わかたんかこれ 猿丸集第32歌 さくらばな

前回(2018/10/9)、 「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して記しました。

今回、「猿丸集第32歌 さくらばな」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第32 3-4-32歌とその類似歌

① 『猿丸集』の32番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

 

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、歌は同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、山寺での飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『古今和歌集』巻第一春歌上にある歌です。

第一春歌上の配列については、一度考察をしました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))。その結論は、次のようなものでした。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は8群あり、立春の歌群(1-1-1~1-1-2歌)から始まり、盛りを過ぎようとする桜の歌群(1-1-64~1-1-68歌)で終る。ちなみに、次の巻第二春下も同じように散る桜の歌群(1-1-69~1-1-89歌)から始まり春を惜しむ歌群(1-1-126~1-1-134歌)で終ると推測できた。

② 今検討しようとしているこの類似歌1-1-50歌は、7番目の歌群「咲き初め咲き盛る桜の歌群(1-1-49~1-1-63歌)の二番目の歌です。

③ その歌群の中の配列を検討します。最初の5歌より検討します。

1-1-49歌 人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる    つらゆき

   ことしより春しりそむるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

1-1-50歌 (類似歌)題しらず    

1-1-51歌 題しらず   よみ人しらず

   やまざくらわが見にくれば春霞峰にもをにもたちかくしつつ

1-1-52歌 そめどののきさきのおまへに、花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる   さきのおほきおほいまうちぎみ

   年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

1-1-53歌 なぎさの院にてさくらを見てよめる

   世の中にたえてさくらのなかりせば春のこころはのどけからまし

 

④ 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1))の付記1.の表4参照) 

1-1-49歌 初めて花を付けた桜よ、散ることは他の桜に見習わないでほしい。

元資料の歌は屏風歌b・賀の歌と推定

1-1-50歌 山が高いからだれも心にとめないが、私がその桜をもてはやそう。(仮訳)

元資料の歌の推定は保留

1-1-51歌 見にきたら山桜を山ごと霞が隠してしまっている。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-52歌 年月を重ね老いてきた私だが、美しい花を見ていると何の心配もない。

元資料の歌は下命の歌と推定

1-1-53歌 世の中に桜がなかったならば、春はのどかであろうに。

元資料の歌は下命の歌と推定

⑤ このような配列のなかでこれらの歌を鑑賞すると、植物の桜の開花と咲き盛る桜は楽しみを与えてくれると喜んでいる様を詠っているように思えます。1-1-52歌はさらに花に例えた作者の娘の栄華が与えてくれる満足感も作者は味わっています。

しかし、桜の花は散るのが定めであることを最初の歌は指摘し、咲く場所によっては見られない桜もあり、かつ霞は隠すし、桜がなかったら世の中の春は変っている、と1-1-52歌の前後の歌が詠んでいるとも理解できます。そのため、間もなく散る桜を前提に1-1-52歌を、「私は老いても当家の今は申し分ない。これからは欠けるばかりの望月と思え」と詠っているとも理解できます。元資料の歌は、このように連作の作品の一つとみなせませんが、『古今和歌集』に置かれれば、一連の作品とみることが可能です。

この理解は、『古今和歌集』の編纂者の配列の意図を誤解しているとは思えません。

⑥ 巻第二春歌上は、このあとにつぎのような歌を配列しています。

1-1-54歌 題しらず  よみ人しらず 

   いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

1-1-55歌 山のさくらを見てよめる       そせい法し

   見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ

1-1-56歌 花ざかりに京を見やりてよめる  (そせい法し)

   みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける   

1-1-57歌 さくらのもとにて年のおいぬることをなげきてよめる   きのとものり

   いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

 1-1-54歌と1-1-55歌は、やまの桜を詠んでおり、その桜を皆にも見せようと作者は工夫をしています。それは、すぐ散る桜であるからこその工夫です。そのあとに1-1-56歌を配列しています。この配列ですと、詞書の「花ざかりに」とは、前歌とおなじく山の桜が盛んなとき、と理解することも可能です。都は、山より先に暖かくなるので山の桜より早く咲き早く満開を迎えているはずです。その詞書にある動詞「見やる」とは「みおこす」(こちらをみる意)と対の言葉であり、「ながめやる・目を向ける」意なので、作者の近くの花を見て都に思いを馳せた歌がこの歌であり、詞書は「(やまの桜の)さかりの時に、都を想いやって詠んだ(歌)」の意となります。

都を「春のにしき」と形容するものの、都の桜は散り際か葉桜であり青葉若葉がきらきらしていたと思います。1-1-56歌は、それでも桜に注目して詠っている歌であるので、桜を当時の貴族は好んでいたのだと思います。

1-1-57歌の桜は、山の桜より身近にある桜であることを、詞書より推測できます。この配列から、この歌の前の歌(1-1-56歌)が、山の桜と限定しないで理解することを詞書に否定させていません。だから、1-1-56歌は、都の中または近くで作者は「京(全体)をみやりて」詠んだ歌ともとれ、四句と五句は作者も都に居るとの意識はあるもののの周囲の状況から都全体を推測した、という歌になりますが、『古今和歌集』の編纂者はこの二つの理解を許していると思います。ひとつに限定しないでつぎの1-1-57歌につないでいるのではないでしょうか。

とものりの1-1-57歌の元資料の歌は、梅を詠んでいる歌です(ブログ「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1)の3.④参照)が、『古今和歌集』の編纂者は、1-1-52歌の何首かあとに、桜の花を詠んだ歌として詞書を改めたうえここに配置しています。「年ふればよはひはおいぬ」と詠う1-1-52歌、「年ふる人ぞあらたまりける」と詠う1-1-57歌の作者の立場は共通している歌です。盛りを過ぎた後への感慨を詠っています。

⑦ このような理解を許すような歌のなかに、1-1-50歌があります。即ち、前後の歌とのみ深くかかわる対の歌ではないが、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌です。1-1-50歌もその一環の歌であると思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     花は咲いたけれども、山が高いので、人々も賞玩しない桜花よ、そのようにひどくしょんぼりするな、私がもてはやそう。(久曾神氏)

     「あまり山が高いので、誰も寄りついてくれない桜の花よ。そんなに悲しむにはあたるまい。同じような身の上の私が引き立役になってあげるから。(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、二句にある「すさむ」は、「心にとどめ愛する」、の意としています。

 『新編日本古典文学全集』では、二句にある「すさむ」は、「心にとどめて愛すること」の意とし、作者は「山中に住む人であろう。孤高の生活を楽しむ人が、同じ立場の桜に共感している。」とし、五句にある「はやす」は、「栄ゆ」の他動形。栄えある(物事が盛んである)ようにすること。引き立てる。」の意、としています。

③ 「はやす」は、『古典基礎語辞典』によれば、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」であり、「もてはやす」の「もて」は、動詞の接頭語で、「意識して・・・する」意を加えます。

④ これらの現代語訳では、「はやさむ」の訳に物足りなさがあります。この歌は、『古今和歌集』の春歌に置かれているので、人に知られず散るのを惜しんでいる意を、もっと加えるのが適切であると思います。

なお、日本の桜は10種の基本的野生種がありヤマザクラはその一つです。現在はその変種を含めて自生種は百種以上確認できるそうです。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① この歌は、桜を愛でる実景の歌であるとともに、当然散ることに留意した歌であるかどうかを検討します。

詞書は、「題しらず」であり、特段の情報がありません。

② 二句「人もすさめぬ」とは、名詞「人」+助詞「も」+動詞「すさむ」(下二段活用)の連用形+打消しの助動詞「ず」の連体形です。誰も心にとめない、の意です。

 動詞「すさむ」は、下二段活用の場合、「心にとめて愛する・慰みとする。あるいは、うち捨ててしまう・きらう・避ける」の意であり、四段活用の場合、「はなはだしくなる。あるいは気の向くままに・・・する」の意です(『例解古語辞典』)。

③ 三句の「さくらはな」は、初句「山たかみ」という場所にある桜なので、品種はヤマザクラが有力です。

④ 五句にある「見はやさむ」の「見はやす」は、動詞「見(る)」+動詞「はやす」とも分解できます。

「見る」は、上一段活用であり、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)です。

⑤ 現代語訳を試みると、次のとおり。

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花よ。そのようにそんなにひどくさびしく思うな。私が散る前によく見て賞揚し、世の中に紹介するから。(来年は多くの者が愛でるように。)

 高い山は遠国の比喩、と理解すると、散るに繋がるもうひとつの理解があります。即ち、

 「高い山にあるので誰も心にとめない桜花のように、希望をしない遠国に任官となった君よ、(今回は残念であったが)そんなにひどくさびしく思うな。私が貴方を見計らってきわだたせるから。

 当時、受領層である官人の猟官は有力貴族との関係が重要であったので、有力貴族の家司が、入試の「サクラチル」のようにこの歌を遠国に任官することになった官人に用いたのではないでしょうか。

⑥ このような理解をすると、1-1-49歌は、相応の任官に与った男の今後の期待を込めた歌としての利用も考えられます(作者のつらゆきは思いもしなかったでしょうが)。さらに、1-1-51歌は、今日まで順調にきたが、はたしてあのような霞(という邪魔者)にあうものなのだなあ、の意を含んでいる歌とも理解できます。

⑦ この歌が披露された場所について、保留してきました。ここで検討します。

上記⑤の前者の現代語訳(試案)ならば、誰かを非難しておらず、遠景の山を愛でており、屏風歌bとなり得ます。後者の現代語訳(試案)ならば、挨拶歌です。

 

5.3-4-32歌の詞書の検討

① 3-4-32歌を、まず詞書から検討します。

 詞書を、前段の「やまでらにまかりけるに」と後段の「さくらのさきけるを見てよめる」に分けて検討します。前段は、後段の前提条件のようにみえる文です。

前段は、名詞「やまでら」+格助詞「に」+動詞「まかる」の連用形+助動詞「けり」の連体形+接続助詞「に」と品詞分解できます。

 動詞「まかる」は、「高貴な人のところから退出する・おいとまする(謙譲語)、高貴な人のところから他へ参る(行くの謙譲語)、京から地方へ参る(行くの謙譲語)、行く・通行する」などの意があります(『例解古語辞典』)。

③ 「やまでらに」の「に」(格助詞)は、「場所」や「動作の方向」などを示しています。歌において「見はやさん」と詠っているので、山寺で何事かが起こったのであり、類似歌と同様な事柄が起こったとみると、花見とか月見とかという私的な事柄と見られます。朝廷の公式の行事やそれに準ずる事柄ではありません。

 また、山寺に作者が行った理由は明らかにされていません。理由を問わず起こり得る一般的な事柄である、という推測が成り立ちます。

④ 「まかりけるに」の「に」(接続助詞)は、つぎのような意があります(『例解古語辞典』)。

A1 「あとに述べる事がらの出る状況を示す意 (・・・たところ)

A2 あとに述べる事がらに対する、一応のことわりを示す意 (・・・のに、・・・けれど)

A3 あとに述べる事がらの、原因・理由やよりどころを示す意」 (・・・ので、・・・から)

歌の理解とともに検討しなければ、どの意で用いられているのか決めかねます。

⑤ 後段の「さくらのさきけるを見てよめる」については、「咲く」の表現が「さきける」であって「さけりける」でないのが気になります。花が「さけりける」ならば、動詞「咲く」の連用形+いわゆる完了の助動詞「り」の連体形+助動詞「けり」の連体形「ける」という理解となります。

古今和歌集』の巻第一春歌上から巻第九羈旅歌までの詞書をみると、「花(あるいは花の)さきける」は一例もありません。「花(あるいは花の)さけりける」が5例あります。

1-1-43歌 (水のほとりに)梅の花さけりける(をよめる)

1-1-67歌 さくらの花のさけりける(を見にもうできたりける人・・・)

1-1-120歌 (家に)ふぢの花のさけりける(を・・・)

1-1-124歌 (よしの河のほとりに)山ぶきのさけりける(をよめる)

1-1-410歌 (・・かきつばたいとおもしろく)さけりける(を見て、・・・)

助動詞「り」がつく動詞が「咲く」以外の例も5例あります。

1-1-80歌 (・・・をれるさくらのちりがたに)なれりける(を見てよめる)

1-1-297歌 (・・・をらむとて)まかれりける(時によめる)

1-1-309歌 (・・・たけがりに)まかれりける(によめる)

1-1-331歌 (雪の木に)ふりかかれりける(をよめる)

1-1-332歌 (やまとのくにに)まかれりける(時に・・・)

また、詞書で「さけるさくら」という語句がある歌があります。

1-1-136歌 (う月に)さけるさくら(を見てよめる)

古今和歌集』をよく知っているはずの『猿丸集』の編纂者ですから、「花(あるいは花の)さけりける」と「花(あるいは花の)さきける」は、別の意を持たせていると思えます。また、「さけるさくら」とも異なる意を持たせていると思えます。

⑥ 別の意は、同音異義の語句に込めることができますので、この後段の「さくらのさきけるを見てよめる」の文に同音異義の語句があるはずです。探してみると、ありました。

     さくら: a桜(樹木) b桜(襲(かさね)の色目のひとつ) c柵ら(らは接尾語の「等」、現在の木柵) d索(太いなわ 仏像が手にしているなわ)ら e笏(しゃくとも、さくとも読む)ら f簀(すとも、すのことも、音読すればさくとも読む)ら

なお、襲とは衣服を重ねて着るときの、裏と表との配色を言い、「桜」は「襲の色目の名のひとつで、表は白、裏は紫(この色目は葡萄染めなどともいう)です。

また、笏とは、(公式の行事の礼服である)束帯を着ける時、右手に持つ細長い板をいい、簀には2意あり、アシや竹などをあらく編んで作った敷物あるいは寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(雨水が貯まらぬように板と板との間があけてある)を言います。

     さき: a四段活用の動詞「咲く」の連用形 b同「割く・裂く」の連用形 c名詞「先・前」 d名詞「﨑・埼」

     ける: a助動詞「「けり」の連体形 b動詞「蹴る」の連体形 

⑦ これらより、後段の語句の組み合わせ候補をみると、次のとおり。

B1 桜が咲いていたのを(見てよめる)

  但し、『古今和歌集』では、そのような状況は完了の助動詞「り」を用いて「さけりける」と表現されています。

B2 柵などが割けているのを(見てよめる)

但し、山寺における柵であり、現在の名刹でも柵は樹木や記念物などの保護用として用いられてお

り、消耗品的な位置づけのものです。使用している杭が割けているのは珍しい。そのうえ、「など」の例が見つかりません。

B3 柵などの先を蹴るのを(見てよめる) 

但し、柵とは普通ある程度長さがあり、手前・向こうという話し手から見ての位置づけが可能であるので、遠方に位置するところの柵を「柵の先」という表現もあるかもしれません。それにしても、「など」の例が見つかりません。また、蹴るならば地面に近い柵の根元を普通蹴ります。

B4 笏などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、笏は手に持つもの、「蹴る」は足を使う行為ですので、相手の笏に対して飛び蹴りのようなことを官人がするとは思えません。置いてあった笏であればあり得ることかもしれませんが、笏は礼服時に持つものであり、その礼服着用時に手放す可能性が小さい。また、蹴るとして、的が笏の「先」というのは小さすぎます。「など」の例は、礼服そのものになるのでしょうか。笏ほどの大きさのものは何でしょう。

 そもそも礼服の着用が必要な場面とは思えません。

B5 簀などの先を蹴るのを(見てよめる)  

但し、簀は、寝殿造りで廂(ひさし)の外側に作った縁側(簀子)です。簀子の先とは、室内からみて簀子の庭側にある高欄になるのでしょうか。そうなると「(簀)など」とは、柱や簀子に置いてある物を指しているのでしょう。通常その屋敷の主は、部屋の中央におり、軒先にでるのは、用事のある時に限ると思われます。伺候した者であれば、廂や簀子が自分の席ということがあり、簀の先(つまり高欄)を蹴ることは可能です。

⑧ これらの候補から可能性を比較します。

B1は、樹木の桜であるならば、類似歌と同じ情景であり、詞書をわざわざ書き記している意味が薄れています。しかし、歌における「さくら(ばな)」という語句が誰かを指しているならば、類似歌とも違うので有り得ます。

B2B3は、「さくら」の「ら(等)」の例が不明であり、成立は難しい。

B4は、山寺へゆくのが公式の行事でない限り、あり得ない光景です。

B5は、類似歌と異なる情景であり、山寺に複数の者が行った際ということであれば、あり得る光景です。

⑨ このため、後段の「さくらのさきけるを見てよめる」は、2候補が残ります。

B1は、歌における桜が誰かを指しているならば有り得ます。これは、山寺でなくとも一般的にあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

B5は、建物の中の光景です。この光景となるには、飲食の席でだいぶ座が乱れた時と推測できます。これは前段の文をおもえば、山寺に行ったことで生じた光景ということになり、山寺に花見(花の種類は問わない)に行ったか、あるいは月見に行ったかの時の飲食の席が候補と考えられます。これは、朝廷や貴族の屋敷での宴席でもあり得ることであり、上記③の「また・・・」の段の条件を満足しています。

⑩ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

C1 「山寺に行ったところ、桜が咲いていたのを(見てよめる)」(A1+B1

C2 「山寺に行ったのだけれど、簀などの先を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 (A2+B5

 

6.3-4-32歌における同音異義の語句

① この歌は、類似歌と清濁抜きの平仮名表記をすると、同じです。だから、詞書と同様に、同音異義の語句がこの歌にはあるのではないかと疑えます。句ごとに検討します。

② 初句「山たかみ」は、名詞「山」+形容詞「高し」の語幹+接尾語「み」として、類似歌は理解しました。

 詞書によれば「山」寺にゆこうとしている作者ですので、この歌も同じであろうと思います。「山たかみ」は、同音異義の語句ではありません。

③ 二句「人もすさめぬ」は、動詞の未然形につく助動詞で活用が「ぬ」となる語が二つあります。

D1 名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形

この理解は類似歌と同じです。

D2 「人もすさめぬ」は、名詞「人」+係助詞「も」+下二段活用の動詞「すさむ」の未然形+完了の助動詞「ぬ」の終止形

この場合、この歌は二句切れとなります。そして歌の意は大きく変わる可能性があります。

さらに、下二段活用の動詞「すさむ」は、

E1 「心にとめて愛する・慰みとする」

E2 「うち捨ててしまう・きらう・避ける。」

の意があります。

だから、「すさめぬ」は、同音異義の語句です。

なお、動詞「すさむ」には、四段活用の動詞もありますが、「すさめ」という已然形または命令形につく助動詞は有りません。 

④ 三句「さくらばな」は、類似歌の文字表現は「さくら花」であり、この歌は「さくらばな」です。

 類似歌のある『古今和歌集』には「さくら花」という文字表現は、類似歌の直後にもあります(1-1-55歌)し、『後撰和歌集』にも1-2-51歌をはじめ10首ほどあります。

 しかし、この歌は、「さくらばな」という文字表現で、「花」の字を避けています。

 このため、「さくらばな」が同音異義の語句の候補とみてみると、つぎのような語句がありました。

  • ・ さくら:上記5.⑥の「・ さくら」に示したように、「桜」、「さく等(ら)」で6種の意があります。
  • ・ はな:a花 b特に樹木の桜 cツユクサからとった染料(色がさめやすい) c鼻 d端(はし、先) e華
  • そして、 「さくらはな」が樹木の桜の花そのものの意となるのは、上記5.⑧で述べた理由で除外すると、三句「さくらばな」の意は、

F1 「桜の花のように華(のある特定の人)」

F2 「襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主」

が候補になります。

なお、接頭語「さ」+名詞「鞍または蔵・倉」+名詞「花・華」では意を成せません。

⑤ 四句「いたくなわびそ」は、副詞「甚く」+禁止の意の副助詞「な」+動詞「わぶ」の連用形+終助詞「そ」として、類似歌は理解しました。このほかは考え付かないので、同音異義の語句は無いでしょう。

⑥ 五句「われ見はやさむ」は、名詞「われ」+(「は」又は「が」を割愛)+上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形+意志・意向を表わす助動詞「む」の終止形として、類似歌は理解しました。

「見る」は、「目によって視覚の対象を捉える意、視覚で物事を知る意」(『古典基礎語辞典』)の言葉であり、視覚に入れるだけでなく、「見定める・見計らう、思う・解釈する」、などの意があります。

 「はやす」は、「ものを映えるようにさせる意、光や音などを外から加えてそのものが本来持っている美しさや見事さをいっそう引き立たせ、力を増させる意」の言葉であり、大別して「栄やす・映やす」と「囃す」の2つの意がありますので、四句には同音異義の語句があります。

また、「上一段活用の動詞「見る」の連用形+四段活用の動詞「はやす」の未然形」を一語の動詞「見栄やす」と理解することも可能です。

このため、五句「われ見はやさむ」の現代語訳の候補に次のようなものがあります。

G1 私が見る行為をし、栄やそう(映やそう)

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」、「思う・解釈する」であり、この文は、応援をして引きたたせよう、という意になります。

G2 私が見る行為をし、囃そう

この場合、「見る」は、「見定める・見計らう」より「取り扱う・処置する」であり、この文は、具合よく囃そう、という意になります。

G3 私がもてはやして見よう。または、私が見てもてはやそう。

この場合、「見はやす」は、一語の動詞です。

⑦ 句またがりでの同音異義の語句はなさそうです。

 

7.3-4-32歌の詞書と歌の現代語訳を改めて試みると

① このように同音多義の語句が歌にいくつかありますので、各句の現代語訳の候補を整理するとつぎの表のようになります。

 

 

 

句の区分

各句の案

 

第1案

第2案

第3案

第4案

初句:1案

「山が高いので」

 

 

 

二句:人もすさめぬ:2案

「ぬ」は打消しの助動詞「ず」の連体形 D1&E1

 D1&E2

「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形 D2&E1

D2&E2

三句:さくらばな:3案

桜の花のように華(のある特定の人) F1

襲(かさね)の色目の名の桜に例えられる鼻の持ち主 F2

 

 

四句:1案

思い煩う、さびしく思う

 

 

 

五句:3案

栄やそう・見定めて応援して引きたたせよう G1

具合よく囃そう

G2

みてもてはやそう G3

 

 

② 詞書に留意し、検討します。

 C1の詞書の場合、三句の桜はF1となり、その席にいる華のある誰かあるいは同席の人が同じように華があると思う(その席にいない)第三者を指し、その人を(囃し立てるのではなく)引き立たせよう、という理解が素直である。しかし、これは類似歌の樹木の桜を人物に替えただけの歌です。

 C2の詞書の場合、飲食の席の歌であるので、三句はF1又はF2になり、「桜の花ように注目を集めている人」または「鼻まで赤くしている人」、つまりだいぶ酔ってしまった人、の意となるのではないか。詞書で「簀などの先(高欄)を蹴る」とあるので、酔ったため高欄を蹴るようにしてしか歩けない人を座の人達が囃し立てている歌あるいは、高覧を蹴ってみよとからかっているのがこの歌と理解できます。この場合、F2でよいと思います。

二句における「すさむ」の意は、三句「さくらばな」なる人物を暖かく見守るスタンスで歌をまとめるほうが飲食の場に相応しいと思うので、E1 「心にとめて愛する・慰みとする」で試みるものとします。

なお三句の「さくらばな」は、掛詞とみることができます。三句は、初句と二句で修飾される「桜」の意を残し、三句以下でも一文を成しています。

③ このため、詞書と歌について、改めて現代語訳を試みると、二句は表の第1案(D1+E1)+三句は同第2案(F2)+五句は同第2案(G2)の組み合わせとなり、つぎのとおり。

 詞書:「山寺に行ったのだけれど、簀(さく)などの先(高欄)を蹴るのを見ることになり詠んだ(歌)」 

 歌:「山が高いので、愛されなかった桜もあるが、その桜みたいな色の鼻になった方、酔いが大いに進んだ方、大層に思い悩んだり悲観するな。歩けるように、私が、調子をとって囃し立てましょうから。」

なお、配列から、春の桜の歌となるので、この歌は桜の花見を名目とした宴席となります。

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-32歌は、詠む事情を簡潔に述べています。類似歌1-1-50歌は、「題しらず」とあり、何の情報もありません。

② 三句の意が異なります。この歌は、「さくらばな」で特定の人物を指し、類似歌は、「さくら花」で今咲いている桜木(多分複数)を意味しています。

③ 五句の意が異なります。この歌は、「囃す」の意であり、 これに対して類似歌は「栄やす」意です。

④ この結果、この歌は、山寺での花見における飲食の席で酔っ払った男をはげましている歌であり、類似歌は、山寺の桜を単に愛でている歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-33歌 あめのふりける日、やへやまぶきををりて人のがりやるとてよめる

はるさめににほへるいろもあかなくにかさへなつかしやまぶきのはな

類似歌 1-1-122歌 題しらず  よみ人知らず  (巻第二 春歌下)

      春雨ににほへる色もあかなくにかさへなつかし山吹の花

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/15   上村 朋)