わかたんかこれ 猿丸集恋歌確認39歌 古今集にある類似歌

 前回(2024/8/26)に引きつづき『猿丸集』歌の再確認をします。今回は第39歌の類似歌です。

1.経緯

 2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。12の歌群を想定し、3-4-38歌まで、すべて類似歌とは異なる歌意の恋の歌であることを再確認した。歌は、『新編国歌大観』より引用する。

 今回は、3-4-39歌の類似歌のひとつである『古今和歌集』の1-1-215歌を確認する。(2.と3.はブログ2024/8/26付け参照)

4.再考 類似歌1-1-215歌 その1

①『猿丸集』の第39番目の歌と類似歌のひとつ1-1-215歌は、次のとおり。

3-4-39歌 しかのなくをききて

   あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集巻四「秋歌上」にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a)

     これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

   おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 この2首は、詞書が異なり、歌本文を清濁抜きの平仮名表記した場合、初句の3文字と五句の2文字が異なります。

② これまでと下記の再確認により、次の諸点を指摘できます。

第一 この歌(3-4-39歌)は、詞書のもとにある歌本文なので、二人の仲の破局を覚悟しつつもそれは作者にとり「辛いことです」と訴えた、恋の歌といえます。詞書は、類似歌1-1-215歌との差異のあることを示唆していることになります。

第二 今回改訳した現代語訳は次のとおり。

詞書:「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

歌本文:「秋の色に染まっている山の黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く、という時こそ、それは秋というものの定めというものなのか、かなしいものである。」(貴方が私に「飽き」てきたということを知れば、それは切ないものがあるなあ)(39歌歌本文改訳(試案))

第三 類似歌a(1-1-215歌)は、部立て「秋歌上」にあり、秋という時節になると「悲し」と感じる一例として、昼でも夜でも、秋にオスシカが鳴いているのを聞けば、秋は悲しい、ということを確認した歌である。

第四 今回改訳した現代語訳(試案)は、つぎのとおり。

 詞書:「是貞親王の家で撰歌された歌合集の歌  よみ人しらず」

 歌本文:「人家から遠い山においてハギの黄色に変色し落葉した葉を踏みつつ鳴くオスシカの声を聞く、というときこそ、(オスシカはこれからも鳴き続けるのであろうと思うのに自身の事もあわせ)そもそも秋の時節とはなんともせつないものだ、と感じるのだ。」(1-1-215歌歌本文現代語訳(試案)

第五 この歌には、対となる歌1-1-214歌がある。その検討は次回行い、1—1-215歌との関係を確認する。

第六 類似歌b以下は、その後再確認する。

③ さて、1-1-215歌は、『古今和歌集』の編纂方針に従い巻四「秋歌上」に配列されています。その前後の配列を最初に再確認します。

 「秋歌上」全体の配列はすでに再確認し(ブログ2024/7/29付けの 「4.①」及び「付記1.」参照)、次のように理解できました。

 『古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしています。歌群は11歌群あり、そして2首を一対として配列されています。この1-1-215歌は「第七 鹿と萩に寄せる歌群(1-1-214歌~1-1-218歌)」に配列されています。

 例えば、

  1-1-212歌と1-1-213歌は、「雁の飛ぶ様(雁行)」を、視覚のみで捉えた歌並びに視覚と聴覚で捉えた歌となっています。

 1-1-214歌と1-1-215歌は、「秋の山でシカが鳴くこと」を景としています。そして秋という季節への感慨をそれぞれ詠っています。

 1-1-216歌と1-1-217歌は、「秋に聞くシカの鳴き声」と「あきはぎ」を景としています。そして聴覚で捉えたシカの鳴き声に対する二つの感慨を詠っています。

 1-1-218歌と1-1-219歌は、「あきはぎのはな」を景としています。そして、「はな」を現認したことからの推測と確認を詠っています。

 このため、この歌とともに1-1-214歌も今回確認することとします。

④ また、「第三 秋の特性を詠う歌群(1-1-184歌~1-1-189歌)」には、「こころづくしのあき」(1-1-184歌)とか「秋くるからにわが身こそかなしきもの」(1-1-185歌)とか「ものごとにあきぞかなしき」(1-1-187歌)とか「秋のよぞもの思ふことかぎりなりける」(1-1-189歌)などとあり、「秋」という季節は、「かなしい・ものおもいをさせる」というイメージで詠われています。このイメージを踏まえて、第三の歌群以降の歌を理解するのが編纂者の意図に合致する、と思います。この点は前回の検討では考慮していませんでした(付記1.参照)。

⑤ では、1-1-215歌の詞書から再確認します。

 この詞書は、元資料について簡単に記して作者名(よみ人しらず)を添えています。1-1-214歌の詞書と比べると作者名(ただみね)が異なるだけです。

 『古今和歌集』には、「これさだのみこの家の歌合のうた」と詞書にある歌はいくつかあります。その歌合の記録としての伝本は一本だけだそうで、『新編国歌大観』には「是貞親王家歌合」(歌集番号5-3)の名で、収載されています。断簡であり、秋の歌のみです。

 「是貞親王家歌合」(歌集番号5-3)は、初期の段階の歌合の記録であり、歌人たちから集めた和歌を撰収した撰歌合と推定されている断簡の歌集です。その歌合は、後年のように歌会を開き左右に分かれて歌を合せたものではなかったと推測されています。

⑥ この1-1-215歌は、「是貞親王家歌合」(歌集番号5-3)に、ありません。その類似歌とみなせるような歌もありません。対の歌である1-1-214歌は、類似歌があります(後述の「5.①」参照)。

 この歌のある『古今和歌集』は最初の勅撰集であり、しっかりした編纂方針があったと推測されている編纂物であるので、詞書を信頼し、この歌も1-1-214歌と同様に「この歌あるいはその類似歌」が是貞親王家での撰歌合の対象となった歌である、と推測します。

 1-1-214歌とその類似歌において、歌本文の平仮名表記のわずかな違いは、歌を記録した官人ごとそのように記憶していた、ということであり、官人の共通財産のひとつになり得る歌と認めている表れなのでしょう。

 なお、「よみ人しらず」の人物が、撰歌合のために新たにこの歌を詠んだ可能性はほとんどないのではないか。

⑦ 詞書の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「是貞親王の家で撰歌された歌合集の歌  よみ人しらず」

 ちなみに、久曾神昇氏は、「是貞親王家の歌合に詠んで番われた歌」と訳しています。

 私は、「詠んで(番われた)」という断定には躊躇しました。『古今和歌集』の「よみ人しらず」の歌は編纂者の世代の前の世代の歌である場合が多々ありますので。

 この詞書は、1-1-215歌の元資料の出所を明らかにしています。「是貞親王家歌合」のために集められた歌は、当時の歌人自身の歌のほかに歌人に推薦させた「よみ人しらず」の歌もあったのでしょうか。或いは『古今和歌集』編纂者は特に名を伏せたのでしょうか。前者とすれば「よみ人しらず」の歌も対象とした撰歌合が「是貞親王家歌合」ということになり、後者であれば、『古今和歌集』は勅撰集として身分・位階による作者名の表記のルールがあったのでしょう。

 それはともかく、作者名(よみ人しらず)からも、作詠事情などに関してのヒントは、見つかりませんでした。

⑧ しかし、詞書全体から言えることはあります。

 撰歌合は貴人が企画したものなので、この歌は当時の中央官人の嗜好にあっている歌という点です。(もっとも、『古今和歌集』全体がそうです)。そして、部立て「秋歌上」に配列されたこの歌は、今日まで伝わる(秋の歌だけになっている)「是貞親王家歌合」(歌集番号5-3)と秋に対する思いが同じであろう、ということです。

 また、当時は既に屏風歌があり、一般に、歌は実景を詠んだ歌のみに限りません。「是貞親王家歌合」(歌集番号5-3)の元資料も同じです。

⑨ 次に、歌本文を確認します。次のようにいくつかの文からなっています。

 第一 おく山に紅葉ふみわけなく鹿の :秋のシカを話題として詠いだす

 第二 こゑきく時ぞ :そのシカの行動と作者の行動との接点が特別であることを記す

 第三 秋は悲しき :その接点で生じる作者の感慨を記す

 この歌は、秋という時節になると「悲し」と感じる一例を示した歌と理解できます。

 竹岡正夫氏は、この歌を、「秋は、・・・の時が最も心が傷む」と理解しています(本居宣長の『遠鏡』も同じ)。同感します。「・・・の時」の内容は第一の文と第二の文に相当します。

 形容詞「かなし」とは、「じいんと胸にせまり、涙が出るほどに切ない情感を表す」語句(『例解古語辞典』」語句『例解古語辞典』)です。同辞典は、「『古今和歌集』の用字「かなし」にこめられたもの悲しい意、哀愁を美的情緒としてとらえる解釈は、鎌倉時代歌人顕昭藤原定家などによって深められたもの」とも指摘しています。

⑩ 最初に、名詞「鹿」を確認します。

 シカ(ニホンジカ)は、人里に近づくのは稀であり、普段は野山を活動域としています。オスとメス別々のグループをつくり活動し、そのうちオスは育つと単独行動をとり、繁殖時期である 9月~11月だけメスを求めて独特の鳴き方をするそうです。採食行動は早朝と夕暮れだそうです。部立て「秋歌上」に配列されているので、秋にシカの鳴くのを作者は聞いていることになり、それは繁殖時期のオスシカの鳴き声ではないか。 オスシカは、場所や時間帯を選ばず、平山でも野原でも「おく山」でもメスシカの群れに届くよう鳴くのでしょう。

 繁殖時期のオスシカの鳴き声は、久曾神昇氏によればはるか遠方まで達するものだそうです。

 この歌の作者や『古今和歌集』編纂者の時代の官人には、遠くから聞こえる独特の鳴き声は、オスシカのもの、という理解を、身近の動物の例とあいまって共通の認識として持っていた、と思います。

 また、諸氏の『萬葉集』の時代から秋のオスシカの鳴き声は、よく詠まれている、という指摘があります。

⑪ さて、第一の文にいう「おく山」は、普通名詞です。

 「おく山」とは、「人里離れた奥深い山」のイメージではなく、作者の居る箇所からみて手前の斜面の先にある急斜面とか次の小山のイメージであり、実景であれば、シカの活動域でも作者が居る箇所に近い地域の山(いうなれば手前の山)との対比で用いているのではないか。

 屏風絵であれば、何重にも描いている山々のうちの奥のほうに描いた山であって、そのオスシカが鳴いている場所を、「(作者からみれば手前の山の)おく(に見える)山」と表現しているのではないか。

 「おく山」はそのような意の歌語として用いられている、と思えます。

 だから、「おく山」とは、ハギの群生が生じる程度の疎林がある地形であってもおかしくありません。配列の検討から想定できた歌群「鹿と萩に寄せる歌群(1-1-214歌~1-1-218歌)」にある1首であることにも留意してよい。

 このため、格助詞「に」の意は、「ひろく、物事が存在し、動作して、作用する場を示す」意(『例解古語辞典』)が妥当です。

 シカのハギを「ふみわく」という行動は、そのハギの群生を目視できていないならば、作者の想像となります。ただ、屏風絵であれば、シカのそばにハギも描かれており目視でき、それから鳴き声を想像しています。

 だから、第一の文は、秋といえばシカの鳴き声が遠くまで聞こえる時期である、と言い出している文章と理解できます。

⑫ 第二の文は、秋のオスシカの行動と作者との接点を指摘しています。また、屏風絵であれば、秋の景として描かれているのですから、その絵より浮かぶイメージがあることを指摘している文といえます。

 そして「時」とは、「(何か事があり、または、あった)おり。時節」の意(『例解古語辞典』であり、係助詞「ぞ」は、「時」を強調していますので、「秋という季節のなかでも特にこの場面」という意となります。

 そして、この文は、聞こえた鳴き声の大きさ、鳴いている頭数には触れていません。配列を考慮すると、次の一対の歌を構成している1-1-216歌は「山したとよみしかのなくらむ」と詠っているので、この歌は1頭あるいは少数の頭数が遠くで鳴いている、という想定もできます。

 また、オスシカはこの日も鳴き続けているので、まだメスシカにであえていないことになります。作者は日に何度も鳴き声を聞いてしまうことになります。

 だから、第一の文と第二の文は、部立て「秋歌上」に配列されている歌として、抽象的にシカの遠吠えが一度ならず秋になって聞こえてきたとき、という仮定をしていることになるのではないか。

 それが実景であるかどうかを作者は不問にしている、と思えます。 

⑬ また、シカからみれば遠吠えをする時間帯は限定されていません。そして、屏風歌として、屏風絵に描かれている時間帯に関わらず、その屏風絵から夜にも生じ得る事がらを想像した歌を詠うのは許されているのではないか。

⑭ 第三の文は、その接点から生じる感慨、あるいは屏風絵から得るイメージを指摘しています。それは、秋を「悲し」と感じる、ということです。

 秋にオスシカが(メスシカを求めてまだ出会えず)鳴き止まないことを「悲し」と作者は認識した時、作者にとっても満たされていない何かがあること気づき、それも「悲し」と作者は認識し、「秋は悲し」と総括したのが、第三の文ではなかろうか。

 『古今和歌集』の編纂者は、既に部立て「秋歌上」での第三の歌群で、四季のひとつである秋に対する官人の共通認識を示しています。その認識を詠っています。

部立て「秋歌上」にある歌ですので、ほかの部立ての歌と理解するのは筋違いです。恋の歌という理解は、ありません。 

⑮ この歌の現代語訳の例をあげます。

竹岡正夫氏 :「奥山に、散りしいた黄葉(もみぢ)を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くときこそ、秋はなんとも切ない。」

久曾神昇氏 :「人里はなれた奥山で、もみじ葉をふみわけて鹿が悲しそうに鳴く声を聞くときこそ、秋はしみじみと悲しく思われる。」

 両氏の「奥山」のイメージは「手前の山より向こうにある山」のイメージではありません。また、「奥山」にいるのはシカであり作者ではない、と理解しています。

 竹岡氏は、この歌を、「秋は、・・・の時が最も心が傷む」と理解しているように、部立て「秋歌上」に私が想定した歌群第三があることに留意しています。久曾神氏も1-1-186歌に関連して「秋の悲しさは、景物によって触発せられる」と指摘しており、一例のみで「秋を「悲し」と感じる」と総括することはないのに、第三の文に違和感を持っていません。

 しかし、両氏の現代語訳では、第二の文が示唆する秋に鳴くシカと作者の接点について訳出がなく、物足りません。

⑯ また、後代の『小倉百人一首』には、平仮名表記したら全く同じである歌があります。作者を『猿丸大夫』としている歌です。

 その理解を『例解古語辞典』では付録として次のように示しています(執筆は森野宗明氏)。『新古今和歌集』の部立て「秋上」の「明けぬとて野べより山に入る鹿のあと吹き送る萩の下風」の類とみて、シカは奥山への戻って行くと見立てたほうが「秋は悲しき」の印象を強めると理解した現代語訳です。

 「秋といえば、一般にもの悲しい季節。でも、暁近く、里近くから奥山に、もみぢを踏み分けながら帰って行く鹿の鳴き声を、寝覚めの耳に聞くときが、なんといっても身にしみて秋は悲しい。」

 萩の黄葉と名残を惜しみつつ、たわむれながら奥山へと姿を消して行く情景を思いやって、寝覚めの床に秋のあわれをかみしめる、という詩情豊かな歌、と指摘しています。

 多重的で奥行深く、広がりに富むところをおさえたもの、と確かに言えます。

 秋に関しては、「一般にもの悲しい季節」と認識していることを明記しており、作者の原則的な秋に対する思いにも触れています。

⑰ しかし、詠われている情景の時間帯が作者の寝覚める頃というのは歌に明記されていません。現代語訳している者の推測です。オスシカは満足して奥山に移動しているのでしょうか。ハギの花ではなく黄葉であれば、花妻にも逢えていないということであり、だからまだ鳴いている、と思えます。

 だから、繁殖期のオスシカの気持ちを重視した理解が、部立て「秋歌上」に相応しい、と思います。

 この現代語訳は、『古今和歌集』(10世紀前半成立)編纂者が部立て「秋歌上」に配列した歌としての理解ではなく、王朝秀歌の集大成である『小倉百人一首』という編纂物(13世紀前半の成立と言われている)における歌としての理解である、と思います。

 なお、現代の季語として「鹿」は、三秋です。

⑱ 以上のことをまとめると、次のようになります。

第一 部立て「秋歌上」の配列をみると、「あき」という季節が、そもそもは、「かなしい・ものおもいをさせる」時期である、という理解がされている。だから、第二の文にある「時(ぞ)」は、秋という季節が特別である、の意である。

第二 この歌には対となる歌がある(1-1-214歌)。

第三 「おく山」は、歌語であり、人との交わりのほとんどないシカの活動域のうちの人家から離れた野原や丘陵や山地を指す。従って格助詞「に」の意は、「「ひろく、物事が存在し、動作して、作用する場を示す」意(『例解古語辞典』)である。

第四 作者の聞いたシカの鳴き声は、部立て「秋歌上」にあることから秋であるので、繁殖期においてオスがメスを求める鳴き声である。

第五 鳴き声を聞いた時間帯は、不定である。

第六 実景ではない作者の想像した景であるかも知れない。

⑲ 現代語訳を改めて試みると、竹岡氏の訳をベースにして次のとおり。

 「人家から離れた山においてハギの黄色に変色し落葉した葉を踏みつつ鳴くオスシカの声を聞く、というときこそ、(オスシカはこれからも鳴き続けるのであろうと思うのに自身の事もあわせ)そもそも秋の時節とはなんともせつないものだ、と感じるのだ。」(1-1-215歌歌本文現代語訳(試案)

 この歌は、秋とは、そもそも「かなしい・ものおもいをさせる時期である」が、特にそれを感じる例を指摘しています。昼でも夜でも、秋にオスシカが鳴いているのを聞けば、秋は悲しい、ということを確認しています。

 この理解は、配列上想定している「第七 鹿と萩に寄せる歌群(1-1-214歌~1-1-218歌)」になじむ歌です。ただ、対の歌である2-1-214歌の理解と齟齬が無いかの確認を要します。

⑳ ブログ「わかたんか これ ・・・」をご覧いただきありがとうございます。

 次回は、対の歌1-1-215歌を検討します。

(2024/9/2  上村 朋)

付記1.1-1-215歌の前回の検討について

① 2019/1/14付けのブログで、1-1-215歌を検討している。部立て「秋歌上」の歌群の想定で、第三歌群は「「秋來る」と改めて詠む歌群」と理解し、その後の理解「秋の特性を詠う歌」という理解ではない。そのため、再確認が必要である。

② 次の語句は、今回も同じ理解である。

 名詞「紅葉(もみぢ)」:黄葉。この歌では、ハギの黄葉。

 動詞「ふみわく」:歌語として、シカが立ち止まっていても形容できるし、移動しつつあっても形容できる「踏みつける」意。つまり「シカの歩み」。

 形容詞「かなし」及び形容詞「わびし」の意

③ 得た現代語訳(試案)は、鹿の鳴き声とともに秋の冷涼な気候に接した作者の感興を詠んだ歌と理解したものとなった。

(付記終わり 2024/9/2  上村 朋)