わかたんかこれの日記 よみ人しらずとたつたの歌

2017/6/22 前回、「屏風の需要」と題して記しました。

 今回は、「よみ人しらずとたつたの歌」と題して、記します。

 

1.よみ人しらずの歌の屏風歌の可能性

① 前回紹介した田中喜美春氏と田中恭子氏の論からは、朝廷における最初の賀の儀と記録される天長2(825)の嵯峨上皇の四十賀の儀にも、予祝のため、言葉のもつ呪力を信じて屏風の絵に歌を寿いでいるはずだ、となります。しかし、はっきりそれとわかる歌が残されていません。

古今和歌集』のよみ人しらずの歌に紛れ込んでいるのでしょうか。

② そのため、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌を改めて検討します。

よみ人しらずの歌本文を中心にして、歌のなかの論理、言葉そのものを吟味し、その詞書や他の歌との整合などを確かめ、その歌が前回定義した屏風歌となり得るかどうかを検討します。

この検証方法は、歌の資料としている『新編国歌大観』所載の当該歌以外の情報での確認を必ずしも要件としていません。歌の表現面から「屏風歌らしさ」を摘出してゆくのは手順が逆であるという指摘もあるかもしれません。確実に屏風歌であったという検証ではなく、屏風作成の注文をする賀の主催者が、賀を行う趣旨より判断して屏風に描かれた絵に相応しいと選定し得る歌であってかつ歌に合わせて屏風絵を描くことがしやすい和歌、を探したということです。(結果として「たつた」表記の歌の多くにその可能性を指摘できました。)

 

2.検討の方法

① 屏風絵とは、出題された題が、絵で示され、それに応じて詠った歌と認めらる歌を言うこと、と前回定義して、それが4種類あると示しました。

今回は、そのうちの

a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌」および

c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」

に、よみ人しらずの歌が該当するかどうかを、歌本文の分析・解釈から検討します。

② 次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、上記のaまたはcの該当歌であり屏風に書きつける得る歌と推定します。

第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと 

第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨には用いられていないこと

第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。

 

③ 第一の条件は、詞書に「歌合に」などとある歌は屏風歌と推計しない、ということです。小松英雄氏は、「古今集における)詞書は、「そういう和歌として読むように」という撰者の方向付けである」としており、その方向付けに屏風絵が含まれていないならば、その判断を尊重する、ということでもあります。現代の私が屏風歌として適切であると思うだけでは、当時の屏風歌になり得ると推計するわけにはゆきません。

なお、勅撰集において、「題しらず」ということは、撰者たちも本当に知らない場合のほか事情をぼかしている場合もあります。

④ 第二の条件は、予祝の意がないのは、屏風歌に相応しくない、ということです。現状肯定でも前向きであれば構いません。 「さびしい思いをする」意の用語、「ちる」および「をし」と詠う歌はふさわしくないと思います。「うつろふ」ということばは微妙です。

⑤ 第三の条件は、絵師は現実をデフォルメして描いたり、空想の絵をかくことがありますが、そうであっても、賀の儀に使用する屏風としてふさわしい絵を彷彿させるなら良し、ということです。後年の月次屏風を念頭におけば、四季の一時点を描く絵を想定できるならばその歌は屏風歌の可能性あり、ということです。

 この第三の条件は、絵と歌が無関係ではありえないので、その面のチェックです。

 

3.古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、四季の部の歌

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、春の部の歌に上記の条件を当てはめてみると、いくつかの歌が該当し、屏風歌として使用が可能です。

② 野遊びを詠う1-1-17歌 1-1-18歌、若菜摘みを詠う1-1-19歌 1-1-20歌のほか、山桜を詠う1-1-50歌 1-1-51歌 1-1-69歌が該当します。

 1-1-69歌における「うつろふ」は、桜自身の意思として理解しました(田中喜美春氏の説)

③ 橘と山吹を詠う1-1-121歌も該当します。

④ 夏の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。

1-1-135歌 この歌に左注あり:「このうたあるひといはく、かきのもとの人まらが也」

1-1-148歌 1-1-150歌 は、ほととぎすを詠っています。

⑤ 秋の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。少し気になる歌を含みます。

1-1-208歌 1-1-210歌 1-1-2521-1-281歌 1-1-283歌 1-1-284歌 1-1-288  1-1-307

⑥冬の部の歌では1-1-314歌 1-1-316歌 1-1-317歌 1-1-319歌などが使用可能です。

 

4.『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、賀の部の歌

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、賀の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。

1-1-343歌 1-1-344歌 1-1-345

② 1-1-346歌は、「思ひでにせよ」という命令形で歌が終わっており、ふさわしくないと推計しました。

 

5.『古今和歌集』のよみ人しらずの歌のまとめ

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌には、賀の儀の屏風用として用いることが可能であると思われる歌がいくつかありました。詞書は題しらずであり、作詠時点の推計は個々の歌ごとには困難でありますが、天長2(825)の嵯峨上皇の四十賀の儀に用い得る歌があったということであります。

② よみ人しらずの歌には「たつたかは」表記の歌も3首あり、皆可能性がありました。

1-1-283歌 春 竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ (よみ人知らず) 

1-1-284歌 春 たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし (よみ人知らず)

1-1-314歌 冬 竜田河錦おりかくかんな月しぐれの雨をたてぬきにして (よみ人しらず) 

 この3首は、作詠時点を825年と推計するのが誤りであると積極的に主張する資料がありません。

③ 諸氏は、和歌において「たつたかは」表記があれば、紅葉の名所として説明しています。

古今和歌集』において、推計した作詠時点からみるとこの3首は、「たつたかは」表記の最初のグループになります。諸氏はその解説においても紅葉の名所としています。先例がなくて、そのよみ人しらずの作者が、なぜ秋の名所と意識したのか。よみ人しらずの歌より前の時点に、由来となるような事柄に関する説明がほしいところです。

しかしながら作者のよみ人しらずの人達は共通の認識を持って「たつたかは」表記を用いて詠んでいるかにみえます。あるいは、共通の認識を持っていると思われる歌を『古今和歌集』は撰集しているといえます。その先例となるきっかけが、屏風の需要、ひいては屏風歌の需要ではないかと思います。この3首以前に歌人の間で研鑽していることを想定しなければなりません。

 

6.三代集の「たつたかは」表記の歌

① それでは、三代集における「たつた(の)かは」表記の歌すべてを、上記の条件で検討する

と、次のとおりです。

 

表 三代集における「たつた(の)かは」表記の歌(作詠時点順、重複歌を除く) 

<2017/1/11 15h現在>

作詠時点

歌番号

部立

 歌  (作者)

詞書

屏風絵

824以前:平城天皇薨去

1-1-283

竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ (よみ人知らず)

題しらず 

△ 

849以前:よみ人しらず

1-1-284

たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし (よみ人知らず)

題しらず

849以前:よみ人しらず

1-1-314

竜田河錦おりかくかんな月しぐれの雨をたてぬきにして (よみ人しらず) 

題しらず 

876以前:東宮御息所高子屏風

1-1-294

秋歌

ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは (なりひらの朝臣

二条の后の・・御屏風に・・・を題にてよめる

905以前:古今集

1-1-300

神なびの山をすぎ行く秋なればたつた河にぞぬさはたむくる (きよはらのふかやぶ)

神なびのやまをすぎて・・・をよめる

905以前:古今集

1-1-302

もみぢばのながれざりせば竜田河水の秋をばたれかしらまし (坂上これのり)

 たつたかはのほとりにてよめる

△ 

905以前:古今集

1-1-311

年ごとにもみぢばながす竜田河みなとや秋のとまりなるらむ (つらゆき)

秋のはつるこころをたつた河に思ひやりてよめる

905以前:古今集

1-1-629

あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに (みはるのありすけ)

題しらず

905以前:後撰集よみ人知らず

1-2-416

たつか河秋は水なくあせななんあかぬ紅葉のながるればをし (よみ人しらず)

題しらず 

945以前:歿

1-2-414

竜田河秋にしなれば山ちかみながるる水も紅葉しにけり (つらゆき)

題しらず

955以前:後撰集よみ人しらず

1-2-413

たつた河色紅になりにけりやまのもみぢぞ今はちるらし (よみ人しらず)

題しらず

955以前:後撰集

1-2-1033

竜田河たちなば君が名ををしみいはせのもりのいはじとぞ思ふ (もとかた)

しのびて・・・といへりければ

1007以前:拾遺集

1-3-389

物名

神なびのみむろのきしやくづるらん龍田の河の水のながれる (高向草春)

むろの木

 合計

13首

 

 

 

○ 1

△  7

 

注1)     歌番号は、『新編国歌大観』による。

注2)     重複歌は、1首ある。古今集294歌と拾遺集219歌である。

注3)     「屏風歌」欄の○印は田島氏の『屏風歌研究 資料編』で屏風歌としている歌で今回の検討で屏風歌候補と推計した歌。△印は今回の検討で屏風歌候補と推計した歌。

 

② 「たつた(の)かは」表記13首のうち8首に屏風歌の可能性があるということになりました。秋の部の歌は9首中7首に可能性があります。

③ 1-1-294歌は、1-1-293歌とともに、詞書は「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる」とあります。秋の部の歌の詞書として、詠んだ歌を屏風にかきつけた(料紙を張り付けた)という情報は不要であると撰者の判断で省かれているはずです。そのため、屏風歌の可能性があります。表中の13首のうち、この歌のみを田島氏は屏風歌と認めています。

④ 「をし」の用語のある1-02-416歌は、第二の条件が問題です。

 

7.作者名の明らかな歌における検討例

1-1-300  神なびの山をすぎて竜田河をわたりける時に、もみぢのながれけるをよめる                 きよはらのふかやぶ

   神なびの山をすぎ行く秋なればたつた河にぞぬさはたむくる

 

① この歌の詞書の文章は、

・作者「きよはらのふかやぶ」が、「竜田河をわたりける時に」、自らの感興を「よめる」歌であるか、

・倭絵の作中人物が「竜田河をわたりける時に、もみぢのながれける」(状況)を、作中人物にかわり作者の「きよはらのふかやぶ」が、「よめる」歌であるか、

の、どちらにも、秋の部の歌として解釈が可能です。入集させるにあたり撰者はどちらかに決めていないともみえる詞書である、と言えます。

なお、この歌は、『深養父集』に3-39-15歌と同じです。その詞書は、

「神なび山をまうできて、立田河をわたるとて、紅葉のながれけるを見て」

です。『深養父集』を信頼したとしても、その詞書に対する上記の二つの解釈は可能です。

 「神なびの山」は、特定の一つの山に比定しにくい表現であり、先に1-1-283歌で検討した「たつたかは」の存在感の少なさと平仄があっています。

② また、それ以外の、例えば、歌合などでの題詠という立場で「よめる歌」ではないかという推測も、この詞書の文章だけでは、ただちに否定できません。

③ 次に、前者を仮定すると、作者の「きよはらのふかやぶ」が、「竜田河をわたりける時」とはどんな時に生じたのかを考察しなければならなくなります。

前者の意の歌であるので、それは「実際の「たつかかは」に作者が出かけた時」の意であり、山崎にあるという「たつたかは」とか大和国龍田神社付近にあるという「たつたかは」とかに出かけたということであり、「きよはらのふかやぶ」にとって出掛ける用向きがあるか、またはたまたま通りかかることがあるかの可能性を考えなければなりません。

「きよはらのふかやぶ」は従五位下になったことはわかっていますが現在までのところ生歿未詳の歌人です。実際の「たつかかは」に作者が出かけて渡った可能性は、

・貴顕の人に召されて上記のような「たつたかは」まで同道して「たつたかは」を渡った

・任国への行き来の通り道あるいは近くに行く公務のあった場合に立ち寄って「たつたかは」を渡った

のいづれかの場合にあります。物見遊山のため私的に出向いて渡ったたことは貴顕でもない「きよはらのふかやぶ」はしないと思います。たとえ私的に出向いてその時の感慨を和歌にしたら、歌人としての「きよはらのふかやぶ」は披露する場を選びとりあえずストックするのではないでしょうか。

貴顕の人に召されたとすると、なんらかの朝廷の行事が考えられますが、貴顕の行動がわかりませんし、同道したであろう「きよはらのふかやぶ」以外の歌人の名前も今日わかっていません。

「たつたかは」の所在の候補地の記録をみても、例えば、山崎近くに「たつたかは」があるならば、「土佐日記」の記述をみると、ようよう住吉・難波を経て船で山崎に到着し、以後は陸行として車を京から持って来させる間留まっているのにかかわらず、紀貫之一行は、名所であったであろうその「たつたかは」には見向きもしていません。存在が疑われます。

また、龍田神社近くに「たつたかは」があるならば、延喜式にいう龍田神社での風神祭と廣瀬神社での大忌祭が平安時代の毎年のように行われているものの、その時期は旧暦7月であり紅葉の時期ではありません。そしてその祭使一行に加わったことがあるかどうかは彼の分かっている履歴にはありません。

「きよはらのふかやぶ」は、山崎であろうと大和国龍田神社付近であろうと「たつたかは」を眼前にする場所に出かけてはいない可能性が大きいと判断できます。

④ また、詞書では「神なびの山をすぎて竜田河をわたりける時」と竜田河とあわせてその近くに神なびの山のあることを明示していながら、その山の固有名詞や所在するところについて具体の山名、国名、郡名等に触れないで後世の者が地理的に特定できにくい言い方をしている。このことは、特定されることを避けているとも受け取れる言い方と判断できる。

さらに、今例としてあげた山崎などよりも平安京に近いところに「たつたかは」があるとすると、その「たつたかは」に歌人や貴顕の者が行ったとか後の人が訪ねたとかの記録があってしかるべきだがそれも見当たりません。このように、「きよはらのふかやぶ」が行ったという「たつたかは」という川は、そもそもその実在が疑わしい。

実在しない河に作者がでかけるということは有り得ません。

⑤ そのため、ここではそこに行ったという可能性がないので、作者の「きよはらのふかやぶ」が、上記の後者の立場でこの歌は詠まれていると特定されることとなります。

このため、この歌は、絵に添えた歌、すなわち屏風歌と推定できます。

⑥ なお、庭園での景を、作者の「きよはらのふかやぶ」がみずから実際に見てあるいはそのような庭園を題としてこの歌を詠んだとする可能性も、この詞書からは、無条件に排除されていません。しかし、庭園に設けた築山に「神なびの山」と名付けるであろうか。貴顕の誰かが付けたとすれば、少なくともしばらくは流行して貴顕の何人かの例が後世にのこるのではないでしょうか。

勅撰集にそのまま詞書として記載して理解されるには、庭園に設けた山を「神なびの山」と呼ぶと共に、庭園に設けた流れを「たつたかは」と呼ぶことに屏風歌を依頼する人々と歌人たちに共通の認識が確立していなければなりません。そのようなことを示唆する資料は未見なので、庭園の景の可能性をここでは否定しておきます。

⑦ 私には、「神なびの山」という表現は、倭絵に描かれた山を荘厳しようとしている、と理解できます。「神なびの山」にむかう道に架けられた橋を渡る人はその倭絵の登場人物であり、その登場人物は倭絵の屏風を注文した人にとって大事な人のはずです。

そして歌のなかの「すぎゆくらむ」、「(ぬさを)たむくる」という表現はおだやかであり、賀の場を損じない用語です。

⑧ 次に、屏風の絵柄をこの歌から想い描くとすると、秋の山を川の向こうに描き流水に紅葉が浮かんでいる川に橋のある景が一例としてあげられます。そこに作中人物がいるかもしれない。後年の賀の屏風絵によくあるという四季の一画題といえます。

⑨ まとめると、この歌は、

屏風歌という仮定は、詞書に矛盾せず(第一の条件を満足し)、

詠んでいる「たつたかは」のある地に、作者は実際には行っていないのみならず、その川の存在も疑われるが、用語は賀の場になじむものであり賀を祝う気分があふれている内容の歌であり(第二の条件を満足し)、

絵があるとすると、賀を祝う行事の場面に使う屏風の絵柄として、四季の屏風のうちの秋の屏風絵と成り得る(第三の条件を満足する)。

この結果、1-1-300歌は、屏風歌推定の条件をすべて満足しており、屏風歌に成り得る歌です。

このような推定方法は、さきほど紹介した小松氏の意見の範囲です。

⑩ 「たつたひめ」と「たつた(の)やま」は、次回記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

<2017/6/22>