前回(2019/2/18)、 「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」と題して記しました。
今回、「猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第41歌 3-4-41歌とその類似歌
① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-41歌 なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)
秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし
3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌 題しらず よみ人しらず
あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであるものの、詞書が、異なります。
③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。
2.~4 承前
(類似歌を最初に検討することとし、類似歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列より、類似歌1-1-287歌は、2首一組の歌が並ぶ「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌)」にあり、対となる歌が1-1-288歌である、ということがわかりました。そして1-1-287歌について作中人物の性別と「とふ」行為を検討し、その仮訳を、4案得ました。)
5.対の歌の検討 「ふりかくす」
① 古今集にある類似歌1-1-287歌と対となっている歌1-1-288歌の現代語訳を、改めて試み、この2首を比較し、1-1-287歌の(『古今和歌集』における)趣旨の検討に資するものとします。
最初に、1-1-288歌を、再掲します。
1-1-288歌 題しらず よみ人しらず
ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら
② 訳例として久曾神氏の訳を引用します(『古今和歌集(二) 全訳注』講談社学術文庫)
「もみぢを踏み分けて行って、なおも訪ねようかしら。もみぢ葉が主人の心を汲んで、散りかくしてしまった道であるとみながらも。」
氏は、「その家に住んでいる人は、世をのがれてわび住まいをしている人」と推測し、「前の歌の答えととれる」と説明しています。
契沖も1-1-287歌との問答歌とみているそうです。
片桐洋一氏は、この歌について、「前歌(1-1-287歌)の趣旨に疑問を呈し、反対の意向をもって応じている」としています。そして「問答的な贈答歌」であり、「待つ女」の嘆きに対して「私を来させまいとしているのを知って訪ねてゆけようか」と応じた(のがこの歌)」と評論しています。そして、当時の男女の贈答歌の典型にそって「よみ人しらず歌二首をこのように配列して、歌物語にも類した一つの世界を作り上げた撰者の遊びを興味深くおもう」と評しています。
③ 私は、この2首が秋歌として「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌」にあることにもっと留意してよい、と思います。ブログ「猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11付け)で、この歌群は「もみぢの散るのを惜しみ、それによる悲しみをこらえているかにみえる」と推測しました。
この1-1-288歌では、「もみぢばのふりかくし(てや)」と1-1-287歌の「紅葉はふりしきぬ」より、「もみぢば」の自立的な行為という詠み方をしていますので、もみぢする、ということについての確認から始めたい、と思います。
巻第五秋歌下を通覧すると、もみぢするのは、人間の技ではありません。秋を司る神か露とか霜などです。1-1-288歌の上記のような訳例の理解は例外になります。
四季の移り変わりで生じているものですので天帝が直接意思を及ぼしているかもしれません。だから、もみぢして落葉し道を「ふりかくし」ているのは、官人でも女性でもありません。
そして「ふりしいた」もみぢは、流水や風で消えていっています。もみぢした山は、落葉が始まりそれほどの日時が経たないうちに錦を畳んでしまいます。道も路面がわかる状況に戻ります。
具体的にもみぢの散る様子の描写を、この歌群と前の歌群でみると、
1-1-281歌と1-1-282歌は、山のもみぢを詠い、「ちりぬべみ」、「ちりぬべし」と描写
1-1-283歌と1-1-284歌は、流水のもみぢを詠い、「みだれて流る」、「もみぢば流る」と描写
1-1-285歌と1-1-286歌は、風に舞うもみぢを詠い、「ふきなちらしそ」、「かぜにあへずちりぬる」と描写
1-1-287歌と1-1-288歌は、地にふりしくもみぢを詠い、「やどにふりしきぬ」、「ふりかくしてしみち」と描写
1-1-289歌と1-1-290歌は、林の木の葉が散る状況を詠い、明るさの違う光に対応して「(月の)てらせる(葉)」、「色のちくさにみえつる」と描写
1-1-291歌と1-1-292歌は、散り切ってしまう・錦なくなる状況を詠い、「よわからし」、「ちりけり」と描写
このように人間(歌では官人等)の意志に応じたかのような表現をしていないことで統一している、と見たほうが、素直です。
1-1-287歌にある動詞「ふりしく」は、雪に対して『萬葉集』に数例ありますが、もみぢに対して用いるのは『古今和歌集』で初めてであり三代集ではあと1例(1-2-412歌)だけです。しかも三代集では「雪」に用いている歌がありません(付記1.参照)。
1-1-288歌にある動詞「ふりかくす」は、『萬葉集』に無く、三代集で雪に対して1例(1-3-1177歌)、もみぢに対して1例(この歌1-1-288歌)だけです(付記1.参照)。
④ 1-1-283歌が「わたらば錦なかやたえなむ」と詠うように、『古今和歌集』の歌には、もみぢし落葉した状況に対して、人工的な手を加えるより消えるのを待とうという姿勢が強い。作中人物である官人は、待つのが善い方法である、としているようです。
また、雪が「ふりしく」実景は、都近くの比叡山で、道の立体的な形態がわからなくなるほどのこともあったかもしれません。「もみぢ」が「ふりかくす」という表現は、当時において斬新なものであるものの、譬喩としては、もみぢが「ふりかくした」道も、時が立てば自然と見えてくるもですよね、と相手に念押しされる表現だと、思います。
1-1-288歌の作中人物は臨時の通行止めにあっているだけであり、訪問が物理的に不可能となったとは理解してもらえない譬喩となっています。
⑤ このように、この一組の歌が、もみぢその他に関して共通のものを持ち、何かを対とした歌であるために、問答歌というのが必須の条件ではありません。しかし、この2首は諸氏において問答歌か、とみる方もいますので、その検討を行い、次いで単独の歌2首としての理解を試みます。
6.一組の歌の検討その1 案の組み合わせ
① 私は、前回(「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11付け))で、1-1-287歌と対となっているこの歌を、次のように理解したと記しました。
1-1-288歌 題しらず よみ人しらず
「もみぢを足で払いつつわざわざ訪れましょうか。美しいもみぢが主人の心を汲んで散り隠してしまっている道と知りながら」
今から思えば、もみぢが散ることについて理解が不足していました。
② この歌(1-1-288歌)の現代語訳を、改めて試みるものとします。
作中人物の行為(関係する動詞)は、「ふみわく」と「とふ」の二つがあり、「ふりかくす」という行為は作中人物の行為ではありません。
この歌は、倒置した疑問文という構成の一文の歌とみることができます。あるいは、疑問の理由を、あとの文(三句以下)に述べているという構成の二つの文からなる歌とか、2つの文「ふみわけてさらにやとはむ」(二句まで)と「もみぢばのふりかくしてしみちとみながら(とはむか)」(三句以下)という繰り返し呼び掛けている文からなる歌、とも見えます。
また、文脈からは、作中人物と相手はなんらかの関係があると言えますが、二人の性別が直接表現されていません。
③ 歌が、1つの文から成っているならば、「ふみわけて」とは、後段にある「ふりかくしてしみち」を行くことを意味します。官人の行動とすると、1-1-287歌にある「みちふみわけて」と同様に、「なんとしても貴方のところへ向かう」、という意です。歩くことに限定されません。女性が必死に向かう、という理解は蓋然性が低いと思います。
後段における「(ふりかくしてし)みち」は訪問先に至る一般の道路でなければなりません。1-1-287歌と同様に、門前あるいはあがるべき建物の手前に到着してから「とふ」のはおかしい。
作中人物が関わる「ふみわける」と「とふ」という行為に関する語句の間にある、「さらにや」とは、
副詞「さらに」+間投助詞「や」であり、「あらためて・そのうえに(批判的な気持ちで・・・する)」の意です。
歌が、2つの文から成っていれば、「ふみわけて」とは、足で分けながらすすむ、という徒歩に限定もできます。この場合、作中人物は、1つの文から成っている場合と同様に、男性の蓋然性が高い。
以上をまとめると、つぎのとおり。
第一案:歌は一文:作中人物は男性。相手は不定。何としても行くのかと問う。
第二案:歌は二文で後の文は前の文の理由:作中人物は男性。相手は不定。徒歩でも行くのかと問う。(何としても行くのかと問うのでは第一案と同じに意になるので。)
第三案:歌は二文で、繰り返し:作中人物は男性。相手は不定。行く方法は問題としていないで、行くのかと問う。
どの案も、もみぢしているこの時期に行くのは困難であることを性別が不明の相手に訴えている点は、変りません。作中人物と相手との関係が、歌の理解に及ぼす影響が大きいと思われます。
④ 作中人物と相手との関係で整理し直すと、可能性のある現代語訳に、つぎのようなものがあります。
第11案:作中人物が男性で相手が女性 男女関係の歌
「なんとしてでも、今、貴方をあらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか、(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となっているかにみえるのですが。」(上記第一案をベース)
結局この歌の作中人物は、訪ねる(様子をたずねる)ことを未だに躊躇しています。この歌の返事次第です、と見えます。この場合隠されてしまった道は、風が吹けば見えてきます。だから、今、もみぢしている時期が訪問に都合が悪い、つまり、もうしばらく我慢してください、我慢しましょう、という意が強いと思います。例えば、身内で反対している人が居るとか、喪に服さざるを得ないとかが、想定できます。
第12案:作中人物が男性で相手が男性 官人・僧侶の人間関係の歌 その1
「なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース))
結局この歌の作中人物は、第11案の作中人物と同様に訪ねる(様子をたずねる)ことに躊躇しています。今、もみぢしている時期が訪問に都合が悪い、つまり、もうしばらく我慢してください、という意が強いと思います。例えば公的に往来を遠慮する事態が作中人物か相手にあることが想定できます。徒歩でも行くのかという理解(上記の第二案ベース)は、官人として最善を尽くすならば手段を問わないはずだから、あり得ないと思います。
作中人物の性別以外に第11案との大きな違いは、訪ねる人が、この歌を送った人のほかに、作中人物と歌を送った人とが共に訪ねるべき相手が居ることを想定できることです。その訪ねる時期の相談をしている歌ともとれます。訪ねる人を詞書などからで限定できないので可能性のある想定をしたところです(1-1-287歌との関係で限定することになります)。
第13案:作中人物が男性で相手が不定 官人・僧侶の人間関係の歌 その2
動詞「とふ」は、「自分にはっきりわからないことを相手に向ってたずねること」がもともとの意であり、「訪ねる(様子をたずねる)」には、「求婚する・無沙汰の見舞いをする(とぶらふに近い意)・弔問する
」(『古典基礎語辞典』)意もあります。「とふ」を「求婚する」意を掛けて用いている、と推定すると、「ふみわけて」を、現状から一歩踏みだす意と理解し、
「なんとしてでも、あらためて求婚のステップを踏むことなのでしょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道(一時的なことである)のようにみえるのに。」(上記第三案をベースとする)
このような内容の歌であると理解すると、作中人物である男性が相談を持ち掛けられてその返事をしたという官人・僧侶の人間関係の歌のひとつと見ることができます。作中人物である男性は、何かの仲立ちをした官人などが想定できます。
⑤ 1-1-288歌を、これらのいづれかの歌と理解し、2首一組の歌が並ぶ「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌)」に配列されている対の歌(1-1-287歌と1-1-288歌)を、突き合わせることとします。
1-1-287歌の現代語訳(試案)は4案ありました(ブログ「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照)。突き合わせる組合せが次のように多くあります。
以下に検討した結果を、歌の理解が難しかったケースに「→×」印、限定条件をつければ理解可能だったケースに「→△」印、理解可能であったケースに「→〇」印を、両歌の最終的な現代語訳候補にさらに「→◎」印を付しています。
1-1-287歌が第1案(作中人物が女性で、男女関係を詠う歌)の場合
1-1-288歌の第11案が1-1-287歌との問答歌 (ケースA) →×
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独A) →〇
1-1-287歌が第2案(作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)の場合
1-1-288歌の第12案が1-1-287歌との問答歌 (ケースB) →△
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独B) →〇→◎
1-1-288歌の第13案が1-1-287歌との問答歌 (ケースC) →×
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独C) →×
1-1-287歌が第3案(作中人物が男性で、男女関係を詠う歌)の場合
1-1-288歌に問答歌としえ突き合わすべき歌無し (ケースD) →×
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独D) →×
1-1-287歌が第4案(作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)の場合
1-1-288歌の第12案が1-1-287歌との問答歌 (ケースE) →△
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独E) →〇
1-1-288歌の第13案 1-1-287歌と問答歌 (ケースF) →×
両歌の案がそれぞれ単独歌 (ケース単独F) →〇
7.一組の歌の検討その2 ケースAとケース単独A~F
① 以下ケースごとに検討します。最初に、ケースAの現代語訳(案)を再掲し、検討します。
作中人物が女性の男女関係の歌である1-1-287歌は第1案となり、作中人物が男性の1-1-288歌の第11案となります。
女性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」
と詠い、男性が
「なんとしてでも、今、貴方をあらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか、(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となっているかにみえるのですが。」(上記第一案をベース)
と詠いました。
② このケースの1-1-287歌の現代語訳(案)(第1案)は、「秋になっても状況は変わらない」と詠っているところであり、(前回のブログで指摘したように)悲観的な状況なのか喜ぶべき状況なのかは、歌だけではわかりません。
問答歌として第1案は悲観的な状況を詠っているとすると、このような歌を相手に送っているのだから、それはポーズのみとみなければなりません。当時の男女関係の歌のやりとりでの常套手段のひとつです。歌を送られた男性は、この機会に別れようとしないで、時期を待て、と返事をしています。1-1-287歌の「A=男性」に1-1-288歌の作中人物は当たらないと主張していることになります。
ただし、1-1-287歌を構成する三つの文は、完了の助動詞「ぬ」で終る文二つに続き最後の文も言い切っており、曖昧さを残していないのが、男女関係の歌として気になります。文の表面の意味通りに認識した、と相手から通告され(貴方のその態度が原因で男女関係を打ち切ると宣言され)たら、多くの代償を払っても復縁できるかどうかわかりません。だからこの歌は男女関係の継続を願う気持ちを残していないかにとれるところが欠点になります。
また、この返歌となる1-1-288歌も行くのを断るのに、行く道がもみぢにふさがれている、と詠う表面の理由は、もみぢは風により消失しまい、理由を失うことになるなど誠実さを反論される恐れが多分にある表現です。強い決意を述べているかの調子の歌と対等な強い決意が感じにくい、誠意のない断り方です。
だから、男女関係の問答歌としていぶかしく、不自然です。
なお、諸氏が男女の問答歌と指摘しているのは、このケースAの作中人物の組み合わせであろう、と思います。
③ 第1案の作者の状況は、もうひとつあり、「秋になっても状況は変わらない」のは「喜ぶべき状況」ということです。問答歌として考えると、これに対する返歌が、「今の時期が訪問に都合が悪い」という意では返歌になっていません。
④ 次に問答歌ではなくそれぞれが単独の歌とみることができるか(ケース単独A)というと、それは可能です。1-1-287歌と1-1-288歌は、ともに地にふりしくもみぢを詠い、「やどにふりしきぬ」、「ふりかくしてしみち」と描写が対照的ですから。(これは以下のケース単独B~Fでも同じです。さらに、下記11.での検討を経ることになります。)
⑤ だから、ケースAの元資料は、一組になっていた歌ではなく、別々の機会に詠われたものと推量します。
8.一組の歌の検討その3 ケースB
① 次にケースBの現代語訳(案)を再掲し、検討します。
作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第2案となり、作中人物が男性の(同じように)官人・僧侶の人間関係の歌えある1-1-288歌の第12案となります。
男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」
と詠い、男性が、
「なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース)
と、詠いました。
② この2案は、訪ねる相手の限定をしていません。問答歌であれば、互いに了解事項として詠っているとみることができます。
その場合、1-1-287歌の案の作中人物が、「私を訪ねる人はいない」と詠う場合、嘆いているか怒っているとみれば、「私は(も)ゆけません(貴方のところに行かない)」と返歌するのはおかしいですが、喜んでいるとみれば、この返歌は有り得ますが、肯定文で返すのが普通であると思います。
③ また、1-1-287歌の案の作中人物が、「あの人(第2者であるあなた)を訪ねる人はいない」という場合でも「ゆくな」と1-1-287歌の案の作中人物が言っているとしなければ問答歌になりません。そのためにはもみぢの散る時期は行くなという理解となります。しかしながら、返事の歌は疑問形にしないで、肯定した文で十分です。ぴったりした返歌とは理解しにくい。
④ 「あの人(第3者の誰か)を訪ねる人はいない」という場合でも「ゆくな」と1-1-287歌の案の作中人物が言っているとみなければ問答歌になりません。つまりもみぢの散る時期は行くなという理解となります。しかしながら、返事の歌は疑問形にしないで、肯定した文で十分です。ぴったりした返歌とは理解しにくい。
9.一組の歌の検討その4 ケースCとケースD
① 次にケースCは、作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第3案となり、作中人物が男性の1-1-288歌は第13案となります。
男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」
と詠い、男性が、
「なんとしてでも、あらためて求婚のステップを踏むことなのでしょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道(一時的なことである)のようにみえるのに。」
と詠いました。
② この2案の組み合わせを問答歌と見るならば、男性が同じ男性とのカップルに関して相談しているかになり、当時の官人にとっては公にはしない事態であり、勅撰集には編纂者が排除する類の歌となってしまいます。
③ 次にケースDは、作中人物が男性の男女関係の歌である1-1-287歌の第3案なので、問答歌ならば1-1-288歌の作中人物が女性になるはずですが、その案がありません。
10.一組の歌の検討その5 ケースEとケースF
① 次に、ケースEの現代語訳(案)を再掲し、検討します。
作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌である1-1-287歌は第4案となり、作中人物が男性の官人・僧侶の人間関係の歌は第12案となります。
男性が、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定)、はいない」
と詠い、男性が
「なんとしてでも、あなた(又はあの人を)あらためて訪ねる(様子をたずねる)ことにしましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落させそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私にはもみぢの錦を断ち切れませんが。)」(上記第一案をベース)
と詠いました。
② この2案を問答歌としてみると、最初の歌は、作中人物にとってもみぢの散る時期に「訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(B=不定)」はいないと指摘し、次の歌の作中人物もそうであるべきである(あなたも訪ねないはず)、と伝えた歌であり、返歌は、わたしが「訪ねるでしょうか、そのようなことはしません」と詠っていると理解することになります。問答歌として成り立つものの、なぜ肯定文で返歌しないのか、気になります。
③ なお、このBには、1-1-288歌の作中人物(1-1-287歌の作中人物からみて第2者もあり得ます。
④ この2案の作中人物がこのようなやりとりを必要としたのは、例えば公的に往来を遠慮する事態がこの2首の作中人物か共に訪ねるべき相手にあることが理由として想定できます。
⑤ ケースFは、ケースCと同様であり、1-1-287歌の常識を疑います。
11.一組の歌の検討その6 歌群において
① 以上のように問答歌の各ケースの可能性を整理すると、上記6.⑤に、「→*」で示したようになり、問答歌としては、ぎこちないケースがあるのみです。
② この2首は、『古今和歌集』秋部下にある「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292歌)」中の一組の歌であり、恋の歌にもなり得る1-1-285歌と1-1-286歌という対の歌のあとに位置しているこの2首は、そのような歌を続ける必然性はありません。問答歌でも単独の歌2首としても男女関係の歌としての理解は除外してもよい、と思います。
③ 単独歌としては、そのため、1-1-287歌は、男性が官人・僧侶の人間関係を詠うとする案が現代語訳の候補となります。即ち、第2案と第4案です。
第2案は、もみぢがふりしく景を前にして、作中人物を訪ねる(様子をたずねる)人のいないことを嘆いている、と理解すると、「かなしい秋」の歌の一つと見做せます。この景を独り占めして満足している歌と理解するには、この歌群に配列してあるのが解せません。
「あの人(第2者であるあなた)を訪ねる人はいない」とか「あの人(第3者の誰か)を訪ねる人はいない」という理解より、「作中人物を訪ねる(様子をたずねる)人のいない」というのは、作中人物にとって切実な「かなしい秋」を詠っている、と思います。
④ 第4案は、もみぢがふりしく景を前にして、作中人物が訪ねる(様子をたずねる)人のいないことを詠っており、共に楽しむ人の居ないことを喜んでいるかに見えたり、さらに良い景を共に楽しみたいがそのような人がいないとも見えます。前者は、この歌群に配列される歌ではありませんが、後者は有り得ますが、まず、目の前の景を共に見れないのを悲しんでいるほうが、単独の歌としては素直です。
⑥ 次に、単独歌としての1-1-288歌は、男性が普通の官人・僧侶の人間関係を詠うとする案が現代語訳の候補となります。即ち、第12案です。もみぢが散りしいていることを理由に、交友関係にある男性・女性に対して送った断りの歌あるいは相談している歌、と理解する場合です。
⑧ この結果、適切な現代語訳の候補は、問答歌の案を含めて、1-1-287歌は、第2案であり、1-1-288歌は、第12案となりました。(以上の結果は、上記6.の⑤に符号で示してります。)
12.一組の歌の検討その7 現代語訳の試み
① 現代語訳を仮訳のままとしてきましたので、ここに2首の現代語訳をあらためて試みます。
② 類似歌等2首を、再掲します。
3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌 題しらず よみ人しらず
あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし
その歌と対となっている歌 1-1-288歌 題しらず よみ人しらず
ふみわけてさらにやとはむもみぢばのふりかくしてしみちとみながら
③ 1-1-287歌を、第2案で試みます。作中人物は男性です。
「秋は確かに来てしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききった(見頃である)。それなのに、道をふみわけてまで私を訪ねようとするひとはいない(悲しい秋である)。」
漢詩には、親しくしていた友が傍にいない、と嘆く詩が多々あることを思い起こす歌となっています。
④ 1-1-288歌を、第12案で試みます。作中人物は男性です。
「なんとしても、あなたをあらためて訪ねることができましょうか。(秋の女神が)紅葉させ葉を落とさせそれによって隠してしまった道となってみえるのに。(私には、もみぢの錦を断ち切るれません。)」
⑤ この2首の歌は、「人に会えないという、かなしい秋となってしまった」、という趣旨の歌ではないか、と思います。対の歌として、共通なのは、「散るもみぢ」のほか「親しくした人に会えない」が加わっている、と思います。(付記2.参照)
⑥ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
次回は、3-4-41歌の現代語訳を試み、同じ詞書の『猿丸集』3首の歌の再検討をしたい、と思います。
(2019/2/25 上村 朋 (e-mail:waka_saru19@yahoo.co.jp))
付記1.「ふりしく」・「ふりかくす」の用例
① 『萬葉集』の例
(雪が)ふりしく:2-1-1643歌 2-1-1838歌 2-1-4257歌 2-1-4305歌
ふりかくす:無し
② 三代集
(雪が)ふりしく:無し
(もみぢが) ふりしく:1-1-287歌 1-2-412歌
(もみぢが)ふりかくす:1-1-288歌 1-3-1177歌
付記2.『古今和歌集』1-1-287歌と1-1-288歌の元資料について
① 1-1-287歌と1-1-288歌は、『古今和歌集』では、一組の歌になっている。問答歌であったかの検討などで元資料の歌に言及したが、この2首の元資料の歌は、別々の歌であった。その理由つぎのとおり。
② この2首は、ともに題しらず・よみ人しらずの歌であり、『古今和歌集』の編纂者は、問答歌を示す詞書をもちいていない。これは別々の事情で詠まれた歌であることの可能性を否定していない。
③ 1-1-287歌は、作者が秋を満喫している歌でもある。つまり古い歌の題しらず・よみ人しらずの歌であってよい。作中人物が女性であれば、「来てくださいな、と誘っている」歌のほか、別れる男女の間の進展として何の音沙汰もない状況を順調な推移と見ているならば、秋を満喫し満足の意を表わしている歌にもなる。同文の別の意の歌であった可能性がある。
④ 1-1-288歌の「ふりかくす道」の道に注目するならば、「もみぢ」より「雪」のほうが、隠しやすい。断りの歌であってもその三句の「もみぢばの」が、「雪ふかく」とか「白雪の」とかになっていたのではないか。
推測した1-1-288歌の元資料の歌の1例 題しらず よみ人しらず
ふみわけてさらにやとはむもしらゆきのふりかくしてしみちとみながら
⑥ 散るもみぢに関する歌を一組の歌として「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群」に配列する構想が先にあり選ばれ、必要に応じ手を入れたのではないか。
『古今和歌集』には、雪を詠う歌から「ふりしく」を除外しており、「ふりかくす」という語句も秋の歌の1-1-288歌のみである。
(付記終り 2019/2/25)