わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その2 

 前回(2021/12/13)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その1」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 再度1553歌その2」と題して、記します。(上村 朋)

1.~15.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌については類似歌(『萬葉集』の歌)の検討のため『萬葉集』巻一と巻二の標目「寧楽宮」を検討している。なお、歌は『新編国歌大観』より引用する。)

16.再考 類似歌 その13 平城の人奈良の人寧楽の人

① 「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、と2021/12/6付けブログの「14.⑪」で指摘したのち、2-1-1553歌の理解の再検討を示唆し、今再検討中です。

② 歌本文の「寧楽」表記で、都城(あるいはその宮)ではなく人物を修飾しているのはこの歌だけです。

 この歌本文の語句を前回再確認しましたので、次に、歌本文に「なら」+人物(像)」という表記のある歌の比較を試みます。

 『萬葉集』において、「「なら」+人物(像)」と詠う歌は、6首あります。

「寧楽人(之為)」が1首(検討対象の2-1-1553歌)、「平城(之人等)」が3首、「奈良(尓安流伊毛)」が2首です。

③ 3首ある「平城・・・」の歌を最初に確認します。

 巻七 雑歌 羇旅 2-1-1205歌

   玉津嶋 能見而伊座 青丹吉 平城有人之 待間者如何

   たまつしま よくみていませ あをによし ならなるひとの まちとはばいかに

 玉津島を詠う伝承歌です。雑歌の部立てにある歌なので、行幸とか公務中に関係深い歌と、とりあえず推測できます。

 玉津島とは紀伊国和歌の浦にあり、満潮時には6つの島山だけとなる干潟にあった島山の一つだそうです。『続日本紀』(神亀元年10月条)によればこの干潟近くに聖武天皇行幸がありしばらく滞在しています。行幸の目的は、自らが海に面する必要がある行事などを行うことだったのでしょうか。

 この歌は、羇旅と題している歌であり、風光明媚な景色をみたことを、旅の土産話にしなさいよ、と誘っている歌です(諸氏の現代語訳例は割愛します)。つまり、土地の者の詠う土地褒めの歌です。聖武天皇行幸があった地には公務のついでに官人は寄り道をしたのでしょうか。

 「平城有人」とは、平城京が居住地と定められている官人(とその家族)達のうちの誰か、であり、都が平城京にあったころが作詠時点と推測できます。作者にとり、平城京への思いは二の次の詠い方であり、熟語「寧楽」の意(安んじて楽しむ)を用いる特別な理由はないと思います。

④ 巻七の雑歌の配列を題詞で見ると、

「詠+〇」13題(〇は天に始まり鳥に終わる。計57首)

「思故郷」 1題(1首)

「詠+〇」 2題(〇は井と琴。各1首)

「地名+作」 3題(地名は、芳野・山背各5首、摂津21首)

「羇旅」  1題(計91首)

「問答」 1題(計4首)

「臨時」 4題(無題12首・就所発思3首・寄物発思1首・行路1首  計17首)

「旋頭歌」 1題(計24首)

の順に配列してあります。

 これらの歌を、天皇との関係でみるならば、公宴・行幸時の歌より公務の旅行時の歌のはずであり、その際の作者自作か官人が知り得た歌ということになります。

 「羇旅」と言う題詞の歌は、便りを運ぶと言われている雁を詠うものの地名は詠みこんでいない歌から始まります。歌本文における地名を追うと、おおよそ国ごとにまとまっています。その国の地名等が繰り返しでてくる場合もあります。

 この歌2-1-1205歌の前後は紀伊国の地名を詠み込んだ歌が並んでいます。「玉津嶋」表記のある歌は、この歌と2-1-1207歌および2-1-1212歌があります。前2首は間にある2-1-1206歌とともに、都への関心より眼前の玉津島(のある干潟)や海女に関心を向けている歌と言えます。

 2-1-1212歌は作者が「右七首者藤原卿作 未審年月」とある歌の一首です。卿とは、三位以上または大納言から参議の職にある人への敬称であり、藤原一族の誰かを指して「藤原卿」と言っている、とみられます。人物の特定ができないものの、高位の官人です。土屋氏は、この歌を「感じ方の卑俗なのが目に立ちすぎる」と評し、右七首には民謡風のもあり、始めから作者未詳の歌かと疑っています。

 配列からも、「平城有人」は、作詠時点の都城である平城京に居住する人物で以上の意を持ちこんでいない歌のようです。

⑤ 巻十 春相聞 寄花 2-1-1910歌

   梅花 吾者不令落 青丹吉 平城之人 来管見之根

   うめのはな われはちらさじ あをによし ならなるひとも きつつみるがね 

 この歌は、花に寄せた相聞歌です。相聞歌とは「相聞往来歌」とも称し、私的な感情を伝える歌の類という部立ての名称です。

 阿蘇氏は、現代語訳を次のように示しています。

 「梅の花を私は散らすまい。青土のよい奈良、その奈良の人も、たびたび来て見ることができるように。」

 渡来した梅は、どこにでもある自生の植物ではなく、愛でてしかるべきものとして植栽されたものであったのでしょう。だから、作者が官人(又はその家族)であるならば居住地である平城京でこの歌を詠んでいる、と推測できます。

 自宅の庭の梅が、見に来てくれないうちに散るかもしれないと作者は危惧しています。しかし、散るのを引き伸ばす手段は(当時であれば)風にあてないように花瓶に生けること以外は私に思いつきません。お待ちしていますと必死に哀願している作者未詳歌です。

 あるいは、梅が散らないうちに(時期に間に合わせて)結果を報告してくれるのでしょうね、とやんわり何かの催促をしている歌です。

 「平城之人」とは、前者であれば相手の居住地の都城名で婉曲に相手をさしています。後者であれば、「平城京を勤務地とするそれ相応の官人」の意であってもおかしくありません。いずれにしても当時の都城平城京を「平城」は意味します。相手への思いを熟語「寧楽」に託すのはためらう相手のようです。

⑥ 配列をみると、題詞「詠花」にある9首は、景物が、卯の花 梅の花 藤波、春野の花、奥山のあしびの花、梅の花、をみなへし、梅の花(当該歌)、山吹、と言う順に配列されています。梅の花を詠む歌が飛び飛びに3首あります。

 念のためその3首を確認します。

 配列2首目の2-1-1904歌は、その後天平20年春3月に、宴席で古歌として披露されています(2-1-4066歌)。招待された人の挨拶歌として用いられています。

 配列6首目の2-1-1908歌の四句「花尓供養者」(はなにそなへば)とは、神仏に奉る意です。梅の花としだれ柳を仏への供物として、恋人と逢うことを願おうという歌です。恋の成就を仏に願う歌は珍しいと阿蘇氏は指摘しています。

 配列の8首目の2-1-1910歌は、上記⑤に記しました。

 3首の作者とも、梅の花はその時期には観るべきものという確固とした意見を持っています。その梅の花都城に特別の関係はないようです。3首の比較からも上記⑤の結論は変わりません。

⑦ 巻十 秋相聞  寄花  2-1-2291歌 

   吾屋前之 芽子開二家里 不落間尓 早来可見 平城里人

   わがやどの はぎさきにけり ちらぬまに はやきてみべし ならのさとびと

 二句にある「芽子」(はぎ)とは、現在も8月から10月に咲く花です。当時も自生しており、この歌の作者は「吾屋」と呼べる建物に居るので、植栽した「芽子」かもしれません。開花している期間は梅とそんなに変わらないでしょう。作者が官人(あるいはその家族)であれば、居住地は平城京になります。その相手も官人(あるいはその家族)が有力なので、居住地はやはり平城京になります。もっとも、2-1-1553歌にあるような「庄」に滞在している場合もあるでしょう。

 五句「平城里人」とは、別の「里」に居る誰か(里とは諸氏によれば平城京の坊里の意)ではないか、と思います。時期の挨拶歌であれば、作者に近い人物として「庄」に居る兄弟姉妹が「平城里人」かもしれません。

 「ならのさとびと」に、居住する都城の意のほかに含意する必要はないでしょう。

⑧ 次に、2首ある「奈良・・・」の歌を確認します。ともに大伴家持の歌です。

  巻十八  2-1-4131歌 教喩史生尾張少咋歌一首幷短歌 ・・・

       (長歌2-1-4130歌と短歌2-1-4133歌までの題詞)

   安乎尓与之 奈良尓安流伊毛我 多不可尓 麻都良牟己呂 之可尓波安良司可

   おをによし ならにあるいもが たかたかに まつらむこころ 

   しかにはあらじか

 短歌のあとの左注に、「右五月十五日守大伴宿祢家持作之」とあります。

 天平感宝元年(749)五月十五日に越中守であった家持が重婚の罪を犯す疑いのあった部下を諭している歌です。「奈良」は平城京、即ち妻の居住する都城平城京を指します。居住地は簡明に示してよい歌です(現代語訳の例割愛)。

⑨ 巻十九 2-1-4247歌  九月三日宴歌二首(2-1-4246歌と2-1-4247歌二首の題詞)

   安乎尓与之 奈良比等美牟登 和我世故我 之米家牟毛美知 都知尓於知米也毛

   あをによし ならひとみむと わがせこが しめけむもみち つちにおちめやも

    右一首守大伴宿祢家持作之

 題詞にあるように宴席において2-1-4246歌(久米広縄作)に応えた歌がこの歌です。そのため、二句にある「奈良比等」とは4246歌を受けて広縄の妻、三句にある「世故」(背子)とは広縄であると多くの諸氏は指摘しています。単身赴任してきている広縄は、妻への言付けや物を朝集使など上京する者に頼める立場にいます。

 作詠時点は天平勝宝2年(750)9月です。

 土屋氏は大意を次のように示しています。

「アヲニヨシ(枕詞)奈良人が見るやうにと、吾が君がしろしめしたであらう紅葉は、地に落ちはしないであらう。」

 土屋氏は、「a奈良から近く来る人でもあって、共々にそれを待つ心持であらうか。広縄のワギモコを言って居ると見るべきか。bこの次の歌2-1-4248歌を伝誦した河辺朝臣東人は十月に越中に到着したのであらう。」と指摘しています。

⑩ 広縄の歌は次の歌です。

  巻十九 2-1-4246歌  九月三日宴歌二首(2-1-4246歌と2-1-47歌二首の題詞)

   許能之具礼 伊多久奈布里曽 和芸毛故尓 美勢牟我多米尓 母美知等里氐牟

   このしぐれ いたくなふりそ わぎもこに みせむがために もみちとりてむ

 左注に、「右一首掾久米朝臣広縄作之」とあります。

 土屋氏の大意を示します。

 「此の時雨よひどく降るなよ。吾妹子に見せようために紅葉を折り取らう。」

 吉村豊氏は、五句を「黄葉を取っておきたいから」と理解しています。

 五句にある「もみちとりてむ」とは、

 もみち(名詞)+とる(四段活用の動詞「とる」の連用形+完了の助動詞「つ」の未然形+推量の助動詞「む」の終止形

と理解できます。

 助動詞二つの「てむ」は連語となり、四句を考えればここでは「強い意思・意向を表す」意が適切です。

 動詞「とる」は、a取る・に持つ b執る・手にもって取り扱うc引き取るd穫る・採るe捕る などの意があります(『例解古語辞典』)。

⑪ 「和芸毛故」が平城京に居ると仮定すれば、「とる」ことをして後、どのようにして広縄は見せるのでしょうか。次に紅葉の葉を何枚かあるいは枝付きのままの葉を送るのでしょうか。送ったものから、越中の時雨に打たれている眼前の紅葉の景を「和芸毛故」は再現できるでしょうか。文字だけで(手紙と景を詠んだ歌だけで)想像をさせてもらったほうが余程広縄の感動を共有できるのではないか。

 この場合、この歌は反語であり、「「和芸毛故」の居る大和国ではみられない、見事な紅葉の景ですね」とその宴席からの眺めを褒めただけの歌ではないか、と思います。また、宴席で、上司の家持を前にして妻への思いがこみあげてきたかに詠うとは思えません。

 土屋氏が可能性を指摘している「奈良から近く来る人でもあって、共々にそれを待つ心持で」近く来るはずの人物を「和芸毛故」と仮定すれば、「とる」ことをしておいて、眼前の紅葉の景はこのようであったと、その人物に説明するのでしょうか。それは客をもてなす方法ではありません。

⑫ この広縄の歌に応じて、詠ったのが家持の2-1-4247歌となります。

 紅葉を楽しむ期間は1,2週間というものではありません。時雨で紅葉は進むとしても、強風に遭わなければ今がピークならば、見栄えは落ちるでしょうが、ピーク時の見事さを想起する状況が残る時期が続きます。

 越中の紅葉が時雨で落葉しないように、平城京で時雨が降っても落葉せず、紅葉を楽しめるでしょう。

 家持は、単身赴任している広縄の願いは通じて、平城京の自宅に居る広縄の妻も、(時雨に負けない)紅葉を愛でるであろう(二句にある「奈良比等美牟(登)」)、と応じたのであろう、と思います。

 広縄と家持が愛でた越中の紅葉は、一か月後に越中に来た河辺東人が、愛でることができたようです。このとき、家持は東人から藤原皇后(光明皇后)の詠った歌を聞き取っています(2-1-4248歌)。

⑬ 巻十九の歌の配列は、題詞や左注に記されている日時から推測すると、時系列の順といえます。

 この歌の前後の配列を確認すると、下記の表にようになります。対の歌として配列されているのは、長歌反歌の組合せである2-1-4244歌~2-1-4245歌および2-1-4251歌~2-1-4252歌並びに題詞で括られる2-1-4246歌と2-1-4247歌だけです。記されている日時をまたがって一つの課題の歌を書き留めているとは思えません(勿論歌に登場する季節は。共通に秋です)。

 題詞で括られた2首は整合性のある理解が上記のように得られました。

表 2-1-4247歌前後の配列検討 (2021/12/20現在)

歌番号等

作者

家持が書き留めた時点

歌を披露した席・相手

備考

2-1-4241

家持

天平勝宝2年(750)5月

不明

 

2-1-4252

家持

同5月

不明

 

2-1-4243

家持

同6月15日

不明

 

2-1-4244

在京の坂上郎女

同9月以前

越中の大嬢

長歌

2-1-4245

在京の坂上郎女

同9月以前

越中の大嬢

反歌

2-1-4246

広縄

同9月3日

宴席 家持

 

2-1-4247

家持

同9月3日

宴席 広縄

 

2-1-4248

藤原皇后

同10月5日聞き取り

宴席か

東人より

2-1-4249

家持

同10月16日

朝集使の餞時

 

2-1-4250

家持

同12月

不明

 

2-1-4251

三形沙弥

天平勝宝2年内 聞き取り

左大臣藤原北卿(房前)

長歌 広縄より

2-1-4252

三形沙弥

同上 聞き取り

同上

反歌 広縄より

2-1-4253

家持

天平勝宝3年1月3日

越中守舘の宴

 

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集雁号―当該歌集での歌番号

 

⑭ さて、「奈良(比等)」です。2-1-4246歌があって詠まれている歌にこの語句がありますので、官人の居住地と定められている「平城京」の意であり、そのほかの意を含意するものではない、と思えます。

⑮ 次に 「寧楽」表記の歌2-1-1553歌を検討します。歌を再掲します。

  巻八 秋雑歌 2-1-1553歌  

     典鋳正紀朝臣鹿人至衛門大尉大伴宿祢稲公跡見庄作歌一首

     射目立而 跡見乃岳辺之 瞿麦花 総手折 吾者将去 寧楽人之為

     いめたてて とみのをかへの なでしこのはな 

     ふさたをり われはもちゆく ならひとのため

 

 用いられている語句を前回(2021/12/13付けブログ)検討し直して、下表の「歌理解の(試案)」欄という結果を得ました。奈良の都に居る人のために四句にある「ふさたをり」と言う行為を特記すべく旋頭歌となっている、と理解したところです。六句にある「ならひと」の意が、下表の第2案(平城京を惜しんでいる官人)であれば、「寧楽」表記を用いる意義がある、と思います。

 

表 2-1-1553歌の句等ごとの検討結果と歌理解の(試案)  (2021/12/13現在)

語句の区分

第1案

第2案

歌理解の(試案)

題詞

作者強調

跡見庄強調

左の第2案

初句:いめたてて

有意の枕詞

無意の枕詞

左の第1案

二句:とみのをかへの

狩猟地

跡見庄

左の第1案

三句:なでしこのはな

秋の花ナデシコ

人物をも暗喩

左の第2案

四句:ふさたをり

たくさん手折り

夫差を取り除き

左の第1案

五句:われはもちゆく

持ってゆく

心に思い都にゆく

左の両案

六句:ならひと(のため)

平城京にいる特定個人

平城京を惜しんでいる官人

左の両案

⑯ 題詞を無視して、上表の「歌理解の(試案)」欄に従い、この歌本文の現代語訳を試みます。

 初句「射目立而」とは、有意の枕詞としてその語句通りに理解すると、「柴などを立てまわしたりして遮蔽物が出来上がっていることを言っている」こととなり、それは狩において「射手が待つところ」です。

 二句「跡見乃岳辺之」の「跡見」とは地名にもありますが、もともとは、狩の際、獲物の跡を見て居場所を突き止める役の者を言います。

 (小高い丘を意味する)「をか」を書き留めるのに用いている漢字は、巻八では「丘」より「岳」が多く、この二つの漢字の意義は意識していないで用いられている、とみることができます。そうすると、二句は、「跡見をする者が配置されている丘のあたり」という理解が可能です。

 だから初句~二句は、「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺(の)」と理解できます。そのような狩をする丘の所在地は、跡見庄という人家や農地があるところから離れていて然るべきです。少なくとも、二句までには明確に示されていない、という理解ができます。

 三句「瞿麦花」は、その丘周辺に咲いているナデシコをいっています。さらに、その丘にいる人物の暗喩の有無はわかりません。三句で旋頭歌の前半が終わります。

 四句「総手折」とは、「たくさん手折り」と理解します。「ナデシコがたくさん咲いている景が前提の表現であり、農地でもなく、家が立ち並んでいる(居住している)景でもない、ということです。

 五句「吾者将去」 にある漢字「将」は、漢文では助字として「まさに・・・せんとする」意を表します。五句のこの表記は過去形ではありません。

 六句「寧楽人之為」とは、「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字」として「寧楽」表記にして書き留めている、とみるので、「恭仁京へ遷都後の平城京を惜しんでいる官人(とその家族)たちのために」となります。

⑰ 旋頭歌の前半部(初句~三句)で詠った情景を前に、旋頭歌の後半部は、作者が行える行為を数えあげているのではないか。そして、六句より、作詠時点は恭仁京へ遷都後となります。

 このため、歌本文の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、恭仁京へ遷都後の平城京を惜しんでいる人たちのために(あるいは特定の人のために)。」

 題詞を無視してかつナデシコに積極的暗喩を認めないこの理解は、平城京が荒廃したらこのようになる、と詠った歌ではないか、と思えるような(試案)となりました。

 すこし六句を意訳して改訳したいと思います。

 「狩をする射手が居て獲物の動きを報告する者もいる丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、平城京を後にした人のために。」(以下1553歌別訳、と略称します。)

 その丘は恭仁京へ遷都したら想像できる平城京(跡)ではないか。旋頭歌の後半部の最初にあたる四句「総手折」は、「平城京の荒廃」を象徴する行為であり、旋頭歌と言うスタイルが生きている、と思います。

⑱ 歌本文がこのような理解となったとき、題詞はどのように理解できるか。

 歌本文の「跡見乃岳辺」を「跡見庄」(の近くの丘)」と題詞は地名として記している、としか理解できません。

 題詞の現代語訳は、ブログ2021/11/29付け「13.⑧」の(試案)が素直である、と思います。すなわち、

 「典鋳正(役職名)紀朝臣鹿人が衛門大尉(役職名)大伴宿祢稲公の跡見庄(とみのたどころ)に至って作る歌一首」

 ただし、題詞に登場している人物の肩書が時系列上矛盾するという指摘もあり、跡見庄が、大伴宿祢稲公が自由に使える庄であったかどうかも定かではありません。

 それでも、地名を特定した題詞に、上記の1553歌別訳は、そぐわない理解ということになります。

 初句を無意の枕詞と割り切った歌とみれば、「跡見庄」近くに咲いているナデシコを持ち帰る歌(庄近くで咲いている花を平城京の居宅に居る者への手土産とする歌)になります。作詠時点は、平城京が都であった頃、となります。

 現代語訳を試みると、初句は「跡見」にかかる無意の枕詞と割り切りますので、つぎのとおり。

「跡見庄の丘の周辺に咲いているナデシコの花。そのナデシコの花をたくさん手折り、持ってゆこうか、平城京からここに来られないでいる人のために。」(以下1553歌新訳と略称する)

 これは、題詞を無視すると、初句の語句も意のある語句と理解した上記の1553歌新訳を、導けるままにしていることになります。1553歌別訳は元資料の歌の意であったのでしょうか。

 歌本文の現代語訳(試案)については、このように、雑歌の部立ての歌で恋の歌以外の理解となった上記の1553歌新訳を採り、同ブログ「13.⑨」の(試案)は撤回します。

⑲ 前後の配列から、確認します。

 2-1-1551歌~2-1-1554歌は小歌群を成す、と同ブログで推測しました。

 2-1-1551歌は、前回ブログ2021/12/6付け「15.⑤」で、「旋頭歌として歌を披露する必然性がある」と指摘し、これから同じ旋頭歌である2-1-1553歌は、1553歌別訳にたどりつきました。

 2-1-1552歌は、ブログ2021/11/29付け「13.⑩」で、土屋氏の(二句を「をそろはうとし」と訓む)訳を示しました。

  「咲く花も真実のないのはうとましい。遅く実のなる花の、長くつづく心には、やはり及ばない。」

 この歌は、題詞には「はぎ」と明記してありますが歌には花の名を詠いこんでいない歌です。

 花は、人物の暗喩にも都城の暗喩にもなり得るところです。

 2-1-1554歌は、同「13.⑪」で、「ハギが散り乱れるほど咲いているのに、(近くに来ないで)遠くで鹿が鳴いている、と第三者の立場で詠っている」と指摘しました。ハギに「平城京」の意を重ねていると見ることが可能な歌であり、鹿に聖武天皇を重ねることができます。しかし、皇統が聖武天皇系(あるいは天武系)の時代にはこのような理解を可能とする配列を『萬葉集』に編纂者ができるでしょうか。

 この小歌群を、巻八の編纂者はそれでも収載しています。それは、秋の花を詠っている歌であるとともに、2-1-1551歌の旋頭歌をきっかけに都ではなくなった平城京を詠っている歌が続いている、という理解の回避に編纂者は自信があったのではないか、と思います。

 その工夫の一つが、この4首の題詞ではないか。人物名のみの題詞が多い秋雑歌で、2-1-1552歌から2-1-1554歌は連続して、詠う対象や作詠場所を付け加えた題詞となっています。

⑳ 何故このような理解可能の歌をここに配列しているのか、及び1553歌別訳が元資料の理解かどうかは、巻八の配列・構成を解明する際に改めて検討することとし、今は、「寧楽」の検討として、そのような暗喩も読み取れる歌が2-1-1553歌である、という理解に達した、としてさきに進みます。

 そうすると、2-1-1553歌の「寧楽人」とは、題詞に留意し作詠時点を都が平城京にある時の歌として「平城京に居住している家族」の意に「平城京を惜しんでいる官人」(それは「平城京退去を迫られた官人家族」といえる)の暗喩もある、という理解となります。時代が経ち、編纂時点では、恭仁京遷都後には別の理解も生じたとされる歌であると考えても、公表できる歌になっていた、という理解です。

 

17.再考 類似歌 その14 再考 平城の人奈良の人寧楽の人のまとめ

① ここまでの、「なら+(人物(像))」表記のある歌の検討結果を、作者の立ち位置に留意してまとめると次の表になります。

表 『萬葉集』で「なら」+人物(像)」という表記のある歌 (2021/12/20現在)

歌番号等

「なら」の表記

左欄の意

歌の趣旨

作者の立位置

2-1-1205

平城有人

平城京在住者(官人とその家族)

紀伊の玉津島を詠う土地褒めの歌

作者は玉津島に定住している人物

2-1-1553

寧楽人

平城京在住者及び暗喩に平城京退去を迫られた官人家族

たくさん咲いている花をたくさん持ち帰ると詠う歌(1553歌新訳)

作者は「跡見の丘」に来ているとしている

2-1-1910

平城之人

平城京在住者で作者の待ち人

訪問・報告を願う歌

作者も平城京在住者か

2-1-2291

平城里人

平城京在住者でかつ歌を贈る相手

伝承歌

作者も平城京在住者

2-1-4131

奈良尓安流伊毛

平城京在住者である部下の妻

重婚の疑いある部下を教え諭す歌

作者と部下は任地に居る

2-1-4247

奈良比等

単身赴任してきた部下の妻で平城京在住者

宴席での前歌の応答歌

作者と部下は任地に居る

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

② このように、「「なら」+人物(像)」と詠う歌6首のうち、「寧楽人」という表記にだけに暗喩の可能性がある、と認められるような歌として、『萬葉集』に記されている、と言えます。

 上記「16.①」にいう、「寧楽」、「楢」、「名良」字を用いた都城の表記は「奈良」では表せない何かを込めて選ばれた文字による都城表記である、ということに例外はない、といえます。

 「寧楽」表記には、平城京を「理想の都城」とみなすような感情をこめているようにみえます。

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を今年もご覧いただき、ありがとうございます。

 ブログは年末年始お休みし、「寧楽宮」の検討を続けます。

 新型コロナウイルスはまだ終息していません。またワクチン接種をうけ、皆さまとともに次の大波が回避できたらよい、と思います。

皆様 良い年をお迎えください。

(2021/12/20  上村 朋)