わかたんかこれの日記 万葉集のからころも

2017/5/8  前回、「ゆふつけとりは2種類」と題して記しました。

 今回は、「萬葉集のからころも」と題して、記します。

1.和歌のからころも

① 和歌において「からころも」という用語は、外来の衣とも、珍しく美しい衣服とも、着・裁・裾・紐などの枕詞とも古語辞典に説明があります。

② 言葉は、(2017/3/31の日記に記したように)ある年代には共通の認識で使われるものであり、その年代の後年は、それまでの認識のほか新たな認識を加えたりして使われているので、特定の歌の理解はその歌の作詠時点を考慮して、意味を理解するのが適切であろうと思います。「からころも」の意義と使い方は時代とともに変遷があり得るものと仮定をして、検討します。

③ 『古今和歌集』雑の部で地名または山の名にかけて「からころも」が用いられた例があります。『新編国歌大観』の歌番号等で示すと

1-1-995歌  雑  よみ人しらず

たがみそぎゆふつけ鳥かからころもたつたの山にをりはへてなく

です。まだ私にはこの歌がよく理解できていないので、この歌での「からころも」のために以下の検討を行います。

④ 「ゆふつけとり」の検討と同様に、1050年までの用いられ方を調べます。作詠時点が詞書等では特定できない場合、その和歌記載の歌集の成立時点あるいは諸氏の指摘等に従って推計します(概略は2017/3/31の日記を見てください)。

 

2.『萬葉集』のからころも

① 『新編国歌大観』の索引に「からころも」又は「からころむ」(以下このふたつを「からころも」表記ということとします)とある歌は、いわゆる「から衣」を指しています。次の7首です。推計した作詠時点順に示します。なお、3502歌は、『新編国歌大観』が歌番号を付しているので、3501歌とともに検討対象の歌とします。<>内は『新編国歌大観』が示す万葉仮名で表した歌です。

 

2-1-957歌 作詠時点は728以前:神亀5年

巻第六 雑歌  五年戊辰、幸于難波宮時作歌四首(955~958)  笠朝臣金村

  からころも きならのさとの つままつに たまをしつけむ よきひともがも

<韓衣 服楢乃里之 嶋待尓 玉乎師付牟 好人欲得>  

 

2-1-2198歌 738以前:作者不明歌

巻第十 秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)           よみ人しらず

  かりがねの きなきしなへに からころも たつたのやまは もみちそめたり

<鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始有>  

 

2-1-2626歌 738以前:天平10年

巻第十一 正述心緒  寄物陳思             よみ人しらず

  あさかげに あがみはなりぬ からころも すそのあはずて ひさしくなれば 

<朝影尓 吾身者成 辛衣 襴之不相而 久成者 >   

 

2-1-2690歌 738以前:天平10年

巻第十一 古今相聞往来歌類之上  寄物陳思(2626~2818) よみ人しらず

  からころも きみにうちきせ みまくほり こひぞくらしし あめのふるひを

 <辛衣 君尓内著 欲見 恋其晩師之 雨零日乎>

    

2-1-3501歌 738以前:天平10年

巻第十四 相聞                     よみ人しらず

  からころも すそのうちかへ あはねども けしきこころを あがもはなくに 

<可良許呂毛 須蘇乃宇知可倍 安波袮杼毛 家思吉己許呂乎 安我毛波奈久尓>   

2-1-3502歌 巻第十四 相聞   或る本の歌曰く     よみ人しらず

  からころも すそのうちかひ あはなへば ねなへのからに ことたかりつも 

<可良己呂母 須素能宇知可此 阿波奈敝婆 袮奈敝乃可良尓 許等多可利都母>    

2-1-4425 755以前:天平勝宝7年

巻第二十  二月廿二日信濃国防人部領使上道得病不来 進歌数十二首、但拙劣歌者不取裁之(4425~4427)               国造小県郡他田舎人大嶋

  からころむ すそにとりつき なくこらを おきてぞきぬや おもなしにして 

<可良己呂茂 須曽尓等里都伎 奈苦古良尓 意伎弖曽伎奴也 意母奈之尓志弖>

 

② 文字数や律などに決まりのある和歌なので、意を伝えるために和歌の作者は文字数を費して詠むとおもいますので、いわゆる枕詞も有意として当該歌をまず理解したいと思います。

 そのような観点から、歌の文字の並びにおいて「からころも」表記が、掛かる一番近い言葉を抜きだすと、次のようになります。

 

からころも きならのさと・・・1首(2-1-957歌):着るあるいは着馴らすという動詞と最初に結びつく。作中人物が「からころも」表記のものを着るあるいは着馴らす意、となります。「き」表記には、更に動詞「来」(く)の(連用形の)意もあるかもしれません。

からころも すそに(の)・・・ 4首(2-1-2626歌、2-1-3501歌、2-1-3502歌、2-1-4425歌):衣の一部をいう「裾」という名詞と最初に結びつく。「からころも」表記の衣の裾の意、となります。「すそ」表記には、裾以外の意がないと思われます。

からころも たつたのやまは・・・ 1首(2-1-2198歌):衣を「裁つ」という動詞と最初に結びつく。「からころも」表記の衣としての所定の形に仕立てる意、となります。織ったり刺繍することは含まれないでしょう。「たつ」表記には、更に「発つ」とか「立つ」の意があるかもしれません。1-1-995歌と同じように「たつたのやま」にかかります。

からころも (きみに)うちきせ・・・1首(2-1-2690歌):衣を着せるという動詞と最初に結びつく。「き」表記には「着る」意のほかの意はないと思われます。

 

 いづれの歌でも、「からころも」表記は、現代でいう「服」の一種とみることができます。

 現代の「服」という表現は、服一般の指す普通名詞の用法のほか、相手との会話(あるいは一つの組織内でのやり取り)における特定の服の代名詞あるいは略称の場合があります。

 「からころも」表記も、同じように、衣裳の美称の可能性も特定の服の代名詞あるいは略称の可能性もあります。

③ では、「からころも」表記はこれらの歌の表現のなかで何かに形容あるいは制約されているかをみると、次のように2タイプとなります。なお、2-1-2626歌は歌意において2句で切れていると整理しました。

 

タイプ1:初句に「からころも」表記があり、形容あるいは制約なし:2-1-957歌2-1-2690歌、2-1-3501歌、2-1-3502歌、2-1-4425歌および2-1-2626歌

タイプ2:「きなしきなへに」という状況下という制約がある:2-1-2198歌 

 

 7首中6首がタイプ1であり、「からころも」(という服)を使用している状況での裾の取り合いなどを4首、「からころも」を着る状況に関して2首詠っています。これらの作者全員が共通のイメージを「からころも」表記に持っています。この6首は「皆さんよくご存じのあの服を着たとき」という意で用いられています。

 タイプ2は、「たつ」(裁つ)と服を作る過程の動詞と結びついています。「きなしきなへに」の万葉仮名は「来鳴之共」であり、「(雁が)来て鳴くのと同時期に」の意で、「たつ」(裁つ)時期を限定しています。雁は毎年来るので、「からころも」(という服)を作るのも毎年この時期に繰り返して行われる、ということを詠っているのが、2-1-2198歌です。

④ 単純に「からころも」を枕詞と割り切った場合、枕詞の語の意味する事物の一部分を被枕詞としている例を『例解古語辞典』(三省堂)の付してある「主要枕詞一覧表」によりみると、

・「雨衣」の「蓑」(別途「みの」には身のの意がある)

・「白波の」の「なみ」(別途「なみ」には並・無みの意がある)、

・「夏衣」の「ひとへ」(別途「ひとへ」には人への意がある)、「ひも」、「すそ」にもかかる。

・「からころも」の「ひも」(別途「ひも」には日も、の意がある)、なお「すそ」をかかる語(被枕詞)としていない。

などきわめて少ないものの、被枕詞となっている語は、それぞれ別の意味もある語であります。「からころも」に対する「すそ」にはそのようなことがありません。「からころも」に対する「き」には「着」のほか「来」の意を持っています。

 このことから類推すると、「すそ」を導いているかにみえる「からころも」は実際の服を特定するために用いられており、いわゆる枕詞ではない、と言えます。「からころものすそ(の、に)」を、和歌の律の関係で「からころも すそ(の、に)」と表現していると見られます。

 

3.片岡智子氏らの考察

① 私は以上のようなことを推論したりしたのですが、片岡智子氏は、『古今和歌集』等での「からころも」表記をも対象とし、高句麗・日本の古墳の壁画等から服飾を検討して詳細な考察をしています。

② 片岡智子氏は、「「からころも(韓衣・唐衣)」考 歌語の実態と消長」(1991/11/8)において、「からころも」の実態を探るとともに、その表現性を解明し、

・「からころも」は、北方胡服系の衣一般を指すものでなく、その後の時代に有用性故に残った特徴のある特定すべき衣の呼称であった。

・「からころも」は、胡風で、前身頃が左右に返されて前聞きの、秋に縫われる袷の衣で、恋の衣、旅の衣となる外套だったのである。

・時代とともに袖などが変化したが、長く愛用された衣服で、それは季節感もあり、表現性も豊かで、五音で声調も良く、歌語として定着した。

等を明らかにして、今まで単なる技巧とだけ捉えられていた枕詞や序詞(および)そこから導き出される縁語、掛詞が、にわかに生々と水々しく具体的イメージを伴って浮上して来る、と指摘しています。

③ また、『國史大辭典』(吉川弘文館)では、「萬葉集に「可良許呂毛」(巻14,20),「辛衣」(巻11)、「韓衣」(巻10)とある。「須曽尓等里都伎」(すそにとりつき)とか「襴之不相而」(すそのあはずて)として多く「すそ」にかけて使用しているので、長衣の襴付衣の表衣にちがいない。したがって短衣の無襴の背子(はいし・からぎぬ)とは別の表衣である。外来服であり、唐様か韓様かが問題であるが、『日本書記』天武天皇13年(684)閏四月丙戌条の詔に、「男女並衣服者、有襴・無襴、及結紐長紐、任意服之、其会集之日、著襴衣而著長紐」とあって、唐様の有襴の表衣の使用を伝えているので、「からころも」は、この種の胡服系の盤領(まるえり)の縫腋(ほうえき)のことのようである。」と説明しています。

④ 吉野裕子氏は、『新編日本古典文学全集 月報3』の「枕詞を推理する 御食向ふ」において、枕詞とは「古く日本の歌、文章において、特定の語の上におかれた言葉で、その目的は、その語を修飾し、あるいは句調を整えることにある、と定義されるとしたうえで、「枕詞は、まさにこの定義通りであるが、時には内実に深く立ち入り、その意味を推理する必要があろう。ある種の枕詞は古代日本人の世界観・祖霊観を内包し、同時に、それに伴う彼らの豊かな情感をも充分うかがわせるものだからである。」と論じています。

 

4.700年代でのからころも

① 片岡氏の論は、説得力があります。萬葉集歌人である官人も防人も着ることができた服の一つを「からころも」と詠っていると、私は思います。

しかし、服は、普通繰り返し着ることにより慣れてきますし、馴れて、だんだんよれよれになるものです。雁の飛来と同時に毎年つくる服ならば、すぐよれよれになる材料の入手が簡単であったと思われます。

 また、官人と、防人や庶民とが、作詠時点と推計した700年代前半の当時、材料も織り方も縫製も同じ服を着ていたとは思えません。現代でも、外套と形容してよい用向きの服は、ピンからキリまであります。江戸時代でも当時でも貧富に応じた外套とならざるを得ません。材料に色々の草木の利用もあったのではないでしょうか。両者が共通に着る日常着である上着が、現代で言えば特定ブランドの基本のデザインが同じ上着とするのは、限定しすぎると思います。

② 片岡氏は、旅の衣でもある、と論じています。

 官人の朝服は、現在の勤務先の制服にあたるもので、出勤途上も着用を義務付けられていないでしょう(律令で確認をしていないので今は予想の一つですが)。後年のことですが、狩衣は、私服として発達し平安時代の常服となっていったそうであり、朝服と常服と言う語を用いて諸氏が説明しています。

 旅行・移動にあたり、官人には、輿などを常用するクラスと乗馬を常用するクラスと徒歩のクラスがあり、それぞれの家柄などにふさわしい私服が着用されたのでしょう。徒歩のクラスの官人は、冬用の外套には、獣皮、布を素材に選んだと思います。庶民においても同じでありましょう。スーツの上に裾を出すスタイルを撰べば、その外套が短衣(丈が長くない衣)というデザインであるのは、いつの時代も同じではないでしょうか。

③ 2-1-2198歌から、雁が飛来する頃毎年「からころも」(という服)は作る、あるいは作り直される、と言うことが示唆されていますので、長持ちする材料で作る服でも「からころも」の範疇であるようにみえます。

④片岡氏の論と上記を踏まえると、裾に特徴のある胡服起源を含めて、

「からころも」表記は、官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着を指す、と思われます。その上着は、耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含まれます。

⑤ なお、片岡氏は、三代集の「からころも」表記のある歌の解釈もこの論文で示していますが、1-1-995歌に関する指摘については理解できませんでした。

⑥ 次回は、三代集の「からころも」表記に関して記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

 

 

わかたんかこれの日記 ゆふつけとりは2種類

2017/5/1  前回、「平安初期のあふさか その2」と題して記しました。

 今回は、「ゆふつけとりは2種類」と題して、記します。

「あふさか」表記のある1050年までの歌は、「逢ふ」あるいは「再会」を含意する「あふさか」という土地の名にことよせて作者は意を述べていることがわかりました。

 今回は「ゆふつけとり」と「あふさかのゆふつけとり」を考察し、最古の「ゆふつけとり」表記の歌の理解に資することとします。

 

  1. 「ゆふつけとり」表記に関する確認

① 「ゆふつけとり」表記に関して、いままでに確認したことをまず記します。

② 「ゆふつけ」あるいは「ゆふつくる」と表記した歌は、『新編国歌大観』記載の歌では、採用した推計方法の限界から作詠時点が849年以前と推計される次の3首が最古の歌で、みな「ゆふつけとり」表記があります。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-995歌 たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

 『萬葉集』には記載がありません。 536歌について片桐洋一氏は『古今和歌集全評釈』で、「469歌から始まった恋部は、逢えずに恋い慕う歌ばかりつづいていたが、この歌に至って、やっと「逢ふ恋」が登場した。当時の「恋ふ」は、同じ動詞に「乞う」「請う」などという感じが当たられていることでわかるように、目の前にいない人を求めることであって、逢った時の歓喜を詠むことはない」、と指摘しています。

 そして、この表記の歌は1050年までには一旦終焉しました。この間に22首あります。

③ この22首には、鳥が「なく」行為を詠んでいる歌が16首あります。「なく」とは、歌の本文に「なく(鳴く)・告ぐ・こゑたつ・きこゆ・ひと声」の表現がある、という意です。この16首を、作詠時点順にみると、「なく」時間帯と「ゆふ」に掛る詞に変遷があります。

 第一に、最古の歌から923年以前と推計した歌(5-417-21歌)までの7首は、時点が不明か夕方に「なく」歌であり、そしてすべて「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっていたとしても不合理ではありません。そして「あふさかのゆふつけとり」の意と決めかねる歌は、「あふさか」表記のない1-1-995歌だけです。

 また、作中人物は「逢ふ」前の(あるいは逢えると信じてよい)時点で、詠っています。但し、1-1-995歌を留保します。

 第二に、8番目に古い943年以前と推計した1-10-821歌と9番目の951年以前と推計した歌5-416-188歌は、暁に「なく」歌であり、表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であります。そしてこの2首における「ゆふつけ」(鳥)は、「あふさかの」と形容されていません。

 また、この2首は、作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っています。

 第三に、10番目となる955年以前と推計した1-2-982歌以降は、7首のうち3首が、暁に「なく」歌であり、かつ作中人物が「逢ひて」後の時点の状況を詠っており、そしてその3首の「ゆふ」表記に夕方の意が掛かっているのは不自然であったり、「夕」の表現をわざわざするという工夫を凝らしています。 

④ 「あふさか」という地名が表記された『萬葉集』記載の歌6首のうち3首で、三代集記載の歌すべてに「逢ふ」意が含まれています。「あふさかのゆふつけとり」は、「逢ふ」ことに関して歌人は用いて鳴かせているということです。

⑤ 1-10-821歌は、ゆふつけ鳥が初めて暁に鳴いている歌です。歌合における 「暁別」 と題する歌であり、その題から鳥の「鳴く」時間帯が作者に与えられていることになります。

1-10-821歌 『続後撰和歌集』 兵部卿元良親王家歌合に、暁別   よみ人しらず

したひものゆふつけ鳥のこゑたててけさのわかれにわれぞなきぬる

 積極的に「あふさかの」という形容を止めた最初の歌であり、「ゆふつけとり」と表記した後朝の別れの歌として最初の歌でもあります。

 「ゆふつけとり」に、「都あるいはその近辺の住居の近くにいる」設定の「ゆふつけとり」があらたに加わりました。「あふさかで聞くことのできるゆふつけとり」からどこにでもいる「ゆふつけとり」へ、「ゆふつけとり」の一般化がされたという理解も可能です。

 この歌で鶏の異名として「ゆふつけとり」が確定し、鳴く時間帯も暁が定番となったと思われます。

⑥ 「ゆふつけ」表記に含意する詞は、最古の歌の「夕べ」から始まり、1-10-821歌で「結ふ」、3-23-26歌で「木綿」が加わりました。

⑦ 「ゆふつけとり」表記の略称としての「ゆふつけ」表記がある最初の歌は、1-2-1126歌であり、最古の歌(849年以前の歌)から約60年後の作詠です。そのつぎの略称使用の歌は、さらに約40年後の大和物語にある5-416-188歌です。但し1-1-995歌は留保します。

⑧「ゆふつけ」表記あるいは「ゆふつくる」表記の歌にはゆふつけ鳥を意味しない歌もあり、単に「夕べ」、「木綿を付ける」意の歌が各々1首、5首あります。

⑨ 「をりはへて」と言う表記は、『萬葉集』になく三代集に「ゆふつけとり」で1首(1-1-995歌)、ほととぎすで2首あります。「をりはへてなく」とは、一フレーズの時間が長いというよりも、飽きないでそのフレーズを繰り返している状況を指しています。「声ふりたてて」も同じ状況を指しています。

⑩ 最初の7首に登場する「ゆふつけとり」が、どんな鳥を指すのかまだ未検討です。

 

2.最初の7首におけるゆふつけ鳥の実際

① 1-1-821歌以前の「ゆふつけとり」が「なく」のを改めて各歌についてみると、

1-1-536歌は、ねのみなくらん

1-1-634歌は、なかずもあらなん

1-1-995歌は、をりはへてなく

1-1-740歌は、ゆふつけとりはなくという表現がなく (作者が)なくなくもみめ

3-13-87歌は、つげしかど

1-2--1126歌は、(ゆふつけに)なく鳥のねを・・・ききとがめずぞ・・・

5-417-21歌は、ゆふなきを・・・(作者が)なきわたるききわたる

と、あふさかのゆふつけとりは、季節を気にせず鳴き続けています。

 たまたま相坂にいる鳥、季節性の強い鳥ではなさそうです。

 夕べを「ゆふ」に掛けている歌からは夕方鳴き続ける鳥のイメージがあります。

② 鳥の習性は、昔も今もほとんど変わりません。だから、現在の夕べの光景も充分参考になる、と考えらます。

 充分大きくなった街路樹のある駅前などで、夕方モズが集団を為してせわしく鳴いている光景をよく見かけます。そして自らの巣にある方向に一斉に飛び立ちます。

 カラスやスズメなどが集団を為して夕方飛び回り一方向に飛んでゆく光景も、よく目にします。

 鶏は養鶏場に飼われているので放し飼いされた鶏の夕方の行動はわかりません。どなたか教えてください。自家用の卵を採るため各農家が飼っていたころは、夕方鶏の騒ぎを聞いたことがあります。

 当時鶏は、採卵よりも闘鶏用に飼われ(当然オスが少なくない)ていました。

③ 相坂の地は、平城遷都により歌人にぐっと近いものになりました。相坂にあったという関寺やその近くの石山寺など、参詣で相坂の地は官人以外も通過する場所でした。しかし、当時の相坂の地は、森林に囲まれていたはずです。夜は街灯のない当時は新月の夜は星明りだけです。

 当時の日本列島の人口は、井上滿郎氏(論文「平安京の人口について」)によると、平安初期の人口は約600万人です。2017年1月1日現在の日本の人口12,694万人の5%未満であり、人口密度は20人/㎢未満です。野鳥は断然身近な存在であり、夕方騒ぐのをみることがよくあったのではないでしょうか。

 日が暮れて行き、巣に向かう前に集まって夕鳴きする鳥たちを、「ゆふつけとり」と表記したのではないでしょうか。飼っていた鶏も鳴き出し、「ゆふつけとり」の仲間となったかもしれません。

 この光景は、1-1-821歌以前の7首の「ゆふつけとり」のイメージに合います。逢えることが分かっている1-1-536歌の作中人物は、その夕暮の鳴き声が、自分の気持ちの高ぶりと同じだと感じたのではないでしょうか。続々と星が見えてくるのは、逢いたい人との距離がどんどん縮まっているかに感じ鳥たちが一斉に鳴いたのち、必ず巣に向かうのを、逢う事へ予祝に思え、頼もしく見上げたのではないでしょうか。

④ 巣に向かう前の情景に登場する鳥たちを「ゆふつけとり」と表記したのだと思います。「夕告げ鳥」であったのです。但し、1-1-995歌がこの理解で良いかどうかは、保留せざるを得ません。「逢う」前と作者が思っているのかを、今のところ歌に私は発見できないでいますので。

 

3.和歌の表現

① 『古今和歌集』の作者たちは、和歌を、清濁無視の平仮名で書き表し、積極的に、それを利用して作詠していると、諸氏が指摘しています。

 例えば、「ゆふつけ」表記は、「yufutsuke」と「yufuzuke」と「yufutsuge」という発音に対応しているので、その表記の意味は、「夕付け」「夕づけ」「夕告げ」「木綿付け」「木綿づけ」が有り得ます。また、「ゆふ」表記だけならば「夕」や「木綿」のほかに「結ふ」や「言ふ」も有り得ることです。

「ゆふつけ」表記に二つの意味を掛けていることを、歌を贈られた人も歌合の会合に連なる人も理解していたということです。

② 今、資料として用いた『新編国歌大観』の、『古今和歌集』は、漢字かな交じりで記述されています。そのほかの歌集も同じです。今目にしている歌の表現が、詠まれた時の姿ではない、ということです。原本となる歌はコピー&ペーストで広がったのではなく人の手で書き写されて広がり、今日まで伝えらました。

③ 現在、和歌本文にある「ゆふつけ鳥」という表現を、[yuutsukedori]と発音していますが、『古今和歌集』の歌人たちが、どのように発音していたのか、知りません。

 和歌は、公私の宴会の席、歌合の場で、朗々と読み上げられたと、諸氏が指摘しています。詩文での前例があります。

④ (2017/3/31の日記に記したように)和歌の表現は「伝えたい事柄に対して文字を費やすもの」である、という考えで、今検討をしています。例えば、逢った翌朝渡す和歌は、当事者の二人(と仕えている何人かの人々)に意が十分伝わるように、屏風歌であるならば、その屏風で荘厳した賀の式典の参加者には是非とも理解を得ないとなりません。100年後の鑑賞者のために当時の常識的なことに文字を費やすはずがありません。それは、歌集の編纂者も同じです。

⑤ 「あふさかのゆふつけとり」と11文字も費やすのですから、(作者であり、鑑賞者でもある)歌人たち共通の認識があったはずです。1050年前後に廃れてしまった言葉は、後代の者にはなぞかけの一つになりました。

4.ゆふつけとりとあふさかのゆふつけとり

① 「逢ふ」を含意できる「あふさか」の地名は、『萬葉集』では「相坂山」で多く用いられ、その後色々の景物を生みました。そのひとつである「ゆふつけとり」が、849年以前の1-1-536歌などで生まれました。「しみつ」(清水)も、850年以前の1-1-537歌で生まれています。

 「あふさかのゆふつけとり」は、略称が作れなくて文字数をなかなか減らせませんでした。

 「あふさかのせき」は、「せき」で同じ意を持つようになりました。

 「あふさかのしみつ」 は、三代集だけに限っても、最初の「相坂の関にながるるいはし水」から、「あふさかの関のし水」、  「あふさか山のいはし水」  「(関こえてあはづのもりのあはずとも)し水」と苦労しています。

④ このようななかで、暁に鳴く鶏という意を新たに「ゆふつけとり」表記が獲得したのです。

 「ゆふつけとり」表記は、逢った後のシーンである後朝の別の時間帯に登場する鳥であり、「あふさかのゆふつけとり」表記は、確実に逢える時の時間帯に登場する鳥であるというように、二つの違った概念となったと思われます。「あふさかのゆふつけとり」表記の略称(使用文字の減少)が「ゆふつけとり」だけというわけではありません。

⑤ 現在、「車」(くるま)は、自動車の略称として用いられています。車両法にいう車両の略称としても用いられています。また、車輪や円形のものも指す場合もあります。車輪から「車」という用語がはじまったのでしょうが、現在は、自動車の略称としてよく使われています。「ゆふつけとり」も意味が順々と込められていって、最後の意味が主たる使い方となっていったのではないでしょうか。

⑥ 1-10-821歌の作者は、「あふさかのゆふつけとり」の持っていた「なく鳥」のイメージだけを引き継いだのではないかと思われます。

 暁になく鳥の候補は、時を告げるイメージを既に得ている鶏、『古今和歌集』夏の部に象徴されるように聞くことができる時期が限られているものの暁の鳥と詠われている郭公、現代の電線に集まる雀、暁烏とも称される烏などがあります。そのなかから、歌人たちは、季節に関係なく鳴く鶏を選び取ったのではないでしょうか。

⑦ 相坂の現実を離れて「ゆふつけとり」と詠うにつれ、「なく」要素をも意識から消えてゆき、単に、鶏を指す言葉と歌人たちが理解してしまったのではないでしょうか。(1050年以降の「ゆふつけとり」の検討は後日とします。)

 

5.1-1-995歌について

① 1-1-995歌の「ゆふつけとり」表記は、夕べに鳴いているとなれば、(たつたの山で鳴いても)1-1-536歌の「あふさかのゆふつけとり」と同様に、の意という解釈も可能です。「みそぎ」などの用語から、夕べに鳴いていることが否定されると、1-1-536歌の「ゆふつけとり」と違う意味合いを持っている可能性が生じます。

② 1-1-536歌や1-1-634歌の作者は、相坂の地に居るか、相坂に居る思い人のところに夜往復できる土地にいる人物が、まず浮かびます。防人の歌が『萬葉集』にあるように、都に住んでいない人達がたくさんの歌を詠んでいますから、この可能性は高いと思いますが、相坂を通過する官人の可能性があります。1-1-995歌の作者が相坂に居るものとは思えませんので、どのような経緯で「あふさかのゆふつけとり」という表現を知ったのかも確認を要すかもしれません。

③ 1-1-995歌の理解のためには、この歌の用語で名詞である「みそぎ」や「からころも」や「たつたのやま」も、この時代どのような認識を歌人たちが持っていたのか、の確認が要します。

④ なお、ここに記した事柄を、すでに公表されている論文・記事等が指摘していたら、私のこの記事はその指摘を再確認しているものです。

次回は、これらの名詞のうち、「からころも」に関して記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

わかたんかこれの日記 平安初期のあふさか その2

2017/4/27   前回、「平安初期のあふさか その1」と題して記しました。

 今回は、「平安初期のあふさか その2」と題して、記します。

 「あふさか」表記を冠している1050年までの歌で関や山を詠み込んだ歌は、「逢ふ」等を含意する「あふさか」という土地の名にことよせて作者は意を述べていることがわかりました。

 今回は、「あふさか」のその他の景物の描写のある歌や清少納言の関にまつわる歌などを検討し、初期の「ゆふつけとり」表記の歌の理解に資することとします。

 

  1. 平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: しみつ

① 「あふさかのしみつ」表記の歌でも、「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けて詠まれているかどうかを、確認します。

 検討対象の歌は、次の3首です。

1-01-537歌: 『古今和歌集』 第十一 恋歌一 題しらず     よみ人しらず

    相坂の関にながるるいはし水いはで心に思ひこそすれ  

 作詠時点が850年以前の歌で、相坂の清水を詠んだ最古の歌です。久曽神氏は、「相坂の関」とは、恋しい人に逢う意をほのめかしているのであろう、と指摘しています。障害(関)があっても逢いたいと思う気持ちが途切れることのないことを、いはし水は、象徴しています。

 

1-03-0170歌 『拾遺和歌集』 第三 秋 延喜御時月次御屏風に    つらゆき

    あふさかの関のし水に影見えて今やひくらんもち月のこま

 年中行事である相坂の関で行われる駒引きを詠った歌です。畿内と畿外の堺で、連綿と続く行事(を行う朝廷)の永遠性を寿ぐかのように、絶えることのない「清水」を詠み込んでいます。

 

1-01-1004歌 『古今和歌集』 第十九 雑体 

「ふるうたにくはへてたてまつれるながうた」の反歌        壬生 忠岑

    君が世にあふさか山のいはし水こがくれたりと思ひけるかな

 今上天皇の御代に逢い、作者が感じたその恩徳が世に行き渡る様を、絶えず流れでるという清水で、象徴させている歌です。       

 このほか、「あふさか」表記がないものの「せき」と「しみつ」の表記がある1-2-0801歌もあります。

 

1-2-0801歌 『後撰和歌集』 第十二 恋四 

あひしりて侍りける人の、あふみの方へまかりければ       よみ人しらず

    関こえてあはづのもりのあはずともし水にみえしかげをわするな

 この歌の「せき」表記は「逢う」ための障害の意です。その障害に喩えた相坂の地の清水は尽きることはなく、その水面に映った私の影がいつまでも消えずにあるように、(関まで送っていった)私を忘れないで、と作者は詠っています。

 この歌では、「あふさか」の地にある清水は、「逢う」まで作者の気持ちが尽きることのないことを象徴しています。

② このように、「あふさかのしみつ」表記は、絶えることのないことを象徴しています。相坂の地の清水も、官道を往来または送迎で官人には馴染みのものであったと思われます。

 

2.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察: ゆふつけとり

① 三代集での「あふさかのゆふつけとり」表記の歌5首は、作詠時点順に示すと、次のとおりです。

1-1-536歌 相坂のゆふつけどりもわがごとく人やこひしきねのみなくらむ

1-1-634歌 こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-1-740歌 相坂のゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め

1-2-982歌 関もりがあらたまるてふ相坂のゆふつけ鳥はなきつつぞゆく

1-2-1126歌 相坂のゆふつけになく鳥のねをききとがめずぞ行きすぎにける

 これらの歌すべての「あふ」表記には、「逢ふ」が掛かっています。そして「逢ふ」前の時間帯(当時の常識としては夕べ)に「ゆふつけとり」が鳴いています。それも官道が通過する(関が設けられ山も近い)「あふさか」という(逢ふを掛けることのできる名の)集落近くで、日常的に歌人たち(ほとんどが官人です)が聞くことができていた鳥だから、実際に親しみもあったのでしょうか。

 そして、夕べに鳴くという理解がすべて可能です。

 また、作中の主人公は、鳴く声を、気を引いているかに、聞きなしています。あるいは期待が高まる(はず)と聞いています。

② 三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記がある1050年以前の歌が、『新編国歌大観』に2首あります。

 一つが、5-417-21歌。923年以前の作詠時点で、「・・・あふさかの ゆふつけとりの ゆふなきを・・・」と表記されている『平中物語』の歌です。ゆふつけとりが夕方に鳴いています。

 もうひとつが、5-419-672歌。999年以前の作詠時点で、「ほのかにもゆふつけどりときこゆればなほあふさかをちかしと思はん」と詠われている『宇津保物語』の歌です。ゆふつけとりがかすかでも鳴いたのが聞こえたので、逢うことも近いと推理するのは当然でしょうと詠っています。聞いたのは後朝の別れの際に聞いたことでないことがはっきりしているので、明け方が対象外となり、夕べという時間帯が有力となります。少なくともこの歌も夕べに鳴くことを否定できていません。

 この2首も「あふさか」で鳥が「なく」ことに意味があり、それも夕べが有力な時間帯です。

③ 「夕べ」とは、日が落ちてゆき訪れた夕闇の空に、それまで見えなかった星がひとつまたひとつと見えてくるころ合いです。続々と星が見えて来ることは、逢いたい人との距離がどんどん縮まっていることを予感させたのではないでしょうか。夕べとは、特に星がみえる夕べとは、人と逢う・逢えることの期待感を膨らましてよい、星がみえることは予祝でもある、と感じ取っていたのではないでしょうか。

④ 1050年以前に作詠された「あふさか」表記の歌35首(景物でカウントすると36首)の、「あふさか」には「逢ふ」が含意されていることが確認できました。そのため歌人、「あふさかのゆふつけとり」という表記ならば、「逢ふ」を含意する「あふさか」の地の鳥であり、官道が通過する地であるので往来する官人もよく聞いた鳥で夕べによく鳴く鳥というイメージを共通にしている思われます。  

⑤ 鳥の種類は次回検討します。

⑥ この時代、「あふさか」表記のない、単に「ゆふつけとり」という表記だけの歌は、「あふさかのゆふつけとり」の略称か、あるいは「逢ふ」を含意する「あふさか」という表現を積極的に作者が避けたかという推測が成り立ちます。

3.三代集以外の歌集等での「あふさかのゆふつけとり」など

① 今、最古の「ゆふつけとり」表記を理解するには、『古今和歌集』成立時点の前後150年程度の期間(750~1050年)の検討を要するとして作業をしています。

② この間に詠まれた歌で「あふさかのゆふつけとり」関連の歌を広く探すと、先の2首のほか、清少納言の歌が、勅撰集に1首あります。

 この歌は、函谷関の故事(鶏鳴の空音で、開門が早まり関を通過でき、つまり目的を達成した)が、相坂の関(鳥が鳴いたので貴方と逢える)に通用しない、と詠っています。鳥は、函谷関の故事にならうと、夜が明けたことを鳴いて知らせるという鶏となります。いままで検討してきた結果の夕べに鳴く鳥では、ありません。

 

1-4-939歌 『後拾遺和歌集』 巻第十六 雑二 

 大納言行成ものがたりなどし侍りけるにうちの御物忌にこもればとていそぎかへりてつとめてとりのこゑにもよほされてといひおこせて侍りければ、よぶかかりけるとりのこゑは函谷関のことにやといひにつかはしたりけるをたちかへりこれはあふさかのせきにはべりとあればよみはべりける    清少納言

    よをこめてとりのそらねにはかるともよにあふさかのせきはゆるさじ

 この歌は、長徳4年(998)か翌年頃のことと諸氏が指摘しています。作詠時点を、今999年以前と、推計します。 小倉百人一首にあり、『枕草子』にある話です(池田亀鑑氏校訂岩波文庫版136段)。その『枕草子』には、返歌が記されています。

    返歌                     行成

    逢坂は人越えやすき関なれば鳥鳴かぬにもあけて待つとか

 作者行成は、鳥ではなく、関で返事をしました。函谷関と違い、官道に設けられた相坂の関は通行自由だったのが実態だったようで、「よりによって相坂の関にかこつけて断るのはおかしいではないか(心にもない断りですね)」と、揶揄しています。

 なお、『後拾遺和歌集』と『枕草子』を比較すると、「とり」と言う表現は同じですが、「函谷関のことにや」と言う表現が『枕草子』では、「孟嘗君のにや」(能因本の『枕草子』では「孟嘗君のかや」)という表現になっています。

 『後拾遺和歌集』によれば、行成が昨夜退席した理由を「夜深かかりけるとりのこゑ」にせき立てられてと事実ではないことを承知で言ってきたので、清少納言は「その鳥は函谷関の鳥ですか。空鳴きの鶏ですね(嘘は言わないで。貴方が逃げ出したのでしたね)」と返事をしています。行成に、折り返し「相坂の鶏」ですと返されたので、この歌を返したしたところ、行成の返歌がありました。

このやり取りの時点は、1-10-821歌が既に披露された後ですが、清少納言は、相坂と「夜明け前の鶏」の関係を知らなかったのです。知っていれば、「夜深かかりけるとりのこゑ」から函谷関ではなく直ちに1-10-821歌も思い浮かべて(「また逢ふ」あるいは「後朝の別れ」などに喩えた)返事をしたためたでしょう。「また、中宮定子様のサロンにきてくださいな」という返事です。

 行成は、最初の書面で鳥を記しました。関の話題としたのは清少納言です。和歌に関する知識の差が明らかです。勅撰集入集は行成が9首、清少納言はこの1首です。

 『枕草子』によれば、返歌があった後「返しもえせずなりにき。いとわろし。」と中宮定子側の評価を清少納言は記し、行成が前日からこの歌の後までの一連のやり取りを楽しく源経房などに披露したという伝聞も紹介しています。当時においても、相坂と(夕べのゆふつけ鳥ではなく)「夜明け前の鶏」の関係の認識は、まだ一部の者に限られていたことの例証であります。

 行成は、詳細を極める日記「権記」が著名で、平安中期の政情・貴族の日常を記録したことで重要視されており、能吏として寛弘四納言の一に列し、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。中宮定子との良き関係は保っていたい者のひとりであります。

② ちなみに、『枕草子』では、鶏への言及は115段だけのようです。

1段(「春は曙・・・」)で、秋について「夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすの寝所へ行くとて、三四、二みつなど、とびいそぐさへあはれなり」と記し、鳴き声より視覚に訴える鳥を挙げています。

41段(「鳥は、・・・」)で、おふむから始まり、ほととぎす、くひな・・・うぐひす・・・とありますが、鶏にへの言及はありません。

72段(夜烏どものゐて・・・「」)では、「木づたひて、寝起きたる声に鳴きたるこそ・・・」、また、73段(「しのびたる所にありては・・・」)では、「(夏夜通し起きていて)ただゐたる上より烏のたかく鳴きて・・・」、と夜明け前の烏の鳴き声を描写しています。

115段(「つねよりことにきこゆるもの・・・」で、元旦の「鳥の声」を挙げています。これは時を告げる鶏鳴を指しています。

③ 詩文では、関と鶏の取り合わせの歌が詠まれている例があります。

例えば、弘仁9年(818)成立という勅撰漢詩集『文華秀麗集』には、函谷関を脱出した孟嘗君の故事を踏まえた詩である「故関聴鶏」などがあります。

また、長和元年(1012)4月頃成立されたとされている『和漢朗詠集』には、題に「鶏」は無く、「暁」の題で「・・・函谷に鶏鳴く」、擣衣の題で「・・・夜夜幽声到暁鶏」とあるのみです。勿論「ゆふつけとり」という用語の例もなく、国内の関と鶏を取り合わせた詩文もありませんでした。

函谷関の故事から「ゆふつけとり」という表記は生じなかった、と言えます。

④ 1050年までに成立した類題和歌集があります。976~982年頃成立という『古今和歌六帖』です。この和歌集は、「ゆふつけとり」を詠む歌を第二帖「宅」の項目の「にはとり」の項に分類しています。平安中期において鶏の別称と歌人たちが認めていたことは間違いありません。第六帖「鳥」の項目には「とり」「つる」「ほととぎす」などが立項されています。なお、この歌集は、943年以前に詠まれた1-10-821歌の後に成立した歌集です。

 『古今和歌六帖』記載の、「ゆふつけとり」表記の歌は、次の3首です。『新編国歌大観』記載の勅撰集に重複している歌があるので、その歌(この日記でいう代表歌)で示すと、

 1-1-634歌 849年以前の作詠と推計したよみ人しらずの歌。

 1-1-740歌 890年以降の作詠で 閑院。

1-1-995歌 作詠時点と作者が634歌と同じ。

 「あふさか」という形容を除けて『古今和歌六帖』は記載しています。

⑤  成立時点が天永2年(1111)~永久3年(1115)の間と言われている『俊頼髄脳』があります。検討の期間後の成立ですので、検討を割愛します。

⑥ 話題を、「あふさか」に戻します。詩文に「相坂」の文字はなく、三代集等に残された和歌では上にみてきたとおりです。

三代集の歌人たちは、「あふさか」には、「逢ふ」あるいは「別れそして再会」のイメージがついて回ることを前提として、関(障害)、山(乗り越える対象)、清水(絶えないこと)及びゆふつけ鳥の鳴き声(期待の高まり、1-10821歌以後は特に再会への期待)のイメージを歌人は共有しています。また、その共有のうえで、「相坂のゆふつけ鳥」の略称としての「ゆふつけ鳥」も生まれたと理解できます。

⑦ 次回は、「ゆふつけとり」と「あふさかのゆふつけとり」に関して記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

 

 

わかたんかこれの日記 平安初期のあふさか その1

2017/4/24      前回、「奈良時代のあふさか」と題して記しました。

今回は、「平安初期のあふさか その1」と題して、記します。

「ゆふつけとり」表記のある最古の歌3首は、(2017/3/31の日記に記載した)作詠時点推計方法の限界から同時期と推計せざるを得ませんでした。ただ、そのうちの2首に「相坂のゆふつけ鳥」とあります。「あふさか」という表記に対する古今集歌人たちのイメージを確かめ、最古の歌3首でのゆふつけ鳥の意味を考える資料とします。

 

1.最古の3首

① 最古の歌は、作詠時点が849年以前と推計した『古今和歌集』のよみ人しらずの3首です。歌番号等は『新編国歌大観』によります。

1-01-536歌 相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらん

1-01-634歌  こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-01-995歌  たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく 

 これらの歌の以後、ゆふつけ鳥には「相坂の」と言う形容が、ついたりつかなかったりしています。ゆふつけ鳥には、「相坂のゆふつけ鳥」ということに限定して、歌人に共通のイメージがあるのかもしれません。

② その時代の言葉は前後150年程度の期間で検討する方針ですので、この3首の理解のためには、前回検討した『萬葉集』のほかに、三代集や同時代の私歌集などが資料となります。

 

2.平安遷都後の「あふさか」表記

① 『萬葉集』以後、1050年までの検討期間の資料として、例にまずより三代集をとりあげます。『新編国歌大観』によって「あふさか」表記の歌を検索すると、『古今和歌集』に10首、『後撰和歌集』に20首及び『拾遺和歌集』に5首あり、合計35首あります。なお『拾遺抄』にある3首は全て『拾遺和歌集』に記載があります。

 又、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌が、2首(1-2-0785歌と1-2-0801歌)ありました。共に,都にいる者と近江国に行くことになった者との間で交された歌です。

 これらの歌の作詠時点を、(2017/3/31の日記に記載した推計方法に従い)推計し、『新編国歌大観』の歌番号等によって整理すると、次の表になります。表中、歌番号等が赤字の歌は、作詠時点の推計にあたり、各集のよみ人しらずの歌と整理して推計した歌です。

 

表 「あふさか」表記の三代集の歌 作詠期間別・表記区分別内訳 (2017/4/24現在)

作詠期間

「あふさか・・・」表記が

「あふさか」(右欄すべてを除く) a

「せき」もある

       b

「やま」もある

       c

「ゆふつけ」もある       d

~850

1-1-988

 

1-1-537

1-1-1107

 

1-1-536

1-1-634

 5首(5首

851~900

1-1-390

 

 

1-1-740

 2首

901~950

1-2-0905

1-2-1038

1-2-1305

1-2-0723

1-3-0314

 

1-2-0859

1-1-0374

1-1-0473

*1-2-0801

1-2-0802

1-2-0981

1-2-0982

(「ゆふつけ」もある/重複歌)

1-2-0983

1-2-0984

1-2-1089

1-2-1303  

1-3-0170

1-2-0516

1-3-1108

1-1-1004

1-2-0622

1-2-0700

 

1-2-0982

(「せき」もある/重複歌)

1-2-1126

 

22首(11首) (重複を除く)

 

*印1首(1首)

951~1000

1-3-0580

 

1-2-0731

*1-2-0785

1-2-0786

1-2-0732

1-3-0169

1-2-1074

 

 

6首(1首

 

*印1首

8首(5首)

18首(8首

 

*印2首(1首

5首(2首

4首(2首)(重複を除く)

35首(17首)(重複を除く)

*印2首(1首

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。

注2)表記が「「やま」もある」とは、「相坂山」の意の山を言う。

注3)歌番号等が赤字は、作詠時点をよみ人しらずの歌として推計した歌である。

注4)合計欄の赤表示の歌数は、よみ人しらずの歌数の計である。

注5)*印は、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌である。

注6)歌数の合計は、重複歌は合わせて1首とカウントしている(三代集記載の歌数となる)。

注7)三代集には、1001~1050年に詠まれた「あふさか」表記の歌は無かった。

 

② 上の表の「「あふさか」(右欄すべてを除く)」欄(a欄)の歌8首について、その表記が何を指しているのかを歌の内容により確認すると、次のようになり、土地の名と思われる1-1-390歌1首を除き略称といえます。いずれにしてもそれらは「あふさか」の景物と言えます。

1-1-988歌 相坂山の略称     部立は雑

1-1-390歌 相坂という土地の名  部立は離別

1-2-0905歌 相坂の関        部立は恋

1-2-1038歌 相坂山の略称    部立は恋

1-2-1305歌 相坂の関      部立は離別

1-2-0723歌 相坂山の略称    部立は恋

1-3-0314歌 相坂の関      部立は別

1-3-0580歌 相坂山の略称または相坂山を越える峠。歌中の「山人」との関係では前者か。 部立は別

 この35首の歌を改めて、景物により整理し、かつ各歌の部立別及び作詠期間別に集計すると、下の表のようになります。なお、『古今和歌集』の墨滅歌である1-1-1107歌は、部立を恋部として整理しています。

 相坂の景物は、「関」、「山・峠・地名」および「ゆふつけ鳥」の3区分としました、圧倒的に「関」が多く、また、部立では恋の部が多い。

 

 表 「あふさか」表記の三代集の歌 景物別・作詠期間別・部立別内訳  

       (2017/4/24現在)

作詠期間

相坂の景物

 

    

関  b’

山と峠と地名  c’

ゆふつけ鳥  d’

~850

 

 

恋 1首 (1首

恋 1首 (1首

雑 1首 (1首

恋 2首(2首

 5首 (5首

851~900

 

 

離別 1首

恋 1首

 2首

901~950

 

 

恋 10首 (7首)

別・離別 2首

秋・雑秋 2首

雑 2首 (2首

*恋 1首(1首)

恋 4首(2首)

雑体 1首

 

 

恋 1首(1首)

(「せき」もある/重複歌)

雑 1首

23首 (12首

(重複歌含む)

 

*印1首(1首)

951~1000

 

恋 3首

秋 1首

*恋 1首

恋 1首

神楽歌 1首(1首

 

 

6首 (1首

 

*印1首

計(重複1首を含む)

 

21首 (10首)

*印2首(1首)

10首 (5首)

5首(重複1首を含む) (3首)

36首 (18首

*印2首(1首

部立別の計(重複を含む)

 

恋14首(8首

秋・雑秋 3首

離別・別2首

雑 2首(2首)

 

*印恋2首(1首)

恋 6首 (3首

離別 1首

雑・雑体 2首(1首

神楽歌1首(1首)

恋 4首(3首

(重複を含む)

雑 1首

恋24首(14首

秋・雑秋 3首

離別・別 3首

雑:雑体5首(3首)

神楽歌1首(1首)

*印2首(1首)

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。

注2)表記が「「やま」もある」とは、「相坂山」の意の山を言う。

注3)*印は、「あふさか」表記はないものの相手の歌または詞書から相坂の関と特定できる「せき」表記の歌の集計である。

注4)歌数の合計は、関とゆふつけ鳥の両方のある歌(1-2-0982歌)を各景物ごとに1首とカウントした歌数である。

注5)()内の赤表示の歌数は、作詠時点をよみ人しらずの歌として推計した歌の計である。

注6)三代集には、1001~1050年に詠まれた「あふさか」表記の歌は無かった。

注7)『古今和歌集』の墨滅歌である1-1-1107歌は、部立を恋部として整理した。

 

③ なお「あふさか」の景物には、上の表に加えるのを割愛しましたが、清水、もあります。三代集で「あふさか」表記と「しみつ」表記(清水)のある歌を検索すると、3首あります。 この3首は、絶えず流れ出ていることことに注目し、清らかで変わらぬことの象徴の意で詠われています。

1-01-537歌:「あふさか」と「せき」と「(いは)しみつ」各表記あり よみ人しらず 

1-03-0170歌「あふさか」と「せき」と「しみつ」各表記あり  つらゆき

1-01-1004歌「あふさか」と「やま」と「(いは)しみつ」各表記あり  壬生 忠岑

 「あふさか」表記がないものの「せき」と「しみつ」の表記がある1-2-0801歌もあります。この歌の「せき」表記は「あふさかのせき」の略称です。

 

3.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察  作詠時点から

① 三代集において、「あふさか」表記と合せて「あふさか」の景物を詠みこんだ1050年以前の歌が、景物を指標としてカウントすると36首ありました。勅撰集の部立でみると、「あふさか」は、恋の部の歌が24首と主流でありました。700年代の天平以来の「あふさか」表記に「逢ふ」を重ねることが継承されており、『萬葉集』ではなかった(「あふ」に反するような)関などをも詠う点に、歌人の創意工夫が感じられます。

 この36首について、作詠期間別に、そののち、景物別に検討したいと思います。

② 作詠時点が850年以前の歌5首は、すべて『古今和歌集』のよみ人しらずの時代(849年以前)であり、推計方法の限界でそれ以上の細かい時点の推計ができませんでした。

 3種類の景物に関しては、歌数が少ないものの満遍なく詠われています。

 『萬葉集』では、6首のすべてが「あふさかやま」であり、うち3首が「逢ふ」を掛けていました。「あふさか」が自立してきた感があります。

③ 作詠期間が851~900年の歌2首は、ともに作者名が明らかであり、作詠時点が850年以前の歌(すべてよみ人しらず)より精度が高いと思われます。この2首に、景物の関は詠まれていません。

 但し、作詠期間が901~950年と推計したよみ人しらずの歌で景物の関は7首もあります。よみ人しらずの歌の作詠時点は、直前の勅撰集成立時点と推計する方法なので、『古今和歌集』の成立時点と推計した歌には、900年以前に遡る歌もある可能性があります。

 そのため、景物は満遍なく詠まれていた可能性があります。

④ 作詠期間が901~950年の歌23首は、作者名が明らかな歌が11首あり、残りの12首のよみ人しらずの歌は、推計方法の限界から、900年以前に遡る歌もある可能性があります。

 景物は、関が16首(70%)と断然多い。ゆふつけ鳥は、関と重複している歌を除くと「「ゆふつけになくとり」と表記される1首だけです。しかし、三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記があるこの時期の歌が、『新編国歌大観』に1首あります(5-417-21歌)。923年以前の作詠時点の歌で、『平中物語』にある歌です。

⑤ 作詠期間が951~1000年の歌6首は、そのうち5首も作者名が明らかです。その5首の景物は、関が4首と多く、やまが1首です。景物として「やま」を詠むのは神楽歌でありよみ人しらずの歌1首です。このよみ人しらずの歌の作詠時点も遡る可能性があります。

 景物のゆふつけ鳥の歌は、ありません。しかし、三代集以外で、「あふさか」と「ゆふつけ」の表記があるこの時期の歌が、『新編国歌大観』に1首あります(5-419-672歌)。999年以前の作詠時点の歌で『宇津保物語』にある歌です。

⑥ 『拾遺和歌集』の成立を1007年として検討をしていますが、三代集において作詠時点が1001年以降の「あふさか」表記の歌はありません。

 

4.平安遷都後の「あふさか」表記36首の考察  景物と部立から

① 「あふさか」表記と合せて「あふさか」の景物を詠みこんだ1050年以前の三代集中の歌36首において、景物の関(すなわち、「あふさかのせき」)は、上の表の「関」欄(b’ 欄)にあるように21首(59%)と多い。近江国にゆく者との応答歌2首(*印の歌)も景物は関です。『萬葉集』には1首も「あふさかのせき」表記はありませんでした。

② なお、逢坂の関は、現在の滋賀県大津市逢坂の地に関址が比定されています。(国境の峠にではなく近江国側の麓に位置します。)

 この関は、『日本記略』には延暦14年(795)一旦廃止、『文徳実録』には天安元年(857)近江国守の請いにより、また関を置いたとあります。

 一旦廃止後再度関を置くまでに、「あふさかのせき」表記の歌が詠まれたと仮定すると、関は容易に越えられる障害の例に詠われたのかしれません。これの更なる検討は、別の機会におこなうこととします。

③ この21首のうち、恋の部の歌(14首)は、内容をみると700年代の天平以来の「あふさか」表記に「逢ふ」を重ねることをも継承しています。そのうえで、関を、恋路の障害を関が象徴しています。

 念のため、関という施設ではなく関守という役職で「せき」の表記がある1-2-982歌を確認しておきます。

1-2-982歌 後撰和歌集 巻第十四 恋六   よみ人しらず

    関もりがあらたまるてふ相坂のゆふつけ鳥はなきつつぞゆく

 「関守が改ま」り今までに比べると容易には作者が逢えない、というのだから、恋路の障害をイメージしています。

 関を詠う秋の部の歌(3首)は、年中行事の「駒迎え」を詠っている歌となります。

毎年8月中旬に献上した馬を天皇がご覧になる駒牽の行事があります。そのための東国からの馬を馬寮の役人が畿内の入口である相坂の関で引き渡しを受ける儀式の情景を詠っています。関という景物が畿内と畿外を際立たせています。

 関を詠う離別・別の部の歌(2首)での「あふさかのせき」という表記は、平安遷都後(800年代以降)、東国への出入り口として意識され、近江国以遠に行く人を送るあるいは迎える(再び逢えたということを感じる)場所であることが汲みとれます。

④ 景物のやま(すなわち、「あふさか(の)やま」)は、10首あります。そのうちの恋の部の歌8首は「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けており、雑の部の1-1-988歌も、「貴方に逢うため越えて行かねばならない山」と、「逢ふ」を掛けています。神楽歌(1-3-0580歌 よみ人しらず)も、「逢ふ」ことが叶うかもしれない「あふさかやま」で果たして山人に逢いました、と詠っています。

 このように「あふさか(の)やま」の「あふ」には全て「逢ふ」を掛けて詠われています。

 そのような意の込められた山は、人の滅多に行かない山奥であろうと、荒涼たる野原であろうと乗り越える意図を作者は示しています。

 「あふさか(の)やま」はどこにでもある山ではないのです。

⑤ 景物の「ゆふつけとり」(すなわち、「あふさかのゆふつけとり」)は、5首すべて、「なく」と結びついて詠まれています。せきとやまの考察から推して、「あふ」に、「(貴方に)逢う」を掛けているならば、「なく」は、逢う前の感情の高まりを込めているのではないか、と推測できます。

④ 次回は、「平安期のあふさか」 の続きを記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

わかたんかの日記 奈良時代のあふさか

 

2017/4/20 前回、「暁に鳴く鳥」と題して記しました。

 今回は、「奈良時代のあふさか」と題して、記します。

 ゆふつけ鳥を詠う最古の歌の3首は、作詠時点推計方法の限界で、同時期となっています。そのうちの2首に「あふさかのゆふつけ鳥」とあります。「あふさか」に対する当時の歌人のイメージを確かめ、最古の歌3首でのゆふつけ鳥の意味を問うこととします。

 

1.最古の3首

① 作詠時点が849年以前と推計した最古の歌は、よみ人しらずの次の3首です。

1-01-536歌 

  相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらん

1-01-634歌

  こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-01-995歌

  たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

「相坂の」と言う形容は、これらの歌の以後、ゆふつけ鳥についたりつかなかったりしています。ゆふつけ鳥のほか、「相坂のゆふつけ鳥」ということに、歌人に共通のイメージがあるのかもしれません。

② その時代の言葉は前後150年程度の期間で検討する方針ですが、「あふさか」表記は、地名をも指すことがありますので、起源説話の確認から検討を始めます。

 

2.起源説話

① 『日本書紀』に、逢坂の文字があります。

「巻第九 神功皇后摂政元年三月)」に「武内宿禰精兵而追之。適遇于逢坂以破。故号其処逢坂也。」とあります。

 現在の滋賀県大津市の逢坂という地名の、地名起源説話であるといいます。

また、相坂という文字もあります。「巻第二十五 孝徳天皇(大化二年(646)正月)」に、 改新の詔第二において、畿内を定義する際,

    東自名墾横河以来、南自紀伊兄山以来、 西自赤石櫛淵以来、北自近江狭々波合坂山以来為畿内

 (訳:東は名墾の横河からこちら、南は紀伊の兄山(せのやま)からこちら、西は赤石(あかし)からこちら、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)からこちらを、内国(うちつくに)とする。)

② 現在の志賀県京都府境付近の山を指して「近江の狭々波の合坂山」と記されています。「狭々波」とは、滋賀県大津市西北一帯の地の総称で、琵琶湖の小波(ささなみ)の寄せる地域という表現が湖西の大津や志賀を含めた大地名となったそうです。

③ 「あふさか」には、逢う坂の意がもともとあるということです。当時の中心地である現在の奈良県からみると、国堺の山を越えた向こう側の地名です。

 

3.『万葉集』の「あふさか」表記

① 『万葉集』には、「あふさか」表記の歌があります。次の表に示します。歌ではなく詞書に万葉仮名で「相坂山」と記している歌が1首(1022歌)ありましたので、あわせて示します。

 表 『萬葉集』における「あふさか」表記の歌一覧

作詠時点

歌番号

  歌 (作者)

あふさかの万葉仮名

山名か峠名か地名か

万葉仮名「相」に逢ふが

備考

73):天平9年(詞書)

1022

ゆふたたみ たむけのやまを けふこえて いづれののへに いほりせむわれ(大伴坂上郎女

(詞書に)相坂山

――

萬葉集巻六

738以前:巻十のよみ人しらずの歌

2287

わぎもこに あふさかやまの はだすすき ほにはさきでず こひわたるかも (よみ人しらず)

相坂山

掛かる

巻第十 秋の相聞

738以前:巻十三のよみ人しらずの歌

3250

・・・やましなの いはたのもりの すめかみに ぬさとりむけて われはこえゆく あふさかやまを (よみ人しらず)

相坂山

――

巻第十三 雑歌

738以前:巻十三のよみ人しらずの歌

3251

・・・うじかはわたり をとめらに あふさかやまに たむけくさ ぬさとりおきて わぎもこに あふみのうみの おきつなみ (よみ人しらず)

相坂山

掛かる

巻第十三 雑歌 長歌

738以前:巻十三のよみ人しらずの歌

3252

・・・あふみぢの あふさかやまに たむけして わがこえゆけば ささなみの しがのからさき さきくあらば またかへりみむ・・・ (よみ人しらず)

相坂

 

――

巻第十三 雑歌  反歌

738以前:巻十三のよみ人しらずの歌

3254

・・・あふみぢの あふさかやまに たむけして わがこえゆけば ささなみの しがのからさき さきくあらば またかへりみむ・・・ (よみ人しらず)

相坂山

――

巻第十三  雑歌  長歌

741以前:流罪大赦以前

3784

わぎもこに あふさかやまを こえてきて なきつつをれど あふよしもなし

(中臣朝臣宅守)

安布左可山

 

掛かる

 

巻第十五 相聞

注1)歌番号は、『新編国歌大観』による。

 

② 歌に、「相坂山」と記している歌が4首、「相坂」と記している歌1首、及び「安布左可山」と記してある歌1首があり、「あふさかのせき」表記の歌はありませんでした。

 なお、『古今和歌集』と同様の時期の成立の可能性をこの論で残している『猿丸集』には、「あふさか」表記の歌はありませんでした。

③ 万葉仮名で相坂(山)という表現の歌では、「あふみじの」と形容したり、「たむけ」をしたり、「こえる」と言う意の言葉も歌に用いられており、自然の山全体を指すのではなく、峠あるいは(峠を越えてきた道が通る)地名を意味しているといえます。畿内の定義で、北は、「近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)からこちら」と規定しており、万葉仮名で相坂(山)と言う表現には、山の名というよりも地名の印象の強いものであったと理解できます。

 2287歌も、自然の山の斜面を行く峠道からの景であり、自然の山全体を指していません。3784歌は万葉仮名で「安布左可」であり、五句の「あふ」表記は「逢ふ」意ですがここも万葉仮名で「安布」として、「逢ふ」意を明確にしています。

④ 歌のなかで「ゆふつけとり」表記の「ゆふ」に「逢ふ」意を掛けている歌が6首中3首あります。

⑤ このように、「あふさか」表記に、作詠時点が700年代前半は、畿内の北縁の峠あるいは峠に通じる道がある土地の名というイメージと、逢うというイメージの二つを歌人は持っていたと言えます。

 萬葉集の異伝が含まれている歌集のあることが周知のことなので、これらの歌のいくつかは(あるいはこれらの模倣歌は)伝承歌として800年代の歌人の手元に記録されていた可能性が、充分あったのではないでしょうか。

⑥ これは、当時の公文書に関しては、大化の改新の詔などわずかしかみていない段階での判断です。

⑦ なお、「あふさかのせき」表記の歌は、『萬葉集』に事例がありませんでした。

⑧ 詞書に万葉仮名で「相坂山」と記している歌について記します。

 

 2-01-1022歌 萬葉集巻六

  (天平9年(737))夏四月大伴坂上郎女賀茂神社之時便超相坂山見近江海而晩頭還来作歌一首

     ゆふたたみ たむけのやまを けふこえて いづれののへに いほりせむわれ

 

 詞書によれば、この歌は、大伴坂上郎女(一行)が、四月の賀茂神社の祭を見物にゆき、そのついでに相坂山を越えて近江の海(琵琶湖)を遠く望み、夕方平安京にある自宅に戻りました。そして大伴坂上郎女がその日のうち作った歌です。その日の移動距離を考えることにします。

 地図でみると、賀茂神社から山城国近江国境まで直線距離で10kmもなく、山城国近江国境から平安京まで直線距離で約35kmです。賀茂神社周辺から相坂山経由で徒歩によっても12時間程度の距離になるでしょうか。騎乗での移動であったら明るいうちに自宅にたどり着いたのではないでしょうか。

 この歌は、ねんごろに幣を捧げて、旅の安全を祈った山(相坂山)を今日越えて、さらに東に向かうとしたらば、今日はどのあたりの野原に仮寝をすることになるのでしょうか、私どもは。(おかげさまで私どもは無事、都の家にたどり着きました。)と、詠っています。

 畿内の北の涯に来たという感慨を詠っているというよりも、そのような野辺に仮寝をすることなく都にその日のうちに戻りつき旅行が無事終わったことを、今日幣を手向けた相坂山におわす神に感謝の気持ちを詠ったようにおもわれます。

 作詠時点は、歌の並び順から天平9年(737)以前と推計しました。

 天平9年は、天然痘が九州から流行りはじめ、平城京でも猛威を振るい、4月の藤原房前に始まり藤原4兄弟が亡くなり、橘諸兄が大納言になり翌年右大臣となっています。

⑨ 次回は、萬葉集以後の「あふさか」に関して記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

わかたんかこれの日記 暁に鳴く鳥

2017/4/17   前回、「ほととぎすも をりはへてなく」と題して記しました。

今回は、「暁に鳴く鳥」と題して、記します。

推計した作詠時点から、和歌においては、「ゆふつけとり」表記の意味が10世紀前半新たに拡張したことを指摘しました。当然ながら、10世紀前半までにも、単に「とり」表記した和歌や「暁になく」と詠う和歌もあります。それらと「ゆふつけとり」表記の歌との関係をまだ確認していないので、今回、検討します。

 

1.鶏

① ゆふつけ鳥は、暁の鶏を指している、ということが、10世紀前半には認められます。

鶏について、『日本民俗大辞典』(吉川弘文館 1999)の「にわとり」の項には、「弥生時代後期に日本へ渡来し、鶏飼育の目的は、時を告げる報晨、闘鶏、愛玩、卵・肉などの食用の4つ」があり「明け方決まって鳴き声をあげ、丑の刻(午前2時)に鳴くのを一番鶏、寅の刻に鳴くのを二番鶏とし、時間を知る目安として利用され、その報晨性は太陽の再生信仰と結びつき霊鳥視されている。」と説明しています。

② 日本では、さらに、鳴き声で死者、特に水中の死体の所在を知る方法が各地で行われていたことも指摘しています。

③ 平安時代には闘鶏が民間にも広まっているので、鶏を飼うのは京周辺では盛んだったのでしょう。検討対象期間の下限1050年よりさらに時代が下がりますが、後白河法皇の命により保元治承(1156~81)の頃制作された『年中行事絵巻』の巻三闘鶏・蹴鞠の場面には、戦おうとしている雄鶏が描かれています。巻三には、このほか30数羽描かれており、みな尾と胸が黒く、背は茶色、羽は白で描かれています。尾に白い羽根が少しは混じっています。また、『鳥獣戯画』における鶏は、『年中行事絵巻』のそれとおなじ種類の鶏と判断できます。

④ 「その報晨性は太陽の再生信仰と結びつき霊鳥視されて」いたそうですが、延暦22年(802) 美作国白鹿・豊後国が白雀献上(日本紀略)、貞観10年(868) 大宰府が献上の白鹿を神泉苑に放す(日本三代実録)等に似た白い鶏に関する記載が国史にはあるのでしょうか。霊鳥視が民間の間だけのことであると、鶏と朝廷を結び付けるような事例が国史に載ることは稀のことなのでしょう。

 

2.三代集の「とり」表記の歌

① 11世紀前半までの歌として『新編国歌大観』より、三代集記載の歌を採りあげます。単に「とり」表記した和歌と、暁になくと詠う和歌とを抽出します。

② 単に「とり」表記している歌は、次のようにして抽出しました。

 句頭にある「とり」表記と、句頭にたたない「とり」表記がある歌を検索し、後者は、「ちとり」表記(千鳥)のような明らかに鶏以外の鳥を意味している歌や「ゆふつけ(の)とり」表記の歌を除いたのち、歌意より検討して、「ゆふつけとり」の有力候補である鶏とみられる歌を、抽出します。

③ 「暁」など明け方になくと詠う和歌を、「あかつき」表記などを指標として抽出しました。

④ 最初に、「とり」表記の歌で、鶏を意味すると思われる歌は、作業すると、次の4首がありました。(「ゆふつけになくとり」表記が、そのうちの1首です。)

1-01-640 巻第十三恋歌三  題しらず        寵(うつく)

しののめの別ををしみ我ぞまづ鳥よりさきに鳴きはじめつる

作詠時点は、作者の没年も未詳なので、記載している『古今和歌集』の成立時点を採り905以前とします。

ここでの鳥は、鶏でもその他の小鳥でも有り得ます。現代でも住宅街で明るくなったとき聴く時があるさえずりの鳴き声の鳥も、ここにいう鳥に該当するでしょう。作中人物が大泣きしているのを示唆しているわけではないので。

 

1-02-621  巻第十 恋二  女につかはしける    よみ人しらず

あまのとをあけぬあけぬといひなしてそらなきしつる鳥のこゑかな

作詠時点は、後撰和歌集のよみ人しらずの歌なので、905年以前とします。

四句からの「そらなきしつる鳥」を、諸氏は、函谷関における孟嘗君の故事を意識した表現であると指摘しています。

夜が明けたと空鳴きした鳥に早く帰らせられたのが残念だと、作者は女に伝えています。ここでの鳥は、その故事に登場する鳥、即ち、鶏です。

 

1-02-895     題しらず              小野小町があね

ひとりぬる時はまたるる鳥のねもまれにあふよはわびしかりけり

作詠時点は、没年も不明なので、記載している『後撰和歌集』の成立時点をとり、955以前とします。

ここでの鳥は、毎日同じ時刻頃に明け方に鳥が鳴くのでしょうが、男性の訪れてきてくれている時は受取方が違う、と作者は詠います。時間帯は、後朝の別れの時間です。

同時刻頃ということを重視すると、時を告げる報晨のあるという鶏が、有力です。

 

1-02-1126  やまひし侍りて、あふみの関寺にこもりて侍りけるに、まへのみちより閑院のご石山にまうでけるを、ただいまなん行きすぎぬると人のつげ侍りければ、おひてつかはしける                                                               としゆきの朝臣

       相坂のゆふつけになく鳥のねをききとがめずぞ行きすぎにける

 既に「ゆふつけ」表記の歌の1首として検討した歌です。その時は、石山寺詣でのために都を出発した一行が相坂の地にあったという関寺を通過する時間帯は、暁ではないと推理し、「ゆふつけ」表記は「夕」を掛けているとみて「昼間になくゆふつけ鳥」の意と、考察しました。

 念のため、都からの距離を見て見ますと、石山寺に行くには、相坂山の峠を越えて、関寺がある相坂という地域を通り、瀬田川で出て、少し下ることになります。都の鴨川あたりから道沿いに10数kmはあります。夜が明ける前に早立ちすれば日帰りも可能でしょう。いづれにしても、相坂の関寺付近の通過が、(夜半過ぎから夜明け前までのまだ暗い時分をいう)「暁」時分より明るい時間帯となります。

以上の4首は、鶏か小鳥かが1首、鶏が2首、ゆふつけ鳥が1首、となります。

⑤ 次に、「暁」など明け方に鳴くとし、かつゆふつけ鳥を除いた「とり」表記の歌を抽出すると、三代集に3首あります。

1-01-641 巻第十三恋歌三  題しらず        よみ人しらず

   ほととぎす夢かうつつかあさつゆのおきて別れし暁のこゑ

作詠時点は、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、849年以前とします。

時間帯は、後朝の別れの時間で、暁時です。

 

1-03-226歌 巻第四 冬   題しらず         よみ人しらず

夜をさむみねざめてきけばをしどりの浦山しくもみなるなるかな

作詠時点は、『拾遺和歌集』のよみ人しらずの歌なので、955年以前とします。

 夜中に目が覚めてしまい眠られない時間帯に、をしどりの鳴くのを作者は聞きました。その時間帯は、真夜中か暁なのか分かりませんが、暗い中に聴いたと詠っています。

 

1-03-484歌  巻第八 雑上  はつせへまで侍りけるみちに、さほ山のわたりにやどりて侍りけるに、ちどりのなくをききて                 よしのぶ                             

暁のねざめの千鳥たがためかさほのかはらにをちかへりなく

 作詠時点は、作者の大中臣(おおなかとみ)能宣(よしのぶ:)の没年、正暦2年(991)とします。

 初句から二句の「暁のねざめ」について、『和歌文学大系32 拾遺和歌集』で増田繁夫氏は「寝床に体を横たえたまま、目がさえてずっと眠らずにいる状態。夜床に着いてときからずっと眠られない場合にも、夜中に目が覚めた後に眠られない場合にも言う。ここは後者」と説明しています。

  眼がさえて暁に千鳥が鳴くのも聴いてしまったと詠っています。鶏ではありません。

以上の3首は、ほととぎすが1首、をしどりが1首、千鳥が1首、となります。

 

3.考察

① 以上の合計7首を整理すると、次の表になります。

    表 三代集の「とり」表記の歌(作詠時点別・時間帯別・鳥の種類別)の表

作詠時点

ゆふつけ鳥

鶏か小鳥

ほととぎす

をしどり・ちどり

~900

 

 

 

1-01-641

 

901~950

1-02-1126

1-02-621

 

1-01-640

 

 

 

1-03-226

951~1000

 

1-02-895

 

 

1-02-484

注1)歌番号等は『新編国歌大観』による。

注2)赤字の歌番号は、後朝の別れに鳴いている歌。

注3)青字の歌番号は、暁に鳴いている歌。

注4)ピンク色の枠内の歌(アンダーラインの歌5首)は、1-10-821歌の作詠時点以前を示す。

 

②  「とり」表記の歌と、「暁」など明け方に鳴くゆふつけ鳥を除いた「とり」表記が三代集に7首あります。「とり」表記の歌で、「とり」表記が「ゆふつけ鳥」を意味している歌が1首(1-02-1126)あります。しかし、それが鶏かどうかはその歌からは即断しかねます。少なくとも、10世紀前半の歌人には、詞書や状況を別途詠うなどしない限り「とり」表記のみで1種類の鳥を指すという認識はないと言えます。

③ 歌が明らかに後朝の別れを詠っている歌(表の赤字の歌番号の歌)が4首あり、鶏系が3首、ほととぎすが1首です。後者は849年以前が作詠時点であり、最古のゆふつけ鳥の歌3首も同じ年代です。また、後者は後朝の別れを詠っている歌ですが、この最古のゆふつけ鳥の歌は後朝の別れを詠わず逢う前の気持ちを詠っています。

④ 後朝の別れを詠っていない歌が3首あり、暁になくをしどり又はちどりの歌と「ゆふつけの鳥」(前回までの検討でゆふつけ鳥と判断した1-02-1126歌)の歌です。

⑤ 詞書が「暁別」でありかつゆふつけ鳥を詠っている1-10-821歌は、作詠時点が943年以前とすでに推計しています。作詠時点がこの歌より以前の歌は4首(表のピンクの枠内の歌(アンダーラインの歌))あり、夕方に鳴く1首と後朝の別れの時間帯になく3首に分かれます。前者はゆふつけ鳥を詠う歌であり、後者は鶏系の2首とほととぎすの1首です。   

⑥ このような状況をみると、849年以前において、「あふさかのゆふつけとり」という表記は、暁の鶏の意を含めない創意工夫のひとつとも解釈できます。すでに指摘しているように、最古の「ゆふつけとり」を詠う3首は、逢う前の歌であり、逢って後の場面で詠われた歌ではありません。このこともほととぎすを詠う1-01-641歌と異なっています。

⑦ 次回は、最古の歌でゆふつけ鳥が登場している場所、相坂、に関して記します。

御覧いただき、ありがとうございます。

4.付記

勅撰集(『新編国歌大観』第1巻)での「とり」表記は、ゆふつけ鳥、八声の鳥を除いて、つぎのようなものがあります。

 ・いなおほせとり こととふとり しなかとり 飛ぶ鳥 よぶことり 遠山鳥 

 ・かもとり しらとり ちどり にほとり 水鳥 むらとり やまとり をしどり 都鳥

 ・かさとり(山) かとり(香取・固織が変化) 悟り 鳥辺山 名取(川) 鳥居 花鳥 (旅の)宿り 

 ・みどり(緑) みどりご ひとり

 ・とる(動詞) 思ひとる(動詞) たどる(動詞) 接頭語の「とり」 (とりそめし等)など

 

 

わかたんかこれの日記 ほととぎすも をりはへてなく

2017/4/7

 前回、「ゆふつけ鳥は いつ鳴くか」と題して記しました。

 今回は、「ほととぎすも をりはへてなく」と題して、記します。

 推計した作詠時点から、和歌においては、「ゆふつけとり」表記の意味が10世紀前半新たに拡張したことを指摘しました。「なく」という表現の有無と「なく」時間帯と「ゆふ」の掛詞の使い方を通じてそれを見ました。しかし拡張前の最古の歌を含む最初期の「ゆふつけとり」表記の意味は不問のままでした。今回は、最古の歌3首の、まず鳴き方から記します。

 

1.「をりはへてなく」鳥は どんな鳥

① 「なく」とは、歌の本文に「なく(鳴く)・告ぐ・こゑたつ・きこゆ・ひと声」のいずれかの表現があることを、ここでは括って言っています。

 作詠時点が849年以前という最古の歌3首は、次のとおりです。みな、よみ人しらずの歌です。

1-01-534歌 

   相坂のゆふつけ鳥もわがごとく人やこひしきねのみなくらん

1-01-634歌

   こひこひてまれにこよひぞ相坂のゆふつけ鳥はなかずもあらなむ

1-01-995歌

   たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

 

 鳴き方の表現で、特異なのは、3首目の「をりはへてなく」です。1050年以前の「ゆふつけ」表記あるいは「ゆふつくる」表記のある代表歌22首のなかで、唯一の表現です。

 もしも、ゆふつけ鳥が、自然界の1種類の鳥の異名であるとするならば、「をりはへてなく」はその鳥を推測する手がかりになります。

 この時代の和歌に登場する自然界の鳥は、そう種類がありません。

 ほととぎす、鶯、鷹、雉、千鳥、水鳥、山鳥、と詠まれている鳥が、登場します。仏法僧(現代のこのはずく)も鴉も雀も登場します。鶏は、少なくとも10世紀前半以降ゆふつけ鳥という名で加わていることが前回にわかりました。

② 「をりはへて」表記のある歌を『萬葉集』と今検討期間としている1050年までに成立した勅撰集(三代集)から求めると次のようになります。(本文は『新編国歌大観』によります)。

 『萬葉集』には、「をりはへて」表記・あるいは「をりはふ」表記の歌は、ありませんでした。「おりはへて」表記も、ありませんでした。三代集では3首のみでしたが、みな検討材料となる歌です。

 

1-01-995歌  この歌では、ゆふつけ鳥が「をりはへて」鳴いています。

 

1-01-150歌  題しらず                  よみ人しらず

    あしひきの山郭公をりはへてたれかまさるとねをのみぞなく

この歌の作詠時点は、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、849年以前と推計します。

この歌において、「をりはへて」が修飾できる可能性のある動詞は、「まさる」と「なく」ですが、修飾するのは後者だと思います。

 

1-02-175歌  思ふ事侍りけるころ、ほととぎすをききて    よみ人しらず

    折りはへてねをのみぞなく郭公しげきなげきの枝ごとにゐて

 作詠時点は、『後撰和歌集』のよみ人しらずの歌であり、905年以前と推計しました。

 初句「折りはへて」が修飾する動詞は、動詞「なく」が、初句に近く置かれており、それを採ります。

この3首で鳴いているのは、ゆふつけ鳥1首 ほととぎす2首です。

③ 三代集の作者名の私歌集もしらべました。『新編国歌大観』第3巻の歌集番号1~104を検索したところ、4首ありました。『貫之集』及び『躬恒集』にはありませんでした。勅撰集との重複歌2首を除くとつぎの2首が検討材料となります。

 

3-11-11歌 寛平御時中宮のうたあわせに

    夜やくらきみちやまどへるほととぎすわがやどにしもをりはへてなく

 『友則集』の作者友則の没年(905年)を、作詠時点と推計します。道に迷ったらしく鳴き続けていると詠んでいます。「をりはへて」は「なく」を修飾しています。

 

3-28-157歌 同じとののきたのかた、はぐろめずみをふねにつみて、すみおそきよしを、あるところに

    をりはへてきみがたぎしにこぐ舟はすみのえにこそほどはへにけれ

『元真集』の作者藤原元真(もとざね)は、生歿未詳ですが、朱雀天皇の御屏風の和歌があり、朱雀村上時代に活躍しているので、この歌の作詠時点は、村上天皇退位(967)の時点とします。

 詞書の「おなじとの」とは、「同じ殿」の意です。「をりはへて」は、三句の動詞「こぐ」を修飾しています。

 この2首で鳴いているのは、 ほととぎす1首、舟を漕いでいる状況が1首です。

④ ほととぎすを詠う3首には、「ねをのみぞなく」「みちやまどへる」という表現があり、「なく」というほととぎすの行為は、「一フレーズの時間を長びかせて」ではなく「飽きずに時間をかけて繰り返している」意と、とれます。ほかの2首もそのように理解できないわけではありません。

⑤ この5首のうちで最古の歌は、作詠時点を849年以前の時点と推計した歌なので、ゆふつけ鳥とほととぎすを詠う各1首があることになります。どちらが先行しているのかの判定は、今採用している作詠時点の推計方法では、できません。また、これらの歌からだけでは、ゆふつけ鳥は、実際はほととぎすを指すともないとも、言えません。 

 

2.『古今和歌集』のほととぎす

① 「をりはへて」表記のあるほととぎすについては、この時代、ゆふつけ鳥よりも圧倒的に歌に詠まれています。例えば905年成立の『古今和歌集』巻第三夏歌は、全34首のうち、巻頭歌をはじめ計28首がほととぎすを詠んでいます。みずから巣を作らず鶯の巣に産卵して雛を育てさせることが『萬葉集』にも詠まれています。山から里を訪れる鳥という認識があります。

 しかしながら、三代集で、上にみたように「をりはへて」と詠まれているほととぎすの歌はたった2首しかありませんでした。

② 当時の「をりはへて」の意を探るため、『古今和歌集』のほととぎすを詠う歌を何首かみてみます。

 

1-01-135歌  題しらず          よみ人しらず    (巻第三夏歌)

    わがやどの池の藤波さきにけり山郭公いつかきなかむ

 この歌が夏歌の巻頭歌です。作者は「山郭公」と詠み、山にいるほととぎすの飛来を待ち望んでいます。鳴き方に触れていません。鳴く時間帯は藤の花をも愛でる時間帯です。篝火を焚けば夜も賞玩可能です。

 

1-01-148歌   題しらず      よみ人しらず       (巻第三夏歌)

    思ひいづるときはの山の郭公唐紅のふりいでてぞなく

 まっ赤な血を吐いて鳴くかのようなのがほととぎすであるという認識の歌です。ほととぎすは、高い声で鳴き続けるということを指しているのでしょうか。鳴く時間帯に触れていません。

 

1-01-150歌  題しらず   よみ人しらず           (巻第三夏歌) 

    あしひきの山郭公をりはへてたれかまさるとねをのみぞなく

 『古今和歌集』で「をりはへて」表記と「ほととぎす」表記のある唯一の歌です。

作者は「たれかまさる」と複数の「山郭公」が競い合って鳴いていると詠い、「をりはへて」は「なく」を修飾していると諸氏は指摘しています。鳴きやまないでいる状態を「をりはへて」と表現しているのでしょう。鳴く時間帯に触れていません。

 

1-01-158歌  寛平御時きさいの宮の歌合のうた(153~158)     紀秋岑(巻第三夏歌)

    夏山にこひしき人やいりにけむ声ふりたてて鳴く郭公

 ここでのほととぎすは、高い声で繰り返し鳴く鳥です。鳴く時間帯に触れていません。

 

1-01-160歌  郭公のなくをききてよめる     つらゆき  (巻第三夏歌)

    五月雨のそらもとどろに郭公なにをうしとかよただなくらむ

 ほととぎすが、憂しと、夜じゅう鳴き続けています。

 

1-01-384歌  おとはの山のほとりにて人をわかるとてよめる  つらゆき 

(巻第八離別歌)

    おとは山こだかくなきて郭公君が別をしむべらなり

 作者は、鳴く声が小梢とおなじく高い(声)と聞き取っています。送る人がみえなくなるまでほととぎすが鳴いています。『白氏文集』十一 江上送客「遠客何処帰。孤舟今日発。杜鵑声似哭。湘竹斑如血。」、同十二 琵琶行「杜鵑啼血猿哀鳴」を参考にしている歌かと諸氏が指摘しています。鳴く時間帯は、早朝の出発とすれば朝方です。

 

1-01-578歌  題しらず         としゆきの朝臣  (巻第十二 恋歌二)

    わがごとく物やかなしき郭公時ぞともなくよただなくらむ

 ほととぎすが夜の間ひたすら鳴いています。中国では、春の終から夏に鳴くものとされ(本草集解)、吐血などを意味するという(荊楚歳時記)そうです。

 

1-01-849歌  藤原たかつねの朝臣の身まかりての叉のとしの夏、ほととぎすのなきけるをききてよめる               つらゆき  (巻十六哀傷歌)

    郭公けさなくこゑにおどろけば君を別れし時にぞありける

 ほととぎすは、今日が去年たかつね(高経)のなくなった日であったと、作者つらゆきが気が付くまで朝方鳴いていたようです。また、ほととぎすは冥土に通う鳥と認識されていたそうです。 

 

1-01-1013歌  題しらず    藤原敏行朝臣    (巻十九 誹諧歌)

    いくばくの田を作ればか郭公しでのたをさを朝な朝なよぶ

 ほととぎすは、毎日毎日(夜中ではなく)朝に鳴き続けています。

③ このように、1-01-150歌以外の夏歌でも、また離別歌、恋歌、哀傷歌および誹諧歌でも、ほととぎすは、繰り返し鳴いています。1-01-150歌と全然変わりません。

 「をりはへて」表記は、「声ふりたてて」とか「そらもとどろに」とか「ただなく」という鳴き方の別の表現ととれます。

その鳴き方は、一フレーズの時間が長いというよりも、飽きないで繰り返している状況です。先の「をりはへて」の意は、誤りではないと言えます。

④ ホトトギスは、ユーチューブの動画にみることができます。一羽のホトトギスが鳴く動画ばかりです。きょっきょきょきょきょ と、比較的高い音程の声で繰り返し繰り返し鳴いています。聞きなすと、特許許可局とかてっぺんかけたかと聞こえると言われています。 

 カッコウもユーチューブの動画で繰り返し鳴いており、かっこうと聞きなせます。その鳴き方は、一フレーズをながく引っ張る鳴き方ではなく、そのフレーズを繰り返し繰り返し鳴き鳴き止まないでいます。

⑤ このため、動画のホトトギスカッコウが『古今和歌集』のこれらの歌のほととぎすであるとすると、聞きなす一フレーズの時間が長いのではなく、そのフレーズの繰り返しが止まらないで長く鳴き続けているのを、『古今和歌集』の歌人は「をりはへてなく」とか「声ふりたてて」と表現している、とみることができます。

 

3.最古の歌のゆふつけ鳥 

① 最古の歌の1首1-01-995歌で鳥が「をりはへて」鳴いています。鶏が、「フレーズを繰り返し繰り返し鳴く」鳥であれば、「をりはへて」なく、と形容でき、鶏が、この歌のゆふつけ鳥の可能性があります。

 当時、家禽である鶏は、庶民も飼っており、放し飼いしたり、闘鶏用の需要もあったので雄鶏を一羽ずつ飼っていた可能性もあります。鳥目の鶏にとり、夜明け頃や日が沈むころとかは一羽か何羽かが一斉に鳴きだすと止まらないことがあったのでしょうか。

② 最古の歌の残りの2首が「あふさかの」と形容されたゆふつけ鳥です。「をりはへて」ないているかどうかはわかりません。この2首以外も1250年までの22首にさらに4首で形容され「をりはへて」ないているかどうかの確認を要します。

 生息域が相坂山に地域限定している鳥が、「ゆふつけ鳥」の可能性がありますが、ほととぎすはそのような鳥ではありません。

 そうすると、「あふさかの」という形容が地名のほか何かを象徴している可能性についての検討が、必要です。さらに、そもそも、「ゆふつけとり」表記は、自然界の1種類の鳥を指しているという前提でよいのでしょうか。

③ 次回は、1種類の鳥かどうかに関して記します。

御覧いただき、ありがとうございます。