前回(2019/7/1)、 「猿丸集第46歌その5 まめなれど」と題して記しました。
今回、「猿丸集第46歌その6 あしけくもなし」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第45歌 3-4-46歌とその類似歌
① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-46歌 人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に
まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし
その類似歌 古今集にある1-1-1052歌 題しらず よみ人しらず
まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句で2文字と、詞書が、異なります。
③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。
2.~19.承前
(猿丸集第46歌の類似歌を先に検討した結果、類似歌は、古今集巻第十九にある誹諧歌(ひかいか)という部立の歌に相応しい歌であり、その部立のうちにある恋の歌群に配列されたており、「離れゆく恋」(久曾神氏)の歌、あるいは破局の一歩手前の歌と理解できた。)
20.類似歌の現代語訳(試案)
① 類似歌(1-1-1052歌)について、これまでの検討により、次のような現代語訳(試案)を得ました。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第46歌その5 まめなれど」(2019/7/1付け)の「18.⑤」参照))
「私は誠意を尽くしていると言われているけれど、それでよかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも誠意をみせてくれるよい人なのだ(信頼が薄らぐことなど私にはない。)」(上村 朋)
② その後再考しました。
「まめ」と言ってくれている人は、この歌の当事者の一方であろう、と推測します。そして、「まめ」とは、「まじめ」の意のほか「健康・丈夫」の意もあるので、この二つの意を掛け(同音異義を利用して)当事者の一方は言っているのかもしれません。イントネーションやその時の表情によっては微妙なニュアンスが加わります。「あしけくもなし」も同様に口頭で言われると微妙なニュアンスをも読み取る人がいるでしょう。
この上ではそのほか上記(試案)の五句「あしけくもなし」相当部分には、初句と二句における反語の意がある(その意を補うほうがよい)、と推測しました。五句は、もっと素直に、「それでも悪い人ではない(私ももっと尽そう)」、と訂正します。
③ 改めて現代語訳を試みます。
「(あなたに)丈夫でまじめでと言われているけれど、今まで本当によかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも悪い人ではない(私ももっと尽くそう)。」
④ この類似歌は、初句に引用文をおき、4つの基本的な文よりなり、2カ所で用いた接続助詞「ど」を軸にした対句形式になっています。この歌は、世の中の規範とその適用(の強要)がおかしいと詠っているのではなく、女性が反省し、相手に自分の誠意を直情的に口語的に訴えている歌です。
⑤ 詞書は「題しらず」であり、歌の理解に特段の役割をもっていませんでしたが、この歌が記載されている『古今和歌集』の部立と歌の配列から歌の背景は十分推測でき、文の主語も明確になりました。
⑥ この類似歌は、初句「まめなれど」の意が一つに絞れ、二句にある「なにぞ」の理解がポイントとなる歌でした。
21.3-4-46歌の詞書の検討
① 3-4-46歌を、まず詞書から検討します。
② 詞書について、主語述語が対応している語句のひとかたまりが一つ以上あれば、それを一つの文と数えると、次のとおり。
文 1:人のいみじうあだなる
文 2:とのみいひて、
文 3:さらにこころいれぬけしきなりければ、
文 4:我もなにかはとけひきてありければ、
文 5:女のうらみたりける
文.6:返事に
③ 文 1は、文 2の最初にある助詞「と」により、後半部が引用文であることが分ります。詞書の出だしにある代名詞「ひと」は、特定の人物を念頭においた言い方の「人」であり、「いみじうあだなる」という引用文を言った人を指します。全文を引用文とみなくともよいと思います。
このため、文 1の主語は、「人」であり、 述語は明記されていない「いふ」です。「人」が、具体的には誰なのかは、以下の文から推測することになります。
なお、引用文「いみじうあだなる」の主語は明記されていない「貴方」であり述語は「あだなり」です。
文 2の主語は、明記されていない「引用文を言った人」です。主要な述語部は「いふ」です。「引用文を言った人」とはこのあとの文より推測することになります。
文 3の主語は、「引用文を言った人」であり、主要な述語部は「(けしき)なりけり」です。
文 4の主語は、「我」であり、主要な述語部は「ありけり」です。
文 5の主語は、「女」であり、述語部は「うらみたりけり」となります。最後の語句は助動詞「けり」の連体形であるので、この文全体で、ある名詞句を修飾しているはずです。その連体形であることを重視すれば、その名詞句は、明記されていない「「女」の手紙」であろうと思います。そうすると、文 5は、主語述語の区分のない単なる名詞句とみて、文 6の一部とみなしたほうがよい、ということになります。それを文 6’とします。
文 6及び文 6’の主語は、明記されていないこの歌の「作者」であり、文 4における「我」と同じです。主要な述語部は、明記されていない動詞部であり(例として現代語訳で示すと)「記す」です。
④ このような5つの文からなる詞書全体を通読すると、文 3までは、一人の女性の言動を述べています。そしてその女性は、文 4の「我」にそれまで親かったところの「引用文を言った女性」です。
文 4以下は、男である「我」(この歌の作者でもある)の言動を述べています。
⑤ 語句を順に追い、詞書の文意を検討します。
文 1にある「あだ」(徒)とは、「(人の心、命や花などについて)移ろいやすく頼みがたい。はかなく心もとない」または「粗略である。無益である。」の意です。(『例解古語辞典』以下も原則同じ)
文 1は、詞書の書き出しなので、代名詞をそのまま生かし、
「ある人が「(あなたは)大変な移り気で頼みがたい(人ですね)」
の意となります。
文 2は、「そのある人はそれだけ言って」の意となります。
文 3の述語「(けしき)なりけり」の「なり」は体言に付く断定の助動詞「なり」の已然形であり、それに付いている最後の語句「ば」は、文 4にのべられている行動につながるので、「あとに述べる事がらの起こった原因・理由を表わす」接続助詞のはずです。はっきりとした原因を指しています。
文 4の述語部の「ありけり」の「あり」はラ変動詞であり、ここでは「(時が)たつ」の意であり、その已然形に付く最後の語句「ば」の意は、文 3の「ば」と同じです。
⑥ 文 4にある「なにかは」とは、連語です。この語句は、歌の二句にも用いられています。
連語「なにかは」の意は、「何が・・・か」、「何を・・・か」または「どうして・・・か」の意です。
「なにかはとけ」の「とけ」は下二段の動詞「解く」の連用形であり、「A結ばれているものが、ほどける。解ける。B解任になる。Cわだかまりがなくなる。うちとける。」の意があります。それは相対的に短時間の作用をさす動詞と思われます。
四段活用の動詞「ひく」には、「引く」と「退く」があり、前者は、「A力を入れて、自分のほうへひく。B引きずる。Cその方へ向けさせる。引き付ける。D長く、またはひろく伸ばす。」意、後者は、「後へさがる。しりぞく。」意があります。それは短時間の作用をさす動詞とも相対的に時間が継続する作用をさす動詞でもあると思われます。
「とけひく」と連語的な語句として『例解古語辞典』は立項していません。
そのため、文 4は、「なにかはとけ」そして「ひきて」そして「ありければ」と理解することとします。
文 4は、連語「何かは」の意により3案があることになります。
1案 私も、結ばれている何がほどけるのか、それを引きずってそのままにしておいたらば
2案 私も、結ばれている何をほどけるのか(あるいはほどくのか)、それを引きずってそのままにしておいたらば
3案a 私も、どうして結ばれているものがほどけるのかと、それを引きずってそのままにしておいたらば
3案b 私も、どうして解任になるのか(遠ざけられたのか)と、それを引きずってそのままできたところ
比較すると、二人の仲は既知のことですからほどける理由を問う3案のa,bという理解の方向が妥当である、と思います。
⑦ 詞書全文の現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「ある人が「(あなたは)大変な移り気で頼みがたい」と、それだけ言って、それから全然私に心を向けていない様子なので、私もどうして遠ざけられたのかという思いを引きずって、そのまま時を過ごしてしまっていたところ、その女が、恨みごとを言ってきた。その返事に(付した歌)。」
⑧ この詞書から、次のことが指摘できます。
第一 この歌は、男が、督促してきた女に返事をした歌である。
第二 「いみじうあだなり」と女から非難され、また、「うらみたる」便りが男にあった。
第三 「うらみたる」とは、前回言ってきた時と同じ「いみじうあだなり」という論をベースにしたものであるらしい(今までの態度を謝罪している便りではないようである)。
第四 男の返事の趣旨は、元の仲に戻るのか、あるいはこの際きっぱり拒否したのであろう。
第五 当時の恋に関する贈答歌の返歌は、おくられた手紙あるいは歌の一部の語句を詠み込むのが常套的な作詠方法であり、この歌は、非難されたことを詠み込んでいると予想する。
⑨ 鈴木宏子氏は、詞書について、つぎのように指摘しています(『和歌文学大系18』(1998)『猿丸集』(鈴木宏子校注)。
A 「さらに・・・ければ」とは、「一向に気に入らない様子」
B 「なにかは・・・ければ」とは、「未詳。女がなびかないのに対抗してしらんぷりをきめこむことか」
22.3-4-46歌の文章構成など
① 鈴木氏は、二句を「なにかはをけく」で校注し、その歌意を、「真面目にしていても何の良いことがあろうか。好き放題にしていても格別悪いこともない。」としています。
鈴木氏は、「かるかやの」は、刈り取ったかやは乱れやすいことから「乱」にかかる枕詞としています。
② 最初に、歌の文章構成を、類似歌同様に確認しておきます。
主語述語が対応している語句のひとかたまりが一組以上あれば、それを一つの文と数え、また二句にある「て」を接続語と理解すると、類似歌と同じくこの歌には4つの基本の文(下記A,B,C,D)があります。
そして類似歌同様に、主語が分りにくい文ばかりです。
類似歌と語句の上で異なるのは、類似歌は接続助詞が「ど」の1種であったが、この歌は、初句と四句にある「ど」と二句と四句にある接続助詞「て」の2種あることです。前者は、確定逆接の意の助詞ですが、後者は、連用修飾語をつくる場合がおおもとで、原因・理由や断りの役割をもつ接続語をつくる場合もあるという接続助詞です。
もうひとつ、二句にある係助詞が替わっていることです。類似歌中の連語にある「ぞ」が、この歌では連語の「か」となっており、その意がだいぶ違います。
③ 主語を予想しながら、この歌を各文に分けると、つぎのようになります。
文 A:(初句) 「まめなれど」 (類似歌1-1-1052歌と同文)
主語は不明であり、述語は「まめなり」あるいは「なり」と予想する。
また、「まめなり」が引用文かどうかは、類似歌同様この文だけでは不明です。
文 B:(二句) 「なにかはよけて」 (類似歌は「なにぞはよけく」)
主語は「なに」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「よけ」(避ける意の動詞「よく」の連用形)と予想する。
文 C:(三句と四句) 「かるかやのみだれてあれど」 (類似歌と同文)
主語は、「かるかや」または、類似歌と同じように明記されていない「(世のなかの)人」(特定の人の場合も有り)です。鈴木氏は、「かるかやの」を枕詞としていますから、主語は、明記されていない「かるかやのようにみだれる(こともある、世のなかの)人(特定の人の可能性あり)」としていると推測できます。
述語の主要部は「あり」と思われます。なお、このブログでは、用いられている語句は枕詞でも序詞でもその歌の意に特に必要な語句(有意のもの)であるとして検討しています。
文 D:(五句) 「あしけくもなし」 (類似歌と同文)
主語は接尾語「く」がついた「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「なし」と思われる。
④ さらに、確定逆接の接続助詞「ど」の役割に、「ど」の前の事がらと後の事がらに密接な関係があることを話者自身は認めている(前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第46歌・・・」(2019/7/1付け)の「13.③」参照))ことの示唆があるので、この歌は、「ど」によってまとまる文ではないか、と予想します。
例えば、
例1) 初句「まめなれど」の結果が二句「なにかはよけて」であり、三句と四句「かるかやのみだれてあれど」の結果を五句「あしけくもなし」と言う文から成る、とみるケース
その文に用いられている助詞「ど」・「て」を添えて表記すると、この歌は、二つの文にまとまり、
一首全体=《文 A(ど)+文 B(て)》+《(文 C(て+ど)+文 D》とみるものです。
類似歌(接続助詞「て」は無し)がこのケースに該当します。しかしながら、二つのまとまった文にそれぞれ助詞「ど」と「て」があるものの、その順番が、前の文章と後の文章で逆転しています。
例2) ふたつの「ど」の前の事がらにかかる後の事がらは五句である、とみるケース
この歌は、一首全体=《(文 A(ど)》+《(文 B(て)+文 C(て+ど)》+文 Dとみるものです。
このケースは、助詞「て」が並列されていることを重視したうえで、助詞「ど」を考慮したものです。「・・・ど、・・・ど」と繰り返し、その二つの「ど」のそれぞれ後にのべる事がらは、同じ表現ができることであるからと文 Aの「ど」の後におくべき「あしけくもなし」は割愛してしている、とみるものです。例1)における助詞「ど」と「て」の連用への理解の別の1案です。
例3) ひとつの「ど」は前の事がらに対して必ず後の事がらが示されるが、一首全体はその歌にとり重要なひとつの「ど」による、とみるケース
この歌は、例えば、五句の直近の(「四句」にある)「ど」を重要とみて、一首全体=《《(文 A(ど)+文 B)(て)》+文 C(て+ど)》+文 Dと一部が入れ子となっているとみるものです。
⑤ 類似歌との比較をこの歌の4つの基本の文ですると、次の点を指摘できます。
第一 類似歌同様に各文は、ほとんど主語を割愛している。
第二 二つの接続助詞「ど」の前の事がら、即ち、初句「まめなれど」と三句と四句「かるかやのみだれてあれど」(文Aと文C)に、「まめ」と「みだれ」の対比があり、それは類似歌と同じである。
第三 二つの接続助詞「ど」の後の事がらが、接続助詞「て」により(類似歌と違って)、対となる語句の有無が一見不明である。
第四 類似歌の五句は、相手(男)に対する作者(女性)の評価であった。同様な構図とみれば、この歌の五句も相手に対する作者の評価となる。
第五 この歌にのみ詞書がある。類似歌とちがい、詞書から上記「21.⑧」のようなに色々な情報が明らかになっている。
⑥ 句ごとの検討等を以下に行っていますが、一首全体に試みた現代語訳は下記「24.」に記します。
23.3-4-46歌の検討その1 句ごとに現代語訳を試みると
① それでは、歌の各句の意を、順に、検討します。
② 初句「まめなれど」とは、「22.③」で予想したように主語が不明の文です。しかしながら、類似歌の初句と同じ語句であるので、その検討結果を踏襲すれば、次の2案となります。また、この歌の詞書から、この歌は女におくる男の歌であるのが明らかであることからも、この2案は妥当であり、「まめ」は形容動詞の語幹であり、その意を、「まじめ」と「健康・丈夫」に限定してよいと思います。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第46歌その5 まめなれど」(2019/7/1付け)の「15.①~③」参照)
第一 全て作中人物の言:形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」:「私か誰かは、当人は「まめ」と思っているけれど」 (以下A-1案と称します。)
第二 他人の言の引用を含む:「名詞句「まめなり」を引用したうえの已然形+確定逆接の接続助詞「ど」:「私か誰かは、「まめ」と言われているけれど」 (以下A-2案と称します。)
「私か誰か」は、二句以下の文と詞書から推測することになります。
なお、「まめなり」と評価する者を明確にする必要は、恋の贈答歌の返歌であれば、あまりない、と思います。この歌では、今後の交際を拒否すると詠うにしても元の仲になろうと詠うにしても、相手が自分を非難してきていたという経緯を相手に思い出させれば十分であるからです。だから、初句を、「私か誰かは、・・・だけれど」(A-A案)という程度にくくって検討することも可能です。
③ 二句は、類似歌の二句と異なり、「なにかはよけて」とあります。この文には、詞書にある「なにかは」と言う語句が用いられています。
この文は、連語「何かは」+動詞「よく」の連用形+接続助詞「て」
となります。
連語「なにかは」は、詞書の検討(上記21.⑥)でも触れました。連語「何かは」の意が詞書では「どうして・・・か」でした。
動詞「よく」(避く)とは、下二段活用で、よける。さける意です。四段活用でも意は同じです。
接続助詞「て」は、連用修飾語をつくるのがおおもとであり、基本的に現代語の「て」と変わらない(『例か古語辞典』以下原則同じ)そうです。連用修飾語をつくる場合は「の状態で」の意とみることができます。
そのほか接続語をつくる場合があり、「それで、そのため、という気持で、あとにのべる事がらの原因・理由などをのべたり、それでいて、そのくせなどの気持ちで、一応の断りをする意」があります。
連語「なにかは」の意が3つありますので、二句の意を機械的に記すと、
第一a 何がさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)
第一b 何がさけるか、ということでそのくせ
第二a 何をさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)
第二b 何をさけるか、ということでそのくせ
第三a どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)
第三b どうしてさけるか、ということでそのくせ
となります。
この句において「なにかは」が、詞書における「なにかは」と同じ意で用いられているとすると、二句の意は、上記第三(aまたはb)となります。それを第一候補として検討をすすめます。
④ さて、二句(文 B)の主語は、「22.③」に予想したように、候補が二つありました。
主語が「なに」の場合を最初に検討します。
「なにかはよけて」の意は、この場合、上記③の第一(aまたはb) に該当しますので、詞書における「なにかは」の意と異なります。
次に、二句の主語が、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」の場合を検討します。
「なにかはよけて」の意は、この場合、詞書の場合と同じように上記②の第三(aまたは第三b)の何れかに理解することが可能です。このため、二句の主語は、「それ」であり、例えば(「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」」が候補となります。即ち、
第三aa (「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」は、どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる) (B-1案)
第三bb (「まめなる」と称する状態にある)「私か誰か」は、どうしてさけるか、ということでそのくせ
(B-2案)
どちらにしても、何をさけるのかは、不明のままです。恋の贈答歌なので、「相手の女」あるいは「相手の女が知るきっかけとなる)噂が立つこと」を避ける意ではないか、と思います。「女性側からのアプローチ」を避ける意であるかもしれませんが、返歌の相手のため努力をした意を詠っていると、理解してよい、と思います
⑤ 次に、三句と四句の「かるかやのみだれてあれど」は、類似歌と同文です。なお、動詞「みだる」は、下二段活用の動詞として、次の意があります。
A (秩序が)乱れる
B (心が)乱れる・思い悩む
C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ
類似歌の検討結果が適用できるとすると、前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」(2019/7/1付け)の「17.」)が参考となります。
第一 「かるかや」は、名詞「刈茅」であり二つの意があります。即ち、「屋根をふくために刈り取ったカヤ」(葺く前に敷き広げられるカヤ)の意と、「秋草の七草の一つのカヤ類の一種」(秋の風に乱れてしまうカヤ)の意です。
第二 「みだる」は、そのカヤの状態の描写であり得ます、その意は、上記の「A (秩序が)乱れる」に相当します。
第三 この歌において、「まめなり」と「みだる」が対比されて用いられているならば、ペアの語としての語意は、類似歌と同様に、人物評価となり、「まめなり」は、「まじめなようす・実直である」と理解し、「みだる」は、「(礼儀・態度が)乱れる・たるむ」の組み合わせが、恋の歌群の歌として第一番目の選択であろう、と思います。「かるかや」という植物が主語であっても、この意を掛けていることも当然考えられます。
第四 カヤが乱れる状況は一時的であるので、相手の人は本来誠実であると作中人物が思っている意も込めることができます。
⑥ さて、「22.③」に予想したように、主語の候補が二つあります。
「かるかや」が文 Cの主語の場合、恋の歌ですから人物評価の意を掛けている、とみます。
「カヤは一時乱れている状態になるけれど(そのように、もしも男であれば、一時「乱れて」いても)」
(C-1案)
次に、文 Cの主語が、明記されていない「(世のなかの)人」の場合を、検討します。
「(世のなかの)人」がたまたま(あるいはある時期)「かるかやがみだれ」ているのに喩えるような状況になることはあり得ます。
このため、文 Cは、
「カヤに乱れるときがあるように、(世のなかの)人、即ち作者である男は、一時(礼儀・態度が)乱れるあるいはたるむけれども」 (C-2案)
の意となります。
⑦ 次に、五句(文 D)を検討します。類似歌と同文です。
助詞「も」は係助詞であり、類似の事態をとりたてる用法があります。五句(文 D「あしけくもなし」)には、その類似の事態が明記されていません。
「22.③」に予想したように、主語の候補が二つあります。類似歌の検討結果(前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」(2019/7/1付け)の「17.⑤」など)を参考にすると、
主語が、「あしけく(ということ)」(「悪しきこと」の意)の場合、
「悪いということも、ない。」 (D-1案)
主語が「明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」の場合、C-1案の主語に応じて2案があります。
C-1案+「それも悪いということもない」、即ち、
「カヤは一時乱れている状態になるけれど(そのように、もしも男であれば、一時「乱れて」いても)」それも悪いということもない。」 (D-21案)
C-2案+「それも悪いということもない」、即ち、
「カヤに乱れるときがあるように、(世のなかの)人、即ち作者である男は、一時(礼儀・態度が)乱れるあるいはたるむけれども、それも悪いことでもない。」 (D-22案)
(このように、類似歌と同様に、五句は、四句との関係ではその意は変らないとみられます。)
24.3-4-46歌の検討その2 詞書のもとで現代語訳を試みると、
① この歌は、詞書から上記「21.⑧」にもまとめたように、「いみじうあだなり」と女から非難され、そのままほっておいたら、「うらみたる」便りがあったので、返歌している歌です。返歌としてその非難を前提にして「まめなれど」と詠い出しています。すぐ反論(返歌)しないから、再度言い募ってきたという状況です。
② このような返歌は、通常男の立場では、もう拒否するならば無視を続けるでしょう。仲を戻すならば、時間を置いたことに余儀ないことが原因であると主張したり、非が自分に少ないことを訴えるたりするのがよくあるパターンです。
③ 基本の文ごとの検討結果を、主語別に整理すると、次の表のようになります。
表 文 A~Dの主語別整理
主語 |
私か誰か |
私か誰か |
カヤ |
それ |
文 A (初句) |
A-1案 |
A-2案 |
該当なし |
該当なし |
文 B (二句) |
B-1案 B-2案 |
B-1案 B-2案 |
該当なし |
該当なし |
文 C (三句と四句) |
C-2案 |
C-2案 |
C-1案 |
該当なし |
文 D (五句) |
|
|
|
D-1案 D-21案 D-22案 |
③ カヤは、「私か誰か」の比喩でもあることがはっきりしているので、文 A~文 Cの主語と、文 Dの
主語の違いは、文 A~文 Cと文 Dが別の文であることを示唆しています。
これは、歌の文章構成が「22.④」で検討した例2)や例3)に相当することになります。
④ ここで主語「私と誰か」の絞り込みをしてみます。文 A~文 Cの主語は同一人物のはずなので、この歌が恋の贈答歌であることから「私」即ち「作者である男」になります。主語がカヤの文も比喩的に「私」についてのべています。
類似歌は、二句にある接続助詞「ど」を含む「文 Aと文 B」は、作者(女性)のことを、四句にある接続助詞「ど」を含む「文 Cと文 D」は相手のことを詠っていました。
この歌(3-4-46歌)は二句にある接続助詞「ど」を含む「文 Aと文 B」は、作者(男性)のことを、四句にある接続助詞「ど」のある「文 C」も作者(男性)のことを詠っていますが、文 Dは別の文ですので、要検討です。
⑤ 今この歌を表の最左欄の文の組み合わせで検討してみます。また、文 BはB-1案の、文 DはD-1案とします。
文 A:「私自身は「まめ」と思っているけれど」
文 B:(「まめなる」と称する状態にある)私は、どうしてさけるか、という状態で(修飾している語にかかる)
文 C:「カヤに乱れるときがあるように、私は、一時乱れたけれども」
文 D:「悪いということも、ない。」 (D-1案)
この歌を読むとき、文 Cと文 Dのあいだで一息ついても良い、と思います。「まめ」を、誉め言葉として目の前で「まじめ」の意で言ってくれても、聞いた者には、話し手の表情、イントネーション、周囲の者の反応などと聞いた者の感性により、「実直」、「相談してきたらはまり込んでしまう生真面目」、あるいは「惜しまない丈夫さ」などを冷徹に指摘しているかに聞こえてしまう場合もあります。そんなニュアンスは書き言葉にすると、難しいところがあります。
この歌の作者で男も同じ悩みを持ちつつ詠ったのだと思います。恋の返歌なので書き言葉という点をあるいは利用しているかもしれません。
主語がない文なので、文 Dの主語は、文 Cまでの主語と異ってもよいし、同じで文が続いてもよい、と理解できます。異なる主語であれば、返歌する相手の女性が候補となります。
そうすると、この歌の趣旨は、文 Dの主語が異なる場合、
「「まめ」な私が、誘惑に負けちょっと浮気したけれど、それは(私が悪いだけであって)貴方も悪いということではない。」(貴方に不満で浮気をしたのではない)
また、文 Dの主語が文 Cまでの主語と同じ場合、
「「まめ」な私が、誘惑に負けちょっと浮気したけれど、そこまででそんなに悪いことではないでしょうよ(私は)。」
となります。
どうも作者は恋の贈答歌を楽しむべく、歌の理解が1案になるように詠もうとしていないと思います。類似歌を承知していた相手の女性は、この返歌に男の機智を感じ、喜んで逢ったことでしょう。気が付かなかった相手の女性は、返歌があったのですから、とりあえず安堵したことでしょう。
⑥ 上記⑤以外の組み合わせでも、同じことが言えました。
⑦ なお、「まめなれど」と言う語句が句頭にある歌は、三代集に2首しかありません。この歌と『後撰和歌集』にある1-1-1120歌です。『新編国歌大観』より引用すると、
1-2-1120歌 女のあだなりといひければ あさつなの朝臣 (巻第十五 雑一)
まめなれどあだなはたちぬたはれじまよる白浪をぬれぎぬにきて
この歌の「まめなれど」も作中人物(作者自身)に対する評価ですが、その評価・断言している者に言及していません。作中人物は、公平な第三者の評価であるかどうかを明らかにするのを避けて、この歌をみるもの、つまり詞書にある「女」の判断に委ねています(付記1.参照)。
⑧ 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「「まじめ」な男が、どうして誘惑を退けようかという状態になり、でも刈茅が一時乱れるようなことになってしまったけど・・・(貴方は)だから悪くないよ。(「まじめ」な男が、どうして避けようか苦労したが、刈茅が乱れるような状況になってしまったけれど、そこまででそれ以上悪くもないよ。)」
この(試案)の歌の文章構成は、例2)と同じになります。
詞書から指摘したことの5事項(「21・⑧」参照)はその通りの歌でしたが、類似歌の文章構成などとの比較で指摘(「22.⑤」参照)した四番目のことは足りないところがありました。
25.この歌と類似歌とのちがい
① 詞書が違います。この歌3-4-46歌は詠んだ事情を縷々記しています。これに対して、類似歌1-1-1052歌は「題しらず」とし、編纂者は経緯不明としています。『古今和歌集』巻十九の誹諧歌(ひかいか)に配列されていることから推測する以外その事情はわかりません。それでもこの歌と類似歌の事情の違いは明確にわかりました。
② 初句「まめなれど」の「まめ」と評価している人物の性が異なります。この歌は、男性である作者であり、類似歌は女性である作者です。また、「乱れてあれど」は、この歌においては作者自身であり、類似歌は作者の相手の男性です。
③ 二句の語句がまったく異なります。この歌は「なにかはよけて」であり、類似歌は「なにぞはよけく」です。
④ 五句の意に違いがあります。この歌は、作者とその相手の二人について述べ、類似歌は、作者の相手にだけ述べています。
⑤ この結果、この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。
⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。
3-4-47歌 あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける
たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく
その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。
題しらず よみ人しらず」
たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく
この二つの歌も、趣旨が違う歌です。次回は、その類似歌より検討します。
⑥ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
(2019/7/8 上村 朋)
付記1.後撰集 1-2-1120歌について
① この1-1-1120歌は、雑部にあり、後撰集編纂者は恋部の歌と扱っていない。
② 初句「まめなれど」は、場合によっては作者が弁明のため言い出している理解も可能である。
③ 三句「たはれじま」は、「たはれ(た人の寄る・拠る)島」の意で、白浪・濡れを言い出す工夫である。
④ 動詞「たはる」(戯る・狂る)とは、「たわむれる・ふざける」「」みだらな行いをする」「心を奪われる」などの意がある(『例解古語辞典』)
(付記終る 2019/7/8 上村 朋)