わかたんかこれの日記 三代集よみ人しらずの 四首

2017/8/24  前回 、「 三代集のみそぎとはらへ ]と題 して記 してました。 
今回は、「三代集よみ人しらずの四首」と題して、記します。

 

1.849年以前の歌である 1-1-501歌
① 三代集 で「みそき 」表記の歌 は 8首あり  、作詠時点順 で古い歌 から 4首が、 よみ人しらずの歌 です。即 ち、 850( 正確には 849 年)以前 の歌である 1-1-501歌、 1-1-995歌 と、901年~950年以前に詠まれた1-2-162歌、1-2-216歌です。これらの歌を検討します。
② 1-1-501歌は、つぎのような歌です。
  題しらず           よみ人しらず

   恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも
 この歌は、推定した作詠時点順でいうと、勅撰集において最古の「みそき」表記のある歌の一つです。
 ここでの「みそき」表記は、初句の「恋せじ」ということを目的とした一連の行為全体を「みそぎ」と称していると理解できます。その「みそき」表記の行為は神に対して行われたものであるからこそ、神が受けなかったといえるのであり、単におのれのけがれを除くための水を用いるという「みそぎ」の意ではなく、「恋せじ」という祈願の一形態です。だから罪も穢れも不問となります。
 「みそき」表記が表している祈願は、「恋せじ」と誓いをたてているのか、「恋せじ」という気持になることをお願いしているのか、あるいは恋することをけしかけている何者かから身を遠ざけることをお願いしているのか、の三つのいずれかを意味しており、「「みそき」表記のイメージ別現代語訳作業仮説 の表」(2017/7/17の日記参照)の「祭主として祈願をする」( イメージI0)に相当します。
③ 『古今和歌集』での配列の上でこの歌を見てみます。この歌は、「巻第十一 恋歌一」 (469歌~551歌)の中ほどにあります。
 「恋歌一」の歌順は、各歌の詞書よりみると、恋愛の進展に従っての配列になっています。「恋歌一」の歌順は、各歌の詞書よりみると、恋愛の進展に従っての配列になっています。
 即ち、評判や噂だけでまだ見たことがなく逢う手立てもない段階の歌から、手紙や歌のやり取りができる段階にすすみ(例えば477歌)、外出した相手の車を遠くより見るなどの段階、恋心が盛り上がる段階(例えば491歌)、そしてこの1-1-501歌があり、恋の思いが人に知られるほどになった段階(例えば503歌)、逢うことができないことを我慢している段階(例えば515歌)、恋にやせ細る段階(例えば528歌)、というように配列されています。
 小島憲之氏と新井栄蔵氏は、「恋歌一」の配列に触れて、「476歌からほのかに見て恋う歌となり、480~507歌をひそかに恋ふ歌、508~527歌を揺れる思いの歌、528~541歌を寄るべなき恋の歌、542以下10首を時のみすぎゆく歌」としています。

④ この歌の前後の歌をみてみると、
499歌は、やまほととぎすが夜通し鳴くのをうらやましく、詠い、
500歌は、したもゑをせむ、と詠い、
502歌は、心の乱れを、詠い、
503歌は、いろにはいでじ、と詠っています。
 この歌の並びからみると、「みたらし河」でみそぎをした501歌の主体(男か女)は、まだ片思いの段階で、人に苦しい心も言えず、悶々としている状況とみられます。人に知られていない段階ですので、仮に実際の経験を作者が詠んでいるとすれば、「恋せじ」と祈願をした歌の主体が臨んだ「みたらし河」は、家人以外の人にはみられないような配慮をしてある場所にあるか、独占的に当該区域をその主体が占めることができる場所にあるのではないかと推測できます。
 それはともかく、そのような「みそぎ」をする「みたらし河」は、どこにあるのでしょうか。
⑤ 三代集で事例を探すと、「みたらしかは」表記の歌は、この歌のほかには、次の歌しかありません。「みたらしに」表記も「みたらしの」表記や「みたらしや」表記の歌もありません。
1-3-1337歌  巻第二十  哀傷
  女院御八講捧物にかねしてかめのかたをつくりてよみ侍りける     斎院
   ごふつくすみたらし河のかめなればのりのうききにあはぬなりけり
 冷泉家伝来の藤原定家自筆本の臨写とれる京都大学付属図書館蔵中院通茂本を底本とした『新日本古典文学大系7』による歌本文は、次のとおりです。
 業尽す御手洗河の亀なれば法の浮き木に逢はぬなりけり
 作者斎院は、57年斎院を務めた選子内親王(生歿は康保元年(964)~長元8年(1035))です。賀茂神社に仕える斎院にとり仏教行事への参加が禁忌にあたりますので、法華八講の行事に供物として金細工の亀を贈った際、詠まれたのがこの歌です。
 この歌の現代語訳を、試みました。
 「前世までの行いの結果として今生では亀に生まれ、今は御手洗池で前世の償いを一生懸命している者と同様なのが私です。あの盲目の亀の喩えに言われている浮き木の穴に首を入れる可能性と同じように希少な機会である仏の教えを講じる法華八講に、私は参列できません。人として生きている今が輪廻していいる私にとって大事な時であるのに、残念でなりません。(せめて、 御縁をつくら せてください。)」

 盲目の亀の喩えは、盲亀の浮木譬喩として『雑阿含経 15 巻』(大正蔵 2巻 108 頁下 )にあります。大乗 経典の法華にも引用され( 法華経第二十七妙荘厳王本事品など)ています。一眼亀(いちげんのかめ)とも言われ てい ます。 
 この歌の 「みたらし河」は、 今日の寺院でいうな らば放生池のようなものを指しています。  亀が 仏の教えを 実践しよう と している 世界 が「みたらし河」 であり特定の川  や池 を指す固有名詞ではありません。 
 作詠時点は、 詞書にある女院((藤原 詮子 (ふじわらのせんし) の没年 である である 長保 3年( 100 1年)以前 と 推計しまた。  1001 年は、『拾遺和歌集』 成立前 であり、 作者が斎院を退下した 長元年 (1028)(1028) のだいぶ 前の時点 です 。作者は 、諸経の要文を 題とした自選『発心和歌集』諸経の要文を 題とした自選『発心和歌集』を寛弘 9年(1012)につくるほど仏教 に傾注した女性です。
 なお、初句「ごふつくす」を、「劫尽くす」と漢字表現する伝本もあるようです。

⑥ 「みたらし(かは)」表記を、この時代の歌人の歌で探すと、990年歿の兼盛に、「するがにふじといふ所の池には色色なるたまわくと云ふ・・・」と詞書して現在の富士山本宮浅間神社の湧玉池を「みたらし川」と呼んで詠った歌(3-32-136歌)があります。
 『古今和歌集』後に成立した歌集『大斎院前の御集』には、「四月、(葵祭に伴う)みそぎの夜かはらにていたうかみなりければ・・・」と詞書して、
3-76-72歌  かは神もあらはれてなるみたらしに思ひけむ事をみなみそぎせよ
3-76-73歌  なかれてもかたらひはてじほととぎすかげみたらしのかはとこそみめ
とあり、斎院がみそぎをおこなう場所の河を、「みたらし」と詠っています。
 さらに、
3-76-129歌  はらふれどはなれる物はみそぎかはただひとがたの事にぞありける
3-76-130歌  ことならばしめのうちはへゆく水のみたらしがはとなりにけるかな」
3-76-131歌  あふ事のなごしのはらへしつるよりみたらしかはははやくならなむ
 これらの歌も、川の流れのうち、はらへをする場所の河を、「みたらしかは」と詠っています。

 また増基最晩年の正歴・長徳の交頃(993~995)成立と考えられている『増基法師集』には、
3-47-48歌  ここにとてくるをば神もいさめじをみたらし川のかはもなりとも
3-47-49 歌 (かへし) みな人のくるにならひてみたらしのかはもたづねずなりにけるかなやは
3-47-50歌  みたらしのもみぢの色はかはのせにあさきもふかくなりはてにけり
3-47-51歌  みたらしのかざりならでは色のみえつつかからましやは
3-47-52歌  ひとのおつるみたらし川のもみぢ葉をよにいるまでもおりてみるかな
と詠った歌があります。

このように三代集の時代、歌人は、神聖であると観念した川の一定の部分や池を、「みたらしの」あるいは「みたらし河」と歌に詠んでいます。その歌の中では、詞書や歌の本文によって特定の河川を指していることが当然明白になっている(美称として用いている)場合もあります。
⑦ 「たつたかは」表記の検討の際、地名を名乗っている河の名は、その地名の地域内を流れている川を指すと指摘し、瀬田川宇治川・淀川と名前の替る川を一例として示しました。
「みたらし(かは)」表記も神聖な場所として用いる流れを指している表現であり、賀茂川においてみそぎをするのに使う地域の当該賀茂川部分や、禊等のことを行う社の境内にある水場(流水個所)を指したとみられます。

⑧ これから考えると、この1-1-501歌の「みたらしかは」もこのような普通名詞と理解するのが妥当です。邸内の遣水も歌において「みたらしかは」と称しておかしくありません。
 あるいは、『古今和歌集』の撰者が、「恋一」に配列するため伝承されてきた歌の固有の川の名を、みそぎをする水場を指す普通名詞(「みたらしかは」)にさしかえたのではないか、とも考えられます。実際の経験でなく創作された歌であっても、この歌を送られた人は、歌に詠われている「みたらしかは」の場所は容易に想像できたのではないでしょうか。
⑨ 『新編国家大観』における『萬葉集』において、「みたらし」表記の歌や「せしみそき」表記の歌は、ありません。なお、『萬葉集』で、男女の間のことを理由として「みそき」表記があるのは、女性の歌として2-1-629 歌 1首、男性の歌として2-1-2407歌1首のみです。 前者の「みそき」表記は、「A11orB11orC11」であり、後者は「I0」と整理しています(2017/8/3の日記参照)。

⑩ 次に『伊勢物語』にこの1-1-501歌は引用されていますので、検討します。
 『伊勢物語』の成立は 少なくとも三次に亘ると諸氏は指摘し、業平が元慶 4年(880 )に没して いるので、始発期の十数段はその前に、次に天暦(947~957年)頃、最後は天暦以後少し後になって多くの段が業平 に関係のない『万葉集』や古今よみ人 しらずの歌なども利用して 付け加えられたとしています。このよ うに、成立が 三代集の時代(1000年以前)であるのは確かであるので、この物語における伝承や民間の行事などは1-1-995歌と同時代のものと考えてよいと思います。
 このよみ人しらずの歌は、第65段に引用されています。この段は『伊勢物語』の始発期の段ではなく、『古今和歌集』成立後成立した段です。この段が成立したころは、怨霊の脅威も世の中に浸透した後です。安倍晴明は、1005年亡くなっています。宗祇は『古今十口抄』で、この501歌は、不逢恋の部立、伊勢物語65段歌は、逢ひて後の歌、と指摘しています。
⑪ その『伊勢物語』の65段は、
「むかし、おほやけ思してつかうたまふ女の、・・・」ではじまり、次のように続きます。
「この男、いかにせむ、わがかかる心やめたまへと、仏神にも申しけれど、いやまさりにのみおぼえつつ、なほわりなく恋しうのみおぼえければ、陰陽師、神巫(かむなぎ)よびて、恋せじといふ祓への具してなむいきける。祓へけるままに、いとど悲しきこと数まさりて、ありしよりけに恋しくのみぼえければ、「恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずもなりにけるかな」といひてなむいにける。(以下略)」

と、あります。
伊勢物語』の「この男」は、「わがかかる心やめたまへ」という祈願を、いくつかの方法で試みています。そのいずれの方法においても叶わなかったので、1-1-501歌を詠んだ、という筋書きです。
 その試みは、仏に祈願すること、神に祈願すること、その次に「陰陽師、神巫(かむなぎ)よびて祓へす」という試みであり、これらの試みすべてを、『伊勢物語』のこの段のこの歌では、「みそき」表記と称せるものとしているということです。陰陽師が活躍する時代に、「みそぎ」の意味する事柄はだいぶ広がったと、言えます。念のため、「この男」の最後に「祓へす」ということのイメージを確認すると、恋しきことは変わらなかったと嘆いているので、この「はらへ」表記も祈願を意味している理解できます。
⑫ 1-1-501歌の五句「なりにけらしも」は、『伊勢物語』中の歌の主体の詠嘆と違い、い、歌の主体の不確実な推量です。恋慕の気持ちが変わらなかった歌の主体は、受けないということは、反語として、突き進めとの示唆かと考えています。
 そもそも、「みそき」表記の行為・行事をして、好ましい結果を得られなかった原因は、祈る側にあります。
 神は、理由なく「受けない」ようなことは神威を損なうし、また神に過失があるはずがないので、そのようになった原因は、願った側に何かの誤り・誤解があったからです。
 すなわち、そのような願いをすべき神に願っていたのか、あるいは祈願のために選択した方法に問題があったか、あるいは選択した方法は正しかったがその過程に誤りが生じたか、の何れかであるか、あるいはそれらが重なって生じたか、ということが、「うけず」と歌の主体が判断した状況をもたらした原因です。

 本来は、祈願をやり直さなければならないところを、歌の主体と祈願にたずさわった陰陽師などは、性急に「恋せじ」と努力するのが誤りではないかと、都合よく「みそき」表記の結果を推測しています。
 まだ逢わせてもらえない人におくる歌であるこの1-1-501歌は、それほど恋に囚われていると訴えていることになります。単に相手に言い寄っている段階で、言葉で脅している、あるいは、この歌をみてもらいたい相手にやんわりと迫っている歌となっています。

⑬ 次に、歌の主体(作者)について検討します。
 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌にも明らかに男女の歌があります。
 巻十一では、483歌以後の歌は、すべてよみ人しらずの歌です。483歌の歌の主体は縫う所作を詠っており女性、499歌は寝ずに待っている女性の歌であろうと思えます。この501歌の作者は、男女どちらかと決めかねます。どちらの側からもこの歌は相手につきつけることのできる歌です。しかし、相手にこのようなストレートな迫り方を当時の女性がするのは例外とは思います。
 この歌の主体を男と仮定した場合、相手の女性の侍女も男が何者かは承知している恋の段階ですので、手紙などの点検役をしている侍女のもとに、この歌だけでも相手に読み上げてほしいという口上を伴って届けられたこともあるような実用の歌だったのではないでしょうか。伝承歌として残った所以かもしれません。

⑭ 以上の検討を踏まえて、現代語訳を試みると、次のとおり。
 作者を男と仮定します。
 「貴方への恋慕を断ち切ろうと、清い川で私はみそぎをして神に祈った。だが、未だにあなたに逢えないのをうらめしく思っている自分がいる。これは神が私の願いを聴いてくれなかったということらしい。(あなたと私が結びつく運命だとそっと知らせてくれた気がする。)」
⑭ 作詠時点に関しては、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代の歌(849年以前)以外の情報がありません。


2.950年以前の歌である 1-2-162歌
① 1-2-162歌  返し             よみ人しらず

   ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふなはみそぎにぞせし
 この歌は、巻第四 夏にあり、前歌1-2-161歌の返しの歌です。
1-2-161歌  「賀茂祭りの物見侍りける女のくるまにいひいれて侍りける

                            よみ人しらず
   ゆきかへるやそうち人の玉かつらかけてそたのむ葵てふ名を
です。「やそうち人」は「八十氏人」で、この歌では賀茂神社への奉幣使の行列をさします。『萬葉集』歌では、天皇に仕える多くの氏の人々の意で用いられています。
 また、「葵」という語句について、『例解古語辞典』は、「葵」を「植物の名。フタバアオイ。「賀茂の祭り」に牛車の御簾や人々の冠や烏帽子などにさして飾りとした。賀茂葵」と説明しています。ここでは、「逢ふ日」を掛けています。
② 諸氏は、この歌の初句と二句「ゆふだすきかけてもいふな」は、『古今和歌集』恋一にある「ちはやぶる賀茂のやしろのゆふだすきひと日も君をかけぬ日はなし」(1-1-487歌)を前提にしている、と指摘しています。
 作詠詠時点は、1-1-487歌が『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌であるので、作詠時点の推計方法に従えば849年以前と整理できます。この1-2-162歌が『後撰和歌集』のよみ人しらずの歌なので、作詠時点は、905年以前という推計となり、1-1-487歌を前提にすることが確かに可能です。
③ 1-1-487歌にある動詞「かける」は、「木綿襷を掛ける」意と「あなたを慕う」意をかけています。これに対して、この歌では、「木綿襷を掛ける」意と「私を慕う」の意をかけて用いられています。
 すなわち、初句と二句は、「木綿襷をかけて皆さまが奉仕している賀茂の祭の際に私を見かけて下さったそうですが、すぐ言い寄るなどということはしないでください」の意となります。

④ 五句「みそぎにぞせし」の「みそぎ」は、作者でもある作中人物が行った行為です。賀茂祭の奉幣使の行列の見物がきっかけの歌の贈答なので、この行列と同じように見物の対象となっている二日前に行われている賀茂川における齋院の祓という行事が思い浮かびます。その行事には、現在の「斎王代以下女人 列御禊の 儀」次第(上賀茂神社HP )を下敷きにして理解すると )を下敷きにして理解すると )を下敷きにして理解すると )を下敷きにして理解すると )を下敷きにして理解すると 、「みそぎに引き続き行う形代を川に流すのとおなじように、それは水に流すという)処置をした」の意となります。
 何を流したかというと、四句の「葵てふな」であり、それは贈られた歌(1-01-161歌)にある「たのむ葵てふ名」(逢う日の訪れることを頼みにしている)です。
⑤ ここでの「みそぎ」は、「現代語訳の作業仮説の表」(2017/7/17の日記参照)を適用すると、B0に相当します。穢れを形代に移してその形代を流すのは、A0ではなくB0に含まれる儀式です。
⑥ この歌の現代語訳を試みると、次のとおり。
「木綿襷をかけて皆様が奉仕してる葵祭のときた私を見かけたということだけで、葵祭の葵(あふひ)に掛けて「逢う日」などと声をかけないでください。浮気者のあなたが 言ってきたことばなど、葵祭の斎院の御禊で執り行われる形代流しのように流してしまいましたよ。」
⑦ 作詠時点に関しては、上記以上の情報がありません。

 

3.950年以前の歌である 1-2-216歌
1-2-216歌  みな月ふたつありけるとし            よみ人しらず
   たなばたはあまのかはらをななかへりのちのみそかをみそぎにはせよ
① この歌は、『後撰和歌集』の夏部の最後に置かれており、旧六月晦日の民間行事である夏越の祓を詠んでいます。
 民間行事の夏越しの祓は、夏の最後の日に行う行事です。六月に閏月があると、夏の季節の最後は閏月の晦日であり、その日夏越しの祓をして、その30日前の六月晦日は、誰かのための禊や祓ができる日だ、と詠っています。
② ななかへり:『後撰集新抄』は本居宣長の説として、詩経・小雅・大東に「維れ、天に漢有り。監れば亦光ること有り。跂たること彼織女終日に七襄せり」とあり、さらに注に「襄は反也」とあることを紹介しています。
③ 現代語訳を試みると、つぎの通り。
 「織女は、 閏六月がある年は、最初の晦日には天の川原において丁寧に牽牛のために祓をしてあげて、閏の晦日は、私らがするように我が身のために夏越の祓をしなさいよ。
④ ここでの「みそき」表記のイメージは、夏越しの祓という行事(K0)となります。
⑤ なお、作詠時点は、片桐氏の意見(閏六月があったのは、後撰集によく歌が採られている時代では、延喜元年(901)と延喜20年(921)の2回。)を参考に、延喜20年(921)としました。
 閏六月のある暦年は、さらに遡ってもあるでしょう。七夕を題とした歌もあるでしょうが、推測をでません。

 

4.850年以前の歌である 1-1-995歌
① 1-1-995 歌  題しらず           よみ人しらず
   たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣の山にをりはへてなく 
② 作詠時点について、検討します。
  この歌が  最初に 記載された歌集の候補として、『猿丸集』を『古今和歌集』とともに残しておきまた (2017/2/29 の日記 参照 )が、 歌を引用している『新編国歌大観』の「解題」にいう「公任の三十六撰成立 (1006~1009(1006~1009 頃)」以前に存在していたと みられる」ということ(成立が例えば 890 年以前というこが完全否定 できていないということ)が理由でした 。猿丸(大夫)じたい伝承上の人物であり、明瞭に詠作と認定し得る歌がなく、また存命時期も不明ですも不明です 。

 『猿丸集』は 雑簒の古歌集で、前半は 万葉異体と出典不明伝承後雑簒の古歌集で、後半は、『古今和歌集』の 読人不知と万葉集歌である 読人不知と万葉集歌である ことがわかっている 歌集です。
 この 『古今和歌集』 記載 の歌が後半に  一括して収載さ れていて分載されていない

こと、書写が忠実にされて 特段の再編集もなく今日まで 伝えられて いること、の二つ は確かなことであるので、 『猿丸集』の成立 は、『古今和歌集』の成立後の可能性が高いと 言えま す。
  二つの歌集も成立の前後 関係 は推測できたのすが、具体作詠時点を 『猿丸集』から、『古今和歌 集』のよみ人しらずの時代の歌 (849 年以前 )からさ らに 絞りことができません ことができませんでした 。

③ 『万葉集』と三代集の 「みそき」表記の歌(この995 歌を除く) を作詠時点順に並べてみたとき、ことばの意味 は通常連続 するもの であるというこから、「みそき」表記一番可能性が高い イメージ が、 「祭主が 祈願 をする( I0 )」である と思われます。 このイメージは水辺における祭場を必須としていません。  2~5句か ら水辺を特定できないので、 I0 のイメージ「みそき」表記としても歌と矛盾しません。
 しかながら、この歌の作者が初句「たみそき」というような疑問を持つきっかけの

情報 がわからないの で、 「祭主が祈願をする( I0 )」 の歌という 可能性 をなかなか補強できません 。

 

5.今回のまとめ
① 三代集の 「みそき」表記のよみ人しらずの歌四首 のうち、 作詠時点が、 849 年以前であるのは、 1-1-501 歌と 1-1-995 歌の 2首で すがこれ以上作詠時点を特定できませんした。ほかの 2首も同じでした 首も同じでした 首も同じでした 。
② 「みそき」表記のイメージは、次とおりです。
1-1-501 歌 I0
1-1-995 歌 保留 なお、 なお、 作詠時点 の観点から の観点から 考察 すると すると 、I0 か。
1-2-162 歌 B0

1-2-216 歌 K0
③ 次回は、 1-1-995 歌について 歌について 、さらに さらに さらに 記し ます 。
御覧いただき、ありがとうござます。(上村 朋)