わかたんかの日記 古今集の配列からみる1000歌

(2017/12/25)  前回「古今集の配列からみる994歌」と題して記しました。

今回、「古今集の配列からみる1000歌」と題して、記します。(上村 朋)     

 

1.『古今和歌集』巻第十八の巻末の歌

① 『古今和歌集』の1-1-995歌前後の歌の配列の検討を続けます。まず残りの次の歌を検討します。『新編国歌大観』より引用します。

1-1-997  貞観御時、萬葉集はいつばかりつくれるぞととはせ給ひければ、よみてたてまつりける  

文屋ありすゑ

神な月時雨ふりおけるならのはのなにおふ宮のふることぞこれ

 

1-1-998歌  寛平御時歌たてまつりけるついでにたてまつりける   大江千里

   あしたづのひとりおくれてなくこゑは雲のうへまできこえつがなむ

1-1-999歌                              ふじはらのかちおむ

   ひとしれず思ふ心は春霞たちいでてきみがめにも見えなむ

1-1-1000歌  歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける

                                               伊勢

   山河のおとにのみきくももしきを身をはやながら見るよしもがな

 

② 1-1-1000歌は、『古今和歌集』第十八の最後の歌です。巻頭の歌は次の歌です。

1-1-933歌  題しらず                            読人しらず

   世中はなにかつねなるあすかがはきのふのふちぞけふはせになる

 この歌で、現在の大阪湾に入る大和川の支川である飛鳥川は、無常のたとえとして知れ渡りました。

 

2.1-1-997

① 詞書に、作詠事情を記しています。そして、『萬葉集』の成立時点に関する当時の認識を詠っています。この歌は、万葉集の成立時点に触れた最古の(文字)記録と言われています。

② 詞書を、久曾神氏は、次のように現代語訳しています。

清和天皇の御代(みよ)に「『萬葉集』はいつ時分に撰集したのか」とお尋ねなされたので、よんで奉った歌」

③ 歌を、久曾神氏は、次のように現代語訳しています。

「十月の時雨も降りながら、散らさないで残している楢の葉の、その名をもち、名高い平城の宮時代の古い撰集であります。これ(『萬葉集』)は。」

 作者は、『萬葉集』の撰集を命じた天皇を特定しない表現で詠んでいます。当時種々な意見があったが、平安京に遷都してからではないというコンセンサスがあったのでしょう。

④ 三句の「ならのは」を、氏は、「柏などと同じように容易に散らない。ならは、柞(ははそ)であろう」と、また、四句の「なにおふ宮」には「名に負う」(有名な)の意が掛かっているとも指摘しています。歌の三句~四句「ならのはのなにおふ宮」とは、奈良の都(平城宮)をいいます。そのまえの藤原京などを包含した表現ではありません。

⑤ 『萬葉集』に関するこの歌の作者の認識により、『古今和歌集』の「仮名序」における文章を理解できます。

 その「仮名序」では「・・・いにしへよりかくつたはるうちにもならの御時よりぞひろまりにけるかのおほむ世やうたの心をしろしめしたりけむ、かのおほむ時におほきみつのくらい・・・これよりさきのうたをあつめてなむ万えふしふとなづけられたりける、ここに・・・」とあります。

「ならの御時」、「かのおほむ世」(かの御世)及び「かのおほむ時」(かの御時)の表現があります。それぞれ、「平城京に都を置いていた時代(旧都の時代)」、「その時の天皇在位の時代」、及び「その時の天皇在位のある時」の意であります。天皇の名前は明記されていません。

⑥ 作詠時点を推計すると、詞書から、清和天皇の在位中のエピソードであるのが確実であるならば、在位の858~876年の間に詠んだ歌となります。未成年の9歳で即位された清和天皇27歳で譲位して、元慶元年(880)崩御しました。

⑦ 作者の文屋ありすゑは全く不明です。久曾神氏は、高野切にある「ふむやのありま」と改めています。そして文屋有真は、承和15年(848)2月4日従五位下で山背田使次官、嘉祥元年(848)8月26日近江介。嘉祥4年(851)4月次侍従、仁寿4年(854)正月相模権守、貞観3年(861)前陸奥守で公事稽留罪を科せられているが同5年下総守になっている、と紹介しています。この経歴をみると、清和天皇の在位中に近侍する地位にいたのかどうかわかりません。

 また、清和天皇のご下問に、歌のみで答えることが当時許されていたのか、確認を要します。幼い天皇の教育の一環での場面でご下問があったかと想像しますが、歌で答えよと詞書にはなく、歌を用いて答える必然性がありません。

前後の歌を考えあわせると、『古今和歌集』の撰者がこの『古今和歌集』のために文屋ありすゑという人物を創作したのではないか、という推測が生じます。天皇のご下問に対する歌の詠み手が「よみ人しらず」となるのを避けるためです。

⑧ いづれにしても、この一つ前の歌1-1-996歌以降、『古今和歌集』には『萬葉集』のことを前提にしたかのような歌が続くので、『萬葉集』の成立時点を、これからの歌の理解の前提として論外に置きたく、仮に提示したのではないでしょうか。この歌以後は、(成立時点の論議よりも)『萬葉集』は勅撰集である、という認識を持って理解せよ、ということを、撰者は言っているのではないかと思います。

⑨ 共通項に関しては次のとおり。

・作者:男と『古今和歌集』の撰者

・相手との関係:部下から上司(清和天皇)へ

・歌の主題:調査報告事項を詠う

・拠るべき説話がある:有り。『萬葉集』成立時点に関する論争。

3.1-1-998

① 詞書の現代語訳(試案)は、つぎのとおりです。

宇多天皇の御代の時、歌のご下命を戴き献上しましたとき、ついでに、(書きつけて)たてまつった歌」

この詞書は、次の1-1-999歌と共通であると理解できます。

② この歌は、作者の大江千里(ちさと)の家集『千里集』(別名『句題和歌』)にもある歌(3-40-121歌)です。平仮名表記をすると、最後一音が「む」と「ん」が違うだけのおなじ歌です。

『句題和歌』は、その序文によると、「宇多天皇から参議某を通じて和歌の献上を命じられたが、和歌は上手に詠めないから中国の詩句を題としてその翻案歌を詠み、別に中国の詩句の翻案ではない和歌を加えて120首として寛平9年(897)4月に奏呈する」、とあります。(『新編国歌大観』が採用しなかった流布本では寛平6年奏呈です。) 

③ 作者の大江千里は生歿未詳の儒者です。序文によると、奉呈した時名乗った肩書は、散位従六位上です。待命中の身であります。大江千里は、延喜3年(903)兵部大丞でした。六位上で亡くなったと言われています。弟の大江古里(ちふる)は、醍醐天皇の侍講を務めています。加賀守となり、従四位下伊予権守に至り、延喜2年(924)亡くなっています。

④ 『句題和歌』の実際の歌数は126首です。詩句に基づく歌116首の後ろに、詠懐と題した(詩句を示していない)自らの歌10首をおいています。詠懐10首は奉呈する機会をとらえて、「ついでに」添えた歌ではなく、奉呈した書の一部を構成する歌です。それは『古今和歌集』の撰者にとって自明のことであるのに「ついでに」と詞書にわざわざ記しました。詠懐10首は、わが身の沈淪を嘆じ、訴える歌ばかりと言われています。

⑤ この詞書は、『句題和歌』よりとった1首をここに配列しているのではなく、天皇に歌を奉呈する機会があった「ついでに」たてまつった歌である、ということを強調した書き方です。

詞書にいう「ついでに」は、『古今和歌集』の撰者がこの歌の理解を促すために選んだ言葉となっています。即ち、この歌は中国の詩句にかかわっていない(ここまでは『句題和歌』でも同じ)歌であり、『句題和歌』の「詠懐」という題も考慮の外でよい、ということです。家集『千里集』(別名『句題和歌』)にもある歌(3-40-121歌)とは別の歌でもある、ということを示唆しています。

ちなみに、1-1-255詞書には「・・・もみぢたりけるを、うへにさぶらふをのこどものよみけるついでによめる」とあり、「うへにさぶらふをのこども」に入らぬ藤原かちおむの歌があります。この1-1-255歌とこの歌での「ついでに」は指す所が違うようにみえます。

1-1-993歌の詞書には「・・・をのこども酒たうべけるついでに、よみ侍りける」とあり、酒の席の一員である作者が宴席中に歌をうたっています。

⑥ 歌を、久曾神氏は、つぎのように現代語訳しています。

「葦の間にただ一羽とり残されて鳴く鶴の声は、雲の上までも聞こえて行ってほしいものであるよ」

 おくれているのは、撰集の資料である『句題和歌』では、作者の官位昇進の遅れの意、と氏は指摘しています。

しかし、詞書の「ついでに」という表現に留意すると、二句の「ひとりおくれて」ないているのは、『萬葉集』からだいぶ時間をおいた勅撰集であるこの『古今和歌集』をいっているのではないでしょうか。 この歌は、次のような意が、あわせてあると思います。

「『萬葉集』からだいぶ期間がたちましたが、ご下命に応えようやく新たな勅撰集の(案)を、用意できましたので、ご嘉納を。」

⑦ 『古今和歌集』の撰者は、天皇の命を受け公務として編纂作業に携わっているのですから、その勤務に対する俸給を朝廷からは(律令に則った名目を工夫されて)戴いているはずです。

 『句題和歌』において、沈淪の境遇ではない状況とは、学問を学んできて官人を志す者が、その学問により職を現に得ている状況を言います。儒者として摂関家の氏の長者たちと並んで天皇を直接補佐する菅原道真ほどではなくても、都における役職や地方の国司の拝命がある状況をいいます。建前では官人の生活は朝廷からの支給でなりたっているのですから。朝廷からみれば、和歌の提出を命じて奏呈があれば散位であろうとなかろうと、何らかの褒美をだすことにしてなります(少なくとも参議某はねぎらいの手当を用意していたでしょう)。千里の一家の生活費の足しになっているはずです。

⑧  『古今和歌集』の撰者は、前の歌の次におかれている歌として理解することを望んでいる配列になっていると思います。 

⑨ 共通項に関しては次のとおり。作者の千里の場合と撰者らの場合とが重なっています。

・作者:散位の男と『古今和歌集』の撰者

・相手との関係:部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

・歌の主題:任官陳情と『古今和歌集』の(案)奏呈

・拠るべき説話がある:有り。有資格者数とポスト数との乖離と萬葉集の存在

4.1-1-999歌

① 詞書は、1-1-998歌に同じとして省略されています。だから、この歌は、寛平御時に「ついでに」たてまつった歌として理解すべしと、撰者らは言っています。詞書が「題しらず」であれば、この歌は、女性を慕う歌と理解しておかしくありません。

② 久曾神氏は、歌の現代語訳をつぎのようにしています。

「だれにもうちあけず私がただひとりで思っている心の中は、(春霞のように)このたび立ちのぼって行って、天皇の御目にもとまってほしいものであるよ。」

 作者の藤原勝臣は、元慶7年(883)阿波権掾。五位までの人と言われています。すこししか歌は伝わっていませんが理知的傾向が強い歌です。

 氏は、「宇多天皇に歌を献上したときのものであるが勝臣の家集も伝存せず明確にすることができない」と指摘しています。これは献上の歌かどうかは不明であるという指摘に等しい。また、三句の「春霞」は「たちいでて」にかかる枕詞と指摘しています。

③ 四句の「君」は、作者の勝臣にとり、宇多天皇をさします。

宇多天皇は、臣下である藤原基経らに擁立された光孝天皇の息子で親王に戻されて皇位を継いだ天皇です。基経死後自ら意欲的に国政に関与し様々な改革を行った天皇で、その時代を「寛平の治」と呼ぶ場合があります。宮司の統廃合と人員削減を行い、天皇の日常の居所を清涼殿に遷し、殿上人の控え室を用意し、個人としての天皇が認める昇殿制を確立しました。律令制的な機構とは相対的に異なる秩序を居所である内裏を中心として形成したことになります。受領を制度的に確立させ、国家の財政の安定を図ろうとしました。菅原道真を登用した天皇でもあり、寛平御時歌合を始めとした歌合を行い(譲位後も積極的に行なっています)、『新撰萬葉集』や『句題和歌』などが残されている時代です。

なお、受領とは、国司(守・介・掾・目)の権限と責任を一手に引き受けている者。通常は守の職に居るものであり、朝廷に対する租税納入を一人で請け負う制度9世紀半ばに発生しました。任国であがる租税等から、任国が負担すべきとされる一定の税額と臨時費用の納入を行い、上皇摂関家等への(現在いうところの)賄賂をして残りは受領一人の私的蓄財に充てられる(その分配の権利を受領が100%持った)制度です。このため任国であがる租税等は、人を単位ではなく田等を管理の単位としてその耕作人(豪族)より徴収しました。京周辺に納所と呼ぶ受領個人の倉庫を用意しています。

④ 歌に用いられている語句を『例解古語辞典』で確認します。

・たつ:動詞四段活用。基本的には現代語の「たつ」におなじ。:a起つ。立ちあがる。b(雲や霞が)立ちのぼる。cある位置につく。(以下略)

・たつ:動詞下二段活用。基本的には現代語の「たてる」に同じ。(以下略)

・いづ:出づ:補助動詞:出す、出る、の意を添える。

・きみ:君:a名詞。 天皇、次いで自分の仕える人・主人。b代名詞。対象。あなた。

・みゆ:見ゆ:下二段活用。A物が目にうつる。見える。B(人が)姿を見せる。C人に見えるようにする。見せる。(以下略) 

・なむ:a動詞並む。b動詞嘗む(舌で舐める)c係助詞。e終助詞。動詞の未然形に付く。願い望む意。f連語。完了の助動詞「ぬ」の未然形+推量の助動詞「む」。確実に実現・完了すると思われることを、推量の形で表す。

⑤ 五句にある「みえなむ」の「みえ」の候補は、上記の「みゆ」の未然形か連用形です。意は、霞を対象にしてA(見える)かC(みせる)が有力です。五句にある「なむ」の候補は、上記のe終助詞かf連語が有力です。

このため、この歌の

・初句と二句「ひとしれず思ふこころ」は、三句の「春霞」を例示として、四句の「たちいでて」の主語である。

・初句と二句は、引き続き、五句「見えなむ」の主語とみることができます(第1案)が、五句の動詞「みえなむ」の主語は、初句と二句ではなく、主語は「きみ」である(第2案)、ともみることができます。

 第1案の現代語訳を試すと、

「だれにもうちあけず私(ども)が密かに願っていたことが、春霞のようにこのたび立ちのぼってゆき、天皇の御目にもそれとわかるように、はっきり目にみえる形におさまったようだ」(見るは他動詞「みせる」で主語は初句と二句(「ひとしれず思ふこころ」)

 第2案の現代語訳を試すと、

「だれにもうちあけず私(ども)が密かに願っていたことが、春霞のようにこのたび立ちのぼってゆき、それを天皇が御目にとめるであろう。そう願います。」

⑥ 歌は、「ひとしれず・・・たちいでて」で一旦切れている、とみました。

 主語となっている初句と二句(「ひとしれず思ふこころ」)は、勝臣にとり、任官への期待かもしれませんが、詞書の「ついでに」という表現によって、撰者らが詠んだ歌となって、和歌の隆盛を示唆することになります。

なお、「きみ」は二つの意味がありますが、この歌での第一の意が名詞の「天皇」の意であります。「天皇」に別の意をかけるのは避けるであろうと思います。

以上の検討から、第1案がこの歌の現代語訳(試案)になります。そしてこの歌は『古今和歌集』の草案のできた段階で宇多法皇に報告しているかに見えます。

撰者は、このように、宇多天皇による和歌興隆に十分配慮しています。

⑦ 共通項に関しては次のとおり。

・作者:男と『古今和歌集』の撰者

・相手との関係:部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

・歌の主題:事前に 任官陳情と和歌の隆盛

・拠るべき説話がある:有り。有資格者数とポスト数との乖離と萬葉集の経緯

 

5.1-1-1000歌

① 詞書を、久曾神氏は、つぎのように現代語訳しています。

天皇が歌を召されたときに献上するとて、詠んで最後に書きつけて奉った歌」

 氏は、作者が自らの旧作を書き出した後に、新しく詠んで最後に書き加えた歌、と説明しています。だから、この歌も奏呈した歌の一つです。

② 詞書の「歌召しける時」とは、久曾神氏のいうように『古今和歌集』の準備のための下命の可能性が大きく、作詠時点は延喜4年(904)ごろとなります。

 また、「奥に」とは、献上する歌を書いた巻物の最後、の意で、巻物の中の位置を示していることばですが、1-1-998歌と1-1-999歌の詞書にある「ついでに」と同様な意味を撰者はもたせ、歌の意が二重になっている示唆ともとれます。

③ この歌は、四句「身をはやながら」の理解がポイントと思われます。

『例解古語辞典』では、接尾語「ながら」に関して、囲み記事も用意し、つぎのようにあります。

・(主として体言に、またときには副詞に付いて、連用修飾語となり)a本来それがあるがままに、という意を添える。その本質のままに。bその状況・条件などを変えないで、そっくりそのままで、という意を添える。

・形容詞の語幹や連体形に付いた例もある。(形容詞の語幹の例に1-1-1000歌をあげ)「・・・ももしきを、身をはやながら見るよしもがな(・・宮中を我が身を以前のままで見る・・・)。作者の伊勢は、宇多天皇の后に仕えて華やかな宮中生活をしたが、この歌の時は、后は亡くなっており、宮中を離れていた・・・」

④ 四句「身をはやながら」は、五句の「見る」の対象の「ももしき」を、伊勢自身が「(見る)よし」があったらなあ、思うときの条件である、理解できます。

また、初句を「おと」の無意の枕詞とみなすと、現代語訳(試案)は、つぎのとおりです。

「いまでは、噂でしか聞けない宮中のご様子を、昔の若いころのままで拝見する方法があればよいのにと存じます。」

(これを第1案と称することとします。)

五句の「見るよしもがな」は、動詞「見る」+名詞「由」+終助詞「もがな」です。

旧歌を書き出していた作者の伊勢が、自分の若いころを振り返った歌と理解すると、このようになります。

伊勢は、再度の出仕を希望したものではないと思います。伊勢が自分を必要とする后の紹介を頼むほどの間柄が伊勢と醍醐天皇の間にはありません。

 しかし、この現代語訳(試案)は、詞書にいう(今上天皇が)「歌めしける時」の歌における訳の可能性はありますが、、撰者が詞書に「おくに」かきつけたとしている歌の現代語訳(試案)ではないかもしれません。

⑤ 今までの歌と同様、『古今和歌集』の撰者が作者であると仮定すると、「ももしきの」は、「ももしきで行われている何か」を略した言い方であるので、「ももしきのようす」などではなく、それは天皇の命じた『古今和歌集』編纂を意味し、「身をはやながら」が、掛詞になります。

名詞「水脈」+形容詞「早し」の語幹+接尾語「ながら」

名詞「身」+格助詞「を」+副詞「早」の語幹+接尾語「ながら」

そして、現代語訳(試案)は、次のとおりです。

「山中では瀬音が自然とよく聞こえるように、今上天皇の御代に、すばらしい勅撰和歌集をご準備とのうわさに接しました。水脈の流れのように手早く私も準備したところですが、見定めることができる方法があればと存じます。」(撰集をよろしくお願いします)(第2案)

 別の現代語訳(試案)もあります。1-1-999歌において、『古今和歌集』草案が成っていますので、「ももしきの(何か)」は、『古今和歌集』草案そのものを指します。

「山中では瀬音が自然とよく聞こえるように、今上天皇の御代に、すばらしい勅撰歌集が奏呈されたとのうわさに接しました。水脈の流れのように手早く私も準備しますので、拝見だけでもかなう方法があればと存じます。」(第3案)

 さらに、第3案において、「みをはやながら」が、名詞「身」+格助詞「を」+動詞「栄やす」の語幹+接尾語「ながら」と理解して、名詞「水脈」+形容詞「早し」の語幹+接尾語「ながら」の意を掛けないとすると、

「山中では瀬音が自然とよく聞こえるように、今上天皇の御代に、すばらしい勅撰歌集が奏呈されたとのうわさに接しました。私もきわだたせますので(宮中に上る身支度をしますので)、拝読だけでもかなう方法があればと存じます。」(第4案)

⑥ 動詞「見る」には、「視覚に入れる・見る」のほかいくつかの意があります。

1-1-1000歌の現代語訳(試案)としては、第4案が良いと、思います。撰者が、詞書に「おく」と記した所以を、ここにみることができる思いです。

しかし、『古今和歌集』は、歌の配列からの検討では草案は完成していますが、その段階で評判上々という歌をその歌集に入れるのでしょうか。草案が何回か改訂されたのでしょうか。

伊勢が奏呈する際の歌としては、『古今和歌集』の編纂を念頭においた第2案が、良いと思います。

⑦ 作者の伊勢は、15歳位で仁和4(888)中宮温子に仕えました。中宮温子の入内と同時です。父である藤原継蔭(仁和元年(885)伊勢守、寛平3(891)大和守)は受領階級の官人です。温子が堀河第に退出して喪に服していた時、前年に元服した仲平との間に恋が生じましたが、寛平4(892)恋は破れ晩秋父がいる大和へ下り翌寛平5年また温子のもとに再び出仕します。そのころ仲平の兄時平が伊勢に恋をしています。寛平7(895)宇多天皇の寵を受けて男子出産も昌泰元年(898)失います。この歌の作詠時点と推定した延喜4(904)3年後の延喜7年(907)温子が36歳で崩じた際には参上しています。醍醐天皇の御世にも活躍し(天皇より歌の下命があり)天慶2年(939)65歳くらいで歿しています。『古今和歌集』には小野小町18首をしのぐ22首入集しています。

⑧ 次に、この歌は、巻十八の最後の歌ですので、『古今和歌集』の配列を検討するには、巻頭の歌と合せて吟味しなければなりません。

 巻頭の1-1-933歌(上記1.②に記載)は、「この現世にあっては、不変のものはない」と宣言しています。それから失意逆境の歌を撰者は配列しています。一般に、失意逆境が行き着いたところは、順境に向かい始めるところです。

 そのような歌を探すと、候補が2首あります。1-1-1000歌と1-1-996歌です。

1-1-996歌は、拠るべき説話として『萬葉集』を最初にあげた歌です。順境に向かい始めた歌とみとめられます。なぜなら、この先和歌の隆盛は保障されていないが、編纂した『古今和歌集』という頼りになる物を遺したからね、と詠った歌であり、失意逆境を越えるにあたって拠るべきものを示した歌であるからです。撰者は、1-1-933歌に対応する歌を1-1-996歌としている可能性があります。

⑨ そうなると、1-1-997歌以下の3首は何かということになります。『古今和歌集』の成立に深くかかわった天皇への賛歌と言えるのではないでしょうか。

⑩ 別の1首1-1-1000歌は、巻十八の最後の歌であり、『古今和歌集』の短歌の最後の歌です。この歌は順境に確実に向かい始めた歌とみとめられます。なぜなら、編纂した『古今和歌集』が確かに頼りになる物ができあがったことを前提にして見せてほしいと前向きに詠っている歌であるからです。

 短歌の部の、最後となるこの1-1-1000歌に、撰者は、良く知られた歌人である伊勢の作品を用いました。伊勢の婉曲な表現を上手に利用して、ここに配列したと評せます。この歌に、撰者の手は加わっておらず、伊勢が「おく」にかきつけたということも事実であり、詞書には省いた事実があったとしてもくわえているものはないのにかかわらず、このようにも理解できる歌になったからです。

このような歌が、巻十八の最後の歌であり、短歌の部の最後の歌です。だから、『古今和歌集』全巻の構成の理解を深めるには、巻十九、巻二十も検討しなければならないと思いますが、1-1-995歌の理解のためにはこの歌までで十分ではないかと思います。何しろ巻が別になるのですから。

⑪ 共通項に関しては次のとおり。

・作者:女(歌の名手)と『古今和歌集』の撰者

・相手との関係:部下から上司(今上天皇)へ

・歌の主題:事前に 撰集の希望と和歌の隆盛を、詠う

・拠るべき説話がある:有り。今上天皇の下命と古今集の編纂 

6.巻末の配列の検討

① 『古今和歌集』の巻十八の最後に位置する1-1-991歌~1-1-1000歌の共通項を一表にすると次のとおりです。

ただし、1-1-995歌の<>書きは、他の歌の傾向からの筆者の予測である。

 

表 1-1-991歌~1-1-1000歌の特徴 (2017/12/22 pm現在)

歌番号等

作者

相手との関係

歌の主題

拠るべき説話

 

1-1-991

都に戻った作者から地方の友へ

事後の(一段落した後の)疎外感

有り。中国で斧にまつわる説話

 

1-1-992

 女

地方へ行く作者から都に残る友へ

事後の(一段落した後の)疎外感

有り。法華経五百弟子受記品の説話

 

1-1-993

渡海する作者(男)から都に残る上司同僚へ

事前の決意

有り。過去の度重なる遣唐使派遣

 

1-1-994

 女

作者(女)の独り言 あるいは寄り添っている作者(女)からちょっとしたきっかけで離れてゆく男へ

事の終る(たつたやまを越える)前、関係修復の良い展開を確信

有り。「風ふけば」というトラブルが過去にも二人の間にあった。

 

1-1-995

不明

<個人的な独り言>

<良い展開の予測>

<有り。相坂のゆふつけ鳥>

 

1-1-996a

古今和歌集』の撰者(男)

古今和歌集』の撰者から、次の時代の官人

事前に 良い展開を予測

有り。『萬葉集』の経緯。

 

 1-1-996b

男又は女

慕った人物から慕われた人物へ

事前に 良い展開を予測

有り。多くの人の遺言書

 

1-1-997

男と『古今和歌集』の撰者

部下から上司(清和天皇)へ

調査報告事項

有り。『萬葉集』成立時点に関する論争

 

1-1-998

散位の男と『古今和歌集』の撰者

部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

任官陳情と『古今和歌集』(案)の奏呈

有り。有資格者数とポスト数との乖離、萬葉集の存在

 

1-1-999

男と『古今和歌集』の撰者

 

部下から上司(宇多天皇宇多法皇)へ

事前に 任官陳情と和歌の隆盛

有り。有資格者数とポスト数との乖離、萬葉集の経緯

 

1-1-1000

 女(歌の名手)と『古今和歌集』の撰者

部下から上司へ(今上天皇

事前に 撰集の希望と和歌の隆盛

有り。今上天皇の下命と古今集の編纂

 

 

 

注1)資料は、ブログ2017/12/18と2017/12/25による。

注2)1-1-995歌の<>書きは、他の歌の傾向からの筆者の予測である。

 

② 1-1-995歌を除いた9首を、配列に重きをおいて検討します。

各歌の共通項のうち「作者」は、1-1-996歌以降二重となりました。よみ人しらずの歌には『古今和歌集』の撰者の詠んだ歌があるのが分かっているので、歌の置かれた配列上の位置を考慮すると、1-1-996歌と1-1-997歌には、その可能性があると言えます。

1-1-996歌にある「はまちどり」を詠った萬葉集と三代集における歌の作詠時点を推定した結果、この1-1-996歌を、初出の歌としましたが、平定文の歌(1-2-695歌)との先後関係が微妙です。平定文の歌が初出となればそれをヒントにした『古今和歌集』の撰者詠とする説に説得力が増します。なんとなれば、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌であるにもかかわらず、恋の歌でもなく、民謡(伝承歌)風でもなく、あうことよりも文を大事と詠っているのが大変特殊であるからです。

1-1-997歌は、天皇にお答えした歌の作者(ありすゑ)が不分明過ぎる、というのが気になるところであり、先に検討したように『古今和歌集』撰者詠と推定したところです。

1-1-998歌以降は、1-1-996歌にならい作者は二重になりました。歌意も失意逆境の歌から得意順境へ向かっています。

なお、作者の性別は、とりたてていうほどのことではありませんでした。

③ 共通項のうち、「相手との関係」では、作者が歌を贈った人が、1-1-991歌の友から、1-1-996歌以降作者の上司になります。

1-1-998歌などは元資料(『句題和歌』)では陳情ベースの内容の歌ですが、『古今和歌集』の歌としてはその配列から『古今和歌集』の嘉納を願っている歌とされているとみえます。

 朝廷は、律令の建前と現実との乖離を埋めるべく努力をして、摂関家中心の政治体制に向かったものの、「祟り」対策は位階の進めることと祭る以外に方策はなく、流行病にも対応できず阿弥陀仏信仰が力を得てきます。『古今和歌集』成立後まもなく承平天慶平の乱(935~)が生じました。撰者の一人紀貫之が京に土佐から戻ってきたのが935年です。

 現実は、朝廷の高官でもない撰者が、「(やまとうたは)ちからをもいれずして、あめつちをうごかし・・・」と効果を賞揚して編纂した『古今和歌集』を天皇は嘉納したとして、日本の国土と人々の支配者である天皇を、文字の上だけでも持ち上げてみせた、という状況です。

④ 共通項のうち、歌の主題では、事後における作者の疎外感から、1-1-993歌以降将来の作者の希望になります。1-1-995歌も希望のある歌と位置付けることになりそうです。

⑤ 共通項のうち、拠るべき説話では、作者が関わらないことから1-1-994歌以降撰者が関わることを重ねて来ました。この『古今和歌集』のことに関する歌を最後に置こうという撰者の意思が見られます。

⑥ 共通項に関する以上のような検討から、歌の配列順にある傾向があると認めることができます。

久曾神氏の「巻十八は失意逆境の巻」という立場を前提にして、まとめると、

・個人の疎外感・不協和音。 1-1-991歌から1-1-995歌までか

・今後の不安(あるいは失意逆境を越えるきっかけ)  1-1-994歌から1-1-996歌までか

天皇賛美と和歌の隆盛  1-1-997歌から1000歌

の3区分となります。

また、歌をおくる相手が、一個人から官人へ、そして天皇へとなり、この『古今和歌集』に関係深い天皇となり順に今上天皇が最後の歌の相手となってこの巻が終わっています。

1-1-991歌以下の検討からは、1-1-996歌が配列上のターニングポイントになっています。

これから1-1-995歌の共通項の候補事項を予測すると、表の1-1-995歌欄に示したようになります。

7.配列からのまとめ

① 『古今和歌集』は、20巻仕立てであり、巻十八以降に2巻あります。巻十八で短歌の部が終わり、短歌以外と括った歌が、「巻十九 雑体」と「巻二十」です。この2巻の配列順にも秩序があるはずですが、検討を割愛します。一言しますと、仮名序の最終の段の撰者らの抱負を知ると、巻十八の最後の部分が中締めの役割を担っています。

② 歌は、それが記載されている歌集の編纂者の意図と、詞書とともにある、ということを痛感しました。

③ 前回と今回で、巻十八の巻末の9首(1-1-995歌を除く1-1-991歌から1-1-1000歌)を検討し、1-1-995歌に撰者が与えた位置づけを探ってきました。そして1-1-1000歌は、『古今和歌集』の草案がなったあとの歌に撰者がしています。

この最後の9首は順境(和歌の隆盛)への方策を示しておわっています。

⑤ 次回は、この結果を前提に1-1-995歌の現代語訳を試みたいと思います。

御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)   2017/12/25