わかたんかこれ 猿丸集第49歌その3 別の配列

前回(2019/9/16)、 「猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その3 別の配列」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。それを前回記しました。

④ 今回は、その検討途中で生じた、1-1-28歌に関する疑問について記します。

2.~10. 承前

古今集にある類似歌1-1-29歌は春歌上にあるので、その春歌上の配列を最初に検討した。そして前々回のブログ(2019/9/9付け)の付記1.の表を得た。検討の結果、「春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる」などが判り、時節の推移に従った9つの歌群を認め、類似歌の現代語訳を試みた後、3-4-49歌の現代語訳を試み、その違いを明かにした。その検討途中で、春歌上にある1首(1-1-28歌)の作中人物の感慨が、春の喜びを詠う歌としては違和感があったところである。)

11.改めて1-1-28歌について その1 文の構成

① 歌を再掲します。

1-1-28歌  題しらず     よみ人しらず

ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

前々回(ブログ2019/9/9付け)、五句の「「我ぞふりゆく」という作中人物の感慨は、「私だけは古くなってゆく」意とすると、春の喜びを詠う歌として、違和感がある」と指摘しました。

② それは、「ももちどりさへづる春」と、「物ごとにあらたまる(春)」は、定常的なことであり、「ふり行く」も人間だけでなく、広く生物にとり定常的なことと思えるのに、「我」のみに何故「ふり行く」(老いる)という例外が生じると詠うのであろうか、という疑問です。

この歌が、正月を迎えて若い人たちとの比較における老人の述懐であるならば、この歌にもっと適した部立が『古今和歌集』にあります。春にはそのような述懐を持つ機会に遭遇する(特定の)老人もいるでしょうが、もうすこし、この歌が春の部にあるのが妥当であるという何かが欲しい、というのが違和感というところです。

③ 「題しらず、よみ人しらず」の歌なので、「我」の立場を詞書から推測しようがありません。1-1-27歌などからもヒントがありません。

この歌の文の構成をみると、接続助詞「ども」により、この歌は前後の二つの文に分かれます。

接続助詞「ども」は、後にのべる事がらに対して一種の条件を示す場合と、既に事実がそうである事がらに対してたとえそうであってもと、強調している場合があります。

この歌では、「あらたまれども」というので、

(何かが)「あらたまる」のが一種の条件の場合が前者の「ども」

(何かが)「あらたまる」のは周知の事実の場合が後者の「ども」

となります。

動詞「あらたまる」とは、「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる。あらたまる」(『例解古語辞典』)なので、その主語の第一候補は文の上で直近にある「物」です。第二候補が「春」ですが、この歌は春の歌ですので、「春」と言う語句は「あらたまる」時期の明示とみたいと思います。

④ さて、接続詞「ども」の前の文は、主語述語を押さえてゆくと、

「ども」の意が前者の場合、

文A1 ももちどりさへづる

文B1 (・・・という現象が生じた年の)春は物ごとにあらたまる(時節なり)

の二つの文から成るとみなせます。「物ごとにあらたまる」という表現において「物」が、個別の特定できる事物を一般化していう場合や普通のもの・世間一般の事物を指し得る語句なので、「物ごとにあらたまる」ことは臨時のあるいは特異なことを言っているとは思えませんし、「ももちどりさへづる」も鴬を待つ歌を思いあわせると、春における鳥たちの囀りの形容が有力な理解であり、臨時のことでもありません。

前の文全体(文A1+文B1)は、「一種の条件」になっていません。このため、「ども」を前者に理解するのは難しいところです。

⑤ 次に、「ども」の意が後者の場合、

文A2 ももちどりさへづる

文B2 (・・・という時節は既に春であり、そして)春は物ごとにあらたまる(時節なり)

の二つの文から成るとみなせます。春における定常的なことを二つ言い出していることになり、「ども」は、後者の理解が可能です。

そのため、この歌の文の構造は、

文C ももちどりさへづる春

文D もの(ごとに)あらたまる春

文E1 (しかあれど)我ぞふりゆく

と、いうのを縮約しているのではないかと、推測します。

⑥ そうすると、「ども」の後の歌における文、

文E2 我ぞふり行く

の「ふり行く」は、定常的なことが「我」に生じなかったことを指している、と理解できます。

「ふり行く」とは動詞「ふる」+動詞あるいは補助動詞「行く」です。

動詞「ふる」の意は、『古典基礎語辞典』によれば、動詞だけでも「古る・旧る」、「振る」、「震る」、「降る」、「触る」があります。この歌においては、

第一に、「古る・旧る」(自動詞・上二段): a時がたって物や機能が老朽化する。b年をとる。老いる。c感慨などが時を経て薄くなる。d長年、物事が幾度も行われて、新鮮味がなくなる。

第二に、「降る」(四段活用):a雨・雪などが空から落ちてくる。霜などがおりる。b雨が降るのと同じように、細かいものが上のほうから辺り一帯にひっきりなしに落ちてくる。c涙がとめどなく落ちる。歌では「古る」と掛詞や縁語にして用いることが多い。d霧がかかる。

第三に、「触る」(四段活用・下二段): a手とか指とかで軽く瞬間的に相手にさわる・ほんのちょっとかすめるようにさわる。(四段活用) b軽く表面に接する(下二段)。cちょっと手をつける・ほんの少し食べる。(下二段) d男女の関係をもつ。(下二段) E多く「事に触れて」の形で副詞句として用いる。ちょっとした機会ごとに(下二段) f上からの通達を、広い範囲にわたって知らせて回る。(下二段)

が、候補となると思います。

「行く」の意は、

第一に、「行く・往く」(四段活用) a今いる所から別の所へ移動する。Bある地点を通過する。通りすぎる。C時間的に進む。歳をとる。d縁ずく。E物事や心が進展する。(事が進む。快い気持ちになる・満足する。合点する。損または得をする)

第二に、補助動詞的な用法。その状態が続く、その程度が進む意を表わす。

が、あります。

 

12.改めて1-1-28歌について その2  我ぞふり行く

① 五句「我ぞふり行く」において「行く」が補助動詞的な用法であるならば、動詞「ふる」の第一候補は、「古る・旧る」でしょう。

「古る・旧る」の意が、「年をとる」であるのは、作中人物だけ例外的になるはずがありませんので該当しません。また、その意が、「老いる」であるならば、一線から身を引く年に近づいたという、意を含意していても一度官人みんなに「我ぞふり行く」が該当し、もっと限定した特定の属性をもつ人物が「我」とではないか、と思います。

② そのため、春の定常的な状況を喜ぶ感情を持ちえない自分の感情を「ふり行く」(感慨などが時を経て薄くなる)と言っているというケースをも検討してみます。この場合、年齢の数え方が当時は毎年の一月一日を基準にしていたので、老人になって迎えた春の気持ちを詠んでいることになります。その気持ちは老いてきた人に一般的に生じる気持ちであり、これも定常的といえる部類に近く、また、このことを強調するならば、春の部よりも適切な部立があると思います。

春あらたまる例にあげている「ももちどりさへづる」で考えると、来年もその仲間になっていないとさえずることができません(今年ももちどりの一羽であった鳥は今年の夏以降い死んでしまえば来年ももちどりの仲間に入っていない)ので一羽の鳥の立場では来年も「さへづる」ことができるか不安が生じるところです。仲間から外れるという不安、ということが「我ぞふりゆく」という感慨になることもあると思います。しかし、それは今年「さへづる」仲間の鳥すべてに当てはまることであり、「我」という代名詞より、「人」という一般的な代名詞のほうが妥当な表現であると思います。

③ 「古る・旧る」の別の意を検討します。

作中人物だけ例外的に「古る・旧る」の意を、「長年、物事が幾度も行われて、新鮮味がなくなる。」意と理解すると、正月を迎えて行なわれる行事や慣習に従っている自分に新鮮味がなくなると意識したことであり、それを今この歌を詠む時点に限り、「我」が痛切に感じたとすれば、有り得る解釈です。しかし、詞書が題しらずであり、ほかの理解を否定しきることができません。また、この意味の場合の主語は「我が行動・思惟」であり、「我」では不自然です。

④ 動詞「ふる」の第二候補は、「降る」でしょう。

作中人物だけ例外的に「降る」ということであれば、その意は、歌では「古る」と掛詞や縁語にして用いることが多いという「涙がとめどなく落ちる」意が有力です。「我だけが泣く」というのは、「ももちどり(多くの人)がさへづる」に対比しているといえます。

これに対応する定常的なことは、官人の世界において春「あらたまる」ものに、春の除目がありますので、自分だけは除目にあえなかったのを嘆いている、という歌に理解が可能です。上級ではない官人(五位以下)にとり、除目は重要で注目する公事の一つです。(除目については付記1.参照)

⑤ 「あらたまる」と「ふる」とに関して、『古今和歌集』での用例をみてみます。

1-1-57歌の四句「年ふる人ぞ」を、竹岡氏は「年を経過する人間の方は」と、同五句「あらたまる」を「容姿が変わる」と現代語訳しています。

久曽神氏は四句を「年とった人は」と、同五句を「(いつしか)姿がかわったことであるよ」と現代語訳しています。

両氏とも、「ふる」を「老いる」、「あらたまる」を「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる」と理解しています。

1-1-824歌で久曽神氏は、四句「我をふるせる」を「(あの浮気者が私をおもちゃにして)見捨ててしまった」としています。

久曽神氏は、「我をふるせる」を「私を寵愛しておきながら、捨ててしまった」意としています。

「ふるせる」は、動詞「ふるす」の語幹+さ変の動詞「為(す)」の未然形+完了の助動詞「り」の連体形

であり、「ふるす」とは、飽きて見向きもしなくなる、意があります。この2首の両氏の理解は妥当なものであると思います。

⑥ 『古今和歌集』において、「公事あるいはその後の節会の際の歌」と詞書で明示している歌を確認すると、巻第七賀歌にある歌を除くと、四季の歌(巻第一~第六)では次のように、詞書からその際の歌かと推測できる歌はありますが、明示した歌はありません。

巻第一春上

1-1-4歌 二条のきさきのはるのはじめの御歌 (正月の公事・節会名の明示は詞書にない)

1-1-20歌、1-1-22歌 若菜を摘む歌 (小松引という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

1-1-21歌 親王が若菜を臣下におくる際の歌 (小松引という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

巻第四秋歌上

1-1-177歌 寛平の御時なぬかの夜、・・・ (乞巧奠という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

1-1-179歌、1-1-180歌 なぬかの日の夜よめる (乞巧奠という公事・節会に伴う歌という明示は詞書にない)

なお、寛平御時后宮歌合等の歌合は、公事という扱いの検討をしませんでした。

 

13.現代語訳の例

① 1-1-28歌の現代語訳の例を引用します。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、見るもの聞くものすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに古くなってゆくことである」(久曾神氏)

「たくさんのいろんな鳥がさえずる春は、物毎(ごと)に新しく改まるけれども、私は古くなって行くのさ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、老いを嘆く述懐の歌とし、「春になりすべてのものがよみがえる時に」「昔は新年とともに年齢を加えた」ので「一年ごとに年齢が加わるのがよけいに嘆かわしく思われる」と指摘しています。「ふり(行く)」と「もの」に特段の注記はありません。

竹岡氏は、「ふり(行く)」と「もの」に特段の注記をしていません。「この歌の主題は老いを嘆く述懐で、むしろ雑の部にいれるのが適当な歌ともいえる。」と指摘し、小島憲之氏に「人事と物との間に生じる「すきま」を詠む漢詩あり」との指摘があることを、紹介しています。(付記2.参照)

萬葉集』には「嘆旧」と題して「ふゆすぎて はるしきたれば としつきは あらたなれども ひとはふりゆく(万葉仮名は「人者旧去」)(2-1-1888歌)があります。

この歌も「人は老いる」という常識を詠った歌ではありません。(付記3.参照)

② 「ふり行く」は、両氏とも、加齢・老いる、の意です。「あらたまる」を 久曾神氏「よみがえる」、竹岡氏は「新しく改まる」、としています。「あらたまる」と「ふり行く(あるいはふる)」を対比して詠っているとすると、「再生」するか、しないか、ということにとれます。

③ 「さへづる」ももちどりに、春の除目で役職を得た官人たちとその官人の一族の人々を掛けているとすると、それぞれの役職から言えば人が替わるのが除目であるので、「ものあらたまる」という言い方ができます。名詞「物」には、「個別の事物を明示しないで一般化している場合」の意のほか、「普通のもの。世間一般の事物」とか「出向いて行くべき所」の意もあります(『例解古語辞典』)。

役職には全員が就けない状態(平時のポストでは当然ながら競争を求めるのが組織の原則です)なので、選ばれた官人とそうでない官人が毎年生じています。

つまり、「さへづるとり」の仲間に入れない者が必ずいます。この歌の五句にある「我」とは、今年も除目に与れないもの、という限定ができます。この歌は、巻第一春部上に配列すべき歌であり、題しらずよみ人しらずであっても、「我」の範囲を「我」の持っている属性から官人の一部に限ることが、このようにできました。

 

14.1-1-28歌を現代語訳すると

① 初句から2句にある「ももちどりさへづる春」とは、ここまでの歌と同様に、「春の喜びを唄っている鳥のいる春」を表現しています。これは毎年繰り返されることです。

② 「あらたまる」とは、「新しいものと入れ替わる。かわって新しくなる」意です。

「物(ごとに)あらたまる」の「物」は、「新しいものと入れ替わったり、かわって新しくなる」というのが毎年の習いになっているものを、指しています。春になり「あらたまる」例として、作中人物は、文Aの主語「春」を修飾する「ももちどりさへづる」をあげている、と見られます。「物」の一例は、「鳥たち」であり、春になり「さへづる」状況が、冬とは違っており、毎年必ずそうなっているのは、個々の鳥は毎年同じではないけれど、鳥が「さへづる」状況に変わるのは、毎年のことである、という認識を、作中人物はしているとみることができます。「物(ごとに)あらたまる」とは、「物」の春の形態ともいえます。

生物学的に正しいかどうかではなく、春はそういうものだ、という認識の一例を示しているのが「ももちどりさへづる春」であり、それは「「物(ごとに)あらたまる」の一例です。

③ 「ふり行く」とは、「古りゆく」に「降りゆく」を掛けています。その意は、「感慨などが時を経て薄くなる。(春を喜ぶ気持ちが薄らいできている)意に、「涙がとめどなく落ちる」意が掛かっていることになります。

後者の場合、「我だけが泣く」というのは、「ももちどり(多くの人)がさへづる」のに対比していることになります。

④ 三句「ものごとに」の「ごと(毎)」とは、体言にも付く接尾語であり、例外のない意を表わしていますので、春の除目を念頭におくと、「ものごとに」とは、「もののどれもに」の意となり、個々のものの違いは問わず「共通の仕方ですべてのものに」ということになるので、適材適所という人事の原則に従い各役職の担当者が(あらたまる)という理解ができます。なお接続助詞の「ごとに」は活用語の連体形に付くので、ここではその意でありません。

このように、題しらずの歌ですが、この歌は、官人として春の除目をも念頭に詠んだ歌としても理解が可能です。

⑤ 春の除目を念頭におき、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、ものはすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに感激が薄らいでゆくし、そして涙がとめどなくおちる。(たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、勤めるべき部署ごとに人が替わるけれど、私だけは、今年もはずれ涙がとめどなく落ちることだ。)」

 

15.春すすむ歌群をみる

① 上記のような現代語訳(試案)でも、この歌の所属する歌群(春すすむ歌群)の歌として違和感はありません。「我」という限定は、春の除目に期待をして叶わなかった人ということになります。「我」と詠うことの意味が十分あります。1-1-28歌の疑問は解けました。

② それならば、1-1-28歌と同様にこの歌が所属する歌群全体で、春の除目を意識したという理解が可能かどうか確認してみました。

③ 公事として、春の人事関係には、正月の5日叙位議事、8日女叙位事、18日除目があります。そのための宮中での会議に加わるべく参内する人がいます。官人は議事の進捗に期待を込めて見守って状況です。

1-1-23歌は、参内する人々の衣服を描写している、という見立てが可能です。

1-1-24歌から1-1-25歌は、服の色が濃くなるのをたとえています。同じ色でも浅い色から深い色になるのは官位が上がる(官位相当と定められた役職を得る)ことです。そして1-1-26歌は、そうではなかったことを暗喩しているという見立てが可能です。

1-1-27歌は具体の除目にあった(新たな役職を得た)場合であり、1-1-28歌は、(既に検討したように)除目にあえない場合の歌です。

1-1-29歌は、春の除目にあった官人とその家族の喜びを、1-1-30歌は、春の除目にあい、無事任を終え都にもどることになった友人に祝意をおくる、という見立てです。

古今和歌集』編纂者は、梅と桜の景のない歌群を用いてこのような理解が可能な歌を配列している、と言えます(秋の除目に関しては未確認です)。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

類似歌は、古今集にある1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

         いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

(2019/9/23   上村 朋)

付記1.除目その他の公事などについて

① 公事とは、公務であり、朝廷の政務や儀式をいう。節会が必須のものもあるものもある。

② 除目とは、大臣以外の中央官ならびに地方官を任命する儀式をいう。「除」とは宮殿の階段の意。階段を昇る意から官を拝すること。「目」とは書のこと。(定期には)主として地方官(外官)を任ずる春の県召(あがためし)除目と、主として中央官(京官・内官)を任ずる秋の司召の除目とがある。(『岩波古語辞典』)

③ 除目は,天皇議政官(参議以上の公卿)が参加する。本人に告げる儀式も延喜式には規定されている。除目には申文などの申請書などと有資格者であることを示す勘文が必要であり、その事務は外記局蔵人所が扱った。

④ 除目に関しては、年中行事とされている特定の日を実際には守れないことが多い。

⑤ 風俗博物館(京都市)HPの「年中行事と宮廷文化のかたち」の「月次公事屏風一双」の解説より、正月の公事・節会の年中行事を引用すると、

元日  朝拝・元日節会

二日  朝観行幸

四日  蹴鞠初め

五日  叙位・千秋万歳

七日  白馬節会・人日(七草)

八日  御斎会御修法

十一日 懸召除目

十五日 御粥粥杖御薪左義長

十六日 踏歌節会

十七日 射礼

十八日 賭弓

二一日 内宴

子日  小松引

卯日  卯杖、卯槌

⑥ 上記の「小松引」とは、「子日遊(ねのひのあそび)のことで、若菜摘み・子忌ともいう。正月初子の日に催された遊宴行事。この日山に登り遠く四方を望めば、邪気をはらい憂悩を除くとする中国の風習に拠るとされるが、その根底には、わが国の春の野遊の習俗が存した。行事の内容は、小松引きと若菜摘みとがあり、この若菜を長上者に贈り、羹(あつもの)にして長寿を祝った。この日、宮中では宴会が行われ子日宴と称した。ほかの節会などと同様に宴会行事として、奈良時代から催されていた。

『和訓栞』:「正月初の子日を根延(ねのび)によせて、根ごめにするなるべし。小松も又小松の義なるべし」

⑦ 節会(せちえ)とは、節句(季節の変わり目などの祝い日)、または公事のある日、天皇が宮中に廷臣を集めて、酒宴を催す行事。立后などに伴う臨時のものもあるが、定例で五節会と言われたのは次のもの。

元日節会:正月一日 (朝賀の後に正殿である紫宸殿において宴を賜る)

白馬節会:正月七日

踏歌節会:正月十六日

端午節会:五月五日

豊明(とよのかり)節会:十一月の新嘗祭翌日の辰の日(

例えば、片桐洋一氏によれば、新嘗祭の場合は、その翌日の11月中の辰の日に豊楽殿で行われる「直会(なおらい)が、豊明(とよのかり)節会。神事の後、斎戒(ものいみ)を解いて平常に復するために大いに酒食するという行事。天皇が新穀を摂り、群臣にも賜った後、白酒(しろき)・黒酒(くろき)を飲む。芸能の方も、田舞、久米舞、古志舞、倭舞の後、五節の舞が行われる。(『古今和歌集全評釈』(講談社1998/2))

 

付記2.関連ある漢詩と言われる例

① 年々歳々花相似 歳々年々人不同   (劉希夷  代白頭吟)

② 容鬢新年々異 春華歳々同   (駱賓王  疇昔篇)

③ 年々歳々花相似 歳々年々人不同   (賈曾  有所思)

 

付記3.『萬葉集』2-1-1888歌について

① 土屋文明氏は、つぎのように指摘している(『萬葉集私注』)。

② 大意は「冬が過ぎ、春が来れば、年や月は、又新しくなるが、吾が思ふ人は古くなって行く。」

③ 題詞の「嘆舊」は、編者の分類か、さうした題を設けての製作か明らかでないが、後者か。「舊」は故舊の意でムカシナジミを言ふ。「老」と混同しては作意を得がたい。

④ 五句にある「人」とは、一般人間ではなく、特定の、作者のムカシナジミとみなければならぬ。馴れ親しんで来た愛人の、いよいよ老いて行くのを嘆いたので、相聞に通ずる心持である。年と共に人は老いて行くといふ、常識を歌ったのではない。

(付記終り    2019/9/23   上村 朋)