2017/6/5 前回、「700年代のたつたやまは生駒山地か」と題して記しました。大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊とする推定との関係が残されています。
今回は、「たつたやまは竜田道とともに」と題して、記します。
1.『萬葉集』で「いこま」表記の歌
① 『萬葉集』には、「いこま」表記の歌が5首あります。
官人の歌が1首あります。作詠時点は、恭仁京へ住まいを構えよという詔以後とみて、天平13年(741)年と推計されます。
2-1-1051歌 巻第六 悲寧楽故郷作歌一首幷短歌 田辺福麿
・・・つゆしもの あきさりくれば いこまやま (射駒山) とぶひがたけに はぎのえを しがらみちらし さほしかは つまよびとよむ やまみれば やまもみがほし さとみれば ・・・
この歌の「とぶひがたけ」は、生駒山の一峰に和銅5年(712)正月に春日山とともに置かれた烽(とぶひ、のろし台)を指します。「いこまやま」は、現在の生駒山地の主峰である生駒山を指します。
② 非官人の歌が4首あります。
2-1-2205歌 巻第十 秋雑歌 詠黄葉 <よみ人しらず 作詠時点は738以前:作者不明歌>
いもがりと うまにくらおきて いこまやま(射駒山) うちこえくれば もみちちりつつ(紅葉散筒)
2-1-3611歌 巻第十五 遣二新羅一使人等悲レ別贈答及海路慟レ情陳思幷当レ所誦之古歌
秦間満(はだのはしまろ) <作詠時点は736以前:天平8年>
ゆふされば ひぐらしきなく いこまやま(伊故麻山) こえてぞあがくる いもがめをほり
2-1-3612歌 巻第十五 同上 <よみ人しらず 作詠時点は736以前:天平8年>
いもにあはず あらばすべなみ いはねふむ いこまのやまを こえてぞあがくる
この3首は、「いこま(の)やま」を越える、と詠っています。生駒山地に既にある峠道を指しています。いわゆる竜田道の方が奈良と難波との往来に楽であるのに、「たつた(の)やま」と表現していないところを見ると、竜田道が未整備だったころの歌であるかもしれません。日下に至る道がこの歌の峠道の候補の一つとなります。
そうであれば、当時においても古歌という扱いをして、作詠時点を1世代30年遡ることと仮定すると、706年ころの難波と奈良の都をつなぐ道を詠っていることになります。
③ 非官人の残りの1首は、次の歌です。
2-1-4404歌 二月十四日下野国防人部領使正六位上田口朝臣大戸進歌数十八首、但拙劣歌者不取載之 (4384~4407) <よみ人しらず 作詠時点は755以前:天平勝宝7年>
なにはとを こぎでてみれば かみさぶる いこまたかねに(伊古麻多可祢尓) くもぞたなびく
この歌は、「いこまやま」を遠望しています。防人が難波で(あるいは難波で乗船して)詠った歌であり、現在の生駒山地を指します。
④ 「いこま」表記の歌は、「いこまやま」あるいは「いこまのやま」しかなく、結局、現在の生駒山1首といわゆるたつた道でない生駒山地を通過する道3首と遠望した生駒山地1首となります。
2.『日本書紀』での「いこま」の記述例
① 養老4年(720)完成の『日本書記』皇極天皇2年(643)11条に、「いこま」という表現があります。
「山背大兄(従う臣とともに)・・・逃げ出でて肝駒山(いこまやま)に隠れたまふ。・・・山背大兄王等四五日の間、山に淹(ひさしく)留まりたまひてものもえまゐのぼらず。」また「人ありてはるかに上宮の王(みこ)等を山中(やまなか)に見つ。・・・ここに山背大兄王等、山より還りて斑鳩寺に入ります。」
とあります。
② 肝駒山は、山背大兄王等が斑鳩の地から逃げていったところを指しています。山背大兄王等は、追手が一本の道から攻めるような防ぎやすい地形のところに一時逃れたのではないでしょうか。「肝駒山」の候補地は、現在の斑鳩町と平群町の間の山地か、十三峠(大阪玉造より伊勢への道筋で「十三街道」)のある平群町内などの生駒山地かとなります。山も深く、追手からも斑鳩からも約5km程度離れた後者が妥当すると思います。
③ 前回紹介した雄略天皇条には、「日下の直越(ただこえ)の道より河内にいでましき」等とありますが、「いこま」という表記はありませんでした。
④ 延喜式神名帳では大和国平群郡に「往馬坐伊古麻都比古神社二座」(いこまにいますいこまつひこじんじゃ)と記載されています。「いこま」とは、大和国河内国境の山々の東の地を指し、西の地を指す言葉ではなさそうです。
「いこまやま」は大和側から生駒山地の主峰を呼んでいた名、と思われます。
3.竜田道
① 藤原宮の造営用の木材が、近江田上山から平城山を越えて佐保川や初瀬川や造営用運河によって運ばれています(2-1-50歌等)。同時期には大和川を利用した舟運も機能していたに違いありません。舟運とともにその大和川に沿って大和国から河内国に到る道(今仮に「亀の瀬経由の道」ということにする)そのものは既にあったに違いありません。
一般に、軍の移動は陸路の方が段違いに早いし大兵力も可能です。そのような道となったのはいつ頃のことでしょうか。そのような道になったとき「たつたぢ」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
② また、朝鮮・中国との往来が、白村江での敗戦(663)以前にも以後にも、頻繁にありました。百済は、人質に王子を差し出しており、奈良にある都へも使者が来たでしょう。新羅等は天武天皇の即位を祝いに来日しています。
③ 推古天皇の時、隋の答礼使節である裴世清が来日しています。『隋書』によれば608年に来日し、610年帰国しています。来日の折港に着いたら行列をととのえ楽隊をつけて裴世清一行は出迎えられ、王都邪靡堆に近づくと200余騎の慰労をうけています。
『日本書記』を参照すると、王都は小墾田宮であり、海柘榴市(つばいち)に200余騎に迎えられた、ということになります。海柘榴市までの経路は明記されていませんが、下船した難波で出迎えを受けているので、200余騎が迎えた海柘榴市でも下船したと思われます。
④ 海柘榴市があった所は、初瀬川が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点です。初瀬川は佐保川や飛鳥川などと合流し大和川として当時日下江に流下しています。
亀の瀬の通過を後年の片桐且元のしたように、船の乗り継ぎをしたとすると、それまで大和川に沿った道を、それまで舟運の防衛上通行禁止していたとしても、裴世清一行のために、その乗り継ぎ区間の道路はしっかりと整備をしたはずです。奈良盆地内で各川が合流するあたりの沼池の通過なども人馬の労を厭わぬ工夫があったのでしょう。川舟なので、裴世清一行の護衛の面からも充分な配慮をしたと考えられます。
⑤ これ (608) 以降、難所であった乗り継ぎ区間の通行が楽になってこの陸路による官人の往来が頻繁になったのではないでしょうか。
700年代初頭、そのため、「(河内と大和を隔てる山地をこえる)たつたぢのあるやま」を「たつたやま」と歌で詠むようになったのかもしれません。
⑥ 難波と飛鳥浄御原の都の往来には、二上山付近を通る道も候補になりますが、平城京の場合は、この「亀の瀬経由の道」が河内から直行できる道であり有力となります。
⑦ 『日本書紀』天武8年(679)11月条に「初めて関を竜田山・大坂山に置く。よりて難波に羅城を築く。」とあります。この記述は、竜田山・大阪山という表現を、官道の意に用いています。竜田山という地と大坂山(現在の二上山)の地には官道があったわけです。後者は、現在の香芝市穴虫峠を越える道などが考えられています。河内と大和を結ぶこの道を大坂道とも言っています。
⑧ 竜田山という地にある道は、『日本書記』天武元年(672)七月条に、「人有て曰く「河内より軍(いくさ)多(さわ)に至る」といふ。・・・遣わして、竜田を距(ふせ)かしめ、・・・遣わして、数百人を率いて大坂を屯(いは)ましめ、・・・石出道(いはてのみち)を守らしむ。」とあり、進軍してくる道の一つと大坂道とともに認識されています。672年には、既に十分軍を組織的に行動させられる道となっています。
⑨ なぜ「たつた」みちと名付けられたかは、後日を期したいと思います。
4.たつたやま
① 生駒山地の呼称が、「たつたやま」に600年代初めに替りました。山地を越えるために利用する主たる陸路が「亀の瀬経由の道」になり大和川の舟運も増えたからです。
② 前回と前々回の検討結果を表に示します。「いこま」表記の歌も加えました。
表 作詠時点別「たつたやま」表記・「いこま」表記などの歌一覧(2017/5/31現在)
作詠時点 |
たつたやま |
たつたのやま |
たつたひこ |
たつたこえ |
(たつた)無し |
いこま |
712以前 |
2-1-83&起つ 生駒 |
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730以前 |
2-1-881 生駒 |
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732以前 |
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2-1-976 生駒 2-1-1751&起つ 南端 2-1-1753&起つ 生駒 |
2-1-1752 南端 |
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2-1-1754南端 2-1-1755南端 2-1-1756南端 |
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736以前 |
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2-1-3744 生駒 |
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2-1-3611生駒 2-1-3612生駒 |
738以前 |
2-1-1185 生駒 2-1-2215&発つ 生駒 2-1-2218 生駒 2-1-2298 生駒 |
2-1-2198&裁つ 生駒
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2-1-2205生駒山 |
746以前 |
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2-1-629イ 生駒 |
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2-1-1051生駒山 |
748以前 |
2-1-3953&起つ 生駒 |
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755以前 |
2-1-4419 南端 |
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2-1-4404生駒 |
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計 |
8首 |
5首 |
1首 |
1首 |
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注1)歌番号等は、『新編国歌大観』による。「629イ」は、629歌の一伝の意で、同書が使用している。
注2)「&起つ」等とは、「たつた」の意に、同音二意の二つ目の意である。一つ目は、共通に「地名とおぼしき名」である。
注3) この15首のほか「たつたみの」(立民乃)とある2-01-2653歌があるが、「地名とおぼしき名」で無いので考察対象から除外している。
注4)「生駒」とは、「たつた(の)やま」」表記の意が、生駒山地全体であるとしている歌および「いこま」表記の意が、生駒山地全体であるとしている歌
「南端」とは、「たつた(の)やま」」表記の意が、大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根を指す歌
注5)「(たつた)無し」とは、歌に「たつた」表示はないがいわゆる竜田路を詠っている歌
注6)「いこま」とは、「いこま(の)やま」表記のある歌
③ 表をみると、「たつたやま」表示の歌では、一番新しい大伴家持の755年以前の歌2-1-4419歌 が「大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根」を指す歌を意味していますが、それ以外の7首は、生駒山地全体を指している歌です。
そして「たつたのやま」表記の歌では、作者が高橋虫麿の歌である一連の歌(2-1-1751~1756歌)にのみ「大和川に接する生駒山地の南端と大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の尾根尾根を指す歌」を意味しており、官道を舞台にした歌です。高橋虫麿の歌の理解は、前回の理解のままでよいと思います。
④ 2-1-4419歌は、今歩みを進めている官道から見える範囲の山(通過するのに何時間かかかる、いうなれば峠の前後の山)の山桜を詠んでいます。高橋虫麿が作者である2-1-976歌は生駒山地の意と分類して表にしましたが、官道を行くことを詠っている歌です。
このようなことからすると、作者は、官道から望める山々を指して「たつた(の)やま」と表現していることになります。その望めた山々は、作者が「たつた(の)やま」と承知している山地に含まれており、望めた山々には名が付いていなかった(あるいは和歌に用いるまでもない尾根のひとつひとつ)という認識をしていたのではないか、と思われます。
5.詠んでいる季節
① この15首の舞台となっている季節をみると、次の表のようになります。
表7-2 『萬葉集』の「たつた」表記の意味別・季節別分類表(全15首 2017/6/5現在)
四季の区分 |
南端と大和川両岸 |
計 |
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春 |
1753 |
1751 1752 4419 |
4 |
秋 |
976 2198 2215 2218 |
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4 |
冬のはじめ |
2298 |
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1 |
季節限定なし |
83 629イ 881 1185 3744 3953 |
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6 |
注)数字は『新編国歌大観』の『萬葉集』の歌番号である。
② 春の歌と秋(冬の初めを含む)の歌は、「たつた(の)やま」の現地に赴いての感興であり、季節限定なしの歌は、大和を隔てる壁として詠っているものが多い。
このように季節を秋に限定して「たつた(の)やま」を用いているわけではありません。
③ また、「たつた」と表記する万葉集の15首からは、山中での水場あるいは単に山中でおこなうところの、いわゆる「禊」を連想する歌がありません。海での「禊」の歌には、「きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく」の異伝歌が1首(2-1-976イ歌)がありますが、この異伝歌も山中ではなく、1-01-995歌に詠われている「たつたのやま」と「ゆふつけとり」との関係をうかがわせる歌はありませんでした。
5.700年代の「たつた(の)やま」の総括
以下のように総括できると思います。
① 700年代のたつた(の)やまは、
・遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。
・たつた道から見上げた時、並行する大和川の両岸にみえる尾根尾根。生駒山地の南端(大和川に接する地域)と大和川の対岸の尾根。この道を略して、「たつたのやま」ともいう。
この違いは、文脈からくみ取らねばならない。
② 700年代の「いこま(の)やま」は、
・遠望した時、たつた(の)やまより狭く、生駒山を中心とした山々。大和と河内の堺にある山々の意。
・いこま越えしている道(たつた道を除く)のある生駒山地の尾根と谷。
この違いは、文脈からくみ取らねばならない。
③ 次回は、800年代以降の「たつた」表記の歌について記します。
ご覧いただき、ありがとうございます。
<2017/6/5 >