わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め

 前回(2021/10/4)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 万葉の挽歌は死者封じ込め」と題して、記します。(上村 朋)

1.~4.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌であることを確認した。3-4-24歌の類似歌の検討に関して『萬葉集』巻一と巻二の構成を検討している。)

5.再考 類似歌その3 巻二の挽歌再考

① 「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-24歌の類似歌の題詞に似た題詞が『萬葉集』巻二にあり、類似歌の理解に資するため、「3.②」に示した仮説のうち、

「巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)

「天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)」

の二つに関して検討しています。

 巻一と巻二は、部立てをしてその許に、天皇の代ごとのような標目をたてています。歌と天皇の統治行為等との関係(付記1.参照)について、2021/10/4付けブログで雑歌と相聞を検討しました(付記2.参照)が、今回挽歌を検討します。

② 巻二の挽歌と天皇の統治行為等との関係を付記3.の表Cに示します。挽歌の対象者が、亡くなった時点順に原則配列されています。

  挽歌の部において、天皇への挽歌は天智天皇天武天皇に対して記載があるだけです。和銅三年(710)に詠われた挽歌があるのに持統天皇(702崩御)や文武天皇(707崩御)への挽歌がありません。壬申の乱まで日本の支配権を握っていた天皇と、その天皇の死後の戦いに勝ち支配権を得た天皇だけです。

 天智天皇への挽歌は、2019/4/29付けブログで指摘したように、殯の最中の歌8首と埋葬が終わった時点(事後)の歌1首で構成されています。女性の歌だけです。天武天皇への挽歌も、皇后である持統天皇の歌(4首)のみで巻二の編纂者は構成しています。

③ 天智天皇は、白村江で敗戦時のリーダーであり、近江大津へ遷都した天皇です。新羅からの侵攻に備えた国内の防衛体制が未完のままで崩御しました。天武天皇も国内で兵士動員体制と物資補給体制を整える制度である律令作成の半ばで崩御しました。『日本書記』の記述は対照的であり、天智天皇崩御関連記事は簡素であり、天武天皇の嬪宮(もがりのみや)が10日余で完成し嬪の期間が2年2か月と記すなど、主要な喪葬関連の記事が31か所もあります。しかし、持統天皇はこの二人の忌日を国忌にしました。

 皇子や皇女への挽歌は、天智天皇崩御以前の有馬皇子(658没)から志貴皇子(715没)に対してあます。このほか采女や人麻呂の妻などへの挽歌など天皇との関係分類「I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌」が、17首あります。

 なお、表Cにおいて、「殯儀礼の歌」とは天皇のほか皇族など高位の方の招魂・送魂儀礼に関わる歌の意、「喪葬儀礼の歌」とは、対象が養老律令の喪葬令(そうそうりょう)で「死」と表現される六位以下・庶人の場合の招魂・送魂儀礼に関わる歌の意です。対象人物の位階は不明の場合は、私の想定に基づきます。

④ 巻二の部立て「挽歌」については、以前、2019/5/13付けブログで検討したことがあります。それと遠藤耕太郎氏の意見( 『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(中公新書2020/6 付記4.参照)により検討をすすめます(その結果上記ブログは2021/10/11に一部修正しました)。 

 天皇との関係でみると、特記すべき歌があります。

 ひとつ目は、部立て「挽歌」の筆頭歌も天皇に関する歌であることです。

 二つ目は、標目単位でみると、筆頭歌が天皇や皇族への挽歌であるのに、標目「寧楽宮」では采女かと思われる「姫島松原嬢子」への挽歌であることです。皇族への挽歌が後回しです。

 三つ目は、日並皇子への大変な肩入れです。

 四つ目は、天皇の行動に関係ない3人(人麻呂妻、人麻呂、松原娘子)への挽歌が17首もあることです。

 これらは意味のあることである、と思います。

⑤ 挽歌とは、2-1-145歌において、編纂者自身が記したと思われる左注で定義しており、挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしています(2019/5/13付けのブログ参照」)。当該歌を披露することに意義を認めています。

 律令では、死に関する儀礼を「喪葬令」に規定しています。それは、招魂(喪)と送魂(葬)の儀礼がワンセットであることを意識している規定と理解できます。死者を、円満に死者の世界に送ることをストーリーとしており、死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)ので、それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするという意識です(付記4.参照)。

 偉大な祖先が神になるならば、それ以外の偉大な人物も神になる資格があり、死後も常々丁重に扱い、この世に執着しない状況にしておいて然るべきです。

 ひとつの家族であれば、父母はそのような人物です。そのため死んだ場合はその死を確かめる招魂をした後、送魂する儀礼がワンセット(あるいは送魂し、確認をする招魂の儀礼がワンセット)となっています。その後も祀りを続けることになります。

⑥ 天皇家にとってもそれは同じです。

 強引に謀反の疑いをかけるのは、偉大な人物とみなしていることになります。死んでからも社会に影響を与えるような(偉大な)人物を、無理やり現世から排除したと意識すれば、その人物が死者の世界以外に興味を持たないように仕組まざるを得ません。

 天皇の代ごとの編纂をすれば、その天皇の代において速やかに対応を示して然るべきです。歌集として送魂・招魂あるいは祀る意の歌を配列する意味は十分あります。

 死後に、その人物の活躍(の結果の天変地異、庶民の不幸)があれば偉大な人物であったと認めざるを得ません。天皇の支配は、偉大な人物の死後も祀る儀礼等を続けていてこそ安泰です。

⑦ 部立て「雑歌」の筆頭歌は、雄略天皇の御製でした。相聞は、仁徳天皇を思う磐姫の歌があり次に流罪となった軽太子に関する歌が配列されています。

「挽歌」の筆頭歌は、謀反を起こしたとされる有馬皇子の自傷歌であり、その歌は、天皇への忠誠が認められていない不満の思いが込められています。しかしながら、別の見方をすれば、歌の配列によって、天皇への忠誠を尽くさなければ有馬皇子のようになると示している歌です。そして亡くなった有馬皇子を丁重に慰めているかのような歌を次に配列しています。

 その有馬皇子の自傷歌は、「挽歌」の最初の標目「後岡本宮御宇天皇代」にあります。当代の天皇への挽歌はなく、有馬皇子に関する歌しかありません。有馬皇子は、結果として天智天皇に対して無念の気持ちを持ってしまった皇子です。その天智天皇への挽歌は、次の標目「近江大津宮御宇天皇代」にあり、天智天皇への挽歌のみで構成されています。

 天智天皇に関して、標目を2代費やして挽歌を配列しているといえます。

いづれにしても、三つの部立ては、すべて、天皇が日本を治めて然るべきである事を主張している、と言えます。

⑧ その次の「明日香浄御原宮御宇天皇代」は、十市皇女(とほちのひめみこ)への挽歌が最初です。十市皇女は、壬申の乱天武天皇が争った大友皇子の妃であり葛野王を生んだ方です。十市皇女の死は突然でした。中国の王朝にならい、天武天皇7年4月7日、天皇がはじめて天神地祇を祠ろうとした当日、先導が出発し、天皇出行の直前に「卒然病発、薨於宮中」(『日本書記』天武紀)、これによって行幸を止め祠ることができませんでした。十市皇女は同月14日葬られましたが天皇は臨席しています(同上)。

 つまり天武天皇は、「誰か」に阻止されたのです(と理解されたのでしょう)。(なお、2-1-156歌は古来からの難訓歌です。)

 十市皇女の次が天武天皇への挽歌です。前回のブログ(2021/10/4付け)で、指摘したように、『日本書記』における天智天皇への挽歌にならい天武天皇への挽歌は、『日本書記』と異なり大変質素で皇后の歌のみです。さらに挽歌の歌数が、天智天皇へは9首、天武天皇へは4首とアンバランスです。歌数だけをみれば公平な扱いというより天智天皇へ肩入れしている編纂のようにみることができます。

 「明日香浄御原宮御宇天皇代」はこの2人への挽歌で終わっています。

⑨ 持統天皇は、『日本書記』大宝2年12月条によれば「(2日に)勅(みことのり)してのたまはく、「九月九日、十二月三日は先帝の忌日なり。諸司、是の日に当たりて廃務すべし」とのたまはれ」、天武天皇天智天皇を並べて特別視しています。巻一と巻二の編纂は、この持統天皇の発言を意識していると思えます。

 巻二の部立て「挽歌」は、編纂で重視しているとみられる天智天皇からはじめているとみることができます。天智天皇が偉大な人物の一人と認めていたと思える有馬皇子関連の歌のみで最初の標目を構成しているのですから。

 天武天皇に関しても、一つ前の標目「近江大津宮御宇天皇代」には有馬皇子への挽歌のみの標目と同じく天智天皇への挽歌しかありません。2代費やして天武天皇への挽歌を配列しているかにみえます。

 天智天皇は自分の継承者を天武天皇がベターと思っていた訳ではありませんので、死後に無念の思いが生じたかもしれません。天武天皇が挽歌をおくる相手と認めているかの配列は、天智天皇の死に天武天皇が関わっていたかの疑いを持ちます。

 ただし、天智天皇天武天皇の『萬葉集』でのバランスは「寧楽宮」の検討に直接関係なさそうです。

⑩ 次の標目「藤原宮御宇天皇代」は、大津皇子への挽歌が最初にあります。皇太子日並皇子に謀反したとして24歳で処刑された皇子です。

 その次が日並皇子への挽歌です。日並皇子は病に倒れ天皇位につけませんでした。

 以下皇子女への挽歌が配列され、

 天智天皇系への挽歌は、(十市皇女経由で)大友皇子、明日香皇女、

 天武天皇系への挽歌は、高市皇子弓削皇子十市皇女但馬皇女

となっています。

 次いで柿本人麻呂妻への挽歌などが続きます。

⑪ このように、標目「〇〇宮御宇天皇代」で天皇より先に挽歌をおくられている方は、3人います。皇位継承への意思の有無にかかわらず危険視され、謀反をしたと断定され、客観的には無念の死を選んだ人物である有馬皇子と大津皇子、及び天武天皇天神地祇を祭るのを取りやめさせた形になる十市皇女の3人です。十市皇女大友皇子の代理と理解できます。

 天皇となった者からすれば3人とも無念な事柄があったと思える人物であり、あの世から害をなす恐れが大きい人物と認められます(天智天皇も加えてよいかもしれませんが今は論じません)。

⑫ これに対して、最後の標目「寧楽宮」の筆頭は、采女かと思われる「姫島松原嬢子」への挽歌であり、天皇家(あるいは天皇位)との関係が無い人物への挽歌です。その次が皇族の一人である志貴皇子への挽歌で終わっています。これまでの標目「〇〇宮御宇天皇代」とは趣が異なります。

「姫島松原見嬢子」は、(作者が)「姫島松原(に)見(たところの)嬢子屍」であるので、無念の思いをもって死を選んだ人物と言えます。そのうえ、素性がわからない、つまり素性を突き止められない人物です。天皇との関係は表面上ない人物です。

 だから、その人物に、天皇との関係を暗喩させても違和感がありません。あの世から害をなす恐れが大きい人物に「姫島松原見嬢子」をなぞらえるとすると、これまでの標目の筆頭歌と変わらない働きが期待できます。

 この標目にある次の人物である志貴皇子天皇であるかのように扱えば、「姫島松原見嬢子」に天武系の天皇(それも女系天皇)を暗喩させることができます。

 天皇に対して、ここまでの標目の筆頭歌と同じ役割を果たしていることになります。

 標目「寧楽宮」の筆頭にある水死した「姫島松原見嬢子」への挽歌は、志貴皇子の将来(子孫)のことを予祝して、天武天皇以降の女系の天皇(複数)への挽歌を暗喩しているのではないか。

 志貴皇子は、後年光仁天皇より「春日宮御宇天皇」の称号を770年追贈されています。

⑬ 次に、日並皇子への大変な肩入れが、挽歌の部での特徴です。

 実際の葬儀儀礼に劣らず、挽歌の部でも長歌1首、反歌3首、短歌23首(計27首)と挽歌の部の歌数の29%を占めています。

 日並皇子自身も皇太子のままで死ぬのは無念であったと思います。そうすると、天皇になり損ねた皇太子ですから、場合によってあの世から害をなす恐れが大きい人物ということになります。挽歌のあるほかの皇子や皇女も若くして亡くなっています。普通に考えれば、残す思いがあった年齢です。

 そうすると、『萬葉集』に「・・・天皇代」と言う標目ごとに、生前社会的影響力を持っていた(と信じる)人物には尊敬の念(あるいは恐れおののいている証)を表すことを、現世の支配者である天皇が行っていたことを示した配列となっています。

⑭ 四つ目の特徴として指摘したのが、天皇の行動に関係ない3人(人麻呂妻、人麻呂、松原娘子)への挽歌が17首もあることでした(付記3.の表C参照)

 このうち、人麻呂詠う2-1-207歌では、亡くなった妻に現世に思いを残さないでくれ、と詠っており、当時の人々にとり送魂が重要であったこと、また、ポピュラーな儀礼であることがわかります(「2020/10/12付け及び2020/10/19付けブロ」グ参照)。

 このほか、「C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)」にある官旅での見聞(あるいはそれに基づく)歌が「死人」について詠っています(2-1-220歌と2-1-221歌)。帰国を果たせなかった行旅死人に挽歌を詠うのは、同じ目的で旅する者に死者の霊魂が憑りつかないよう(旅行者の行動の邪魔をされないよう)祈ることに通じます。

 これも当時の日常的な場面であろうと思います。この17首には挽歌の目的を認識できる歌が多くあります。

⑮ さらに、人麻呂の自傷歌が、「挽歌」の部にあります(2-1-223歌)。巻一と巻二で「自傷」と題詞にある歌は、「挽歌」の筆頭歌である有馬皇子歌(2-1-141歌)とこの歌だけです。

 2-1-141歌には、有馬皇子が亡くなった後に3人が詠った歌が直後にあり、2-1-223歌にも同じように人麻呂が亡くなった後に3人が詠った歌が直後にあります。同じ構成の歌群となっています。

 だから、人麻呂は、有馬皇子のような立場であることを暗示している配列とみなせれば、ちょっと脱線しますが、人麻呂の人物像に、2案が浮かびます。

 一つは、流罪にされないものの政治的には敗者である人物であり、丁重に死後も祀るべき人物と天皇(家)も『萬葉集』巻一と巻二の編纂者も認めている人物です。例えば『日本書記』には記されていない皇子(天皇家にとり、公文書に記載せず伏せておくべき人物)、あるいは藤原家の同様な人物)です。

 もう一つは、唐或いは敵対している新羅からきた人物(あるいはその子)で能吏の立場に徹しなければならなかった人物です。

 人麻呂が、皇族の誰かの資人(皇族と五位以上の官人に特典として賜る従者で主人の警護や雑務に従事した下級の官人)であれば、多くの皇族の代作は出来ないと思います。なお、資人には、大伴旅人への挽歌を詠んでいる余明軍がいる(2-1-457~462歌)ように、歌に堪能な者もいます。

⑯ ここまでの、巻一と巻二にある標目「寧楽宮」と、そこに配列されている歌の検討から、大変政治的な配慮でこの標目が設けられ、歌が配列されている可能性の高いことがわかりました。

 さらに、『萬葉集』における多くの「寧楽宮」という表記の箇所があり、そこでも同じような暗喩があれば、その可能性は高まります。次回は、『萬葉集』歌での「寧楽宮」表記例を改めて確認したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただきありがとうございます。

(2021/10/zz    上村 朋)

付記1.歌と天皇の統治行為との関係

 巻一と巻二にある歌について、それが詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理すると、次のような分類ができる。それに基づいた歌の整理は付記3.に示す。

  A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

  A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂歌

  B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:

例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

  C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

  D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

  E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く):

例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

  E2 皇太子の死に伴う歌群:

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

  F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

  G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌、送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

  H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

I 天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

例えば、事後の送魂歌

 ここに送魂歌とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味である。当時は単に追悼をする歌はない。

 

付記2.ブログ2021/10/4付けでの主要な結論

① 本文「3.②」に挙げた、作業仮説のうち仮説Dと仮説Eを、標目の設定、各標目の特徴等から検討し次のことがわかった。

② 巻一と巻二は天皇を中心の編纂と予想できるが、標目「寧楽宮」にある2-1-84歌では、宴を主催したであろう皇子は、巻一のなかで天皇と変わらない行動の自由があったという主張を編纂者はしているかにみえる。

③ それは異例であるから、追加されたのではないか。巻一と巻二の原案はできていた。

④ 天智系の最初の天皇光仁天皇志貴皇子に「春日宮御宇天皇」の称号を贈っている。

⑤ 『萬葉集』巻一と巻二の原案を修正し、天智系に受け入れてもらう作業が、それから始まった。

⑥ 謀反に参加したとみなした者の著作は抹殺される。『萬葉集』は家持が806年復位するまで公表できなかった。

⑦ 巻一の巻頭歌2-1-1歌は、その地域の豪族の娘(あるいは巫女)に発した歌であり、その豪族の服属を確認する極めて儀礼的な歌(服属儀礼の歌)。「相聞」の筆頭歌でも天皇の支配が正当であるとして各地の豪族が待ち望んでいるという理解が可能である。

⑧ 検討した範囲では仮説Dと仮説Eは成立していた。

 

付記3. 歌と天皇との関係(巻一雑歌、巻二相聞、巻二挽歌)

上記付記1.に示す関係分類により、巻一と巻二の歌を部立て別に整理する。雑歌を表A、相聞を表B(2021/10/4付けブログの付記3.)及び挽歌を表C(この付記1.)に示す。

表C 巻二の部立て挽歌にある歌(94首)と天皇との関係を整理した表

 (2021/10/4 現在)

関係分類

歌数

標目

挽歌対象者

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

無し

 

 

 

 

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

 13

「・・・御宇天皇代」

天智天皇

 

 

 

天武天皇

2-1-147~2-1—148事前の大后の願い

2-1-149~2-1-155殯儀礼の歌

2-1-159~2-1-161殯儀礼の歌

2-1-162事後の命日における大后歌(殯儀礼の歌)

天智天皇10(671)

/12/3没 国土防衛体制道半ば

 

朱鳥元年(686) /9/9没

国土防衛体制道半ば

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

無し

 

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  6

「・・・御宇天皇代」

吉備津采女

 

讃岐狭島視石中死人

2-1-217~2-1-219

喪葬儀礼の歌

2-1-220~2-1-222事後の送魂歌

職務中の死(任務果たせず)

帰国果たせず

死者を「君」とよぶ

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

 10

「・・・御宇天皇代」

有馬皇子

 

 

 

 

大津皇子

2-1-141~2-1-142自傷

2-1-143~2-1-146事後の送魂歌と哀悼歌

2-1-163~2-1-166事後の送魂歌

658没 実は無実

 

 

 

686没 実は無実

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

無し

 

 

 

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

27

「・・・御宇天皇代」

日並皇子

2-1-167~2-1-193殯儀礼の歌

699没 皇太子のまま

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

 

 14

「・・・御宇天皇代」

川島皇子

 

高市皇子

 

弓削皇子

2-1-194~2-1-195殯儀礼の歌

2-1-199~2-1-202殯儀礼の歌

2-1-204~2-1-206殯儀礼の歌(他より流用した歌)

691没 母は非皇女父は天智

696没 母は非皇女父は天武

699没 母は天智皇女父は天武

「寧楽宮」

志貴皇子

2-1-230~2-1-234殯儀礼の歌

715没 母は非皇女父は天智 没年に錯誤あり

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  7

「・・・御宇天皇代」

十市皇女

 

明日香皇女

 

但馬皇女

2-1-156~2-1-158殯儀礼の歌か

2-1-196~2-1-198殯儀礼の歌

2-1-203事後の送魂歌

679没 大友皇子の妻

704没 忍壁皇子の妻

708没 穂積皇子と恋仲

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

無し

 

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

 17

「・・・御宇天皇代」

人麻呂妻

 

人麻呂

2-1-207~2-1-216事後の送魂歌(*)

2-1-223自傷

2-1-224~2-1-227事後の送魂歌

 

 

 

人麻呂は罪を得た官人という説有り

「寧楽宮」

姫島松原見嬢子屍

2-1-228~2-1-229事後の送魂歌

入水自殺

 

 94

 

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。「殯儀礼」とは皇族・高位の官人に対する官許の葬送儀礼相当を言う。2-1-147~2-1-155は 「2019/4/29付けブログ」による。

注3)*印の2-1-207~2-1-216は 「2020/10/12付け及び2020/10/19付けブログ」を参考としている。2-1-207は題詞に「妻死之後泣血・・・」とあるので葬儀を振り返っている歌とここでは整理した。

注4)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

 

付記4.生者と死者が居るところについて

①『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』(遠藤耕太郎 中公新書2020/6)は、喪葬について次のような指摘をしている。②以下も遠藤氏の指摘。

第一 日本ではつい近年まで、人が息を引き取ると、それは魂が驚いたり弱ったりして抜けてしまった状態であると考えられ、まず魂を呼び戻す「魂呼び(たまよび)」が行われていた。近親者が屋根に上がってあるいは井戸を覗きこんで死者の名を呼び、その魂を呼び戻そうとするのである。屋根や井戸は天空や川を通じてあの世とつながっていると考えられていた。こうした招魂儀礼を行う場が喪屋(もや)であり、・・・この習俗は現在も、通夜として残っている。・・・蘇生が不可能となれば、死者をこの世から分離する儀礼を多く行い野辺の送りをした。現在も火葬場への道順を行きと帰りで違えたり帰宅後に塩で死の穢れを祓うという習俗がある。このように日本の儀礼は招魂(喪)と送魂(葬)という相反するベクトルを併せ持っている。

第二 律令での死に関する儀礼を定める「喪葬令(そうそうりょう)」然り。

第三 女の挽歌の典型は天智天皇への挽歌。男の挽歌は日並皇子への挽歌。男の挽歌は、中国の例や仏教の浸透などによる国の体制整備が背景にある。

② 萬葉集記載の天智天皇への挽歌は、病気平癒の呪歌(2-1-147)→ 死者である天智を責める(2-1-148)→残された者の後悔・追慕を告げる(2-1-149~152)→ 死者を引き留める(2-1-153)→ 別れたことの確認(2-1-154&155)。招魂から送魂というストーリー。

日並皇子への挽歌で人麻呂作の長歌反歌は、中国の誄(るい)の形式に学んでいる(死者の系譜、功績を述べ終わりに哀傷の意を含ませる)。人麻呂歌は送魂歌でありその次にある舎人歌は慟傷歌であり、送魂から招魂へというストーリーにかわっている。

③ 死者に対して、生の世界に未練を残さないよう送魂するのが大事である。死者が死者の世界に行けないと、死者と生者が一緒にいるという混沌とした世界が続くことになる(死者にかき回される状況が続く)。それを解消し、生者の秩序は生者のみでつくり保てるようにするためである。

④ 和歌は文字以前の「声の歌」が本質としていたモノへの働きかけ(訴えかけ)の機能を継承する。そして漢字、漢詩を受容することにより五音七音を基準とする音数律を整え、声に出して唱えられる歌となった。「声の歌」は歌垣や喪葬儀礼といった共同体的な習俗と密接に結びついている。

⑤ 死者は恐怖するものではなくなってゆくが、それが復活する漢字やそれを支える中華王朝の思想を受け入れた。恋歌も喪葬歌も人を恋しいと歌う。自分と相手を想定している。相手は生者・死者であれ歌ってきた。それは、社会と自分との折り合いをつけるためである。

⑥ 2-1-83歌や1-1-994歌(『伊勢物語』23段などにもある)は、声を出して歌い、相手の旅の安全を祈っている。故郷の神という見えないモノに訴えたのである。

⑦ 人麻呂は、死の悲しみそのものを追求する挽歌へ飛躍させた。

(付記終わり  2021/10/11   上村 朋)