わかたんかこれ  猿丸集第51歌 をしげなるかな

前回(2019/9/30)、 「猿丸集第50歌 みぬ人のため」と題して記しました。

今回、「猿丸集第51歌 をしげなるかな」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第51歌 3-4-51歌とその類似歌

① 『猿丸集』の51番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

古今集にある類似歌 1-1-65歌  題しらず     よみ人しらず」

      をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の四字と五句の一字と、詞書が、異なります。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女性への思いを詠った歌であり、これに対して類似歌は、春の桜を愛でている歌となっています。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-65歌は、『古今和歌集』巻第一 春歌上にあり、「桜を惜しむ歌群(1-1-61歌~1-1-68歌)」の5番目に置かれている歌です。この歌群は、春歌上最後の歌群です。

巻第一 春歌上の歌の配列の検討は、3-4-49歌の検討の際行い、『古今和歌集』の編纂者は、当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列し、その際、奇数番号の歌と次の歌を対としていること等が判りました(ブログ2019/9/9付けを参照)。

それらを参考にして配列を再確認します。

② この歌の歌群の歌と前後の歌各1首をみてみます。

1-1-60歌  寛平御時きさいの宮の歌合のうた     とものり

三吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける

吉野山のほとりに咲いているあの桜の花は、雪ではないかとばかり、つい見まちがえられたことであるよ。」(久曾神氏)

 

1-1-61歌  やよひにうるふ月ありける年よみける     伊勢

さくら花春くははれる年だにも人の心にあかれやはせぬ

「桜花よ、今年のように春の日数がふえている年だけでも、せめて、人々の心にもう十分であると思われるようにしないのであろうか。」(久曾神氏)

 

1-1-62歌  さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける     よみ人しらず

あだなりとなにこそたてれ桜花年にまれなる人もまちけり

「桜の花ははかなく散るので薄情であるとの評判があるが、その花でも一年に何度も来られないあなたのおいでを待っていたのであるよ。」(久曾神氏)

 

 

1-1-63歌  返し     なりひらの朝臣

けふこずはあすは雪とぞふりなましきえずはありとも花と見ましや

「今日来たからよいが、もし今日来なかったならば明日は雪となって散ってしまうものを。もし消えないでいたとしても、それは花と見ることができようか。」

 

1-1-64歌  題しらず     よみ人しらず

ちりぬればこふれどしるしなきものをけふこそさくらをらばをりてめ

「散ってしまったならば、いくら恋い慕ってもかいはないのであるから、今日こそ桜の花を折るならば折ってしまおう。」(久曾神氏)

 

1-1-65歌  (上記1.の①に記す。類似歌であるので、後ほど検討します。)

 

1-1-66歌  題しらず     きのありとも

さくらいろに衣はふかくそめてきむ花のちりなむのちのかたみに

「濃いさくろ色に着物をば染めて着よう。やがて桜の花が散ってしまうであろうが、その後の思い出のよすがとなるように。」(久曾神氏)

 

1-1-67歌  さくらの花のさけりけるを見にまうできたりける人によみておくりける     みつね

わがやどの花見がてらにくる人はちりなむのちぞこひしかるべき

「私の屋敷の花見をかねてたずねて来る人は、花が散ってしまったあとには来てくれないでしょうから、さぞ恋しく思われることであろう。」(久曾神氏)

 

1-1-68歌  亭子院歌合の時よめる     伊勢

見る人もなき山ざとのさくら花ほかのちりなむのちぞさかまし

「賞翫する人もないような山里の桜の花は、できることなら、他の桜の花が散ってしまってから後に咲いてほしいものであるよ。」(久曾神氏)

 

1-1-69歌  題しらず     よみ人しらず

春霞たなびく山のさくら花うつろはむとや色かはりゆく

「春霞のたなびいている山に咲いている桜の花は、色が次第に変わってゆくが、散りがたになろうとしてであろうか。」(久曾神氏)

 

③ このように、1-1-60歌まで、桜の花の咲いている景を詠っていますが、1-1-61歌は花が咲いている期間を詠い、散ることを意識して詠い始めています。以後、みな「ちる」ことを詠っています。このため、1-1-61歌以降が一つの歌群と認められます。そして巻第二の最初にある1-1-69歌も、「うつろふ」と花が散る状況の歌ですが、『古今和歌集』編纂者は、この歌から巻第二を始めています。巻を越えた歌群の設定をしなければ、この歌群は1-1-68歌までとなり、春歌上の最後の歌群になります。

④ また、1-1-61歌から2首ごとに一つの主題を扱っており、

1-1-63歌と1-1-64歌は、桜の花は散りやすいからと心のみだれを詠い、

1-1-65歌と1-1-66歌は、いよいよ散り始めた桜にまだ楽しみたい方法を2案示し(ているのではないか)、

1-1-67歌と1-1-68歌は、散り始めても惜しみなく楽しみたいと、都と山の事例を詠っているとみることができる、

と推定しました(付記1.参照)。

1-1-65歌は、このような配慮の中にある歌である、と思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳を試みると

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「桜の花は折りとるならば、惜しそうにも思われることであるよ。さあここに宿をかりて、散るまではながめよう。」(久曾神氏)

「もし折って取ったなら、いかにも惜しむ様子だなあ。あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」(竹岡氏)

② 竹岡氏は、「惜しげとは、桜が自分の枝の花を折りとられるのを惜しん」でいるので「その桜に宿を借りようとしている」と指摘しています。

③ 「両度聞書」は、「人のぬし有りておしむにはあらず。花の心をさっして言ふなり。しかれば宿かりても明なり」と指摘しています。

④ 現代語訳は、「両度聞書」に従い、竹岡氏の訳を採ることとします。

 

4.3-4-51歌の詞書の検討

① 3-4-51歌を、まず詞書から検討します。

詞書当初にある「やま」には、特段の形容がありません。「はな」あるいは「はな見」にもありません。前の歌3-4-50歌も「花見」に行った際の歌でしたが、桜の木の周囲の状況が詞書に記されていました。

ここでも、特徴的な景を記しているとみて、示唆している語句を探すと、

第一 「やま」とは、「山」の意ではなく、「屋間」(建物と建物の間の空間、または(居住する建物の)屋根の間)、あるいは「矢間」(武具を置いてある(家の中の、屏風やふすまなどに仕切られた所。へや。)(『例解古語辞典』)ではないか。

第二 「はな見にまかる」とは、「(その時期を代表する花である桜の花を見る」意のほか、「(美しさや華やかやもろさなどの象徴としてとらえた)花を「見る」」の意もある。

第三 「見る」(歌の五句でも用いられている)とは、「視覚に入れる・ながめる」意のほかに、「(・・・の)思いをする・経験する。」とか「見定める・見計らう」などの意がある。

などがあります。

② 「やま」については、3-4-28歌の「やま(のかげ)」が、「(牛車の車の)「輻(や)の間」の意でした。

この歌でも、その意ならば、「(牛車の車の)「輻(や)の間にみえる花」=牛車のなかの女性をみにゆき、詠み(おくった歌)」ということになり、「見にまかる」ことが衆人環視のなかの行動となり、当時の官人の常識からは考えられない行動です。『古今和歌集』恋一にある1-1-476歌や1-1-479歌の詞書のような行動が普通なのではないでしょうか。

④ 詞書の現代語訳を試みると、上記第一以上に絞り込めにので、いくつかの案があります。次のとおり。

「やま」=「山」の場合

「山に桜の花見にゆき、詠んだ(歌)」

「やま」=「屋間」(建物と建物の間)の場合

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

「やま」=「屋間」(屋根の間)の場合

「屋根と屋根の隙間がみえるところにゆき、(となりの)桜の花(花のような人)を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

「建物内の武具を置いている(屏風などに囲まれた)ところに、立派な、桜の花と喩えるようなものを見て、(その後に)詠んだ(歌)」

 

整理をすると、山の景の歌と都の屋敷での景の歌になり、後者の場合は、「何かから覗き見して、「花」をみて詠んだ(歌)」という意を共通に持っています。「はな」が女性または女子を意味するならば、衆人環視のなかでの行動とは異なり、みっともない行動ですが、それに関心を持つ男であればやりかねない行動です。

⑤ この詞書は、次の歌3-5-51歌の詞書でもあります。その歌の検討をしてから現代語訳を改めて検討することとし、ここでは、この4案で3-4-51歌を検討することとします。

 

5.3-4-51歌の現代語訳を試みると

① 『和歌文学大系18』(1998)『猿丸集』(鈴木宏子校注)では、現代語訳をつぎのようにしています。

「折りとってしまったならば惜しそうな感じがするよ。この美しい桜花は。さあ宿を借りて散るまで見ていよう。」

これは、類似歌と同趣旨の理解であり、山の景の歌ということになります。ここまでの『猿丸集』歌の例からみると、別の理解があるはずです。そのため、詞書も、上記の都の屋敷での景の歌、として検討をすすめます。

② 二句にある「をしげ」の「をし」とは、「いとしい。かわいい」、「すばらしい」、「手放すのにしのびない。捨てがたい。おしい」の意があります。

③ 「はな」は、「(美しさや華やかやもろさなどの象徴としてとらえた)花」と理解すれば、作者が男であるとすると女を意味していると理解できます。また、五句にある「見る」には上記のようにいろいろの意味があります。

④ 歌について文の構成をみると、

文A:(私か誰かが)をりとらば (文Bの条件)

文B:(桜の木は)をしげなるかな(と思うと私は考える)

文C:さくらばな (呼びかけ)

文D:いざ (私は)やどかりて (文Eの条件)

文E:(私は、さくらばなが)ちるまでもみむ

となります。

⑤ これらのことを踏まえて、詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

第一案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

第二案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて、噂が急に広まるまで(裳着が終わるまで)じっと見まもろう。」

第一案は、初句「をりとらば」の時点が、女性と逢えるようになる時点、の意であり、女性は成人です。

第二案は、初句「をりとらば」の時点が、女子が大人になった時点で行う裳着の前の時点、の意です。第二案は、まだ少女である姫君が庭に出て遊んでいるところを盗み見した後の歌ということになります。

⑥ さらに絞りこむのは 3-4-52歌の検討後とします。

 

6.この歌と類似歌とのちがい

① ここまでの検討結果を整理すると、まず、詞書の内容が違います。この歌は、具体に事情を説明し、類似歌は、題しらずで何も語りません。

② 二句が異なります。この歌3-4-51歌は、「をしげなるかな」に対し、類似歌1-1-65歌は、「をしげにもあるかな」とあります。これにより、この歌は、作者の感慨が二句に、類似歌は桜木の思いを作者が推測したのが二句、となっています。

③ 五句が異なります。この歌は「ちるまでも」で「ほかの楽しみとともに散るまでの間を(見よう)」の、意であす。これに対して、類似歌は、「ちるまでは」で、花の散ることだけを、強調しています。

④ この結果、この歌は、女性への思いを詠った歌であり、これに対して類似歌は、春の桜を愛でている歌となっています。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

類似歌は、1-1-520歌:「題しらず  よみ人しらず」  巻第十一 恋歌一よみ人しらず

こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の類似歌を中心に、記します。

(2019/10/7   上村 朋)

記1.古今集巻第一春歌にある歌の主題等の一覧抜粋(1-1-59~1-1-68) (ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌その1 よぶこどり 」(2019/9/9付け)の付記1.の表より)

表4 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等) (1-1-59~1-1-68) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-59

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雲

さくら

晩春

第八

1-1-60

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雪

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

晩春

第九

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

1-1-63 a

花は散りやすい

明日は分からぬ

今日現在の花

晩冬(雪による)

第九

1-1-64 *

花は散りやすい

花は今を愛でたい

今日現在の花

さくら

晩春

第九

1-1-65 a*

散るときとなる

まだ楽しみたい

泊まる

さくら

晩春

第九

1-1-66 a

散るときとなる

まだ楽しみたい

染める

晩春

第九

1-1-67 a

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

1-1-68

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

山里の桜

さくら

晩春

第九

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3) 「a」のある歌の注

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花とまれなる人。桜花ならば、古今集春上の歌。まれなる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。3-4-51歌検討時確認する。③1-1-64歌と問答歌にみせているのは1-1-62歌と1-1-63歌と同じ理由。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

(付記終り 2019/10/7   上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第50歌 みぬ人のため

前回(2019/9/23)、 「猿丸集第49歌その3 別の配列」と題して記しました。

今回、「猿丸集第50歌 みぬひとのため」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第50歌 3-4-50歌とその類似歌

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でようという春を楽しむ歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-54歌は、『古今和歌集』巻第一 春歌上にあり、「桜が咲く歌群(1-1-49歌~1-1-60歌:)」の6番目に置かれている歌です。

巻第一 春歌上の歌の配列の検討は、3-4-49歌の検討の際行い、『古今和歌集』の編纂者は、当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い、歌群を設けて配列し、その際、奇数番号の歌と次の歌を対としていること等が判りました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌その1 よぶこどり」(2019/9/9付け)を参照)。

また、3-4-32歌の検討の際も、この歌群の歌の検討を行いました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第32歌 さくらばな」(2018/10/15付け)を参照)。

それらを参考にして配列を再確認します。

② この歌の歌群の歌すべてと、その前後の歌各1首をみてみます。

 

1-1-48歌  題しらず     よみ人しらず

     ちりぬともかをだにのこせ梅花こひしき時のおもひいでにせむ

「たとい散っていくとしても、せめて香をなりと残せ、梅の花、恋しい時の思い出(の種)にしよう」(竹岡氏)

ここまで梅を詠いこむ歌が17首続いています。

 

1-1-49歌  人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる     つらゆき

     ことしより春しりそめるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「初めて花を付けた桜よ、散ることは他の桜に見習わないでほしい。」と理解しました。

 

1-1-50歌  題しらず     よみ人しらず

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

          又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら

この歌は、猿丸集32歌検討の際、現代語訳を、試みました(上記の2018/10/15付けブログの「4.⑤」)。2案示しました。

「高い山にあるので誰も心にとめない桜花よ。そのようにそんなにひどくさびしく思うな。私が散る前によく見て賞揚し、世の中に紹介するから。(来年は多くの者が愛でるように。)」

あるいは、高い山は遠国の比喩、と理解すると、散るに繋がるもうひとつの理解があります。即ち、

「高い山にあるので誰も心にとめない桜花のように、希望をしない遠国に任官となった君よ、(今回は残念であったが)そんなにひどくさびしく思うな。私が貴方を見計らってきわだたせるから。」

 

1-1-51歌  題しらず     よみ人しらず

     やまざくらわが見にくれば春霞峰にもをにもたちかくしつつ

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「見にきたら山桜を山ごと霞が隠してしまっている。」と理解しました。

 

1-1-52歌  そめどののきさきのおまへに花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる     さきのおほきおほいまうちぎみ

     年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

作者は、藤原良房であり、「そめどののきさき」の実父です。この歌は、猿丸集32歌検討の際、「年月を重ね老いてきた私だが、美しい花を見ていると何の心配もない。」と理解しました。

 

1-1-53歌  なぎさの院にてさくらを見てよめる     在原業平朝臣

     世中にたえてさくらのなかりせば春の心はもどけからまし

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「世の中に桜がなかったならば、春はのどかであろうに。」と理解しました。

 

1-1-54歌  (上記1.に記す。現代語訳は別途示す。)

この歌は、猿丸集32歌検討の際、1-1-55歌とともに「やまの桜を詠んでおり、その桜を皆にも見せようと作者は工夫をしています。」と評しました。

 

1-1-55歌  山のさくらを見てよめる    そせい法し

     見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ

「ただ単に見て人にお話しするばかりですまそうか。あの桜花、てんでに折って家へのおみやげにしようよ。」(竹岡氏)

 

1-1-56歌  花ざかりに京を見やりてよめる     そせい法し

     みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける

この歌は、猿丸集32歌検討の際、(作者が1-1-55歌と同様に山桜をみて詠んだのであれば)「都を「春のにしき」と形容するものの、都の桜は散り際か葉桜であり青葉若葉がきらきらしていたと思います。」と指摘し、また(都の中または近くで作者は「京(全体)をみやりて」詠んだのであれば)「四句と五句は作者も都に居るとの意識はあるものの周囲の状況から都全体を推測した歌」とも指摘しました。

また、佐田公子氏の「平安京は作者素性法師の曽祖父桓武天皇が築いた都であり、・・・遷都から一世紀余りを経た花盛りの都を遥かに見渡して、帝都繁栄の象徴である柳と桜の生命力をもって称え、しかも「都ぞ春の錦」と豪語してその隆盛の極みを歌い、平安王城の安泰を祈念したのである。(古今集の)撰者達が当該歌を収載した理由ももちろんそこにあった。まさに漢詩から換骨奪胎した勅撰和歌集に相応しい歌としてあつかったのである。」という指摘を後日(2019/1/7)、上記の2018/10/15付けブログに追記引用しました。

 

1-1-57歌  さくらの花のもとにて年のおいぬることをなげきてよめる     きのとものり

     いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

「桜の花は色も香も昔とおなじように咲いているであろうが、年取った人はいつしか姿がかわったことであるよ。」(久曾神氏)

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「とものりの1-1-57歌の元資料の歌は、梅を詠んでいる歌です(ブログ「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1)の3.④参照)が、『古今和歌集』の編纂者は、1-1-52歌の何首かあとに、桜の花を詠んだ歌として詞書を改めたうえここに配置しています。「年ふればよはひはおいぬ」と詠う1-1-52歌、「年ふる人ぞあらたまりける」と詠う1-1-57歌の作者の立場は共通している歌です。盛りを過ぎた後への感慨を詠っています。」と指摘しました。

 

1-1-58歌  をれるさくらをよめる     つらゆき

     たれしかもとめてをりつる春霞たちかくすらむ山のさくらを

「だれがまあ、尋ねもとめて行って、折りとったのであろうか。春霞が一面に立ちこめて隠していたであろう山の桜の花をば。」(久曾神氏)

久曾神氏などは、「山の桜」に女性の面影のあることに注意しています。霞が秘蔵していたであろうに、の意が加わっています。この歌以降は、猿丸集32歌検討の際には触れていません。

 

1-1-59歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき

     桜花さきにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲

「桜花が、あれ、もう咲いた模様だなあ。足引きの山の峡(かい)に見える(あの)白雲。」(竹岡氏)

この元資料の歌は「屏風絵の料の歌」です。

 

1-1-60歌  寛平御時きさいの宮の歌合のうた     とものり

     三吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける

吉野山のほとりに咲いているあの桜の花は、雪ではないかとばかり、つい見まちがえられたことであるよ。」(久曾神氏)

 

1-1-61歌  やよひにうるふ月ありける年よみける     伊勢

     さくら花春くははれる年だにも人の心にあかれやはせぬ

「桜花よ、今年のように春の日数がふえている年だけでも、せめて、人々の心にもう十分であると思われるようにしないのであろうか。」(久曾神氏)

 

③ このように、梅を詠う歌が終わった後、咲いている桜を詠う歌が1-1-49歌から始まり、新しい歌群が始まっている、と言えます。1-1-60歌まで、桜の花の咲いている景を詠っていますが、1-1-61歌は花が咲いている期間を詠い、散ることを意識して詠い始めています。このため、1-1-60歌までが一つの歌群と認められます。そして、次の歌1-1-62歌は、「年にまれなる人もまちける」と訪れる時期を詠んでいます。

④ また、1-1-49歌から2首ごとに一つの主題を扱っており、1-1-51歌と1-1-52歌は、桜があちこちに咲く状況に満足の意を表わすことを主題として郊外と都に例をとり示し、1-1-53歌と1-1-54歌は、満開の桜に満足の意を、桜が無いという仮定と手に取ることを遮られた時という事例で表現し、1-1-55歌と1-1-56歌は、そのような春爛漫の景の満足感を、山と都で見たと詠っているとみることができる、と推定しました(付記1.参照)。

1-1-54歌は、このような配列の中にある歌である、と思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「ほとばしり流れる急流がなければよいのになあ。あの川向うの桜の花を折り取って来ようものを。この美しい桜を見ない人のために。」(久曾神氏)

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。見ない人のために。」(竹岡氏)

② 久曾神氏は、「いしばしる」について、「「たき」にかかる枕詞。流水が岩にぶつかりはげしく飛沫をあげるところから滝(急流・奔流)にかかる。」と指摘し、「歌の調子としては、二句切、四句切の五七調で古風な感じである。情景にも実在感があり、歌の心も概念的でないのがよい。」と指摘しています。

③ 竹岡氏は、「たき」について、『萬葉集』では急流の意と指摘し、「この歌は古今集の読み人しらずの時代の歌でありこの歌でも同様に解される。」と指摘しています。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句の語句より検討します。

初句の「いしばしる」とは、『萬葉集』の「いはばしる」から生まれた同様の意の語句という諸氏の意見があります。

『新編国歌大観』記載の『萬葉集』が底本とした西本願寺本による訓に、「いはばしる(り)」、「いはそそく」、「いしば(は)しる」があり、それが「泊瀬川・垂水(見)・多伎」に掛かる場合は、みな岩々が河床にみえるようなところで流れ(または落水)が速い部分の川の形容であり、意味の差は少ない、とみることができます(付記2.参照)。

二句にある「たき」は、古今集のよみ人しらずの時代の歌なので、川の縦断方向で「岩々が河床にみえるような流れが速い部分」をさしている『萬葉集』歌における「たき」という表現の意と同じと理解できます。では、この歌の実景あるいは屏風絵はどのようなものであったのか確認したい、と思います。

② 歌の文構成をみると、倒置文でなければ、

文A いしばしる「たき」なくもがな(と私は思う)

文B 桜花(よ) (詠嘆あるいは呼びかけの文)

文C (桜花を、私は)たをりてもこむ

文D (その理由は)みぬ人のため(である)

このようになり、文Bは、文Aと文Cの両方に掛かるとみることができます。この歌の作中人物は、二句にある「たき」の存在により、桜の枝を採ることができないと詠っていることになります。

③ そのような「たき」の景を検討してみます。「たき」により桜の枝を採りに行けないというのは、「たき」を横断できないため採りに行けないケースと、「たき」となっている川の縦断方向に進むか降るかすることができないため採りに行けないいケースがあると思います。

前者のケースでは、実際の理由は流量が豊かすぎて徒歩で渡れないか、流れのあるところまで採りにゆく者が降りることができないことであろうと、推測できます。流量が理由であれば、作中人物または、指示された者にとり、桜の枝を手折ってくるのはできることであると思います。何故ならば、「岩々が河床にみえるような流れが速い部分」の直近の上下流には渡れるところが多くの場合あると推測できるからです。

降りることができない場合は、後者のケースと同じで、急こう配で足場がない事例も想定できるので、桜の枝を採りに行けない事例が有り得ます。

そうすると、「たき」の存在以外の理由で物理的に近づけないのが本当の理由と思われます。それでも「たき」と表現しているのですから、実景とすればそこの近くには流水があったのでしょう。この歌における「たき」は、その水量を度外視されていると想像できます。

④ もしも屏風歌であれば、少なくとも山の斜面などに咲く桜を描いている絵を眼前にして、その絵の桜の枝を手折ってくるのが不可能であることを(絵のすばらしさを)讃えるのに「たき」というものを用いて詠った、と理解できます。「たき」の向こうに咲く桜というイメージのためには、「たき」が屏風絵に描かれていても、描かれていなくともかまいません。

しかし、この歌は、よみ人しらずの時代の歌であるので、その時代に大和絵の屏風が用いられていないとすれば、作詠動機に屏風絵は該当しません。

⑤ このように、作詠動機となる実景・屏風絵の検討からは、「たき」と言える実景あるいは屏風絵において想定している「たき」は、急流である必要はなく、水量を問わないものであると推測できました。咲いている桜とその桜を愛でる作中人物を確実に隔てるものがあったことを詠っていることだけは確かなことです。

そのため、実景と屏風歌の検討からは、屏風歌が捨て難く作者とされている「よみ人しらず」が『古今和歌集』編纂者の作為ではないか、という疑問が消えません。

⑥ その疑問は別にして、現代語を試みると、つぎのとおり。四句と五句の訳を比較し、竹岡氏の現代語訳をベースにしました。

「積み重なった岩の上を激しく流れ落ちる流れがないわけにもいかぬかなあ、桜よ。あの桜花一枝、せめて手折ってでも来ように。(この景に出会えないで)見ない人のために。」

都の桜からうける感動とは違うものが作者にあって詠んだ歌とすると、一枝の桜に感動したのではなく山中で並び咲く桜あるいはほかの木々の間に抜きんでてみえる桜にであったのではないでしょうか。

1-1-53歌が、その詞書により渚の院という邸宅内の植樹した桜あるいは人工的な桜(屏風の桜)と推測できるので、人の美意識に基づき手を入れた桜と自然の中の桜との対比を『古今和歌集』の編纂者はしています。

 

5.3-4-50歌の詞書の検討

① 3-4-50歌を、まず詞書から検討します。歌には「桜花」と言う語句を用いているので、詞書の頭書にある「はな見にまかりけるに」とは、「(都を離れて)観桜にでかけてきたところ」の意となります。

この詞書では、「はな」と言う語句を「いしにはなのせかれたる」(文E)という文でも用いています。

「せかれたる」とは、

四段活用の動詞「塞く・堰く」または同「急く」の未然形+受け身・自発などの助動詞「る」の連用形+完了の助動詞「たり」の連体形

です。「塞く・堰く」には、「aせき止める。b恋人同志が逢うのをじゃまする。」の意があり、「急く」には、「あせる。いらだつ」意があります。文Eを、「石に」せかれたる、と理解すると、前者の意が素直な理解と思います。

② 歌の四句で「たをりてもこむ」と詠っているので、「せかれた」のは、花びらや流水中にある折れた枝なのではなく、桜木そのものではないか、と思います。

③ 詞書にある「山がは」とは、谷川・玉川に倣った「山川(山中を流れる河)」とも、「山側」ともとれます。

後者はこの表現が基準としている地より標高が高くなっている部分あるいはその状態となっている方角を指すことができます。「山である方」の意で谷側ではない方、即ち折り紙でいう山折り谷折りとおなじ比喩的な使い方が「やまがは」にあります。例を挙げると、

実際に山が見える方向

山や山に見立てたものの斜面(庭の小山の斜面、斜面にある窪地の標高の高い部分の壁など)

建物の山側の部屋など(傾斜地に建てた建物ならば標高の高い方にむいた部屋や廂や庭)

その部屋・室内において山側にあたる部分

④ 名詞としての「いし」とは、『例解古語辞典』には

名詞の「石」。

名詞の「椅子」。背もたれとひじかけのある椅子。儀式のときなどに貴人が用いる。

とあります。

桜木を「たをってくる」のを困難にする可能性は「石」が断然高い。「椅子」はその場から簡単に取り除くことができます。

⑤ 鈴木宏子氏は、詞書の「やまかは・・・たる」とは、「山川を流れる落花が石によって堰き止められている。」意としています(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))。

⑥ さて、『猿丸集』において、この歌と同じように「まかりける」と記す歌が何首かあります。みな桜を見に足を運んでいます。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

3-4-52歌  同上

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

この歌と比較すると、『猿丸集』編纂者は、この歌にだけ、桜の周囲の状況を詞書で記しています。そして、この歌だけ持ち帰りたい気持ちを詠っている歌となっています。この2点に留意して歌を理解しなければならない、と思います。

なお、『猿丸集』で、「(各種の)花を見て」とある詞書をみても花の周囲の状況に触れているのは、この歌だけです。

⑦ 以上のことを踏まえて、詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「花見に(都から)来たところ、川の山側でいくつもの石に堰かれている桜木を見て(詠んだ歌)」

山腹の岩石の間にある桜木を「せかれている」と形容した心境に作者はいる、と理解します。

この歌は、3-4-49歌の直後に置かれている歌なので、その続きの歌とみると「花見」の「花」は特定の女性を暗喩しているかもしれません。

 

6.3-4-50歌の現代語訳を試みると

① 鈴木氏は、現代語訳を示していません。氏は、『猿丸集』のどの歌も、類似歌の訳に同じと見なしているようです。

② 氏は、初句「いはばしる(石走る)」を、「滝にかかる枕詞。万葉の「いはばしる(石走・石流)」の誤読によって生まれた語という。」、二句にある「たき」を「急流のこと」、と指摘しています。

③ 初句から二句にある「いしばしるたき」とは、河を縦断方向で区切ったとき、砂より石ばかりが目立つようなところで勢いよく水が流れている川の部分・範囲を指しています。

動詞「はしる」(走る・奔る)には、「a駆けてゆく。b逃げる。c早く流れる。dころがる、すべる。e胸騒ぎがする。」という意があります。

④ 五句にある「みぬ人」とは、

動詞「みる」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形+特定の人物を念頭に置いた名詞「人」

であり、作中人物(作者)は詞書にあるように「いしにせかれたる桜」を見て詠んでいます。

動詞「みる」(上一段活用)にはつぎのような意があります(『例解古語辞典』)。

「視覚に入れる。見る。ながめる。」

「思う。解釈する。」

「(異性として)世話をする。連れ添う。」

「(・・・の)思いをする。(・・・な目に)あう。経験する。」

「見定める。見計らう。」

詞書にある「見て」の「見る」は、「視覚に入れる。見る。ながめる。」の意ですが、この五句の、「見ぬ人)」と表記していない「みぬ人」の「みる」は、それ以外の意であろう、と推測します。

それから、この歌が3-4-48歌と3-4-49歌の次に配列されていることをヒントと理解できるかもしれません。

⑤ 3-4-50歌の現代語訳を、以上の検討を踏まえ、詞書に従い、試みると、つぎのとおり。

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。連れ添うことにならないあの人のために。」

あるいは、

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。(私が未だ)見定めていないあの人のために。」

作中人物は、「堰」かれている桜を眼前にしているということが、この歌を理解するポイントと思います。

3-4-48歌と3-4-49歌の続きの歌とみれば、前者の訳がよい、と思います。どちらの現代語訳(試案)でも、類似歌と異なる歌となりました。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、歌を詠む事情を示唆し、類似歌は、不明です。

② 五句にある「みぬ人」の対象が異なります。この歌は、作中人物(作者)にとり今関心の深い一人の人を指し、類似歌は、作中人物(作者)の親しい人々(友人・上司・家人・家司)という多くの人を意味しています。

③ この結果、この歌は、思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でようという春を楽しむ歌です。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

類似歌は、1-1-65歌  題しらず     よみ人しらず」  巻第一 春歌上

      をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

(2019/9/30   上村 朋)

付記1.ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌 その1 よぶこどり」(2019/9/9付け)の付記1.の表より

表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)(1-1-49~1-1-58) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

1-1-51*

桜あちこちに

もの思い無し

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

1-1-52

桜あちこちに

もの思い無し

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

1-1-53

桜満開

のどけからまし

桜無き世

さくら

晩春

第八

1-1-54*

桜満開

のどけからまし

さえぎるもの

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

1-1-57 a

見事な桜

毎年発見

都の桜

無し

初春(初句は梅)

第八

1-1-58 a

見事な桜

新しく発見

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の「*」はよみ人しらずの歌。「a」は注記が2019/9/9付けブログにある。

 

付記2.「いしばしる」、「いはばしり」という語句の先行例について

① 『萬葉集』歌において、『新編国歌大観』による訓あるいは同書が底本とした西本願寺本の訓で「いはばしる(り)」とある歌を確認すると、下表に示すように、9首ある。『新編国歌大観』による訓が8首、西本願寺本による訓が5首ある。即ち、西本願寺本で「いはばしる(り)」と訓まない歌が4首ある。

その内訳は、「いはそそく」の2首は「垂水(見)」にかかり、「いしば(は)しる」の2首は「淡海県」と「垂水」である。

② 萬葉仮名からみると、現在の初瀬川にかかる1首(2-1-996歌)では「石走」とある。その訓は、西本願寺本の訓でも『新編国歌大観』の訓でも「いはばしり」とある歌である。地名の初瀬の地を流れる河の区間が歌にいう「泊瀬河」であるので、「泊瀬河」は、明らかに布引の滝などとは違う川の様相の部分である。盆地や扇状地に出ない前の川の様相が「泊瀬河」と称されていることになる。

萬葉仮名「垂水(見)」に掛かる歌では、「石走」で1首(2-1-3034歌)、「石流」で1首(2-1-1146歌)、「石激」で1首(2-1-1422歌)ある。これらも盆地や扇状地に出ない前の川の様相に該当させることができる。

③ なお、萬葉仮名「石走」で2-1-3244歌のように「いしばし」と訓む歌(西本願寺本の訓でも『新編国歌大観』の訓でも)が3首ある(2-1-600歌、2-1-2292歌、2-1-2710歌)。「いはばしる」と訓み「淡海国(県)」に掛かる歌も下表にみるようにある、このように萬葉仮名「石走」には意がいくつかある、と思われる。

また、萬葉仮名「伊波婆之流」は「多伎」に掛かっている。「多伎」が今日言うところの「滝」であったとしても岩々の上から水が岩々の上い落下する部分となる。

④ これらの用例からいえば、「いしばしる」、「いはばしる」の意は、「いし」や「いは」より、「はしる」という形容が大事な語句といえる。つまり、意にあまり差がない、と思われる。

 

表 西本願寺本または『新編国歌大観』で「いはばしる(り)」と訓む万葉集歌一覧(2019/9/30現在)

歌番号等

萬葉仮名

西本願寺本による訓

『新編国歌大観』による訓

 備考

2-1-29

・・・天離 夷者雖有 石走 淡海国乃 楽浪乃・・・

いはばしる

いはばしる

長歌

2-1-50

・・・天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃国之 衣手能・・・

いはばしる

いはばしる

長歌

2-1-996

石走 多芸千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見

いはばしり

いはばしり

 

2-1-1146

命幸 久吉 石流 垂水水乎 結飲都

いはそそく

いはばしる

 

2-1-1291

・・・石走 淡海県 物語為

いしはしる

いはばしる

 

2-1-1422

石激 垂見之上乃・・・

いはそそく

いはばしる

 

2-1-3039

石走 垂水之水能 早敷八師 君恋良久 吾情柄

いしばしる

いはばしる

 

2-1-3244

・・・石走 甘南備山丹 朝見宮 仕奉而 ・・・

いはばしる

いしはしの

長歌

2-1-3639

伊波婆之流 多伎毛登杼杼呂尓 ・・・

いはばしる

いはばしる

 

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』における巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

(付記終り 2019/9/30   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第49歌その3 別の配列

前回(2019/9/16)、 「猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その3 別の配列」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。それを前回記しました。

④ 今回は、その検討途中で生じた、1-1-28歌に関する疑問について記します。

2.~10. 承前

古今集にある類似歌1-1-29歌は春歌上にあるので、その春歌上の配列を最初に検討した。そして前々回のブログ(2019/9/9付け)の付記1.の表を得た。検討の結果、「春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる」などが判り、時節の推移に従った9つの歌群を認め、類似歌の現代語訳を試みた後、3-4-49歌の現代語訳を試み、その違いを明かにした。その検討途中で、春歌上にある1首(1-1-28歌)の作中人物の感慨が、春の喜びを詠う歌としては違和感があったところである。)

11.改めて1-1-28歌について その1 文の構成

① 歌を再掲します。

1-1-28歌  題しらず     よみ人しらず

ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

前々回(ブログ2019/9/9付け)、五句の「「我ぞふりゆく」という作中人物の感慨は、「私だけは古くなってゆく」意とすると、春の喜びを詠う歌として、違和感がある」と指摘しました。

② それは、「ももちどりさへづる春」と、「物ごとにあらたまる(春)」は、定常的なことであり、「ふり行く」も人間だけでなく、広く生物にとり定常的なことと思えるのに、「我」のみに何故「ふり行く」(老いる)という例外が生じると詠うのであろうか、という疑問です。

この歌が、正月を迎えて若い人たちとの比較における老人の述懐であるならば、この歌にもっと適した部立が『古今和歌集』にあります。春にはそのような述懐を持つ機会に遭遇する(特定の)老人もいるでしょうが、もうすこし、この歌が春の部にあるのが妥当であるという何かが欲しい、というのが違和感というところです。

③ 「題しらず、よみ人しらず」の歌なので、「我」の立場を詞書から推測しようがありません。1-1-27歌などからもヒントがありません。

この歌の文の構成をみると、接続助詞「ども」により、この歌は前後の二つの文に分かれます。

接続助詞「ども」は、後にのべる事がらに対して一種の条件を示す場合と、既に事実がそうである事がらに対してたとえそうであってもと、強調している場合があります。

この歌では、「あらたまれども」というので、

(何かが)「あらたまる」のが一種の条件の場合が前者の「ども」

(何かが)「あらたまる」のは周知の事実の場合が後者の「ども」

となります。

動詞「あらたまる」とは、「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる。あらたまる」(『例解古語辞典』)なので、その主語の第一候補は文の上で直近にある「物」です。第二候補が「春」ですが、この歌は春の歌ですので、「春」と言う語句は「あらたまる」時期の明示とみたいと思います。

④ さて、接続詞「ども」の前の文は、主語述語を押さえてゆくと、

「ども」の意が前者の場合、

文A1 ももちどりさへづる

文B1 (・・・という現象が生じた年の)春は物ごとにあらたまる(時節なり)

の二つの文から成るとみなせます。「物ごとにあらたまる」という表現において「物」が、個別の特定できる事物を一般化していう場合や普通のもの・世間一般の事物を指し得る語句なので、「物ごとにあらたまる」ことは臨時のあるいは特異なことを言っているとは思えませんし、「ももちどりさへづる」も鴬を待つ歌を思いあわせると、春における鳥たちの囀りの形容が有力な理解であり、臨時のことでもありません。

前の文全体(文A1+文B1)は、「一種の条件」になっていません。このため、「ども」を前者に理解するのは難しいところです。

⑤ 次に、「ども」の意が後者の場合、

文A2 ももちどりさへづる

文B2 (・・・という時節は既に春であり、そして)春は物ごとにあらたまる(時節なり)

の二つの文から成るとみなせます。春における定常的なことを二つ言い出していることになり、「ども」は、後者の理解が可能です。

そのため、この歌の文の構造は、

文C ももちどりさへづる春

文D もの(ごとに)あらたまる春

文E1 (しかあれど)我ぞふりゆく

と、いうのを縮約しているのではないかと、推測します。

⑥ そうすると、「ども」の後の歌における文、

文E2 我ぞふり行く

の「ふり行く」は、定常的なことが「我」に生じなかったことを指している、と理解できます。

「ふり行く」とは動詞「ふる」+動詞あるいは補助動詞「行く」です。

動詞「ふる」の意は、『古典基礎語辞典』によれば、動詞だけでも「古る・旧る」、「振る」、「震る」、「降る」、「触る」があります。この歌においては、

第一に、「古る・旧る」(自動詞・上二段): a時がたって物や機能が老朽化する。b年をとる。老いる。c感慨などが時を経て薄くなる。d長年、物事が幾度も行われて、新鮮味がなくなる。

第二に、「降る」(四段活用):a雨・雪などが空から落ちてくる。霜などがおりる。b雨が降るのと同じように、細かいものが上のほうから辺り一帯にひっきりなしに落ちてくる。c涙がとめどなく落ちる。歌では「古る」と掛詞や縁語にして用いることが多い。d霧がかかる。

第三に、「触る」(四段活用・下二段): a手とか指とかで軽く瞬間的に相手にさわる・ほんのちょっとかすめるようにさわる。(四段活用) b軽く表面に接する(下二段)。cちょっと手をつける・ほんの少し食べる。(下二段) d男女の関係をもつ。(下二段) E多く「事に触れて」の形で副詞句として用いる。ちょっとした機会ごとに(下二段) f上からの通達を、広い範囲にわたって知らせて回る。(下二段)

が、候補となると思います。

「行く」の意は、

第一に、「行く・往く」(四段活用) a今いる所から別の所へ移動する。Bある地点を通過する。通りすぎる。C時間的に進む。歳をとる。d縁ずく。E物事や心が進展する。(事が進む。快い気持ちになる・満足する。合点する。損または得をする)

第二に、補助動詞的な用法。その状態が続く、その程度が進む意を表わす。

が、あります。

 

12.改めて1-1-28歌について その2  我ぞふり行く

① 五句「我ぞふり行く」において「行く」が補助動詞的な用法であるならば、動詞「ふる」の第一候補は、「古る・旧る」でしょう。

「古る・旧る」の意が、「年をとる」であるのは、作中人物だけ例外的になるはずがありませんので該当しません。また、その意が、「老いる」であるならば、一線から身を引く年に近づいたという、意を含意していても一度官人みんなに「我ぞふり行く」が該当し、もっと限定した特定の属性をもつ人物が「我」とではないか、と思います。

② そのため、春の定常的な状況を喜ぶ感情を持ちえない自分の感情を「ふり行く」(感慨などが時を経て薄くなる)と言っているというケースをも検討してみます。この場合、年齢の数え方が当時は毎年の一月一日を基準にしていたので、老人になって迎えた春の気持ちを詠んでいることになります。その気持ちは老いてきた人に一般的に生じる気持ちであり、これも定常的といえる部類に近く、また、このことを強調するならば、春の部よりも適切な部立があると思います。

春あらたまる例にあげている「ももちどりさへづる」で考えると、来年もその仲間になっていないとさえずることができません(今年ももちどりの一羽であった鳥は今年の夏以降い死んでしまえば来年ももちどりの仲間に入っていない)ので一羽の鳥の立場では来年も「さへづる」ことができるか不安が生じるところです。仲間から外れるという不安、ということが「我ぞふりゆく」という感慨になることもあると思います。しかし、それは今年「さへづる」仲間の鳥すべてに当てはまることであり、「我」という代名詞より、「人」という一般的な代名詞のほうが妥当な表現であると思います。

③ 「古る・旧る」の別の意を検討します。

作中人物だけ例外的に「古る・旧る」の意を、「長年、物事が幾度も行われて、新鮮味がなくなる。」意と理解すると、正月を迎えて行なわれる行事や慣習に従っている自分に新鮮味がなくなると意識したことであり、それを今この歌を詠む時点に限り、「我」が痛切に感じたとすれば、有り得る解釈です。しかし、詞書が題しらずであり、ほかの理解を否定しきることができません。また、この意味の場合の主語は「我が行動・思惟」であり、「我」では不自然です。

④ 動詞「ふる」の第二候補は、「降る」でしょう。

作中人物だけ例外的に「降る」ということであれば、その意は、歌では「古る」と掛詞や縁語にして用いることが多いという「涙がとめどなく落ちる」意が有力です。「我だけが泣く」というのは、「ももちどり(多くの人)がさへづる」に対比しているといえます。

これに対応する定常的なことは、官人の世界において春「あらたまる」ものに、春の除目がありますので、自分だけは除目にあえなかったのを嘆いている、という歌に理解が可能です。上級ではない官人(五位以下)にとり、除目は重要で注目する公事の一つです。(除目については付記1.参照)

⑤ 「あらたまる」と「ふる」とに関して、『古今和歌集』での用例をみてみます。

1-1-57歌の四句「年ふる人ぞ」を、竹岡氏は「年を経過する人間の方は」と、同五句「あらたまる」を「容姿が変わる」と現代語訳しています。

久曽神氏は四句を「年とった人は」と、同五句を「(いつしか)姿がかわったことであるよ」と現代語訳しています。

両氏とも、「ふる」を「老いる」、「あらたまる」を「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる」と理解しています。

1-1-824歌で久曽神氏は、四句「我をふるせる」を「(あの浮気者が私をおもちゃにして)見捨ててしまった」としています。

久曽神氏は、「我をふるせる」を「私を寵愛しておきながら、捨ててしまった」意としています。

「ふるせる」は、動詞「ふるす」の語幹+さ変の動詞「為(す)」の未然形+完了の助動詞「り」の連体形

であり、「ふるす」とは、飽きて見向きもしなくなる、意があります。この2首の両氏の理解は妥当なものであると思います。

⑥ 『古今和歌集』において、「公事あるいはその後の節会の際の歌」と詞書で明示している歌を確認すると、巻第七賀歌にある歌を除くと、四季の歌(巻第一~第六)では次のように、詞書からその際の歌かと推測できる歌はありますが、明示した歌はありません。

巻第一春上

1-1-4歌 二条のきさきのはるのはじめの御歌 (正月の公事・節会名の明示は詞書にない)

1-1-20歌、1-1-22歌 若菜を摘む歌 (小松引という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

1-1-21歌 親王が若菜を臣下におくる際の歌 (小松引という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

巻第四秋歌上

1-1-177歌 寛平の御時なぬかの夜、・・・ (乞巧奠という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

1-1-179歌、1-1-180歌 なぬかの日の夜よめる (乞巧奠という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

なお、寛平御時后宮歌合等の歌合は、公事という扱いの検討をしませんでした。

 

13.現代語訳の例

① 1-1-28歌の現代語訳の例を引用します。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、見るもの聞くものすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに古くなってゆくことである」(久曾神氏)

「たくさんのいろんな鳥がさえずる春は、物毎(ごと)に新しく改まるけれども、私は古くなって行くのさ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、老いを嘆く述懐の歌とし、「春になりすべてのものがよみがえる時に」「昔は新年とともに年齢を加えた」ので「一年ごとに年齢が加わるのがよけいに嘆かわしく思われる」と指摘しています。「ふり(行く)」と「もの」に特段の注記はありません。

竹岡氏は、「ふり(行く)」と「もの」に特段の注記をしていません。「この歌の主題は老いを嘆く述懐で、むしろ雑の部にいれるのが適当な歌ともいえる。」と指摘し、小島憲之氏に「人事と物との間に生じる「すきま」を詠む漢詩あり」との指摘があることを、紹介しています。(付記2.参照)

萬葉集』には「嘆旧」と題して「ふゆすぎて はるしきたれば としつきは あらたなれども ひとはふりゆく(万葉仮名は「人者旧去」)(2-1-1888歌)があります。

この歌も「人は老いる」という常識を詠った歌ではありません。(付記3.参照)

② 「ふり行く」は、両氏とも、加齢・老いる、の意です。「あらたまる」を 久曾神氏「よみがえる」、竹岡氏は「新しく改まる」、としています。「あらたまる」と「ふり行く(あるいはふる)」を対比して詠っているとすると、「再生」するか、しないか、ということにとれます。

③ 「さへづる」ももちどりに、春の除目で役職を得た官人たちとその官人の一族の人々を掛けているとすると、それぞれの役職から言えば人が替わるのが除目であるので、「ものあらたまる」という言い方ができます。名詞「物」には、「個別の事物を明示しないで一般化している場合」の意のほか、「普通のもの。世間一般の事物」とか「出向いて行くべき所」の意もあります(『例解古語辞典』)。

役職には全員が就けない状態(平時のポストでは当然ながら競争を求めるのが組織の原則です)なので、選ばれた官人とそうでない官人が毎年生じています。

つまり、「さへづるとり」の仲間に入れない者が必ずいます。この歌の五句にある「我」とは、今年も除目に与れないもの、という限定ができます。この歌は、巻第一春部上に配列すべき歌であり、題しらずよみ人しらずであっても、「我」の範囲を「我」の持っている属性から官人の一部に限ることが、このようにできました。

 

14.1-1-28歌を現代語訳すると

① 初句から2句にある「ももちどりさへづる春」とは、ここまでの歌と同様に、「春の喜びを唄っている鳥のいる春」を表現しています。これは毎年繰り返されることです。

② 「あらたまる」とは、「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる」意です。

「物(ごとに)あらたまる」の「物」は、「新しいものと入れ替わったり、かわって新しくなる」というのが毎年の習いになっているものを、指しています。春になり「あらたまる」例として、作中人物は、文Aの主語「春」を修飾する「ももちどりさへづる」をあげている、と見られます。「物」の一例は、「鳥たち」であり、春になり「さへづる」状況が、冬とは違っており、毎年必ずそうなっているのは、個々の鳥は毎年同じではないけれど、鳥が「さへづる」状況に変わるのは、毎年のことである、という認識を、作中人物はしているとみることができます。「物(ごとに)あらたまる」とは、「物」の春の形態ともいえます。

生物学的に正しいかどうかではなく、春はそういうものだ、という認識の一例を示しているのが「ももちどりさへづる春」であり、それは「「物(ごとに)あらたまる」の一例です。

③ 「ふり行く」とは、「古りゆく」に「降りゆく」を掛けています。その意は、「感慨などが時を経て薄くなる。(春を喜ぶ気持ちが薄らいできている)意に、「涙がとめどなく落ちる」意が掛かっていることになります。

後者の場合、「我だけが泣く」というのは、「ももちどり(多くの人)がさへづる」のに対比していることになります。

④ 三句「ものごとに」の「ごと(毎)」とは、体言にも付く接尾語であり、例外のない意を表わしていますので、春の除目を念頭におくと、「ものごとに」とは、「もののどれもに」の意となり、個々のものの違いは問わず「共通の仕方ですべてのものに」ということになるので、適材適所という人事の原則に従い各役職の担当者が(あらたまる)という理解ができます。なお接続助詞の「ごとに」は活用語の連体形に付くので、ここではその意でありません。

このように、題しらずの歌ですが、この歌は、官人として春の除目をも念頭に詠んだ歌としても理解が可能です。

⑤ 春の除目を念頭におき、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、ものはすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに感激が薄らいでゆくし、そして涙がとめどなくおちる。(たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、勤めるべき部署ごとに人が替わるけれど、私だけは、今年もはずれ涙がとめどなく落ちることだ。)」

 

15.春すすむ歌群をみる

① 上記のような現代語訳(試案)でも、この歌の所属する歌群(春すすむ歌群)の歌として違和感はありません。「我」という限定は、春の除目に期待をして叶わなかった人ということになります。「我」と詠うことの意味が十分あります。1-1-28歌の疑問は解けました。

② それならば、1-1-28歌と同様にこの歌が所属する歌群全体で、春の除目を意識したという理解が可能かどうか確認してみました。

③ 公事として、春の人事関係には、正月の5日叙位議事、8日女叙位事、18日除目があります。そのための宮中での会議に加わるべく参内する人がいます。官人は議事の進捗に期待を込めて見守って状況です。

1-1-23歌は、参内する人々の衣服を描写している、という見立てが可能です。

1-1-24歌から1-1-25歌は、服の色が濃くなるのをたとえています。同じ色でも浅い色から深い色になるのは官位が上がる(官位相当と定められた役職を得る)ことです。そして1-1-26歌は、そうではなかったことを暗喩しているという見立てが可能です。

1-1-27歌は具体の除目にあった(新たな役職を得た)場合であり、1-1-28歌は、(既に検討したように)除目にあえない場合の歌です。

1-1-29歌は、春の除目にあった官人とその家族の喜びを、1-1-30歌は、春の除目にあい、無事任を終え都にもどることになった友人に祝意をおくる、という見立てです。

古今和歌集』編纂者は、梅と桜の景のない歌群を用いてこのような理解が可能な歌を配列している、と言えます(秋の除目に関しては未確認です)。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

類似歌は、古今集にある1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

         いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

(2019/9/23   上村 朋)

付記1.除目その他の公事などについて

① 公事とは、公務であり、朝廷の政務や儀式をいう。節会が必須のものもあるものもある。

② 除目とは、大臣以外の中央官ならびに地方官を任命する儀式をいう。「除」とは宮殿の階段の意。階段を昇る意から官を拝すること。「目」とは書のこと。(定期には)主として地方官(外官)を任ずる春の県召(あがためし)除目と、主として中央官(京官・内官)を任ずる秋の司召の除目とがある。(『岩波古語辞典』)

③ 除目は,天皇議政官(参議以上の公卿)が参加する。本人に告げる儀式も延喜式には規定されている。除目には申文などの申請書などと有資格者であることを示す勘文が必要であり、その事務は外記局蔵人所が扱った。

④ 除目に関しては、年中行事とされている特定の日を実際には守れないことが多い。

⑤ 風俗博物館(京都市)HPの「年中行事と宮廷文化のかたち」の「月次公事屏風一双」の解説より、正月の公事・節会の年中行事を引用すると、

元日  朝拝・元日節会

二日  朝観行幸

四日  蹴鞠初め

五日  叙位・千秋万歳

七日  白馬節会・人日(七草)

八日  御斎会御修法

十一日 懸召除目

十五日 御粥粥杖御薪左義長

十六日 踏歌節会

十七日 射礼

十八日 賭弓

二一日 内宴

子日  小松引

卯日  卯杖、卯槌

⑥ 上記の「小松引」とは、「子日遊(ねのひのあそび)のことで、若菜摘み・子忌ともいう。正月初子の日に催された遊宴行事。この日山に登り遠く四方を望めば、邪気をはらい憂悩を除くとする中国の風習に拠るとされるが、その根底には、わが国の春の野遊の習俗が存した。行事の内容は、小松引きと若菜摘みとがあり、この若菜を長上者に贈り、羹(あつもの)にして長寿を祝った。この日、宮中では宴会が行われ子日宴と称した。ほかの節会などと同様に宴会行事として、奈良時代から催されていた。

『和訓栞』:「正月初の子日を根延(ねのび)によせて、根ごめにするなるべし。小松も又小松の義なるべし」

⑦ 節会(せちえ)とは、節句(季節の変わり目などの祝い日)、または公事のある日、天皇が宮中に廷臣を集めて、酒宴を催す行事。立后などに伴う臨時のものもあるが、定例で五節会と言われたのは次のもの。

元日節会:正月一日 (朝賀の後に正殿である紫宸殿において宴を賜る)

白馬節会:正月七日

踏歌節会:正月十六日

端午節会:五月五日

豊明(とよのかり)節会:十一月の新嘗祭翌日の辰の日(

例えば、片桐洋一氏によれば、新嘗祭の場合は、その翌日の11月中の辰の日に豊楽殿で行われる「直会(なおらい)が、豊明(とよのかり)節会。神事の後、斎戒(ものいみ)を解いて平常に復するために大いに酒食するという行事。天皇が新穀を摂り、群臣にも賜った後、白酒(しろき)・黒酒(くろき)を飲む。芸能の方も、田舞、久米舞、古志舞、倭舞の後、五節の舞が行われる。(『古今和歌集全評釈』(講談社1998/2))

 

付記2.関連ある漢詩と言われる例

① 年々歳々花相似 歳々年々人不同   (劉希夷  代白頭吟)

② 容鬢新年々異 春華歳々同   (駱賓王  疇昔篇)

③ 年々歳々花相似 歳々年々人不同   (賈曾  有所思)

 

付記3.『萬葉集』2-1-1888歌について

① 土屋文明氏は、つぎのように指摘している(『萬葉集私注』)。

② 大意は「冬が過ぎ、春が来れば、年や月は、又新しくなるが、吾が思ふ人は古くなって行く。」

③ 題詞の「嘆舊」は、編者の分類か、さうした題を設けての製作か明らかでないが、後者か。「舊」は故舊の意でムカシナジミを言ふ。「老」と混同しては作意を得がたい。

④ 五句にある「人」とは、一般人間ではなく、特定の、作者のムカシナジミとみなければならぬ。馴れ親しんで来た愛人の、いよいよ老いて行くのを嘆いたので、相聞に通ずる心持である。年と共に人は老いて行くといふ、常識を歌ったのではない。

(付記終り    2019/9/23   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも

前回(2019/9/9)、 「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

      をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.~4. 承前

古今集にある類似歌1-1-29歌は春歌上にあるので、その配列を最初に検討し、前回のブログ(2019/9/2付け)の付記1.の表を得た。検討の結果、概略次のことが判った。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的な贈歌と返歌等また歌合という2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立していることなどの慣習に従ったからであろう。先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜が咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜を惜しむ歌群 

(咲き初め咲き盛る桜の歌群の残りと盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。また6番目の歌1-1-28歌の違和感解明が保留となっている。)

 

5.類似歌の検討その3 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「どちらに行けばいいか案内もわからないような深い山の中で、不安そうに呼ぶような声で呼子鳥が鳴いていることよ。」(久曾神氏)

「地理不案内であっちへ行けばどこへ出るのか、こっちへ行けばどこへ行くのか、その見当もつかない山の中で、おぼつかなくも呼ぶ喚子鳥かな。」(『例解古語辞典』 立項した「たづき」の用例にあげる)

「(初句~三句)どこがどことも見当がつかない山の中に」(鈴木氏)

「あちらこちらの見当さえつきかねる山中で、誰かを呼ぶように頼りげなく鳴く呼小鳥であることよ。その声を聞くとそぞろ不安の念におそわれる。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

「あっちへ行けばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で、(どこで鳴いているのやら)まるで茫漠としたさまで呼ぶ呼子鳥よなあ。」(竹岡氏)

② 「よぶこどり」については、「古今伝授の秘伝の三鳥の一。諸説がある。ほととぎす・郭公などであろう。呼ぶような声で鳴く鳥。」(久曾神氏)とか、「カッコウの異名か。「呼ぶ」をかける。」(鈴木氏)とか「鳥の名。カッコウともいわれるが、不明。(季語としては)春。」(『例解古語辞典』)、「「呼ぶ」は動詞「呼ぶ」と「呼小鳥」の掛詞」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)という説明があります。竹岡氏は「呼ぶような声で鳴く鳥」と指摘しています。

③ 『萬葉集』に「よぶこどり」の用例を8首みつけましたので、ここに記します。

2-1-70歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1423歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1451歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1717歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1826歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1832歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1835歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1945歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

土屋文明氏は、2-1-70歌において「子、即ち人間を呼ぶように聞こえる鳥」とし、「郭公。山鳩等の類であろう」と指摘しています。

この8首では、「よびぞきこゆる」(2-1-70歌)、「なきわたる」(2-1-1717歌、2-1-1835歌)、「やへやまこえて」(2-1-1945歌)など、鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥、が「よぶこどり」の一面と見えます。

④ 「おぼつかなし」とは、辞書につぎのようにあります。

「aはっきりしない、ぼんやりしている。b(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。c待ち遠しい。もどかしい。」(『例解古語辞典』)

「aぼんやりしてよくみえない。光が不足ではっきりみえない。b音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。c対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。dこちらからの働きかけに対し、相手の反応がない。e直接あうことができない。f気がかりであいたい。」など(『古典基礎語辞典』)

竹岡氏を除く訳例は、すべて、上の句の理解からみると、この下句における「おぼつかなし」を、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」あるいは「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。」の意に該当させていると思えます。

竹岡氏は、『萬葉集』、『古今和歌集』、『土佐日記』、『枕草子』及び『名義抄』を考察し、「おぼつかなし」は「正体が把握できず、茫漠とした感じでとらえどころもなく、心もとないさま」をいう、と指摘しています。「不安」の思いは二の次の理解です。この歌は、「とらえどころもないような声で、その姿も見せず、どこからともなく鳴いているのが聞こえて来る感」を表わすのが「おぼつかなし」であり、この語が「この一首の中心である」と氏は指摘しています。

⑤ 春歌上の配列を検討したことからいうと、作中人物が不安を詠うとは思えません。五句にある「かな」は、詠嘆的に文を言いきるのに用いられる終助詞ですが、不安であるかどうかを必ずしも意味しません。そのため、竹岡氏以外の上記の訳例に納得がゆかないところです。

また、「よぶこどり」が今囀っているところが「山中」です。竹岡氏の場合、よぶこどりが「見当もつかない」山中にいるとすると、結局所在地あるいは行くべき所が判らないことになり、不安の感情が「よぶこどり」に生じていることになります。作中人物にとり「見当もつかない」山中であれば、「こっちへゆけばどう」というのが作中人物の行動となり、よぶこどりと共に「山中」にいることになり、よぶこどりの鳴き声を楽しむどころではないことになります。竹岡氏の訳例も気になります。

6.類似歌の検討その4 現代語訳を試みると

① この歌の文構成は、

文A (「しらず」の主語にあたるもの・者は)をちこちのたづきもしらず

文B (・・・知らぬ)山中に(それは)おぼつかなくもよぶこどり(なり)かな

と理解できます。

動詞は、文Aでは「しる」の一語、文Bは、「よぶ」を動詞と認めると、その一語です。この場合、「よぶ」は、動詞「(おぼつかなくも)よぶ」と鳥の名の一部を成す「よぶ」を掛けています。また文Bには断定の助動詞「なり」があります。

文Aは、この文の終わり方が「(しら)ぬ」と連体形であるので直近の名詞(文Bの山または山中)を修飾しています。文Bの主語は「それ」であり、作中人物が「耳にした鳴声を発している鳥たち」を指します。そして、名詞に詠嘆の助詞「かな」がついて終わっています。だから、この歌は、鳥の鳴き声を耳にした作中人物が、「あれは、よぶこどりだ」と確信して詠嘆的に呟いた瞬間を歌にしていると思えます。

文A及び文Bには推測・推量の助動詞がなく、類推の助詞もありません。そして、形容詞「おぼつかなし」には「不安そうである」という推測の意はなく、「不安である」等という断定して認識している意のみです。

作中人物は、姿ではなく鳴き声という聴覚の情報で「よぶこどり」と確実に判定し、鳴声を発した場所も指定したエリアが広いのですが確定する表現をしています。だから、「よぶこどり」は、どういう時に鳴くのか作中人物は事前に承知していたはずです。その状況を、初句から四句に推測・推量の結果ではない表現でしている、と理解できます。思っていた通りに鳴声が聞こえた、というのが、五句を名詞+「かな」としている理由ではないでしょうか。

② このため、久曾神氏の現代語訳は、意訳をしており、この歌は、文の構成に忠実ならば、「・・・・しているよぶこどりだなあ」あるいは、「・・・しているのがよぶこどりだなあ」という訳し方になるでしょう。

③ さて、初句にある「をちこち」を『例解古語辞典』は、空間的に遠方と手前の方をいう「あちらとこちら。あちらこちら。」と説明し、「をち」について「遠方・はるかかなた。」、「こち」について「a東風:春、東から吹く風。b此方:近称。方角を表わす語。あるいは「こちらへ」の略、等」と説明しています。

『古典基礎語辞典』は、「をちこち」も「をち」も立項していません。『角川古語大辭典』は、「をち」を「彼方・遠:aあちら。かなた。空間的に遠く隔たった地点。b現在から時間的に遠く隔たった時点。」とし、「をちこち」を、「aあちらこちら。あたり一帯。b将来の現在。今も行末も。」と説明しています。

このため、ここでは、空間的に遠方と手前の方をいうほかに、時空的に未来と現在をもいう語句として理解して検討します。

④ この歌の前後の配列をみると、春の進行を、柳など植物の葉の色が濃くなってくると詠ったあと、鳥の囀りを詠い、この歌となっています。そのため、この歌での「をちこち」は、進行する春を、空間的に遠方でも手前の方でも春の進行を認めることができる、という文脈で用いている、と思います。時空的に未来と現在を詠う歌をここに配列する必然性はありません。

⑤ 二句にある「たづき」には、「手段」「見当」のほか「様子」の意もあります(『例解古語辞典』)。ここでは、「をちこち」が、空間的の遠近の意なので「(をちこちの)様子」の意が妥当であろうと、思います。

⑥ 四句「おぼつかなくも」とは、この歌群の歌が春の喜び・楽しみを詠っている歌であるので、上記5.④で指摘したように、配列から言っても、作中人物が単なる不安を詠うとは思えません。たとえ不安を感じても喜びのなかでのちょっとした不安であろうと推測できます。

だから、この歌での「おぼつかなし」の意は、上記5.③に示した意のうち、「はっきりしない、ぼんやりしている。」あるいは「音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。」ではないでしょうか。

⑦ 五句にある「よぶこどり」とは、(前回2019/9/9付けのブログの)「3.⑦」に記したように、あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思います。また、『萬葉集』の用例の意を引き継いでいます。

⑧ このような検討を踏まえ、配列を念頭に、1-1-29歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「遠い山なのか近い山なのか分からないが、山のほうから鳴き声が聞こえてくる。よく聞き分けられないが沢山の鳴いている鳥たちだなあ。(春を喜んでいる鳥なのだなあ。)」

このように、上記①で述べたように、作中人物は、この歌における「よぶこどり」が春を喜んでいる鳥であることを認めており、春は喜びの季節であることも認めたうえで、この歌を詠んでおり、何か感慨がこみあげてきたのでしょうか、詠嘆的に詠っている、と理解できます。

その感慨は、春の憂愁なのでしょうか。宿題です。

この歌は、よみ人しらずの歌です。元資料の歌の意が、不安を感じている訳例のようになる可能性を否定しませんが、『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌が、このように理解できるので、ここに配列していると思えます。

⑨ ちなみに、聞いた情報に基づいて詠んでいるほかの2首の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

この2首も、春の部に配列されていることに留意すべきです。(ともに、1-1-28歌の五句「我ぞふりゆく」という述懐に関して、次回に述べるような検討結果を受けた試案です。)

 

1-1-28歌は、題しらずの歌です。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、ものはすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに感激が薄らいでゆくし、そして涙がとめどなくおちる。」

 

1-1-30歌は、詞書があります。

「(春に、)雁の声を聞いて、越の国へ着任した人を思って詠んだ歌     凡河内みつね

春がくれば雁はあのように北に帰るのだ。白雲が示すようなはっきりした道。そこを堂々とゆく雁に、貴方への便りを言付けたいものだ。」

 

1-1-28歌の作中人物の感慨は、1-1-29歌の作中人物の感慨と同じ春の憂愁なのでしょうか。

 

7.3-4-49歌のよぶこどり

① 3-4-49歌を、まず詞書から検討します。3-4-48歌と同じですので、3-4-48歌の検討結果を引用します。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

ふみのやりとりはしてくれるものの、先に進むのをじらしているのか、あるいはためらっているのかわからないという状態が続く女に、「あら。まあ。・・・」という歌を春頃作者は送ったところです。

② だから、この歌は、同一の詞書である3-4-48歌と同時か、3-4-48歌の返歌を貰えないままその次に女に送られた歌かと推測します。

さて、類似歌1-1-28歌の「よぶこどり」に、鈴木氏のいうように、「呼ぶ」意が掛かっているとみると、「よぶこどり」は、「呼ぶ」+「小(子)」+「鳥」でもあるので、その意はいくつか考えられます。その構成語の意を整理すると、次の表が得られます。

 

表 「よぶこどり」の構成語の意味の抜粋(『例解古語辞典』などより)    (2019/9/16現在)

意義分類

よぶ(呼ぶ)

どり(鳥)

A

(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る

接頭語「小」。「形が小さい」意を添える。

「鳥類の総称」の意

B

自分のところへ来させる。呼び寄せる。

名詞「子」。「人を、親愛の情をこめて呼ぶ語」

「相手の女」の意

C

名付ける。

接頭語「小」。「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える

「相手の周りの人々」の意

D

 

接頭語「小」。「分量が少ない」意を添える

「作中人物=作者」の意

E

 

接頭語「小」。「程度が少し」の意を添える

 

F

 

接頭語「小」。身分・地位の低い意を添える

 

 

詞書に記されている状況下で用いられる可能性のある「よぶこどり」の意を整理すると4案が残ります。

第一案 「呼ぶ」A+「こ」A+「どり」A:「呼びかけ合って囀っている鳥たち」であり、類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」に同じ意。

第二案 「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」B:「呼び寄せる可愛い子である貴方」(相手の女を指す)

第三案 「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」C:「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」

第四案 「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」D:「大声をあげている身分の低い私」(作中人物がへりくだっていう自称)

類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」と同じように複数の意となるのは、上記の第一と第三だけです。そして、同一の詞書で相手の女に送られている2首のうちの1首がこの歌であるので、第一案であれば何かを掛けて用いる場合であり、掛けるのは第二案以下であると思います。そのため、第三案のみを候補とします。

「よぶこどり」が単数の意となる第二と第四も、『猿丸集』の編纂者が3-4-48歌まで同音異義の語句を多用していることから簡単に排除することができません。『萬葉集』以来の「鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥」のイメージは、この3案にもあります。

この3案は更に検討を要します。

 

8.3-4-49歌の各案の現代語訳を試みると

① 最初に、「よぶこどり」の意が第二案の場合を試みます。

第二案の「よぶこどり」は、「「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」Bの組み合わせであるので、おおよそ「呼び寄せる可愛い子である貴方(相手の女)」の意となります。

女との関係をさらに深めたい作中人物は、3-4-48歌で「あらすきかへしても見」ようとしている女と表現した相手に、「可愛い」と呼び掛けるのですから、四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安でもある」意より、「あらすきかへ」されても結果に自信満々であると思われる作中人物として「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたいところでもある」、の意が適切でしょう。

あるいは、類似歌と同じように「よぶこどり」の修飾語として「よぶこどり」の心境の表現とすると、「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である」意ともなります。

② 三句にある「山中に」、そのような「よぶこどり」がいるというのですから、「山中」の「山」とは、女の親族や女に仕えている指南役の女性たち、と理解することが可能になります。

だから、初句にある「をちこち」は、空間的な遠近を援用し、相手の女との関係の遠近を意味する、と理解し、「たづき」とは、作中人物と女の間にある問題の解決策(手段・3-4-48歌にいう「あらすきかへす」方法)の意とすると、

初句から三句は、「親族や指導役の女性の召使が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て」の意と理解できます。

③ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「貴方との関係に遠近の差のある人達が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て、(私との距離が縮まらないので)「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたい」ところの「呼び寄せる可愛い子である貴方なのだなあ。」」の意と理解できます。

あるいは、

「あれとかこれとかの心配事を解決する手段が判らない人達に囲まれ、山の中にいるような状態になり、この先に私との関係に不安を感じているよぶこどりさんだねえ。」

となります。

女との関係が、このような歌や文の往復の段階で留まっているのは、周囲の者の仕業であり、「あらすきかへす」までもなく私を信じていますよね、と訴えた歌、あるいは、「あらすきかへす」ことをすすめられるなどたいへんですえ、と慰めている歌となります。

④ 次に、第三案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」Cの組み合わせであり、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意となります。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している、という理解です。

四句「おぼつかなくも」は、よぶこどりにとり、作中人物との交際の進め方の「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」」という意が適切でしょう。

三句の「山中に」とは、女が「すきかへ」そうとする行為の数々を云い、その行為の数々を「をちこちのたづき」と表現したと、思えます。

⑤  そのため、「おぼつかなくも」はよぶこどりの心境の形容と理解して、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)も暗中模索で、不安を感じつつ大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達だなあ」

となります。

二句にある「たづき」とは、「手段」の意です。

⑥ 次に第四案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」Dの組み合わせであり、「大声をあげている身分の低い私」(作中人物)の意となります。

四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」意で、よぶこどりの心境をいうのでしょう。

初句にある「をちこち」は、空間的よりも時空的なことを指し、初句から三句は、「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)のやり方にも苦慮している最中」の意に理解できます。

⑦ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(貴方がすきかへすこと)に対し、苦慮している状況下にあって(ようすがわからないので)きがかりだ。不安から大声をあげている身分の低い私ですよ。」

もうすこし言葉を選び現代語訳を試みると、

「あちらなのかこちらなのかどこかわかりません山の中で、もどかしい思いで貴方に呼び掛けている呼子鳥です(それが私です。)」

⑧ これらの案は、類似歌1-1-29歌の理解が諸氏の訳例のようであっても「よぶこどり」の理解は上記と共通なので成立します。

 

9.3-4-48歌との関係

① 同一の詞書のもとにある2首のうちのあとの方にある歌が、この歌です。

3-4-48歌は、この歌3-4-49歌から振り返ると、「すきかへして」ごらんなさい、と勧めているかにもとれます。または、女の周囲の人々に決断を促しているかにも見えます。

3-4-48歌の理解は一つの理解に落ち着きましたが、3-4-49歌の理解は上記のように幅があります。しかし、女との距離を縮めたい作中人物からみれば、これらの歌をどのように理解されても、女に想いを寄せているのが嘘偽りないことだと証明するものとなるよう、工夫しているはずです。

② 作者は、相手の女の側にも1-1-29歌を承知している人がいる、と思っていますので、この歌の類似歌における「よぶこどり」の意が、鳥たちの行動のうち「囀っている」状況の鳥を指して(前回のブログ(2019/9/9付け)の「4.⑧」参照)いるように、「囀る」を重視して3-4-49歌も理解されると、第三案が有力な現代語訳(試案)になります。この案は、女が「すきかへす」準備に当たっている人達の苦労に思いを馳せています。

また、第二案も第四案も、相手方を誹謗していると理解するのは難しい案の歌です。

③ だから、3-4-49歌の現代語訳を1案に絞り込むのは、『猿丸集』の編纂者は望んでいないのではないか、と思います。歌全体が二つの意を持つ歌を否定しているとは思えません。

④ それでも1案にするとするならば、詞書「ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ」の「はるころ」が、3-4-48歌の理解を促したように、この3-4-49歌も「はるころ」を重視して、理解したいと、思います。

春に田を「すきかへす」のは、田植の準備であり、その準備は大勢の人が通常は共同で行うものです。「よぶこどり」には「春」の田で仕事に勤しむ人々と同じように種々準備を進めている相手の女の周囲の人々を積極的に掛けているのではないか。

そのため、複数を意味する唯一の理解である、よぶこどり第三案を、ここでの現代語訳としたい、と思います。

⑤ 現代語訳を、詞書に従い、よぶこどり第三案で、上記「8.⑤」をベースに試みると、つぎのとおり。

「(「すきかへす」ため)あのことやこのことなど支度に大変であり、その進捗に不安を感じつつも大声をあげているちょっと憎みたくなる貴方の周りの人達だなあ。」

周りの人達も、歌や文の往復から早く踏み出せばよい、と考えているはずなので、このような「すきかへす」ことの準備はチャンスを逃すと考えているのではないか、という気持を言外に込めている歌です。

いずれにしても、よぶこどりの意がどの案でも、作中人物の自信は揺らいでいません。

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-39歌は、経緯を記していますが、類似歌は、題しらずで、まったく不明です。

② 二句にある「たづき」の、意が異なります。この歌は、「すきかへす」女の側の対応を指し、類似歌は、(山中の)様子を指しています。

③ 四句にある「おぼつかなし」の意が異なります。この歌は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」、の意であり、類似歌は、「はっきりしない、ぼんやりしている」、の意です。

④ 五句の「よぶこどり」が含意する意味が異なります。この歌は、「ふみをやりける女」の周りの人々をも意味しますが、類似歌は、鳴いている自然界の鳥(複数)のみを意味します。

⑤ この結果、この歌は次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

⑥ さて、次回は、春の歌として違和感をもった1-1-28歌について検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2019/9/16   上村 朋)

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第49歌その1 よぶこどり

前回(2019/9/2)、 「猿丸集第48歌その2 あら あら」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して、記します。(上村 朋)

(2019/9/16に、「よぶこどり」に関して一部追記) 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  「題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.類似歌の検討その1 古今集巻第一の配列の特徴などから

① 古今集にある類似歌1-1-29歌は、巻第一春歌上にあります。その配列を最初に検討します。

春歌上の配列は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)で一度検討しました。しかし、類似歌1-1-29歌の時節の推定を保留したうえの検討でした。

そのため、春歌上の配列を改めて検討することとします。

上記ブログ(2018/10/1付け)での検討方法は、「『古今和歌集』歌をその元資料の歌と比較するため、元資料を確定あるいは推定し、その元資料歌における現代の季語(季題)と詠われた(披露された)場を確認し、その後『古今和歌集』の巻第一春歌上の配列を検討する」というものでした。

その結果、上記ブログ(2018/10/1付け)の付記1.の「表 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1~その4」(2018/10/1現在)を得たところです。

そして、巻第一春歌上の配列の基本は、「巻第四秋歌と同様に、現代の季語相当の語句とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。」、と推測しました。

② この結論は、四季を官人が認識する指標としていたところの当時注目していた天文・動植物や朝廷の行事や慣習にあまり考慮せず、現代の季語を手掛かりにした検討結果であり、また歌の配列として一対の歌を単位としているかどうかも未検討です。

今回は、「現代の季語相当の語句」に替わり、官人が当時の季節・時節を表わす語句を歌や詞書に探り、その語句を用いて、春の歌として歌の主題、作中人物が訴えたいこと(情)及びそのため詠われている景(情を兼ねて詠っていても)を推測しました。そして、ブログ(2018/10/1付け)において推定したところの詠われている時節を参考に、歌群(案)を推測しました。

そうして得たのが、下記に記す付記1.の「表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1~その4」です。

③ そして下記のような検討をしたところ、次のことが配列に関して指摘できます。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的に歌は贈歌と返歌や恋のやりとりで一対となりやすいこと、歌合という左右2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立しており、歌を番(つがい)で楽しむことが定着していたと思われること(ゲームとしては左右どちらの組が勝つかというもの)、遡れば、男女が歌を掛け合う歌垣という行事でも共通の題材や思いで競る(つまり対の歌と理解する風習)ことが多かったこと、などの慣習があったからである。また、先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

また、『古今和歌集』の編纂者の一人である紀貫之の編纂した『新撰和歌』は、その部立の名も『古今和歌集』と異なり、対を意識しており、歌も2首一組を単位として配列している。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の推移と天の運行を示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。さらに配列には朝廷の行事なども意識していると思われる。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜惜しむ歌群 

(残りの咲き初め咲き盛る桜の歌群と盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。

④ また、『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあるという諸氏の指摘も前回に続き確認しました。

春歌は、上下二巻ありますので、それぞれの最初の歌と最後の歌をみると、つぎのとおりです。

1-1-1歌:四季の春の最初の日(立春)を詠う、と詞書に明記している。

そして、暦の上の立春と心待ちした春の関係の変動を楽しんでいるかに見える歌となっている。

1-1-68歌:山里の桜(同じ花の種類でも気温等により通常は遅く咲く)が咲いているのを詠う。

そして、惜しみなく春を楽しみたいと詠う。

1-1-69歌:題しらずの歌で、山里の桜が散り始めるのを詠う。

そして、桜自身が、咲いている状態から自ら変化してみえる、と詠う。

1-1-134歌:「はるのはてのうた」、と詞書に明記している。(付記2.参照)

そして、桜の傍にいると今日でなくとも心安らかになる(明日からは違うのだ)と詠う。

このように、それぞれの詞書のもとで歌を理解すると、時節の進行は一方方向です。そして、この四首は春にあえたことを感謝し喜んでいるかの歌であります。だから他の歌もそのようなことにつながる歌であるであろう、と思います。

3.類似歌の検討その2 春すすむ歌群とその前後の歌群の検討

① 最初に、上記の2.③ 第四に示した歌群のうち、春すすむ歌群に属する歌の妥当性を確認します。この歌群は、1-1-23歌~1-1-30歌と示した理由を明らかにします。

1-1-23歌~1-1-30歌とこれらの歌の前後の一対の歌を、『新編国歌大観』から引用します。適宜現代語訳の例をも示します。

 

1-1-21歌  仁和のみかどみこにおましける時に、人にわかなたまひける御うた

君がため春ののにいでてわかなつむわが衣手に雪はふりつつ

「あなたにさしあげようと思って、春の野原に出て若菜を摘むとき、私の袖には雪がちらちらと降りかかっていました。」(久曾神氏)

氏は、「(当時貴族は)人に物を贈る時には、努力して得たことや、良いと思っていることを述べ、今日のように謙遜の辞はのべなかった」と指摘しています。

 

1-1-22歌  歌たてまつれとおほせられし時よみてたてまつれる     つらゆき

かすがののわかなつみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ

(現代語訳は割愛)

 

1-1-23歌  題しらず     在原行平朝臣

はるのきるかすみの衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ

(同上)

 

1-1-24歌  寛平の御時きさいの宮の歌合によめる     源むねゆきの朝臣

ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしをの色まさりけり

(同上)

 

1-1-25歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき

わがせこが衣はるさめふるごとにのべのみどりぞいろまさりける

この歌の現代語訳は、これまでの方針に従い序詞も訳出します。例えば、

「わたしのいとしいおかたの衣を洗って張る――春雨が降るたんびに、野べの緑は、そら、色が増してきていた。」(竹岡氏)

 

1-1-26歌  (なし)(歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき)

あをやぎのいとよりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける

この歌の現代語訳は、竹岡氏の理解に従います。花が散り始めている景を詠っています。

「青柳の、糸を撚って(枝に)掛けて張る、そんな春に限って、せっかくのその糸が乱れて、花(の衣)がほころびてしまうことだ。」

 

1-1-27歌  西大寺のほとりの柳をよめる     僧正 遍昭

あさみどりいとよりかけてしらつゆをたまにもぬける春の柳か

(現代語訳は割愛)

 

1-1-28歌  題しらず     よみ人しらず

ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

(現代語訳は別途示す。五句「我ぞふりゆく」を諸氏は「私だけは古くなって行く」意としている。)

 

1-1-29歌  (上記1.に記す)

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-30歌  かりのこゑをききてこしへまかりにける人を思ひてよめる     凡河内みつね

春くればかりかへるなり白雲のみちゆきぶりにことやつてまし

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-31歌  帰る雁をよめる     伊勢

はるがすみたつを見すててゆくかりは花なきさとにすみやならへる

(現代語訳は割愛)

 

1-1-32歌  題しらず     よみ人しらず

折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

「先ほど梅の花を折りとったので、私の袖はこんなに香っているのである。それで梅の花が咲き匂っていると思っているのであろうか、ここでうぐいすが鳴いているよ。」(久曾神氏)

 

② 若菜つみの景は、2-1-18歌から2-1-22歌まで続いており、1-1-23歌からは山の景やまつのみどりなど樹木の景を詠う歌になります。また、1-1-21歌と1-1-22歌は若菜摘む喜びを詠い、参加した者の詠と参加した者たちを見ている者の詠となっています。次の2-1-23歌は、人のいる景でも若菜摘む景でもなく、一対とするならば、1-1-21歌と1-1-22歌のほうが良い。このことから1-1-22歌と1-1-23歌は別の歌群に属すると予測します。

また、雁を詠う歌が1-1-30歌から1-1-32歌まで続き、1-1-32歌は、既に詠ったことのある鴬が歌に登場します。1-1-31歌と1-1-32歌は花(梅の花)のある景です。花のある景はこの後1-1-48歌まであります。花を優先すると1-1-31歌以降が一つの歌群が有力な考えです。1-1-30歌と1-1-31歌の雁は、言付けをしたいほど信頼している景と花を避けようとしている景で信頼の有無で対比しているかにも見えます。1-1-30歌前後で別の歌群となることだけは十分予測できます。歌群の境の歌をさらに検討します。

③ これらの歌が詠っている景について、詞書とともに歌に用いられている語句及び当該歌の一部分のみからなる文に注目し(その文の暗喩などにはとらわれず)景を細かくみると、動植物の景の情報を直接得たとした場合の入手を視覚等に分かつと、つぎの表のように整理できます。そして歌の中の作中人物(主人公)が居る地点を、都の内外別に確認しました。

表 詠う景の細分内訳(1-1-21歌~1-1-32歌)   (2019/9/9現在)

歌番号等

詠う景の細分

都(宮中)の内外の別

植物

動物

その他

姿(見る)

香(匂う)

姿(見る)

鳴く(聞く)

姿(見る)

1-1-21

わかな

 

 

 

我&袖

1-1-22

わかな

 

 

 

人(若人)&袖

1-1-23

山々

 

 

 

霞&衣&山風

1-1-24

 

 

 

 

 内

1-1-25

野辺

 

 

 

雨&わがせこ

1-1-26

柳&花

 

 

 

 

 内

1-1-27

 

 

 

 

 内

1-1-28

 

 

 

ももちどり

我(老い人)

不定

1-1-29

山中

 

 

よぶこどり

 

1-1-30

 

 

 

白雲

 内

1-1-31

各種の花

 

 

1-1-32

 

 

 内

注)歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集の歌番号」

 

④ 1-1-21歌と1-1-22歌は、上記のように若菜つみの景の歌であり、人物が登場します。人物は以後途切れます。これをもって1-1-23歌を新たな歌群の最初の歌と仮定します。

⑤ その後、1-1-27歌まで植物の姿の景(視覚で得た景)を詠います。

1-1-28歌は、「囀る」と形容し、1-1-29歌は、「よぶこどり」という表現の「よぶ」に「呼ぶ」が掛かって仮定し、1-1-30歌は、「詞書」の「かりのこゑをききて」を考えると、みな鳴く鳥の景、つまり聴覚で得た景を詠います。また1-1-30歌五句の「ことやつてまし」は伝言つまり、雁の鳴き声ともとれます。

1-1-31歌は、鳥を視覚で得た景であり鳴き声を想定しなくともよい歌となっています。1-1-32歌は、また鳥を聴覚で得た景ですが鴬となります。鳥の歌は1-1-30歌で一区切りしているかもしれません。

一方季節の植物では緑の葉中心に1-1-30歌まで歌われ、1-1-31歌より花になり、その花は以後1-1-48歌まで続くことを考慮すると、1-1-31歌が新しい歌群の始まりと推測できます。

⑥ このように1-1-23歌から1-1-30歌を一つの歌群と捉えて、この前後の歌群との関係をみてみます。この歌群の前の歌は、草の若い芽が萌え出る歌であり、この歌群の歌が現代でも季語となる語(はる、まつのみどり、やなぎ)などを用いて春の景を述べ、そして、梅の咲き誇る景を詠う歌から始まる次の歌群が続いている、と概観できます。付記1.の表での歌群の区分はこれに従っています。

この歌群の順序からみると、この歌群の歌は、続々と樹木や草が繁りはじめている成長を喜びあるいはその楽しみを詠っているのではないか、と思います。

そうすると、その歌群にある鳥を詠む歌も、同じように動植物が成長する春の喜び・楽しみを詠っていると推測できます。

⑦ 1-1-28歌の「ももちどり」は、よみ人しらずの歌であるので、先行例としては、『萬葉集』の1首(2-1-3894歌)しかありません。その意は、3首(2-1-838歌、2-1-1063歌、2-1-4113歌)にある「ももとり」(万葉仮名「百鳥」)と同様に「たくさんのとり」でしたので、その意で下記の付記1.は整理しています。

1-1-29歌もよみ人しらずの歌ですが、「よぶこどり」の先行例はありません。

(注:『萬葉集』にあったので次回のブログ(2019/9/16付け)で紹介する(2019/9/16))

 「よぶ」を「囀り」ととらえた場合は、初句から三句で「よぶこどり」が居る場所が多岐に渡っているかに詠まれていますので、あちこちから聞こえる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思い、その意で下記の付記1.を整理しています。

 

4.類似歌の検討その3 春すすむ歌群のなかの鳥

① 歌群の確認が出来ましたので、付記1.の表で保留としているところを検討します。1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」欄です。

歌の主題ごとに対の2首は、どの歌群でも主題を浮かびあがらせるよう対比に工夫して配置されているようにみえますので、対となる歌を探します。対は1-1-28歌も対象となります。

1-1-28歌と1-1-29歌は、聴覚で得たものを詠う歌という共通点がありますが、奇数番号と次の歌が対となる、という原則からはこの2首は別々の歌の主題に分かれているはずですので、聴覚が関係しない要素によって対の歌があるはずです。

② 具体に1-1-28歌と対となる候補の歌1-1-27歌を検討します。この歌は、都にある西大寺の柳の景を詠んでいます。詠んでいる初句から四句にわたる柳の景は、詞書にいう「西大寺のほとりの柳」のみに生じる特有の現象ではありません。また「西大寺のほとりの柳」のみから感得する感慨でもありません。五句に作中人物がいうように(若木ではない)「春の柳」なら共通に生じる現象、人が感得する事柄です。歌の眼目は「春の柳」を詠うところにあります。

1-1-27歌は、「西大寺のほとりの柳」に、あるとき遭遇した実感を詠んでいるとの設定を詞書がしているところです。この設定は、元資料でもそうであったと思われます。竹岡氏は、この歌の作者僧正遍昭の『古今和歌集』記載の歌の詞書を調べ、「その(歌の)詠まれた場を説明した詞書がほとんどに付けられ」ており「撰者の作為ではなく、遍昭の歌には元来付いていたものであろうと思われる」と指摘しています。

元資料を離れても、『古今和歌集』におけるこの詞書は、「西大寺のほとりの柳」を、春のある日このように視界に入れて感じた・理解した、という歌と理解せよ、ということであるので、作中人物は、都にいることになります。

③ これに対して、よみひとしらずの歌1-1-28歌における、「ももちどり」が囀るところは、西大寺の周辺のような都ではなく、都の外の山をイメージできます。具体的には比叡山や、山荘・別荘を設けた都近くの山間です。

1-1-28歌の初句と二句の景は、聴覚(聞く)により得た景であり、それは作中人物の近くに「ももちどり」が近くに鳴いていれば直接作中人物は聞くことができますが、遠方の地で鳴く「ももちどり」を想定しているまたは伝聞で聞いたということも有り得ます。五句にある「我」の居る候補地は、そのため、上の表では、「不定」と表現しました。しかし、五句のためには初句と二句の景は、伝聞の情報(または既存の知識)で十分ですので、都に作中人物が居る、と理解してもよい、と思います。

しかし、「我ぞふりゆく」という作中人物の感慨が、「私だけは古くなってゆく」意では春の喜びを詠う歌として、物足りない、あるいは違和感があるものの、春の歌ではあります。

④ その違和感は別途検討することとして、1-1-27歌と1-1-28歌の共通点は、景として詠んでいる動植物の状況です。上記3.⑦で指摘したように「ももちどり」の春の喜び・楽しみを詠っているとすると、この2首は、官人だけでなく動植物も春を喜んでいる例を挙げている、と理解できる歌となりますます。そうすると、歌の主題は、例えば「日々に深まる」が想定できます。

情報を聴覚かどうかは関係ない歌の主題となりました。

⑤ つぎに1-1-29歌と対となる候補の歌1-1-30歌を検討します。

この歌は、帰る雁の景を詠んでおり、1-1-31歌と同じです。ただ、1-1-31歌は、「花」と和歌で表現している梅をなぜ雁は避けるのかと問うことは、梅の花を愛でている歌である、と理解できます。

その梅と親密な関係というより梅を好んでいる鴬が次の1-1-32歌に登場します。以後梅の景が登場する歌は1-1-48歌まで継続しています。1-1-32歌も1-1-33歌も梅を愛でています。梅を愛でる姿勢は1-1-31歌から変わっていません。これに対して、1-1-30歌は全く梅が登場しません。歌群の境は1-1-30歌と1-1-31歌の間にある可能性が高い、と思います。

うぐひすと梅の親密な関係は、既に詠まれており、改めて1-1-32歌で詠まれていることになります。そうすると1-1-32歌と1-1-31歌は梅を好くか好かないかの例を挙げていると理解して、1-1-33歌以降は梅の花より香を詠う歌として検討が可能です。

⑥ 1-1-31歌と1-1-30歌は雁の居る景を詠っています。しかし、梅の歌が以後だいぶ続いていることからも梅の景であるかどうかのほうを重要視してよい、と思います。

⑦ さて、一組前の1-1-27歌と1-1-28歌が「日々に深まる」という歌の主題のもとで喜ぶ動植物を各1首詠っている、とみることができますので、1-1-29歌と1-1-30歌は、春を満喫しようとする鳥とそれが止むを得ず出来ない鳥を対比している歌ではないか、と理解できます。

鳥であるならば、雁も含めて春は喜ばしいのですが、北の大地の神に呼び出されて雁は、止むを得ず日本を離れるという理解は、この歌群の中の1首となり得ます。

表の「作者が訴えたいこと」欄を保留していた1-1-29歌は「喜ぶ鳥」と、1-1-30歌を「無念の鳥」と推測し、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正したい、とます。

それには、情報入手の手段の差は二の次となります。

⑧ また、このような配列から、1-1-28歌の「ももちどり」は、どんどん緑が増してきているのに対比するには二三羽とか一種類の鳥ではなく、「もも(百)」も「ち(千)」もと数の多い状況を指すのに用いられていますので、この歌では「一種類ではない鳥が多数いる」状況を指している、と理解してよい、と思います。

万葉集」の用例による下記1.の表の整理は正しいと思います。

「よぶこどり」の実体も、「ももちどり」がそうであるならば、(少なくとも)1-1-29歌の「よぶこどり」も、「一種類ではない鳥が多数いて呼び合っている(かのような)」状況あるいは「一種類ではない鳥が多数いてそれぞれ関係なく鳴き続けている」状況を言っている、と思います。

⑨ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌を検討します。

(2019/9/9   上村 朋)

付記1.古今集巻第一にある歌の検討一覧について

① 『新編国歌大観』による歌番号が奇数の歌とその次の偶数の歌が一組にされて配列されているかどうかを、確認した。

② そのため、歌の主題と歌での景を判定し、それにブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)の付記1.にある「古今集巻第一春歌上の元資料の歌の判定表」の「(元資料の)歌での(現代の)季語」等をあわせて一覧としたのが以下の表1~4である。

③ 判定にあたって各歌の現代語訳は、久曾神氏の訳を基本とした。氏の理解に注を要する歌は「歌番号等」欄に「a」を付け表4の下段にまとめている注の「注3」に記した。

また「歌番号等」欄中の「*」は、よみ人しらずの歌である。

④ 「歌での(現代の)季語」欄の季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。

⑤ 1-1-29歌と1-1-30歌は、類似歌を含む対の歌なので、歌の主題は保留としている。本文4.⑦に記したように、検討の結果、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」は、「喜ぶ鳥」と「無念の鳥」、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正する。

表1 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1 (1-1-1~1-1-20) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作中人物が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-1

立春

春を迎える戸惑い

年内立春(時系列・都)

こぞ・ことし

新年(こぞ・ことしによる)

第一

1-1-2

立春

春を迎える戸惑い

風(自然現象の先駆け例・山・鄙)

春立つ

初春

第一

1-1-3*

春いづこ

待ち遠しい

霞(都と吉野の対比・都)

はるかすみ

三春(雪は晩冬)

第二

1-1-4 a

春いずこ

待ち遠しい

氷融けず(山・鄙)

春(来)

うぐひす

初春(春来による)

第二

1-1-5 a*

春近づく

鴬の初声

梅の花を促す鴬の声

梅・うぐひす

初春(梅による)

第二

1-1-6 a

春近づく

鴬の初声

梅の花とみて鳴く鴬

春た(てば)

花・うぐひす

初春(初句の「春たてば」による)

第二

1-1-7 a*

雪消えゆく

それもうれしい

枝におく雪(自然)

(きへあへぬ)雪 花

晩冬(雪による)

第二

1-1-8

雪消えゆく

それもうれしい

頭上に戴く雪(人事)

春の日

(かしらの)雪

三春(春の日による)

第二

1-1-9

萌え出るもの

眼に見えるもの

木の芽ふくらみ花咲く

かすみ・はる

このめ

初春 (はるの雪(が)ふるにより初春とする)

第三

1-1-10

萌え出るもの

耳に入るもの

鴬だけは鳴いていない

春・花

うぐひす

初春(花は梅をいうので)

第三

1-1-11

春来たる

信じられない

鴬鳴かず(耳に)

春(来ぬ)

うぐひす

初春(春来ぬによる)

第三

1-1-12

春来たる

信じられる

風に氷とけだす(眼に)

はつ花

(とくる)こほり

仲春(はつ花による)

第三

1-1-13

鴬来ているはず

早く聞きたい

風に乗る梅の香

うぐひす

初春(花による)

第三

1-1-14

鴬来ているはず

確信する

鴬が鳴く

うぐひす

春(くる)

初春(春くるによる)

第三

1-1-15 a

山里に春

いや遅い

鴬鳴けど梅は未だ

春(たつ)

花(もにほはぬ)・うぐひす

初春(春たつによる)

第三

1-1-16 *

山里に春

やっときた

鴬鳴く

うぐひす

三春

第三

1-1-17 a*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかくさ

(かすかの)なやきそ

初春(なやきそによる)

第四

1-1-1 a8*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかな

新年

第四

1-1-19*

若菜つむ

喜び

都の若菜つみ

わかな

新年

第四

1-1-20 a*

若菜つむ

喜び

待っていた雨

はるさめ

わかな

新年(わかなによる)

第四

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表2 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その2 (1-1-21~1-1-40) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-21 a

若菜つむ

喜び

参加した

春のの

わかな

新年

第四

1-1-22 a

若菜つむ

喜び

大勢の参加者がみえる

わかな

新年

第四

1-1-23 a

春すすむ

新緑まぶしい

山の緑濃くなる(山)

はる

かすみ

三春

第五

1-1-24

春すすむ

 

新緑まぶしい

松の緑濃くなる(宮中)

まつのみどり

春(くる)

初春(春くるによる)

第五

1-1-25 a

春深まる

心はずむ

春雨

はるさめ

(のべの)みどり

三春(はるさめによる

第五

1-1-26 a

春深まる

心はずむ

青柳

あをやぎ

晩春(あをやぎと花による)

第五

1-1-27

日々に深まる

柳はうれしかろう

柳濃くなる(眼に入る)

(あさ)みどり

しらつゆ(三秋の季語)

晩春(柳による)

第五

1-1-28 a*

日々に深まる

鳥たちもうれしかろう

鳥次々鳴く(耳に聞く)

ももちどり

三春

第五

1-1-29 a*

山も深まる

保留

呼び合う鳥(よぶこどり)

無し

保留(よぶこどりが不明)

第五

1-1-30 a

山も深まる

保留

飛ぶ雁

かりかへる

仲春(かりかへるによる)

第五

1-1-31

梅咲き誇る

梅の花に近づけないもの

はるがすみ

(みすててゆく)かり

仲春(みすててゆくかりによる)

第六

1-1-32*

 

梅咲き誇る

 

梅の花に近づけるもの

うぐひす

初春(梅による)

第六

1-1-33*

梅の香

人にまどわされ

人の香をもらう梅

うめ

初春

第六

1-1-34*a

梅の香

人をまどわす

やどの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-35*

罪な梅

香がまどわす

立ち寄っただけの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-36 a

罪な梅

花がまどわす

かざす梅

うぐひす

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-37

折った梅

近付けばさらに感じる

折った梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-38

折った梅

近付けばさらに感じる

贈る梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-39

夜の梅の香

香りは高貴

闇夜でも

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-40

夜の梅の香

香りは高貴

月夜でも

月夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

 

表3 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-41~1-1-48) (2019/9/2現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-41

盛んな梅の香

夜も昼も

都での闇夜

春の夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-42

盛んな梅の香

昔も今も

鄙での夜

初春(貫之集の詞書によれば花は梅を言う)

第六

1-1-43

年年歳歳

変わらぬ梅

鏡のような流水

春・花

晩春(花=桜による)

第七

1-1-44

年年歳歳

常に散る

鏡くもる

晩春

第七

1-1-45

梅散る

形見なし

常に愛でていた

梅(のはな)

初春

第七

1-1-46 a*

梅散る

形見あり

袖の移り香

初春

第七

1-1-47

梅散って後

迷惑な香り

梅(の花)

初春

第七

1-1-48 *

梅散って後

欲しい香り

思い出

梅(の花)

初春

第七

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表4 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-49~1-1-68) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

1-1-51*

桜あちこちに

もの思い無し

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

1-1-52

桜あちこちに

もの思い無し

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

1-1-53

桜満開

のどけからまし

桜無き世

さくら

晩春

第八

1-1-54*

桜満開

のどけからまし

さえぎるもの

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

1-1-57 a

見事な桜

毎年発見

都の桜

無し

初春(初句は梅)

第八

1-1-58 a

見事な桜

新しく発見

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

1-1-59

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雲

さくら

晩春

第八

1-1-60

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雪

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

晩春

第九

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

1-1-63 a

花は散りやすい

明日は分からぬ

今日現在の花

晩冬(雪による)

第九

1-1-64 *

花は散りやすい

花は今を愛でたい

今日現在の花

さくら

晩春

第九

1-1-65 a*

散るときとなる

まだ楽しみたい

泊まる

さくら

晩春

第九

1-1-66 a

散るときとなる

まだ楽しみたい

染める

晩春

第九

1-1-67 a

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

1-1-68

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

山里の桜

さくら

晩春

第九

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3)歌の注記(aを記した歌について)

1-1-4歌~1-1-6歌:梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。

1-1-7歌:①梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。②元資料の歌の三句「折りければ」を編纂者は配列の要請から「居りければ」として歌意を替えている。③竹岡氏の理解に従う。「愛情を、うぐいすはそんなに深くしみつかせて、梅の枝に居るもんだから、それで消えようとして消えやらぬ枝の雪が、そんなに花と見えるのであろう。」

1-1-15歌:①配列からいえば、都にきている春(1-1-13歌や1-1-14歌のように)が山には遅れている意の歌。②だから山に居る鴬は不満である。

1-1-17歌:①元資料の歌は、古今集のよみ人しらずの時代以来の伝承歌である。若い男女の集う機会に互いに朗詠した歌であり、地名「かすがの」は、差し替え自由の歌である。②官人がこの歌を承知しているのは、さらに宴等でも朗詠していた歌となっていたからである。③『古今和歌集』編纂者は、朝廷の年中行事の一つである子日の行事を念頭に、この歌をここに配列しているのではないか。④平城天皇が節会を廃止し曲宴を設け、嵯峨天皇は節会を復活させ、花の宴・子の日の宴などを朝廷の年中行事に加えている。

饗宴という、共同飲食儀礼は特に重視されている。⑤『例解古語辞典』によれば「子の日遊び」とは「正月の最初の子の日に、野に出て小松を引き抜いて庭に植えたり、若菜を摘んだりして遊宴をし、千代を祝うこと。また、その行事。」とある。

1-1-18歌:①二句「とぶひののもり」とは、「烽火で情報伝達する基地に詰める者達」の意で奈良時代春日野にもあった(『顕註密勘』など)。②作中人物は野遊びをしたい仲間を「とぶひののもり」と呼び掛けている。③久曾神氏の訳出に、作中人物の仲間への呼びかけを加える。

1-1-20歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。③年中行事に正月17日射礼 同18日賭弓がある。関係あるか。

1-1-21歌:①醍醐天皇の延喜年間には、子日の行事は朝廷の年中行事になっていた。それを念頭に朝廷内での若菜に関わる先例となる歌をここにおいたか。

1-1-22歌:①白い衣の袖の服は、官女が宮中で着るか。そうであれば、この歌の元資料の歌は、宮中の式典(は宴が重要であるがそれにおける)業務に忙しく立ち働く女官をいうか。②配列からいうと、1-1-21歌の次におかれているので、朝廷での宴で披露できる歌である。③さもなくば、久曾神氏も指摘する屏風歌が元資料の歌か。

1-1-23歌:①前歌1-1-23歌の三句にある「白妙の袖」が動き回っている印象を、三句の「かすみの衣」にもある。緑が基調の野山にいる男女を詠うか。②、子日の行事に関わる歌とも理解できる歌。

1-1-25歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。

1-1-26歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-28歌:①ももちどりとは、本文で指摘したようにたくさん鳥の意。竹岡氏は「各種の渡り鳥たち」と指摘する。②本文の「4.③と⑦」及び「〇.以降」(次次々回のブログに記載予定)などをみよ。③五句にある「ふりゆく」の「ふる」は、「あらたまる」の反対の概念。④この歌は春の部に相応しい歌として理解すべし。

1-1-29歌:猿丸集3-4-49歌の類似歌。本文の「5.以降」(次回のブログに記載予定)などをみよ。

1-1-30歌:①当時は地方勤務者の出立には見送りの宴などが必ず行われている。今、さらに言伝することは何か。都の今年の春の様子であろう。都で新たな任務に就いた人のことや自然の景の移り替わりであろうか。

1-1-34歌:①3-4-31歌の類似歌。②ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に歌意を示す。

1-1-36歌:①ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に示した歌意「梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか」の後段は意訳である。

1-1-46歌:①竹岡氏の理解に従う。初句「梅がか」とは、「梅の香」と違い、抽出した梅の香りのみではなく、「梅の香りもそれを発散させる花も含めた空間をも一緒に傍にとどめておきたい気分」がある。「残すなら梅をそのまま残せば香も残るのだが」その方法はないものか、という思案しつつ詠った歌。②このような竹岡氏の理解に従った現代語訳を試みると「この香り高い梅をそのまま枝ごと袖に閉じ込められたなあ。春が過ぎ去ったとしても、梅の形見となろうものを」。③五句にある「かたみ」とは、「遠く離れている人や死別した人を思い出すよすがとなる品。その人の形を見るものという意」(竹岡氏)。④元資料の歌合には、『古今和歌集』編纂者4人の出詠している。作者がよみ人しらずとしている事情は不明。⑤元資料の歌と、三句で一字異なる(「は」を「ば」に編纂者改定か)

1-1-50歌:①猿丸集1-3-32歌の類似歌。②理解に2案ある。ブログ「猿丸集第32歌 さくらばな」(2019/10/16付け)本文4.参照

1-1-57歌:①五句の「あらたまる」のは桜。年ふるひとにとり毎年桜は感激あらた、の意。②元資料は加齢を実感する歌だが配列を重視するとこのように意が変わる。③「年ふる人を」は、1-1-28歌参照。④劉思芝の有名な「年々歳々花相似、歳々年々人不同(代悲白頭翁)」を踏まえた歌。⑤なお、視点1(時節)は元資料における時節。

1-1-58歌:①竹岡氏の理解に従う。②春霞が秘蔵している桜を誰が折ってきたのか、の意。②桜は女をも意味する。

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花とまれなる人。桜花ならば、古今集春上の歌。まれなる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。3-4-51歌検討時確認する。③1-1-64歌と問答歌にみせているのは1-1-62歌と1-1-63歌と同じ理由。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

 

付記2.春歌の最後の歌1-1-134歌について

① 1-1-134歌は、詞書により、春歌の最後の歌となる資格を与えられている。

② 1-1-134歌の元資料は、『亨子院歌合』である。最初の本格的な晴儀の歌合。巻頭にある仮名文の最後に「題は二月三月四月なり」とある。詞書が「春 三月十首」とある最後(「春」の最後でもある)の歌(5-10-40歌)が1-1-134歌の元資料歌である。番う歌(5-10-39歌)は「ほかのはるとやあすはなりなむ」と詠い、暦日上の3月30日や3月31日を詠った歌となっていない。5-10-40歌も初句にある「けふのみ」とは、3月31日を意味してない。それは、暦の上の3月31日のみが、花の傍を立ち去りがたい理由になるのは当時も今も常識的に認めにくいからである。

③ 『亨子院歌合』には、番う歌ごと(二首ごと)の題の記載がない。歌合の主催者の意向か当時の慣例により、時系列に整理されている可能性がある。それからは、5-4-39歌と5-10-40歌には月末がふさわしい位置を与えられている、と理解できる。

歌のなかの動植物の名及びその状況(例えば5-4-35歌の「ちるやまぶき」)からも「三月ははての日」を詠んでいると限定できない。

④ 1-1-134歌が、「春の果て」(3月31日)の歌と理解して然るべきなのは、第一に「はるのはてのうた」、と詞書に記してあるからである。『古今和歌集』編纂者が、1-1-134歌を四季の春を詠う最後の歌としている。

⑤ なお、1-1-1歌は、詞書に依存せず、立春を題材にしていることが歌のみで判る。

 (付記終り  2019/9/9   上村 朋)

 

 

 

わかたんかこれ  猿丸集第48歌 その2 あら あら

前回(2019/8/26)、 「猿丸集第48歌その1 あらを田」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その2 あら あら」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

        あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

    あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.~4.承前

(現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、当該歌集(古今集 巻第十五)における配列を確認した。その結果

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列でもない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 なお、1-1-817歌は、仮置きであり、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理である。

 

5.類似歌の前後の歌の再検討 その2

① 1-1-817歌の前後の歌で1-1-814歌まで確認したとろ、前回の付記2.の表の訂正はありませんでした。

② 1-1-815歌より確認を続けます。

1-1-815歌  題しらず     よみ人しらず

   夕されば人なきとこを打ちはらひなげかむためとなれるわがみか

「夕方がやってくると、人のいない寝床だのにそれを、つい今までどおりに塵を払い、思いのままにならぬのを嘆こうがためとなっている。この我が身か!」(竹岡氏)

 五句を重視して理解したい。未だに迎える準備をしては嘆いている我が身を、作者は冷静に、あるいは、悔しく思っている歌です。そのように準備をして嘆くまでが習い性となっており、その手順が省けないのですから、寄物はその習い性、即ち「手立て」とみました。

 

1-1-816歌  題しらず     よみ人しらず

   わたつみのわが身こす浪立返りあまのすむてふうらみつるかな

「あのつれなくなってしまった人を、私は繰り返し繰り返し、深く深く恨んだことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、初句と二句は「立ちかへり」にかかる序詞として訳出していません。

「海の、波自身の身を越す波が、立っては返り、海人の住むという浦を見ている。――私も、(忘れている気持ちの上に又してもおっかぶせるように)もとの思いにたちもどって恨むことよなあ。」(竹岡氏)

 氏は、諸注すべて正解に達していない歌のひとつ、と指摘しています。

白波が立つ景は、通常とは異なる景です。台風とかその余波のような、自然が猛威を振るっている景です。この歌は、波が自らの波頭を崩して前方の波も巻き込みつつ浜に打ちあがるのが、信頼を置いていた相手による作者への来訪忌避をはじめとした数々の仕打ちにみえ、次第に憤怒をも感じてきたかの詠い方です。

 竹岡氏は、二句「わが身こす浪」とは、「波自身が、自らの波頭を崩しつつ前の波を巻き込んで次々と浜辺に押し寄せる様子」を形容し、「忘れていた失恋の恨みがぶり返してあの時の気持ちに戻るという心象風景を表現している」と指摘し、「1-1-1093歌を本歌とした歌ではない」としています。

「うらむ」という語句は、1-1-807歌や1-1-814歌にも用いられていますが、この歌は「うらみつるかな」と五句にあり、作者の作詠時点における思いの結論になっており、1-1-807歌や1-1-814歌と明らかに違う語句の使い方であり、1-1-815歌までの歌が諦めか、無理やり納得しようとしているかにみえるのに比べても違う歌です。

 このまま身を引くようなことは、悔いを残すと思っているかの詠いぶりであり、この歌が歌群の切れ目に位置するかに見えます。

 寄物は、繰り返し繰り返し前の波を次々巻き込む白い波頭であり、それが作者に思い出させる「手立て」とみました。

 この歌までが、「秋(飽き)に悩む歌群」(1-1-803歌~1-1-816歌)とこの検討で括ったなかの歌です。

 

1-1-817歌 (歌は上記1.に記す)

 ここでは、「あらを田」を荒れた小田と理解し、(古今集の多くの例があるように)上二句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている、と理解している竹岡氏の現代語訳により、配列を検討します(私の現代語訳(試案)は、下記7.に示す)。氏は、「このままでは、まだ、もしやあの人はやっぱり私を思っているのではあるまいかといった未練がいつまでも残って、失恋したとは言い聞かせながらも、すっきりと思いきれない(作中人物)」の歌と指摘しています。

 この歌の元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である田)」をとっていると思います。

 竹岡氏の現代語訳はつぎのとおり。

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(竹岡氏)

 

1-1-818歌  題しらず     よみ人しらず

   有そ海の浜のまさごとたのめしは忘るる事のかずにぞ有りける

「荒波の打ち寄せる浜の砂のごとく無数であると、私を頼みに思わせたが、今になって見ると、その無数というのは、私との誓約を忘れる度の数であったことよ。」(久曾神氏)

 この歌は、『古今和歌集』の仮名序において、「たとへ歌」の例として挙げられている歌にもとづく歌です。その例歌は興福寺延年舞唱歌だそうです(竹岡氏)。

 歌の配列を重視すると、前の歌(1-1-817歌)のように相手との精算のため思い出したところ、いかに裏切られてきたか、あやふやな対応であったか、を再確認したという歌と言えます。この歌も元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である浜)」であると思います。

 

1-1-819歌  題しらず     よみ人しらず

   葦辺より雲ゐをさして行く雁のいやとほざかるわが身かなしも

 久曾神氏は、三句までは「とほざかる」にかかる序詞として訳出せず、「雲井は禁中をたとえることが多いがそれまで考える必要はあるまい」、と指摘しています。

 竹岡氏は、三句までを景として訳出しており、「景の遠ざかる=情の遠ざかる」という理解をしており、それにより、検討すると、寄物は、「飛ぶ雁」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-820歌  題しらず     よみ人しらず

   しぐれつつもみづるよりも事のはの心の秋にあふぞわびしき

「しぐれがはらはらと降ってはもみじしていく、それよりも、言の葉が心の飽きという秋に会う方が、みじめなのさ。」(竹岡氏)

 寄物は、「色替わる木の葉」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-821歌  題しらず     よみ人しらず

   秋風のふきとふきぬるむさしのはなべて草ばの色かはりけり

 久曾神氏は、「この歌は恋歌に部類されているのだから867歌をも考え五句に愛人の心がわりを見るべきであろう。」と指摘しています。

 竹岡氏は、「全く叙景歌として通用する歌を恋の歌として恋部に入れていることに注目すべきである。初句~三句に大自然の勢いをくみとりたい。あの人の心が今やまさにそんな手の施しようのない状態になってしまって、それが、私に対するあの人の目つきや言葉や動作などすべてにはっきり示されている、というのである。恋復活の望み無し。」と指摘しています。寄物は秋の景であり、「秋の風にあう武蔵野」です。それが心境を象徴しています。

 

1-1-822歌  題しらず     小町

   あきかぜにあふたのみこそかなしけれわが身むなしくなりぬと思へば

「はげしい秋風に吹きまくられる稲の実は悲しいことであるよ。せっかくの実がこぼれてからになってしまうと思うので(深く頼みにしていたのに、あの方に飽きられてしまうのが悲しいことである。今まで親しくしていた私が、このまま空しく朽ち果ててしまうのかと思うので。」(久曾神氏)

 氏は、「表と裏が明確にわかれておらず、序詞・枕詞とすることもできないので、自然と人事とにわけて見るほうがよかろう。」と指摘しています。

 寄物は、秋の景となる「風にあう田の実」ではないでしょうか。

 

1-1-823歌  題しらず     平貞文

   秋風の吹きうらがへすくずのはのうらみてもなほうらめしきかな

「私に飽いて私から離れ去ってしまった恋人は、いくら恨んでも、やはり恨めしいことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、「初句から三句は「うらみて」にかかる序詞。しかし、「秋風」に「飽き」をひびかせ、「うらがへす」に「こころがわり」をほのめかしている。」と指摘しています。寄物は、「秋の風」です。

 この歌は、「うら」と言う同音異義の語を、二句では葉を風が「裏がえす」、四句では「葉の裏をみても(心変わりした貴方の心の内」、五句では「怨む」、と使い分けています。

 

1-1-824歌  題しらず     よみ人しらず

   あきといへばよそにぞききしあだ人の我をふるせる名にこそ有りけれ

「人々が「秋」と言えば、今まで私にはまったく関係もないよそごととして聞いていたが、今になって見ると、それは、あの浮気者が私をおもちゃにして、見捨てて行ってしまった「飽き」という言葉であったよ。」(久曾神氏)

 寄物は、「飽き」に通じる同音異義語である「秋」そのものです。

③ このように、1-1-824歌まで、付記1の表の訂正は必要ありませんでした。

 

6.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「繰り返し繰り返し、あの人の本心を見定めて、それから、私はきっぱりとあきらめてしまいましょう。」(久曾神氏)

 氏は、初句~二句は「かへす」の序詞として訳出していません。

竹岡氏は上記5.②に記したように、あらを田は、荒れた田と理解し、「新開の田は当時「あらきだ」といった。上句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている」と指摘しています。

 なお、下句は、誹諧歌の部にある1-1-1050歌とまったく同じです。「うらめし」で恋五の歌、「あさまし」で誹諧歌と、部を異にしています。

② 鈴木宏子氏は、3-4-48歌に関して「あらを田とは、新小田であり新しく開墾した田。荒小田と解する説もある。」、「あらすきかへしとは、荒く鍬き返すように」の意と解説しています。(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))

③ 配列を重視すれば、男が相手にしなくなっている段階での歌であり、“景”の設定として新しい田を作者が選ぶとは思えません。

 

7.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句にある「あらを田」とは、「荒小田」であり、荒廃した田の意です。作者を構わなくなった、優しい心を持っていない男を指し、作者の相手の男の謂いです。新しい小田では、譬喩になりません。なお、「あら」はこの歌では接頭語であり、初句では、荒れた意を、二句では、勢いのはげしい意(『明解古語辞典』)となります。

② 二句にある「すきかへす」とは、動詞「鋤く」の連用形+動詞「返す」の終止形です。

「鋤く」とは鍬で耕す意であり、「返す」とは、「もとの状態にもどす、初めの所や持ち主へ戻す」とか「返事をする」(『例解古語辞典』)意があります。このため、「すきかへす」とは、「田地と見なす土地を、鋤きで耕し、種や苗を植えられる状態にする(戻す)ための一動作をいい、「繰り返す」意は含まれていないと思います。

古今和歌集』で「かへす」と言う語句のある歌に、1-1-42歌、1-1-395歌および1-1-554歌がありますが、いずれも「繰り返す」意ととらなくてよい歌です。

③ この歌では、「すきかへしかへしても」と「かへす」を繰り返すことにより、「あらを田」を何回も耕して苗を育てられるような状態を目ざしている一連の作業をイメージするとともに、相手の男の返事を何回も求める意をこの語句に込めています。

④ この歌の三句までの田に関する仕事の景は、竹岡氏が指摘するように、三句以下の「心を見たい」という作者の意志(竹岡氏のいう「情」)の比喩または象徴となっています。田を鋤くのは、来年の稔りのためです。相手の心を確かめるのは二人一緒にこれからも歩めるかどうかの見極めです。

⑤ 五句の「みてこそやまめ」は、係結びです。「め」は推量の助動詞「む」の已然形です。

「こそ・・・め」という係結びなので、その意は、「そうするのが、またそうあるのが当然だ、適当だ」(『例解古語辞典』)と、作中人物は判断しています。

⑥ この歌の前後の配列をみるとつぎのとおりです。

 類似歌の前の歌1-1-811歌以降1-1-816歌は、わが身の行動や心のうちを、相手に伝言したい(あるいは直接歌を受け取ってくれなくとも、そのような歌を詠んだと風聞で伝わってほしい)という歌であり、相手の行動や心の内を確認したいと、詠っていません。それに対して、この歌は、心の内を確かめようと決意を述べています。それもおずおずとではなく当然のこととして言っており、1-1-816歌の作者のスタンスより行動的です。

 類似歌後の1-1-818歌以降1-1-822歌までは、相手に心変わりをしたではないかと問う詠う歌であり、相手に返事を求めている歌です。1-1-823歌と1-1-824歌は、1-1-822歌などの問いに対して作者に心を向けた返事の無いのをなじりあるいは恨んでいる歌ともとれます。1-1-823歌での「うら」と言う語句をしつこく用いているのは、印象的であり、1-1-817歌の相手を確かめたい気持ちもなえているかのような歌になっています。

⑦ 歌群を想定すると、このように1-1-816歌とこの類似歌(1-1-817歌)が境であるように見えます。

 先にみたこの巻第十五の歌の配列と歌群の整理は、この歌の前後においては付記1の表のとおりと思います。この歌1-1-817歌から1-1-824歌までを「熟慮の歌群」と名付けたいと思います。

⑧ 現代語訳を、配列を(前後の歌の意のつながりを)考慮し、試みると、

「荒れてしまっている田は、もとの状態に戻すのが当然であり、勢いよく鍬きを振るいそして鋤き返して春の農作業の準備をするように、色々試すことをしてでも、あの人の心の中をしっかり見定めてから私も思い切るのがいいわね。」

 この歌の作中人物は、この歌の前後の作中人物と同様に女を想像します。しかし、「あらを田」を鋤くのはまず男の仕事であり、自らの働く場での行為を、と詠った歌とも理解が可能であり、よみ人しらずの伝承歌であるので作中人物は男であってもおかしくありません。

 作中人物が男女どちらであっても、この配列における歌意は変らりません。

 

8.3-4-48歌の詞書の検討

① 3-4-48歌を、まず詞書から検討します。

② 「ふみやりける女」とは、交際前提で手紙のやりとりをしている女、という意です。つまり文通から先に踏み出してくれない女、となります。

③ この歌をおくった時期を、詞書に「はるころ」と明記しています。類似歌は、題しらずの歌であり、時期について触れていません。

 類似歌で詠う「あらを田をすきかへす」時期とは、現在でいうと土地改良をしている段階とか、休耕田を再び稲作用の田に戻すまでの段階の作業をする時期と推測します。それは秋の収穫が終わって、働き手に時間的余裕が生まれている時が最盛期の作業と推測できます。

「はるころ」とは、この歌の詞書としては、「稲を刈った田を翌年の春に田植の準備として耕起するころ」ということであり、歌の初句の意味の内容を示唆しています。(「あらを田」と言う語句の検討は歌の検討で行います。)

④ 「つれなかりける」とは、形容詞「連れ無し」の未然形+(進行持続を示す)完了の助動詞「り」の連用形+回想の助動詞「けり」の連体形です。「連れ無し」とは、二つの事物の間に何のつながりもないさまが原義であり、「働きかけに反応がない。無情である」、「事態に対して何気ない様子。無表情である」などの意があります。

⑤ 3-4-48歌の詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

 

9.3-4-48歌の現代語訳を試みると

① 詞書によれば、「女のつれなかりける」状況を打開しようとしてこの歌をおくっていると理解できます。類似歌のようにうらめしいことが続いて「見定める」というイメージとは異なります。

 また、詞書に「はるころ」と時期を指定しているところを見ると、作者は類似歌を承知していて、それを利用した歌を女に送った、とみられます。

② 「はるころ」送ったということは、その時節の農作業を景にとり詠っていることになります。春の田植の準備としての耕起作業を「すきかへす」と言っている、とみてよい、と思います。

③ そうすると、初句「あらを田を」とは、

感動詞「あら」+名詞「を田」+格助詞「を」

と理解したほうが良い。

 二句「あらすきかへし」も感動詞「あら」+動詞「すきかへす」

と理解すると、詞書に添う意となりそうです。

④ 四句と五句「みてこそやまめ人のこころを」は、単に順序を入れ替えた語句ではなく、

「みてこそや まめ人の こころを」

と読むことができます。「や」は疑問の助詞です。

⑤ 3-4-48歌の文の構成は

 文A  あら を田を あら すきかへし みてこそや

 文B (みてこそや) まめ人の こころを

からこの歌は成ると理解できます。

⑥ 3-4-48歌の現代語訳を、詞書に従い試みると、つぎのとおり。

「あれまあ。田を、あれまあ、勢いよく鋤き返し鋤き起こしするように、私をよくよく見てからということですか。このように実直な男である私の心を。(そんなに鍬き起こさなくとも、苗はすぐ植えることができるのですよ)。」

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-48歌は、詠む事情を記しており、類似歌1-1-817歌は、題しらずとあるだけです。しかし類似歌の歌意は、配列等から誤解が生じません。

② 初句と二句にある「あら」の意が異なります。この歌の「あら」は、感動詞であり、類似歌のそれは、接頭語で「粗・荒」の意です。

③ 四句と五句の語順が異なります。この歌は、「見てこそや まめ人の こころを」であり、これに対して類似歌は「人のこころを 見てこそやまめ」となっています。

 この歌の「まめ」は、形容動詞「まめなり」の語幹であり、類似歌の「(や)まめ」は、動詞「止む」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形です。

④ この結果、この歌は、相手の女の気をやんわりと引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、このような歌です。

3-4-49歌  詞書なし(3-4-48歌に同じ)

   をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

 

類似歌は

1-1-29歌  題しらず      よみ人しらず (巻第一 春歌上)

   をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2019/9/2   上村 朋)

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集第48歌 その1 あらを田

前回(2019/8/12)、 「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その1 あらを田」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

      あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌から検討します。

古今集にある類似歌1-1-817歌は、『古今和歌集』巻第十五恋歌五にある歌です。下記の検討結果では熟慮の歌群(1-1-817歌~1-1-824歌)」の最初に置かれている歌となりました。

② 『猿丸集』歌の類似歌で、『古今和歌集』の恋五にある歌は、3-4-17歌の類似歌にありました(1-1-760歌)。その検討の際、巻頭歌1-1-747歌から1-1-769歌までを対象に、作中の主人公の性別、歌の趣意、恋の段階、主な寄物、などを確認しました。

奇数番号歌と偶数番号歌が対となっているか否かの検討をしていませんし、恋五の歌全てを対象としていませんでしたので、ここで改めて検討します。

③ ここで、恋の部の全体の構造をも概観しておきます。

古今和歌集』の恋部の構造について、新井栄蔵氏が、恋一から恋四に対して恋五が置かれており、恋一の冒頭部と恋四の末尾部との間の作者・歌の対応がある、と指摘しています(『国語国文』四三の六)。

久曾神昇氏は、「恋部は、人事題材のうち事件過程に関する短歌であり、恋愛の過程に従って約50項に類別しているようであるが、明確に断言しがたい」と指摘しています。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋の部は、「恋人たちの心理をうたったものが、恋愛の進行過程にしたがって配列されている」(巻第十一頭書の頭注)が、「恋愛心理の時間的進行を正確にとらえることの困難さのためか、それほど顕密になされていない」(同書「解説・二『古今集の成立』」)と指摘しています。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では、「恋ふ」とは「離れていて慕う心を親子・友人の場合を含めていうがここ(恋の部)には「つま」に対するものを集める」(巻十一頭書の脚注)として、(恋の部は)「恋という一種の極限状況によって人のあり方を代表させその特定の状況における人の思いを述べる歌を、それぞれに整理し配置している」(同書・解説)と指摘しています。なお、恋一と二は契りを結ぶまでの逢わずして慕う恋、恋三と四は契りを結んで後に逢えないで恋慕い苦しむ情念をよむ、契りを結んで後になお慕い思う恋を集めた部、としています。

④ そして恋五については、久曾神氏は、「離れ行く恋」の巻としています。更なる細分を、「再び逢はぬ恋、厭はれる恋・・・忘られて久しき恋、あきらめる恋」など15区分の例を示していますが、「類似した歌が多く、且つ解釈によっても相違するので、撰者の意図を明確に知ることは困難である」(付記1.参照)と指摘しています。ともかく1-1-817歌は・・・の中の一首となります。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋五に頭注して「恋愛が終わった後の、さまざまの心理をうたった歌を収める。初めの30首ほどは比較的新しい恋愛の思い出であって、相手を恨むようなものが多い。その次の10数首はもっと古い恋愛で、作者の感情はすでに諦め、または懐かしみの情に変わっている。だが多くの場合、愛の破綻でよけいに苦しむのは女性で、古代中国詩の棄婦と変わっていなかった。喜びや悲しみを乗り越えた静かな境地に達するが、それは季節の最後に万物に安息を与える冬が訪れるのに似ている」とあります。これより推測すると、1-1-817歌は、「だが多くの場合」以降の歌群にあたると、思われます。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では「恋五は、時間的・心理的に距離をおいて、相手を、自分を、そして二人の間柄を見つめ、さらには恋というものを見つめてよむ歌を集める。多義的で余情のある哀切な歌が多い」と指摘しています。また歌群として「わが身は」の歌群(1-1-747~1-1-757歌)、「逢うことも間遠になって」の歌群(1-1-758~1-1-780歌)、「人心は」の歌群(1-1-781~1-1-804歌)、「わが身悲しも」の歌群(1-1-805~1-1-819歌)、「心の秋」の歌群(1-1-820~1-1-824歌)、「よしや世の中」の歌群(1-1-825~1-1-828歌)」を示しています。

⑤ 編纂者が編纂方針の詳細を記していないので、歌群の捉え方に種々案のあることが判ります。このため、各歌を検討して恋五(巻第十五)の配列を検討してみます。

巻第十五は、長文の詞書のある在原業平朝臣の1-1-747歌で始まり、「題しらず よみ人しらず」の1-1-828歌で終ります。『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあると諸氏も指摘しています。この巻でもその2首をあわせて検討することから始めます。

⑥ 久曾神氏は、仮名序に業平の歌を「その心あまりて、言葉たらず」と評しているのを参照して見るべきである」と指摘し、(1-1-747歌は)「自然は変らず人事の我も同じだが今年は肝心の女性がいない」、と詠う余情体の歌であると解説しています。「恋愛の過程」としては、詞書にあるように「物言ひわたりけるける」後に本意ではないが逢えなくなり暫くして翌年春となった時点であり、その時点が作詠時点でもあります。

竹岡氏によると、1-1-747歌は、古来、大別すると二種類の解釈が行われていて、月も春も昨年とは変った感がするのに、わが身だけは昨年のままだと解釈する説と、月と春も(自分の身も)、昨年のとおりで変わってはいないのに、恋人のいなくなった自分だけは去年と同じでありながら変わっていて(又は恋人だけが変わっていて)と解するものがあり、「その帰趨も知らぬ状態」であるそうです。発想のしかたは漢詩に由来しているかもしれませんが、さようなことを思わしめないほどに詠嘆が切実で端的である、と評しています。恋愛の過程としては、詞書に明瞭に記してあるので、久曾神氏と同じ理解です。

⑦ 最後に位置する1-1-828歌を、久曾神氏は、「離れてしまった恋であろう」、と評しています。恋愛の過程としては、1-1-747歌の時点より後であり、何度かの恋愛の経験をした後の時点(恋愛の過程のすべてを何度か経験した後の時点)と思われます。

竹岡氏によると、四種類の解釈があり、多くがその1種類の解であるが「難解な歌」と評し、「(恋の部の)最後のとじめの歌らしく山だの河だのと大きく出て、歌がらも大柄で、つき離して一種の諦観あるいは悟入の気分で(恋の部を)終了するのである」と論じています。氏の現代語訳を示すとつぎのとおり。

「流れては、妹山と背山との中に激流となって落下する吉野河――妹・背の仲はそんなもの(人生を流れていく間には、夫婦の間に激しい吉野河が落下するようなトラブルだってあるもの)、よしよし、ままよ、それが世の中さ。」

氏は、「夫婦というものが、一生の間、あの妹山と背山のように連れ添うて向かい合っていると、たまりたまったものが二人の間に滝のように激しく流れ落ちることだってあるもので、それがこの世の中さ、という気持」(を詠う)と評しています。

当時の官人の婚姻形態からみれば、男の通い婚であり、恋愛の相手は、複数、同時進行もあったと十分推測できるので、夫婦が特定の男女一組のみを意味するのではないと思えます。このため、恋愛の過程としては、久曾神氏と同じ時点を氏も言っている、と考えられます。

⑧ この2首をみると、恋の部は作詠時点が一方向に進んでいるように配列している、と仮定すると、恋の部の五番目である巻第十五にある最初の歌は、「本意ではなく別れさせられた後の歌であり、最後の歌は、幾つもの恋を経験した人物が自分の経験を含めて男女の仲を振り返って詠んでいる歌となっています。恋の部が時系列に配列されているならば、巻第十五の歌は、すべて、客観的には恋が一旦終わっているとみなし得るしかし作中人物はそのように了解していない段階の歌ではないか、と推測できます。俗にいえば、元の鞘に戻る事に望みを抱いている人物の作詠した歌で構成されている、と言えます。この仮定の上で各歌を検討します。

 

3.巻第十五の歌すべての検討

① 上記2.⑧の仮定のうえで、巻第十五にある歌全てを対象に、配列を検討します。

久曾神氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に、その歌の作者の自覚、恋歌としての相手に作者が訴えたいこと、詠うにあたり利用しているもの(寄物)を抽出し、奇数番号の歌とその次の歌とをペアと理解してよいかどうかをみてみます。

歌の理解は、いわゆる枕詞に用いている文字にも意義を認める従来の方法を踏襲しますので、久曾神氏の現代語訳では不足する場合などがあり、それを補い検討を加えた結果を、付記2.の「表 古今集巻十五にある歌の分析 その1~3」にまとめました。

但し、1-1-817歌は、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理であり、仮置きです。(1-1-817歌は次回検討します。)

そして歌群の有無と分類とを試みたところ、いくつかに分類可能であったので、上記の表に記しています。

② 付記2.の表から、次のことが指摘できます。

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。すべての歌が上記2.⑧の仮定のうちで理解できた。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列ではない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 

③ 巻第十五の歌の理解を『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』が、「恋愛が終わった後の・・・」と捉えているのは、妥当ではない、と思います。『新日本古典文学大系5 古今和歌集』が、「時間的、心理的に距離をおいて・・・」としているのは、恋の進行過程に触れていないのが物足りないのですが、この理解は可能なのが、巻第十五であろうと思います。

 

4.類似歌の前後の歌の再検討 その1

① 類似歌1-1-817歌と対の歌およびその前後の歌3組(計4組14首)を検討します。

1-1-811歌  題しらず     よみ人しらず

それをだに思ふ事とてわがやどを見きとないひそ人のきかくに

「せめて、それだけでも、私を思ってくださるしるしとして、私の家を見たとは言ってくださいますな。世間の人が聞きますから。」(久曾神氏)

久曾神氏は、「関係が絶えてしまったとなれば、世間ていをはばかり、せめてうわさの立たないようにしたいのであり、「わがやどを見き」と言わないだけでも消極的ではあるが、思いやりとなるのである」と指摘しています。

この歌の初句にある「それ」は、作者が強く意識していること、即ち「わがやどを見き」ということを指しています。この巻の歌が先にみたように、上記「3.② 第二」で指摘したように、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されているので、やんわりと「昔の自慢話などするな、迷惑である」、と申し入れている歌にとれます。「寄物」は「おもいやり」としたが、マナーは守れという要求に近いでしょう。

 

1-1-812歌  題しらず     よみ人しらず

逢ふ事のもはらたえぬる時にこそ人のこひしきこともしりけれ

「逢うということが、まったく絶え果ててしまった時になってはじめて、いとしい人が恋しいということも、ほんとうにわかるのであるよ。」(久曾神氏) 

この歌は、嘆いている歌ではありません。はっきり別れたとなると、さばさばするどころか、あの人が懐かしく愛情あふれる人であったことを改めて作者は感じているところです。それは今までとは違う恋の終り方であり、怨むこともなく友として交際できる別れ方であったのでしょうか。それを教えてくれたのがあの人のおもいやりであったのだ、と知ったことだった、と作者は詠っています。作者はこのような事の成り行きに相手を必死にたてて自ら納得しようとしています。1-1-811歌の作者と、相手の評価が、全然異なります。寄物は「おもいやり」ではないか。

 

1-1-813歌  題しらず     よみ人しらず

わびはつる時さへ物の悲しきはいづこをしのぶ涙なるらむ

「いとしい人に忘れられ、わび果ててしまった今になっても、まだ悲しく思うのは、あの人のどこに未練があって恋い忍ぶ涙であろうか。」(久曾神氏)

氏は、「わびはつる」とは「あきらめきってしまう」意と説明しています。

この歌は、五句が「心なるらん」となって後撰集に伊勢の歌(1-2-937歌)としてあります。『古今和歌集』の編纂者は、元資料の作者名(伊勢)をわざわざ伏せている、と思われます。それは元資料での作詠事情よりもこの歌集の配列の中でこの歌を理解せよという指示であろう、と思います。配列からは、1-1-811歌も1-1-812歌も二人の仲は終わったかかもしれない(あるいは戻ることはない)、と作者が判断している時点が作詠時点である、と歌からは想定できます。そのさきにこの歌1-1-813歌があるので、元資料における伊勢と相手との関係を決めつけているものではない、という編纂者の立場を表わしているのではないでしょうか。「涙がでるのだから別れたのだよ、と自ら言い聞かせていると理解して、寄物は涙という「手立て」とみます。

 

1-1-814歌  題しらず     藤原おきかぜ

怨みてもなきてもいはむ方ぞなきかがみに見ゆる影ならずして

久曾神氏は、「訴えるべき所はどこにもない。鏡に映る自分の影以外は」と理解しています。作者は事態を必死に理性的に捉えようとしており、寄物は「手立て」(鏡)と理解できます。

 

② ここまでの歌で、付記2.の表の訂正はありません。

1-1-815歌以降は、次回に記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2019/8/26   上村 朋)

付記1.久曾神氏の指摘する古今集各部の排列の特徴

① 久曾神氏は、『古今和歌集成立論 研究篇』(風間書房)の「第二編第二章第二節」で、「部類精神」(撰者の考えていた大系)を論じた後「和歌の排列」を論じている。

② 各部・各巻のなかで「細分せられた同種の歌が詠作年代順に排列せられてゐる」と指摘し、それに気づかず、語句の類似、前後関係、背景の推察などによって、文芸評論的に考へるのは、作品評価としては興味が深いが、撰者の意図を遥かに超越しているものである」と指摘している。

③ (各巻を)具体的に見ると、特色があり相違しているとして、部類ごとに論じている。

④ しかしながら、「細分せられた同種」に関する諸氏の意見は、本文で引用したように未だ不定である。

⑤ よみ人しらずの歌の注目すると、春歌上において素性法師は、氏の示す一つの区分のなかでよみ人しらずの歌の間に置かれている。(1-1-5~1-1-8歌、1-1-46~1-1-48歌)。業平にも同じ例がある(1-1-62~1-164歌)。貫之にもある(1-1-121-~1-1-125歌)。

⑥ 各歌の理解と撰者の意図の解明が待たれるところである。未だ論議の対象である。私は、今、「当時の語句の意味・使い方、前後関係、元資料の歌との関係」などを確認しつつ作品を理解しようとおり、「部類精神」に適う理解を目ざしている。

付記2.古今集巻十五にある歌の配列について

表1 古今集巻十五にある歌の分析 その1 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-747

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したのはなぜだろう

四季の景(春の月)

第一

1-1-748 *

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したかのようになったのはなぜだろう

四季の景(秋のすすき)

第一

1-1-749

近付けない

あいたかった

おもはむ人(みんなが思う人)

第一

1-1-750

近付けない

あいたい

おもはむ人(まだいない)

第一

1-1-751 *

近付けない

邪険にしないで

余所の人(天上の住人)

第一

1-1-752

近付けない

邪険にしないで

余所の人(魅力ある自分)

第一

1-1-753

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(快晴)

第一

1-1-754 *

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(相手は人気者)

第一

1-1-755 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(海草の浮く海浜

第二

1-1-756 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(袖にできる涙の海)

第二

1-1-757

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(時期外れの白露)

第二

1-1-758

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(日常の衣ではない粗い海女の衣)

第二

1-1-759

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(淀河 常に表流水有り)

第二

1-1-760 *

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(みなせ河 伏流水が主)

第二

1-1-761

逢えない状況が続く

それでも待っている

動物(しぎ)

 

第二

1-1-762 *

逢えない状況が続く

それでも待っている

植物(玉かづら)

第二

1-1-763

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(しぐれのように)

第三

1-1-764

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(山の井のように)

第三

1-1-765

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

忘草(種 これから私が忘れるために)

第三

1-1-766

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

夢でも逢えない

忘草(茂った状況 今忘れたい)

第三

1-1-767

絶たれたか

夢でも逢えない

遠い存在ではないはず

夢(みる)

第三

1-1-768

絶たれたか

遠い存在ではないはず

夢(みない)

第三

1-1-769 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(捨てられた家)

第三

1-1-770 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(来る人のない家)

第三

1-1-771

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(泣いている・静的)

第三

1-1-772

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(動的)

第三

1-1-773

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(蜘蛛にもすがる)

第三

1-1-774

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(すがるものもない)

第三

1-1-775

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(月に一度でも)

第四

1-1-776

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(年に2回ぐらいでも)

第四

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻番号―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

 なお、表1~表4の注記を以下ここにまとめて記す。

注2)歌の分析は、久曾神昇氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に筆者が分析した。さらに諸氏の意見を参照して分析した歌には、「歌番号等」欄に「*」を付した。その歌意等は注6)に記す。

注3)「自覚」:相手との関係を作者が自覚している内容。

注4)「相手に作者が訴えたいこと」:歌の趣旨や相手に伝えたい(問いたい)内容。

注5)「寄物」:作者が、「自覚」に関して譬喩・象徴としていると思われるもの。

注6)「*」を歌番号等に付した歌の注

1-1-748歌:『伊勢集』記載の歌は、元資料の歌とし、古今集記載の歌としては配列を優先した理解をして判定した。

1-1-751歌:初句「ひさかたも」を「この地上ではなく」と訳出する。

1-1-754歌:初句も訳出する。

1-1-755歌:特定の個人を指して、「遊びで近づいているからいや」といっている。

1-1-756歌:①「物思ふ」のは本心と思えないから。

1-1-760歌:①3-4-17歌の類似歌であり、3-4-17歌の検討時(ブログ「わかたんかこれ猿丸集第17歌その1 みなせがは」(2018/6/4付け))、この歌の前後の配列を検討した。②その際の現代語訳(試案)に従う。

1-1-762歌:①初句に「つるがどこまでも伸びるかづらのような仲と思っていたが」の意がある。

1-1-769歌:①「ふるやのつま」とは、「古家の軒の端」と「捨てられた(訪れの途絶えた)屋敷に居る妻」の意とを重ねている。

1-1-770歌:① 出入りの道もなくなったら、行くに行けない。「みち」には航路の意もあるので牛車も舟も寄りつけない(訪れのない)家は、通う男がいなくなった女性その人を意味する。

1-1-778歌:三句「すみのえ」も訳出する。

1-1-779歌:初句「すみのえ」も訳出する。

1-1-784歌:初句「天雲」も訳出する。

1-1-786歌:初句「唐衣」も訳出する。

1-1-809歌:「つれなき」とは、「かはりはてたる後の事」(『両度聞書』)。

1-1-810歌:世間ていを思うと悲しくなるのではなく、既に世間に知られていることを逆手にとって相手の翻意を迫る歌。

1-1-812歌:①人を恋することの意味を教えてもらったと感謝している歌。②それは、必死に自ら納得しようとしている姿でもある。

1-1-815歌:五句にある「わがみか」とは、そのような行動で自分を慰める自分が悔しい。

1-1-816歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-817歌:①「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解に従う。②この歌は3-4-48歌の類似歌なので、改めて検討する。竹岡氏の理解における分析結果として表に示しており、いわば仮置きの段階である。

1-1-819歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-820歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-823歌:序詞も訳出する。

1-1-825歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-826歌:①ながらの橋は当時杭だけ残り使用できない状態。②架け替え修繕を待っていたら時が経ちすぎる。

1-1-828歌:竹岡氏の理解に従う。

 

注7)「歌群」の分類は試案である。

 

表2 古今集巻十五にある歌の分析 その2 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-777

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(秋風が吹くように期待しているが)

第四

1-1-778 *

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(松ではないがながく待っている)

第四

1-1-779 *

 

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(住之江の浜の松)

第四

1-1-780

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(三輪山の松)

第四

1-1-781

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(野風とはぎ)

第四

1-1-782

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(時雨)

第四

1-1-783

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(木の葉)

第五

1-1-784 *

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(天雲)

第五

1-1-785

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(風)

第五

1-1-786 *

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(渡来品である唐衣)

第五

1-1-787

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(風)

第五

1-1-788

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(木の葉)

第五

1-1-789

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(見返したい)

第五

1-1-790

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(離れがたい)

第五

1-1-791

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(冬枯れの野)

第五

1-1-792

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(水の泡)

第五

1-1-793

絶たれたか

縁があるはず

河(みなせ河 水無しと表面上みえるだけ)

第五

1-1-794

絶たれたか

縁があるはず

河(吉野河 常に流れている)

第五

1-1-795

未だ音信なし

人の心は勝手だ(貴方)

染物(花染め褪めやすい)

第六

1-1-796

未だ音信なし

人の心は勝手だ(私)

染物(染めなければ褪ない)

第六

1-1-797

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(色が移ろいやすい)

第六

1-1-798

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(散るのが花)

第六

1-1-799

未だ音信なし

別れたことを認める

花(ちる花)

第六

1-1-800

未だ音信なし

別れたことを認める

花(咲く花)

第六

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

 

表3 古今集巻十五にある歌の分析 その3 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者がいいたいこと

寄物

 

1-1-801

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策を講じたい)

第六

1-1-802

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策なし)

第六

1-1-803

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(稲)

第七

1-1-804

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(はつかり

第七

1-1-805

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(涙止まらず)

第七

1-1-806

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(生きながらえる)

第七

1-1-807

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(虫の名:われから)

第七

1-1-808

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(我が身)

第七

1-1-809 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(ひとり涙する)

第七

1-1-810 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(人が話題にして)

第七

1-1-811

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(マナーは守れ)

第七

1-1-812 *

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(相手に感謝・必死に納得しようとしている)

第七

1-1-813

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(涙)

第七

1-1-814

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(鏡のみ)

第七

1-1-815 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(習い性)

第七

1-1-816 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(立かえる波)

第七

1-1-817 *

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(あらを田)

第八

1-1-818

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(浜)

第八

1-1-819 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(飛ぶ雁)

第八

1-1-820 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(色替わる木の葉)

第八

1-1-821

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう武蔵野)

第八

1-1-822

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう田の実)

第八

1-1-823 *

再び考えみた

うらめしい

秋の景(飽き風)

第八

1-1-824

再び考えみた

うらめしい

秋(秋ということば)

第八

1-1-825 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(うじ橋 中断してから)

第九

1-1-826 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(使えないながらの橋 長く待っても)

第九

1-1-827

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(乗ればまたあうかも)

第九

1-1-828 *

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(流れは割くものだ)

第九

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

(付記終り 2019/8/26   上村 朋)