わかたんかこれ 猿丸集第46歌その3 今ははつかに

前回(2019/6/3)、 「猿丸集第46歌その2 誹諧歌の巻頭歌など」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その3 今ははつかに」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第46 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う恋の歌であり、類似歌は破局寸前の女性が詠う歌です。

 

2.~6.承前

 (猿丸集第46歌の類似歌を先に検討することとし、最初に類似歌がある古今集巻第十九にある誹諧歌という部立について検討し、巻頭の歌2首と最後の歌2首で確認した。その結果は、次のとおり。

第一 『古今和歌集』が、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」を詠い、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などをしており、滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、特別に凝縮した表現のため、用語は雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向がある。

第六 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、『古今和歌集』のその他の部立に題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌のある傾向がある。)

 

7.類似歌の検討その1 配列から

① この類似歌(古今集にある1-1-1052歌)の配列からの検討を行うため、前後の各4首の歌をみてみます。すべて、「部立の誹諧歌A」に相当するはずです。今回は、そのうち直前にある歌を中心に検討します。その歌を、『新編国歌大観』より、引用します。

1-1-1048歌  題しらず      平中興

     逢ふ事の今ははつかになりぬれば夜ぶかからでは月なかりけり

1-1-1049歌  題しらず      左のおほいまうちぎみ

     もろこしのよしのの山にこもるともおくれむと思ふ我ならなくに

1-1-1050歌  題しらず      なかき

     雲はれぬあさまの山のあさましや人の心を見てこそやまめ

1-1-1051歌  題しらず      伊勢

     なにはなるながらのはしもつくるなり今はわが身をなににたとへむ

1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず   (3-4-46歌の類似歌)

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

     なにかその名の立つ事のをしからむしりてまどふは我ひとりかは

1-1-1054歌  いととなありけるをとこによそへて人のいひければ      くそ

     よそながらわが身にいとのよるといへばただいつはりにすぐばかりなり

1-1-1055歌  題しらず      さぬき

     ねぎ事をさのみききけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ

1-1-1056歌  題しらず      大輔

     なげきこる山としたかくなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける

② 織田正吉氏は、巻十九の「誹諧歌」にある恋にからむ歌は「生彩を帯び、いかにも俗謡風である」と評しています。『古今和歌集』は、恋の部に五巻あて恋の進捗順に配列しています。「誹諧歌」の恋の歌群もそのような配列となっているか確認をします。

 

8.類似歌の直前にある歌

① 類似歌の前に配列されている歌4首について、現代語訳の例又は私の試みを、順に示します。

1-1-1048歌  題しらず      平中興

「二十日になってしまうと、夜が深くなくては月がない――私の恋もそうで、逢うことが今はもうほんのちょっとになってしもうたもんだから、夜が深くなくては、逢うのに適当なとっつきがなかったなあ。」(竹岡正夫氏)」

「(この前)あなたに逢ってから二十日になりました。本当にわずかに逢えるだけですね。(今日は)二十日の月ですので明るくなるのは夜が更けてからであり、宵のうちの空に月は無く、(月を理由に訪ねることもできず、まったく)行くきっかけがないのだが(それでも訪ねますから)。(上村 朋)

この歌の同音異義の語句は、二句にある「はつか」(「二十日前」と「僅か」と「二十日の月」)及び「月」(「月」と「付き(手立て)・きっかけ」)の2語です。

竹岡氏は、「恋の歌とするにはあまりにもダジャレに走り過ぎておどけた趣になってしまい、雅致にかける。」と指摘しています。

② 同音異義の語句「つき」に俗語の「「付き(手立て)・きっかけ」を用いています。この俗語は、普通の歌ならば「すべ」と言い換えているところでしょう。

二十日前に逢った時は新月で夕方から朝まで月が空にありませんでした。今夜も月がないのに変わりありません。今夜は訪ねますよと素直な口上の挨拶歌でよいのに、「はつか」のダジャレを楽しんでいます。このように「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」をしている歌ですが、竹岡氏のいうように雅致にかけており、恋の歌としては異例な挨拶歌です。秀歌という編纂者の判断を尊重しますと、恋の部には馴染まない歌であり、「部立の誹諧歌A」の歌となります。男性の立場の歌である、と思います。

掛詞としている「はつか」に注目すれば、『古今和歌集』には、1-1-481歌があります。

1-1-481歌  題しらず     凡河内みつね

     はつかりのはつかにこゑをききしより中ぞらにのみ物を思ふかな

この歌の作者は、月のない空のもと結局逢えていますが、1-1-481歌は、何もない空をみあげて逢えないままです。

③ 1-1-1049歌  題しらず     左大臣 藤原時平

「たとい、あなたが唐国の吉野の山に籠るとしても、あとに取り残されようと思う私ではないのに」(竹岡氏)

竹岡氏は、『顕註密勘』の説を支持するとし、「とても行きにくい外国の「もろこし」、わが国では特別の聖地として行者が修行のために籠る深山幽谷である「吉野の山」、それを組み合わせて誇大におどけて言っているところに「誹諧(竹岡論)」がある。たとい日の中、水の中という調子」と指摘しています。

「誹諧(竹岡論)」とは、「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

④ この歌は『伊勢集』にもあり、伊勢の贈歌(1-1-780歌でもあります)に対する答歌に利用され、作者も枇杷左大臣藤原仲平となり、下句は「おもはむ人におくれめや」となっています。

「もろこしの吉野の山」の喩えも「特別に凝縮した表現」ですが、そもそも遣唐使も中止した時点で、女性の私費留学生という発想もない時に、このように言い出すという「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」がこの歌にあります。秀歌という編纂者の判断を尊重しますと、遣唐使中止の提起をした人物を思い出させる藤原時平を作者としているので、滑稽に紛らわせ他の部立に馴染まない短歌として「部立の誹諧歌A」相当の歌としてここに配列したのではないでしょうか(付記1.参照)。

この歌は、男の立場から、首ったけだよと詠う恋の歌ですが、その相手は既に逢ったことのある女性かどうかは不明です。前の歌1-1-1048歌と同じ恋の進捗状況時の歌とすれば、関係修復時の歌となります。

また、この歌は、1-1-780歌が本歌とする1-1-982歌に応えた歌、と思われます。恋しかったらいらっしゃい、と言う女の歌に、たとえ貴方がもろこしにいるとしても(改めて誘ってくれたのだから)ゆきますよ、と応えている歌です。宴席で披露された歌と推測します。(1-1-780歌は本歌取りして1-1-982歌の返歌とはなっていません。)

1-1-982歌  題しらず     よみ人しらず

     わがいほはみわの山もとこひしくはとぶらひきませすぎたてるかど

この1-1-982歌は、古来神詠とされる一方、宴会に歌われて来たとも言われています。

⑤ 1-1-1050歌 題しらず     なかき 

「あの人の心が、噴煙の雲の晴れない浅間山の山と同じだったとは、あさましくあきれかえってしまうなあ。あの人の心底をとくと見てとったうえで私の恋も精算しよう。」(竹岡氏)

「あの人は、噴煙の雲の晴れない浅間山のような人ですね。あきれてしまいます。それなのにまだ、よくよく話し合いもして貴方の心を思い定め冷静に判断して別れましょう、なんて思っていて。」(上村 朋)」

竹岡氏は、次の点を指摘しています。

A 恋人のことをいうのに、物凄い「雲はれぬあさまの山」に寄せるなど全く「あさまし」く、そこがおどけた「誹諧(竹岡論)」になっている。

B 和歌中の「人」の単独用例232例は「我」の意のものは一例もなく、そういう場合はすべて「自分のことを一般化して言う」(『時代別大辞典』)あるいは自分をも含む一般人の意である。

C 1-1-817歌とともに、上句が嘱目景で第三句が契点となって《情》の表現に転じる型で当時の和歌の型。その景が単に景で終わるか、あるいは下の情の具象化さらに抽象の域にまで達しているかで、景への寄せ方の優劣が決まる訳である。単に無心の序などと片付けてはならない。

D 「雲はれぬあさまの山」は「人の心」の具象化・譬喩。「人のこころ」と詠う歌(1-1-61歌など15例)はいずれも相手又は一般人の心である。1-1-817歌が参考となる。

 1-1-817歌とこの歌は、下句が同じです。

巻第十五 恋歌五   題しらず       よみ人しらず

    あらを田をあらすきかへしすきかへしても人の心を見てこそやまめ

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(竹岡氏)

なお、1-1-817歌は、3-4-48歌の類似歌なので、その時改めて検討します

⑥ この歌は、誰もコントロールなどできない噴煙あがる浅間山を、勝手気ままな相手の男に喩えています。浅間山は当時も火山活動が活発であり、これは、当時においては、このような男を喩えるのに常套的なものの捉え方と思います。

この歌に同音異義の語句があります。三句「あさましや」が掛詞であり、(上句においては)「あきれた・不快だ」の意と(下句においては)「見苦しい・恥ずかしい」意とを掛けています。「あきれた・不快だ」からすぐ別れると思いきや、まだ信頼を作者は寄せています。即ち、「勝手気ままな相手にはあきれたが」と「そんな男をまだ諦めずにいるのは見苦しいのだが」です。よみ人しらずの歌1-1-817歌を承知している作者はこの歌の下句をわが歌に引用した、と理解したのが、上記の私の現代語訳(試案)です。男を信じて止まない女の歌です。

掛け詞とした「あさまし」に相手への批判と自分への批判を重ねている「特別に凝縮した表現がある」歌です。恋歌としては「あさまし」を自分にも言っていることや、悲恋の歌ではないので、秀歌と認めた『古今和歌集』編纂者が部立の恋の部に馴染まないとして「部立の誹諧歌A」に置いたのが、この歌であろうと思います。

古今和歌集』編纂者は、この歌と1-1-817歌を対の歌ととらえている、と思います。

なお、当時有名な土地を譬喩とした歌は、『古今和歌集』にあります。例えば、

1-1-594歌  題しらず      よみ人しらず

     あづまぢのさやの中山中中になにしか人を思ひそめけむ

 初句~二句は、三句「なかなかに」の序と理解でき、三句が上にも下にも意味で繋がっているのではなさそうです。そこが、この歌(1-1-1050歌)は違います。

⑦ 1-1-1051歌  題しらず      伊勢

「(古い物の代表とされている)難波にあるあの長柄の橋でさえも新営するというじゃないの。今は、このわたしの身を何にたとえよう」(竹岡氏。「つくるなり」は「作る」+伝聞の「なり」です。)

「難波にある長柄の橋は造り直した、とこのたび聞いた。私たちの仲と同じように、たびたび手直ししてきて今回も造り直すというではないか。それなのに(これからはそんなことはない、とおっしゃる。)これから私は何にたとえればよいでしょう。(旧来の仲にもどれないのでしょうか。)」(上村 朋 「つくるなり」は「作る」+伝聞の「なり」です。)

長柄の橋は1-1-890歌に詠われるように古くからあるもの(つまり長続きしているもの、させたいもの)の代表例とされてきています。古くから本当に長い期間利用されていたとするならば、それは要路にある橋であり、(当時はまだ基礎構造をしっかり作れないので洪水に弱いから)当局が毎年修繕怠らず壊れても壊れても作り直そうとしているからです。そして、作り直しが間に合わない間はその残骸が残っていることになります。(付記2.参照)。

竹岡氏はつぎのように指摘します。

A 三句にある「つくる」は、「作る」である。仮名序の「長柄の橋もつくるなりと聞く人は」(という文)の表現は、この歌にもとづく。(この文の)「なり」は「聞く人は」から伝聞を表わすと理解できる。伝聞の「なり」は終止形に接続するのだから「つくる」は終止形。動詞「尽く」は上二段活用でその連体形は「つくる」となる。『新註国文学叢書 古今和歌集』(小西甚一 講談社1947)の説が明解である。

B (長柄橋も更新されて)この身だけが取り残されたという救いようのないあばあちゃんね、この身は、という気持(の歌)。殺風景な長柄の橋にたとえていることがおどけた誹諧(竹岡論)がある。1-1-890歌も老いを嘆くが、この歌は恋の歌として嘆いているから誹諧歌(誹諧(竹岡論)の歌)となる。

C この歌は、1-1-890歌を下敷きにした歌。つまり1-1-890歌に詠われているという伝聞であり、1051歌が詠われた頃架け替えがあったかどうかには関係ない歌。

D 『打聴』(賀茂真淵賀茂真淵全集1 古今和歌集打聴 上田秋声修訂(寛政元年刊)』)は「1-1-1050歌は、既に絶んとする中の恋歌。1051歌は「ふりはてし中を嘆く」と説く。1-1-826歌と比較せよ。1052歌は破局に陥ろうとする一歩手前の歌。

⑧ 二句にある「ながら」とは、同音異義の語句であり、「長柄」と言う橋の名と「流らふ・長らふ・永らふ」(流れ続ける・長い間継続する)の意で用いられています。

三句にある「つくるなり」とは、詞書など考慮せずこの歌の文章のみからはいくつかの理解が可能です。

即ち、

「作る(製作する・新しい形にする)の連体形+断定の助動詞なり」、

「作る(製作する・新しい形にする)の終止形+伝聞・推定の助動詞なり」、

「尽くの連体形+断定の助動詞「なり」

の意があります。どの意でも作者の伊勢をものすごく老いた女性のイメージへと誘えます。竹岡氏はそのうち「作る(製作する・新しい形にする)の終止形+伝聞・推定の助動詞なり」に限定して理解しています。

⑨  「ながらの橋」を詠う歌が、『古今和歌集』に4首あります。この歌のほかは、つぎのとおり。

1-1-826歌  題しらず     坂上これのり

     あふ事をながらのはしのながらへてこひ渡るまに年ぞへにける

1-1-890歌  題しらず     よみ人しらず

     世中にふりぬる物はつのくにのながらのはしと我となりけり

1-1-1003歌  ふるうたにくはへてたてまつれるながうた      壬生忠岑

     くれ竹の 世世のふること ・・・ かくしつつ ながらのはしの ながらえて なにはのうらに たつ浪の ・・・

この3首は、「ながらのはし」が「ながらへて在る」か「古りぬる物」と詠っています。それは、「修繕されつつ長く実用に供されてきた」か、「要路にある橋なので壊されたたらまた架け直そうとされてきている橋」を詠っています。この3首は、そのようにして今日に至っていることを形容しています。

また、五句が1-1-826歌と同様に「年ぞへにける」とある1-1-825歌で詠まれる「うぢはし(宇治橋)は、「宇治橋の中絶たる事、古記になし」と古注にあります(延喜式には、「宇治橋ノ敷板、近江国十枚、丹波国八枚、長サ各三丈、弘サ一尺三寸、厚サ八寸」とあるそうです)。だから、1-1-825歌の上句「わすらるる身をうぢはしの中たえて」とは、「忘れられているこの身の憂いことは宇治橋が(流されないで)ながくいつでも渡れるように(状態が変わらず)、仲が途絶えた状態が続きそのまま(年ぞへにける)」の意であり、宇治橋も「修繕されつつ長く実用に供されてきて今日に至っている」ことを詠っています。

それに対して、この歌(1-1-1051歌)は、何故長く使用に堪えたか、長く利用できる由縁に焦点をあてて詠み、長良橋を捉えるスタンスが全然これらの歌と違います(付記2.参照)。

竹岡氏も指摘するように、作者の伊勢は、歌にこのようにあるではないか、と詠っているのです。

 

⑩ このように、この歌は俗な言葉も用いていませんが、長柄橋の捉え方が他の歌と違い、特別に個性的な発想と言えます。そのため、三句にある「つくるなり」の「なり」が上記のいづれの理解であってもよく、さらにいづれの理解をも許している歌として、特別に凝縮した表現がある歌(序に引用した歌でなくともよい歌)の可能性を否定していません。短歌として秀歌であることを認めれば、ほかの3首と長柄橋の捉え方の違いをはっきりさせるには他の部立に馴染まない恋の歌として、「部立の誹諧歌A」におくのが相当である、と思います。

古今和歌集』の編纂者が、誹諧歌の部の恋の歌群にふさわしい、としてここに置いているのが、1-1-1051歌ですので、このように理解するのが妥当ではないかと思います。

その結果、現代語訳は、復縁を遠回しに迫る歌として、かつ序に引用した歌として上記⑨に記した2番目の現代語訳(私の試案)のほうが、よい、と思います。

また、題材に長柄橋をとった恋の歌である、巻第十五恋五にある1-1-826歌が、趣旨を対比しやすい歌である、と思います。

 

9.類似歌の直前にある歌4首のまとめ

① 1-1-1052歌は、類似歌であるので、直後の歌(1-1-10531-1-1053歌以下4首)も検討した後とします。ここまでの4首について、まとめると、つぎのとおり。

② 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を改めて整理すると、次のとおり。

1-1-1048歌 たまには逢えている男の立場の歌

1-1-1049歌 絶対逢いにゆくという男の立場の歌

1-1-1050歌 浮気ばかりしている相手を諦めきれない女の立場の歌

1-1-1051歌 復縁を婉曲に迫る歌 女の立場の歌

この4首は、作者は相手に既に逢ったことがある時点で、逢える可能性のある歌3首に続き、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌1-1-1051歌)が配列されている、とみることができます。

元資料を離れて、『古今和歌集』の編纂者恋の歌群に、このように配列している、と理解したところです。

③ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

2019/6/10     上村 朋)

付記1.藤原時平1-1-1049歌の作者)について

① 1-1-1049歌の作者「ひだりのおほうちぎみ」とは、藤原時平であり、昌泰2(899)2月より延喜9年(909薨去するまで左大臣の職にあった。その間、『日本三代実録』『延喜式』の編纂、最初の荘園整理令があり、『古今和歌集』の編纂の下命があった。

② 藤原時平は、藤原基経の長男であり、『伊勢集』でこの歌の作者になっている藤原仲平は、藤原基経の次男である。

付記2.古代の長柄橋について

① 長柄とよばれた地域を流れていた川を横断していた橋を指す。『日本後記』の嵯峨天皇弘仁3年(812)夏六月再び長柄橋を造らしむとあるが、『文徳実録』の仁寿3年(85310月条には損壊の記事がみえる。当時の橋は、川の中の島と島をつないだものだったようである。

伊勢の活躍したのは、『古今和歌集』の成立前後の時代である。要路にある長柄の橋であったが、此の頃は、(下記③の歌のように)修復に着手していない状態の橋であり、通行不能であった可能性が強い。

② 摂津の国の「歌枕」でもあるが、「ながらのはし」という語句は、「長柄の地にある(又はあった)橋ではないが」とその地名との語呂合わせ的に「ながらへて」を導き出すためにも用いられている。摂関時代以後の中世には廃されていたようで、橋柱を描く屏風絵や歌があり、橋柱が詠まれ、朽ち「尽きる」橋と詠まれる場合が一般的である。

③ 例歌)『後撰和歌集

1-2-1117歌  法皇御ぐしおろしたまひて    七条后 

人わたす事だになきをなにしかもながらのはしと身のなりぬらん

1-2-1118歌  御返し                 伊勢

ふるる身は涙の中にみゆればやながらのはしにあやまたるらん

 法皇宇多上皇)の出家は、昌泰2年(89910月。伊勢は七条后に仕えるとともに上皇の寵を受けたことがある。この2首は七条后から和歌(と多分手紙)を頂いた伊勢との間の贈答歌である。

七条后は、1-1-1117歌において、

「人を渡すことができない長柄の橋のようになぜなってしまったのだろうか(出家をされた宇多天皇のお側を離れた私は抜け殻同様です)。」 あるいは、

「今の長良橋は人を渡すことがないのに、残っている。そのような残り物に私はなってしまったようだ」、

と詠い、伊勢は、1-1-18歌において、

「いえいえ、古くなったと見えた者は、涙で曇っていたからでしょう、お后様ではなくそれは(その昔寵愛を離れた)私と見誤ったのではないでしょうか。私が古びた通行も出来ない状態で橋杭をさらしている長柄橋なのです(お后様は、そんなことはありません)。」

と返歌している。

「ながらのはし」は、「古びた長柄の橋」、「古くからある長柄の橋」に違いないが、この贈答歌2首は、通行できる状態の橋をイメージしている訳ではない。長柄の橋は、まさに「尽きている橋」の例となっている。

④ 例歌)『拾遺和歌集

1-3-468歌  天暦御時御屏風のゑに、ながらのはしばしらのわづかにのこれるかたありけるを

                                         藤原 きよただ

あしまより見ゆるながらのはしばしら昔のあとのしるべなりけり    (巻第八 雑上)

1-3-864歌  題しらず     よみ人しらず 

限なく思ひながらの橋柱思ひながらに中やたえなん       (巻第十四 恋四)

 天暦の年号使用は947~957年。村上天皇の時代である。1-3-468歌は、七条后らの歌より約60年後の作詠となる。ながらのはしの橋杭が(中州など、流水の当たらない位置にある橋脚だけが)残っている状況を詠っている。

(付記終り  2019/6/10   上村 朋)