わかたんかこれ 猿丸集第36歌 いまもなかなむ

前回(2018/11/5)、 「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集第36歌 いまもなかなむ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第36 3-4-36歌とその類似歌

① 『猿丸集』の36番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-36歌 卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる

   さ月まつやまほととぎすうちはぶきいまもなかなむこぞのふるごゑ

 

3-4-36歌の類似歌 1-1-137歌 題しらず  よみ人知らず 

    さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなむこぞのふるごゑ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに嘆息した歌であり、類似歌は、ほととぎすに早く来て鳴いてくれと日を定めず願っている歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集巻第三夏歌34首のなかの一首です。

② 『古今和歌集巻第三夏歌の配列は、前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」(2018/11/5)で、検討しました。

その方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、その作業結果を同ブログ(2018/11/5)に、そして各歌の元資料の歌について同ブログの付記1.の各表(補注含む)に示しました。

但し、『猿丸集』の類似歌になっている2首(の元資料の歌)は、視点2(披露の場所)の判定を保留しています。いま検討している3-4-36歌の元資料の歌は後ほど、また3-4-35歌の元資料の歌は同ブログ(2018/11/5)で別途確認しました。

③ その結果を、引用します。

第一 『古今和歌集』の元資料の歌は、夏の歌と見做せる歌である。そして、『古今和歌集』の編纂者は、語句の一部を訂正して、必要に応じて詞書をつけて『古今和歌集』に用いている。

第二 『古今和歌集』の元資料の歌は、三夏の季語である郭公(ほととぎす)を詠む歌が28首あり夏歌の82%を占める。

第三 『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌を、詞書や歌の語句を適宜補い、初夏から、三夏をはさみながら仲夏、挽歌の順に並べている。

第四 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。

第五 その歌群は、つぎのとおり。巻第三の総歌数は少ない。

 初夏の歌群 1-1-135歌~1-1-139

 ほととぎすの初声の歌群 1-1-140歌~1-1-143

 よく耳にするほととぎすの歌群 1-1-144歌~1-1-148

 盛んに鳴くほととぎすの歌群 1-1-149歌~1-1-155

 戻ってなくほととぎすの歌群 1-1-156歌~1-1-164

 夏を惜しむ歌群 1-1-165歌~1-1-168

第六 この類似歌は、初夏の歌群(1-1-135歌~1-1-139歌)に置かれている。

 

④ 次に、初夏の歌群での配列をみてみます。

 1-1-135歌 題しらず   よみ人しらず

わがやどの池の藤波さきにけり山郭公(やまほととぎす)いつかきなかむ

 1-1-136歌 う月にさけるさくらを見てよめる     紀としさだ

      あはれてふ事をあまたにやらじとや春におくれてひとりさくらむ

 1-1-137歌 題しらず   よみ人しらず

      さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなむこぞのふるごゑ

 1-1-138歌 題しらず   伊勢

      五月(さつき)こばなきもふりなむ郭公まだしきほどのこゑをきかばや

 1-1-139歌 題しらず   伊勢

      さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする

 (参考:次の歌群の最初の歌) 1-1-140歌 題しらず   よみ人しらず

      いつのまにさ月きぬらむあしびきの山郭公今ぞなくなる

⑤ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/11/5)の付記1.の表1参照) 

1-1-135歌 私のところの池の藤は咲いた。ほととぎすはいつきて鳴いてくれるのか、待ち遠しい。

元資料の歌は屏風歌b(下記に記す付記1.参照) 又は相聞歌と推定

1-1-136歌 誉め言葉を自分だけにと、他の桜より遅れた時期に独り咲くのだろうか、この桜木は。

元資料の歌は宴席の歌と推定

1-1-137歌 五月を待つほととぎすよ、去年の鳴き声でよいから今鳴いてくれ。 (仮訳)

元資料の歌は保留

1-1-138歌 五月が来ると新鮮さがなくなる。だからいまのうちにほととぎすよ、初音を聞かせて。

元資料の歌は下命の歌と推定

1-1-139歌 五月を待って咲く花橘がはやくも香りはじめた。その枝を袖に入れて迎えてくれたあの人を思い出させてくれる。(付記2.参照)

元資料の歌は屏風歌b又は宴席の歌と推定

(参考)1-1-140歌 いつのまに五月になったのか、山のほととぎすが今鳴き出した。

   元資料の歌は挨拶歌又は宴席の歌又は下命の歌と推定

⑥ この歌群の歌で、作者は、ほととぎすの来訪を望んでいるほか、季節はずれの桜や季節の花により、初夏が到来を感じています。

 この歌も、作者は、ほととぎすを詠み、その来訪を望んでいる、と思われます。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

 「五月になるのを山で待っているほととぎすよ。羽をうち振って今でも鳴いてほしいものであるよ、去年のあの古い鳴き声で。(久曾神氏)

 「五月をおのが季節として待っているほととぎすよ。今すぐにでも翼を羽ばたいて鳴いてほしい。去年のままの古馴染の声でいいから。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「ほととぎす」に話しかける口調で詠まれている。二句、四句切れで、よみ人しらず時代の古い調子が感じられる。」とし、『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』も「五七音を二つ繰り返しさらに七音を添えたのは、古い調べの歌である。(「うちはぶき」とは、)鳥の姿を実際に写しているのではなく、鳴く前の準備行動を観念的にうたったものだろう。」と指摘しています。

③ 1-1-137歌は、夏歌の最初の歌群である「初夏の歌群(1-1-135歌~1-1-139歌)にある歌ですので、別途現代語訳を試みたい、と思います。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 三句「うちはぶき」とは、上記の訳例のように動詞「うち羽振く」の連用形であるとともに、接頭語「うち」+動詞「省く」(省略する、の意)の連用形、でもあり、「うちはぶき」とは、「ちょっとしたことをなにげなく省く」、即ち「堅苦しく考えず、省略・節約し(鳴き声の練習も省いてよいから)」の意も、作者は込めたのではないか。几帳面に五月を待つことはないではないか、という催促の意です。

② 羽ばたくことと鳴くことの間に実際どのような関連があるか不明です。恐らく、五月の到来をじっと待つのにくたびれて(作者自身がするように)少しは体を動かし、ほととぎすも気分を変えるのだろう、という作者の思いが、動詞「うち羽振く」に込められている、とみます。

③ 四句「今もなかなむ」の「なか」は、動詞「鳴く」の未然形であり、それに付く「なむ」は終助詞であるとしたのが上記の訳例です。

 「なか」が活用語であるとすると、四段活用の「鳴く」の未然形しかありません。なお、未然形につく語句は、このほか終助詞の「な」、打消しの助動詞「ず」、係助詞の「なむ」もありますが、上記の終助詞の「なむ」として、あつらえの意としているのは、素直な理解であると思います。

④ 五句にある「ふるごゑ」は、『明解古語辞典』において、歌語の名詞としてこの歌を例にあげ「古声:昔のままのなつかしい声」と説明しています。

 「ふる」には、「古る・旧る」の動詞のほか、「降る」、「振る」という動詞もあります。

 「古る・旧る」は、「古るくなる・時がたつ」とか「新鮮さがなくなる」とか「飽きられて捨てられている」の意があります。

 

⑤ これらの語意を踏まえ、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「五月になるのを、ときには羽をうち振り、待っているほととぎすよ。堅苦しく考えないで練習なども省き、昔のままのなつかしい声で(試演としてでよいから)、今、鳴いてほしいよ。」

 この試訳でも、『古今和歌集』巻第三の配列から「初夏の歌群」での特徴である「ほととぎすを詠むならばその来訪を望んでいる」を満足しています。

⑥ 年中行事というくくり方が生じている時代ですので、鳴き方も前年にならったもので良いのですから、練習も省けるではないか、と作者は訴えていると思います。作者は、時期を違えないことも、ほととぎすに期待しているものの、試演とか内覧的なことは、その前に当然するものが年中行事であるのだから、ほととぎすよそういうことをしないのか、という諧謔の気持ちが溢れた歌である、と思います。

 

5.3-4-36歌の詞書の検討

① 3-4-36歌を、まず詞書から検討します。

 詞書において、詠んだ時点を「卯月のつごもり」と限定しています。類似歌では、題しらずであり、詠まれた日時を卯月のつごもり」のたった一日に限ることはない、と理解してよい詞書となっています。これは歌の理解のヒントかもしれません。

② 詞書の「郭公をまつ」とは、一人静かに待つのではなく、聞く集いがあり、くたびれるほどほととぎすに待たされている状態を、言っているのではないか。年中行事的発想をすると、旧暦四月の晦日はほととぎすが試演する最後の日、内内に聞かせる最後の日です。

③ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「旧暦四月の末日に、ほととぎすを(聞く集いで)待ちくたびれているとき詠んだ(歌)」

 

6.3-4-36歌の現代語訳を試みると

① 初句「さ月まつ」とは、言い換えると「まだ四月であり、さ月は到来していない」ことを確認していることになります。

② 三句「うちはぶき」は、ほととぎすが鳴くならば、五月が到来していないので、接頭語「うち」+動詞「省く」の連用形です。ほととぎすが鳴かないならば、ほととぎすの鳴くのとの関係が不明である動詞「羽ぶく」です。

③ 四句「今もなかなむ」の「なかなむ」は、幾通りかの理解が可能です。(『例解古語辞典』による)

A 名詞「汝」+名詞「可」+係助詞「なむ」 (「汝は(それを)行うのがよい(できる)、確かに」の意となるか)

B 動詞「鳴く」の未然形+終助詞「なむ」 (類似歌での理解)

C 動詞「鳴く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の未然形+推量の助動詞「む」

(予測してみると「鳴かないだろう」あるいは、実現しようとする意志・意向を表わす「鳴くまい」、の意)

この歌では鳴くのを待っている場面であり、類似歌と異なる趣旨の歌であると仮定すると、Cがこの歌における候補となると思います。

④ 五句「こぞのふるごゑ」の「こぞ」は、「今夜 昨夜 去年 」の意があります。

 「ふるごゑ」は、連語としては上記3.④にも引用したように、歌語の名詞として「昔のままのなつかしい声」となります。

 「ふる+こゑ」と理解すると、「振る声」よりも「古声」が妥当すると思います。「古る」には、「古くなる・時がたつ」とか「新鮮さがなくなる」とか「飽きられて、捨てられている」の意があり、「声」には、「人や動物の発する声」のほか「よい声」とか「訛り」とかの意もあります。

このため、「ふる+こゑ」は、

時がたったがよい声

新鮮さがなくなった声

などとも理解できます。

⑤ 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「陰暦五月になるのを、ときには羽をうち振り、(律儀に)待っているほととぎすよ、今日は四月の晦日だから、去年のあのよい声で今夜も鳴かない(と決めている)のかねえ。」 (ほととぎすに質問をしている歌)

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-36歌は、詠む事情を述べていますが、類似歌1-1-137歌は、題しらずであり、不明です。

② 三句にある語句「うちはぶき」の意が違います。「うち」は両歌ともに接頭語ですが、この歌3-4-36歌は、「羽ぶく」意であり、これに対して、類似歌1-1-137歌は、「省く」に「羽ぶく」の意も掛けています。

③ 四句にある語句「なかなむ」の「なむ」意が違います。この歌は、三語の連語であり、「鳴かないと意志を固めている」意です。これに対して、類似歌は、終助詞の「なむ」で「鳴いてほしい」の意となります。

④ この結果、この歌は、陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている、あるいは嘆息した歌であり、類似歌は、ほととぎすに早く来て鳴いてくれと日を定めず願っている歌です。

 

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-37歌  あきのはじめつかた、物思ひけるによめる

     おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ

3-4-37歌の類似歌 

その1 1-1-185: 題しらず  よみ人知らず (『古今和歌集』巻第四 秋歌上)

     おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ

 

その2 3-40-38歌  秋来転覚此身衰   (『千里集』 秋部)

     大かたの秋くるからに我が身こそかなしきものとおもひしりぬれ

 

3-4-36歌とその類似歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/11/12   上村 朋)

 

付記1.屏風歌bについて

① 屏風歌bとは、その和歌が詠われた(披露された)場所として、歌合とか屏風歌とか恋の歌としておくった歌(相聞歌)と並び、検討時設定した区分の一つであり、その定義は上村朋がしている。

② 『新編国歌大観』記載の歌集において、詞書などで屏風歌(紙絵なども含む)と明記されている歌を屏風歌aと称する。

② 屏風歌bは、上記屏風歌a以外で、ブログ「わかたんかこれの日記 よみ人しらずの屏風歌」2017/6/23)の「2.②」で示す3条件(下記③に引用)を満たすよみ人しらずの歌を指して上村朋が定義している。それを拡張し、誰の歌であっても3条件を満たした歌としている。

屏風歌bは、歌の再利用も念頭に想定したものなので、歌を披露する他の場の区分(歌合とか宴席の歌とか)と重なることがある。

③ 屏風歌bの判定基準は、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、屏風に書きつける得る歌と推定する。

第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、屏風に書きつける得る歌と推定する(屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌あるいは屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌と推定できること)。また、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと。

第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨には用いられていないこと。

第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。

 この方法は、歌の表現面から「屏風歌らしさ」を摘出してゆくものであり、確実に屏風歌であったという検証ではなく、屏風作成の注文をする賀の主催者が、賀を行う趣旨より推定して屏風に描かれた絵に相応しいと選定し得る歌であってかつ歌に合わせて屏風絵を描くことがしやすい和歌、を探したということである。

 

付記2.1-1-139歌について

① 1-1-139歌の理解は、小松英雄氏の理解(『みそひと文字の抒情詩―古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』(笠間書院)で論じている)によるところが大きい。

② 「元資料の歌は屏風歌b又は宴席の歌」と推定したのは上村朋である。作者は官人であると推定できる。

<付記終り 2018/11/12  上村 朋>

 

わかたんかこれ 猿丸集第35歌 なをうとまれぬ

前回(2018/10/29)、 「猿丸集第34歌 こじま」と題して記しました。

今回、「猿丸集第35歌 なをうとまれぬ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第35 3-4-35歌とその類似歌

① 『猿丸集』の35番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-35歌 あだなりける女に物をいひそめて、たのもしげなき事をいふほどに、ほととぎすのなきければ

    ほととぎすながなくさとのあまたあればなをうとまれぬおもふものから

3-4-35歌の類似歌 1-1-147歌 「題しらず  よみ人知らず」 巻第三 秋

    ほととぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、歌はまったく同じであり、詞書だけが、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、聞こえてきたほととぎすの鳴き声に寄せて愛していると詠い、類似歌は、ほととぎすの行動に寄せてそれでも愛していると詠っています。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集巻第三夏歌34首のなかの一首です。

② 『古今和歌集巻第三夏歌の配列を、検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法 )により、検討します。

即ち、醍醐天皇が、事前に多くの歌人に「歌集幷古来旧歌」を奉らせ(真名序)た歌(元資料の歌)と、『古今和歌集』歌を比較するため、(そのままの形で現存していない)元資料を確定あるいは推定し、その元資料歌における現代の季語(季題)と詠われた(披露された)場を確認し、その後『古今和歌集』の四季の部の巻の配列を検討します。

今、『古今和歌集』記載の作者名を冠する歌集や歌合で『古今和歌集』成立以前に成立していると思われるものや『萬葉集』などは元資料と見做します。また、『古今和歌集』記載の歌本文と元資料の歌本文とを、清濁抜きの平仮名表記しても異同がある歌もあります。その場合は、必要に応じて元資料の歌を、『新編国歌大観』により示すこととします。

その作業結果を、付記1.の各表(補注含む)に示しました。

視点2(披露の場所)の判定を、『猿丸集』の類似歌になっている2首は、保留しています。いま検討している3-4-35歌の元資料の歌は後ほど、また3-4-36歌の元資料の歌は別途確認します。

③ その結果、次のことがわかりました。

第一 『古今和歌集』の元資料の歌は、夏の歌と見做せる歌である。そして、『古今和歌集』の編纂者は、語句の一部を訂正して、必要に応じて詞書をつけて『古今和歌集』に用いている。

第二 『古今和歌集』の元資料の歌は、三夏の季語である郭公(ほととぎす)を詠む歌が28首あり夏歌の82%を占める。

第三 『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌を、詞書や歌の語句を適宜補い、初夏から、三夏をはさみながら仲夏、挽歌の順に並べている。

第四 『古今和歌集』に配列するにあたり、『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしている。

第五 その歌群は、つぎのとおり。巻第三の総歌数は少ない。

 初夏の歌群 1-1-135歌~1-1-139

 ほととぎすの初声の歌群 1-1-140歌~1-1-143

 よく耳にするほととぎすの歌群 1-1-144歌~1-1-148

 盛んに鳴くほととぎすの歌群 1-1-149歌~1-1-155

 戻ってなくほととぎすの歌群 1-1-156歌~1-1-164

 夏を惜しむ歌群 1-1-165歌~1-1-168

第六 この類似歌は、よく耳にするほととぎすの歌群(1-1-144歌~1-1-148歌)に置かれている。

④ 次に、よく耳にするほととぎすの歌群、での配列をみてみます。

 1-1-144歌 ならのいそのかみでらにて郭公のなくをよめる   よみ人しらず

      いそのかみふるき宮この郭公声ばかりこそむかしなりけれ

 1-1-145歌 題しらず    よみ人しらず

      夏山になく郭公心あらば物思ふ我に声なきかせそ

 1-1-146歌 題しらず    よみ人しらず

      郭公なくこゑきけばわかれにしふるさとさへぞこひしかりける

 1-1-147歌 題しらず    よみ人しらず

      ほととぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから

 1-1-148歌 題しらず    よみ人しらず

      思ひいづるときはの山の郭公唐紅のふりいでてぞなく

 (参考:次の歌群の最初の歌) 1-1-149歌 題しらず    よみ人しらず

      声はして涙は見えぬ郭公わが衣手のひつをからなむ

⑤ 『古今和歌集』歌の諸氏の現代語訳を参考にし、元資料の歌の視点2などを考慮すると、各歌は次のような歌であると理解できます。(視点2(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定)は、付記1.の表1参照) 

1-1-144歌 古い都にある石上寺で聞くほととぎすの声だけが昔とおなじだね

元資料の歌は挨拶歌と推定

1-1-145歌 夏になった山で鳴くほととぎすよ、思いやりがあるなら物思いしている私に声は聞かせないでくれ

元資料の歌は相聞歌と推定

 1-1-146歌 ほととぎすの鳴き声はあの人と過ごしたあの土地(の暮らしまで)懐かしく思い出させるなあ

 元資料の歌は相聞歌と推定

 1-1-147歌 ほととぎすよお前の鳴く里は多くていやになってくる、愛しているのだが (仮訳)

元資料の歌は後ほど推定

 1-1-148歌 私が思い出す時は、常盤山のほととぎすが血を吐くように鳴くのと同じ状況になっている

元資料の歌は民衆歌と推定

 (参考:次の歌群の最初の歌) 1-1-149歌 声だけで涙がないほととぎす、それなら私の濡れている袖を借りてほしい

元資料の歌は宴席の歌と推定

⑥ この歌群の歌では、ほととぎすがよく鳴いています。そしてその鳴き声から作中の主人公は昔を思い出し感慨を述べています。

 それは、芒種とか夏至のころの寝られぬ夜の出来事であったかもしれません。

 1-1-145歌の四句の「物思ふ」は芳しくない過去の事がらに悩まされている意でしょう。

 1-1-146歌の「わかれにしふるさと」とは、あの人と別れた場所であるあの土地の意であり、二人で過ごした昔を作者は思い出しています。

このように、『古今和歌集』巻第三夏歌に置かれた歌としては、昔を思い出させるほととぎすの鳴く時期となったなあ、という感慨を詠んでいる歌となっています。

⑦ それでは、他の歌群では、ほととぎすは何と結びついているでしょうか。

各歌群をみてみます。

初夏の歌群(1-1-135歌~1-1-139歌)でのほととぎすを詠う歌では、ほととぎすの来訪を作中の主人公が望んでいます。

 ほととぎすの初声の歌群(1-1-140歌~1-1-143歌)では、ほととぎすの初声に感動しています。この歌群の最後の歌である1-1-143歌は、詞書を踏まえると、作中の主人公はうきうきしています。

 盛んに鳴くほととぎすの歌群(1-1-149歌~1-1-155歌)では、ほととぎすの鳴き声で作中の主人公は昔のことを思い出していません。1-1-153歌の作者は、ほととぎすに関係なく現在のことで物思いを作者はしているところです。

 戻ってなくほととぎすの歌群(1-1-156歌~1-1-164歌)では、ほととぎすが短夜や何かを憂いていますが作中の主人公は思い出にふけっていません。この歌群の1-1-162歌は1-1-143歌と同様、これからの展開をうきうきして待っています。また、1-1-163歌は「ほととぎすよ過去に拘っているか」と詠うが作中の主人公はあからさまに過去を懐かしがっていません。そして、1-1-164歌も作中の主人公は過去よりも現在の状況に拘っています。

夏を惜しむ歌(1-1-165歌~1-1-168歌)では、ほととぎすは去っており、歌に現れていません。

このように、ほととぎすが過去を思い出させる歌は、この歌群のみに集められています。

⑧ 検討対象である類似歌も、この歌群にあるので、同様であろうという推測は確実です。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳について

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「ほととぎすよ、お前の鳴く里があちらこちらにたくさんあるので、私にはやはり、なんとなくうとましく思われる、お前を愛してはいるのであるが。」(久曾神氏)

「ほととぎすよ。何しろおまえが鳴く里が多いものだから、私はおまえを愛してはいるのだが、やはり自然にいやになるよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「(夏歌として記載されているが)この歌は、男女関係における多情な愛人を連想させる。『伊勢物語43段では、賀陽親王(かやのみこ)が、女のもとに送った歌となっている。」と、また『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』は、「男女のどちらが詠んだとしても、相手の浮気を風刺した歌である。(ホトトギスが相手を寓意している)」、と指摘しています。

③ このように、男女関係の歌である、と諸氏は指摘しています。夏の歌として理解せよと示唆しているのは、『古今和歌集』の詞書です。この歌と同様に、『古今和歌集』には、四季の歌として記載しているが元々は恋の歌と推計される歌が、多数あります。1-1-62歌や1-1-63歌のほか、付記1.の表に示したように巻第三の歌にもあります。

 どちらの訳例でも、作者はやきもきさせられる相手であるものの、愛していると詠っていると言えます。

 この歌は、ほととぎすの行動が作者に相手のこれまでの行動を思い出させて批判しており、この歌群の条件をどちらの訳例も満足しています。

④ 三句「あまたあれば」の「ば」は、どちらの訳例でも、接続助詞「ば」であって、已然形の活用語に付いているので、「あとに述べる事がらの起こる原因・理由を表わしている」(a)、と理解しています。

 このほか、已然形の活用語に付く「ば」には、「あとに述べる事がらに気が付いた場合を表わす(・・・ところが)」(b)とか、「その事柄があると、いつもあとに述べる事がらが起こる、という事がらを示す」(c)場合もありますが、作者が「疎(うと)む」ということなので、上記aが妥当であると、思います。

⑤ このため、『古今和歌集』の歌としての現代語訳は、『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』の訳で十分ですので、この訳を採ることとします。 

⑥ また、五句にある「ものから」は、接続助詞であり、確定の逆接であり、「・・・ものの、・・・けれども」の意です。

⑦ さて保留にしていた元資料の歌の視点2です。1-1-147歌の元資料は不明であるので、元資料の歌としては諸氏が相聞歌として訳している1-1-147歌を、それとみなすものとします。視点2は、相聞歌あるいは何か送られてきたときの返歌という挨拶歌になると思います。

 

4.3-4-35歌の詞書の検討

① 3-4-35歌を、まず詞書から検討します。

 詞書にある「あだなり(ける女)」の「あだ」という表現がある詞書がこの『猿丸集』に3首あります。3-4-3歌と3-4-46歌とこの歌3-4-35歌です。

 3-4-3歌では、「あだなりけるひと」を、「はかなくこころもとないと思っていた男」、の意と理解し、現代語訳の試みでは、「心許ないと思っていた人」と訳しました。(「人」という語句は、この『猿丸集』の詞書には、9首にありますが、男の意です。)

形容詞「あだなり」には、人の心や命などに関する「移ろいやすく頼みがたい、はかなく心もとない」、という意のほかに、「粗略である。無益である。」の意もあります。後者のような女であれば、「いひそめ」て政略結婚もしない、と思います。

③ 詞書にある「物を言ひ初(そ)め(て)」とは、求愛作法として最初の懸想文を贈る意でもあります(倉田実氏の「平安貴族の求婚事情  懸想文の「言ひ初め」という儀礼作法」(『王朝びとの生活誌  源氏物語』の時代と心性』(森話社 小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗編2013/3))による)。

 倉田氏は、「言ひ初(そ)む」の用例は次の三点ほどに分けられると指摘しています。

a 初めて言い出す。言い始める。言いかける。

b 言い染める。言い続ける。染料で色がつくように、言う行為を継続したり、強めたりする。色にかかわる語彙が(その歌や文中に)ある場合は「言ひ染む」意を汲み取ったほうがよい。

c 初めて懸想文を贈る。

和歌でも、それぞれ(場合によっては意を重ねた)用例があります。

 古語辞典には、「そむ」に、動詞「染む」と補助動詞「初む」(・・・し始める)の説明があります。

 ここでは、色にかかわる語句がないので、上記cの意で検討します。

④ 詞書は、「いひそめた」後に、「・・・ことをいふほどに」とあります。この「ほど」は、「言うその時・言う折に」の意であり、女と会話をしているその時、ということになります。順調に文の往復をして顔をあわせるようになったことが推測できる表現です。ですから、女に向ってこの歌を披露したことになります。

⑤ 詞書の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「はかなく心許ない女に初めて懸想文をおくり、(順調に、言葉を交わし逢うようになってから、)たよりにできそうもないなどと女が口にした丁度その折、ほととぎすが鳴いたので(詠んだ歌)」

 

5.3-4-35歌の現代語訳を試みると

① この歌は、詞書によれば、男が女とともに居て、ほととぎすの鳴き声を聞いた直後に詠った歌です。これはこの歌の理解のポイントになります。

② 男である作者は、ほととぎすの鳴き声を聞き、ほととぎすがあちこちで鳴くのを浮気の例によく喩えられていることを思い出したのだと思われます。

二句~三句の「ながなくさとのあまたあれば」とは、男にとって、通い婚の相手があちこちに居る状況を表現している語句です。これは普通の状態ですが、女にとっては浮気をしているともとれる、ということであることを再確認した、という立場にたって詠み始めたと思われます。

③ そうであるので、下句の前提条件(上句)である「・・・あれば」の「ば」には、上記3.⑤に記したように同音異義があるので、検討を要します。

④ 三句「あまたあれば」の「ば」が、類似歌と異なれば、この歌の意も異なることになるでしょう。「あれば」は、

「あとに述べる事がらに気が付いた場合を表わす(・・・ところが)」(b)か、あるいは

「その事柄があると、いつもあとに述べる事がらが起こる、という事がらを示す」(c)場合、

の意が、候補になります。

 前者ですと、三句は、浮気の例にたとえられていることに気が付き、「(ほととぎすの鳴く里が)沢山ある、ということから、それで(ほととぎすはうとまれるという)」推測をした意になると思われます。

 後者ですと、「(ほととぎすの鳴く里が)沢山ある、ということから、必然的に(ほととぎすはうとまれるという)推測をした意になると思われます。

⑤ この理解は、四区にある「うとまれぬ」が、類似歌のように、相手を作者が「うとむ」ではなく、作者自身が「うとまれる」と理解できれば可能です。

 「うとまれぬ」は、

動詞「うとむ」の未然形+受け身の助動詞「る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の終止形

とも理解できるので、可能です。(ちなみに、類似歌では、「る」が自発の助動詞です。)

⑥ そのため、作者が再確認したという事柄が、あらためて気が付いた、という程度のことであれば、前者の意でしょう。作者が再確認したという事柄が、これが女の性か。と思ったのであれば、後者の意でしょう。

⑦ 四区にある「なを」は副詞であり、前者であれば、「やはり。依然として。」と、後者であれば「さらに。ますます。」の意になります。

⑧ 次に、五句「おもふものから」の「ものから」は、接続助詞であり、類似歌は確定の逆接でしたが、確定の順接の意(・・・ので。・・・だから)もあります。

⑨ 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。初句は、「ほととぎす」に呼び掛けて、二句と三句にかかりますが、五句にも響かせているようにみえます。

「ほととぎすよ、お前が鳴く里が沢山あるように私にも寄るところがいくつかある。それで貴方に、自然といやな感じを持たれ(、今日までき)てしまった。それでも鳴き続けるほととぎすのように、貴方を私は愛しているのだからね。」

⑩ 作者からみると、文の返事をしなかったり、逢わなければ、仲は自然と遠くなるのにそうしていないのですから、この女は妻にしたい相手なのです。だから、今鳴いたほととぎすは私なのだと、信頼をつなぎ止めるべく、機会を逃さず詠んだ歌がこの歌です。

五句にある「ものから」は、順接の接続助詞の理解が妥当です。

 

6.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-35歌では、具体に詠むきっかけを述べているのに対して、類似歌1-1-147歌では、何も記していません。

② ほととぎすが含意する人が違います。この歌3-4-35歌では、この歌を詠う作者を指しており、類似歌1-1-147歌では、この類似歌を突きつける相手(一人)を指しています。

③ 四句の「うとまれぬ」の意が異なります。この歌は、作者を相手の女がうとんでいますが、類似歌は、作者が相手をうとんでいます。

⑤ この歌の作者は、男に限りますが、類似歌の作者は男でも女でも可能です。

⑥ この結果、この歌は、聞こえてきたほととぎすの鳴き声に寄せて相手の女を誰よりも愛していると詠う歌であり、類似歌は、ほととぎすに寄せてやきもきさせられる相手だが、愛していると詠う歌です。

⑦ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-36歌 卯月のつごもりに郭公をまつとてよめる

   さ月まつやまほととぎすうちはぶきいまもなかなむこぞのふるごゑ

 

3-4-36歌の類似歌 1-1-137歌 題しらず  よみ人知らず (『古今和歌集』巻第三夏歌)

    さ月まつ山郭公うちはぶき今もなかなむこぞのふるごゑ

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/11/5   上村 朋)

付記1.『古今和歌集巻第三夏歌の元資料の歌について  2018/11/5   22h現在>

① 古今集巻第三夏歌に記載されている歌の元資料の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」(2018/9/3)の本文の「2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法」に準じて判定を行った結果を、便宜上2表に分けて示す。

② 表の注記を記す。

1)歌番号等とは、「『新編国歌大観』記載の巻の番号―その巻での歌集番号―その歌集での歌番号」である。『古今和歌集』の当該歌の元資料の歌の表示として便宜上用いている。

2歌番号等欄の*印は、題しらずよみ人しらずの歌である。

3)季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。(付記2.参照)

4)視点1(時節)は、原則として元資料の歌にある季語により、初夏、仲夏、晩夏、三夏に区分した。

5)視点3(部立)は『古今和歌集』の部立による。

6()書きに、補足の語を記している。

7)《》印は、補注有りの意。補注は表2の下段に記した。

8)元資料不明の歌には、業平集、友則集、素性集及び遍照集の歌を含む。元資料の歌も『新編国歌大観』による。

表1 古今集巻第三夏歌の各歌の元資料の歌の推定その1 (2018/11/5  22h 現在)

歌番号等(元資料の歌を指す)

歌での(現代の)季語

ほととぎすの状況

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-135*

藤(波) 山郭公

来ていない

晩春(藤による)

元資料不明

屏風歌b &相聞歌 《》

夏&恋

民衆歌 

1-1-136

春(におくれて)

――

初夏

元資料不明

宴席の歌

夏&雑体

知的遊戯強い

1-1-137*

さ月(まつ)

山郭公

来ていない

初夏 《》

元資料不明 

視点2保留(当該猿丸集歌と一緒に検討)

猿丸集歌の類似歌 (視点4保留)

1-1-138

五月(こば)郭公

来ていない

初夏 《》

伊勢集(第374歌) 《》

下命の歌

夏&雑歌

知的遊戯強い

1-1-139*

さつき(まつ)花橘

――

初夏 《》

元資料不明

屏風歌b 宴席の歌《》

夏&雑歌

知的遊戯強い

1-1-140*

さ月(きぬ)山郭公

聞きはじめ

仲夏

元資料不明

挨拶歌 宴席の歌 下命の歌

夏&雑歌

知的遊戯強い

1-1-141*

花たちばな

郭公

聞きはじめ

仲夏

元資料不明

下命の歌 宴席の歌《》

知的遊戯強い

1-1-142

郭公

聞きはじめ

三夏

元資料不明(友則集第8歌)《》

屏風歌b 外出歌

夏&羈旅

知的遊戯強い

1-1-143

郭公

聞きはじめ

三夏

元資料不明(素性集第18歌《》

挨拶歌 《》

知的遊戯強い

1-1-144

郭公

よく耳にする

三夏

元資料不明(素性集第19歌)

挨拶歌 《》

知的遊戯強い

1-1-145*

夏(山)

郭公

よく耳にする

三夏

元資料不明

相聞歌 《》

夏&恋

民衆歌

1-1-146*

郭公

よく耳にする

三夏

元資料不明

相聞歌《》

夏&恋

民衆歌

1-1-147*

ほととぎす

よく耳にする

三夏

元資料不明

視点2保留(本文4.で検討予定)

猿丸集の類似歌 (視点4保留)

1-1-148*

郭公

よく耳にする

三夏

元資料不明

相聞歌 《》

夏&雑歌

民衆歌

1-1-149*

郭公

共になく

三夏

元資料不明

宴席の歌 《》

知的遊戯強い

1-1-150*

山郭公

共になく

三夏

元資料不明

宴席の歌 《》

知的遊戯強い

1-1-151*

郭公

共になく

三夏

元資料不明

相聞歌

夏&恋

民衆歌

1-1-152

山郭公

共になく

三夏

元資料不明(小町集第7歌)

下命の歌

知的遊戯強い

1-1-153

五月雨 

郭公

共になく

仲夏

寛平御時后宮歌合第54歌(友則集第10歌)

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

1-1-154

ほととぎす

共になく

三夏

寛平御時后宮歌合第65歌(友則集第11歌)

歌合 題は夏歌 《》

知的遊戯強い

1-1-155

花橘

ほととぎす

共にできず

仲夏

元資料不明(寛平御時后宮歌合と千里集に無し《》

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

 

表2 古今集巻第三夏歌の各歌の元資料の歌の推定その2 (2018/11/5  22h 現在)

歌番号等(元資料の歌を指す)

歌での(現代の)季語

ほととぎすの状況

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-156

郭公

明け方にきく

三夏

寛平御時中宮歌合第9歌(貫之集に無し)

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

1-1-157

夏の夜

山郭公

明け方にきく

三夏

寛平御時后宮歌合第73歌(忠岑集第22歌)

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

1-1-158

夏山

郭公

うるさくなく

三夏

寛平御時后宮歌合第56歌

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

1-1-159*

夏 郭公

うるさくなく

三夏

寛平御時后宮歌合第62歌

歌合 題は夏歌

知的遊戯強い

1-1-160

五月雨 

郭公

うるさくなく

仲夏

元資料不明(貫之集に無し)

下命の歌

知的遊戯強い

1-1-161

ほととぎす

なきやむ

三夏

元資料不明(躬恒集に無し)

下命の歌&宴席の歌 《》

知的遊戯強い

1-1-162

郭公

戻ってきてなく

三夏

貫之集第643歌 《》

下命の歌

知的遊戯強い

1-1-163

郭公

戻ってきてなく

三夏

忠岑集第1歌 《》

相聞歌&挨拶歌

夏&恋

知的遊戯強い

1-1-164

郭公

卯の花

よく耳にする 《》

初夏 《》

元資料不明(躬恒集に無し)

挨拶歌&下命の歌 《》

夏&雑歌

知的遊戯強い

1-1-165

はちすば

つゆ

――

晩夏

元資料不明(遍照集第34歌)

挨拶歌 《》

夏&雑歌

知的遊戯強い

1-1-166

夏の夜 月

――

三夏

元資料不明(深養父集第11歌) 《》

宴席の歌&挨拶歌

知的遊戯強い

1-1-167

とこ夏の花(なでしこ)

――

初秋

元資料不明(躬恒集に無し)

挨拶歌 《》

知的遊戯強い

1-1-168

夏 秋

――

晩夏

躬恒集第446歌 《》

下命の歌

知的遊戯強い

補注

1-1-135歌:男女の集団が唄い掛け合う際の相聞歌。民衆歌。》

1-1-137歌:①初句は「五月を待つ」意。つまりこの歌の時点はさ月以前なので初夏。②二句と四句で切れ、当時は古い調べ。》

1-1-138歌:初句の意は、まだ四月。だから、初夏。『伊勢集』において、屏風歌や歌合の歌の後にあるが、古歌が並ぶ前にこの歌は位置する。》

1-1-139歌:①初句は「五月を待つ」意。つまりこの歌の時点はさ月以前なので初夏。花橘たまたま早咲き。②思い出しており、相聞ではない。宴席の戯れ歌か。しかし、月次の屏風絵にもふさわしい歌。》

1-1-141歌:庭にある橘が咲いているのに寄せた歌ではないか。女官による下命の歌か宴席の歌。》

1-1-142歌:『友則集』の成立は『古今和歌集』成立後であるため、元資料は不明とした。素性集なども同じ。

1-1-143歌:①二句が素性集は「なくこゑきけば」、古今集は「はつこゑきけば」。②二句が「なくこゑきけば」となるので、毎晩「恋せらる」状態。「はた」は当惑。即ち「友と語らん」という誘いの歌。》

1-1-144歌:旧交を温めた席での挨拶歌。》

1-1-145歌:遠くから聞こえるだけでは不満。近くで顔を見たい意。相聞歌。》

1-1-146歌:①「ふるさと」は、1-1-42歌と同様に昔馴染みの土地、の意。「わかれにし」は、「あの人と別れてしまったところの場所である」、の意。②今は独りでほととぎすが鳴くのを聞いたが、昔は二人で聞いたのに、と再会を乞う相聞の歌。》

1-1-148歌:よみ人しらずの歌で、緑(ときはぎ)紅を対比させている民衆歌。》

1-1-149歌:声だけ聞こえるほととぎすに作者は袖を貸す手段がない。袖を貸せるところの近くにいる同席の女または男をほととぎすにたとえる。》

1-1-150歌:下手な朗詠をする同僚をからかう。宴席の歌。》

1-1-152歌:古今集の作者名を信じる。》

1-1-154歌:五句が寛平御時后宮歌合では「すぎがてにする」、古今集は「すぎがてになく」。》

1-1-155歌:千里集に無い。寛平御時后宮歌合にも無い。》

1-1-160歌&1-1-161歌:古今集の詞書を信じる。》

1-1-162歌:①古今集の詞書を信じる。②三句が貫之集は「なく時は」、古今集は「鳴くなれば」。③「まつ山」が、当時の名所であるならば、屏風歌bの可能性がある。古今集ではその詞書より作中の主人公は、ようやく聞いた鳴き声が、成就した恋と重なり、うれしさがこみあげてきたと詠う。》

1-1-163歌:①初句が忠岑集は「いにしへや」、古今集は「むかしへや」。②初句が「いにしへや」なので相聞の歌。ふるさと即ち我がもとにという歌。③古今集は、その詞書により「ふるさと」は昔馴染みの土地、の意であり、1-1-146歌とともに巻第三での「ふるさと」という語句の意は一種に統一されている。》

1-1-164歌:①卯の花は、「憂」の枕詞。五句「なきわたる」により、卯の花の四月もホトトギスは鳴くので、元資料集の歌としては初夏としたが、卯の花を枕詞として重視しなければ晩夏の季節となる。②ほととぎすは「なきわたる」ので「よく耳にする」状況と思われる。③古今集の作者名を信じる。述懐の歌とすればだれかへの挨拶歌か。 またはほととぎすを題とした下命の歌か。》

1-1-165歌:①上句は法華経湧出品の「世間の法に染まざるは蓮花の水に在るが如し」によるという。現代で言えば法話の席で披露したか。挨拶歌ととりあえず分類する。②初句の「はちす」により晩夏。》

1-1-166歌:初句「夏の夜」により三夏。四句が深養父集は「雲のいづこに」、古今集は「雲のいづくに」。》

1-1-167歌:古今集歌の詞書に「をしみて」と明記し、花の咲いている時期に注意を向けさせている。》

1-1-168歌:三句が躬恒集は「かよひぢに」、古今集は「かよひぢは」。古今集の作者名を信じる。》

(補注終り)

 

付記2.付記2俳句での夏の季語(季題)について

① 『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)は、夏の季語を夏(立夏から立秋の前日まで)の全体にわたる季題(三秋)と、季の移り変わりにより初仲晩に分かれる季題に分類している。

② 夏の季語の例を示す。

三夏:夏、夏の月、夏木立、短夜、ほととぎす、青葉、滝、涼し、(岩)清水

初夏:夏立つ、卯月、ときはぎおちば、葉桜、緑、新緑、若葉、葉柳、卯の花

仲夏:さ月、五月雨、あじさい、菖蒲(又はあやめ草)、花菖蒲、花橘(又は橘の花)、かきつばた、柿の花

晩夏:水無月、蓮(又ははちす、帚木(ははきぎ)、夏萩、(空)蝉、百日紅、秋近し、夜の秋、涼む、納涼

③ そのほかの季節の例を示す。

晩春:藤(波)、草(山)藤、(葉)山吹、花、花の陰、月の花、(山・八重・里)桜、花の雪、若草、(青)柳、松のみどり、緑立つ、つつじ、花見

三秋:露、霧、月、朝の月、月夜、月渡る、初月

初秋:とこなつのはな(又はなでしこの花)、蓮の実、萩

晩秋:橘(の実)、紅葉、露寒

④ これは、現代(正確には約20年前の(西暦)2000年頃)における認識である。

季題をまとめた歳時記は、太陽暦を使う現在の季節感や実生活を反映し定着したしたものを加え、重要でないものは削るなどして、各種編集出版されている。

(付記終り 上村 朋)

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第34歌 こじま

前回(2018/10/22)、 「わかたんかこれ 猿丸集第33歌 にほへるいろも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第34歌 こじま」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第34 3-4-34歌とその類似歌

① 『猿丸集』の34番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

  3-4-34歌 山吹の花を見て

   いまもかもさきにほふらんたちばなのこじまがさきのやまぶきのはな

3-4-34歌の類似歌: 1-1-121歌   題しらず     よみ人知らず 

    今もかもさきにほふらむ橘のこじまのさきの山吹の花

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句と四句で各1文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女が男を誘う歌であり、類似歌は、特定の土地の山吹を懐かしんでいる歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は、 『古今和歌集』巻第二春歌下にあります。巻第一春歌上と同様に、巻第二春歌下の歌の元資料の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第33歌 にほへるいろも」(2018/10/22)で検討した結果を、同ブログの付記1に示してあります。元資料が不明であった元資料歌は、詞書を省いて、歌本文のみの歌として原則検討しています。

古今和歌集』の編纂者は、巻第二春歌下にある歌の元資料の歌を、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を五つ設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べていることを確認しました。

この類似歌は、その三番目の「藤と山吹による歌群 (1-1-119~1-1-125歌 )にあります。

② その歌群の中の配列の検討もすでに3-4-33歌を検討した前回(2018/10/22のブログ)に行い、

第一 愛でてきた春が通り過ぎてゆくのを、ふぢと山吹に寄せて詠う歌群である。

第二 詠われている山吹は、作者の眼前にはないヤマブキである可能性が高い。

という結果を得ました。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「昔とかわらずただ今も咲き匂っていることであろうか、橘の小島が崎(地名)のあの山吹は。」(久曾神氏)

「かって楽しく遊んだ橘の小島の崎の山吹の花は、この好季節に恵まれ、今ごろはみごとに咲きほこっていることだろうか。」(『日本古典文学全集7 古今和歌集』)

② 初句「今もかも」に関して久曾神氏は、「「も」は添加の助詞。「か」は疑問の助詞。下の「も」は感動の助詞。「昔と同じようにいまもまあ」、の意」と指摘し、『日本古典文学全集7 古今和歌集』では、「二つの「も」は語気を強める機能をもつ。「か」は詠嘆的疑問。「も」と複合するのは古い語法。」と指摘しています。

③ 二句にある「にほふ」に関して、久曾神氏は、「「にほふ」には、色彩の場合もあるので、「美しく照り映える色彩」の意として、初句~二句は山吹の花にかけて見るべきである。「にほふ」を香りの意とすると橘の方(を修飾すると考えるの)が適しているので、三句の橘にかかる序詞とみることになる。この歌は、山吹の花の歌である。」としています。

④ 「橘のこじまのさき」について、久曽神氏は、「具体的にはどの地をさすかは不詳であり、宇治川の北岸で、平等院の東北、橘姫神社付近か。」といい、『日本古典文学全集7 古今和歌集』では「ひとつの地名であろう。奈良県高市郡明日香村橘であったとも、京都府宇治市付近の宇治川であったともいう。後者は源氏物語で有名。」といい、「真淵は語句が古風な歌だといい、契沖は奈良時代の人が藤原の古京を思って詠んだ歌かという。それほどでないとしても、『古今集』では古い歌であろう。」とも指摘しています。

⑤ この二つの現代語訳の例は、『古今和歌集』巻第二における配列からの条件(上記2.の②参照)を満足しているといえます。

また、これらの訳では、「橘」を地名とみて、山吹が咲いている場所を、「(橘の)小島が﨑」あるいは「(橘の)小島の﨑」と特定しています。

しかし、格助詞(橘)「の」は、連体修飾語をつくる連体格の助詞であり、「橘」を地名と理解しない解釈も可能です。例えば、「(植物の)橘で有名な」とか「あの花橘のある」と理解しても、「小島が﨑」あるいは「小島の﨑」を修飾している語句になり、山吹が咲いている場所を特定していることに変わりありません(歌にある「橘のこじま」の理解に無理がない、といえます。)

この二つの訳のように、初句と二句は五句にのみにかかるとするならば、素直に次のように詠んでも良いところです。

   1-1-121a  橘のこじまのさきに(「の」を変更)今もかもさきにほふらむ山吹の花

このような語順でも、「橘のこじま」という語句における「橘」は地名か「橘で有名な」などの意か、の選択が残りますが、「今もかもさきにほふらむ」は確実に山吹のみに関して述べており、「橘」にかかる語句ではありません。

しかるに、類似歌は倒置法で述べています。このため、歌に登場する花すべてを積極的に、初句と二句で形容しようとしているのではないかという疑問が生まれます。

⑥ 植物の「たちばな」は、ただ一つの日本原産とされる柑橘類で古代は柑橘類の総称でした。そのうちのニッポンタチバナが「橘(たちばな)」です。常緑小高木で初夏に白色五弁の花を咲かせ芳香があり、実は小さくて酸味が強く当時食用にしていないそうです。

 植物の「たちばな」は、現代の季語では晩秋であり、花橘(橘の花を見る頃)は、仲夏です。太陽暦では5月~7月に花を楽しめ、静岡県以南なら自生しています。

 また、「山吹」は、現代の季語では晩春であり、その花を見るころは太陽暦では4月~5月です。花橘と山吹の花を同時に楽しめる時期があり、また山吹に続き花橘を楽しめる時期が連続しているとも言えます。

 二句にある「さきにほふ」が、歌に登場する花すべてを対象に用いていることができる時期があるということです。

 「橘の」の意を再確認する必要がある、と思います。

⑦ さらに「橘」に寄せた有名な歌が『古今和歌集』に既にあるので、その歌を前提とした「橘」の理解の可能性も確認し、類似歌の現代語訳を試みたい、と思います。

 

4.類似歌の検討その3 「橘(たちばな)」について

① 「たちばな」には、およそ3種の意味があります。即ち、植物の「たちばな(柑橘類の1種である橘)」と、地名の「たちばな」と、氏族名の「橘氏」です。「こじま」は小さい「しま」であり、「しま」には島以外の意味がありますが当面「島」と限定して検討します。

② 詞書は「題しらず」ですので、特別の情報は得られません。

 この歌の語彙での特徴は、格助詞「の」が4回用いられていることです。格助詞「の」は、連体格の助詞のほか、同格の助詞や主格の助詞などの意があります。

 先にあげた訳例では、連体格の助詞として、「の」に続く体言(または準ずる語句)にかかってその意味内容を限定している、と理解した例です。「山吹の花」の所在地を、下句は地理的に順に限定していると理解しています。

 また、この歌の動詞は「さきにほふ」の一個所であり、この個所の動詞は、連語とみなした一語あるいは連続する「さく」と「にほふ」の二語だけです。

③ 植物の「たちばな」に関しては、有名な歌があります。『猿丸集』の編纂者もよく知っているはずの歌です。

 1-1-139歌  題しらず     よみ人しらず

    さつきまつはなたちばなのかをかげば昔の人のそでのかぞする

 この歌以降(つまり『古今和歌集』編纂後)、植物の橘は懐旧の情、とくに昔の恋人への心情と結びついて詠まれることが多いとの指摘があります。この歌を前提として理解しようとすると、植物の「たちばな」は昔の恋人のいる小島(地名)という理解が可能となります。

④ 植物の「たちばな」の花の時期などは、上記3.⑥に述べました。 

この歌で、三句の「橘」という語句が植物の「たちばな」を指しているとすると、植物の「たちばな」がある「こじま」という地名あるいは普通名詞の「小島」という理解が可能です(「の」は連体格の助詞)。また、植物の「たちばな」が合せて何かを指す代名詞・略称でもあると理解すれば、植物の「たちばな」とともに「たちばな」とも呼ばれる場所である「こじま」という地名をも修飾しているという理解も可能です(「の」は連体格の助詞の意)。

 次に、この歌で「たちばな」が地名である(植物の「たちばな」の意を持っていない)とすると、詠われた頃の地名の「たちばな」は、諸氏によると当時由緒ある地の名でなかったようです。奈良文化財研究所の「古代地名検索システム」で検索すると、大和国に登録されている郷名が210山城国には112ありますが、「橘」、「立花」の郷名はありませんでした。ただ、武蔵国に「橘樹」の郷名が一つあり、その郡名も「橘樹」でした。また常陸国に「橘樹」の郷名が一つあり、郡名にはありません。下総国に郷名「橘川」が一つ、常陸に「立花」の郷名がひとつ各一郡にあり、伊予国に「立花」の郷名が三郡にありましたが郡名にはありませんでした。また、「小島」という郷名も山城国大和国にありませんでしたが、「埼」という字がある郷名は、山城国の山埼や但馬国の城埼を初めとしていくつもあり、丹波国には木前(きさき)という郷名もありました。(2018/10/29現在)。

山背国や大和国に、ごく小さなエリアの地名(郷のなかの集落名)として「橘」がある可能性はあります。

その「橘」という集落の中をさらに細分して「こじま」という地名(小集落)がある、ということを歌が示唆しているとすると、随分と作者にとり大事な思い出のある場所のようであり、それを詠い込んだ歌を『古今和歌集』の編纂者がここに採っているので、編纂者はその拘りを承知しているのではないかと、推測しますが、それにしては伝説などが伝わっていません。それよりも、「こじま」は普通名詞であって「ちいさい島(小島)」と理解したほうが素直であると思います。

⑥ 「小島」と呼べるようなものに、川の中州がありますが、池や沼の中に生じる島もそう呼ぶことが出来ます。「橘」という集落が池や沼や川に接していたと想定すれば、「橘のこじま」とは、「橘という集落近くを流れる川にある小さな中州(あるいは近くにある池や沼の中の小さな島)の意となります。「さき」を、先頭とか前方の意と理解すると、当該地に立った作者からみて遠くに位置するその島の先端・岸の意ではないか。突き出した陸地(岬)の意となるのは、「こじま」が地名の場合です。

山間部を出た川は、現在のような人工の堤防が無いので自然堤防自体を変化させながら色々な派川を生じさせます。当時の人々は、派川とその間の微高地や湿地帯や旧派川のところに出来た沼などのエリア(流水が現にある部分と耕作できない草原や荒れ地)を川と認識していたのではないでしょうか。ときに瀬となり淵となるとは、突然の流水により流れが変わるなど(派川の数が増減する)ことから生じます。また、川を表現するのに、特定の地名が用いられたり、同じ水系の川が通過する地の名をもったいくつもの通称名を用いたりしているのは今もあります。

⑦ 三句と四句に「橘のこじま」と表現されている「橘」という集落を平安京からも平城京からも近いところで探すならば、山城国では木津川と巨椋池周辺、及び大和国では大和川佐保川飛鳥川などが合流する周辺が候補地になるでしょう。

山背国や大和国以外に「橘」という集落を比定することも不自然ではありません。その場合は、官人として勤務した国にある地名として「橘」を歌に詠んでいることになり、この歌(1-1-121歌)が野の花としての山吹を懐かしんでいることから、この歌は離任にあたりあるいは帰京の途次においてその国を誉めている挨拶歌となります。さらに、よみ人しらずの挨拶歌であるので、入替可能な集落名の代表として『古今和歌集』編纂者が採用したのが「橘」であると推測すると、元資料の歌は、「橘」という地名に拘ることがなくなり、その勤務地にある地名に色々置き換えられて披露されていた歌ということになります。

⑧ 現在、立花が町名である市は愛媛県松山市や福岡県八女市などいくつかあります。

 「こじま」は、集落名として現在(町の名として)残っているところがあります(東京都調布市小島町や長崎県佐世保市小島町など)。ただ、「大字橘子字小島」があるかどうかはわかりませんでした。また、「さき」に「﨑・埼」の字があてられる地名は、茅ケ崎(市、旧町村名でもある)、龍ヶ崎(市、市内に龍ヶ崎町無し)、鎌倉市稲村ケ崎)などありますが、「○○の﨑」という地名は知りません。○○の鼻という地名は海に面して全国にいくつもあります。

⑨ 次に、この歌で、橘が氏族名の「橘氏」であるとすると、「こじま」は橘一族の誰かを指している、と理解することができますが、誰を指すのかわかりませんでした。詠うのであれば略称か通称かあだ名かとなっている可能性はありますが、「こじまのさき」という表現の意味がつかめないでいます。

また、弘仁13年(822年)に橘常主(奈良麻呂孫)が約70年ぶりの橘氏公卿となっています。さらに嵯峨天皇の皇后・国母壇林皇后となった橘氏の嘉智子に遠慮して、承和年間(834~848)ころ他系統の橘一族は椿氏とか二字の氏名としたり、地名も立花とか橘樹と二字化しています(『苗字の歴史』(豊田武)。また、大同4年(809)~嘉祥2(849)ころの天皇は、嵯峨天皇淳和天皇仁明天皇(父は嵯峨天皇、母は橘嘉智子)です。

このように、一旦地位を高めた氏族名が「橘」です。

この歌が、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代の歌であるとすると、大同4年(809)~嘉祥2(849)ころの作詠時点となり、地位が高まった頃の歌となりますが、『古今和歌集』など三代集が編纂された頃ならば橘氏への遠慮はなくなっていたかもしれません。

当時、和歌が、清濁抜きの平仮名で書き記されていたというので、『古今和歌集』では「たちはな」という表記であったとしても氏族名でこの表記に該当するのは「橘氏」しかないものの、「橘氏」という理解は「こじまのさき」で行き詰まってしまいました。

⑩ 以上の検討をまとめると、この歌で、「橘のこじま」の意は、

第一 植物の「たちばな」がある普通名詞の「小島」というよぶことができる場所

第二 植物の「たちばな」とあわせて「たちばな」と冠して呼ばれる「こじま」という地名あるいは普通名詞の「小島」

第三 昔の恋人のいる「こじま」という地名の場所。(この場合は初句と二句が三句の序詞と理解します。)

第四 郷名より小さい範囲を指す地名である「たちばな」の近くにある川の中州や池どの中の島

が候補となります。 

 ただし、これらの案は「こじま」の「しま」は島と仮定した検討結果です。

⑪ この4案を、作者が詠む場面は、第一と第二と第四の場合、上記⑦で検討した離任にあたりその国を誉めている挨拶歌を披露する宴席がまず浮かびます。また、単に山吹の花などが咲いている故郷を、詠った歌とすると、喜寿を機に集まった同窓会のような会合に可能性があります。そのような宴席が当時設けられたとすると、平城京(又は藤原京)に戻りたい天皇家の誰かが主催者の可能性があります。しかし、『古今和歌集』の歌としては、今の御代を賛歌するという観点から編纂されるでしょうから、このような経緯を皆が承知している歌は相応しくないでしょう。

第三の場合、恋歌として、おくる相手はどのような人になるのでしょうか。受け取ってもらえる人はどんな人でしょうか。詞書に事情を示唆してほしいところです。

このため、この歌は、上記⑦で検討した離任にあたりその国を誉めている挨拶歌、穏やかに地方が治まっているのを寿ぐ宴席で披露した歌ではないでしょうか。しかし、元資料の歌に関してはそうであっても、『古今和歌集』巻第二におく春歌としては、山吹に寄せた春の歌として第一に理解すべきであり、古今和歌集』巻第二における配列からの条件(上記2.の②参照)を満足するような理解で十分のはずです。

倒置法が一つの技巧であることに留意して現代語訳を試みたほうがよい、と思います。

 

5.類似歌の検討その4 現代語訳を試みると

① 先の現代語訳例は、初句「今もかも」の、「か」は疑問の助詞とし、二つ目の「も」は感動の助詞とか語気を強める機能を持つと理解しています。「か」には、そのほかに、「香」の意もあります。「今もかも」とは、「今も(あの)香も」、の意という理解です。

 春の歌として、花橘も山吹も意識した初句であってよい、と思います。

② この歌で、動詞は、二句にある「さきにほふ」の一個所(動詞句)しかありません。連語としては「美しく咲く」意ですが、「咲く」と「にほふ」の二語からなると理解すると、二語動詞があることになり、「咲く」ことと「匂う」ことの二つを「らむ」と推量している、という意になります。

 この動詞句の主語は、五句にある「(山吹の)花」と三句にある「橘」と初句にある「か」の3つがあることになります。主語はその一つであると限定しない理解が倒置法の語順により可能です。

 先の現代語訳例では、五句の「(山吹の)花」のみを「さきにほふ」と表現していると理解している例です。

 この歌は、『古今和歌集』の配列からは、山吹を題材にしている歌ですが、春の歌ですので、それに差し支えない限りは、この動詞句の主語がいくつあってもよい歌です。

③ 二句にある「さきにほふ」のは香りもある花橘であり、美しく咲くのは山吹である、と作者が認識していて春の歌として不自然ではありません。そのような花橘と同音の土地があれば、春の歌にとりいれて困ることはないでしょう。

④ 和歌には、山吹を「にほふ」と形容している歌が、三代集においてはこの類似歌(1-1-121歌)のほか1首(1-3-1059歌)あります。春風とともに詠んでおり香りを詠んでいるかに見えますがどうでしょうか。『貫之集』では句頭に「やまぶき」とある3首のうち2首が「にほふ」と詠んでいます。

⑤ 三句と四句にある「橘」と「こじま」は、上記4.で検討したように、4案ありますが、「第二 植物の「たちばな」とあわせて「たちばな」と冠して呼ばれる「こじま」という地名あるいは普通名詞の「小島」をベースにして、「第四にいうように 「こじま」は川の中州や池などの中の島」と理解したいと思います。

⑥ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「今も昔と変わらずに咲きそして香っているだろうなあ。あの花橘も。その橘と同音の地の近くを流れるあの川の小さな中州の先のところに繁茂している山吹の花も、勿論美しく咲いているだろうなあ。」(三句「橘」は植物と小集落の名をも指す)

 先の現代語訳の例とは、地名の比定地が朝廷の支配地全域に広がっている点も違うところです。

⑦ 三句の「橘」が諸氏のいうように地名であるならば、『古今和歌集』の編纂者が代表的地名として「たちばな」の地名を用いた歌にしたのではないか、と想像します。官人として地方勤務の官人の離任の際の歓送の宴席での挨拶歌が元資料の歌ではなかったか、という推測です。

例えば、伊予国を例にすると、

   1-1-121b  (現在の道後温泉周辺を念頭に)

温泉(ゆ)の郡こじまのさきに(「の」を変更)今もかもさきにほふらむ山吹の花

   1-1-121c  伊予国国分寺のある現在の今治周辺を念頭に)

桜井のこじまのさきに(「の」を変更)今もかもさきにほふらむ山吹の花

 

挨拶歌であれば、作者がなぜ懐かしんでいるのか、の理由がわかります。勤務した国の礼賛であり、在地の官人たちへの感謝の気持ちの表現です。

そして、橘という地名は、承和年間(834~848)ころ地名も立花とか橘樹と二字化しているとのことなので、古今和歌集』の編纂者の時代には旧名が「橘」の郷名や集落名があったのは知られていたことでしょう。当時、和歌は平仮名表記されている文学であったのですから、「橘」という文字の地名を探すのは不適切であったかもしれません。

⑨ 四句の「こじま」の「しま」を「島」と仮定して検討してきましたが、誤解ではないようです。

⑩ さて、類似歌の元資料の歌が詠われた(披露された)場所についてここまで保留してきましたが、上記現代語訳であるならば、挨拶歌・宴席の歌、となります。

 

6.3-4-34歌の詞書の検討

① 3-4-34歌を、まず詞書から検討します。

 この歌の直前の歌3-4-33歌の詞書にも山吹が登場しています。「やへやまぶき」と明記し、歌では「やまぶきのはな」と詠んでいますが、結局植物ではなく、山吹襲であり男が着用している下襲でした。そして、作者が植物の山吹の花を眼前にしている必然性がない歌でした。

この歌3-4-34歌では、詞書に「山吹の花(を見て)」と明記し、歌でも「やまぶきのはな」と詠んでいます。

 そして「(山吹の花を)見て」と詠むきっかけが眼前にある「やまぶきのはな」であることも明記しています。それが実際の花なのか又は描かれた花であるかはわかりませんが、目の前にある山吹の花が詠むきっかけであることをこの詞書は示しています。

③ 3-4-34歌の詞書の現代語訳を試みると、次のとおり。

「山吹の花を見て(詠んだ歌)」

 

7.3-4-34歌の現代語訳を試みると

① この歌は、類似歌とは、清濁抜きでほぼ同じです。同音異義の語句があるはずです。ここまでの『猿丸集』の歌は、男女の間の歌が大変多い。また、橘い関する有名な歌がありますのでそれらをヒントに検討すると、同音異義の語句の候補として、一文字が類似歌と異なる「たちばなのこじまがさき」が浮かんできます。

 「橘のこじまがさき」は、

 名詞で有名な歌を踏まえた「たちばな」+格助詞「の」+動詞「来」の未然形+打消し推量の助動詞「じ」の連体形+名詞「間」+格助詞「が」+名詞「先・前」

である、と思います。

② 名詞「先・前」は、「a先頭・先端 b前方 c以前・まえ d前駆(貴人の通行の際、前方の通行人などを追い払うこと また追い払う人)」(『例解古語辞典』)の意があります。

 1-1-139歌を前提にして「橘のこじま」は、凡そ、

 「(昔の恋人まがいになった)貴方が来ないであろう日々(間)の前駆(山吹の花が咲いた)」

という意ではないか、と思います。

③ 初句「いまもかも」は、「今も香も」の意であり、「さきにほふ」のは三句の「たちばな」です。初句と二句は三句の序詞とも理解できるところです。

 詞書にあるように「山吹の花を見て」詠んでいるので、山吹の花に関して「さきにほふらん」と推測することは無いでしょう。

 二句「さきにほふらむ」とは、「今も、香も(かぐわしいだろう)」、の意で、「たちばな」とともに1-1-139歌を想起させてくれます。

④ この歌は、春の歌ではなく、恋の歌の類なので、花が咲いているか香り豊かかは二の次であっても止むを得ません。

⑤ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「今もその香りが花色に合わせて立ち昇っているだろう橘に喩えたい貴方が、来ないであろう日々が続く前駆として山吹の花が咲きはじめたのでしょうか。」

⑥ この歌を付けて山吹の花を、作者は届けさせたのだと思います。女から誘いをかけた歌です。

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-34歌は、詠むきっかけが、目の前にある(実際の花か描かれた花である)山吹の花にあることを示しています。これに対して類似歌1-1-121歌は、「題しらず」という詞書からは詠むきっかけが不明です。

② 四句の語句が異なります。助詞が異なっており、この歌3-4-33歌は「こじまがさきの」であり、「来ないであろう日々が続く前駆として」、の意です。これに対して類似歌1-1-121歌は「こじまのさきの」であり、「小さな中州の先のところに」、の意です。

③ この結果、この歌は、1-1-138歌を踏まえて男にお出でを乞う歌であり、類似歌は、特定の土地の山吹を懐かしんでいる歌です。

 

9.和歌の理解のありかた

① このブログでは、『新編国歌大観』記載の表現で歌の検討することを原則としてきましたが、この歌の類似歌(1-1-121歌)では、その『新編国歌大観』記載の表現の三句にある「橘」という表現に拘りすぎました。

② 和歌において、三代集で「立花」と表現している歌は『新編国歌大観』にありません。和歌における「たちばな」はいつ頃から「橘」と表現するのが慣例になったのかは解明すべき事柄の一つと思います。 

和歌は、本来清濁抜きの平仮名表記されたものである、という原則に戻り、「平仮名」表記が地名を意味していると思われる歌の場合、その比定地は当時の地名表記の実際にあたって検討すべきであり、さらに念のために地名以外の可能性をも確認する手順は欠かせないと思いました。

③ この歌も類似歌も、同音異義の語句がいくつかありました。 これまでの歌でもそうでしたが、詞書を含めてその利用は、本来清濁抜きの平仮名表記でこそのものです。この点からも、清濁抜きの平仮名表記の歌として理解すべきことをこの歌で痛感したところです。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような仮名書きの歌です。

 3-4-35歌 あだなりける女に物をいひそめて、たのもしげなき事をいふほどに、ほととぎすのなきければ

    ほととぎすながなくさとのあまたあればなをうとまれぬおもふものから 

 

 3-4-35歌の類似歌:1-1-147歌 題しらず     よみ人知らず」  (『古今和歌集』巻第三 夏歌)

    ほととぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/29   上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第33歌 にほへるいろも

前回(2018/10/15)、 「猿丸集第32歌 見はやさむ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第33歌 にほへるいろも」と題して、記します。(上村 朋)

なお、付記を2項目2020/5/13追記した。

. 『猿丸集』の第33 3-4-33歌とその類似歌

① 『猿丸集』の33番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

  3-4-33歌  あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

     はるさめににほへるいろもあかなくにかさへなつかしやまぶきのはな

 

 類似歌 『古今和歌集』 1-1-122歌  題しらず    よみ人知らず」 巻第二 春歌下

     春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、歌は同じで、詞書が、異なります。

③ これらの歌は、「やまぶき」に寄せた歌であることは共通ですが、趣旨が違う歌です。

この歌は、心ならずも別れることになった際の恋歌であり、類似歌は、自然の花を目にして昔をしのぶ雑歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第二春歌下にあります。巻第一春歌上と同様に巻第二春歌下の歌の元資料の歌について検討すると、付記1のようになります(表は便宜上3分しています)。元資料が不明であった元資料歌は、詞書を省いて原則歌本文のみの歌として検討しています。

古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌を、春歌に関して現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、並べています。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))。で巻第二春歌下の並び順の1案を示しましたが、今回改めて検討した結果、次のように修正します。

第一の歌群 散る桜の歌群  1-1-69~1-1-89  1案に同じ)

第二の歌群 色々な花がさかんな歌群  1-1-90~1-1-104歌 (1案に同じ)

第三の歌群 色々な花が散る歌群 1-1-105~1-1-118歌 (1案を修正)

第四の歌群 藤と山吹による歌群 1-1-119~1-1-125歌 (1案を修正)

第五の歌群 春を惜しむ歌群 1-1-126~1-1-134歌 (1案に同じ)

② 巻第二春歌下を編纂するにあたり、『古今和歌集』の編纂者が、詞書や歌本文に手を加えたり配列に工夫している例を示すと、次のとおり。

1-1-73歌は、元資料の歌と文字が異なる部分があります。

1-1-99歌は、花や「ひともとのき」が具体的に何を指しているかが不定の歌です。花や萌え出る草を愛でる春にも、秋の花や紅葉を愛でる秋にもなり得ますが、配列により「ひともとのき」を梅の木と類推させています。

1-1-112歌は、「ちるはな」と詠います。歌の内容から時期を限定し難いところを配列により春の歌としています。

1-1-127歌は、元資料の歌の四句を手直しているが、二句「春たちしより」と四句「いるがごとくも」でも年の暮れとなったと理解した方がよい歌であるが、配列と詞書に春と明記することにより、「いるがごとくも」の意を春のみが過ぎる意にしています。

1-1-132歌は、元資料の歌が歌合における暮春という題での歌ですが、詞書に「やよひのつごもりの日」の出来事に関した歌であることを明記し、春の最終の日の歌としています。

③ 巻第二春歌下の歌はこのように5群からなると推測でき、この歌は、「藤と山吹による歌群 1-1-119~1-1-125歌」の歌群の四番目にある歌です。

④ その歌群の中の配列を検討します。 歌群の歌はつぎの歌です。

1-1-119歌 しがよりかへりけるをうなどもの花山にいりてふぢの花のもとにたちよりてかへりけるに、よみておくりける   僧正遍照

   よそに見てかへらむ人にふぢの花はひまつはれよえだはをるとも

1-1-120歌 家にふぢの花のさけりけるを、人のたちとまりて見けるをよめる     みつね

   わがやどにさける藤波たちかへりすぎがてにのみ人の見るらむ

1-1-121歌 題しらず     よみ人しらず

   今もかもさきにほふらむ橘のこじまのさきの山吹の色

1-1-122歌 類似歌

1-1-123歌 題しらず     よみ人しらず

   山ぶきはあやななさきそ花見むとうゑけむ君がこよひこなくに

1-1-124歌 よしの河のほとりに山ぶきのさけりけるをよめる     つらゆき

   吉野河岸の山吹ふくかぜにそこの影さへうつろひにけり

1-1-125歌 題しらず     よみ人しらず

   かはづなくゐでの山吹ちりにけり花のさかりにあはましものを

(参考:次の歌群の最初の歌) 1-1-126歌 春の歌とてよめる     そせい

   おもふどち春の山辺にうちむれてそこともいはぬたびねしてしか

 

⑤ 諸氏の現代語訳を参考にすると、その歌群の各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、付記1.の表3参照) 

 1-1-119歌 咲いた藤だけ見て帰るなら、藤よ、まといつき、主に挨拶せよと迫れ。

    元資料の歌は挨拶歌と推定

 1-1-120歌 私の家に咲いた藤の花を引き返してまで見てくれているよ、私には用がないようだ。

    元資料の歌は挨拶歌と推定

 1-1-121歌 今もかわらずあの山吹は咲いているだろうか。 (3-4-34歌の類似歌。仮訳)

    元資料の歌の推定は保留中(3-4-34歌の検討時推定予定。)

 1-1-122歌 春雨により色鮮やかになりさらに香りまで心惹かれるよ、山吹の花は。 

(検討対象の類似歌。仮訳)  元資料の歌の推定は保留(下記4.にて推定予定)

 1-1-123歌 山吹よ咲くのを待て。植えた当人が今夜も来ないのだから。

    元資料の歌は相聞歌と推定

 1-1-124歌 吉野河の岸辺の山吹は澄んだ水底の影もろともに散った。

    元資料の歌は屏風歌bと推定

 1-1-125歌 井手の山吹は散ってしまった。見たかったけど。

    元資料の歌は哀傷の歌又は相聞歌と推定

 (参考)1-1-126歌 気心の知れた者と、春の山辺にゆきあたりばったり旅寝をしたいよ。

    元資料の歌は屏風歌b・外出歌と推定

⑥ 藤に寄せた1-1-119歌と1-1-120歌は、花の主が無視された歌となっています。

山吹に寄せた1-1-121歌~1-1-125歌は、1-1-122歌を除き、作者の近くで山吹が咲いていません。1-1-122歌もそのような山吹であるかもしれません。

歌群としてみると、愛でてきた春が通り過ぎてゆくのを二つの植物に寄せて詠っているかに見えます。しかし、各歌の元資料の歌は同一の場で詠まれた歌ではありませんし、『古今和歌集』においてもそのようなことは詞書にありません。類似歌はこの歌群にある独自の歌として理解してよい、と思います。

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

降る春雨に洗われて鮮やかに映えている色だけでも見あきないのに、さらにその香りにまで心をひかれることであるよ、この山吹は。」(久曾神氏)

「春雨にうたれ、ひとしお鮮やかになった色だけでも十分鑑賞に堪えるものだが、この山吹の花は香りまでも人をひきつけるものだ。」(『日本古典文学全集7 古今和歌集』)

② 「なつかし」について、前者では「心がひかれる、慕わしい」と説明し、後者では「四段動詞「なつく」の形容詞化したもの。そのものに対してしぜんとなつきたる意」と説明しています。

③ 「雨中の花」詠は、日本の漢詩にみられ、その源は白居易に求められるという。花の魅力を色と香の双方から捉えている歌だそうです。

④ 五句の「山吹の花」は、前後の歌と違い、「この山吹」と限定し、面前にあるものとして訳されています。

この歌群が、愛でてきた春が通り過ぎてゆくのを詠った歌であるならば、上記の現代語訳の例は不足があります。

 

4.類似歌の現代語訳を試みると

① 初句「春雨に」の「に」は、格助詞です。ひろく物事が存在し、動作し、作用する場を示し、また動作・作用の起こる原因・理由を示すなどの意があります(『例解古語辞典』)。上記の現代語訳例では、後者の意でした。

② 二句「にほへる色も」の「る」は完了の助動詞「り」の連体形です。その意は、「動作・状態等が引き継き継続している」意のほか「動作・作用がすでに終わっている」意などもあります。

上記3.の現代語訳例では、前者の意として「この山吹は」と訳され、作中の主人公の目の前に山吹がある、として訳されています。

そして、「も」は係助詞であり、類似の何かを前提に作中の主人公は「色も」と詠っていることになります。

それを推測してみます。四句の「か」が「香」であれば、山吹に関する何かがその候補です。「か」も候補の一つですが、「色も・香さへ」という表現からは、その外のことにも作中の主人公は意識がある印象です。「沢山あるなかで、香までもが」、の意が「(か)さへ」であろうと思います。

そのため、候補としては、山吹の花が(1本あるいは群生して)咲いている容姿か、山吹の若葉の頃か、何かと組み合わせとなっている山吹(誰かの賀の宴・行事などでの山吹)か、などが考えられますが、「色」と「香」と並べるものとしては、山吹の花の咲いている容姿(群生も含む)が第一候補ではないでしょうか。

③ 四句にある「なつかし」は、形容詞「懐し」であり、「心がひかれる・慕わしい」と「昔のことがしのばれて慕わしい・なつかしい」の意があります(『例解古語辞典』)。上記の現代語訳例では、前者の意でした。

④ 即ち、咲き競う形もよく、色彩もよく、そのうえ香も「なつかしい」、そういう花が山吹だ、という歌に思われます。五句の「山吹の花」の「花」は、時期を特定しており、「山吹の花」とは、「花が盛んな時期の山吹(の群生)」の意です。

 また、「山吹」は、男性の官人が着用する下襲(かさね)の配色の組み合わせの一つであるほか、その配色の組み合わせによる下襲(「山吹襲(かさね)」の略称でもありますので、「山吹襲(かさね)を着用した人物を示唆しているかもしれません。(付記3.参照)

 香りとは、「山吹襲(かさね)」を着用している人物が衣服にたきこめた香りを指しているとみることも可能です。

⑤ これらの検討と、この歌群に置かれている歌の一つであるということに留意し、題しらずのこの歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「(咲き乱れているところもそうだが)春雨によってひとしおあざやかになっていた色も、なおも心がひかれる。そしてその香りは昔のことがしのばれて慕わしい。それが(私の思い出にある)山吹の花だ。(慕わしかった山吹襲(かさね)を用いていた人に結びつく山吹なのだ。)」

⑥ 『古今和歌集』の編纂者が、歌群を構成する一首にこの歌を採用しているので、この歌を単独に鑑賞するのではなく、歌群の歌との整合を考えざるを得ません。この歌の山吹は、作中の主人公が何かに触発されて思い出した(以前親しんだ)山吹であろう、と思います。

作者は男であって、特定の女を思い起こしている歌とも理解可能です。

この歌(1-1-122歌)の山吹も、他の歌と同様作者の近くで咲いていないことになりました。

⑦ さて、保留していた、元資料が詠われた(披露された)場所の推定をします。

元資料が不明なので、歌本文より推定することになります。『古今和歌集』の巻第二春歌下に配列された歌の意は、上記⑤のとおりであるものの、元資料の歌としては、上記⑤以外に、先の現代語訳例の意も可能です。『古今和歌集』の編纂者が配列により、意を転換したとみれば、先の現代語訳例が、元資料の歌の意となるでしょう。

 この場合、元資料の歌が披露されたのは、晩春の山吹を目前にした宴席とか(あまり高貴でない臣下が主催するような)私的な歌合も候補となります。山吹を手折って女に送った際の挨拶歌ではないと思います。

 元資料の歌も、上記⑤の意であるとすれば、山吹を目前にしない宴席も候補となります。

5.3-4-33歌の詞書の検討

① 3-4-33歌を、まず詞書から検討します。

② 「やへやまぶき」は、栽培種であり、結実しません。実らぬ恋の象徴にも歌われています。

 例)2-1-1864歌:春雑歌のうちの詠花(1858~1877)の一首

はなさきて みはなれねども ながきけに おもほゆるかも やまぶきのはな

(花咲きて実は成らねども長き日(け)に思ほゆるかも山吹の花。)

やまぶきは、低山地などに自生し水辺を好み、晩春から夏にかけて鮮やかな黄色の花を咲かせる花であり、『萬葉集』に17例あります(『万葉ことば事典』)。

③ 詞書では「やへやまぶき」と品種を特定していますが、歌では「やまぶき」と詠っています。歌にいう「やまぶき」は「やへやまぶき」の意であることを示唆している表現です。なお、類似歌の検討で、「山吹襲(かさね)」の略が「山吹」でもあると指摘しました。 「やへやまぶき」が実らぬ恋の象徴となっていることを承知している『猿丸集』編纂者は歌のなかの「山吹」に重ねているのではないか、と思います。

④ 「人のがりやるとて」とは、理解に2案があります。

名詞句「人のがり」+動詞「やる」+格助詞「とて」、あるいは、名詞「人」+複合動詞「のがりやる」+格助詞「とて」の2案です。

 名詞句案は、名詞「人」と下二段活用の動詞「逃(の)がる」より成っています。動詞「逃がる」の活用形に「逃がり」はありません。「遠くへ去る」意の「のがる」を、「遠くへ去らせる」意に転じてここで四段活用(下二段活用ではないという意思表示)化したのが名詞句「人のがり」である、という推論です。この場合、「やる」は動詞となります。その意は、「行かせる。送る。逃がす」があります。

複合動詞案は、動詞「のがる」と動詞「やる」を連ね、作者が逃がそうとしている意を強めようとしたという推論です。ここでも動詞「のがる」は活用型を変えて、多動的な意味を加えようとしています。(補助動詞「やる」は、動作が進む意を表わしますが、普通は否定形で用いるそうなので案の作成に至りませんでした。)

詞書の文言としては、「人のがりを、やる」という表現より、「人を、逃しやる」のほうがスマートに思えます。ここでは複合動詞案で検討を進めることとします。

 「人のがりやるとて」とは、「相手の人を、逃がそうとして」ということになります。作者でもある作中の主人公が「逃げさせる」の意ですから、相手の人は男であり、この歌の作中の主人公は女です。

⑤ 「をりて」とは、「山吹」が植物のみを指しているとみれば、「花を折って」の意となります。「山吹」が「山吹襲」の略とみれば、男が着用している「襲(下襲)を折りたたんで」の意となります。

下襲は、外を歩く時は畳んで石帯にはさみ室内では長く引き、着座の時は畳んで後に畳んでおく(簀子では高欄にかける)という使い方をする衣服であり(付記3.参照)、「をりて」とは、「急いで逃げ支度を手伝って」の意ともなります。

⑥ 3-4-33歌の詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「雨が降っていた日に、(八重山吹のようなことになり)山吹襲を折って、ある人を(その場から)逃げさせる、と(その人に)言って詠んだ(歌)」

 

6.3-4-33歌の現代語訳を試みると

① 二句の「にほへるいろも」の「いろも」は、理解に2案あります。

第一案は、名詞「色」+係助詞「も」です。

「にほふ」は、a色に染まる、b色が美しく輝く・美しくつややかである、cよいかおりがする。の意があります。「色」は、「a美しさ・華美、b豊かな心・情趣、c恋愛・情事、d顔色・態度、」などの意があります。

二句「にほへるいろも」は、詞書を前提にすると、「色が美しく輝くような情趣・恋愛も」の意、つまり、「美しく輝くように甘美な夜となるはずの逢う瀬も」の意となります。

第二案は、接頭語「いろ」+「妹」です。

「いろ」は接頭語として親族を示す名詞に付いて母が同じであることを示します(『明解古語辞典』では、上代語で、同じ母から姉または妹の意、との説明があります)。

だから二句は、動詞「にほふ」の命令形+完了の助動詞「り」の連体形+名詞「いろも」であり、「美しくつややかである同母妹」、「若々しく美しい同母妹」の意となります。

② 三句「あかなくに」とは、連語です。その意は類似歌と同じでしょう。

③ 四句「かさへなつかし」にも2案の理解が有り得ます。

 形容詞「懐かし」は、上記4.④に示したように「a心がひかれれる・慕わしい・いとしい b昔のことがしのばれて慕わしい」の意があります。

第一案は、「笠+へ+懐かし+(やまぶきのはな+が+(かかる))」であり、

「笠へ心がひかれるところの(やまぶきのはながかかる)」、の意であり、五句の「やまぶきのはな」を修飾します。しかし、下襲を着ている状態の官人は、笠よりも冠を被ります。

第二案は、「香+さへ+懐かし」 、であり、類似歌がこの案です。

⑤ 以上の検討を踏まえ、また詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「春雨に閉じ込められたので、美しく輝くような甘美な夜となり逢う瀬も十分に楽しめたのに。(急ぎこの場を去ることになってしまった)貴方の残り香にさえ心がひかれる。山吹襲を召した貴方。」

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-33歌は、詠う状況を明らかにしており、類似歌1-1-122歌は「題しらず」で何の情報も与えてくれません。配列から、春の歌とわかるだけです。

② 二句「にほへるいろも」の意が、異なります。この歌は、「美しく輝くような夜となるはずの逢う瀬も」の意であり、これに対して、類似歌は、「ひとしおあざやかになっていた(山吹の花の)色」、の意です。

③ 五句にある「山吹の花」の意が異なります。この歌は、詞書より「逃れさす人」を指し、類似歌は、自然界の花のみを指します。

⑤ この結果、この歌は、心ならずも別れることになった際の恋歌であるのに対して、類似歌は、自然の花を目にして昔をしのぶ雑歌となっています。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-34歌 山吹の花を見て

   いまもかもさきにほふらんたちばなのこじまがさきのやまぶきのはな

3-4-34歌の類似歌: 1-1-121歌   題しらず     よみ人知らず  (巻第二 春歌下)

    今もかもさきにほふらむ橘のこじまのさきの山吹の花

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/22   上村 朋)   

付記1.古今集巻第二春歌下の元資料の歌の判定表 

① 古今集巻第二春歌下に記載の歌の元資料の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」(2018/9/3)の本文の「2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法」に準じて判定を行った結果を、便宜上3表に分けて示す。

② 表の注記を記す。

1)歌番号等とは、「『新編国歌大観』記載の巻の番号―その巻での歌集番号―その歌集での歌番号」である。

2歌番号等欄の*印は、題しらずよみ人しらずの歌である。

3)季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。(付記2.参照)

4)視点1(時節)は原則季語により新年、初春、仲春、晩春、三春に区分した。

5)視点3(部立)は『古今和歌集』の部立による。

6()書きに、補足の語を記している。

7)《》印は、補注有りの意。補注は表3 の下段に記した。

8)元資料不明の歌には、業平集、友則集、素性集及び遍照集の歌を含む。元資料の歌も『新編国歌大観』による。

 

表1 古今集巻第二春歌下の各歌の元資料の歌の推定その1 (2018/10/22   11h現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

花の状況

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-69*

春霞 さくら花

色かはりゆく

晩春

元資料不明

宴席の歌《》

春 

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-70*

ちる

晩春

元資料不明(素性集第10歌)

宴席の歌・相聞

春&恋 

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-71*

桜花

ちる

晩春

元資料不明

宴席の歌

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-72*

さくら花

ちりのまがい

晩春

元資料不明 

宴席の歌

春 

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-73*

花ざくら《》

ちりにけり

晩春 

寛平御時后宮歌歌合(第9歌)《》

歌合

春&雑 

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-74

さくら花

ちらば

晩春 

元資料不明(古今集の詞書を信じる)

挨拶歌

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-75

桜 花 春 雪

ちる

晩春

元資料不明

宴席の歌・挨拶歌《》

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-76

ちる

晩春

《》

元資料不明(素性集第11歌)

宴席の歌・挨拶歌《》

知的遊戯強い(花は梅又は桜)

1-1-77

さくら

ちりなむ

晩春

元資料不明(素性集第40歌)

宴席の歌・挨拶歌《》

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-78

桜花

ちる

晩春

元資料不明(貫之集になし)

挨拶歌

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-79

春霞 桜花

ちる

晩春 

元資料不明

宴席の歌

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-80

春 桜

うつろふ

晩春 

元資料不明

挨拶歌

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-81

ちる

晩春 《》

元資料不明(古今集の詞書を信じる)

下命の歌

知的遊戯強い(花は桜)《》

1-1-82

さくら花

さかずやあらぬ

晩春

元資料不明(貫之集に無し)

宴席の歌・下命の歌《》

春 

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-83

さくら花

ちる

晩春 

元資料不明(貫之集に無し)

宴席の歌・下命の歌

春 

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-84

春 花

ちる

晩春

元資料不明(友則集第6歌)

下命の歌・宴席の歌《》

春 

知的遊戯強い(のどけき春で花は桜) 

1-1-85

春風 花

うつろふ

晩春

元資料不明(輿風集(第1歌)《》

下命の歌

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-86

雪 さくら花

ちる

晩春 

元資料不明(躬恒集に無し)

下命の歌

春 

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-87

さくら花

・・・

晩春 

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌

知的遊戯強い(花は桜) 

1-1-88*

春雨 さくら花

ちる

晩春 

元資料不明

下命の歌 《》

知的遊戯強い(花は桜)

1-1-89

さくら花

ちる

晩春 

亭子院歌合(第37歌 題は春)

歌合

知的遊戯強い(花は桜)

 

表2 古今集巻第二春歌下の各歌の元資料の歌の推定その2 (2018/10/22  11h現在)

歌番号等

歌での(現代の)季語

花の状況

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-90

さく

晩春 

元資料不明(古今集の詞書を信じる)

挨拶歌

春&雑 

知的遊戯強い(花は梅か)

1-1-91

花(の色) 春(の山かぜ)

・・・

晩春 

寛平御時中宮歌合(第6歌 題は春)

歌合

春  

知的遊戯強い(花は梅か。香を詠う) 

1-1-92

春(たてば) 花(の木)

うつろふ

初春 (春立つによる)

寛平御時后歌合(第7歌 題は春歌) 

歌合

春 

知的遊戯強い(掘ってくる花の木は梅)

1-1-93*

春(の色) 花

さけるさかざる

晩春 

元資料不明

相聞歌 

春&恋

知的遊戯強い(花は草木の種々な花)

1-1-94

春霞 花

さく

晩春 

元資料不明(貫之集に無し)

屏風歌b

春 

知的遊戯強い(人目に触れない花。桜や梅ではない) 

1-1-95

春(の山辺) 花(のかげ)

・・・

晩春 

元資料不明(素性集第13歌)

挨拶歌・宴席の歌

春  

知的遊戯強い(樹木の花。桜又は梅。) 

1-1-96

ちらず

晩春

元資料不明(素性集第14歌)

下命の歌

春  

知的遊戯強い(花は野辺の花。桜ではない。) 

1-1-97*

春 花

さかりはありなめど

晩春

元資料不明

相聞歌・宴席の歌

春&恋 

知的遊戯強い(よみ人しらずの古い歌なので梅。) 

1-1-98*

・・・

晩春

元資料不明

宴席の歌

春&雑 

知的遊戯強い (春の花全般)

1-1-99*

無し

・・・

三春

《》

元資料不明(素性集第39歌)

宴席の歌

知的遊戯強い(独立樹なので梅)

1-1-100*

花 うぐひす

(花を)をりて

三春 

元資料不明

相聞歌

春&恋

知的遊戯強い(花はうぐひすの寄る梅)

1-1-101

(さく)花 はる

さく

晩春

寛平御時后歌合(第18歌 題は春歌)

歌合

知的遊戯強い(春の花全般)

1-1-102

春霞 花

(花の)かげ

晩春

寛平御時后歌合(第37歌 題は春歌)

歌合

春 

知的遊戯強い(春の樹木の花全般)

1-1-103

霞(立つ) 春(の山べ) 花(のか)

(花の)かぞする

晩春

寛平御時后歌合(第29歌 題は春歌)《》

歌合

春 

知的遊戯強い(春の種々な花の香を詠む。《》)

1-1-104

・・・

晩春

元資料不明(躬恒集に無し)

相聞の歌

春&

恋 

知的遊戯強い(花は梅又は桜)

 

表3 古今集巻第二春歌下の各歌の元資料の歌の推定その3 (2018/10/22  11h現在

歌番号等

歌での(現代の)季語

花の状況

視点1(時節)

元資料と 視点2(詠われた場)

視点3(部立)

視点4 (作詠態度)

1-1-105*

うつろふ花 うぐひす

うつろふ

三春

元資料不明

外出歌 

春 

知的遊戯強い(花は種々な樹木の花) 

1-1-106*

花 うぐひす

てだにふれたる

三春《》

元資料不明 

宴席の歌

知的遊戯強い(花は春の草木の花)

1-1-107

花 うぐひす

ちる

三春《》

元資料不明

下命の歌《》

春 

知的遊戯強い(花は梅) 

1-1-108

花 春霞(たつ) うぐひす

ちる

晩春

仁和中将御息所の家の歌合《》

歌合

知的遊戯強い(花は桜)《》 

1-1-109

花 

ちる

三春

元資料不明(素性集第15歌)

屏風歌b

春 

知的遊戯強い(鳴くのはうぐひすか。花は梅。)

1-1-110

花 うぐひす

ちる

初春(梅による)

躬恒集第375歌

宴席の歌

春 

知的遊戯強い(花は梅) 

1-1-111*

花 雪

ちる

 晩春《》

元資料不明

外出歌・宴席の歌

春 

知的遊戯強い(花は春の花々)

1-1-112*

ちる

 晩春《》

元資料不明

宴席の歌 

春&雑 

知的遊戯強い(花は梅か桜)《》

1-1-113

花(のいろ)

うつる

晩春(花による)《》

元資料不明

宴席の歌・挨拶歌《》 

春&雑 

知的遊戯強い(花は花全般。秋の花でもよい)《》

1-1-114

ちる

晩春

仁和中将御息所の家の歌合(素性集第16歌)《》

歌合

春 

知的遊戯強い(花は花全般。秋の花でもよい)

1-1-115

はる(の山辺) 花

ちる

晩春

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌・外出歌

知的遊戯強い(花は山桜)

1-1-116

春のの わかな 花 

ちりかふ

初春 

寛平御時后宮歌合(第8歌 題は春歌)(貫之集に無し)

知的遊戯強い(春の草木の花。桜に限らない。)

1-1-117

春(の山辺) 花 

ちる

晩春 

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌・宴席の歌

知的遊戯強い(夢中の花なので春の草木の花)

1-1-118

見ましや

晩春 

元資料不明(寛平御時后宮歌合にも貫之集にも無し)

歌合《》

春 

知的遊戯強い(人に知られぬ花。第一が山桜)

1-1-119

ふぢの花

はひまつはれ 

晩春 

元資料不明(遍照集第33歌)

挨拶歌

春 

知的遊戯強い(花は藤)

1-1-120

藤波

さく

晩春 

元資料不明(躬恒集に無し)

挨拶歌

春 

知的遊戯強い(花は藤)

1-1-121*

山吹の花

にほふ

晩春 

元資料不明

保留(当該猿丸集歌と一緒に検討)

春 

知的遊戯強い

(猿丸集の類似歌 花は山吹)

1-1-122*

春雨 山吹

にほふ

晩春 

元資料不明

保留(本文4.で検討)

春 

知的遊戯強い(猿丸集の類似歌 花は山吹)

1-1-123*

山ぶき 花 

なさきそ

晩春 

元資料不明

相聞歌

春&恋

知的遊戯強い(花は山吹)

1-1-124

山吹

うつろふ

晩春

元資料不明(貫之集に無し)

屏風絵b

知的遊戯強い(花は山吹) 

1-1-125*

花 山吹

ちる

晩春

元資料不明

哀傷の歌・相聞歌 《》

春&哀傷 

知的遊戯強い(花は山吹)

1-1-126

春(の山辺

 

三春

元資料不明(素性集第17歌)

屏風歌b・外出歌

知的遊戯強い(春の草木の花)

1-1-127

はる(たち)

 

初春(はるたつによる) 《》

躬恒集(第358歌)

屏風歌b・挨拶歌 《》

春&雑 

知的遊戯強い(花を詠んでいない)

1-1-128

花 うぐひす

無きとむる(花)

晩春

元資料不明(貫之集に無し)

挨拶歌

知的遊戯強い(やよひの花は梅以外の樹木の花) 

1-1-129

花 春

ちる

晩春 

元資料不明(深養父集第4歌)

外出歌

知的遊戯強い(春の山の花の第一候補は山桜)

1-1-130

春霞(たつ)

 

三春 《》

左兵衛佐定文歌合

(第5歌 題は暮春)

歌合 

春 

知的遊戯強い(花を詠っていない)

1-1-131

うぐひす 春

 

三春 《》

寛平御時后宮歌合(第4歌 題は春歌)

歌合

知的遊戯強い(花を詠っていない)

1-1-132

ちる

晩春

左兵衛佐定文歌合(第6歌 題は暮春) 《》

歌合

知的遊戯強い(春の草の花)

1-1-133

年の内 春

 

三春《》

元資料不明(業平集第5歌)

挨拶歌

知的遊戯強い (花は不定

1-1-134

春 

花(のかげ)

 

三春《》

亭子院歌合(第40歌 題は春)

歌合

知的遊戯強い(春の花だが不定) 

補注

1-1-69歌:この歌は、賀の祝いの席に飾る屏風の歌ではない。手折って友におくるのに付けた歌でもない。桜を愛でる宴席の歌である。》

1-1-73歌:諸氏が同じ歌としている寛平御時后宮歌歌合第9歌を元資料の歌とした。元資料はうぐひすを詠っているが『古今和歌集』編纂者は初句と二句に手を入れている。「うつせみ」は、人間の意で季語とはとらない。》

1-1-75歌~1-1-77歌:古今集での作者名を信じると、これらの歌は、出家前より知り合いの人の集いでの歌であるか、訪問時の挨拶歌である。》

1-1-81歌:①東宮に関わる歌との古今集の詞書を信じる。②そのため歌中の花は桜》

1-1-82歌&1-1-84歌:①花を愛でる宴席の歌か。②古今集の詞書で「・・・をよめる」とある歌は、屏風歌や題詠となる歌合の歌が多々ある。賀の要素が無いので下命の歌か。》

1-1-85: 古今集での作者名はよしかぜ。②東宮に関わる歌との古今集の詞書を信じる。》

1-1-88歌:元永本の古今集では歌合用の歌となっている。》

1-1-99歌:季語がないので、花でも紅葉でもよい歌。「ひともと」の木に注目して詠っていること、古今集のよみ人しらずの時代の歌とみえ、「ひともと」を庭木とし梅と推測した。》

1-1-103歌:元資料(寛平御時后宮歌合)の第1歌は、「花のか」と「うぐひす」を詠う。第9歌は「うぐひす」と「さくら花」を詠う。第15歌は花とうぐひすを詠う。この歌の「花」は山辺に梅が自生していないと推定し、種々な樹木の花。》

1 -1-106歌&1-1-107歌:うぐひすは三春であるので、花は春の樹木の花。季語の「花」からは時節が晩春となるが、三春とする。》

1-1-107歌:古今集の作者名を信じると、出仕中の即興歌か。そのため下命の歌とした。》

1-1-108: ①この歌合の記録は現存しないが古今集の詞書を信じる。 ②『萬葉集』にはたつたのやまの桜を詠んだ歌があり、たつたのやまの梅を詠んだ歌はない。

1-1-111:よみ人しらずの歌であり、花は春の花々。季語の花により晩春としたが、歌からは三春。》

1-1-112歌:季語の花により晩春としたが、秋の花でもよい歌。》

1-1-113歌:①古今集の作者名を信じないとすると、二句の「うつる」を「花が散る」意として、この歌の作中の主人公は、老いてもまだ願っていた位階等に届かない男であってもよい。除目に漏れた時の歌とすれば春ならば花は梅、秋ならば撫子や菊などになる。②このような自省の歌・述懐の歌は、男ならば親しい人に挨拶時に披露するか自虐の歌として宴席の場で披露するか、であり。女性ならば、挨拶歌か。》

1-1-114歌:この歌合の記録は現存しないが古今集の詞書を信じる。

1-1-118歌:歌合の歌であるという古今集の詞書を信じる。

1-1-125歌:誰かの死か悲恋に終わった歌と推定した。》

1-1-127:季語から時節は初春としたが、年末の詠とみて冬の時節でもよい。また、四句が躬恒集は「いにしがごとも」、古今集は「いるがごとくも」。》

1-1-130歌:季語(春)から三春としたが、元資料の題によれば晩春となる。》

1-1-131歌:季語(春)から三春としたが、三句四句によれば晩春・三月の末となる。》

1-1-132歌:元資料の詞書は暮春。》

1-1-133歌:季語(春)から三春としたが、四句によれば晩春・三月の末となる。》

1-1-134歌:季語(春)から三春としたが、上句によれば晩春・三月の末となる。》

(補注終り)

付記2俳句での春と新年の季語(季題)について 

① 『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)は、春の季語を春(立春から立夏の前日まで)の全体にわたる季題(三春)と、季の移り変わりにより初仲晩に分かれる季題に分類している。別に新年の部類を設けている。

② 夏の季語の例を示す。

三春:(春・朝)かすみ、春(べ)、春(の日・の月・の野)、春雨、うぐひす、ももちどり、春の鹿、東風、おぼろ月、摘み草

初春:春立つ、春来、梅、奈良の山焼き(お山焼き・嫩(わか)草山焼き)、野焼く

仲春:紅梅、木の芽、初花、初桜、辛夷(こぶし)、鳥かへる、かへるかり

晩春:花、花の陰、月の花、(山・八重・里)桜、花の雪、桃の花、わかくさ、(青)柳、若緑(松の新芽を言う)、松のみどり、緑立つ、藤、山吹、つつじ、花見

③ 春とは別のくくりとなる新年の季語の例を示す。

新年:こぞことし、新年、初春、若菜(冬の七草をいう)、若菜野(七草の生えている野をいう)、七種(粥)、初比東風」

④ そのほかの季節の季語の例を示す。

三夏:青葉、滝、涼し

初夏:緑、新緑、若葉、葉柳、夏柳、葉桜、卯の花

仲夏:花橘、柿の花

晩夏:橘、かぐのみ、蝉、空蝉

晩冬:(けさ)の雪、氷、雪あかり」

⑤ 「よぶこどり」は季語としていない。

⑥ これは、現代における認識である。『古今和歌集』巻第三夏歌の巻頭歌は、藤とホトトギスを詠い、二首目には卯月に咲いた桜を詠っている。

 

付記3.山吹と襲とについて

① 『例解古語辞典』や『王朝文学文化歴史辞典』(2011笠間書院)』やウィキペディアなどによれば、山吹の意はいくつかある。

第一 植物の名

第二 「山吹襲(かさね)」の略。襲の色目の名。表は薄朽葉(うすくちば)色、裏は黄色。春に着用する。襲とは、下襲の略で男が「袍」の下に着る裾の長い衣服。

第三 色の名。ヤマブキの花のような色。黄色・黄金色。

② 男の官人は、養老令の『衣服令』に基づき、朝服を着て儀式に参列・公務を行う。朝服は、平安時代になり束帯と称するものに落ち着いた。束帯の基本構成は、冠・袍・半臂(はんぴ)・下襲・衵(あこめ)・単(ひとえ)・上袴・大口・襪(ばつ)・石帯・魚袋・太刀・平緒・履(くつ)・笏(しゃく)からなる。

一番上の衣服が袍であり、袍の上から石帯を締める。袍のしたに半臂(はんぴ)を着て、その下に下襲をつける。

半臂(はんぴ):丈が膝上あたりまで、袖のごく短い垂領(たりくび)で腋を縫ってある。

下襲は垂領(たりくび)の衣。袴の上に付ける。丈は初め身長と同じであった後ろ身が次第に長くなり裾をひくようになった、天暦元年(947)の倹約令で長さを定めているが大臣で「身長+1尺」とある。外を歩く時は畳んで石帯にはさみ室内では長く引いた。着座の時は畳んで後に畳んでおいた(簀子では高欄にかけた)。袍と異なりあまり制限はなかったようであり、材質や色も様々である。

③ 衣服の色は、位階により定めが養老令の『衣服令』にある。深紫から、深緋、浅緑を経て浅縹(あさはなだ)まで8色ある。一番外側の衣服となる袍に関する色の定めである。

 男の場合、『衣服令』に下襲の色について定めはなかったので、種々な配色の例がある。下襲がその植物名で略称されていることがある。(『枕草子』「下襲は」の段参照) 

④ 『例解古語辞典』によれば、「かさね」とは、「重ね。襲。a下襲(かさね)の略。男性が袍の下に着る、裾の長い衣服。b衣服の上着と下着がそろったもの。c衣服を重ねて着るときの、裏と表の配色。例えば「やまぶき」は面はうすくちば色、裏は黄色で春に着用。」

⑤ 色の名は、色目(いろめ。十二単などにおける色の組み合わせ)にもある。衣を表裏に重ねるもの、複数の衣を重ねるもの、経糸緯糸の違いによるものなどがある。

代表的なものは表裏に重ねるものでこれをとくに襲の色目(かさねのいろめ)という。色目の名は多く季節の風物にちなみ、紅梅、桜、山吹、朽葉、松などの植物名、玉虫色などの昆虫名、氷、初雪などの地象などによる他、白襲、赤色などの色名、枯野など景物にちなむものがある。同じ組み合わせを季節によって違う名で呼ぶこともある。

(付記終り。2018/10/22   上村 朋)

 

付記の追記その1:第三の歌群 色々な花が散る歌群 1-1-105歌~1-1-118歌 (1案を修正)について

① この歌群にある1-1-115歌~1-1-118歌(いずれも作者はつらゆき)は特異な歌群として諸氏が論じている。

佐田公子氏は、『『古今和歌集』論 和歌と歌群の生成をめぐって』(笠間書院 2016/11)において、散華という宗教的イベントや『維摩詰所説経観衆品本七』の天女の散華の逸話が下敷きにある、と論じている(40~61p)。同じ逸話による『白氏文集』3283詩などもある。

1-1-115歌に『維摩詰所説経観衆品本七』の一節により、女性たちを散る花にみたてた、と指摘している。氏の通釈等つぎのとおり。

1-1-115歌:通釈:参詣して仏に帰依し、ゆったりと春の山辺を越えて来ましたのに(この歌が作者貫之の往路なら「これから参詣して仏に帰依しようとしているのに」)清浄な心を定心に保つことが出来ないくらいあなたがた美しい女性達は、花のようでありますし、折から散る花は、私を悟りの境地から誘惑し、それを判断する、まるで天女の撒く散華のようですよ。

1-1-116歌:下句「ちりかふ花に道はまどひぬ」が、上記のような理解で生きてくる。

1-1-117歌:夢信仰に異を唱えていると見るよりは、「山寺」という詞書により、仏教法会や散華との関連でとらえるほうが自然。

1-1-118歌:従来言われている漢詩の「落花流水」という桃源郷的世界を醸し出すモチーフを基に詠んだものあろう。しかし115~117歌の散華のモチーフを受けているであるので、「散華」にもなり「人の心を惑わすもの」となる落花が、深山幽谷においても人知れず散り、そしてそれが風や流水という自然現象によって人間界に齎され、それを発見した人の心がさらに救済されるという美の世界を表出している(のがこの歌)。

貫之は散華のモチーフを基調に,詠じた場の異なる四首を一連とし、独自の配列を施し、この4首を締めくくっている。

(上村朋:元資料の歌と違う意味付けを『古今和歌集』編纂者がしたこと。歌集として表面は桜散る季節の歌であり、その裏に(散るに関係深い)違う意味付けを隠した、ということになる。)

②中野方子氏は、『古今和歌集』歌を散華との関連で積極的に解釈しようとされた(「古今集歌人と仏教語―法会の歌―」(「和歌文学研究」80号 2000/6))

散華とは、諸仏を供養するために花を散布することで、法会の時に散布する華そのものや、華を散じながら唱える梵唄をも言う。

付記の追記その2:第四の歌群 藤と山吹による歌群 1-1-119歌~1-1-125歌 (1案を修正)

について

① 佐田公子氏は、『『古今和歌集』論 和歌と歌群の生成をめぐって』(笠間書院 2016/11)において、古今集の山吹をよむ歌の考察をしている(62~90p)。

② 諸氏は、藤は漢詩に良く詠まれ貴族の邸宅にも唐絵にも描かれ国風文化の進展とともに大和絵にも、和歌にも反映されたが、山吹は漢詩の素材ではなく純粋に日本的な素材であった、としている。

③ 佐田氏は、山吹の和歌は萬葉集歌(とくに厚見王の1435歌)が平安貴族の美意識に適っていた、と指摘する。「特定の地名と景物が結びつくいわゆる歌枕量産の気運のなかに選び取られてきたのが山吹歌である」、「『萬葉集』以来の庭前の山吹宇アのみならず『古今集』歌の思想である移ろいの美を強調した時、日常の時空を超えるためにも(新しい)地名(を詠む)歌が求められた」とも指摘している。

④ 氏の分析によると、5首しかない古今集の山吹歌の特徴は次のとおり。

  • よみびと知らずの歌が多い (4/5)  他の歌群との比較でもその割合が高い。
  • 地名を含む歌が多い (3/5)  他の歌群との比較でもその割合が高い。
  • 水辺の山吹歌が多い(地名はみな水辺) (3/5)
  • 盛りの山吹の実景を詠んだ歌が少ない

(付記の追記終り:2020/5/13追記   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第32歌 さくらばな

前回(2018/10/9)、 「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して記しました。

今回、「猿丸集第32歌 さくらばな」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第32 3-4-32歌とその類似歌

① 『猿丸集』の32番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

 

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、歌は同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第一春歌上にある歌です。

第一春歌上の配列については、一度考察をしました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))。その結論は、次のようなものでした。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は8群あり、立春の歌群(1-1-1~1-1-2歌)から始まり、盛りを過ぎようとする桜の歌群(1-1-64~1-1-68歌)で終る。ちなみに、次の巻第二春下も同じように散る桜の歌群(1-1-69~1-1-89歌)から始まり春を惜しむ歌群(1-1-126~1-1-134歌)で終ると推測できた。

② 今検討しようとしているこの類似歌1-1-50歌は、7番目の歌群「咲き初め咲き盛る桜の歌群(1-1-49~1-1-63歌)の二番目の歌です。

③ その歌群の中の配列を検討します。最初の5歌より検討します。

1-1-49歌 人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる    つらゆき

   ことしより春しりそむるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

1-1-50歌 (類似歌)題しらず    

1-1-51歌 題しらず   よみ人しらず

   やまざくらわが見にくれば春霞峰にもをにもたちかくしつつ

1-1-52歌 そめどののきさきのおまへに、花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる   さきのおほきおほいまうちぎみ

   年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

1-1-53歌 なぎさの院にてさくらを見てよめる

   世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし

 

④ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))の付記1.の表4参照) 

1-1-49歌 初めて花を付けた桜よ、散ることは他の桜に見習わないでほしい。

元資料の歌は屏風歌b・賀の歌と推定

1-1-50歌 山が高いからだれも心にとめないが、私がその桜をもてはやそう。(仮訳)

元資料の歌の推定は保留

1-1-51歌 見にきたら山桜を山ごと霞が隠してしまっている。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-52歌 年月を重ね老いてきた私だが、美しい花を見ていると何の心配もない。

元資料の歌は下命の歌と推定

1-1-53歌 世の中に桜がなかったならば、春はのどかであろうに。

元資料の歌は下命の歌と推定

⑤ このような配列のなかでこれらの歌を鑑賞すると、植物の桜の開花と咲き盛る桜は楽しみを与えてくれると喜んでいる様を詠っているように思えます。1-1-52歌はさらに花に例えた作者の娘の栄華が与えてくれる満足感も作者は味わっています。

しかし、桜の花は散るのが定めであることを最初の歌は指摘し、咲く場所によっては見られない桜もあり、かつ霞は隠すし、桜がなかったら世の中の春は変っている、と1-1-52歌の前後の歌が詠んでいるとも理解できます。そのため、間もなく散る桜を前提に1-1-52歌を、「私は老いても当家の今は申し分ない。これからは欠けるばかりの望月と思え」と詠っているとも理解できます。元資料の歌は、このように連作の作品の一つとみなせませんが、『古今和歌集』に置かれれば、一連の作品とみることが可能です。

この理解は、『古今和歌集』の編纂者の配列の意図を誤解しているとは思えません。

⑥ 巻第二春歌上は、このあとにつぎのような歌を配列しています。

1-1-54歌 題しらず  よみ人しらず 

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

1-1-55歌 山のさくらを見てよめる       そせい法し

   見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ

1-1-56歌 花ざかりに京を見やりてよめる  (そせい法し)

   みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける   

1-1-57歌 さくらのもとにて年のおいぬることをなげきてよめる   きのとものり

   いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

 1-1-54歌と1-1-55歌は、やまの桜を詠んでおり、その桜を皆にも見せようと作者は工夫をしています。それは、すぐ散る桜であるからこその工夫です。そのあとに1-1-56歌を配列しています。この配列ですと、詞書の「花ざかりに」とは、前歌とおなじく山の桜が盛んなとき、と理解することも可能です。都は、山より先に暖かくなるので山の桜より早く咲き早く満開を迎えているはずです。その詞書にある動詞「見やる」とは「みおこす」(こちらをみる意)と対の言葉であり、「ながめやる・目を向ける」意なので、作者の近くの花を見て都に思いを馳せた歌がこの歌であり、詞書は「(やまの桜の)さかりの時に、都を想いやって詠んだ(歌)」の意となります。

都を「春のにしき」と形容するものの、都の桜は散り際か葉桜であり青葉若葉がきらきらしていたと思います。1-1-56歌は、それでも桜に注目して詠っている歌であるので、桜を当時の貴族は好んでいたのだと思います。

1-1-57歌の桜は、山の桜より身近にある桜であることを、詞書より推測できます。この配列から、この歌の前の歌(1-1-56歌)が、山の桜と限定しないで理解することを詞書に否定させていません。だから、1-1-56歌は、都の中または近くで作者は「京(全体)をみやりて」詠んだ歌ともとれ、四句と五句は作者も都に居るとの意識はあるもののの周囲の状況から都全体を推測した、という歌になりますが、『古今和歌集』の編纂者はこの二つの理解を許していると思います。ひとつに限定しないでつぎの1-1-57歌につないでいるのではないでしょうか。

とものりの1-1-57歌の元資料の歌は、梅を詠んでいる歌です(ブログ「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1)の3.④参照)が、『古今和歌集』の編纂者は、1-1-52歌の何首かあとに、桜の花を詠んだ歌として詞書を改めたうえここに配置しています。「年ふればよはひはおいぬ」と詠う1-1-52歌、「年ふる人ぞあらたまりける」と詠う1-1-57歌の作者の立場は共通している歌です。盛りを過ぎた後への感慨を詠っています。

⑦ このような理解を許すような歌のなかに、1-1-50歌があります。即ち、前後の歌とのみ深くかかわる対の歌ではないが、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌です。1-1-50歌もその一環の歌であると思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     花は咲いたけれども、山が高いので、人々も賞玩しない桜花よ、そのようにひどくしょんぼりするな、私がもてはやそう。(久曾神氏)

     「あまり山が高いので、誰も寄りついてくれない桜の花よ。そんなに悲しむにはあたるまい。同じような身の上の私が引き立役になってあげるから。(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、二句にある「すさむ」は、「心にとどめ愛する」、の意としています。

 『新編日本古典文学全集』では、二句にある「すさむ」は、「心にとどめて愛すること」の意とし、作者は「山中に住む人であろう。孤高の生活を楽しむ人が、同じ立場の桜に共感している。」とし、五句にある「はやす」は、「栄ゆ」の他動形。栄えある(物事が盛んである)ようにすること。引き立てる。」の意、としています。

③ 「はやす」は、『古典基礎語辞典』によれば、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」であり、「もてはやす」の「もて」は、動詞の接頭語で、「意識して・・・する」意を加えます。

④ これらの現代語訳では、「はやさむ」の訳に物足りなさがあります。この歌は、『古今和歌集』の春歌に置かれているので、人に知られず散るのを惜しんでいる意を、もっと加えるのが適切であると思います。

なお、日本の桜は10種の基本的野生種がありヤマザクラはその一つです。現在はその変種を含めて自生種は百種以上確認できるそうです。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① この歌は、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌であるかどうかを検討します。

詞書は、「題しらず」であり、特段の情報がありません。

② 二句「人もすさめぬ」とは、名詞「人」+助詞「も」+動詞「すさむ」(下二段活用)の連用形+打消しの助動詞「ず」の連体形です。誰も心にとめない、の意です。

 動詞「すさむ」は、下二段活用の場合、「心にとめて愛する・慰みとする。あるいは、うち捨ててしまう・きらう・避ける」の意であり、四段活用の場合、「はなはだしくなる。あるいは気の向くままに・・・する」の意です(『例解古語辞典』)。

③ 三句の「さくらはな」は、初句「山たかみ」という場所にある桜なので、品種はヤマザクラが有力です。

④ 五句にある「見はやさむ」の「見はやす」は、動詞「見(る)」+動詞「はやす」とも分解できます。

「見る」は、上一段活用であり、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)です。

⑤ 現代語訳を試みると、次のとおり。

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花よ。そのようにそんなにひどくさびしく思うな。私が散る前によく見て賞揚し、世の中に紹介するから。(来年は多くの者が愛でるように。)

 高い山は遠国の比喩、と理解すると、散るに繋がるもうひとつの理解があります。即ち、

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花のように、希望をしない遠国に任官となった君よ、(今回は残念であったが)そんなにひどくさびしく思うな。私が貴方を見計らってきわだたせるから。

 当時、受領層である官人の猟官は有力貴族との関係が重要であったので、有力貴族の家司が、入試の「サクラチル」のようにこの歌を遠国に任官することになった官人に用いたのではないでしょうか。

⑥ このような理解をすると、1-1-49歌は、相応の任官に与った男の今後の期待を込めた歌としての利用も考えられます(作者のつらゆきは思いもしなかったでしょうが)。さらに、1-1-51歌は、今日まで順調にきたが、はたしてあのような霞(という邪魔者)にあうものなのだなあ、の意を含んでいる歌とも理解できます。

⑦ この歌が披露された場所について、保留してきました。ここで検討します。

上記⑤の前者の現代語訳(試案)ならば、誰かを非難しておらず、遠景の山を愛でており、屏風歌bとなり得ます。後者の現代語訳(試案)ならば、挨拶歌です。

 

5.3-4-32歌の詞書の検討

① 3-4-32歌を、まず詞書から検討します。

 詞書を、前段の「やまでらにまかりけるに」と後段の「さくらのさきけるを見てよめる」に分けて検討します。前段は、後段の前提条件のようにみえる文です。

前段は、名詞「やまでら」+格助詞「に」+動詞「まかる」の連用形+助動詞「けり」の連体形+接続助詞「に」と品詞分解できます。

 動詞「まかる」は、「高貴な人のところから退出する・おいとまする(謙譲語)、高貴な人のところから他へ参る(行くの謙譲語)、京から地方へ参る(行くの謙譲語)、行く・通行する」などの意があります(『例解古語辞典』)。

③ 「やまでらに」の「に」(格助詞)は、「場所」や「動作の方向」などを示しています。歌において「見はやさん」と詠っているので、山寺で何事かが起こったのであり、類似歌と同様な事柄が起こったとみると、花見とか月見とかという私的な事柄と見られます。朝廷の公式の行事やそれに準ずる事柄ではありません。

 また、山寺に作者が行った理由は明らかにされていません。理由を問わず起こり得る一般的な事柄である、という推測が成り立ちます。

④ 「まかりけるに」の「に」(接続助詞)は、つぎのような意があります(『例解古語辞典』)。

A1 「あとに述べる事がらの出る状況を示す意 (・・・たところ)

A2 あとに述べる事がらに対する、一応のことわりを示す意 (・・・のに、・・・けれど)

A3 あとに述べる事がらの、原因・理由やよりどころを示す意」 (・・・ので、・・・から)

歌の理解とともに検討しなければ、どの意で用いられているのか決めかねます。

⑤ 後段の「さくらのさきけるを見てよめる」については、「咲く」の表現が「さきける」であって「さけりける」でないのが気になります。花が「さけりける」ならば、動詞「咲く」の連用形+いわゆる完了の助動詞「り」の連体形+助動詞「けり」の連体形「ける」という理解となります。

古今和歌集』の巻第一春歌上から巻第九羈旅歌までの詞書をみると、「花(あるいは花の)さきける」は一例もありません。「花(あるいは花の)さけりける」が5例あります。

1-1-43歌 (水のほとりに)梅の花さけりける(をよめる)

1-1-67歌 さくらの花のさけりける(を見にもうできたりける人・・・)

1-1-120歌 (家に)ふぢの花のさけりける(を・・・)

1-1-124歌 (よしの河のほとりに)山ぶきのさけりける(をよめる)

1-1-410歌 (・・かきつばたいとおもしろく)さけりける(を見て、・・・)

助動詞「り」がつく動詞が「咲く」以外の例も5例あります。

1-1-80歌 (・・・をれるさくらのちりがたに)なれりける(を見てよめる)

1-1-297歌 (・・・をらむとて)まかれりける(時によめる)

1-1-309歌 (・・・たけがりに)まかれりける(によめる)

1-1-331歌 (雪の木に)ふりかかれりける(をよめる)

1-1-332歌 (やまとのくにに)まかれりける(時に・・・)

また、詞書で「さけるさくら」という語句がある歌があります。

1-1-136歌 (う月に)さけるさくら(を見てよめる)

古今和歌集』をよく知っているはずの『猿丸集』の編纂者ですから、「花(あるいは花の)さけりける」と「花(あるいは花の)さきける」は、別の意を持たせていると思えます。また、「さけるさくら」とも異なる意を持たせていると思えます。

⑥ 別の意は、同音異義の語句に込めることができますので、この後段の「さくらのさきけるを見てよめる」の文に同音異義の語句があるはずです。探してみると、ありました。

     さくら: a桜(樹木) b桜(襲(かさね)の色目のひとつ) c柵ら(らは接尾語の「等」、現在の木柵) d索(太いなわ 仏像が手にしているなわ)ら e笏(しゃくとも、さくとも読む)ら f簀(すとも、すのことも、音読すればさくとも読む)ら

なお、襲とは衣服を重ねて着るときの、裏と表との配色を言い、「桜」は「襲の色目の名のひとつで、表は白、裏は紫(この色目は葡萄染めなどともいう)です。

また、笏とは、(公式の行事の礼服である)束帯を着ける時、右手に持つ細長い板をいい、簀には2意あり、アシや竹などをあらく編んで作った敷物あるいは寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(雨水が貯まらぬように板と板との間があけてある)を言います。

     さき: a四段活用の動詞「咲く」の連用形 b同「割く・裂く」の連用形 c名詞「先・前」 d名詞「﨑・埼」

     ける: a助動詞「「けり」の連体形 b動詞「蹴る」の連体形 

⑦ これらより、後段の語句の組み合わせ候補をみると、次のとおり。

B1 桜が咲いていたのを(見てよめる)

  但し、『古今和歌集』では、そのような状況は完了の助動詞「り」を用いて「さけりける」と表現されています。

B2 柵などが割けているのを(見てよめる)

但し、山寺における柵であり、現在の名刹でも柵は樹木や記念物などの保護用として用いられてお

り、消耗品的な位置づけのものです。使用している杭が割けているのは珍しい。そのうえ、「など」の例が見つかりません。

B3 柵などの先を蹴るのを(見てよめる) 

但し、柵とは普通ある程度長さがあり、手前・向こうという話し手から見ての位置づけが可能であるので、遠方に位置するところの柵を「柵の先」という表現もあるかもしれません。それにしても、「など」の例が見つかりません。また、蹴るならば地面に近い柵の根元を普通蹴ります。

B4 笏などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、笏は手に持つもの、「蹴る」は足を使う行為ですので、相手の笏に対して飛び蹴りのようなことを官人がするとは思えません。置いてあった笏であればあり得ることかもしれませんが、笏は礼服時に持つものであり、その礼服着用時に手放す可能性が小さい。また、蹴るとして、的が笏の「先」というのは小さすぎます。「など」の例は、礼服そのものになるのでしょうか。笏ほどの大きさのものは何でしょう。

 そもそも礼服の着用が必要な場面とは思えません。

B5 簀などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、簀は、寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(簀子)です。簀子の先とは、室内からみて簀子の庭側にある高欄になるのでしょうか。そうなると「(簀)など」とは、柱や簀子に置いてある物を指しているのでしょう。通常その屋敷の主は、部屋の中央におり、軒先にでるのは、用事のある時に限ると思われます。伺候した者であれば、廂や簀子が自分の席ということがあり、簀の先(つまり高欄)を蹴ることは可能です。

⑧ これらの候補から可能性を比較します。

B1は、樹木の桜であるならば、類似歌と同じ情景であり、詞書をわざわざ書き記している意味が薄れています。しかし、歌における「さくら(ばな)」という語句が誰かを指しているならば、類似歌とも違うので有り得ます。

B2B3は、「さくら」の「ら(等)」の例が不明であり、成立は難しい。

B4は、山寺へゆくのが公式の行事でない限り、あり得ない光景です。

B5は、類似歌と異なる情景であり、山寺に複数の者が行った際ということであれば、あり得る光景です。

⑨ このため、後段の「さくらのさきけるを見てよめる」は、2候補が残ります。

B1は、歌における桜が誰かを指しているならば有り得ます。これは、山寺でなくとも一般的にあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

B5は、建物の中の光景です。この光景となるには、飲食の席でだいぶ座が乱れた時と推測できます。これは前段の文をおもえば、山寺に行ったことで生じた光景ということになり、山寺に花見(花の種類は問わない)に行ったか、あるいは月見に行ったかの時の飲食の席が候補と考えられます。これは、朝廷や貴族の屋敷での宴席でもあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

⑩ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

C1 「山寺に行ったところ、桜が咲いていたのを(見てよめる)」(A1+B1

C2 「山寺に行ったのだけれど、簀などの先を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 (A2+B5

 

6.3-4-32歌における同音異義の語句

① この歌は、類似歌と清濁抜きの平仮名表記をすると、同じです。だから、詞書と同様に、同音異義の語句がこの歌にはあるのではないかと疑えます。句ごとに検討します。

② 初句「山たかみ」は、名詞「山」+形容詞「高し」の語幹+接尾語「み」として、類似歌は理解しました。

 詞書によれば「山」寺にゆこうとしている作者ですので、この歌も同じであろうと思います。「山たかみ」は、同音異義の語句ではありません。

③ 二句「人もすさめぬ」は、動詞の未然形につく助動詞で活用が「ぬ」となる語が二つあります。

D1 名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形

この理解は類似歌と同じです。

D2 「人もすさめぬ」は、名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+完了の助動詞「ぬ」の終止形

この場合、この歌は二句切れとなります。そして歌の意は大きく変わる可能性があります。

さらに、下二段活用の動詞「すさむ」は、

E1 「心にとめて愛する・慰みとする」

E2 「うち捨ててしまう・きらう・避ける。」

の意があります。

だから、「すさめぬ」は、同音異義の語句です。

なお、動詞「すさむ」には、四段活用の動詞もありますが、「すさめ」という已然形または命令形につく助動詞は有りません。 

④ 三句「さくらばな」は、類似歌の文字表現は「さくら花」であり、この歌は「さくらばな」です。

 類似歌のある『古今和歌集』には「さくら花」という文字表現は、類似歌の直後にもあります(1-1-55歌)し、『後撰和歌集』にも1-2-51歌をはじめ10首ほどあります。

 しかし、この歌は、「さくらばな」という文字表現で、「花」の字を避けています。

 このため、「さくらばな」が同音異義の語句の候補とみてみると、つぎのような語句がありました。

  • ・ さくら:上記5.⑥の「・ さくら」に示したように、「桜」、「さく等(ら)」で6種の意があります。
  • ・ はな:a花 b特に樹木の桜 cツユクサからとった染料(色がさめやすい) c鼻 d端(はし、先) e華
  • そして、 「さくらはな」が樹木の桜の花そのものの意となるのは、上記5.⑧で述べた理由で除外すると、三句「さくらばな」の意は、

F1 「桜の花のように華(のある特定の人)」

F2 「襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主」

が候補になります。

なお、接頭語「さ」+名詞「鞍または蔵・倉」+名詞「花・華」では意を成せません。

⑤ 四句「いたくなわびそ」は、副詞「甚く」+禁止の意の副助詞「な」+動詞「わぶ」の連用形+終助詞「そ」として、類似歌は理解しました。このほかは考え付かないので、同音異義の語句は無いでしょう。

⑥ 五句「われ見はやさむ」は、名詞「われ」+(「は」又は「が」を割愛)+上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形+意志・意向を表わす助動詞「む」の終止形として、類似歌は理解しました。

「見る」は、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)の言葉であり、視覚に入れるだけでなく、「見定める・見計らう、思う・解釈する」、などの意があります。

 「はやす」は、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」の言葉であり、大別して「栄やす・映やす」と「囃す」の2つの意がありますので、四句には同音異義の語句があります。

また、「上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形」を一語の動詞「見栄やす」と理解することも可能です。

このため、五句「われ見はやさむ」の現代語訳の候補に次のようなものがあります。

G1 私が見る行為をし、栄やそう(映やそう)

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」、「思う・解釈する」であり、この文は、応援をして引きたたせよう、という意になります。

G2 私が見る行為をし、囃そう

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」より「取り扱う・処置する」であり、この文は、具合よく囃そう、という意になります。

G3 私がもてはやして見よう。または、私が見てもてはやそう。

この場合、「見はやす」は、一語の動詞です。

⑦ 句またがりでの同音異義の語句はなさそうです。

 

7.3-4-32歌の詞書と歌の現代語訳を改めて試みると

① このように同音多義の語句が歌にいくつかありますので、各句の現代語訳の候補を整理するとつぎの表のようになります。

 

 

 

句の区分

各句の案

 

第1案

第2案

第3案

第4案

初句:1案

「山が高いので」

 

 

 

二句:人もすさめぬ:2案

「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形 D1&E1

 D1&E2

「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形 D2&E1

D2&E2

三句:さくらばな:3案

桜の花のように華(のある特定の人) F1

襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主 F2

 

 

四句:1案

思い煩う、さびしく思う

 

 

 

五句:3案

栄やそう・見定めて応援して引きたたせよう G1

具合よく囃そう

G2

みてもてはやそう G3

 

 

② 詞書に留意し、検討します。

 C1の詞書の場合、三句の桜はF1となり、その席にいる華のある誰かあるいは同席の人が同じように華があると思う(その席にいない)第三者を指し、その人を(囃し立てるのではなく)引き立たせよう、という理解が素直である。しかし、これは類似歌の樹木の桜を人物に替えただけの歌です。

 C2の詞書の場合、飲食の席の歌であるので、三句はF1又はF2になり、「桜の花ように注目を集めている人」または「鼻まで赤くしている人」、つまりだいぶ酔ってしまった人、の意となるのではないか。詞書で「簀などの先(高欄)を蹴る」とあるので、酔ったため高欄を蹴るようにしてしか歩けない人を座の人達が囃し立てている歌あるいは、高覧を蹴ってみよとからかっているのがこの歌と理解できます。この場合、F2でよいと思います。

二句における「すさむ」の意は、三句「さくらばな」なる人物を暖かく見守るスタンスで歌をまとめるほうが飲食の場に相応しいと思うので、E1 「心にとめて愛する・慰みとする」で試みるものとします。

なお三句の「さくらばな」は、掛詞とみることができます。三句は、初句と二句で修飾される「桜」の意を残し、三句以下でも一文を成しています。

③ このため、詞書と歌について、改めて現代語訳を試みると、二句は表の第1案(D1+E1)+三句は同第2案(F2)+五句は同第2案(G2)の組み合わせとなり、つぎのとおり。

 詞書:「山寺に行ったのだけれど、簀(さく)などの先(高欄)を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 

 歌:「山が高いので、愛されなかった桜もあるが、その桜みたいな色の鼻になった方、酔いが大いに進んだ方、大層に思い悩んだり悲観するな。歩けるように、私が、調子をとって囃し立てましょうから。」

なお、配列から、春の桜の歌となるので、この歌は桜の花見を名目とした宴席となります。

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-32歌は、詠む事情を簡潔に述べています。類似歌1-1-50歌は、「題しらず」とあり、何の情報もありません。

② 三句の意が異なります。この歌は、「さくらばな」で特定の人物を指し、類似歌は、「さくら花」で今咲いている桜木(多分複数)を意味しています。

③ 五句の意が異なります。この歌は、「囃す」の意であり、 これに対して類似歌は「栄やす」意です。

④ この結果、この歌は、山寺での花見における飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-33歌 あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

はるさめににほへるいろもあかなくにかさへなつかしやまぶきのはな

類似歌 1-1-122歌 題しらず  よみ人知らず  (巻第二 春歌下)

      春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/15   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人

前回(2018/10/1)、 「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂 」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

2.~3. 承前

4.『古今和歌集』巻第一の検討のまとめ

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、その歌のある『古今和歌集』巻第一の配列を前回検討してきました。

② その検討で、次のことがわかりました。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は次のように見ることができ、立春を詠う歌からこの順に配列している。

立春の歌群 1-1-1~1-1-2

雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

     今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、6番目の歌群である「香る梅の歌群」の三番目の歌である。

 

5.類似歌の検討その3 歌群の特徴

① 「香る梅の歌群」の配列から今回検討します。歌群の始めのほうにある歌は次のような歌です。

 1-1-32歌 題しらず  よみ人しらず

   折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

 1-1-33歌  <題しらず  よみ人しらず>

   色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

 1-1-34歌 類似歌

 1-1-35歌  <題しらず  よみ人しらず>

   梅花たちよるばかりありしより人のとがむるかにぞしみぬる

 1-1-36歌 むめの花ををりてよめる   東三条の左のおほいまうちきみ

   鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくるやと

 1-1-37歌   題しらず  素性法師

   よそにのみあはれとぞ見し梅花あかぬいろかは折りてなりけり

 1-1-38歌   むめの花ををりて人におくりける   とものり

   君ならで誰にか見せむ梅花色をもかをもしる人ぞしる

② 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/10/1)の付記1.の表3参照) 

1-1-32歌 私の袖の梅の香の移り香に鶯が寄ってきてくれた。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-33歌 この梅の香の良い事。誰が袖を触れて移してくれたのであろうか。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-34歌 梅の香を来てくれない人の香に間違えてしまった。 (仮訳) 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-35歌 ちょっと梅に近づいたばかりに、とがめられるような香が衣についた。 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-36歌 梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか。 

元資料の歌は宴席の歌と推定。

1-1-37歌 梅の花の素晴らしい色と香は折りとってこそわかるのだった。

元資料の歌は挨拶歌と推定。

1-1-38歌 あなた以外の誰にみせたらよいのか。梅の花の色と香を知っているのはあなただけです。

   元資料の歌は挨拶歌と推定。

③ このような配列でこれらの歌を鑑賞すると、植物の梅の香がすばらしい、と詠っているとともに、梅の香りは男女の仲にある相手を意識させるものと理解している歌ともなっています。1-1-32歌は、作者が梅の移り香に染まっているときだけ鶯がいる(相手は呼び寄せないと来てくれない)、という不満表明の歌ともとれ、1-1-33歌は逢えた喜びを詠っているかに思えます。1-1-36歌は若い女性を梅が象徴しているかにもとれる歌です。

しかし、前後の歌が贈答歌のような対の歌とはなっていません。松田武夫氏は1-1-34歌と1-1-35歌は女と男の歌として編纂者は配列した、と指摘しています。そのとおりかもしれませんが、1-1-34歌をおくられた人が1-1-35歌を詠んだという理解は難しいと思います。

このように、それぞれの歌は、他の歌とは独立した状況で詠んだ歌と理解できます。類似歌も同様である、と思います。

なお、梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります。

④ 梅の香は、品種によって微妙に違っているのでしょうが、『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はありません。衣にたき込める香りは、人工的に作ったものであり、梅の品種の数以上のものがあったに違いありません。それなのに、梅の花の咲く頃(匂う頃)はみなひっくるめて梅の花の香に、この歌群の歌のように喩えています。梅の香を詠う歌は、梅を愛でるのは二の次の歌であるのが、本来の姿であるかもしれません。とにかく、男女の間のことに関した歌としての検討をしなければならない歌群であろうと、思います。

 

6.類似歌の検討その4 現代語訳の試み

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     私の家の近くに梅の花などは植えますまい。つまらないことに、訪れを待つあの人の着物の香に、ついまちがえられたことであるから。」(久曾神氏)

     「庭先近くには、梅の木を植えまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「作者は、梅の芳香について愛着と同時に、足遠くなった愛人の訪れを待つ気持ちを託している。」と解説し、「あやまたれけり」の「れ」は自発の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆の助動詞と説明しています。

③ 後者の訳例では、三句「あぢきなく」は四句と五句の全体を修飾する、としています。

④ いくつかの語句について検討します。

 初句にある「やど」は、「その建物で、作者居住している空間」の意です。「やどちかく」とは、「梅の香が届くと思ってしまう空間(梅が見えてしまうエリア)全てを指します。梅は庭木であるので、当然屋敷地内です。

⑤ 二句に「うゑじ」とありますが、どこに植えたくなかったのでしょうか。

三代集で、梅は、実より花や香が詠まれているように、当時貴族に賞玩されています。貴族が寝殿造りの庭に植えている庭木のひとつが梅です。手折った梅を詠んだ歌が『古今和歌集』に幾つもありますが、手折った梅はどこに置いたのでしょうか。花は、既に仏に供えることが仏教とともに伝わってきています。観賞用として、手折った梅を身近な室内に置くならば、鉢などの器や州浜台を利用したのでしょう。土付きの梅ならば、同様に鉢や州浜台を利用して室内や建物近くにおいたり、建物に沿わせて植えたりして鑑賞したのでしょう。

この歌において、作者の一存で移動が出来る(植える場所を選べる)のは、鉢などの器や州浜台台の上の梅の木か、特別に建物の側の庭に植えた梅の木をイメージせざるを得ません。

 『古今和歌集』で「植う」の例を探すと、1-1-272歌の詞書に、

 「おなじ御時せられけるきくあはせに、すはまをつくりて菊の花うゑたりけるにかはへたりけるうた、ふきあげのはまのかたにきくをうゑたりけるによめる」

とあり、「すはま」に菊の花を「植ゑ」、「はまのかた」に菊を「植ゑ」ており、今日の切り花か、土付きの菊か明記されていませんが、動詞「植う」を用いて表現されています。

 『後撰和歌集』の1-2-46歌の詞書には「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅をうゑて侍りけるを、・・・」とあります。これは、敷地のうちで「ねやのまへ」という場所は、庭木の梅を植える位置では例外的な場所なので、このような詞書にもなったのでしょう。

二句にある動詞「植う」は「(根付くように)植える」意です(『例解古語辞典』)が、これらの例によれば地面に直接植えるとか、簡単に動かしにくい器に鑑賞用植物をいれて飾るとかの場合にも用いられており、そばに植物を置く意ととってもよいと思います。

⑥ これまでの検討を踏まえて、現代語訳を後者の訳例を参考に、試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を置かせまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」

 この歌は、待っている人の訪れに期待をかけている状況か、便りも来なくなって不安が増す頃なのか、はっきりしませんが、作者にとって待ち人来たらずの状況なのは確かなことです。

⑦ 元資料の歌としては、作者が、待ち望んでいる意を示そうと、待っている人への(誘いの)贈り物に付けた歌(挨拶歌)かと推測しましたが、『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性があります。

歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できます。

 

7.3-4-31歌の詞書の検討

① 3-4-31歌を、まず詞書から検討します。

 詞書中の「まへちかき梅」とは、庭先の梅、が第一候補になります。その咲いたのを「見て」作者は詠っています。咲けば匂います。匂いが立たなくともそれからの連想はすぐ(梅と匂いが異なっていても)覚えのある「香」を衣服にたき込めている人にゆく心境に、作者はいたようです。

 3-4-31歌の詞書の現代語訳をこころみると、つぎのとおり。

「庭の建物近くにある梅が、花を咲かせていたのをみて(詠んだ歌)」

 

8.3-4-31歌の現代語訳を試みると

① 三句の「あじきなく」は、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

② 四句にある「まつ人」の「つ」は、「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」ではないでしょうか。

「まつ人」とは、「魔つ人」であり、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

魔王が主(あるじ)となっている天(世界)は、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた」(世界)です(『仏教大辞典』中村元 付記1.参照)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(『例解古語辞典』)であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

③ 五句の「あやまたれけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「今まで見すごしたりしていた現前の事実に、はじめてはっと気づいた驚き」、の意です。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を植えておくことをすまい。にがにがしいことに、私の思いの邪魔をする、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いすることがあるのに気づいたから。」

⑤ 作者は男女どちらにも可能性があります。寝殿造りの屋敷に住む貴族であれば、庭に梅の木を植えており、どの屋敷にもあるはずの木です。それを「魔つ人」と結びつけているのですから、この歌に実景が必要ならば、梅の香の人は、作者の間近にいる人となります。作者が八つ当たりできる親どものひとりでしょうか。梅に花を咲かせ楽しもうとしている人が今はにくらしい、という歌です。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌4-3-31歌は、身近に咲いた梅を見てと詠むきっかけを明らかにしています。類似歌は、「題しらず」とあり、場所が不定であり、梅を実際見たのかどうかも不明です。

② 四句にある「まつ人」の意が違います。この歌は、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意です。類似歌は、「待つ人」であり、「訪れを待っているあの人」ですが作者に近付いてこない「あの人」です。

③ この結果、この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/9   上村 朋)

付記1.魔王について

① 初期の仏教教団の教えの中心は、ニルヴァーナに達すること。在家の信者には、主として「生天」が説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるというおしえ。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本の柱。天の原語は色々あるがみな単数形。道徳的に善であれば、死後天におもむく、というのは当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中にとりいれた。ただし、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗言のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていた。後に天は、種々の位階に分かたれるようになる。(中村元『仏教語大辞典』(東京書籍)

② 天の意は、天界・天の世界のほか、インド人の考えた神々(空中や地上に住む神もある)、天界の神、自然の里法等の意で用いられている。(同上)

③ 天(天界・天の世界)は、33ある。凡夫が生死往来する世界(性欲・食欲をもつ生きものの世界・欲界)に六天ある。欲界のうえにあって食欲・性欲を離れた生きものの絶妙なる世界(色界)に十八天あり、物質的なものがすべてなく、心識(たましい・こころ)のみある生きものの世界(無色界)に四天ある。(同上)

④ 欲天の第六番目が他化自在天。その王が第六天魔王。波旬(はじゅん)とも、単に魔王ともいう。

(付記終り。2018/10/9  上村 朋) 

 

わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人

前回(2018/10/1)、 「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂 」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

2.~3. 承前

4.『古今和歌集』巻第一の検討のまとめ

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、その歌のある『古今和歌集』巻第一の配列を前回検討してきました。

② その検討で、次のことがわかりました。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は次のように見ることができ、立春を詠う歌からこの順に配列している。

立春の歌群 1-1-1~1-1-2

雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

     今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、6番目の歌群である「香る梅の歌群」の三番目の歌である。

 

5.類似歌の検討その3 歌群の特徴

① 「香る梅の歌群」の配列から今回検討します。歌群の始めのほうにある歌は次のような歌です。

 1-1-32歌 題しらず  よみ人しらず

   折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

 1-1-33歌  <題しらず  よみ人しらず>

   色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

 1-1-34歌 類似歌

 1-1-35歌  <題しらず  よみ人しらず>

   梅花たちよるばかりありしより人のとがむるかにぞしみぬる

 1-1-36歌 むめの花ををりてよめる   東三条の左のおほいまうちきみ

   鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくるやと

 1-1-37歌   題しらず  素性法師

   よそにのみあはれとぞ見し梅花あかぬいろかは折りてなりけり

 1-1-38歌   むめの花ををりて人におくりける   とものり

   君ならで誰にか見せむ梅花色をもかをもしる人ぞしる

② 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/10/1)の付記1.の表3参照) 

1-1-32歌 私の袖の梅の香の移り香に鶯が寄ってきてくれた。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-33歌 この梅の香の良い事。誰が袖を触れて移してくれたのであろうか。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-34歌 梅の香を来てくれない人の香に間違えてしまった。 (仮訳) 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-35歌 ちょっと梅に近づいたばかりに、とがめられるような香が衣についた。 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-36歌 梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか。 

元資料の歌は宴席の歌と推定。

1-1-37歌 梅の花の素晴らしい色と香は折りとってこそわかるのだった。

元資料の歌は挨拶歌と推定。

1-1-38歌 あなた以外の誰にみせたらよいのか。梅の花の色と香を知っているのはあなただけです。

   元資料の歌は挨拶歌と推定。

③ このような配列でこれらの歌を鑑賞すると、植物の梅の香がすばらしい、と詠っているとともに、梅の香りは男女の仲にある相手を意識させるものと理解している歌ともなっています。1-1-32歌は、作者が梅の移り香に染まっているときだけ鶯がいる(相手は呼び寄せないと来てくれない)、という不満表明の歌ともとれ、1-1-33歌は逢えた喜びを詠っているかに思えます。1-1-36歌は若い女性を梅が象徴しているかにもとれる歌です。

しかし、前後の歌が贈答歌のような対の歌とはなっていません。松田武夫氏は1-1-34歌と1-1-35歌は女と男の歌として編纂者は配列した、と指摘しています。そのとおりかもしれませんが、1-1-34歌をおくられた人が1-1-35歌を詠んだという理解は難しいと思います。

このように、それぞれの歌は、他の歌とは独立した状況で詠んだ歌と理解できます。類似歌も同様である、と思います。

なお、梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります。

④ 梅の香は、品種によって微妙に違っているのでしょうが、『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はありません。衣にたき込める香りは、人工的に作ったものであり、梅の品種の数以上のものがあったに違いありません。それなのに、梅の花の咲く頃(匂う頃)はみなひっくるめて梅の花の香に、この歌群の歌のように喩えています。梅の香を詠う歌は、梅を愛でるのは二の次の歌であるのが、本来の姿であるかもしれません。とにかく、男女の間のことに関した歌としての検討をしなければならない歌群であろうと、思います。

 

6.類似歌の検討その4 現代語訳の試み

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     私の家の近くに梅の花などは植えますまい。つまらないことに、訪れを待つあの人の着物の香に、ついまちがえられたことであるから。」(久曾神氏)

     「庭先近くには、梅の木を植えまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「作者は、梅の芳香について愛着と同時に、足遠くなった愛人の訪れを待つ気持ちを託している。」と解説し、「あやまたれけり」の「れ」は自発の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆の助動詞と説明しています。

③ 後者の訳例では、三句「あぢきなく」は四句と五句の全体を修飾する、としています。

④ いくつかの語句について検討します。

 初句にある「やど」は、「その建物で、作者居住している空間」の意です。「やどちかく」とは、「梅の香が届くと思ってしまう空間(梅が見えてしまうエリア)全てを指します。梅は庭木であるので、当然屋敷地内です。

⑤ 二句に「うゑじ」とありますが、どこに植えたくなかったのでしょうか。

三代集で、梅は、実より花や香が詠まれているように、当時貴族に賞玩されています。貴族が寝殿造りの庭に植えている庭木のひとつが梅です。手折った梅を詠んだ歌が『古今和歌集』に幾つもありますが、手折った梅はどこに置いたのでしょうか。花は、既に仏に供えることが仏教とともに伝わってきています。観賞用として、手折った梅を身近な室内に置くならば、鉢などの器や州浜台を利用したのでしょう。土付きの梅ならば、同様に鉢や州浜台を利用して室内や建物近くにおいたり、建物に沿わせて植えたりして鑑賞したのでしょう。

この歌において、作者の一存で移動が出来る(植える場所を選べる)のは、鉢などの器や州浜台台の上の梅の木か、特別に建物の側の庭に植えた梅の木をイメージせざるを得ません。

 『古今和歌集』で「植う」の例を探すと、1-1-272歌の詞書に、

 「おなじ御時せられけるきくあはせに、すはまをつくりて菊の花うゑたりけるにかはへたりけるうた、ふきあげのはまのかたにきくをうゑたりけるによめる」

とあり、「すはま」に菊の花を「植ゑ」、「はまのかた」に菊を「植ゑ」ており、今日の切り花か、土付きの菊か明記されていませんが、動詞「植う」を用いて表現されています。

 『後撰和歌集』の1-2-46歌の詞書には「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅をうゑて侍りけるを、・・・」とあります。これは、敷地のうちで「ねやのまへ」という場所は、庭木の梅を植える位置では例外的な場所なので、このような詞書にもなったのでしょう。

二句にある動詞「植う」は「(根付くように)植える」意です(『例解古語辞典』)が、これらの例によれば地面に直接植えるとか、簡単に動かしにくい器に鑑賞用植物をいれて飾るとかの場合にも用いられており、そばに植物を置く意ととってもよいと思います。

⑥ これまでの検討を踏まえて、現代語訳を後者の訳例を参考に、試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を置かせまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」

 この歌は、待っている人の訪れに期待をかけている状況か、便りも来なくなって不安が増す頃なのか、はっきりしませんが、作者にとって待ち人来たらずの状況なのは確かなことです。

⑦ 元資料の歌としては、作者が、待ち望んでいる意を示そうと、待っている人への(誘いの)贈り物に付けた歌(挨拶歌)かと推測しましたが、『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性があります。

歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できます。

 

7.3-4-31歌の詞書の検討

① 3-4-31歌を、まず詞書から検討します。

 詞書中の「まへちかき梅」とは、庭先の梅、が第一候補になります。その咲いたのを「見て」作者は詠っています。咲けば匂います。匂いが立たなくともそれからの連想はすぐ(梅と匂いが異なっていても)覚えのある「香」を衣服にたき込めている人にゆく心境に、作者はいたようです。

 3-4-31歌の詞書の現代語訳をこころみると、つぎのとおり。

「庭の建物近くにある梅が、花を咲かせていたのをみて(詠んだ歌)」

 

8.3-4-31歌の現代語訳を試みると

① 三句の「あじきなく」は、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

② 四句にある「まつ人」の「つ」は、「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」ではないでしょうか。

「まつ人」とは、「魔つ人」であり、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

魔王が主(あるじ)となっている天(世界)は、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた」(世界)です(『仏教大辞典』中村元 付記1.参照)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(『例解古語辞典』)であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

③ 五句の「あやまたれけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「今まで見すごしたりしていた現前の事実に、はじめてはっと気づいた驚き」、の意です。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を植えておくことをすまい。にがにがしいことに、私の思いの邪魔をする、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いすることがあるのに気づいたから。」

⑤ 作者は男女どちらにも可能性があります。寝殿造りの屋敷に住む貴族であれば、庭に梅の木を植えており、どの屋敷にもあるはずの木です。それを「魔つ人」と結びつけているのですから、この歌に実景が必要ならば、梅の香の人は、作者の間近にいる人となります。作者が八つ当たりできる親どものひとりでしょうか。梅に花を咲かせ楽しもうとしている人が今はにくらしい、という歌です。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌4-3-31歌は、身近に咲いた梅を見てと詠むきっかけを明らかにしています。類似歌は、「題しらず」とあり、場所が不定であり、梅を実際見たのかどうかも不明です。

② 四句にある「まつ人」の意が違います。この歌は、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意です。類似歌は、「待つ人」であり、「訪れを待っているあの人」ですが作者に近付いてこない「あの人」です。

③ この結果、この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/9   上村 朋)

付記1.魔王について

① 初期の仏教教団の教えの中心は、ニルヴァーナに達すること。在家の信者には、主として「生天」が説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるというおしえ。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本の柱。天の原語は色々あるがみな単数形。道徳的に善であれば、死後天におもむく、というのは当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中にとりいれた。ただし、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗言のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていた。後に天は、種々の位階に分かたれるようになる。(中村元『仏教語大辞典』(東京書籍)

② 天の意は、天界・天の世界のほか、インド人の考えた神々(空中や地上に住む神もある)、天界の神、自然の里法等の意で用いられている。(同上)

③ 天(天界・天の世界)は、33ある。凡夫が生死往来する世界(性欲・食欲をもつ生きものの世界・欲界)に六天ある。欲界のうえにあって食欲・性欲を離れた生きものの絶妙なる世界(色界)に十八天あり、物質的なものがすべてなく、心識(たましい・こころ)のみある生きものの世界(無色界)に四天ある。(同上)

④ 欲天の第六番目が他化自在天。その王が第六天魔王。波旬(はじゅん)とも、単に魔王ともいう。

(付記終り。2018/10/9  上村 朋)