ降る雪の消ぬとかいはむ恋のしげきに

(付記終り 2019/4/22    上村 朋)