わかたんかこれの日記 みそぎの現代語訳の例 

2017/7/17   前回、「みそぎとは」と題して記しました。

 今回は、「みそぎの現代語訳の例」と題して、記します。

 

1.「みそき」表記と「はらへ」表記に関する仮説

① 現代における「みそぎ・禊」、「はらい・祓」という用語の意味を確認し、和歌における「みそき」表記等がどのような行為あるいは行事などを指すのかを、『萬葉集』などの各歌の検討の前におおまかに検討・整理します。

三代集には、詞書に「祓したる云々」とあって、歌には「みそぎする」という表現がある歌があります。『貫之集』には、「みなづきのはらへ」と題して「みそぎする」と歌にあります。

「みそぎ」という行為が、人々の生活に溶け込んだものであって、いろいろの場面で行われていた結果と思われます。

どのように各歌を現代語訳するか、の事前の整理です。

② 現代語でのみそぎ等の意味は前回検討したように、次のとおりとします。

現代の 「みそぎ・禊」は、その行為を、川などで水を浴びるという民族学的行為と捉え、それにより霊的に心身を清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。また、個人の行為であり、グループで行う行事とか儀式全体を指す言葉ではない。

現代の「はらい・はらえ・祓」は、その行為を、(神道における)神事と捉え、それにより霊的に心身を確実に清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。個人の行為であり、グループで行う行事とか儀式全体を指す言葉ではない。

ここに「(神道における)神事」とは、贖物(あがないもの)を捧げ神を招き、願い又は感謝を申し上げた後に昇神を願う一連の手順があるであろうと推測できる事柄を指し、プロの神主や幣の存在とか玉串拝礼とか直会とかの有無を問いません。定義をするにあたってこれらの確認を要しないこととした、ということです。

③ このような定義の「みそぎ」および「はらえ・はらい」という言葉を用いて、当該和歌における「みそき」表記のイメージを現代語訳するものとし、その訳語例を、作業仮説として表に示します。この表を以後「現代語訳の作業仮説の表」ということにします。

表 「みそき」表記のイメージ別の現代語訳の作業仮説   (2017/7/16現在)

和歌での「みそき」表記のイメージ

現代語訳(案)

イメージ番号

自らが行う

自らが主催する行事・儀式

自らが参加している行事・儀式

罪やけがれなどから心身を霊的に清める。水使用(浴びなくともよい)。

A11その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

A12そのけがれに対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

A13みそぎをしてその神の接遇をする資格又は許しを得る。

A2その罪に対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

A22そのけがれに対してみそぎ(または略式のみそぎ)をする

――

A0

罪やけがれなどから心身を霊的に清める。はらいを行う。

B11その罪に対してはらいをする

B12その罪に対して素朴な神事ではらいをする

B13はらいをしてその神の接遇をする資格又は許しを得る。

B14そのけがれに対してはらいをする

B21その罪に対して神事の一環としてはらいをする)

B22その罪に対して素朴な神事としてはらいをする

B23はらいによりその神の接遇をする資格又は許しを得る。

 

B31その罪に対して神事の一環としてはらえを受ける。

B33その罪に関して神事に加わりその神の接遇をする資格又は許しを得る。

B0

はらいとみそぎを行い罪やけがれなどから心身を霊的に清める。

C11その罪に対してみそぎ又は略式のみそぎをし・・・はらいをする。

C12みそぎのほかはらいを行いその神の接遇をする資格又は許しを得る。

C21その罪に対して霊的に清める神事を主催する。

C22そのけがれに対して霊的に清める神事を主催する。

C3その罪に対して霊的に清める神事に参加する。

C0

(はらいのなかの一行為である)贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼む

D1贖物を供えて祓つ物を自らの身に寄せ擦る等をする

D2贖物を供えて祓つ物を身に寄せ擦る等を指示する

D3贖物を供え祓つ物を自らの身に寄せ擦る等をしてもらう

D0

贖物を供え共同体に迷惑かけたことの許しを乞う

E1原初の祓をする

――

――

E0

神祇令に定める大祓をする

――

F2大祓する。<天皇のみ>

――

F0

神祇令に定める大祓に仕える

G1命により大祓の執行の中の役を務める。

――

G3命により大祓の儀式を執行する。

G0

由の祓

H1みずから由のはらえの儀式を行う

H2由のはらえの儀式を主催する又は実施を命じる

――

H0

祭主として祈願をする

I1祭主として・・・を祈願する

I2祭主として・・・の祈願祭をする

――

I0

祈願してもらう

――

――

J3祈願祭に加わる

J0

夏越しの祓  (民間の行事)又は六月祓(民間の行事)

J1民間行事の夏越しの祓をする

J2民間行事の夏越しの祓を主催する

J3民間行事の夏越しの祓に参加する

K0

喪明けのはらへ

L1喪の明けたことを告げるためにみそぎはらえをする

L2 喪の明けたことを告げる儀式を主催する。

L3 喪の明けたことを告げる儀式に参加する。

L0

お祓いの神事の時によむ言葉

――

――

M3神事によむ言葉(祝詞

M0

禊・祓ともになく、「羽を羽ばたく」「治める・掃討する」等の動詞

N0

1)「はらへ」表記の場合でも「和歌でのイメージ」欄のイメージであればこの表を適用する。

2)「現代語訳」欄の「――」は、論理的に該当しないことを表わす。

3)「和歌でのイメージ」欄において、「祭主として祈願をする」又は「祈願してもらう」には、「祈願成就の感謝をする(又はをしてもらう)」も含まれる。

 

2.時代背景、ものの考え方 その1 

① このような現代語訳の作業仮説をたてた背景を、記します。キーワードは、「祭」、「律令体制」、「大祓」、「はらへ」、「罪」、「けがれ」、「怨霊」です。

② 都が奈良盆地内などを転々としている以前から、氏族が祀る神は、氏単位に祀っていたので、氏の構成員を束ねる者が、祭主とともに今でいう神官役(執行役)を、自らが勤めていました。それが祭です。祭るには、客人を丁重にもてなす作法が重視され、神饌を奉献することから祭がはじまります。

 祭主は、参加者を代表して、神に願いや感謝などを申しあげ、神に参加を乞い宴席を設け、神が悦ぶ舞その他を参加者が演じ、加護を願いました。神社があるわけではなく、集まるところが氏ごとに決まっていました。 射弓や競馬を奉納する祭もあります。

③ 白村江の戦い以後、中国の唐を模して、律令による政治を目指し、支配の及ぶ限りの地域に住む人々を治め、地域外の者をも慕いよるようにと、天皇を中心とした体制として近江令などチャレンジ後701年成立させた大宝律令を、天皇は施行しました。祭政一致が建前でした。

先人の研究によると、当時の人口は、北海道と沖縄を除いて750年頃559万人、900年頃644万人と推計しています。『日本史学年次論文集『古代(一)』(学術文献刊行会編1992年版』)における井上満郎氏の論文「平安京の人口について」によると、「初期ないし前期平安京の人口は12万人前後。逆算すると貴族・官人と天皇・皇族つまり宮廷文学に参画できると思われるのは15千人」です。

④ 氏族の神をはじめ、古代の神は、祟りが神の重要な属性であると観念されており、天皇が、祟る神に殺されるという事態はありうるとされている時代です。天皇は、伊勢大神にも出雲大神にも地域の神にも緊張関係を維持して統治(生活)しています。律令のなかの神祇令は、国が緊張関係を維持している神々を列記し、天皇が一元的に祭るべく(祟りをできるだけ予測し、神を鎮める等)、神祇体制を定めています。(『日本神道史』(岡田荘司編 吉川弘文舘2010)

⑤ また、言霊信仰がありました。大宝律令施行後200年余たって成立した『古今和歌集』でも、その仮名序は、次のように記しています。

「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。・・・ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、をとこをむなのなかをやはらげ、たけきもののふの心をもなぐさむるはうたなり。」

 この文章は、「天地を振動させたり、目に見えない鬼や神を感動させたり・・・することができるのは歌である」(『古今和歌集』(久曽神昇氏 講談社学術文庫)と、宣言しています。「死者はその子孫のみに幸を与え、それ以外の者には災いを被らせるので、人々はその祖先のみを神(氏神)として祭り、それ以外は鬼として恐れるのである」(久曽神氏)。その神と鬼とを自由に扱う手段を我々は持っている、と宣言しています。

⑥ 今判明している養老律令での神祇令は、「天神地祇を祭る」規定として中国・唐の「祠令」を参考に作られていますが、「大祓」と「大嘗祭」(即位時の祭祀)に関しては日本独自の規定です。祭政一致の政体における、天皇始め官人等の諸々の罪を浄化する「大祓」は、国家の行事という位置付けです。「大祓」は恒例の大祓と臨時のものがあります。

⑦ 恒例の大祓は、陰暦6月晦日と12月晦日に行われます。(事前に御禊をし、)当日、担当の中臣氏の官人が御祓麻を天皇に上り、東西の文部が祓刀を天皇に上り、かつ祓詞を読みます。次に、百官男女が祓所に集合して、祓詞を読み、卜部が解除(はらへ)をする。」というものです。担当の官人も禊に相当する行為を事前に行います。

 百官男女(の官人)が集合する祓所は、朱雀門前です。前回の「大祓」から今回の「大祓」までの期間に朝廷に関わる者が犯した罪(以下に説明します)を、(天皇は)祓えつ物(御祓麻など)を置き祓の用具を用意し神聖な荘厳な祝詞天津祝詞の太祝詞事)の言葉をよく知った担当のものに宣読させるので、聞き届けてくれと願い、聞き届けてもらった旨を、官人に伝え、集まった者をも卜部が解除(はらへ)をして、祓えつ物を河に流します。担当の官人は、天皇に報告後、常態の勤務体制に戻る、ということです。(『日本思想体系3 律令』(岩波書店1976))

その朱雀門前の儀式は、地上の支配を神々から委ねられている天皇が、神々の怒りを買うようなことを天皇に仕える者がすること(罪)を見逃してきたかもしれないことを、手順を尽くして許していただいた(それは皆の罪も遠くへ追い払うことを許していただいた)と宣言する儀式と理解できます。言霊信仰につつまれた儀式です。

⑧ 大祓は、先の「現代語訳の作業仮説の表」における「神祇令に定める大祓」(表の番号F0のイメージ)に該当しますが、具体には、天皇が「贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼みはらう」(表の番号D1のイメージ)ことを含んでいます。

⑨ 『岩波講座天皇と王権を考える5』における三橋正氏の論文「ハラエの儀礼」によると、朝廷における大祓の初見は、壬申の乱後の天武天皇5年(676)です。その後朝廷は律令の規定を守って年2回の恒例の大祓を行い、また臨時の大祓をも実行しています。

臨時の大祓とは、祭(神事)の場に清浄性をもたらす「神祇大祓」、災厄などの異常な状態を払い除く「除災大祓」、諒闇・喪服終了を示す「釈服大祓」などです。さらに、平安時代に入り、「禊」との混用が進み大祓は変化します。天皇の清浄性が求められ、由の大祓が主流となります。

由の大祓は、宮中で行う神事のとりやめが対象です。なお、由の祓とは、忌服などのために神事がとりやめとなったとき、その由を神に申し上げる祓のことで、上流貴族も行っています。

淳和朝天長年間(824~834)から大祓の朱雀門大内裏の南側にある正門)前の儀式が建礼門(内裏の紫宸殿の南にある)前でも行われるようになりました。

国家秩序を象徴する儀礼の面影は消えて、神を恐れる個人としての天皇の祓となった大祓は、宗教的な習俗へと様変りしました。臨時大祓は、矮小化されながらも実質的な機能を持った儀礼として継続し続けました。必要とされる形に矮小化されたからこそ、命を持った儀として大祓は存続しました。

例えば、『古今和歌集』成立後の延喜15年(915)の10月には、紫宸殿大庭・建礼門・朱雀門で疱瘡を除くため大祓を行っています。また同日建礼門前で鬼気祭というのも行っています。(三橋氏)。それに伴い、贖物の用意や儀式実行などの経費を負担する部署が朝廷のなかで徐々に変わってきています。

 

3.時代背景、ものの考え方 その2

① 大祓は、律令施行以前からある「はらへ」の観念に基づいています。

その当時の「はらへ」の意は、「贖物(あがないもの)を供え幣(ぬさ)等の祓つ物の力を頼み罪を祓う意です。「現代語訳の作業仮説の表」の「贖い物を供え共同体に迷惑をかけたことの許しを乞う」(同表のE0)となります。

② 一例をあげます。

日本書紀孝徳天皇条の646年の旧俗廃止の詔にある「祓除(はらへ)の悪用」は、人が溺れ死ぬのを見せた、貸した甑(こしき)が倒れて穢れた、などと、迷惑をお前は周りのものにかけたではないかと因縁をつけ贖い物を差し出させて「はらへ」を強要して物品を巻き上げる事例です。現代語訳の作業仮説である同表のE0の悪用です。

 この旧俗の廃止の詔にある例から推測すると、現代の刑法上の罪も含まれますが、周りに不安を生じさせたことも、その共同体の中で罪とされていたと思われます。

祓は、衛生観念から生まれた共同体の自己防衛であったと北康宏氏(『岩波講座日本歴史第2巻』(論文「大王とウジ」)は指摘しています。疫病が共同体の中で流行するとなると、その原因となっている霊的なものを突き止めて贖い物を供え除去しようとしているのが、律令施行以前からある「はらへ」の姿といえます。

 このときの贖い物は、共同体のリーダーの所有(あるいは指示による分配)に、なったのでしょうか。

③ 今日の神道においては、祓の起源を、『古事記』の速須佐之男命(はやすさのおのみこと)の高天原追放においていますが、それは大祓が対象としている罪に反映しています。具体には、中臣氏が百官に聞かす祝詞大祓詞)に、神に「はらふ」ことをお願いするものとして列記されています。 

例えば、

 天つ罪: 畔放ち(田のあぜをこわす罪) 

屎戸(神を祀ろうとする場所を汚す罪)

 国つ罪: 生膚断ち(人の膚を傷つける罪、但し被害者が生きている場合)

       死膚断ち

子と母と犯す罪

高つ神の災(高いところにいる雷神が家屋に落ちて生ずる災禍)

        畜仆し蟲物する罪(畜類を殺してその血を取り、悪神を祭って憎む相手をのろう呪術

を行う罪)

などです。

すなわち、罪の種類をみると、農業など生業を営むことの妨害、祭祀の場の冒涜、近親相姦の類があり、さらに、共同体が被る自然災害(に示されるように神を十分もてなしできなかったこと)と相手に呪いをかけることがあります。

しかし、謀反、国家への反逆、税金の不払いは含まれていません。これらを罪として祓うことをしていないことは、天皇として許すことのできない犯罪であったのでしょう。 これらに対する刑法典は別途あり、皇子が処罰を受けている例もあります。

④ つまりこの祝詞にいう「罪」は、

神より地上の支配を譲られた天皇が人々に安寧な生活を保障できなかったという罪

神がそれとなく教えてくれた過ちに天皇自らが素早くこたえられなかったという罪

をさして言っていると理解できます。「己の指導力不足の結果を不問としてください、信頼してこれからも導いてください、贖物をいっぱい御覧のようにそなえますので。」という祈願が大祓という儀式と理解できます。 いうなれば、統治者のすることに異を唱えないように、神が満足すべき状態をつづけるか気をそらせることをしています。祭に通じるものがあります。

この罪は、現代の「はらい・はらえ・祓」の対象となる罪(であると前回記した)「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」のうち、支配者である天皇の場合に合致します。

大祓の後、天皇は自動的に、(神を十分もてなすことを忘れていなかった)元の状態に戻ったということです。官人等も自動的に元の状態(現状からいえば浄化した状態、本来の天皇の命令指導を正しく受け止めてまじめに実行できる状態)になるのです。

⑤ 支配している地域が平穏でないのが、天皇の罪であるとの感覚であるならば、貴族の氏上にあっては、一族の隆盛が衰えるのは自らの罪と観念しなければなりません。これを一私人として考えれば、栄達が父より後れるのは、一族に対する罪ともなり得ることです。

また、希望がかなわないでいる状況も、祓いを必要とする状況と認識できます。自覚していない罪を犯して神の怒りを買った結果が今の状態である、と認識すれば、祓をして神の怒りを鎮めるということになります(怨霊の祟りの場合もあります)。このように、神と向き合う(を接遇する)機会は度々あり、霊的に身を清めなければならないことが度々ある生活を、天皇や貴族はしています。

⑥ そのため、怒っている神をいかに知るかが重視され、その技術は中務省の下に設置された陰陽寮へと組織化されています。陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断、天文の観察、暦の作成の管理を行っています。また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占がはかられています。この日本の陰陽道は、日本特異の発展を遂げたものです。

 

4.時代背景、ものの考え方 その3

① 茂木貞純氏は、「けがれとは、穢・汚。a清浄と正反対の状況。b語源は、西宮一民氏の説(『上代祭祀と言語』)が妥当。すなわち「不意に、思わず、はからずも受ける損傷」をいう。突然に襲われる、その意外さのかもしだす不気味さによって忌み嫌われる感情が起こり、それが社会的に伝染していくことを怖れ忌むこととなった。」 と説き、例として、死、お産・月経をあげ、触穢を避ける思想を生み、ケガレは祓によって清められる、と説明しています (『日本語と神道 日本語を遡れば神道がわかる』(講談社)

穢の特色は、その呪的な強い伝染力です。特に死穢は不可抗的に死者の家族や血縁関係を汚染するので、その家族が別の家で着座するとその別の家の全員に汚染します。また、死葬には30日の忌がかかるので、この期間は公事に参加できない、とされています。

② 櫛木謙周氏は、「穢観念の歴史的展開」(『日本古代の首都と公共性』(塙書房2014年))で次のように述べています。

藤原実資は日本の穢れは天竺(インド)・大唐(中国)にはないものであると解しており(『小右記』万寿4年(1027825日条)、藤原頼長も穢れの規定は(中国からの移入である)律令にはなく、(日本で独自に制定した)格式に載せられていることを指摘している(『宇槐雑抄』仁平2(1152)418日条。)日本における穢れの思想は神道の思想や律令法で導入された服喪の概念とも絡み合って制度化されるなど、複雑な発展を遂げていった。・・・政治的な罪を起こした者を「穢れ」と表現して京から追放したり、強制的に改名させて姓などを奪う(天皇に仕える資格を剥奪する)事で天皇の身の清浄性を維持する事が行われている。

③ 『世界大百科事典』の「けがれ」の項では、

「人畜の死や出血や出産などの異常な生理的事態を神秘的な危険と客体化したものである。罪や災いと同様に共同体に異常事態をもたらす危険とみなされて回避や排除の対象となるが、穢れは、災いとともに、生理的異常や災害など自然的に発生する危険であり、また罪穢は災いとちがって共同体内部に生起する現象だといえよう。穢が、罪や災いと異なる点は、その呪的な強い伝染力にある。」と説明しています。また、

「火、食物、水は神聖性を伝染せしめる要素で、穢の汚染源にもなるとともにその浄化の手段にも用いられ、服忌や斎戒には別火、斎食、水浴が重視される」、「一定期間の非日常的な謹慎のあと禊すなわち水浴による清めを要する」と解説しています。

④ 貞観式で、「穢」(けがれ)の規定が成立します。承和~貞観年間(834~877)に「穢を近づけると祟りをなす」という考えが定着し、穢れ重視が社会に定着したということです。穢れは、これを忌避する、忌(いみ)または服忌(ものいみ)の対象となったものです。

 この規定は、朝廷としての「穢」です。即ち、統治をまっとうするために天皇が避けるべき「穢」であり、天皇の命を受ける官人にとって、職務を行うために避けるべき「穢」です。「百姓」の者が自らの家族のために避けるべき「穢」がこれと同一のものであるかどうかは分かりません。

⑤ 検非違使という令外官が確認できるのは弘仁7(816)です。検非違使の本職は京における非違(法律違反)を担当していますが、次第に、律令に定めのある刑部、京職、衛府、弾正台などの職務を吸収し、軍事・司法を実質担当し、市司の職も兼務し、民生を担当してゆきます。祭における橋・道路の検分・清掃・行列の護衛をしています。京における掃除担当職を引き受けています。つまり清め仕事を一手に引き受けています。

祭政一致の建前から天皇とその近くにいる者の清浄性を保つのが重視された結果、直接穢れを生じたりその恐れがあるものから遠ざかるようになってゆきました。

⑥ 実例をみると、宮中の伊勢神宮などの古伝祭祀の場合、仏事などの仏教的要素はそれが穢を忌まぬがゆえに不浄とみなされ忌避の対象となっています。

 また、政治的な罪を起こした者を「穢れ」と表現して京から追放したり、強制的に改名させて姓などを奪う(天皇に仕える資格を剥奪する)ことをしています。

 これらのことをも意味するものが穢れです。

⑦ 今、ここで用いようとしている現代語での「みそぎ」の定義(上記1.②の現代の「みそぎ・禊」)では、罪やけがれにも効果あり、としましたが、

その罪とは、前回記したように「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」としています。

また、けがれとは、「昔の考え方で不浄とされる事柄。忌服、月経、お産など。」(『新明解国語辞典』での定義のひとつ)が妥当すると思いますが、過去用いられた「けがれ」という言葉を検討するためには、「昔の考え方で」というところをもう少し具体にしなければなりません。

けがれとは、「日本における共同体で、本来の状態から不安を感じる状態にかわり不浄と認定したとき生じているもので、一定の霊的な手段を講じて無くすべきもの・身から離すべきものと、信じられていたもの」といえます。例えば、平安時代における、人畜などの死や人畜などの疫病やそのほか人畜などの生理的に異常な状態を引き起こしているもの、これがけがれです。

けがれに対して、儀式を伴ってこれを忌避する、忌(いみ)または服忌(ものいみ)を平安時代天皇・貴族などは行っています。穢れているのは、健常でない状態と認識されていました。

現代語の辞典『大辞林』は、けがれを、第一に「けがれること。特に精神的にみにくいこと。よくないこと」、第二に「名誉をけがすこと」、第三に「死・疫病・出産・月経などによって生じると信じられている不浄。罪・災いとともに、共同体に異常をもたらす危険な状態とみなされ、避け忌まれる」。と説明しています。

⑧ 怨霊(うらみをいだいている政治的敗北者の霊)はタタると信じられ、病気や事故も怨霊の仕業と考えている時代、身に覚えのある人間は慎重に対処してゆきます。

 桓武天皇は、息子安殿(あて)親王(後の平城天皇)の病気の原因を陰陽師にうらなわせ、早良親王の祟りと認識させられています。そして早良親王崇道天皇の号を800年に贈る)の鎮魂を遺言して亡くなります(806年)。その後、863年御霊会で早良親王の霊を橘逸勢らの霊とともに祀っています。

六歌仙怨霊説は高橋克彦氏の発見と井沢元彦氏が紹介しています。文徳天皇の後継者争いの敗者に連なる者が6歌仙。「ことのは」は、神をも動かすという哲学を実践したもの。即ち、敗者に加担したものの顕彰を恐らく紀貫之らが行い、六歌仙を怨霊としないための鎮魂であり、文徳天皇に襲いかかる(はずの)怨霊を慰めたもの、と理解しています。

 菅原道真903年に大宰府で亡くなり、後種々なることを京に起こしたと信じられました。道真の怨霊を怖れた人々は、947北野の地に道真の御霊(ごりょう)を祀り(北野天神)、さらに正暦3年(993太政大臣を追贈しています。

 井沢氏は、源氏物語は怨霊信仰の産物であり、ライバルの源氏姓の者たちを代表した光源氏が物語の中で栄えることで(そしてそれを世に知らしめて)ライバルの源氏姓の者が怨霊化するのを阻止している、と説いています。政争の敗者の怨念を鎮めるには、霊を満足させることでありそれが鎮魂であると、説いています(『逆説の日本史』)。

 さらに時代がさがって『太平記』について、丸谷才一氏が「怨霊(御霊)の活躍を詳しく書いた本が出来たら、怨霊はきっと気分をよくしておだやかに振る舞うはずだ――わたしは『太平記』の作者の狙いはそこにあったと思います」(『鳥の歌』、ただし引用文は現代仮名遣いに改めた)を井沢氏は紹介しています。

⑨ 今「みそき」表記を検討している期間中である10世紀には、陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行賀茂保憲父子が現れ、その弟子の一人が陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明(延喜21(921)~寛弘2(1005年))です。

⑩ 祓は、国家・地域の公的なものから、平安中期以後は貴族社会をはじめ個人のための病気平癒や安産祈願など、私的祈祷(私的に祈願してもらうということで、同表のI0とかJ0の類)に広がり、これにはおもに陰陽師が関与しました。本来、神職は所属する神社の神々に奉仕することになっており、外部に出掛けて個人のために私祈祷を執行することには制限がありました。このことが、民間陰陽師を生み、庶民へ向けて祓祈祷を拡大していくことになります。そして十世紀になり、神祇官が管轄していない、陰陽道の河臨祓・七瀬祓が国家的祭法とされました(これらは同表に例示なし)(『日本神道史』(岡田荘司編 吉川弘文舘2010))。

三橋氏のいう「神を恐れる個人としての天皇の祓となった大祓は、宗教的な習俗へと様変り」です。天皇自身の夏越しの祓ともいえるものに変化していって名目上残ったということです。

⑪ 民間行事の六月祓は夏越しの祓の別名であり、神祇令に定める恒例の大祓と同様に一定期間の罪やけがれを貴族らが行ったもので、各家において年中行事化したものです。『権記』寛弘7(1010)六月30日条に「六月祓例の如」とあり、『御堂関白記』長和4年(1015)閏卯629日条に「家祓常の如」とあります。

⑫ 「はらへ」を、絵巻で探すと、時代は下がりますが、『年中行事絵巻』の巻十に「六月祓」(みなづきのはらへ)の場面があります。

上流貴族の敷地内での六月祓が描かれており、庭の遣水(人工の川)から離れた木の根元に棚と陰陽師の席がしつらえられ、陰陽師が遣水に向かっています。そして室内では幼児が女房の差し出す茅の輪をくぐっています。この絵巻では「六月祓」に関する河原での行事の絵はありません。

しかしながら、この絵巻のような場面に対して「みそぎ」という表現を用いている歌もあります。

⑬ 次回は、『萬葉集』の「みそき」表記などを、記します。

御覧いただき、ありがとうございます。(上村 朋)

 

 

わかたんかこれの日記 みそぎとは 

2017/7/10  前回、「所在地不定の河と山」と題して記しました。

 今回は、「みそぎとは」と題して、記します。

 

1.みそぎの意味は今も昔も同じか

① 今回から、1-1-995歌の初句にある「みそき」表記に関して、期間を『古今和歌集』成立の前後凡そ300年と限定して検討し、記します。

② 最初に、和歌の「みそき」表記の説明をするのに使用する、現在私たちが用いる「みそぎ」の意味を確認しておきます。

現代日本語の辞典『新明解国語辞典』に、「みそぎ」という言葉は、「“身滌ぎ”の意。罪やけがれをはらうために、川などで水を浴びて身を清めること」と説明されています。 日本という地域に根付く共同体において、その構成員として霊的に不都合の状態を生じている個人が、霊的にリセットをするために行う行為ともとれます。グループで行う行事を指す言葉とは思えません。

③ 清めるとは、「不吉なものやよごれなどを取り去って、きれいにする。けがれを払い去る。浄めるとも書く。」(同上)と解説があります。

④  このため、「清める」と下記の「はらい」の説明を優先し「みそぎ」の説明を言い直すと、「“身滌ぎ”の意。罪やけがれをはらう 神に祈って罪・けがれなどを除き去るために、川などで水を浴びて身を清めること から不吉なものやよごれなどを取り去って、きれいにすること」となります。

その趣旨は、「“身滌ぎ”の意。罪やけがれと称するものを、神に祈って除き去ろうとする前に、川などで水を浴びることにより霊的に不吉なものやよごれを事前に取り去ること。神に祈ることは要件ではありません(だから神に祈ることがあってもかまいません)。」ということでしょうか

しかし、「選挙で禊が終わった」などと言われる場合は、霊的はもちろん、倫理的、社会的にも関係なく単純に物事のリセットをしたことだけに「みそぎ」という表現があてられている感があります。

⑤ このように、比喩として使われる場合は、思いのほかに拡張して使われる場合もあります。古語辞典には上記のような個人の行為に関する説明の外に、「夏越の祓」と称する行事をいうとか、垢離、祓の意でもあると、説明があります。つまり上記④の意味での「みそぎ」は現在まで連綿としてあるが、そのほかの使われ方が、「みそき」表記の過去にあった、ということです。

⑥ 現代の用語でも、みそぎとおなじような効果を生じる行為を指していると思われる「はらへ」に関して、『新明解国語辞典』は、「はらい」という言葉を立項し、名詞として「祓い」と書くと示し、

A神に祈って罪・けがれなどを除き、身を清める神事。例)水無月の祓い、悪魔祓い。

Bお祓いの神事の時によむ言葉。

C古語ははらへ。

と説明し、動詞として「祓う」を立項し、「払う」と同原として、

D神に祈って罪・けがれなどを除き去る。

E祓い清める:祓いを行って、罪・けがれ・災いなどを清める。

と説明しています。

⑦ 「はらい」が、Aの趣旨の場合、 「みそぎ」と「はらい」の『新明解国語辞典』の説明は、

・「みそき」は、その行為を、川などで水を浴びるという民族学的行為と捉え霊的に心身を清めること

・「はらい」は、その行為を、(神道における)神事と捉え霊的に心身を確実に清めること

と違いを強調するものの、罪やけがれなどに対しては同じような効果がある霊的な行為であることを示しています。だから神事の重要な要素である「霊的に心身を確実に清める神事においてよむ言葉(祝詞)」をも「はらい」は指すという(「はらいい」の)二つ目の意味が生じているとみられます。

⑧ 罪についてこの辞典は、

A道徳(宗教・法律)上、してはならない行い

B道徳(宗教・法律)にそむいた不正行為に対する処罰

Cよくない結果に対する責任

D相手を本当に思うならしてはいけない事をする様子

と説明しています。ここでの「罪」は、上記Aのうちの「道徳あるいは宗教上、してはならない行い」に該当するでしょう。

⑨ けがれについては、

Aきれいに見える物事の裏面に潜む、醜い実情。不正な献金や取引や、虚偽・詐欺・権謀術数など。

B昔の人の考え方で、不浄とされる事柄。忌服・月経・お産など。

と説明しています。ここでの「けがれ」は、上記Bに該当するでしょう。

 

2.『新編大言海』では

① 『新編大言海』(冨山房 1982新編判初版)は、昭和7年(1932)~10年(1935)に刊行された辞典の見出し語を現代仮名遣に改める等のほかは『大言海』の初版のままの辞典です。初版は語源の考究に力を尽くしたと言われています。この辞典からそれより、みそぎ等の説明を引用します。この辞典が引用している出典は割愛します。

 

② みそぎ:名詞:禊:身滌ノ約。

(一)身ニ、罪又ハ穢レアルトキ、河原ニ出デテ、水ニテ身ヲ淨メ祓フコト。ミソギバラヘ。はらへ(祓)ノ(二)ヲモ見ヨ。

(二)<古き語として>多クハ三月三日ニ行フヲ云フ。

(三)天皇ノ禊ヲ御禊ト云フ。

③ はらえ:名詞:祓

(一)祓フルコト。祓ヲスルコト。穢ヲ祓ハシムルコト。コレヲ善解除(ヨシハラヘ)、又、きよばらい(清祓)ト云フ。解除。

(二)水邊ニ出デテ、水ヲ身ニソソギ、清祓(キヨメハラヘ)スルコト。コレヲ禊ト云フ。みそぎ(禊)の條ヲ見ヨ。

(三)<古き語として>罪アル者ニ、祓具(ハラヘツモノ)ヲ出サセテ、罪ヲ清メシムルコト。コレヲ悪解除(アシハラヘ)ト云フ。

④ けがれ:名詞:穢:

(一)ケガレルコト。不淨。ヨゴレ。汚。

(二)死者ニ触レ、産ニ遇ヘル時ナドニ、身、穢ルトシテ、勤ニ就キ、神事ニ與(あづか)ルナドヲ憚ルコト、其日數ニ定メアリ。觸穢。

⑤ けがる:動詞:穢・汚。清離る(きよかる)ノ約カ。清ら、けうら。

(一)<古き語として>不淨ニナル。キタナクナル。ヨゴル。

(二)忌服、産穢、ニ関係シテ居リ。

(三)<古き語として>婦女ノ貞操ヲキズツク。

(四)悪シキ習慣ニ染マル。

(五)<古き語として>月經トナル。

⑥ つみ:罪:障(つつみ)ノ約、慎むノ意。

(一)<古き語として>人ノ悪行、穢レ、禍ナド、スベテ、厭ヒ悪ムベキ、凶(あ)シキ事の稱。

(二)専ラ、政府ノ法律ヲ破ル所行。

(三)神ニ對シテ、恐ルベク慎ムベキコトヲ、犯シタルコト。

(四)又、佛ノ教法ヲ破ル所業。後ニ、其罰ノ果ヲ受クトス。罪業。

(五)人ニ對シテ、道徳ニ背キタル行爲。

⑦ きよ:接頭語:清淨:生好(きよ)ノ義ニモアルカ。

 キヨキ。ケガレヌ。キタナカヌ。イサギヨキ。清淨ナル。

⑧ よしはらえ:名詞:善祓。

 己レガ身ノ穢レヲ、祓ハシムルコト。キヨメバラヘ。罪アリシ者ニ、罪ヲ祓ハシムルヲあしはらへと云フ、共ニ、祓具ヲ出サシム。又、罪ニ因リテ二ツヲ負ハスルモアリ。コノ語、吉棄物(ヨシキラヒモノ)、凶棄物(アシキラヒモノ)ト云ヘルモ、亦同ジ。

⑨ はらう:四段活用の動詞:祓。神ニ祈リテ、災、穢、罪ナドヲ拂ヒ去ル。又、除キ清ム。後ニ、厄ヲ落トスナドト云フモ、此意ナリ。又、凶事ナクトモ、神事ナドニ、人身ヲモ、地ヲモ、家ヲモ、清ムルニ云フ。

⑩ はらう:下二段活用の動詞:祓。須佐之男命、悪キ事、轉アリシニ因リテ、贖物ヲ責メハタリ、祓具(はらへつもの)ヲ出サセテ遣ハレタルヨリ起ルト云フ。

(一)祓ヲ行ハシム。祓ハシム。

(二)罪アル者ニ祓具ヲ課セテ、罪ヲ清メシム。

⑪ これをみると、昭和の時代には、「はらえ」は第一に、「神道に従う善解除」の意であり神に祈ってもよい、第二に「水邊ニ出デテ、水ヲ身ニソソギ、清祓スルコト。コレヲ禊ト云フ」の意、であって、「みそぎ」は、「はらえ」の第二に同じ」の意、と理解している説明です。

 これは、『新明解国語辞典』に対する私の理解と同じところがあります。ただ除去対象が、罪・けがれのほかに、災いが加わっています。

                                                                             

3.漢和辞典では

① 『角川新字源』は、小型ですが、漢字の本来の意義と用法の知識を提供してのち、国語における用法をも説明しています。その辞典によれば、

② 

Aみそぎ。水浴びをして身を清め、邪気をはらうまつり。春禊は三月の上巳(月の最初の巳の日、のちには三日)の日に。秋禊は七月十四日に行う。

Bはらう。みそぎをする、悪をはらう。

同訓異義欄をみよ、とあり、同欄の「はらう」の項には、「禊」字に「水を浴びて、みそぎをしてはらう。春禊」と説明し、「祓」字に「やくばらい、清めのはらいなどをいう」と説明しています。そのほか「除字」、「払」字などの説明もあります。熟語として、禊飲(=禊宴)をあげ、修禊、祧禊、祓禊(ふつけい)を例示しています。

③ 

Aはらう。同訓異義欄をみよ。神にいのって災いをはらい除く。神にいのって身のけがれをはらい清める。のぞきさる。

B はらい。おはらいの行事。

熟語として、祓禊 祓除、祓飾、祓濯、をあげています。

④ :とく、悟る等との説明があり、熟語として解顔、解題などをあげ、解除は、ありません。

⑤ この辞典によれば、「禊」字は、中国古代には、まつり(行事)を指しているが、「はらう。みそぎをする、悪をはらう」にこの字があてられ、「祓」字は、中国古代でも「神にいのって災いをはらい除く。神にいのって身のけがれをはらい清める。のぞきさる。」の意であったようです。

⑥ 日本における文字の使用の歴史、当時の支配階級の中国文化尊崇の念を考えると、祓うことに関する行事をも「祓」字と「禊」字が意味していることは、『萬葉集』・三代集の時代の日本の言葉遣いに影響を与えていること思われます。

 

4.『大漢和辭典』では

①諸橋氏の『大漢和辭典』では、つぎのように説明しています。

A神に祈って災いをはらひのぞいて福を求めること。

Bのぞく。弊害穢悪をのぞき去る。以下略。

熟語に、祓串、祓禊などを例示しています。

Aあれる。荒地。雑草が生ひ茂る。又、その地。

B雑草。

Cけがれる、けがす、けがれ。Dけがらはしい所。以下略。

熟語に、穢汚、穢土 穢人(古く、東夷の名。)などを例示しています。

Aみそぎ。水辺で行ふ悪を祓ひ除く祭。

Bみそぎする。はらふ。

熟語に、禊遊(陰暦3月3日のみそぎ遊び)、禊飲(上巳のみそぎの酒もり)などを例示しています。

 

5.この検討における「みそぎ」の意

① 以上を踏まえて、現代における「みそぎ」などの用語は、当面、次のような意味で用いることとします。

② 仮名の「みそぎ」を漢字で表現する場合は「禊」と書き表す。

A 「みそぎ・禊」は、その行為を、川などで水を浴びるという民族学的行為と捉え、それにより霊的に心身を清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。また、個人の行為であり、グループで行う行事とか式典を指す言葉ではない。

 

③ 仮名の「はらい、はらえ」を漢字で表現する場合は「祓」と書き表す。

B 「はらい・はらえ・祓」は、その行為を、(神道における)神事と捉え、それにより霊的に心身を確実に清めることとなる行為をいうものとする。罪やけがれなどに対して効果がある行為である。個人のおける行為であり、グループで行う行事とか式典を指す言葉ではない。

ここに「(神道における)神事」とは、贖物(あがないもの)を捧げ神を招き願い又は感謝を申し上げ昇神を願う一連の手順のあるであろうことを指し、プロの神主や幣の存在とか玉串拝礼とか直会とかの有無を問いません。定義をするにあたってこれらの確認を要しないこととした、ということです。

 

 

④ 上記に該当しないが「みそぎ」、「はらい・はらえ」と表現されている行為や行事・儀式に相当する場合は、別途定義する。

 例えば、『新明解国語辞典』が説明している「はらいとは、お祓いの神事の時によむ言葉」という場合は、現代語の文章においては、「神事によむ言葉(祝詞」と書き表すこととし、その意は、「霊的に心身を確実に清めるという神事を行う際に、その神事の祭主あるいは執行者がよむ言葉(祝詞)」とする。

 

6.和歌における「みそき」表記の例

① 「みそき」表記が、現代日本語の「みそぎ・禊」のこのような意(上記5.の定義)に通じるとして用いられている和歌は、古語辞典が種々説明しているように、一部の和歌にしかありません。例えば、

 

1-1-501  題しらず 

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

 この歌の「みそき」表記は、「川などで水を浴びるという民族学的行為と捉え、それにより霊的に心身を清めること」(A)にとどまらず、祈願の行為を指すかにみえます。

 

1-2-162  返し 

ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふなはみそぎにぞせし

 この歌の「みそき」表記も、Aではなく、何かを水に流し去ることを指しているかにみえます。

 この歌は「賀茂祭りの物見侍りける女のくるまにいひいれて侍りける」と言う詞書の「ゆきかへるやそうち人の玉かつらかけてそたのむ葵てふ名を」(1-2-161歌)の返事の歌です。

 

2-1-629  八代女王天皇歌一首 

きみにより ことのしげきを ふるさとの あすかのかはに みそぎしにゆく(潔身為尓去)

この歌の「みそき」表記は、Aに近そうです。あるいは、祈願をしているのかもしれません。

 

3-19-11歌  みなづきのはらへ 

みそぎする川のせみればから衣ひもゆふぐれに浪ぞ立ちける

この歌の「みそき」表記は、みなづきのはらへ(夏越しの祓か)という民間の行事を指しているようです。

 

1-1-995  題しらず

 たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく

 「みそき」表記は、何を指すのでしょうか。

 

② 次回は、1000年前の「みそき」表記に関する仮説について、記します。

 御覧いただき、ありがとうございます。

 

<2017/7/10  上村 朋>

 

わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山

2017/6/26 前回、「よみ人しらずとたつたの歌」と題して記しました。

 今回は、「所在地不定の河と山」と題して、記します。

 

1.屏風歌の条件

① 今回は、三代集に「たつたひめ」表記または「たつた(の)やま」表記のある歌について、「たつた(の)かは」表記の歌と同様に、屏風歌の可能性を検討します。

② 屏風歌とは、出題された題が、絵で示され、それに応じて詠った歌と認められる歌を言うこと、として4種類あるうちの

a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌」 および

c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」

の可能性があるかどうかを、歌本文の分析・解釈から検討します。

③ 次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、上記のaまたはcの該当歌、即ち屏風に書きつけ得る歌と推定します。その理由は、前回の日記(2012/6/22の「よみ人しらずとたつたの歌」を参照してください。

第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと 

第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨に用いられていないこと

第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。

 

2.三代集でたつたひめ」表記の歌

① 三代集には「たつたひめ」表記の歌が4首あります。上記の条件で検討すると、次のとおりです。

1-1-298歌  あきのうた           かねみの王   

   竜田ひめたむくる神のあればこそ秋のこのはのぬさとちるらめ 

 この歌は、「ちる」と詠っており、第二の条件を満足していないので、屏風歌の可能性が低いです。

歌合での題詠歌なのでしょうか。作詠時点は、作者の没年未詳により古今集成立の905年以前と推計します。

 

 

 1-2-265歌  是定のみこの家歌合に         壬生忠岑     

   松のねに風のしらべをまかせては竜田姫こそ秋はひくらし 

 この歌は、詞書より、屏風歌ではありません。 作詠時点は是定親王家歌合の行われた892年です。

 

1-2-378  題しらず            よみ人しらず   

   見るごとに秋にもなるかなたつたひめもみぢそむとや山もきるらん 

 この歌は、上記の条件を満足し、屏風歌の可能性があります。

 作詠時点は、後撰集よみ人知らずの歌なので、905年(古今和歌集成立時)以前と推計します。

 

1-3-1129  たび人のもみぢのもとゆく方かける屏風に  大中臣 能宣   

   ふるさとにかへると見てやたつたひめ紅葉の錦そらにきすらん 

 この歌は、上記の条件を満足した屏風歌です。 作詠時点は田島氏の指摘している「右兵衛督忠君屏風 康保5年(968)6月13日」(『屏風歌の研究 資料編』)とします。

 

② この4首は、屏風歌が確実である歌1首、今回推計した屏風歌候補が1首、その他の歌が2首となりました。すべて紅葉を詠んでいます。紅葉あるいは秋にかかわる女神というイメージで詠まれています。延喜式神名帳にない神名です。

③ 田島氏の『屏風歌の研究 資料篇』では、このうち1-1-294歌のみを屏風歌としています。

 

3.三代集の「たつた(の)やま」表記の歌

① 三代集には「たつた(の)やま」表記の歌が16首あり、上記の条件で検討すると、次の表のとおりです。屏風歌の可能性が5首にありましたが、この5首を田島氏は屏風歌としていません。

「たつた(の)かは」表記の歌と比較すると屏風歌の可能性のある歌が少ない。

② そのかわりに既に『萬葉集』でもありましたが、「たつ」がいわゆる掛詞として多く用いられています。16首中13首にあります。「たつた(の)かは」表記では、恋の部の2首だけ(1-1-629歌、1-2-1033歌)であり屏風歌の可能性のない歌でした。

 

表 三代集における「たつた(の)やま」表記の歌(作詠時点順、重複歌を除く) 

2017/1/11 15h現在>

作詠時点

歌番号

部立

歌 (作者)

詞書

「たつ」の語句の意

屏風絵

849以前:よみ人しらず

1-1-994

雑歌

風ふけばおきつ白波たつた山よはにや君がひとりこゆらむ (よみ人しらず)

題しらず

白波起つ・たつたやま

849以前:よみ人しらずの時代

1-1-995

雑歌

たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山にをりはへてなく (よみ人しらず)

題しらず

唐衣裁つ・たつたのやま

? 

887以前:仁和中将御息所歌合

1-1-108

春歌

花のちることやわびしき春霞たつたの山のうぐひすのこゑ (藤原ののちかげ)

・・・の家に歌合せむとてしける時によみける

霞立つ・たつたのやま

905以前:歿

1-2-382

かくばかりもみづる色のこければや錦たつたのやまといふらむ (とものり)

竜田山を越ゆとて

錦裁つ・たつたのやま

905以前:古今集

1-1-1002

雑体

・・・山ほととぎす なくごとに たれもねざめて からにしき たつたの山の もみぢばを 見てのみしのぶ 神な月 しぐれしぐれて ・・・ふる春さめの もりやしつらむ (つらゆき)

短歌 ふるきうたたてまつりし時のもくろくのそのながうた

からにしき裁つ・たつたのやま

905以前:後撰集よみ人知らず

1-2-359

かりがねのなきつるなへに唐衣たつたの山はもみぢしにけり (よみ人しらず)

やまとにまかりけるついでに

唐衣裁つ・たつたのやま

905以前:後撰集よみ人しらず

1-2-376

いもがひもとくとむすぶとたつた山今ぞ紅葉の錦おりける (よみ人しらず 万葉異伝)

題しらず

たつ・たつたやま

905以前:後撰集よみ人しらず

1-2-377

雁なきて寒き朝の露ならし竜田の山をもみだす者は (よみ人しらず 万葉異伝)

題しらず

たつたのやま

905以前:後撰集よみ人しらず

1-2-383

唐衣たつたの山のもみぢばは物思ふ人のたもとなりけり (よみ人しらず)

題しらず

唐衣裁つ・たつたのやま

―  

905以前:後撰集よみ人しらず

1-2-389

などさらに秋かととはむからにしきたつたの山の紅葉するよを (よみ人も)

題しらず

から錦裁つ・たつたのやま

― 

945以前:歿

1-2-385

唐錦たつたの山も今よりはもみぢながらにときはならなん (つらゆき)

題しらず

唐錦裁つ・たつたのやま

945以前:歿

1-2-386

から衣たつたの山のもみぢばははた物もなき錦なりけり (つらゆき)

題しらず

から衣裁つ・たつたのやま

955以前:拾遺集よみ人しらず

1-3-138

秋はきぬ竜田の山も見てしかなしぐれぬさきに色やかはると (よみ人しらず)

題しらず

たつたのやま

955以前:拾遺集よみ人しらず

1-3-699

なき名のみたつたの山のあをつづら又くる人も見えぬ所に (よみ人しらず)

題しらず

名のみ立つ・たつたのやま

988以前:三条太政大臣藤原頼忠家紙絵

1-3-560

ぬす人のたつたの山に入りけりおなじかざしの名にやけがれん (藤原為頼)

廉義公家のかみゑに、たびびとのぬす人にあひたるかたかける所

たつたのやま

◎ 

997以前:拾遺抄

1-3-561

なき名のみたつたの山のふもとには世にもあらしの風もふかなん (藤原為頼またはよみ人しらず)

廉義公家のかみゑに、・・・かたかける所

名のみ立つ・たつたのやま

 合計

16首

 

 

 

 

◎ 2

△ 5

注1)     歌番号等は『新編国歌大観』による

注2)     重複歌は、2首ある。拾遺集560歌と拾遺抄539歌、拾遺集561歌と拾遺抄534歌である。

注3)     「「たつ」の語句の意」欄:「たつ」に掛けている語を特記した。すなわち、「たつたのやま」のほか「裁つ」と「起つ」と「立つ」である。

注4)     「屏風歌」欄の◎印は詞書に「かみゑに」とある歌。△印は今回の検討で屏風歌と推定した歌。「かみゑ」とは、いわゆる障子絵であり、先に定義した屏風絵のうちの「 b障子その他の(本来和歌を書きつけたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌」にあたる。

注5)     田島氏は、この表のうち1-3-560歌と1-3-561歌の2首を屏風歌としている。

 

③  検討例を示します。

1-1-995  詞書の「題しらず」から、直ちに屏風歌ではない、と言い切れません。

 この歌は、この一連の作業の最終の検討対象の歌であるので、屏風歌の可能性については初句にある「みそぎ」の語句の検討が済んでから、改めて論じることにします。

 賀の要素の言葉がどれだか見当がつかないことを指摘しておきます。

 

1-1-108  屏風歌との仮定は、歌合の歌と記している詞書と矛盾します。

 うぐひすは、どこの山にも通常生息しているので、この歌における「たつたの山」は特定の山を指すのではなく、「霞が現にたっているあの立田山」の意となります。

 

1-2-359 この歌は、諸氏が『萬葉集』巻十の2198歌「かりがねの きなきしなへに からころも たつたのやまは もみちそめたり <鴈鳴乃 来鳴之共 韓衣 裁田之山者 黄始有>」の異伝または改作であろう、と指摘しています。

 この歌は屏風歌ではありません。詞書は、大和国に着任した時などの恒例の挨拶歌を示唆しています。「まかる」ということばは、現在の「業務で出張する」あるいは「赴任する」あるいは「経由して移動する」という行為に相当する行為を指していることばです。

 作詠時点は、『後撰和歌集』のよみ人しらずの歌であるので、直前の勅撰集の成立時点という推計ルールに従ったところですが、もっと遡り得ると思われます。

 『古今和歌集』の撰者が採らなかったのは、創出した「たつた(の)かは」のイメージを尊重して、既に『萬葉集』に用例のある「たつた(の)やま」表記の歌から秋の歌を慎重に避けたのではないでしょうか。

 

1-2-376 この歌も、『萬葉集』巻十の2215歌「いもがひも とくとむすびて たつたやま いまこそもみち そめてありけれ <妹之紐 解登結而 立田山 今許曽黄葉 始而有家礼>」の異伝と指摘されています。「いもがひも とくとむすびて(と)」と詠う歌は、『新編国歌大観』1~3巻では、この類歌以外ありません(上記のほか2-3-62歌、3-3-126歌)。

 この歌は、屏風歌の可能性があります。

 萬葉集歌の三句「たつたやま」の「たつ」に、「発つ」(出発する)を掛けており、又初句から二句は「竜田山」の序詞であると諸氏が指摘しています。

 異伝のこの歌の三句「たつた山」の「たつ」には、万葉集歌とは別の「立つ」(評判がひろがる)と「発つ」(はじまる)もかけている理解もできます。

 現代語訳を試みると、有意の序詞として「あなたの紐を解いたり、結んだりする仲になったと私共は評判になりました。その「立つ」という表現を共有するたつた山も評判通りに・・・ 」 あるいは「あなたと紐を解いたり、結んだりする仲とやっとなりました。その「発つ」という表現を共有するたつた山も(私たちと同じように)やっと時を得て・・・ 」となります。

 いずれにしても、この歌は、四、五句の「・・・今ぞ紅葉の錦おりける」が進行形であり、初句から三句が二人の間を象徴しているとすると、今後も織りつづける意のあるこの歌のほうが本歌より祝意が強まっています。

 何故異伝が伝承されてきたのでしょうか。1-2-359歌同様にこの歌を使う用途が多々あったのではないかと思われます。未婚の子女の賀の席の屏風に添える歌あるいは子女の日常用の屏風が想定できます。

 

1-3-138  初句「秋はきぬ」は、立秋を指します。歌に祝意がみあたりません。屏風歌ではありません。

 

1-3-560および1-3-561歌 「かみゑ」とは、屏風絵・障子絵や絵巻・絵冊子に対して一枚の紙に描いた小品の絵のことです。先に定義した屏風絵のうちの「 b障子その他の(本来和歌を書きつけたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌」にあたります。

 

④ 秋の部に置かれ紅葉を歌う歌が多いが、「たつた(の)かは」と同様に秋の部の歌は、所在地不定の山の名前と理解できます。しかし「たつた(の)やま」は、屏風歌を意識せずこの時代用いられていると言えます。

⑤ 作詠時点からみると、900年までの1-1-994歌などの紅葉を歌わない歌3首には、700年代の「たつた(の)やま」のように所在地が特定できるかのイメージがあります。

901~950年は全て紅葉を詠い、「たつた(の)かは」同様に所在地不定の「たつた(の)やま」となりました。

951年以降詠むことが少なくなり、かみゑで作者は趣向をこらしたのではないか、とみられます。

⑥ 700年代のたつた(の)やまは、2017/6/5の日記に記したように、

・遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。

・たつた道から見上げた時、並行する大和川の両岸にみえる尾根尾根。生駒山地の南端(大和川に接する地域)と大和川の対岸の尾根。この道を略して、「たつたのやま」ともいう。

この違いは、文脈からくみ取らねばならない。

ということでした。

⑦ 900年代までの3首のうち、1-1-994歌は、後者の、たつた道のある尾根尾根を意味しているあるいはそのたつた道を意味していると、見られます。1-1-994歌と1-1-108歌は家禽である鶏が登場したりウグイスの声を聴く作者の姿勢からは山里に近い山(かつ所在地不定)を指しているようにみえます。

⑧ 「たつた(の)やま」表記は、その後「たつた(の)かは」表記の影響を受けている、と言えます。

⑨ 1-1-995歌は、「からころも」に導かれた「たつたのやま」表記です。「からころも」に導かれたほかの「たつた(の)やま」表記の歌(秋の部の4首と雑体の部の1-1-1002歌)すべてが紅葉を歌っています。三代集では(即ち1050年までの歌では)、例外が1-1-995歌である、といえます。

 

4.「たつた(の)かは」表記の検討の補足

① 前回 屏風歌の可能性を否定した歌1首について、補足します。可能性があるとも理解できますので。

1-2-416    題しらず         よみ人しらず

   たつた河秋は水なくあせななんあかぬ紅葉のながるればをし

 

② この歌の詞書は、「題しらず」です。直ちに屏風歌であることを否定するものではありません。

③ 五句に「をし」とありますが、第二の条件を、解釈によっては満足します。

作者は、五句で「ながるればをし」と言っています。流水が少ない河床に集まっている落葉が風により散ることなど念頭に置かず、ひたすら川の水が原因でこの景が消えることを残念に思っています。風が吹くかもしれないことを心配していません。

④ 作者にとって風の影響は無いものとして詠む条件が、あるいはあったのかもしれません。

 風が吹かないよう、川の水位が上昇しないよう神か誰かが押しとどめている状況が倭絵で描かれています、と詠った歌は、時の進行を賀を受ける人が止めている意、あるいは神がそのように取り計らってもらっている人となり、その状況を詠っているのはその人を寿いでいることになります。これこのとおり風は無論のこと、ままならぬ日時の推移を押しとどめていますね、と詠っているのがこの歌である、ということになります。

⑤ このような理解を求める条件があれば(倭絵がそのように訴えていると理解すれば)、祝いの席におかれるべき屏風に適う歌となります。

 

5.「たつた」表記の総括

① 三代集の「たつた(の)かは」表記のイメージは、創出した825年以前から1050年まで当時の歌人にとり、また歌に親しんだ人にとり、一つの共通のイメージとしてあった、ということがわかりました。700年代から実在する特定の川の特定の区間を指す固有名詞ではなく、所在地不定の紅葉の河を指して言う普通名詞というイメージです。

 秋の季語として「たつた(の)かは」は、ゆるぎない存在となっています。

 かんなびあるいはみむろのやまから流れ来る「たつたかは」もあれば、大和川など荷船の往来のある「たつたかは」もあったということです。

② 三代集の「たつたひめ」 表記は、紅葉あるいは秋にかかわる女神というイメージで詠まれています。神というより、紅葉あるいは秋を擬人化したイメージです。陰陽五行説に基づいて当時の貴族である歌人が生んだという説は納得がゆきます。

③ 三代集の「たつた(の)やま」表記の16首は、勅撰集別にみると、

古今和歌集』では、秋の紅葉と「たつた(の)やま」表記は無関係です。

 二番目の『後撰和歌集』では、秋の紅葉と「たつた(の)やま」表記は縁語関係となってしまっています。

三番目の『拾遺和歌集』では、歌数が激減し、かみゑに書かれた歌があります。

撰修する方針の反映もあるでしょうが、田島氏が指摘しているような屏風絵の需要の質と量が原因の一つと思います。

④ 『萬葉集』からあった「たつた(の)やま」表記は、700年代の「たつた道から見上げた時、並行する大和川の両岸にみえる尾根尾根。生駒山地の南端(大和川に接する地域)と大和川の対岸の尾根。この道を略して、「たつたのやま」ともいう」という面を引き継ぎ901年以降は「たつた(の)かは」の創出以後その影響を受け、所在地不定の紅葉の山、というイメージに替りました。

 そのうえで中国の故事を踏まえた歌が、平安時代の主たる発表の舞台である屏風歌や歌合ではない、かみゑという発表場面に登場しています。

 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌には、萬葉集歌の異伝あるいは改作がいくつかありましたが、明らかに1-1-995歌は1-1-994歌とともに新たに創作された歌です。

 

⑤ 通過儀礼の宴で飾る屏風を発注する立場の方々も、所在地不定の紅葉の「かは」と「やま」を受け入れたと思われます

 次回から、1-1-995歌の用語の「みそぎ」について、記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

<2017/6/26  >

わかたんかこれの日記 よみ人しらずとたつたの歌

2017/6/22 前回、「屏風の需要」と題して記しました。

 今回は、「よみ人しらずとたつたの歌」と題して、記します。

 

1.よみ人しらずの歌の屏風歌の可能性

① 前回紹介した田中喜美春氏と田中恭子氏の論からは、朝廷における最初の賀の儀と記録される天長2(825)の嵯峨上皇の四十賀の儀にも、予祝のため、言葉のもつ呪力を信じて屏風の絵に歌を寿いでいるはずだ、となります。しかし、はっきりそれとわかる歌が残されていません。

古今和歌集』のよみ人しらずの歌に紛れ込んでいるのでしょうか。

② そのため、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌を改めて検討します。

よみ人しらずの歌本文を中心にして、歌のなかの論理、言葉そのものを吟味し、その詞書や他の歌との整合などを確かめ、その歌が前回定義した屏風歌となり得るかどうかを検討します。

この検証方法は、歌の資料としている『新編国歌大観』所載の当該歌以外の情報での確認を必ずしも要件としていません。歌の表現面から「屏風歌らしさ」を摘出してゆくのは手順が逆であるという指摘もあるかもしれません。確実に屏風歌であったという検証ではなく、屏風作成の注文をする賀の主催者が、賀を行う趣旨より判断して屏風に描かれた絵に相応しいと選定し得る歌であってかつ歌に合わせて屏風絵を描くことがしやすい和歌、を探したということです。(結果として「たつた」表記の歌の多くにその可能性を指摘できました。)

 

2.検討の方法

① 屏風絵とは、出題された題が、絵で示され、それに応じて詠った歌と認めらる歌を言うこと、と前回定義して、それが4種類あると示しました。

今回は、そのうちの

a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌」および

c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」

に、よみ人しらずの歌が該当するかどうかを、歌本文の分析・解釈から検討します。

② 次の条件をすべて満たす歌は、倭絵から想起した歌として、上記のaまたはcの該当歌であり屏風に書きつける得る歌と推定します。

第一 『新編国歌大観』所載のその歌を、倭絵から想起した歌と仮定しても、歌本文とその詞書の間に矛盾が生じないこと 

第二 歌の中の言葉が、賀を否定するかの論旨には用いられていないこと

第三 歌によって想起する光景が、賀など祝いの意に反しないこと。 現実の自然界での景として実際に見た可能性が論理上ほとんど小さくとも構わない。

 

③ 第一の条件は、詞書に「歌合に」などとある歌は屏風歌と推計しない、ということです。小松英雄氏は、「古今集における)詞書は、「そういう和歌として読むように」という撰者の方向付けである」としており、その方向付けに屏風絵が含まれていないならば、その判断を尊重する、ということでもあります。現代の私が屏風歌として適切であると思うだけでは、当時の屏風歌になり得ると推計するわけにはゆきません。

なお、勅撰集において、「題しらず」ということは、撰者たちも本当に知らない場合のほか事情をぼかしている場合もあります。

④ 第二の条件は、予祝の意がないのは、屏風歌に相応しくない、ということです。現状肯定でも前向きであれば構いません。 「さびしい思いをする」意の用語、「ちる」および「をし」と詠う歌はふさわしくないと思います。「うつろふ」ということばは微妙です。

⑤ 第三の条件は、絵師は現実をデフォルメして描いたり、空想の絵をかくことがありますが、そうであっても、賀の儀に使用する屏風としてふさわしい絵を彷彿させるなら良し、ということです。後年の月次屏風を念頭におけば、四季の一時点を描く絵を想定できるならばその歌は屏風歌の可能性あり、ということです。

 この第三の条件は、絵と歌が無関係ではありえないので、その面のチェックです。

 

3.古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、四季の部の歌

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、春の部の歌に上記の条件を当てはめてみると、いくつかの歌が該当し、屏風歌として使用が可能です。

② 野遊びを詠う1-1-17歌 1-1-18歌、若菜摘みを詠う1-1-19歌 1-1-20歌のほか、山桜を詠う1-1-50歌 1-1-51歌 1-1-69歌が該当します。

 1-1-69歌における「うつろふ」は、桜自身の意思として理解しました(田中喜美春氏の説)

③ 橘と山吹を詠う1-1-121歌も該当します。

④ 夏の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。

1-1-135歌 この歌に左注あり:「このうたあるひといはく、かきのもとの人まらが也」

1-1-148歌 1-1-150歌 は、ほととぎすを詠っています。

⑤ 秋の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。少し気になる歌を含みます。

1-1-208歌 1-1-210歌 1-1-2521-1-281歌 1-1-283歌 1-1-284歌 1-1-288  1-1-307

⑥冬の部の歌では1-1-314歌 1-1-316歌 1-1-317歌 1-1-319歌などが使用可能です。

 

4.『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、賀の部の歌

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、賀の部の歌では、次の歌が屏風歌として使用が可能です。

1-1-343歌 1-1-344歌 1-1-345

② 1-1-346歌は、「思ひでにせよ」という命令形で歌が終わっており、ふさわしくないと推計しました。

 

5.『古今和歌集』のよみ人しらずの歌のまとめ

① 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌には、賀の儀の屏風用として用いることが可能であると思われる歌がいくつかありました。詞書は題しらずであり、作詠時点の推計は個々の歌ごとには困難でありますが、天長2(825)の嵯峨上皇の四十賀の儀に用い得る歌があったということであります。

② よみ人しらずの歌には「たつたかは」表記の歌も3首あり、皆可能性がありました。

1-1-283歌 春 竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ (よみ人知らず) 

1-1-284歌 春 たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし (よみ人知らず)

1-1-314歌 冬 竜田河錦おりかくかんな月しぐれの雨をたてぬきにして (よみ人しらず) 

 この3首は、作詠時点を825年と推計するのが誤りであると積極的に主張する資料がありません。

③ 諸氏は、和歌において「たつたかは」表記があれば、紅葉の名所として説明しています。

古今和歌集』において、推計した作詠時点からみるとこの3首は、「たつたかは」表記の最初のグループになります。諸氏はその解説においても紅葉の名所としています。先例がなくて、そのよみ人しらずの作者が、なぜ秋の名所と意識したのか。よみ人しらずの歌より前の時点に、由来となるような事柄に関する説明がほしいところです。

しかしながら作者のよみ人しらずの人達は共通の認識を持って「たつたかは」表記を用いて詠んでいるかにみえます。あるいは、共通の認識を持っていると思われる歌を『古今和歌集』は撰集しているといえます。その先例となるきっかけが、屏風の需要、ひいては屏風歌の需要ではないかと思います。この3首以前に歌人の間で研鑽していることを想定しなければなりません。

 

6.三代集の「たつたかは」表記の歌

① それでは、三代集における「たつた(の)かは」表記の歌すべてを、上記の条件で検討する

と、次のとおりです。

 

表 三代集における「たつた(の)かは」表記の歌(作詠時点順、重複歌を除く) 

<2017/1/11 15h現在>

作詠時点

歌番号

部立

 歌  (作者)

詞書

屏風絵

824以前:平城天皇薨去

1-1-283

竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ (よみ人知らず)

題しらず 

△ 

849以前:よみ人しらず

1-1-284

たつた河もみぢば流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし (よみ人知らず)

題しらず

849以前:よみ人しらず

1-1-314

竜田河錦おりかくかんな月しぐれの雨をたてぬきにして (よみ人しらず) 

題しらず 

876以前:東宮御息所高子屏風

1-1-294

秋歌

ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは (なりひらの朝臣

二条の后の・・御屏風に・・・を題にてよめる

905以前:古今集

1-1-300

神なびの山をすぎ行く秋なればたつた河にぞぬさはたむくる (きよはらのふかやぶ)

神なびのやまをすぎて・・・をよめる

905以前:古今集

1-1-302

もみぢばのながれざりせば竜田河水の秋をばたれかしらまし (坂上これのり)

 たつたかはのほとりにてよめる

△ 

905以前:古今集

1-1-311

年ごとにもみぢばながす竜田河みなとや秋のとまりなるらむ (つらゆき)

秋のはつるこころをたつた河に思ひやりてよめる

905以前:古今集

1-1-629

あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに (みはるのありすけ)

題しらず

905以前:後撰集よみ人知らず

1-2-416

たつか河秋は水なくあせななんあかぬ紅葉のながるればをし (よみ人しらず)

題しらず 

945以前:歿

1-2-414

竜田河秋にしなれば山ちかみながるる水も紅葉しにけり (つらゆき)

題しらず

955以前:後撰集よみ人しらず

1-2-413

たつた河色紅になりにけりやまのもみぢぞ今はちるらし (よみ人しらず)

題しらず

955以前:後撰集

1-2-1033

竜田河たちなば君が名ををしみいはせのもりのいはじとぞ思ふ (もとかた)

しのびて・・・といへりければ

1007以前:拾遺集

1-3-389

物名

神なびのみむろのきしやくづるらん龍田の河の水のながれる (高向草春)

むろの木

 合計

13首

 

 

 

○ 1

△  7

 

注1)     歌番号は、『新編国歌大観』による。

注2)     重複歌は、1首ある。古今集294歌と拾遺集219歌である。

注3)     「屏風歌」欄の○印は田島氏の『屏風歌研究 資料編』で屏風歌としている歌で今回の検討で屏風歌候補と推計した歌。△印は今回の検討で屏風歌候補と推計した歌。

 

② 「たつた(の)かは」表記13首のうち8首に屏風歌の可能性があるということになりました。秋の部の歌は9首中7首に可能性があります。

③ 1-1-294歌は、1-1-293歌とともに、詞書は「二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題にてよめる」とあります。秋の部の歌の詞書として、詠んだ歌を屏風にかきつけた(料紙を張り付けた)という情報は不要であると撰者の判断で省かれているはずです。そのため、屏風歌の可能性があります。表中の13首のうち、この歌のみを田島氏は屏風歌と認めています。

④ 「をし」の用語のある1-02-416歌は、第二の条件が問題です。

 

7.作者名の明らかな歌における検討例

1-1-300  神なびの山をすぎて竜田河をわたりける時に、もみぢのながれけるをよめる                 きよはらのふかやぶ

   神なびの山をすぎ行く秋なればたつた河にぞぬさはたむくる

 

① この歌の詞書の文章は、

・作者「きよはらのふかやぶ」が、「竜田河をわたりける時に」、自らの感興を「よめる」歌であるか、

・倭絵の作中人物が「竜田河をわたりける時に、もみぢのながれける」(状況)を、作中人物にかわり作者の「きよはらのふかやぶ」が、「よめる」歌であるか、

の、どちらにも、秋の部の歌として解釈が可能です。入集させるにあたり撰者はどちらかに決めていないともみえる詞書である、と言えます。

なお、この歌は、『深養父集』に3-39-15歌と同じです。その詞書は、

「神なび山をまうできて、立田河をわたるとて、紅葉のながれけるを見て」

です。『深養父集』を信頼したとしても、その詞書に対する上記の二つの解釈は可能です。

 「神なびの山」は、特定の一つの山に比定しにくい表現であり、先に1-1-283歌で検討した「たつたかは」の存在感の少なさと平仄があっています。

② また、それ以外の、例えば、歌合などでの題詠という立場で「よめる歌」ではないかという推測も、この詞書の文章だけでは、ただちに否定できません。

③ 次に、前者を仮定すると、作者の「きよはらのふかやぶ」が、「竜田河をわたりける時」とはどんな時に生じたのかを考察しなければならなくなります。

前者の意の歌であるので、それは「実際の「たつかかは」に作者が出かけた時」の意であり、山崎にあるという「たつたかは」とか大和国龍田神社付近にあるという「たつたかは」とかに出かけたということであり、「きよはらのふかやぶ」にとって出掛ける用向きがあるか、またはたまたま通りかかることがあるかの可能性を考えなければなりません。

「きよはらのふかやぶ」は従五位下になったことはわかっていますが現在までのところ生歿未詳の歌人です。実際の「たつかかは」に作者が出かけて渡った可能性は、

・貴顕の人に召されて上記のような「たつたかは」まで同道して「たつたかは」を渡った

・任国への行き来の通り道あるいは近くに行く公務のあった場合に立ち寄って「たつたかは」を渡った

のいづれかの場合にあります。物見遊山のため私的に出向いて渡ったたことは貴顕でもない「きよはらのふかやぶ」はしないと思います。たとえ私的に出向いてその時の感慨を和歌にしたら、歌人としての「きよはらのふかやぶ」は披露する場を選びとりあえずストックするのではないでしょうか。

貴顕の人に召されたとすると、なんらかの朝廷の行事が考えられますが、貴顕の行動がわかりませんし、同道したであろう「きよはらのふかやぶ」以外の歌人の名前も今日わかっていません。

「たつたかは」の所在の候補地の記録をみても、例えば、山崎近くに「たつたかは」があるならば、「土佐日記」の記述をみると、ようよう住吉・難波を経て船で山崎に到着し、以後は陸行として車を京から持って来させる間留まっているのにかかわらず、紀貫之一行は、名所であったであろうその「たつたかは」には見向きもしていません。存在が疑われます。

また、龍田神社近くに「たつたかは」があるならば、延喜式にいう龍田神社での風神祭と廣瀬神社での大忌祭が平安時代の毎年のように行われているものの、その時期は旧暦7月であり紅葉の時期ではありません。そしてその祭使一行に加わったことがあるかどうかは彼の分かっている履歴にはありません。

「きよはらのふかやぶ」は、山崎であろうと大和国龍田神社付近であろうと「たつたかは」を眼前にする場所に出かけてはいない可能性が大きいと判断できます。

④ また、詞書では「神なびの山をすぎて竜田河をわたりける時」と竜田河とあわせてその近くに神なびの山のあることを明示していながら、その山の固有名詞や所在するところについて具体の山名、国名、郡名等に触れないで後世の者が地理的に特定できにくい言い方をしている。このことは、特定されることを避けているとも受け取れる言い方と判断できる。

さらに、今例としてあげた山崎などよりも平安京に近いところに「たつたかは」があるとすると、その「たつたかは」に歌人や貴顕の者が行ったとか後の人が訪ねたとかの記録があってしかるべきだがそれも見当たりません。このように、「きよはらのふかやぶ」が行ったという「たつたかは」という川は、そもそもその実在が疑わしい。

実在しない河に作者がでかけるということは有り得ません。

⑤ そのため、ここではそこに行ったという可能性がないので、作者の「きよはらのふかやぶ」が、上記の後者の立場でこの歌は詠まれていると特定されることとなります。

このため、この歌は、絵に添えた歌、すなわち屏風歌と推定できます。

⑥ なお、庭園での景を、作者の「きよはらのふかやぶ」がみずから実際に見てあるいはそのような庭園を題としてこの歌を詠んだとする可能性も、この詞書からは、無条件に排除されていません。しかし、庭園に設けた築山に「神なびの山」と名付けるであろうか。貴顕の誰かが付けたとすれば、少なくともしばらくは流行して貴顕の何人かの例が後世にのこるのではないでしょうか。

勅撰集にそのまま詞書として記載して理解されるには、庭園に設けた山を「神なびの山」と呼ぶと共に、庭園に設けた流れを「たつたかは」と呼ぶことに屏風歌を依頼する人々と歌人たちに共通の認識が確立していなければなりません。そのようなことを示唆する資料は未見なので、庭園の景の可能性をここでは否定しておきます。

⑦ 私には、「神なびの山」という表現は、倭絵に描かれた山を荘厳しようとしている、と理解できます。「神なびの山」にむかう道に架けられた橋を渡る人はその倭絵の登場人物であり、その登場人物は倭絵の屏風を注文した人にとって大事な人のはずです。

そして歌のなかの「すぎゆくらむ」、「(ぬさを)たむくる」という表現はおだやかであり、賀の場を損じない用語です。

⑧ 次に、屏風の絵柄をこの歌から想い描くとすると、秋の山を川の向こうに描き流水に紅葉が浮かんでいる川に橋のある景が一例としてあげられます。そこに作中人物がいるかもしれない。後年の賀の屏風絵によくあるという四季の一画題といえます。

⑨ まとめると、この歌は、

屏風歌という仮定は、詞書に矛盾せず(第一の条件を満足し)、

詠んでいる「たつたかは」のある地に、作者は実際には行っていないのみならず、その川の存在も疑われるが、用語は賀の場になじむものであり賀を祝う気分があふれている内容の歌であり(第二の条件を満足し)、

絵があるとすると、賀を祝う行事の場面に使う屏風の絵柄として、四季の屏風のうちの秋の屏風絵と成り得る(第三の条件を満足する)。

この結果、1-1-300歌は、屏風歌推定の条件をすべて満足しており、屏風歌に成り得る歌です。

このような推定方法は、さきほど紹介した小松氏の意見の範囲です。

⑩ 「たつたひめ」と「たつた(の)やま」は、次回記します。

ご覧いただき、ありがとうございます。

<2017/6/22> 

 

わかたんかこれの日記 屏風の需要

2017/6/19  前回、「紅葉もみぢのたつたかは」と題して記しました。

 今回は、「屏風の需要」と題して、記します。

 

1.歌の披露の場について

① 前々回、「たつたかは」表記の最初の歌1-01-283歌の表現を検討し、賀の行事などにおける屏風の「倭絵」(屏風絵)の中にのみ「たつたかは」があるのではないか、と推計しました。

 今回、屏風絵と称されるものについてもうすこし検討します。

② 諸氏は、平安時代の和歌の最も栄えた行事形態は、屏風歌と歌合であり、和歌がその場で存在する形態は、その装飾性にある、と指摘しています。

天皇や上流貴族の通過儀礼の場は、(天皇・上流貴族の権威を賭けた)公的な場になってゆき、その場を彩るものとして屏風が重宝されています。朝廷が賀の儀を行った最も古い記録は825年の嵯峨上皇の四十賀です。これ以前に、私的な賀の宴の積み重ねがあったはずです。

③ 歌合も屏風歌とほぼ同じ頃に誕生しているものです。初期の歌合は勝負を楽しむ上流貴族のものであり、専門歌人は依頼されて歌の提供をする立場です。専門歌人にはそれだけの需要があったということであり、彼らはそれに応える努力をしています。

 記録に残っている最初の歌合は、仁和元年(885)の「在民部卿家歌合」です。在原行平が主催した歌合です。屏風歌と同様に萌芽的な歌合が先行してあったのではないでしょうか。

 歌合とは、ウィキペディアなどによると、左右二組より詠んだ歌を1首づつ提出しその優劣を争う遊び及び文芸批評の会です。参加者の役割は方人(かたうど;歌を提出する者)、念人(おもいびと;自陣の歌を褒め、弁護する役)と判者とがあります。このほか歌を朗詠する者がサポートします。左右両陣の念人による一種のディベートによって判者の判定を導くものです。当初からこのような整然としたものであったかどうかは、よくわかりません。

④ また、中国から伝来の曲水宴(ごくすいのうたげ)が天皇主催で奈良時代から平城天皇の大同3(808)に中断するまでありました。

大伴家持が主催したときの歌が『萬葉集』にある(作詠時点は天平勝宝2(750))ように、私的に曲水宴は行われ和歌を披露することもあったようです。

桓武天皇延暦15(795)5月の曲水宴で天皇が古歌を誦しています。『類聚国史』によれば、「天皇、古歌を誦し給ひて曰く、いにしへの野中ふる道あらためば あらたまらむや 野中ふる道。尚侍従三位百済王明信に勅して之に和せしめ給へども成すを得ず。天皇自ら代わりて和し給ひて曰く、君こそは忘れたるらめにぎ玉のたわやめわれはつねのしらたま。侍臣万歳を称す。」とあります。

これらから、詩文はもちろんですが和歌も詠まれていることが分かります。

 参加できる者は、参加にあたり準備に専門歌人も動員したのではないでしょうか。

(曲水宴は、水の流れのある庭園などでその流れのふちに出席者が座り、流れてくる盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流し、別堂でその詩歌を披講するという行事である。略して曲水、曲宴ともいう(『広辞苑』第2版))

⑤ そのほか、『萬葉集』の最後の歌(家持作)のように、また遣唐使や地方官への赴任時の公私の送別の宴など、官人には、歌を披露・朗読する機会が多々あったと見られ、その場に相応しい伝承されてきた歌は何度も朗唱されています。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌には、このような伝承歌も相聞に関する伝承歌とともに含まれていると思われます。

大伴家持には、「二十五日、新嘗祭肆宴して詔に応へし歌六首」という詞書を持つ歌が『萬葉集』にあります(2-1-4273~4278歌)。天平勝宝3(751)が作詠時点です。新嘗祭は原則毎年行われます。また「京に向ふ路上 興に依りて預め作りし侍宴応詔の歌一首幷短歌を并せたり」という詞書を持つ歌」と言う詞書を持つ家持の歌(2-1-4266,4267)もあります。

⑥ このように、和歌は披露する公的な場に限っても700年代半ば以降の例が多数記録にあります。

 

2.屏風歌とは

① ここに「屏風歌」というのは、出題された題が、絵で示され、それに応じて詠った歌と認めらる歌を言うこととします。諸氏の定義と少し異なっています。

屛風歌とは、具体的には、次のa~eのいずれかに該当する歌を指します。

 a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌

 b障子その他の(本来和歌を書きつけたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌

 c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)

 d絵を示され詠めとの下命に応えた歌(上記a~cを除く)

eそのほか絵を題とみなして詠んだ歌で上記以外の歌

② 上記のabに該当する歌は、実際に屏風や障子などに記された(貼り付けられた)歌と信じられる歌ですが、c以下は、絵と対になって道具その他に張り付けられたものと伝えられていない歌です。aの先行形態として、唐絵という中国に材をとった絵に詩文を書きつけたスタイルがあったと諸氏は言っています。

 諸氏の定義の多くは、少なくとも eを含めていないと思われます。

③ 平安時代中期における屏風詩歌資料集を作成した田島智子氏は、勅撰集・私撰集・私家集・日記などより、詩の資料(ごくわずかであった)、屏風歌、歌絵などの絵に詠み合わされた歌を、屏風詩歌としています。その内訳は古今集時代については、744首、後撰集時代については、938首、拾遺集時代については、282首を数えています。

小町谷照彦氏は、『新日本古典文学大系6』で、『拾遺和歌集』には、詞書・左注等から、屏風歌が169首、障子絵歌11首、 紙絵歌、扇絵歌などその他の歌を含め合計187首の屏風歌類(絵に添えた歌)があると、指摘し、竹鼻績氏は、『拾遺抄注釈』で、『拾遺抄』での屏風絵は95首と指摘しています。

④ 屏風の絵柄に登場させた山や川は、唐絵の屏風であればそれにふさわしい有名な山名を詠み、またはその有名な山を想起するように(あるいは想起した)詩文を屏風に添えていたといいます。

倭絵の屏風に描かれた山や川に和歌を添えるとなると、唐絵屏風に倣い、その川の名前や山の名前も和歌にふさわしい名前を歌人たちは使おうとしたはずです。

⑤ このようなことから、歌人は屏風歌や歌合のために修練を積んでいたのではないかと思われます。

西山秀人氏は、「古今伝授の三鳥のひとつとして知られる稲負鳥が後撰集前後の時期に屏風歌の素材となった。古今集では稲負鳥は収穫期に来て鳴く鳥(1-1-208歌、1-1-306歌)です。 古今集時代の屏風歌は田の番に明け暮れる田守の労苦をうたうのに(対し)、後撰集時代の屏風歌に仮庵や露のほかに稲負鳥を登場させた。歌語「苗代水」も屏風歌に導入している。鶴は万葉集古今集に見えず、後撰集からだが屏風歌を除くと四季詠の歌には皆無に近い。恋歌には詠まれた。」と指摘しています。(「後撰集時代の屏風歌―貫之歌風の継承と新表現の開拓」(『和歌文学論集5』:風間書房1994

⑥ また、『古今和歌集』の歌の詞書は、他の歌集にある同一の歌(重複歌)のそれと比べると、撰者が言葉を選んでいると指摘している人がいます。撰修の方針に従ったのでしょうが、歌の供給元である屏風歌への歌人の私家集にみえるこだわりに比べると、『古今和歌集』では屏風歌と明示した歌が18首とあまりにも少ない。屏風歌であったことを古今和歌集』の詞書の文面から切り捨てられている可能性が濃厚であると指摘している人がいます

⑦ そうであるとすると、『古今和歌集』において、屏風絵に相応しい川として新たに「たつたかは」表記は登場したのではないかと推測できます。この推測は、神田龍身氏が『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之』(2009)で行った屏風絵と屏風歌と古今集の関係の考察の延長上のものであります。

⑧ 小松英雄氏は、「古今集における)詞書は、「そういう和歌として読むように」という撰者の方向付けである。既成の観念連合を利用してイマジネーションを刺激し、龍田川の美しい情景を脳裏に再構成させる表現である。(1-01-300歌も1-01-302歌も同じである。)」と『みそひと文字の抒情詩』で述べていますが、そのような共通の認識を成立させたのには、屏風歌という歌人たちが競って活躍できる場があったことが働いていると推定できます。

 

3.屏風とは

① そもそも、屏風は、当時どのように使用され、それにどのような絵や歌が求められたのでしょうか。

 当時の貴族は、後年寝殿造と呼ばれる住居に住んでいました。南面した主屋である寝殿を中心にして東西に副屋を置き、柱などの木部は素木仕上げで彩色せず内部は板敷であり、間仕切りはほとんどありません。

貴族の生活にとり儀式を行う比重が大きかったので、固定的な間仕切りは不都合であったと思われます。寝室となる部屋(塗籠)のみ間仕切りされていましたが、次第に寝殿中央近くに置かれた帳台が寝るところとなり、昼は畳を敷き居所として、その周囲を屏風や几帳を使って区画していました。

屏風は、公的な行事用に上流の貴族が求めただけでなく、官人の多くが実用品として必要としたものです。その実用品にも自らの趣味・たしなみを反映できるならそれを心がけているでしょう。現代の私たちがインテリアに拘り、車の購入に時間を掛け、スマホやそのアプリやSNSを楽しむことと同じように。

 公の場で用いられるためには、官人の住いの屏風を対象に歌が詠まれあるいは古歌が撰ばれていた時期があったことは想像に難くない。

弘仁12(821) 嵯峨天皇は内裏式3)を編纂させています。これは宮廷の年中行事を制度化した最初の書物です。

 宮中で行われる年間の行事の名を書き連ねた衝立障子(年中行事障子)が、仁和元年(885)が宮中おかれました。また、上流貴族も我が家の年中行事障子を持っていました。行事を行うには吉日を選んだといいます。儀式を滞りなく行うことがいかに重視されていたかということです。

② 高橋和夫氏は、「屏風は、字義通り防寒具であり、視界を遮る居住区画を示すもの。日本建築を文明化する方法が、屏風使用による建物の使用であった。屏風はその空間の居住者の思想体系の断片的表現となる。」と指摘しています。(「行為と和歌」『和歌文学論集5』:風間書房1994) さらに、「画題が日本の景物になるのに時間を要しし、賛も漢詩の時代がある。屏風歌と屏風の画題が四季に変移する景物の相と、風俗の大系とが、整って来る寛平・延喜に隆盛になるのは、屏風の絵に託した、環境と行事の自主的な認識が形成される時期と一致している。これは、屏風製作の発注者が、その制作によって記念すべき一時点(通過儀礼の祝儀)で、時間的・空間的に表現される思想を得ようとした一つの形態であり、院政期になって、専門歌人の社会的地位が高くなり、歌自身が思想性を持ち始めると、歌人たちに装飾的和歌を作るような職人性がなくなった」と論じています。

③ 田中喜美春氏と田中恭子氏は、「倭絵が誕生したのは九世紀委後半と考えられている。中国人が描いた唐絵に対し、日本の風土における日本人の絵画が生まれた。文化の独自性が自覚的に意識されたことを示す顕著な事例である。造形芸術の質的変化は、言語文化にも変化をもたらした。唐絵に描かれた詩に代えて歌を書かせることになった。倭絵に和歌が書かれた屏風は、平安朝に入っての中国化政策に質的変化が生じてきていることを典型的に示している」と論じています(『私家集全釈叢書20 貫之集全釈』)。

 また次の指摘をもしています。

屏風は、もともと室内において空間を仕切る調度である。そこに絵を描いたのは、美的な欲求のなせるわざに違い無いが、人生の転機を迎えた儀式が屏風の前で行われる時、その屏風は、その儀式にこめられた意味の一部を担っていたと考えなければならない。賀賛、成人式などの儀式の屏風の絵は、ほとんど月次と四季である。この画題は、日本における一年を留めることにほかならない。太陽との関係で生ずる四季、月との関係で計られた一周期を留めることによって、めぐる時間を留めたことになる。この屏風の前に居るということは、留められた時空の中に生を存在させるということである。あるいは、その人間がその時空を所有するということである。儀式、あるいは祝宴に四季。月次屏風を配するのは、永遠の時間と生活空間とを創出する舞台装置である。新成人、被賀者は、そのような時空に生きることを予祝される。したがって、歌は、言葉によって祝意を達成しようとする。

言葉のもつ呪力を信じての行為であり、ここに言葉についての厳粛な認識がある。屏風の絵をとらえて言寿いでみせるのが成人式を含めて年寿を祝う屏風歌だったのである。

⑤ 屏風は、その儀式を仕切る者が実際の発注者であり、通常は儀式にふさわしい絵柄のタイプを指定し絵(倭絵)が先に決まり12双等に仕立てられます。

⑥ 通過儀礼は、五位六位の官人も程度の差こそあれ行うべきものと理解されていたはずです。着任し下向の際の餞も頻繁にあり、勅撰集に別れの歌があります。

儀式はともに食す場であり、参加できることはその集団の一員の証しであります。寿ぐ言葉を常に用意しているのが官人でありますので、それを助ける専門歌人の需要はいくらでもありました。 

 

4.屛風歌の例

① 上記2.の定義における屏風歌の例を挙げます。

② 「a屏風という室内の仕切り用の道具に描かれた絵に合せて記された歌」の例

1-1-357 内侍のかみの右大将ふぢはらの朝臣の四十の賀しける時に、四季のゑかけるうしろの屏風にかきたりけるうた   春                      そせい法し

   かすがのにわかなつみつつよろづよをいはふ心は神ぞしるらむ

 この歌は、巻第七賀歌にあります。詞書によりaの要件をクリアする歌です。詞書にある「うしろの屏風」とは、宴席の主賓の背後にあたる位置に置かれる屏風のことです。右大将ふぢはらの朝臣とは右大将藤原定国で、四十の賀は延喜5年(905)年であり、この年をこの歌の作詠時点と推計しました。

 

1-1-932 屏風のゑによみあはせてかきける        坂上これのり

   かりてなほ山田のいねのこきたれてなきこそわたれ秋のうければ

この歌は、『古今和歌集』巻十七雑上の巻尾の歌です。坂上これのりは、『古今和歌集』成立時存命であり、作詠時点の推計は905年となりました。詞書は、「作詠した歌は屏風に料紙に書家が書いて貼られた」という意であり、aの要件をクリアします。 1-1-352歌の詞書「・・・屏風によみてかきける」の意も同じです。

 

1-1-928 ひえの山なるおとはのたきを見てよめる      ただみね

   おちたぎつたきのみなかみとしつもりおいにけらしなくろきすぢなし

 この歌は、詞書の「みて」を、「現地に赴いて滝を見た」と理解するか、「滝を描いた絵を見た」と理解するかの二通りの理解があります。後者を採ると、aの要件をクリアした歌あるいは、cまたはeの要件をクリアした歌と見なせます。

 

 

1-1-335 梅花にゆきのふれるをよめる    小野たかむら朝臣

   花の色は雪にまじりて見えずともかをだににほへ人のしるべく

巻第六冬歌にある。この歌は、aをクリアしています。作詠時点は、作者の没年(仁寿2年(852)と推計しました。仮に作者20歳の時とすると822年です。

 

③ 「b障子その他の(本来和歌を書きつけるたり貼り付けたりするものではない)紙などに書きつけた歌」の例

1-3-560 廉義公家のかみゑに、たびびとのぬす人にあひたるかたかける所  藤原為頼

   ぬす人のたつたの山に入りにけりおなじかざしの名にやけがれん

詞書にある「かみゑ」とは、屏風絵・障子絵や絵巻・絵冊子に対して一枚の紙に描いた小品の絵のことである。作詠時点は作者藤原為頼没年の長徳長徳4年(998)と推計しました。

 

④ 「c屏風という室内の仕切り用の道具の絵と対になるべく詠まれた歌(上記a,bを除く)」の例

『貫之集』には、屏風歌を秋と題して一つの下命に対して秋6首あるいは7首たてまつっている例があります。また春8首の例、合計27首たてまつった例があります。これらのうちの歌はcの要件に該当してしまったものがあると考えられます。

⑤ 「d絵を示され詠めとの下命に応えた歌」に該当する屏風歌

1-01-930 田むらの御時に女房のさぶらひにて御屏風のゑ御覧じけるに、たきおちたりける所おもしろし、これを題にてうたよめとさぶらふ人におほせられければよめる     三条の町

 この歌は、倭絵を題にした一番古い和歌の例として、『和歌大辞典』があげている歌です。作詠時点は文徳天皇の御代(850~858)となります。

日常の(通常の政務もふくめて)場に屏風があったから下命されています。即ち、描かれた絵を題にして詠めと下命できるほど文徳天皇の近くには唐絵にしろ倭絵にしろ屏風には絵が描かれており、画賛した詩や和歌を貼ってある屏風が身近にあったことになります。

 

1-1-294 二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題によめる    なりひら

ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは

この歌の作詠時点は、876以前:陽成天皇即位以前となります。

「御屏風」が、転居のお祝いなどの行事に用いられたものとすると、この歌は書きつけられ(貼り付けられ)ている可能性があります。詞書は、屏風に書きつけたとなっていないうえに、『古今和歌集』の賀の部の歌でなく巻第五秋下にある歌ですので、今はdの例として示しました。作詠時点は陽成天皇即位以前(876以前)と推計しました。

⑥ また、屏風歌を下級の官人用に詠んだ例もあります。

後撰和歌集』には、詞書に「忠房朝臣つのかみにて、新司はるかたがまうけに屏風てうじて、かのくにの名ある所所をかかせて、さび江という所にかけりける」とあるただみねの歌(1-02-1105歌)があります。

⑦ これらの例歌を作詠時点に並べると、つぎのとおりです。

852年以前 1-1-335歌

850~858間 1-1-930歌

876年以前 1-1-294歌

905年        1-1-357歌

905年以前 1-1-932歌

905年以前 1-1-928歌

998年   1-3-560歌

  朝廷における最初の賀の儀である嵯峨上皇の四十賀が行われた天長2年(825)以前の歌を挙げられませんでした。上皇の賀の規定は律令に規定がないからこそ、公的な賀となったことが特記されているわけです。これに先行して私的な賀の例があり式次第なども検討されたではないでしょうか。

  その時代の屏風歌は明確に記録されていないのではないかと推測します。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌を見直さなければなりません。

⑧ 次回は、800年前後の屏風歌の有無を記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 <2017/6/19  > 

 

 

 

わかたんかこれの日記 紅葉もみぢのたつたかは

2017/6/15  前回「はじめの歌がたつたかは」と題して記しました。

 今回は「紅葉もみぢのたつたかは」と題して、記します。

 

1.951年以降の「たつた」表記の歌

① 三代集に「たつた」表記の歌は、重複を省くと33首あります。そのうち50%を越える17首が、901~950年に詠まれた歌であり、すべて紅葉も歌に詠まれています。「たつた(の)やま」表記の歌にも例外はありません。

② ところが951年から1000年間には「たつた」表記が7首に減り、紅葉を詠む歌がそのうち3首となります。1001~1050年間には「たつた」表記はさらに減って1首となり、その1首が現在の検討段階では紅葉が詠まれていない歌と整理しているところです。

③ 紅葉が詠まれていないとした「たつた」表記の歌で、三代集で初めて歌に用いられた「たつたかは系統」の表記の歌(「たつたかは」と「たつたのかは」と「たつたかはら」表記)が、951年から1000年間と1001~1050年間に各1首あります。

④ また「たつた」表記の歌に4首の「たつたひめ」があります。

 これらの歌と紅葉との関係を確認します。

 

2.951年~1000年に詠まれた「たつたかは」表記の歌

1-2-1033  しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すなと

いへりければ                      もとかた

   竜田河たちなば君が名ををしみいはせのもりのいはじとぞ思ふ

 

① この歌は、たしかに「紅葉」ということばが、用いられていません。

② 作者の「もとかた」(在原元方)は業平の孫で、生歿・閲歴未詳で、『古今和歌集』には巻頭歌としても入集している歌人です。作詠時点は原則に従うと『後撰和歌集』の成立時点(995年)以前ということになります。作者が、『古今和歌集』成立時点に20歳に達していたと若く仮定しても、没年は995年より前ではないかと常識的に思いますが、裏付ける確かな資料がありません。

③ 検討は、2017/3/31の日記に記したように、「和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものである」、という考えを前提として行います。

④ 「たつたかは系統」の表記は最初の歌から紅葉が詠まれてきており、さらに901~950年の歌を考慮すれば、『後撰和歌集』の成立(995年)の頃の歌人たちは、既に、紅葉が「たつたかは」の縁語という認識をしていたのは確かなことと考えられます。

初句から二句の「竜田河たち(終止形たつ)」とは、「竜田河は紅葉によって誰もが知っている川である」、ということを確認しています。「たつ」は、「名を」を省いていますが、「評判になる」意です。

 二句の「たちなば」とは、「(紅葉の龍田河と言えば紅葉と人が皆思うように)誰もが知ったならば」の意です。ここでの「たつ」は「評判になる」よりも「噂になる」意で三句の語句につながります。

⑤ 四句の「いはせのもり」とは、その所在地については諸説ありますが、「言はじ」を言いだすための役割を担っている場合が多いと諸氏は指摘しています。作者は、さらに「竜田川」と「いわせのもり」の関係を「作者がこの歌をおくった相手」と「作者」との関係に比定させていると思われます。即ち、竜田河といえば紅葉=あなたと言えば私との間の噂が、いわせのもりといえば「言わない」=人に話しそうな私とみられるているが(私は)「言わない」、という比定です。

⑥ 現代語訳を試みると、次のようになります。詞書によれば、これは、女性から「人に話すな・態度を慎め」と言ってきた返事の歌です。

竜田川と言えば紅葉です。おなじように貴方の噂といえば私の名がでてくるそうですね。でも、(そんな噂は聞き流しましょう。)あなたのお名前に傷がつくのが惜しいので、口が軽いと心配されている私も、何も言わないでいると決めていますから。」

⑦ 竜田川と言えば紅葉、という当時の常識を巧みに利用し、紅葉は時間が経てば、はかなく消えてしまうことを言外ににじませ、だから噂の通り過ぎるのをお互いに待っていましょうと、作者は、相手に伝えています。

 この歌は、内容的には紅葉を詠っている歌と言ってよいでしょう。

 

3.1001年~1050年に詠まれた「たつたかは」表記の歌

1-3-389   むろの木                 高向草春

    神なびのみむろのきしやくづるらん龍田の河の水のにごれる 

 

① この歌は、たしかに「紅葉」ということばが、用いられていません。

② この歌の作者は、三代集にこの1首しかない生歿未詳の歌人であるので、作詠時点は『拾遺和歌集』の成立時点(1007年以前)という推計になります。題を与えられての歌であって『拾遺和歌集』の撰歌対象にしたもらおうと意識して詠んだ歌ではないと思われるので、実際は『拾遺和歌集』成立時点よりだいぶ前であったかもしれませんが、裏付ける資料が不足です。

③ 初句と二句にある「神なびのみむろ(のきし)」は、既に849年以前に詠まれた1-1-284歌(「たつた河もみぢ葉流る神なびのみむろの山に時雨ふるらし」よみ人しらず)など「かんなび」表記の先行歌があり、1000年前後には、「神なびのみむろ」は紅葉の名所であると歌人に認識されています。

『和歌大辞典』などは、「神なび」や「三室」を本来は神の座す所という普通名詞であり、各地に在る、と説明しています。「本来」とは、700年代等の意味合いを指すと考えると、1-1-284歌は、里や都から見える山のうち信仰の対象となっている山を「神なびのみむろの山」と呼んでいる普通名詞であり、朗詠する里人や都人が思い浮かべる大和国の山は、紅葉と結びつきを不問にしてそれぞれ特定されていたと思われます。

その里が飛鳥の地ならば大和三山とか三輪山など、大和盆地西方の里ならば、西の山々、というわけです。『和歌大辞典』は、「平安時代には、古今の284歌などから今の生駒郡斑鳩町付近と考えられたようだ」としながらも、千載集には大嘗会に丹波の神南備山が詠まれていることも紹介しています。さらに『萬葉集』には、三室の山の紅葉が既に見える(2-01-1094歌など)ので、「みむろ」は、紅葉と密接な関係にあると、既に認識されていたかもしれません。

④ 一方、四句の「龍田の河」は、1-1-284歌や1-1-283歌をはじめとして既に紅葉とむすびついています。

このように、既に1000年前後には、「神なびのみむろ(のきし)」も「龍田の河」も紅葉の名所という認識でありました。

⑤ ここまでは、歌に用いられている名詞を検討してきました。

 この歌は『拾遺和歌集』の「巻第七 物名」にある歌で、「むろの木」(ネズ。)を詠みこむことが条件となっている歌です。作者は「みむろのきし」という言葉に隠すことにしたのです。その「みむろのきし」から紅葉を連想し、また「龍田の河」と連想がすすんで作詠された歌、と思われます。

 二句と三句「みむろのきしやくづるらん」の表現で両岸の紅葉が散る景を指し、五句の「水のにごれる」との表現で、木の葉により水面も水底が見えない状態を指しています。

⑥ この歌は、題の「物名」(むろのき)を詠み込む言葉に紅葉が結びついていたのであり、紅葉を第一に意識した作詠でがありませんが、1-01-284歌を前提にした紅葉を彷

彿とさせる歌い方であり、内容的には紅葉を詠っている歌と言ってよいでしょう。

 

4.「たつたかは系統」表記の歌のまとめ

① このように、この二つの歌は、紅葉を「たつかかは」表記から浮かび上がらせています。

 「たつたかは系統」表記の歌を詠んだ三代集の歌人は、結局、紅葉を必ず結び付けることを共通の理解としており、さくらなどほかの花と「たつたかは系統」の表記を合わせていません。

② 今回のこの2首をくわえた「たつたかは系統」表記の歌で、作者は実際の所在地を問題としておらず、前回の結論と同様に、「たつたかは」とは、比定できる特定の川を避けた紅葉で有名な大和にある川、ということになります。

 小松英雄氏が指摘している、「平安時代歌人にとり、大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」(『みそひと文字の抒情詩』)河、即ち、秋の大和国にある紅葉に彩られた川の総称が「たつたかは」と言えます。本来の「みむろ」と同じような、普通名詞です。

 これは、三代集にある歌について言えることであり、1050年以降が作詠時点である歌に該当するかどうかは、別途検討を要することです。

③ (補足)恋の部の題しらずの歌である1-1-629歌(あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに)について補足します。

この歌は、紅葉と関わり無いとしても歌意が整います。私は、さらに、噂を、「紅葉」に喩え、噂が本当になるというのは紅葉は必然的に散るのと同じとして、自分の決意をも示している、と解釈し、紅葉を詠んでいると判断しました。1-2-1033歌と同様一旦「要検討」の歌と整理して記したほうが良かったかもしれません。

 

5.「たつたひめ」表記の歌

① 「竜田姫」は、「奈良の西方に鎮座する竜田大社の祭神。五行説では、西を秋にあてることから秋の神とされた」(久曽神氏)とか、「五行説で西は四季の秋に相当するので春の佐保姫に対して、秋をつかさどる女神とされる」(『歌ことば歌枕大辞典』)とか、説明がなされています。

 中国から学んだ陰陽五行説をもとにして、平安時代に「春が去るのは東の方角、秋が去るのは西の方角」となり、歌人が、佐保姫と竜田姫とを創出したようです。旧都平城京からみて東に佐保山があり、西に竜田山があるのも歌人の共通の認識になっているようにみえます。 なお、「さほひめ」表記の歌は、三代集になく勅撰集全体でも1首しかありません(1-11-101歌)。「さほのひめ」は未確認です。

② 三代集において「たつたひめ」表記の歌は、以下の4首です。作詠順に示します。 

1-2-265 作詠時点:892以前:是定親王家歌合

是定のみこの家歌合に                壬生忠岑

   松のねに風のしらべをまかせては竜田姫こそ秋はひくらし 

この歌合は、「秋」を題にしています。この歌は、「もみぢ」とか「錦」の語がなく、紅葉というよりも秋という季節そのものを詠んでいます。実景とは限りません。

この歌において、初めて「たつたひめ」が詠まれました。「秋」という題と、秋が去るのは西の方角という理解から、秋を司る「たつたひめ」が生まれたのではないのでしょうか。この歌の作詠時点以前に、「たつたかは」表記の歌が既に4首あり、全て「紅葉」を詠っており、紅葉が普通名詞の「たつたかは」の縁語という認識から「たつた」の「ひめ」が生まれたと思います。ちなみに、「秋が去るのは西の方角」ということで秋をもたらす場面が4首の歌にありません。

③ 1-1-298歌 作詠時点:905以前:古今集

秋のうた                       かねみの王

   竜田ひめたむくる神のあればこそ秋のこのはのぬさとちるらめ

紅葉とともに詠んでいます。

小島憲之氏・新井栄蔵氏は『新日本古典文学大系 古今和歌集』で、「竜田姫が秋の神とされるのは少し時代がさがる」として、土着神である竜田姫が西に去りゆく秋の神(天神)に手向ける、と解しています。

 和名抄には「道神 大無介乃加美」とあり、道祖神を手向けの神ともいいます。

 小松英雄氏は『みそひと文字の抒情詩』で、「秋を支配する龍田姫が手向けをする対象になる神がそこにおいでになるからこそ、ご自身が染め上げた秋の木の葉が神前に捧げる幣帛として散るのであろう。」と解釈しています。既に10年以上前の歌合の歌で「たつたひめ」が「秋を司どる神」として創出されているので、小松氏の理解に賛成します。

④ 1-2-378歌 作詠時点:905以前:後撰集よみ人知らず

題しらず                     よみ人しらず

   見るごとに秋にもなるかなたつたひめもみぢそむとや山もきるらん 

紅葉とともに「たつたひめ」を詠んでいます。1-2-265歌を踏まえていると見られます。

 

⑤ 1-3-1129歌 作詠時点:968以前:右兵衛督忠君屏風

たび人のもみぢのもとゆく方かける屏風に           大中臣 能宣

   ふるさとにかへると見てやたつたひめ紅葉の錦そらにきすらん

この歌も、紅葉とともに「たつたひめ」を詠み、1-2-265歌を踏まえていると見られます。

⑥ 以上の4首をみると、最初の例から秋を司る神として「たつたひめ」表記を用いています。冬を到来させるというより秋を引き取って行く神です。しかし「たつたかは」ほど歌人に活用されていません。

⑦ また、平安時代に「たつたひめ」と名付けられて秋にかかわる神として祀られている神は、ありません。

 奈良県生駒郡にある現在の龍田大社は、『神道史大辞典』(吉川弘文館)などによると、平安時代龍田神社であり、祭神は二柱です。天御柱命(志那都比古命)と国御柱命(志那都比売命)で、竜巻の旋風を天地間の柱と見立てた神名だそうです。境内2.3万坪の神社です。

 現在の龍田大社のHPでは、

主祭神

御柱大神(あめのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比古神(しなつひこのかみ)) 国御柱大神(くにのみはしらのおおかみ)(別名:志那都比売神(しなつひめのかみ)) 

摂社には

龍田比古命(たつたひこのみこと)

龍田比売命(たつたひめのみこと)

として、「「龍田」の地名は古く、初代神武天皇即位の頃までさかのぼり、龍田地区を守護されていた氏神様と伝えられる夫婦の神様です。<延喜式神名帳より>」

とあります。

 摂社の二柱のどちらにも、今検討している「たつたひめ」表記の姫神を重ね合わせることは難しい。

 なお、天武天皇は、天武天皇4年(675)年1月に初めて諸社に祭幣させました。そして同年4月に、「風の神を竜田の立野に祠しむ、小錦中門人連大蓋・大山中曾禰韓犬を遣わして、大忌(おおいみ)の神を廣瀬の河曲に祭しむ」と『日本書記』にあります。以後毎年4月と7月に使を派遣しており、平安時代も同様であり、官人には、龍田神社は馴染みのある神社でありました。

⑦ また、折口信夫は、『折口信夫集 ノート編』9巻で龍田風神祭り(祭幣)に関して、「祭神は4柱として、さらに龍田比古は土地の神であり、龍田比売は山の神で風をせきとめる神とみてよい」、と説いています。この説明には秋の女神である「たつたひめ」が一切でてきません。

⑧ 800年~1050年間の作詠時点の歌で勅撰集にある「たつたひめ系」の表記や「たつたかは系統」の表記のある歌が、紅葉と結びついているのを確認しました。これは『萬葉集』以来の「たつたのやま系統」表記の意味にも影響している可能性があります。それは、和歌の披露の場が後押ししていると思われます。

⑨ 次回は、屏風歌について、記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

<2017/6/15 >

 

 

 

 

 

 

 

 

わかたんかこれの日記 はじめの歌がたつたかは

2017/6/12    前回、「たつたやまは竜田道とともに」と題して700年代の「たつた(の)やま」について記しました。

 今回は、「はじめの歌がたつたかは」と題して、三代集に関して、記します。

 

1.三代集における「たつた」表記の歌

① 1-01-995歌の検討のため、同歌と同時代の歌およびそれに接する時期として1050年ころまでの歌として『萬葉集』と三代集(『拾遺抄』を含む)を取り上げ、今回より三代集の歌を中心に、検討します。

② 『新編国歌大観』によって、広く勅撰集における「たつた」表記の歌を概観すると、次の表のとおりです。

 このうち、三代集における「たつた」表記は、36首(重複を含む)あります。句頭にたつ「たつた」表記が35首と句頭にたたない「たつた」が1首(「にしきたつたの やま・・」)です。なお、三代集以外の勅撰集に、句頭にたたない「たつた」がこのほか2首あります。

 

表 勅撰集における「たつた」表記の区分別(重複入集を含む)の歌数

<2017/6/10 11h現在>

表記

古今集

後撰集

拾遺集

拾遺抄

三代集計a

勅撰集計 b

a/b(%)

萬葉集

たつたかは系

8

4

1 (重複1)

0

13 (重複1)

45

29%

 0

たつたのかは系

0

0

1

0

1

9

11%

 0

たつたかはら系

0

0

0

0

0

 5

0%

 

たつたやま系

1

1

0

0

2

42

 5%

 8

たつたのやま系

3

7

4

2 (重複2)

16 (重複2)

34

47%

 5

たつたのおく等

0

0

0

0

0

4

 0%

 0

たつたひめ系

1

2

1

0

4

19

21%

 0

たつたひこ

0

0

0

0

0

0

 0%

 1

たつたこえ

0

0

0

0

0

0

0%

1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

13

14

7 (重複1)

2 (重複2)

36 (重複3)

158(重複略)

23%

15

 

注1)     この表は、『新編国歌大観』記載の歌を対象とした集計である。

注2)     表記欄の「たつたかは系」とは、「たつたかは」又は「たつたかはにそ」と表記の歌。「たつたのかは系」とは、「たつたのかは(の、は)、「たつたのかはなみ」、「たつたのきしの」の表記の歌。「たつたかはら系」とは、「たつたかはら(に、の)」表記の歌。

注3)     表記欄の「たつたやま系」とは、「たつたやま」表記の歌。「たつたのやま系」とは「たつたのやま(に、の等)」と「(にしき)たつたのやま」表記の歌。

注4)     表記欄の「たつたのおく等」は、「たつたの(おく、こすゑ、しくれ、もみち、)」表記の歌

注5)     重複の歌数は内数である。

注6)     「たつたみ」表記が、この表のほかに、勅撰集で3首、『萬葉集』で1首ある。また、勅撰集に「たつたひに」が1首、「たつたひころも」が1首ある。

 

③ 最初に、勅撰集全体と三代集との各歌数を比較します。前者が158首に対し後者が36(23%)です。この比率より、三代集の方が大きい表記区分は、「たつたかは系」29%と「たつたのやま系」47%2区分だけです。また、特段に比率が低いのが「たつやま系」の5%です。

三代集の各集別に、この2区分の分布をみると、三代集で計13首ある「たつたかは系」は50%以上が『古今和歌集』に、16首ある「たつたのやま系」は44%が『後撰和歌集』にあります。これは、各集の性格あるいは撰歌方針が強く反映した語句であるか、「たつたかは」についてはさらに『古今和歌集』の歌人の間で新しい語句として注目された結果かもしれません。

④ 「たつたかは系」と「たつたのかは系」と「たつたかはら系」の3系統の表記(以下「たつたかは系統」の表記という)は、『萬葉集』になかった表記であり、『古今和歌集』で初めて用いられています。

 また、「たつたやま系」表記は、「たつたのやま系」表記と同じ山を指すとおもわれますが、三代集では2首しかないこと、三代集以後は「たつたのやま系」の倍以上あること、を考えあわせると、三代集の「たつたのやま系」表記には、特異な意味があるのかもしれません。

⑥ 「たつたひめ」系は、「たつた」表記の歌の平均値に近く、勅撰集全体に満遍なく用いられています。しかし、「たつたかは系統」59首に対してその1/3、「たつたやま」系と「たつたのやま」系と「たつたのおく等」(以下「たつたやま系統」の表記という)の80首の1/4という19首しかなく、「たつた」表記の傍流といえます。

⑦ あらためて三代集を中心に各系に関してまとめると、

・「たつたかは系統」の表記は、よみ人しらずの歌人を含めた『古今和歌集』の歌人が創出したといえる。歌数は「たつた」表記の39%を占める。

・「たつたのやま系統」の表記は、歌数で50%を占め、「たつたのやま系」が大半であるが、三代集以後は「たつたやま系」の表記が優勢になる。

・「たつたひめ系」の表記は、『古今和歌集』の歌人が創出したが、使用例が11%と大変少ない。後代の歌人にも好まれていないといえる。

・『萬葉集』にあった「たつたひこ」表記及び「たつたこえ」表記の歌(各1首)が、三代集には無く、「たつたかはら系」と「たつたのおく等系」は三代集にまだ現れない。

 このうちの創出された「たつたかは系統」表記は、以下に詳述しますが紅葉と結びついています。「たつたのやま系統」にも多く詠われています。それは、「たつたやま系統」表記の意味の変遷に影響があったのではないかと疑う理由のひとつになります。

 

 

2.『萬葉集』と三代集の違いと共通点。

① 検討資料としている『萬葉集』と三代集は、諸氏が指摘しているように、漢文学隆盛の時期を挟んでアンソロジーとして大きな違いがあります。即ち、

・撰歌と編集方針が異なる。いくつかのグループ別の撰歌が行われたとみられる『萬葉集』に、一貫した方針がみてとれる三代集の各集となります。三代集は全巻の編集意図などを考慮してその歌を理解したほうが編集者・編集を委嘱した者の意に適う、ということであります。

・使用している文字が異なる。三代集は、一字一音のひらかな(さらに清濁ぬき)です。それは表現した「ことば」に意味をいくつか掛けることを隆盛にしています。

・歌の主たるスタイルが異なる。三代集は、圧倒的に三十一文字の歌が占め、四季等部立が明確です。

② 作者の置かれている環境にも違いがあります。

・歌の披露の場が異なる。『萬葉集』は、王朝の公宴以外は、個人間の挨拶歌・相聞歌と宴席における朗唱歌です。防人歌を含めて当時の民謡と見なし得る歌も朗唱されている歌です。三代集は、そのほか、左右のチームによる歌合、中国の屏風詩・画題詩にならった屏風歌が重要な発表の場となっています。公宴にも上流貴族の通過儀礼も含まれるなど歌の専門家の需要が生まれ、いろいろの場面の挨拶歌が男女にかかわらず増加しています。詠う場面、朗唱する場面が格段に広がりました。

歌人の居所が、異なる。大和国(と難波の勤務地)から、山城国平安京(各国の府庁所在地という勤務地)となりました。

・異ならない点もあります。歌の上手はそれだけで天皇に仕える官職を用意して貰えていないことです。慣例で優遇あるいは尊重される(例えば家元のような)こともないことです。

③ これらのことが、「たつた」という地名とおぼしき言葉の用いられかたに反映しているはずです。

④ 当時の歌人にとり、記憶してしかるべきとした歌が、過去の歌も含めて三代集に選ばれています。 『萬葉集』の読解を三代集の歌人たちは試みており、日本語として言葉の意味も当然引き継いでいます。文化として一連のものであり、三代集と『萬葉集』の歌を比較検討するのは意味のあることであります。

 

3.作詠時点の推計

① 三代集の「たつた」表記の歌は、その作詠時点の推計を、2017/3/31の日記の方法によっています。検討対象の歌は、三代集の間で重複している歌もあるので、それを各1首に代表させると33首となります。

② 33首のうち、1-1-283歌の作詠時点については、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌なので、原則は849年以前となるのですが、左注によって作詠時点を平城天皇薨去以前(824年以前)としました。

33首の「たつた」表記の歌は、部立にかかわらず紅葉の歌が多くあります。よみ人しらずの歌が14首、紀貫之の歌が6首あります。そのなかで1-1-995歌は紅葉を詠わずまた類似の歌がありません。

萬葉集』をも加えて作詠時点を示すと、下表のようになります。なお、歌中に紅葉を詠っている歌の歌番号を赤字で示しています。

 

表 万葉集と三代集の「たつた」表記歌の時代区分部別「やま・かは等」表記別の表

  <2017/6/12 現在>

作詠時点

たつたのやま系統

たつたこえ

たつたかは系統

たつたひこ

たつたひめ

萬葉集の時代(~750)

歌番号一部割愛

2-1-976

2-1-2198

2-1-2215

2-1-2218

2-1-2298

   ⑬

同左

 ①

 

  ⓪

1752

 ①

 

  ⓪

 

 15首

 

 

 

 

 

 

 

751~800

   ⓪

 

  ⓪

 

  ⓪

無し

801~850

1-1-994

1-1-995

   ②

 

1-1-283

1-1-284

1-1-314

  ③

 

 

  ⓪

 

 5首

851~900

1-1-108

   ①

 

1-1-294

  ①

 

1-2-265

  ①

 

 3首

901~950

1-2-382

1-1-1002

1-2-359

1-2-376

1-2-377

1-2-383

1-2-389

1-2-385

1-2-386

    ⑨

 

1-1-300

1-1-302

1-1-311

1-1-629

1-2-416

1-2-414

  ⑥

 

1-1-298

1-2-378

  ②

 

 17首

951~1000

1-3-138

1-3-699

1-3-560

1-3-561

    ④

 

1-2-413

1-2-1033

  ②

 

1-3-1129

  ①

 

 7首

1001~1050

   ⓪ 

 

1-3-389

  ①

 

 

  ⓪

 

 1首

合計

29首

 1首

 13首

1首

  4首

48首

注1)歌番号は『新編国歌大観』による。

2)「たつたかは系統」表記の歌に分類した1-2-413歌には、「やま」表記がある。

3)歌番号が赤表示は、紅葉を歌のなかで表現している歌である。

4)丸数字は、その年代のその表記の歌の歌数を示す。三代集の合計は33首である。

5)『萬葉集』の歌は、紅葉を歌のなかで表現している歌以外は、抜粋である。

 

③ この表に見る通り、「たつたやま系統」表記が『萬葉集』以来継続して多く用いられていますが、1-1-995歌は、『萬葉集』の13首と901~950年代の9首の間の、あまり歌に「たつた」表記が用いられていない時期の歌であります。

 『萬葉集』では、前回の表にみるように秋の紅葉を詠う歌が4首だけであり、桜を詠う歌や季節が特定できない歌もありました。また、「たつたひこ」表記と「たつたこえ」表記の歌は、桜を詠っています。このように季節を限って「たつたのやま系統」表記を歌に用いる、ということはありませんでした。

三代集の時代となると「たつたのやま系統」表記も上の表に示したように季節が限定されてきているかにみえます。

⑤ これに対して、『古今和歌集』から登場した「たつたかは系統」表記の歌は、11首が紅葉を詠い、残りの2首も要検討という歌であります。その1首は、955年以前作詠の1-2-1033歌であり、杜を詠っていますが、この歌も紅葉の時期の「たつたかは」をイメージしているようにとれ、もう1首は、1007年以前作詠と推計した物名の部の歌(1-3-389歌)であり、一見紅葉を詠っていないとみえます。この2首の検討結果を後ほど記します。)

⑥ 「たつたひめ」表記の4首中3首が紅葉を詠っています。

  なお、萬葉集』にあった「たつたひこ」表記及び「たつたこえ」表記の歌(各1首)が、三代集にはありません。「たつたかはら系」と「たつたのおく等系」は三代集にまだ現れていません。

このため、最初に紅葉と「たつた」表記の関係から「たつたのやま」や「たつかは」の実態を検討することとします。

 

4.「たつたかは系統」表記の最初の歌

① 『萬葉集』記載の歌に最も近い(三代集で最も古い)「たつた」表記の歌が、1-1-283歌です。この歌における「たつた」から検討します。

 この歌は、さらに、「たつたかは系統」の表記歌の最初の歌であり、かつ「たつたかは」と「紅葉」を同時に詠み込んだ初例であります。

② 作詠時点は、この歌の左注「この歌は、ある人、ならのみかどの御歌なりとなむ申す」より、少なくとも「ならのみかどの時代」に既に詠われていたと推定し、作者についてはよみ人しらずのまま作詠時点を平城天皇薨去時点・弘仁15年(824)以前と推計しました。

 この歌の次に古い歌は849以前のよみ人しらずの歌群の4首であり、この歌と同様に左注でもあれば、更に遡り得る歌群です。2首が秋と冬の部の歌で紅葉を詠み、残りの2首が雑の歌で「たつた(の)やま」表記で、紅葉を一見すると、詠んでいません。(その1首が1-1-995歌です。)

 

1-1-283  題しらず                  よみ人しらず

   竜田河もみぢみだれて流るめりわたらば錦なかやたえなむ 

 

③ この歌は、作詠時点では、清濁抜きの平仮名で書き表されていました。『新編国家大観』が採用した写本が、上記のような表現をしていたのです。「竜田河」という漢字3字に拘る必要はありません。

④ この歌は、推量を二つしている歌です。最初の推量が三句にある「めり」です。

この歌の作者は、「流るめり」と、推量の助動詞「めり」を介して、「竜田河」を紹介しています。

 小松英雄氏は『みそひと文字の抒情詩』でこの歌を評釈し、古今集では4例しかないが、「目に見える事実の背後にある事柄を推定させるには「めり」が有効である。」と指摘しています。また、「平安時代歌人にとり、大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」とも指摘しています。

 後者の指摘は、この歌が勅撰集における最初の「たつたかは」表記でありますが、勅撰集に載らない先行例が多少ともあることを前提とした意見と思われます。

④ 助動詞「めり」は、事柄を視覚によって捉え、それからの推量をいうのが基で、発展して推量を遠回しでいう意を含むようになった語です。

 では、この歌の作者は、どのような事柄を視覚によって捉えて、竜田河の流れを「もみぢみだれて流る」と推量したのでしょうか。

 作者は、「たつたかは」の状況を推量していますので、その「たつたかは」の流れを視覚に捉えられるような現場に臨場しているわけではありません。だから、視覚に捉えたのは、

「たつたかは」を隠している山々(多分紅葉しています)  ・・・a

落葉したら川に散ると思える斜面の樹林帯(紅葉した木々があります)   ・・・b

のどちらかです。前者の実景の一部に注目した景が後者です。

 このほか、aやbの時間軸を少し前にした

 「たつたかは」を隠している山々(紅葉の時期の直前の日)   ・・・c

さらに、一日にして紅葉することをも念頭に

「たつたかは」を隠している山々(紅葉の時期直前の昼間、夕方)   ・・・d

落葉したら川に散ると思える斜面の樹林帯(紅葉の時期直前の昼間、夕方)   ・・・e

などを視覚に捉えたかもしれません。しかし、『古今和歌集』の秋の部の歌として集中の歌順をも考慮すると、aかbの想定が順当なところです。いずれにしても「たつたかは」を作者は見ることができないで作詠しています。

 また、書物を読んだことが視覚によって捉えたことであるとすると、読んだ文字文字から「たつたかは」を想起したことになります。その書物漢籍であれば、漢文学隆盛の時代に「竜田河」を詠んだ日本人の漢詩文が生まれた可能性がありますが、実際には、この歌が初例です。

 ただし、「たつたかは」の「たつた」を含む「たつた(の)やま」は『萬葉集』にあります。その「たつた(の)やま」の山中から発したかのようなイメージが「たつたかは」という表現にあります。

 この歌が詠まれるまで、誰も歌に用いていなかった表現であります。

 既に共通の認識のあるはずの「たつた(の)やま」に「たつたかは」を人工的に作りだしたアイデアが斬新であります。

 この歌の作者は、伝承されてきた歌や読解できた『萬葉集』の歌などから、「たつた(の)やま」のイメージを持っていたのでしょう。いうなれば「都(平安京)から遠く離れた山並み」が「たつた(の)やま」であったのです。前回結論を得た「700年代のたつた(の)やま」のなかの「遠望した時、河内と大和の国堺にある山地、即ち生駒山地。難波からみれば、大和以東を隠している山々の意。」の流れのなかにおくことができる理解です。

⑤ aとかbを視覚に捉えた事柄は、誰も知らなかった「たつたかは」を説明するのに、必ずしも山の実在が求められていないとなれば、賀の行事などにおける屏風の「倭絵」(屏風絵)の中ではないでしょうか。

 紅葉した山々は、季節季節を描いて一式とした屏風の画題のひとつとなっています。紀貫之の私家集『貫之集』が屏風歌から始められているように、歌人にとって重要な(それだけ需要のあった)歌のジャンルが屏風歌です。

⑥ 屏風に添える歌とすると、屏風の絵から想像する紅葉に満たされた川が、周知の川でないことに価値が増します。川幅が狭くなった実際の川や庭の流水(遣水)において流れを錦に見立てることは、高貴の者もこの歌を依頼した者も見て知っていた(し庭に作らせもした)はずです。

 いままで遠望してきた「たつた(の)やま」に行ってみたら、見事な「錦のような川」があるらしい、いやあるはずだ、と作者は推理し、その根拠の山々が「屏風絵」のなかにあり、その川に名を付けて「たつたかは」と表現したのです。秋の「かは」の様相をいうのに、山々の名は決めつける必要はないのです。

 作者は、人工の川であるからこそ、「めり」で川の存在を訴えたのではないでしょうか。(布を織った本来の)錦について共通のイメージを持っていた歌人に、当時「たつたかは」は知られておらず、誰も行ったことのない川での秋のすばらしい光景があると訴えたのがこの歌であります。

 そして、我が国において「たつたかは」を記録した最初の文献が、(今回の検討対象外にしている私家集と歌合の記録を別にすると)『古今和歌集』となったのであり、この歌であります。

⑦ 紅葉は大和のどの山でも毎年繰り返されたことです。「あすかかは」では既に固定したイメージが強く「紅葉」を訴えるには新鮮さが足りません。

 春日の山のような特定の山でもなく、みむろのやまのようにある条件下における山を形容し得るイメージでもなく、特定の山頂を指しているとは理解しにくい「たつた(の)やま」の紅葉であり、『萬葉集』では大和川を「たつた(の)かは」と表記していません。その大和川に流れ落ちるたくさんの谷川の一つを「たつたかは」に比定されないよう、歌本文でヒントも与えていないし、『古今和歌集』の撰者も詞書も略して「題しらず」としています。

⑧ 次に、「錦」という比喩について検討します。

 例えば、桜の花筏が、流路の中の岩や飛び石にあたって乱れても流水にのってまた一つになるように、花筏が切れることはなく、「絶えて」しまうことはありません。また下流に別の飛び石があればもう一回模様が変わるだけです。飛び石のところの乱れも一つの絵柄にしかすぎないと理解してよい。錦という織物もこの花筏と同じはずです。

しかし、「たえなむ」と言いたい気持ちを作者は抑えきれなかったのです。

 このような光景は、「たつたかは」でなくとも落葉が上流からあるいは両岸の支川や木々から続々と集まっているようなところがある川なら、どこにでも生れそうな光景です。「あすかかは」でも庭の流水でも同じであろうと思えます。

 そうであるので、この歌のポイントは、錦にみまがう川が「たつたかは」という名である事、ではないかと思います。

 小松英雄氏が指摘するような、「大和を流れる川の名以上の知識を「たつたかは」に不要。大和の国のどのあたりを流れていてもよかったので「錦」というキーワードによってその情景を自由に想像させることが可能であった」となるためには、伝承されてきた歌にある「たつた(の)やま」ということばとのつながりを連想させる「たつたかは」であって、現在竜田川と呼ばれる大和川の支川と結びつけることを拒否している歌であります。

⑨ 次に、「わたらば」と仮定していることを、検討します。

 貴人は、踏み石の無い川を渡ろうと思わないでしょう。踏み石があったとして貴人が渡ったとしても踏み石以外が「錦」が切るようなことはありません。貴人でない者が水の中に入って行く光景よりも、鹿などが川を越えて行く光景のほうがふさわしい。

 「めり」と推量した作者が、「わたる」本人という理解に拘ると、作者は貴人ではないことになります。あるいは、貴人に代わって誰かが詠んでいる歌ではないことになります。このように実際の川に接した感慨を詠んでいるとの理解は無理が生じています。

⑩ 事前に描かれている絵が、「竜田川」を直接表現しないが紅葉の山だけの絵であれば、「竜田川」全体をも推量することになり、上句の「めり」という推量と下句の推量は無理なくつながります。

⑪ この1-1-283歌は、歌人たちのよく知っている「たつたやま」のどこかにあるはずの「川」の見事な紅葉報告を初めてしています。

 これにより「たつた(の)やま」に、官道もない秋には美景となるはずの山、という意味を新たに加えたと、言えます。

 この結果として、この歌が、「たつた(の)かは」と「たつた(の)やま」に紅葉を縁語として定着させました。

⑫ 『古今和歌集』は、この歌に続き記載している1-1-284歌は「たつたかは」を、「みむろの山」とともに詠まれていますが、この歌には「又は、あすかがはもみぢばながる」(さらに人丸歌)という後記のある伝本もあります。

 「みむろの山」は、所在地の候補がいくつかある山であり、人工の「みむろかは」はひとつの川のイメージに収斂しにくいと思われます。伝本の歌からこの歌の本文に改作され、この歌が洗練されて1-1-283歌がうまれたかもしれません。あるいは、1-1-283歌の刺激を受けて伝本の歌からこの歌の本文に改作されたのかもしれません。

 『古今和歌集』のよみ人しらずの歌ですが、人丸歌ということならば作詠時点849年以前を遡らせる可能性があるかもしれません。この歌は1-1-283歌とほぼ同世代の歌と言えます。

 1-1-314歌も、作詠時点を849年以前と推計した歌ですが、『古今和歌集』の冬歌の巻頭歌とされています。伊達本などには「河」の右に「山」と傍記があるそうですが、秋の名残を詠うのであれば紅葉を確実に連想するため新しく創出した「たつたかは」です。1-1-283歌と1-1-284歌の後に詠まれているのでしょうか。

⑬ このように、最初に「たつたかは」表記が用いられた801~850年代の歌においても、実際の所在地を作者は問題としていません。現地に赴くことのできない川として「たつたかは」表記が始まっています。

従って比定できる川は自然界にないと理解できます。

これらの歌の次に古い歌が、作詠時点を876年以前と推計した1-1-294歌であり、1-1-314歌から約30年たっています。そして、「たつたかは」を詠んだ歌で作者名が初めて明らかになり、かつ詞書で屏風の絵を題にして詠んだ、と明記されている歌です。

 すでにこのときには、「たつたかは」のイメージを、この歌を詠んだ者の属するグループの全員が共有していると思われます。

 

1-1-294 歌  秋下  二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみぢながれたるかたをかけりけるを題によめる     なりひらの朝臣

  ちはやぶる神世もきかず竜田河唐紅に水くくるとは

 

⑭ 次回も、「たつたかは」と紅葉に関して記します。

 ご覧いただき、ありがとうございます。

 <2017/6/12>