わかたんかこれの日記 700年代のたつたやまは生駒山地か

2017/5/29     前回、「700年代のたつたとは」と題して記しました。高橋虫麿は、「たつた(の)やま」という表記を、諸氏が既に指摘している、大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊に用いていると推定しました。

 今回は、「700年代のたつたやまは生駒山地か」と題して、他の作者はどのように理解しているのか、を記します。

 

1.記述の原則

① この日記の記述の原則を、2017/3/31の日記に記しました。その原則のひとつを、ここに引用しておきます。

「文字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである、という考えを前提とします」

② 「たつた」表記の歌に関しても、もちろんこの原則に基づいています。しかし、万葉仮名を不勉強で、その方面の諸氏の意見を参照できていません。

③ 『萬葉集』の「たつた」表記の歌は『新編国歌大観』によれば15首あります。順次検討します。

 

2.『萬葉集』の「たつた」表記の最古の歌

2-1-83歌  和銅五年壬子夏四月遣長田王子伊勢斎宮山辺御井作歌(81~83)

   わたのそこ おきつしらなみ たつたやま いつかこえなむ いもがあたりみむ

 

① 『萬葉集』の「たつた」表記の歌15首の作詠時点は712以前~755年以前の間に詠われており、最古の歌は2-1-83歌と推計しました。

② この歌には左注があり、「右二首(82と83歌)今案不以御井所作、若疑当時誦之古歌歟歟」とあります。「81歌を作ったその時(の宴において)誦詠された古歌か」と注しています。一世代(30年)遡り得るとすると、682年以前となります。

 682年当時の都は、飛鳥浄御原宮です。694年に、都城制を敷いた初めての都・藤原京に遷都し、その後712年に、平城京に都が遷っています。天武天皇は683年「凡そ都城宮室は一処にあらず、必ず両参を造らん。故に先ず難波を都とせんと欲す。」と詔しており、二つの都が793年まで続きました。

 682年当時、難波の津は、既に、物資の集散・外交交渉上の重要な大和政権の直轄地でした。

 600年代の天皇も官人も、難波と奈良盆地にある都とをよく往復している、ということです。

③ 難波宮は、上町台地に造られています。難波の津はその西側の大阪湾あるいは北側の台地の北端かにあり、東側は縄文時代の海進時には生駒山地の足元まで海であった名残の淡水化が進みつつある湖でした。

 その時代の湖を河内湖と現在称していますが、4~5世紀ころから日下江(草香江)と呼ばれていたそうです。生駒山地の麓にある日下(現在の東大阪市日下あたり)まで船でゆけたのです。

 『古事記』によれば、神武東征にあたり、「浪速の渡を経て青雲の白肩の津(東大阪市日下付近)に泊てたまひき」とあり、仁徳天皇は「茨田堤(大阪府寝屋川市付近)と茨田三宅を作り」、また「難波の堀江を堀りて海に通し、又小椅江を堀り、」と、日下江の治水を心掛け開拓を進めています。

 雄略天皇条には、「はじめ大后(おほきさき)の日下にいましし時に、日下の直越(ただこえ)の道より河内にいでましき。山の上に登りて国の内をみさけたまへば(のぞめば)・・・」とか「日下部の此方(こち)の山とたたみこも平群の山のこちごちの山の峡(かひ)」に・・・」とあります。「日下部の此方の山」とは、生駒山を指します。日下から奈良側へ越える道を、天皇も越えていました。日下の大后のもとにゆくのに天皇生駒山地の北端を通っていません。

 生駒山地は、その西側(大阪平野側)が急傾斜であり、東側が緩斜面です。その北端には淀川が、南端には大和川が流下しています。大和川はこの後北上し淀川が流れ込んでいる日下江に入ります。上町台地と大和とを陸路で結ぶために、この山地を越えようとしてできるだけ平坦な道を期待すれば両端沿いのルートがまず候補となるでしょう。北端は現在の枚方交野経由となり南端は亀の瀬経由となります。

 なお、湖は、江戸時代までに、深野池(大東市付近)と新開池(東大阪市鴻池新田あたり)の二つまで小さくなっています。(国土交通省淀川河川事務所HPの「淀川の成り立ちとひととのかかわり」等による)

④ 難波と大和の都を結ぶためには、生駒山地そのものが問題であり、解決する方法として本日の頭書にあげた「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を通過する道が有力候補でした。難波と大和を隔てる存在であったのが「たつたやま」と称しているものでありました。当時の官人である作者はそのように認識していたはずです。

 なお、難波と大和にある都を結ぶ官道のうち、前回検討した高橋虫麿の歌にある官道は、穴虫峠(二上山の西北)や竹内峠(二上山の南)を通る官道の後に作られた道です。

⑤ この歌が、左注のいうように当時の古歌であっても、当時の作であっても、難波勤務の官人が作者だと推測します。

 この歌の作者は、日下江の海の底から生まれた白波がどんどん立つと詠いだし、しきりに岸に押し寄せてゆく波を、自分の妻を思う気持の比喩として述べています。

 日下江を渡る風が吹き送る白波に乗って日下にすぐ行けたとしても、急激に高度を上げる(立ち上っているかのような)生駒山地を直越えするのは苦しく、妻のいる奈良の都は遠いので、次の転勤のチャンスには戻してもらおう、という別居を余儀なくされている男が、妻を思って詠っているという設定の歌が、この歌です。

⑥ このような歌の披露は、『萬葉集』の最後の歌(家持作の4540歌)と同じように、難波の現地の長官等の賜宴の席だと推測します。高橋虫麿が詠うように、奈良の都は一日ほどの行程の所にありますが、単身赴任してきている官人にはままならない距離であったのでしょう。妻に贈った歌ではありません。

⑦ このように、この歌の「たつたやま」は、難波に単身赴任している官人がいつも遠望する難波と大和(奈良盆地)の都の間にある比高が400~600m以上もある生駒山地を指している、と見られます。難波から大和の都を望む方向にあるのですから。勿論、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を含みます。

 三句の「たつたやま」は、四句で「いつかこえなむ」と詠まれおり、阻む壁の意を強調し、突破する方法を作者は気にかけていません。たつたのやまを越える道の略称として「たつたやま」と言っているわけではありません。

 

3.山上憶良の歌

2-1-881 書殿餞酒日倭歌四首 (880~883)

   ひともねの うらぶれをるに たつたやま みまちかづかば わすらしなむか

 

① この歌は、大納言に昇任して帰京することとなった太宰師の大伴旅人を送る宴での歌の一つであります。時に旅人は66歳、作者憶良は71歳です。

② 大宰府からの帰京は、船によって難波まできます。それから1日足らずの陸路を奈良の都に向かいます。2-1-976歌も同じルートです。当時は平城京が都でありました。その陸路は生駒山地を越えるか避けるかしなければなりません。

 「たつたやま」に「ちかづかば」と作者は詠い、通過する道より、都への近さを強調しています。

③ この歌の「たつたやま」は、大宰府にいる作者にとり、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という狭いエリアよりも、難波と大和(奈良盆地)の都の間を遮っている山々を指しているのではないでしょうか。難波は船による旅行の終点であり、その後の陸路における最後の障害は、帰路の船上で眺めるであろう山並みであるのは自明のことであり、それを「たつたやま」と表現して、都を目前にしても私らとの縁を絶つようなことはなさらないようにとの願いを、この歌で作者は訴えています。

 難波方面から望む生駒山地は急斜面であり、急に立ち上がったかのようにみえる山々を、「たつたやま」と表現していると思われます。作者が、事前に、難波から利用する道は、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」を通過する道と旅人より聞いていたとしたら、「たつたやま」は、その道を指して言ったのかも知れません。その場合でも、その道は、生駒山地を安全に横断する道として「たつたやま」にあるからこそそのように略称できるのです。その山地の北端の道ということを指すのでは、随分と味気ない歌です。

 だから「たつたやま」に「ちかづかば」という表現で、都に至る時間を問題にし、通過する道を問題としていないことを、明らかにしたとみられます。                                                                      

④ これは、作者の憶良ひとりのみではなく送別の席に連なる官人みんなの認識です。

 この歌は、2-1-83歌と同様に、難波と大和を阻む壁となっている山々を、「たつたやま」と表現した歌です。

 

4.帰路の遣新羅使一行のうちの一人が詠う歌

2-1-3744 廻来筑紫海路入京到播摩国家嶋之時作歌五首(3740~3744)

   おほともの みつのとまりに ふねはてて たつたのやまを いつかこえなむ

 

① この歌の作者名は、無記ですが、詞書より、作者の立場は明らかになっています。

 阿蘇氏は、(作者は)「おそらく5首は一人の作で、作者は副使大伴三中と考えられる。この歌は、無事なる帰京を今ようやく信じることができた使人の歌です。天平9年(737)正月に入京。三中は病気で同時に入京できなかったが3月28日30人が拝朝している」と説明しています。

② 「おほとものみつのとまり」とは、難波津の一つの別名であろうと言われています。大伴は現在の大阪市から堺市にかけてに沿う総名であり、古くは大伴氏の所領であったところから名付けられたと言われています。

③ この歌の「たつたのやま」は、河内と大和を隔てる山塊の意であり、「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という狭いエリアあるいはそのエリアにある官道を象徴すると限定しなくともよい。前者の意でも不都合がない歌です。

 

5.羈旅を詠うよみ人しらずの歌

2-1-1185  羈旅作(1165~1254)

   あさかすみ やまずたなびく たつたやま ふなでしなむひ あれこひむかも

 

① 四句の「ふなで」を、船を出す意、つまり出航の意とすると、作者は、その港にいて詠んだか、船出する人に代わって詠んだ歌がこの歌です。その港から「たつたやま」が望めるかどうかはこの歌の表記からは不明ですが、その港のある地と奈良の都とを遮るものの代表として詠まれていると理解できます。

 大和国の手前にある山並みのなかで通い馴れた道のあるあたりの山塊だけを指す、と限定する必要が薄い。

② この歌の「たつたやま」は、海から「たちあがったかのような、大和を遮るやま」という情況を指す名詞句です。

 

6.その他の雑、秋雑歌および秋相聞の歌

① 雑歌として記載されて歌があります。

2-1-976 雑 四年壬申藤原宇合卿遣西海道節度使之時高橋連虫麿作歌一首幷短歌      高橋連虫麿

   しらくもの たつたのやまの つゆしもに いろずくときに うちこえて

   たびゆくきみは・・・とぶとりの はやくきまさね たつたぢの 

   をかへのみちに につつじの・・・

 

① 藤原宇合卿は、旧暦8月17日に命を受け、同10月11日に節度使の印を賜っています。「しらくも」のわく、あるいは「しらくも」に隠れる「たつたのやま」は、大和川にそう「大和川の亀の瀬狭窄部近くの北側の山塊」という大和川の北岸だけをいうのでしょうか。その北岸の官道から対岸の桜を、作者は別の歌で詠っているように、秋には両岸が「いろずく」のをみることができたのでしょう。ここにいう「たつたのやま」は、官道から見える範囲の左右の山々を指しています。

 「いろづくときに」という表現が実景を詠っているとすれば、官道の左右だけでなく生駒山地全体もいろづいている季節のなかにあるでしょう。生駒山地全部が同時に紅葉しているか、特に紅葉の美しい部分をさして「たつたのやま」と称しています。

② 歌の前段は往路、後段は復路を詠っています。西国に行く旅程において、この歌の「たつたのやま」は、最初に通過すべき山々である河内と大和の間の生駒山地その他を含む山間部を指し、後段の「たつたぢ」は、その山間部を通る道をさしています。

③ 秋雑歌および秋相聞の歌も、すべて「たつた(の)やま」は生駒山地を指していると理解して矛盾はなく、また、北端の山地でないと不都合となる歌がありません。

 その歌を記します。

2-1-2198  秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)    作者不明

   かりがねの きなきしなへに からころも たつたのやまは もみちそめたり

 

2-1-2295 秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)     作者不明

   いもがひも とくとむすびて たつたやま いまこそもみち そめてありけれ

 

2-1-2218  秋雑歌 詠黄葉(2192~2222)    作者不明

   ゆふされば かりのこえゆく たつたやま しぐれにきほひ いろづきにけり

 

2-2-2298 秋相聞  寄山             作者不明

   あきされば かりとびこゆる たつたやま たちてもゐても きみをしぞおもふ

 

2-1-3953  平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首(3953~3964)  平群氏女郎

   きみにより わがなはすでに たつたやま たちたるこひの しげきころかも

 

④ 2-1-2198歌は、全山紅葉の景です。作者の見える範囲の生駒山地全部が同時に紅葉しており官道の対岸も見える範囲は紅葉のしており、見える限りの山々をさして「たつたのやま」と称しています。

⑤ 2-1-2218歌および2-1-2298歌の「かり」は、作者の目にした「かり」です。すべての雁が生駒山地の北端だけを大和への飛翔ルートとしているとして理解するのは妥当ではないと思います。山地をどこででも越えて大和に飛翔したのではないでしょうか。当時も今も同じように山超えを、かりはしていると思います。

 観察したデータを御存知でしたら教えてください。詩歌や写真に生駒山頂を越えてゆくかりの姿はないでしょうか。

⑥ 2-2-2298歌および2-1-3953歌では、北端の高度の下がった山をイメージするより生駒山などの600m以上のピークのある山塊(山地)のイメージが「たつたやま」表記にあう、と思います。

 

7.たつた(の)やま再考

①「たつた(の)やま」は、前回検討した高橋虫麿歌を、再度検討してみる必要があります。

②次回は、そのことを記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。  

 <2017/5/29 >