前回(2024/11/25)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第41歌です。
1.経緯
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-40歌まで、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。歌は、『新編国歌大観』より引用する。
2.再考の結果概要
① 『猿丸集』の第41番目の歌及びその類似歌と諸氏が指摘する歌は、次のとおり。
3-4-41歌 なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)
秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし
3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌 題しらず よみ人しらず
あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
② この両歌は、詞書が異なるものの、歌本文は清濁抜きの平仮名表記をすると、全く同じです。
③ 下記の確認の結果は、次のとおり。
第一 3-4-41歌は、同音異義の語句「あき」に、詞書により2意重ねられている。
第二 3-4-41歌の現代語訳(試案)は、次のとおり。
詞書 「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」
歌本文 「秋が来たと判断できる(あなたに飽きが来たと確実に推察できる)。秋が深まれば落葉したもみぢが、わが屋敷近くにおいては地面に敷き詰める。そのため、もみじに覆われた道を踏み分けて私を訪ねるというような人は、いないと判断できる。(でも、1-1-288歌の人のように、一時のことと思いたい。)」(41歌改訳試案)
第三 1-1-287歌は、部立ての歌として理解することを、『古今和歌集』編纂者は求めている。
第四 1-1-287歌の現代語訳(試案)は、次のとおり。『古今和歌集』では、この歌と1-1-288歌が対にされて配列されている。
詞書 「題しらず よみ人しらず」
歌本文 「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。道さえもそうだ。だから、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(友と会えないのも悲しいことである)。」
第五 これらの歌も、趣旨が違う歌である。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の散るももぢを楽しむ親しい人がいない、と詠っている。
第六 3-4-41歌の詞書にある「鹿」の理解に、前回(ブログ2019/2/11付け~同2019/3/4付け)誤りがあり今回正した。
第七 なお、1-1-288歌の現代語訳(試案)は次のとおり。
詞書 「題しらず よみ人しらず」
歌本文 「なんとしても、あなたをあらためて訪ねることができましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落とさせそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私には、もみぢの錦を断ち切れません。)」
3-4-41歌の作中人物は、この歌を、訪問してくれない人物が時期をまてと詠んだ歌とみなしている。
3.再考 3-4-41歌
① 確認は、詞書のもとにおける歌本文として理解することです。
『猿丸集』編纂者は、一つの詞書のもとに、3-4-39歌から3-4-41歌計3首を配列しています。
だから、この一連の3首は、特定の何かを念頭においた連作ではないか、と推測できます。
詞書の現代語訳(試案)は、3-4-39歌の確認の際の(試案)を採ることとします。即ち、
「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」
そして、秋鳴くシカはオスであるので、シカは恋の相手である男を暗喩しており、詞書は「もう逢わないと言ってきたので(詠んだ歌)」という暗喩がある、と理解しました。
② 詞書について、このような理解をした3-4-39歌と3-4-40歌の歌本文は、次のような現代語訳(試案)を得ました。そうすると、作中人物は、連作とすれば同一人物が想定でき、女性となります。前回(ブログ2019/3/4付け)の結論は、詞書を鹿狩りにあった鹿の鳴き声と理解したうえで作中人物をとしましたが、誤りでした。
3-4-39歌
「秋の色に染まっている山の黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く、という時こそ、それは秋というものの定めというものなのか、かなしいものである。」(貴方が私に「飽き」てきたということを知れば、それは切ないものがあるなあ)(39歌歌本文改訳(試案))
(ブログ2024/8/26付け参照)
3-4-40歌
「(鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷近くにおいて、「いなおほせ鳥」が鳴き、それと同時に今朝の風にのり雁はきた、ということになるなあ(「否(と)仰せ(られる)鳥」が我が近くで鳴き、それとともに雁がきたのは、やはり秋となった(飽き(られた))ということか)。」(第40歌改定試案)
なお、「いなおほせ鳥」とは、同音異義の語句として、
第一 「歌語であり、稲に関するなにかを暗喩にもつ秋に来る鳥であり、季語は秋である」
第二 「「否(と)仰せ(られる)鳥」」
と言う二つの意で用いられていました。 (ブログ2024/11/25付け参照)
この詞書とそのもとにあるこれらの2首から、3-4-41歌の作中人物は女性であり、遂げられぬ恋の歌ではないか、と推測できます。
④ 3-4-41歌の歌本文の初句「秋はきぬ」には、「飽きはきぬ」の意が重ねられていたら、上記の推測をより確かなものとします。
同じく歌本文の二句にある「やどに」という語句は、直前の歌3-4-40歌でも用いられています。歌本文に「わがやどにいなおほせどりのなく」とあり、渡り鳥が作中人物の屋敷地でなくというよりも、屋敷に居る者に聞こえるように鳴いている」と言う情景であり、その意は、「わが屋敷近くにおいて」と理解しました。
「やど」とは、「屋処(やど)の意、であり、a住んでいるところ。(庭を含めて)家。b家の戸口。また家。c泊まるところ。」の意があります。(『例解古語辞典』) ここではaの意の用法にあたります。
これらに留意し、改めて、歌本文の現代語訳を試みます。
⑤ さて、この歌は、次のような文よりなります。
文1 秋はきぬ :詠っている時期の到来を認識したと作中人物は明示する。及び作中人物と相手との現在の仲の認識を明示する。
文2 もみぢはやどにふりしきぬ :秋が深まりもみぢの落葉が「やど」に「ふりしく」ことを作中人物は確認している。
文3 みちふみわけてとふ人はなし :そのような状況下では訪ねて来る人はいないと作中人物は断定している。
終止形の動詞が3つあるので、それにより、この歌は3つの文からなる、といえます。
⑥ 文1にある「秋」は詞書のもとでは「飽き」を掛けていておかしくありません。
文2にある「やどに」は、3-4-40歌を踏まえれば、同じように「わが屋敷近くにおいて」ではないか。そうすると、文3にある「みち」は、具体的な屋敷近くの道の意であることになります。
「やど」周辺は、気象条件などは同じであり、秋になると一斉にもみぢするのが普通であろう、と思います。
⑦ 文2にある「ふりしく」という語句は、『萬葉集』にも用例があります。三代集では後撰集に1例あるほか『古今和歌集』に用例が6例あります。
部立て「秋歌下」にある1例は、この歌の類似歌である1-1-287歌です。もみぢが「降ってきて敷きつめる・降り積もる」意と理解できます(類似歌ですので後程再確認します)。
『古今和歌集』のそのほかの5例は次のとおり。
部立て「冬歌」に3例、1-1-322歌と1-1-324歌と1-1-333歌です。ともに雪が「降ってきて敷きつめる・降り積もる」意と理解できます。
部立て「賀歌」に1例、1-1-363歌です。四十賀の四季を描いた屏風の「冬」の絵に書き付けたという詞書があり、雪が「しきりにふる」意と理解できます。
部立て「雑体」に1例 1-1-1005歌です。 「冬のながうた 凡河内躬恒」と言う詞書があります。雪が「しきりにふる、ふり続ける」意と理解できます。この語句の直後に「白雪のつもりつもりて」とその結果を示しています。
結局、雪を対象に用いられているのが5例、もみぢを対象に用いられているのが1例となります。『萬葉集』ではみな雪が対象でした。
⑧ さて、京都盆地の地表面近くの卓越風は、秋になると北西と北北西であり、冬は北西と西南西です。京都盆地は南北に細長いので南北の風が吹きやすいのだそうです。(中島暢太郎氏などの指摘)
落葉中のもみぢ葉は、降っている雪と同じように、空中を漂ってから接地します。接地後も風が吹けば移動しやすい存在です。雪だまりができるように、枯れ葉が集まってくる箇所があるものです。
落葉したもみぢ葉が、濡れていると、薄く積もっている雪とどちらが風によって移動しやすいでしょうか。もみぢ葉が、地面に「ふりしいた」ままの状態の継続は、平安京であれば工夫をしなければ北西と北北西によってなかなか生じないのではないか。だから、路が「ふりしいた」状態になっている時間帯は生じるものの限られています。
⑨ そのため、文3にある「みち」(具体的な、作中人物の居る屋敷近くの道)を物理的に使えなくなるの(通れないと詠える時間帯)は、日を置かず通行できるようになります。類似歌1-1-287歌を承知している3-4-41歌の作中人物は、それを理解して詠っている、と思えます。
3-4-41歌は、おくられた相手にすれば「ふりしいた」状態はすぐに消えるので、来てくださいなという催促の意になります。詞書により、歌本文の意が変わったということです。その場合、1-1-288歌は、恋の歌としては訪れない人の言い訳の歌ともなります。
そうすると、「飽き」を生じた人物の意志に基づき、「とふ」ことが無いのだ、ということを確かめているかにこの歌は理解できます。
⑩ このような理解のもとに、改めて現代語訳を試みると、つぎのとおり。
「秋が来たと判断できる(あなたに飽きが来たと確実に推察できる)。秋が深まれば落葉したもみぢが、わが屋敷近くにおいては地面に敷き詰める。そのため、もみじに覆われた道を踏み分けて私を訪ねるというような人は、いないと判断できる。(同じような道を詠んだ1-1-288歌の人のように、一時のことと思いたい。)」(41歌改訳試案)
ひとつの詞書のもとに3首ある最後の歌がこの歌です。前の2首とおなじく、まだ、未練があること、諦めきれないこと、を訴えた歌ではないか、と思います。
『猿丸集』の編纂者は。この詞書のもとの3首は、伝手を求めて相手に渡したい、と願っている恋の歌として配列しているはずです。1-1-288歌の歌意は下記「4.」に記します。
4.再考 類似歌 1-1-287歌及びそれと対になる歌1-1-288歌
① 1-1-287歌は、部立て「秋歌下」にあります。この部立ての歌は、時節の進行を示せるように歌群を設定しています。そして2首を対の歌として配列されています(ブログ2019/2/11付け参照)。
1-1-288歌は、1-1-287歌と対になって配列されている歌です。
1-1-288歌 題しらず よみ人しらず
ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら
② この対の歌2首の、共通点は、
第一 秋の時期の歌としての理解を求められている配列にある歌であること 即ち部立て「秋歌下」に連なって配列されている。
第二 よみ人しらずの歌である(元資料は、官人にはよく知られた歌であり、かつ日常的な生活において利用価値のある歌である)。
第三 散るもみぢを詠う。
第四 訪ねる人が通って来る道は、散ったもみぢ葉に見えなくなっていると見たてている。
第五 作中人物は、親しくしていた人に会えない状況下にある。
異なる点は、
第十一 時期を明言している(1-1-287歌)のとそうでない(1-1-288歌)とに分かれる。
第十二 散るもみぢ葉は、「やど」を中心に詠む歌(1-1-287歌)と「みち」を強調している歌(1-1-288歌)とに分かれる
第十三 作中人物は、訪ねられる立場(1-1-287歌)と訪ねる立場(1-1-288歌)とに分かれる。
第十四 一見、贈答歌のやりとりのように配列されている、と理解できる(多くの人がこのことを指摘する)。
② この両歌は、秋の歌である(第一)ものの、恋の歌の贈答歌とみれます(第十三)。そうであれば、1-1-287歌の時期を明言している「あき」という語句には、「飽き」が掛けられているかに見ることができます。
片桐洋一氏は、1-1-288歌について、「前歌(1-1-287歌)の趣旨に疑問を呈し、反対の意向をもって応じている」としています。そして「問答的な贈答歌」であり、「待つ女」の嘆きに対して「私を来させまいとしているのを知って訪ねてゆけようか」と応じた(のがこの歌)」と指摘しています。そして、当時の男女の贈答歌の典型にそって「よみ人しらず歌二首をこのように配列して、歌物語にも類した一つの世界を作り上げた(古今集の)撰者の遊びを興味深くおもう」と指摘しています。
しかし、部立ては「恋部」ではないので、部立て「秋歌下」にある『古今和歌集』の歌に関する氏の指摘は二次的なものです。元資料の歌としては、氏の指摘のように贈答歌として利用されていた可能はあり得ると思います。
③ 部立て「秋歌下」を通覧すると、もみぢさせるのは、秋を司る神や露とか霜などです。この歌の前後(1-1-281歌~1-1-292歌)は、もみぢの散る様子を描写していますが、人間(歌では官人等)の意志に応じて散るかのような表現をしていないことで統一されています。
もみぢするのは四季の移り変わりで生じているものですので天帝が直接意思を及ぼしているかもしれません。だから、もみぢして落葉し道を「ふりかくし」ているのは、官人でも女性でもなく、官人や女性に加担しているかどうかは定かではありませんが秋を司る神です。
そして「ふりしいた」もみぢは、流水や風で消えていっています。もみぢした山は、落葉が始まりそれほどの日時が経たないうちに錦を畳んでしまいます。道も路面がわかる状況に戻ります。秋を司る神は移ろうのが好きなようです。
また、『古今和歌集』の部立て「秋歌下」での作中人物は、散るもみぢを愛でています。例えば、1-1-283歌は、「わたらば錦なかやたえなむ」と竜田川をもみぢが散り乱れて流れている状況を愛でています。
④ このような前回検討(付記1参照)した『古今和歌集』の部立て「秋歌下」の理解は、今回の確認でも妥当なものといえました。そして、これに基づき、得た1-1-287歌と1-1-288歌の理解も是認できるものでした。
その概要は次のとおりです。
第一 もみぢさせるのは、秋を司る神や露とか霜などであり、もみぢして散った状況も秋の景である。
第二 その景を親しい人と楽しめないのはかなしいことである。
第三 現代語訳(試案)は次のとおり。作中人物は、男である。 (ともに、詞書は「題しらず よみ人しらず」 付記1参照)
1-1-287歌
「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。だから、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(悲しい秋である)。」
今回、「それなのに」を「だから」に訂正しました。
漢詩には、親しくしていた友が傍にいない、と嘆く詩が多々あることを思い起こす歌となっています。係助詞「は」による3つの文からなる歌です。
1-1-288歌
「なんとしても、あなたをあらためて訪ねることができましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落とさせそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私には、もみぢの錦を断ち切れません。)」
第四 この2首は、親しい人と共に散るもみぢを愛でることができないことを詠っている。そのため、この2首は、「人に会えないという、かなしい秋となってしまった」、という趣旨の歌ではないか。対の歌として、共通なのは、「散るもみぢ」のほか「親しくした人に会えない」が加わっている。
第五 作中人物は、不定である。
⑤ 確認のため、諸氏の指摘をみてみます。最初に、竹岡正夫氏の現代語訳をとりあげます。詞書は割愛します。
1-1-287歌
「秋はきてしもうたし、もみぢは 屋敷に降り敷いてしもうたし、道を踏み分けて訪問する人は 無いし」
1-1-288歌
「わざわざ踏み分けて、今さらがましう訪問したもんだろうか。もみぢの葉の、(主人の意を汲んで訪問者に見せないように)こんなに散って隠しておいた道と見ながら」
竹岡氏は、1-1-287歌については、係助詞「は」が三つ連なる歌と理解しています。作者の性別を論じていません。
そして、1-1-288歌については、「さらに」が一首の重要な語となっている(その意は、「今さら」の意)と指摘し、『余材抄』の指摘「上の歌と問答せる歟。おのづから問答せるに似たるを、かく次第してあつめたる歟。」を引用しています。
両歌の現代語訳からは、氏は、もみぢするのは屋敷の樹木であり、当然道に沿う樹木も同時にもみぢしている、という理解と思えます。
そして、1-1-287歌は、散り敷いたもみぢを一人で鑑賞しているのを悲しんでいるのを詠っているというよりも、秋になり訪問を断られていた人物の体面を保った断わり状を詠うといった趣きです。
1-1-288歌の()書きは、氏の思い込みに過ぎません。()書きを加えたことで、散り敷いたもみぢを蹴散らすのは、出来ないことだ(誘ってくれるのが遅い)という歌という理解ではなくなりました。部立て「秋歌下」に配列されていることへの配慮が少なすぎます。
『古今和歌集』編纂者は、散るもみぢも1-1-283歌のように愛でる視点を持っていることに留意してよい、と思います。
⑥ 久曾神昇氏の現代語訳は次のとおり。(詞書は割愛)
1-1-287歌
「物さびしい秋になってしまった。木々のもみぢ葉は、すでにわが家の庭に散り敷いてしまった。しかはし、道を踏み分けて訪ねてくれる人はないことである。」
1-1-288歌
「もみぢを踏み分けて行って、なおも訪ねようかしら。もみぢ葉が主人の心を汲んで、散り隠してしまった道であると見ながらも。」
氏は、1-1-287歌について寂しいものをリズムよく詠んでいる、と指摘しています。 1-1-288歌はその作中人物を隠者と推測し、1-1-287歌の答ともとれる、と指摘しています。
氏は、1-1-287歌の作中人物像に触れていません。たしかに男女どちらもあり得ます。
1-1-288歌における、「もみぢ葉が主人の心を汲んで、散り隠す」というのは、部立て「秋歌下」配列からみれば異例の作中人物の心理の理解です。
⑦ さて、今回、1-1-287歌は、次の文からなる、と理解しました。部立て「秋歌下」の配列に留意し、詞書の「題しらず よみ人しらず」に従った結果です。
文1 あきはきぬ :「あき」が来たという作中人物の認識を記す。
文2 紅葉はやどにふりしきぬ :その秋の事例に作中人物は出会っていることを記す。それは愛でるべき景である。
文3 道ふみわけてとふ人はなし :その事例は「やど」だけでないことから人の動きに縛りが生じるが、作中人物は、止むを得ないことと認識していることを記す。
この歌は、係助詞「は」による3つの文を並べた歌です。 カエサルの「来た 見た 勝った」というリズム感がある歌です。
もみぢする時期は、作中人物の屋敷とその周囲も同時期とみてよいはずです。文1にある「やどに」とは、結局屋敷のある地域を含むことになります。この歌本文ではもみぢする樹木の種別を限定していません。屋敷とその周囲も同時期に鑑賞対象になります。
⑧ 今回、前回の現代語訳(試案)を一部修正し、上記「2.③ 第四」に示した(試案)を得ました。再掲します。
「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。道さえもそうだ。だから、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(友と会えないのも悲しいことである)。」
前回の試案はつぎのようなものでした。
「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。それなのに、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(悲しい秋である)。」
この1-1-287歌は、部立て「秋歌下」に配列されていなければ、作者を女性と仮定して、「秋が来た。木々は紅葉し散ってきている。それを楽しんでくれる人は今いない。」と詠い、お出でのない特定の男性に誘いをかけた歌という理解が可能です。また3-4-41歌のような理解も可能です。
⑨ 同じように、配列に留意し、詞書の「題しらず よみ人しらず」に従うと、1-1-288歌は、次の文からなる、と理解しました。
文1 ふみわけてさらにやとはむ 作中人物が自分の行動予定を記す
文2 もみぢばのふりかくしてしみち 作中人物の行動をする場所の状況を指摘する
文3 (みち)とみながら 作中人物による文1の行動予定の前提である条件を記す
文1にある「とはむ」とは「動詞問ふの未然形+推量の助動詞むの已然形」です。
文2の「みち」は、「たつかかは」と同じです。作中人物は、踏みにじって通過するには惜しい景に見立てています。
だから上記「2.③ 第七」に示したような現代語訳(試案)となりました。これは前回の(試案)のままです。再掲します。
「なんとしても、あなたをあらためて訪ねることができましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落とさせそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私には、もみぢの錦を断ち切れません。)」
⑩ 作中人物の性は不定です。部立て「秋歌下」に配列されているこの2首は、「私のところも散るもみぢの時期である、残念だが散るもみぢを別々に楽しみましょう」と言っているかにとれます。
3-4-41歌の作中人物は、1-1-287歌を恋の歌に利用したので、1-1-288歌をも恋の歌として、訪れるのは時期がよくないと詠っているように見立てて、歌を詠んだのではないか。
木の葉の散るというのは秋特有の現象です。手を加えなくとも、散ったもみぢはほどなく風により消えてしまいます。
⑪ 1-1-287歌と1-1-288歌には、上記②に指摘したような共通点と異なる点があります。得られた現代語訳(試案)を比較すると、この2首は、散るもみぢについて、作中人物は、親しくしていた人に会えない状況下に詠っているという共通点があります。
それは、散るもみぢを愛でたいものの、散るもみぢにより親しい人に会えない、というジレンマを詠っている、と思います。このジレンマを作中人物が、訪ねられる立場(1-1-287歌)と訪ねる立場(1-1-288歌)の対の歌として『古今和歌集』編纂者は示しているのではないか。別々に楽しもうという意味では贈答歌に編纂者は仕立てているともとれます。
4.再考のまとめ
① この歌3-4-41歌は、悲恋の歌でした。その類似歌1-1-287歌は、四季の秋の歌であり散るもみぢを詠っています。
② 『古今和歌集』における1-1-287歌と1-1-288歌は、題詠の題は同じでも、直接贈答しあった歌ではありませんでした。
③ 配列されている2首の元資料は、 『古今和歌集』編纂時、官人には既によく知られた歌であったのではないか。それは歌合での「秋」の題詠ではなく、恋歌に仕立てた秋の挨拶歌であったのではないか。この歌本文は、だから、時代の異なる3時点で理解が異なることになります。
④ ブログ「わかたんかこれ ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。次回は、3-4-42歌です。来春を予定しています。
よいお年をお迎えください。
(2024/12/23 上村 朋)
付記1 前回の検討について
① ブログ2019/2/11付けから同2019/3/4付けで、『猿丸集』第41歌と『古今和歌集』287歌と288歌を検討した。これを本文では「前回の検討」と称している。
② 前回の検討時の現代語訳は、ブログ2019/2/25付け「12.」に記す。
③ ブログ2019/2/11付けで、『古今和歌集』の部立て「秋歌下」の配列を検討した。また、ブログ2018/9/3付けで部立て「秋歌上」の配列を検討した。ブログ2019/11/21付け及び同2019/12/20付けでも再度検討している。
(付記終わり 2024/12/23 上村 朋)