わかたんかこれ 猿丸集第 42歌 はぎのはな

前回(2019/3/4)、 「猿丸集第41歌その4 同じ詞書の歌3首」と題して記しました。

今回、「猿丸集第42歌 はぎのはな」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第42 3-4-42歌とその類似歌

① 『猿丸集』の42番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-42歌  女のもとにやりける

はぎのはなちるらんをののつゆじもにぬれてをゆかむさよはふくとも

その類似歌  古今集にある類似歌1-1-224歌    題しらず      よみ人知らず」

萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句と二句各一文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、再会がおぼつかない男が相手の女に送った歌であり、これに対して類似歌は、確実に再会できる男が相手の女に送った歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-224歌は、古今和歌集』巻第四 秋歌上にあり、「萩と露に寄せる歌群(1-1-219歌~1-1-225歌」」の7首中の6番目に置かれている歌です。

第四 秋歌上の歌の配列の検討は、3-4-28歌の検討の際に行い、古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしていることを知りました。秋歌上では、11歌群あります(付記1.参照)。また、少なくとも春と秋の歌の配列は2首一組を単位となっていることも知りました。

② この歌群の歌は、次の7首です。

1-1-219歌  むかしあひしりて侍りける人の、秋ののにあひて物がたりしけるついでによめる  みつね

     秋はぎのふるえにさける花見れば本の心はわすれざりけり

1-1-220歌  題しらず     よみ人しらず

     あきはぎのしたば色づく今よりやひとりある人のいねがてにする

1-1-221歌  題しらず     よみ人しらず

     なきわたるかりの涙やおちつらむ物思ふやどの萩のうへのつゆ

1-1-222歌  題しらず     よみ人しらず     (左注割愛)

     萩の露玉にぬかむととればけぬよし見む人は枝ながら見よ

          ある人のいはく、この歌はならのみかどの御歌なりと

1-1-223歌  題しらず     よみ人しらず

     をりて見ばおちぞしぬべき秋はぎの枝もたわわにおけるしらつゆ

1-1-224歌  (類似歌。上記1.に記載。)

 

1-1-225歌  是貞のみこの家の歌合によめる     文屋あさやす

     秋ののにおくしらつゆは玉なれやつらぬきかくるくものいとすじ

 

③ 諸氏の現代語訳を参考に、この歌群の歌を理解すると、次のようになります。

1-1-219歌  昔馴染みの女性と秋の野でばったり出会い、話し込んだついでに詠んだ歌 大河内躬恒

「古い枝に咲いている萩の花は昔の心をわすれていないなあ。(貴方はいかが。)」

 

1-1-220歌  題しらず    よみ人しらず

「秋萩の下葉が色づくこれからは、私のような独りになっている者が寝付きにくくなる。」

(女性が作中人物)

 

1-1-221歌  題しらず    よみ人しらず

「空を鳴き渡って行く雁の涙が落ちたのだろう、それが私の家の萩の露だ。もの思いにふけっている私の涙に重なるなあ。」

 

1-1-222歌  題しらず    よみ人しらず

「萩におりた露に糸を通して紐にしようと手に取ると露は消えてしまった。仕方ない、見たい人は枝にあるがままで見てください。」

 

1-1-223歌  題しらず    よみ人しらず

「折り取ってみようとすれば露は落ちてしまうにちがいない、この秋萩にたわわにおかれている白露は。」

 

1-1-224歌 (類似歌。下記5.で検討)

 

1-1-225歌  是貞親王家の歌合のために詠んだ歌    文屋朝康

「秋の野におかれた露は玉であるからだろうか。蜘蛛が糸に貫き巣を飾っている。」(蜘蛛の巣(糸)は当時 儚いことの比喩が普通)

 

④ 1-1-225歌と一組になる歌1-1-226歌は、次のとおり。

1-1-226歌  題しらず    僧正遍照

    名にめでてをれるばかりぞをみなへし我おちにきと人にかたるな

 現代語訳の例を引用すると、

   「名前が気に入って折ったまでのことである。おみなえしよ。私が堕落してしまったなどと、他の人に語ってくれるな」(久曾神氏)

⑤ これらの歌は、(秋歌下の歌と同じく)次の表に示すように、歌群をまたがっても2首が一組となって配列されています。この歌群の歌の作中人物は(1-1-224歌は今保留します)秋萩と露の景の感慨を詠んでいる、と言えます。

なお、この歌群の前にある1-1-217歌と1-1-218歌は、共通のものが、秋はぎと鹿であり、対比が鹿の居る場所である奥山と海辺の高砂の丘となっています。

表 萩と露に寄せる歌群(1-1-219歌~1-1-225歌)の整理(付1-1-226歌)2019/3/11現在

歌のくくり

共通のもの

対比しているもの

作者の感慨

1-1-219歌&1-1-220歌

秋萩

今は一人

元の心と今の心

盛んな花と咲き終わった花

今は一人だが

1-1-221歌&1-1-222歌

萩に宿る露

儚いもの

涙と玉

便り無し(雁が涙)と便りあり(枝に着いている露)

儚いものだ

1-1-223歌&1-1-224歌

たわわな露

朝の景と夜の景

その他は保留(1-1-287歌保留のため)

(223歌は)愛でる景がある

1-1-225歌&1-1-226

秋の野

(秋を悲しむのではなく)秋を愛でる

(花が)萩と女郎花

露有りと露無し

留まると落ちる

見とれてしまった景がある

 

⑥ 類似歌1-1-224歌も、前後の歌と同様に対の歌としての可能性があります。

ちなみに、次の歌群にある1-1-227歌と1-1-228歌は、共通のものが、をみなへし(女性)であり、対比がいやな名前とむつまじく思う名、となっています。

⑦ なお、萩を詠んでいる歌は、『古今和歌集』には、この歌群のほかに、秋の歌に5首、恋の歌に1首あります。『萬葉集』には、60首以上あり、16首が相聞歌です。(付記2.参照)

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 類似歌1-1-224歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。この歌は、「題しらず よみ人しらず」の歌です。

萩の花が散っているであろう秋の野原のつゆ霜に濡れながらでも行きましょう。たとえ夜はふけようとも。」(久曾神氏)

「野原では萩の花が散り、露も冷たいことであろうが、それに濡れてでも私は野を分けてゆこう。たとえ、夜が更けてでも。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「「をの」とは「接頭語を+野」で、野原(の意)」とし、「『萬葉集2-1-2256歌は女性の歌であるが、それを男の立場に改めるとこの歌となる」、と指摘しています。

③ 『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「本来恋歌」であり、「この歌は、現在すでに夜更けなのではなく、先方に着いたころを想像して、たとえ夜が更けても、と仮定して詠んでいる」、とも指摘しています。

 

4.萬葉集2-1-2256歌について

① この歌には、2-1-2256歌がよく引き合いにだされていますので、どのような歌か確認します。

② この歌(1-1-224歌)は、『萬葉集』巻第十 古今相聞往来歌類之上」の相聞(2243歌~2315歌)にある歌で、「寄露」(2256歌~2263歌)と題詞のある歌群のなかの1首です。またこの歌群には、五句「よはふけぬとも」をこの歌と共有している歌が2首あります。

2-1-2256  寄露

あきはぎの さきちるのへの ゆふつゆに ぬれつつきませ よはふけぬとも

2-1-2261  寄露

つゆしもに ころもでぬれて いまだにも いもがりゆかな よはふけぬとも

 

後者の歌は、前者の歌と「男女所を換えた形の歌で、転化の一方式の例」(土屋文明)といえます。この歌群で「露」は、「儚い寿命」(2258歌、2260歌、2262歌)を喩えたり、光に反射するので「目立つもの」(2259歌、2263歌)に喩えたりしています。そのほかに自然現象のみを意味するとみられる例(2256歌、2257歌、2261歌)の場合は「濡れる」と関係があるようです。2-1-2256歌と2-1-2261歌は、男女が逢うことを期待している歌ですが、2-1-2257歌は、妻と一緒でないときは「露霜よ降りるな、と詠います。男女が一緒になる期待・見込みがあれば「濡れ」て良いようで、「濡れる」にどのような意味が込められているのか考えてしまいます。

2-1-2257  寄露

いろづかふ あきのつゆしも なふりそね いもがたもとを まかぬこよひは

 

また、草木を枯らす露というスタンスの歌は、この歌群にありません。

③ 2-1-2256歌は、元々は民衆歌であり、多くの者が口ずさんだ歌と推測します。文字にして相手に送るのではなく、相手側に向って披露された(謡った)歌と推測します。即ち、待ち望んでいる男が居るグループを目の前にして詠うならば、貴方を「受け入れます」という意の歌となったりする歌です。『萬葉集』の編纂者はだから相聞の歌としていますが、その歌は官人の口ずさむ歌にもなったから記憶されてきたのだと思います。宴席で座興に謡える歌として、萩が相手の女性を象徴しているのではないでしょうか。

④ 2-1-2256歌が女性の誘いの歌とすると、2-1-2261歌はその返歌の1パターン、2-1-2257歌は断る場合のパターンとして官人は利用できます。この3首はワンセットの宴席の歌になっていたのではないでしょうか。

 

5.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 古今集にある類似歌の検討に、戻ります。

この歌群で、「はぎ」と「ぬれる」という語句を用いている歌は、この類似歌1-1-224歌だけです。『萬葉集』が似たような歌を秋の相聞の部に配列しているのに対して、『古今和歌集』では四季の秋を詠う部に置き、相聞歌のイメージを消そうとしています。

② 初句「萩が花」とは、秋部に配列されている歌であるので、秋の七草のひとつである「ハギの(葉ではなく)花」、の意です。

 この類似歌1-1-224歌における「つゆじも」は、「つゆ」+「しも」であるのですが、この歌の前後をみると、「つゆ」を詠っていますので、「つゆじも」は「つゆ」を強調しているとも取れます。

この歌の前後の「つゆ」は、視覚に捉えた(鑑賞する)露を詠い、光に輝き消滅しやすいという面を詠っています。草木を枯らせるのが露であるという面は詠われていません。しかし、この歌は、「つゆ」を作中人物が外出時に草木から振り落とし草木が枯れるのを結局防いでいるのを詠ったことになります。草木を枯らせるのが露であることを詠った早い例となる歌ではないでしょうか。

 対の歌の可能性がある1-1-223歌は、上記2.②と③に記したように、秋萩にたわわに着いている露を、大事そうに詠っています。その歌と比べると、類似歌(1-1-224)は、その大事そうな露を消滅させつつ、作中人物が行くことになり、通った道がその野原に見ることが出来るようになりますので、秋の風景画にもなると思います。それは四季を描く屏風絵の秋の風景であり、愛でるべき秋の風景である、と言えます。

 この歌(1-1-224歌)が披露されたのは、どんな場面であったでしょうか。野原を横切り訪ねるなどは、都のなかなら実際には稀なことであろうと思います。だから、実景を詠んでいるのではありません。訪れがあるように願っていると詠っているとすれば屏風歌の可能性が生じるのですが、今は、2-1-2261歌同様に五句「さよがふくとも」を伝える歌として時刻が遅くなりそうな訪問を知らせる秋のものである露に寄せた挨拶歌と推測します。

 このため、 現代語訳は久曾神氏の訳が適切であると思います。再掲します。

「萩の花が散っているであろう秋の野原のつゆ霜に濡れながらでも行きましょう。たとえ夜はふけようとも。」(久曾神氏)

 次に、1-1-223歌と1-1-224歌が一組の歌として対になっているかを検討します。

この2首にある共通のものとして、萩とたわわな露を指摘できます。

対比しているものは、朝の景と夜の景 及び大事な露と露を消滅させる行動、を指摘できます。時間帯や歌(屏風絵)に登場する主要なものが対比されており、対の歌と言えます。秋の野の景には共に愛でる景がある、と詠っており、「かなしい秋」より「爽やかな秋」を表現している一組である、と思います。

 

6.3-4-42歌の詞書の検討

① 3-4-42歌を、まず詞書から検討します。再掲すると、

女のもとにやりける」

② 『猿丸集』歌の詞書において、「・・・もとに」とあるのは、6例あります。

3-4-6歌 なたちける女のもとにいかなりけるをりにか有りけむ、女のもとに

3-4-9歌 いかなりけるをりにか有りけむ、女のもとに

3-4-12歌 女のもとに

3-3-13歌 おもひかけたる人のもとに

3-4-15歌 かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに

3-4-42歌 女のもとにやりける

③ 『猿丸集』歌の詞書において、「・・・やりける」とあるのは、3例あります。

3-4-22歌 おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやりける

3-4-29歌 あひしれりける女、ひさしくなかたえておとづれたりけるによみてやりける

3-4-42歌 女のもとにやりける

④ どちらもこの歌3-4-42歌が、最後の例ですので、横並びして検討をしておきます。

「・・・もとに」の現代語訳(試案)を、それぞれを検討したブログより再掲すると、つぎのとおり。

3-4-6歌 :「噂がたった(作者が通っている)女のところへ(送った歌)」

3-4-9歌 :「どのような事情のあった時であったか、女のところに(おくった歌)」

3-4-12歌 :「女のもとに(おくった歌)」

3-3-13歌 :「懸想し続けている人のところに(送った歌)」

3-4-15歌 :「(妹が)親しくしていた人が、遠く立ち去ってしまって、その人のもとに(送った歌)」

最後の3-4-15歌の現代語訳(試案)は、この詞書のもとにある歌をすべて検討後に修正した(「わかたんかこれ 猿丸集第17歌その2 おもひそめけむ2018/6/11付けブログ)ものであり、最初は「親しくしてきた人が、遠く立ち去ってしまって、その人のもとに(送った歌)」でした。

⑤ 通覧すると、(3-4-42歌はこれから検討するとして)「・・・もとに」は、詠った人(正確には作中人物)は、当の相手か誰かに過去に会ってから暫く時がたっているか全然会えていない相手に歌を送っているかのようです。

3-4-6歌は、通常追い払うべき悪鬼(儺)がほしいと乞うている(追い回している)女に同情して(あるいは励まそうとして)送った歌です。このような歌を送るという女は、作者に関係のある女であると、推測できるのがこの詞書です。

しかし、このように通覧してみると、3-4-6歌の詞書は(作者がよく知っている)女に(困った)噂がたったと聞いて何かの折に(送った歌)」と修正したほうが趣旨を伝えている現代語訳かもしれません。

⑥ 「・・・やりける」の現代語訳を、同様に再掲します。

3-4-22歌:「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」

3-4-29歌:「男女の間柄であった女が、長く遠ざかっていた男の訪れがあって後に、詠んで送った(歌)」

あひしれりける女」とは、馴れ親しんでいたことのある女、男からいうと昔通っていた女、男女の間柄であった女、の意です。

⑦ 通覧すると、(3-4-42歌はこれから検討するとして)「・・・やりける」は、詠った人(正確には作中人物)は、直前に逢った事に起因して歌を詠みその人に歌を送っているようです。

⑧ これらの例に倣うと、3-4-42歌の詞書は、

「(直前にあった)女のもとに、送った()

となります。歌本文が下記7.に記すように同音異義語を用いた歌であるので併せて検討すると、後朝の歌ではないようなので、誤解を生じないように、

「(交際が直前におかしくなった)女のところへと送った(歌)」

という理解が良い、と思います。

 

7.3-4-42歌の現代語訳を試みると

① 初句が、「はぎのはな」と平仮名表記となっています。類似歌の初句「萩が花」とは違うという編纂者の示唆です。

② 『例解古語辞典』によると、「はな」と清濁抜きの平仮名表記の語句として、「a花・華。b端。c鼻」を挙げています。また「花」は、咲く花が美しく華やかなことから、華麗・栄華などのたとえとして誉め言葉になっています。

また、「はぎ」と表現する語句には、

a秋の七草のひとつ。ハギ。

b襲(かさね)の色目の名。表は蘇芳、裏は青。秋に着用。

と説明しています。(襲とは、a下襲の略。男性が袍の下に着る、裾の長い衣服。b衣服の上着と下着がそろったもの。c衣服を重ねて着るときの、裏と表との配色。)

③ このような同音異義語が、この歌にさらにあるかと調べると、つぎの二つがありました。

ちる:散る:a(花などが)散る。b(物が)散らばる・(人が)あちこちへ別れる。cうわさなどが急にひろまる。

ふく:a吹く。b葺く。c更く(夜がおそくなる・季節が深まる)。

④ このため、初句「はぎのはな」とは、「秋の七草のひとつであるハギの花」のほか、「萩の色目の襲(かさね)+の+端(裾)」、及び「萩の色目の襲(かさね)+の+華やかさ」の意が考えられます。

⑤ 五句「さよはふく(とも)」とは、「副詞「さ」+名詞「夜半」+動詞「吹く」+接続助詞「とも」であり、「そう、夜に(風が)吹いたとしても」、の意にとれます。

⑥ 詞書にある「・・・やりける」は、他の事例と同様に「直前に逢った事に起因して歌を詠みその人に歌を送って」と理解し、「・・・もとに」も、他の事例と同様に「詠った人(正確には作中人物)は、当人か誰かに過去に会ってから暫く時がたっているか全然会えていない人に歌を送っている」と理解します。

⑦ このような詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「(以前いただいた)萩の色目の襲(かさね)の素晴らしいこと、(ありがとう)。秋の七草のハギが咲いているだろう野原の露に濡れながらもこれを着て行きますよ、そう、夜に風が強くなるとしても。

 類似歌と趣旨の違う歌という仮説に則れば、襲を贈ってくれた頃にもどれませんか、という相聞の歌ではないでしょうか。

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-42歌は歌を送った相手(女性)と作者は何らかの関係のあることを示しています。これに対して類似歌1-1-224歌は不明です。

② 初句の意が違います。この歌は、「はぎのはな」であり、襲の色目の一つである「はぎ」の上下の服が美しい、と言い秋の七草のハギを掛けています。これに対して類似歌は、秋の七草のハギの花のみを指しています。

③ 五句の意が異なります。この歌は、「副詞「さ」+名詞「夜半」+動詞「吹く」+接続助詞「とも」であり、「そう、夜中に(風が)吹いたとしても」、の意です。これに対して類似歌は、名詞「小夜」+助詞「は」+動詞「吹く」+接続助詞「とも」であり、「夜が更けても」、の意です。

④ この結果、この歌は、(多分女が贈った)萩の襲の色目の服を言い出してまた逢いたい、という相聞の歌であり、類似歌は、(多分約束の時間に遅れたが)たとえ夜遅くなっても行くから、という断りの挨拶歌と推量できます。つまり、この歌は、再会がおぼつかない男が相手の女に送った歌であり、類似歌は、確実に再会できる男が相手の女に送った歌です。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-43歌  しのびたる女のもとに、あきのころほひ

ほにいでぬやまだをもるとからころもいなばのつゆにぬれぬ日はなし

 

その類似歌  古今集にある類似歌 1-1-307歌  題しらず  よみ人しらず

    ほにいでぬ山田をもると藤衣いなばのつゆにぬれぬ日ぞなき

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/3/11   上村 朋)

付記1.巻第四秋歌上にある歌群は、つぎのとおり。

     立秋の歌(1-1-169歌~1-1-172歌)。

     七夕伝説に寄り添う歌(1-1-173歌~1-1-183歌)

     「秋くる」と改めて詠む歌(1-1-184歌~1-1-189歌)

     月に寄せる歌(1-1-189歌~1-1-195歌)

     きりぎりす等虫に寄せる歌(1-1-196歌~1-1-205歌)

     かりといなおほせとりに寄せる歌(1-1-206歌~1-1-213歌)

     鹿と萩に寄せる歌(1-1-214歌~1-1-218歌)

     萩と露に寄せる歌(1-1-219歌~1-1-225歌)

     をみなへしに寄せる歌(1-1-226歌~1-1-238)

     藤袴その他秋の花に寄せる歌(1-1-239歌~1-1-247)

     秋の野に寄せる歌(1-1-248)

付記2.三代集で、句頭に、「秋萩・・・」「萩・・・」とある歌

各集での部立

古今集

後撰集

拾遺集

1-1-198

1-1-211

1-1-216~1-1-224

1-2-223

1-2-224

1-2-285

1-2-300

1-2-301

1-2-304

1-2-306

1-3-182

1-3-183

物名

 

 

1-3-379

1-1-781

 

1-3-513~1-1-515

 

 

1-1-813

1-1-838

雑秋

 

 

1-1-1115

1-1-1116

1-1-1118

12首

  7首

  11首

注1)歌の表示は『新編国歌大観』における巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での番号

注2)『萬葉集』で句頭に「秋萩・・・」「萩・・・」とある歌は60首以上あり、相聞の部に16首ある。(2-1-1612,2-1-1776,2-1-2258歌等)

(付記終り 2019/3/11   上村 朋)