わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎

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 ブログを再開します。前回(2021/7/19)、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第23歌 わぶ」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第24歌 類似歌の謎」と題して、記します。(上村 朋)

追記:2021/12/9一部付記3.表Aの一部訂正

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行い、3-4-23歌まではすべて恋の歌(付記1.参照)であることを確認した。今回から3-4-24歌を検討する。歌は『新編国歌大観』より引用する。)

2.再考 第五の歌群 第24歌の課題 

① 第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌と想定した3-4-24歌を検討します。『新編国歌大観』から引用します。

 3-4-24歌  (3-4-22歌の詞書をうける)おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

   人ごとのしげきこのごろたまならばてにまきつけてこひずぞあらまし

 

3-4-24歌の類似歌  『萬葉集』巻三  挽歌  

2-1-439歌  和銅四年辛亥河辺宮人見姫嶋松原美人屍哀慟作歌四首(437~440)

   ひとごとの しげきこのころ  たまならば てにまきもちて こひずあらましを

(人言之 繁比日 玉有者 乎尓巻以而 不恋有益雄)

 

② それぞれの詞書を信じれば、相聞歌と挽歌に別れ、趣旨が違う歌となるはずです。しかし類似歌の理解に、題詞と歌本文との齟齬を認めるか否かで大別2案ある状況です。

前回(2018/7/23付けブログ)の検討では、類似歌がそのどちらの案であっても、3-4-24歌は、親たちの監視が続いている女と作者との変わらぬ愛を男の立場で表現した歌と理解できました。このため、『猿丸集』のこれまでの各歌とその類似歌との関係がこの3-4-24歌にも当てはまるとすると、この歌が相聞歌であるので、前回、類似歌は、2案のうち「439挽歌(案)」である可能性が高い、として検討を終えています。

③ しかし、類似歌については、巻全体の配列からの検討が不十分のままです。また、猿丸集編纂者が、中途半端な理解で類似歌を扱っているとも思えません。それらを改めて検討し、それが3-4-24歌の理解に関わっているかを今回確認します。

④ なお、この歌は、前回の検討時、次のように理解したところです。

3-4-24歌 親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)

「自分達に関係ない(仲を裂こうとする)ことがごたごたしていて煩わしいこのごろで(逢えませんねえ。)、あなたが美しい宝石であるならば、手にまきつけることで(あなたとの一体となるので)、あなたをこれほど恋こがれることはないであろうに。」

 

3.再考 類似歌その1 巻一と巻二の編纂方針

① 『萬葉集』巻三に記載された類似歌2-1-439歌の検討で、宿題は、次のようなものです。

 第一 ほぼ同じ題詞が巻二にあり、詠われている場所も一致するが歌の内容が異なる。各巻の構成からの確認をも要する。また、題詞中の「見・・・屍」という語句の検討と同様に共通の語句の検討を要する。

 第二 この題詞のもとにある4首は挽歌ではなく相聞歌であると諸氏の指摘があるものの、挽歌としての理解もできた。しかし、上記第一との関連があいまいなままである。

 第三 類似歌を猿丸集編纂者が一案として理解していたかどうかの検討が済んでいない。

② これらについて、大まかな再検討をした結果、類似歌に関して、次のように予想できました(以下の検討の作業仮説となります)。

 第一 『萬葉集』の歌は、題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当である(仮説A)。

 第二 ほぼ同じ題詞の巻二と巻三の歌群は、同一人物への挽歌を詠っているのではないか(仮説B)。

 第三 その人物は、誰かを暗喩している、と考えられる(仮説C)。

 第四 巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)。

 第五 天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)。

 これは、『萬葉集』巻一~巻三の編纂方針を確認することにほかなりません。しばらく、それを検討することとなります。

③ 第四と第五の仮説より、順次検討します。

 巻二は、巻一とあわせて原萬葉集と言われたりしています。その構成から検討します。

 萬葉集の三大部立て(雑歌・相聞・挽歌)は、この二巻で揃います。巻二の部立て「挽歌」は一度検討しています(2019/5/13付けブログ)が新たな視点も加えて検討します。

 そして、各部立てごとに、「宮」の名を基準にした表記により天皇の代を別けたかの標目をたてています。その最後に平城京の「宮」を想像させる「寧楽宮」(ならのみや、と訓まれています)という標目があります。

 「寧楽宮」という標目をたてたこと(そしてそこにある歌の収載時点)は、後の追加であろうと、諸氏は一致して指摘しています。

 標目「寧楽宮」に収載された歌の推定作詠時点を確認すると、巻一の雑歌では、標目「寧楽宮」にある唯一の歌2-1-84歌は、題詞に佐紀宮での宴とあるので、少なくとも平城京へ遷都した和銅3年(710)3月10日以降、宴をした長皇子と志貴皇子のうち先に亡くなった長皇子の没年月日である和銅8年(715)6月4日以前となります。巻一の詞書に暦年記載がある歌では一番新しい作詠時点の歌となります。

 巻二の相聞には標目「寧楽宮」が無く、挽歌にだけあり、詞書が3題あります。「和銅四年(711)歳次辛亥・・・」、「霊亀元年(715)歳次乙卯秋九月・・・」及び「或本歌曰」とあります。柿本人麿への挽歌など作詠時点が推計困難な歌を除くと、一番新しい作詠時点の歌となります。

 和銅の年号は元明天皇の時代(在位707~715)ですが、「霊亀元年」(715)は元正天皇が即位(9月2日)後の年号です。だから、平城京で即位した天皇の時代の歌が、巻一と巻二を通じて1首だけあることになります(題詞の検討は下記⑩以下で行います)。 

④ 標目は、巻一と巻二にしかありません。これから、この二巻のみを対象にした編纂方針があったのではないか、と推測できます。その表現は、天皇の代を別けたかのような印象があります。

 標目の表記方法は、律令公式令に定めた表現(明神御宇天皇詔旨云々。咸聞。付記2.参照)に似せていますが、天皇の呼称(「明神」としての表記)ではなく天皇の居所の宮殿名を用いているとみえます。

 その標目の訓みは、例えば「藤原の宮に あめのした知らしめしし すめらみことの み代」(阿蘇瑞枝氏による)です。『萬葉集』の底本には、標目「藤原宮御宇天皇代」に割注があり「高天原広野姫天皇」とあります。

 最後の標目「寧楽宮」は略した表記とみれば、標目「藤原宮御宇天皇代」以後の天皇の時代の歌のみが配列されているはずですが、標目「藤原宮御宇天皇代」にある元明天皇の時代の歌があります。

 もっとも「藤原宮御宇天皇代」という標目も、持統天皇崩御(702)後に詠った歌もあり、平城京遷都(710)後の歌(2-1-81歌)もあります。持統天皇以後を一括してくくっているかの標目であり、「各天皇のうち藤原宮において国政をみた天皇(複数)の時代」、という意味とも理解できます。

 だから、最後の標目「寧楽宮」は、標目の一貫性が途切れたかのようであり、特異な標目です。

⑤ 標目ごとにみると、天皇・皇后・皇族の歌が筆頭に置かれています。例外は、巻二の挽歌の部の標目「寧楽宮」であり、筆頭の歌は、(類似歌2-1-439歌に関連ある)高級官人でもない女性が詠う歌となっています。

 また、巻一と巻二の標目「寧楽宮」には、天皇の歌や、行幸の際の歌も、ほかの標目と違ってありません。皇族関係では長皇子と志貴皇子の関係する歌があるだけです。

 このように、標目とそこに記載されている歌の作者に注目すると、標目「寧楽宮」は、皇族では長皇子と志貴皇子が中心になっています。各標目の筆頭歌からは天皇を重視した編纂が予想できますが、標目「寧楽宮」は例外であり、皇族に注目した編纂がされていることになります。天皇ではないので、異例の扱いと言えます。

⑥ 長皇子は、父が天武天皇であり、母も皇族ですが、皇位継承に関しては、志貴皇子同様下位に位置しています。弓削皇子の兄で、和銅8年 (715) 6月4日没しています。子に大市王(文屋大市)、智努王(文屋浄三)などがいます。

⑦ 志貴皇子は、父が天智天皇であり、壬申の乱には天武側にたった皇子です。萬葉集によれば霊亀元年(715)9月に、日本書記によれば霊亀2年8月11日(716/9/1)に没しています。

 子の白壁王は、(有力貴族が画策し称徳天皇の遺言だと偽って)皇太子に迎えられ、62歳で即位した光仁天皇(在位770~781)です。光仁天皇は、即位後直ちに妃である聖武天皇の皇女井上親王を皇后に、そして井上内親王が産んだ他部(おさべ)親王を皇太子に定めています。その一方で、父・志貴皇子に「春日宮御宇天皇」の称号を贈りました。翌年母・紀橡姫に皇太后を追贈しています。そして他部(おさべ)親王廃太子に追い込み、天武との血のつながりのない皇子山部親王を皇太子としました。

 山部親王は即位(桓武天皇)後に母・高野新笠を(内親王ではないので)皇太夫人としています。父母を天皇・皇后にしたことを意味するので、あたかも天智天皇から志貴皇子光仁天皇、自分と直系の皇統があったかのように装おっています。

⑧ 巻一と巻二の原案が光仁天皇即位以前に既に成っていたとすれば、それは天武天皇系の天皇にとって納得のゆく歌集(奏上・公表が可能な歌集)であると編纂者は自負していたと思います。

 しかし、他部(おさべ)親王廃太子としたことから、天皇となる資格者の順位付けに大変革が生じたのです。

 そうなると、天武の孫の代の皇子が存命であるのだから、天智系である今上天皇を軽視していると疑われる行為に注意を払うのが官人の行動原則となります。『萬葉集』編纂者自身も同じでしょう。

 この政治状況に対応していない(既に成っていた)原案は、天武系の皇子や皇女とその縁者をさらに除こうとする者に利用される恐れがありますし、編纂者もその余波を必ず受けます。たとえ原案を廃棄しても、作っていたと密告されることも当然考慮しなければならないので、編纂者は、急ぎ手を加えて、原案の巻一と巻二に、天智系の天皇に関した対応を追加修正するのが唯一の対応策と思います(巻三以下も当然対応が必要です)。

 「宮」別の構成を標目により施してある巻一と巻二を、光仁天皇以降の天皇に理解してもらうため(献上が可能なように、また公表を許されるように)、三大部立ての揃う巻一と巻二をみただけで、天皇が天武系から代替わりしたのだという認識が生じるような工夫の産物が、標目「寧楽宮」を新たに付け加える、ということだったのではないか、と思います。 

⑨ 『萬葉集』の成立時点(公けになったの)は、『古今和歌集』の仮名序・真名序・1-1-997歌からの推測及び家持復位後という井沢元彦氏の指摘から、少なくとも平城天皇光仁天皇の直系の孫)の時代(在位806~809)以後となります(付記4.参照)。光仁天皇即位までに巻一と巻二の原案が成っていたとしても標目「寧楽宮」の追加には十分な時間があった、と言えますが、急ぎ作業したのではないか、と思います。

折口信夫氏は「家持は、平城天皇(安殿親王)の兄、早良親王延暦4年(785)憤死)に、皇太子傳として仕えている。その早良親王にたてまつったものが、新王が流されて後、平城天皇の御手にはいったか、ということは想像できる。そういうわけで(万葉集は)平城天皇に非常に近しい歌集となったのである」と言っています(『折口信夫全集 ノート篇』、「六 万葉集における大歌」より)。 たてまつった歌集を修正するには修正した歌集をまたたてまつるのが一般的であり、家持はその際最初の歌集を回収できたでしょうか。

⑩ 巻二の挽歌の部において、天皇への挽歌は、天武天皇の父(舒明天皇)への挽歌もなく、前代の天智天皇天武天皇への挽歌だけです。天智天皇を対等に扱っているのは、持統天皇の考えと同じです。九月九日は天武天皇の、十二月三日は天智天皇の命日であり、その日を国忌としています(『日本書記』大宝2年12月条参照)。

 『日本書記』における天智天皇への挽歌にならい天武天皇への挽歌は、『日本書記』と異なり大変質素で皇后の歌のみです。持統天皇の考えに沿った編纂ともみえます。それにしては、挽歌の歌数が、天智天皇へは9首、天武天皇へは4首とアンバランスです。天武天皇への歌数が少ないのが不自然であり、『日本書記』での両天皇の扱いと反対です。

 そこに編纂者の意図をみるならば、巻一と巻二にある標目「〇〇宮御宇天皇代」の次にある標目「寧楽宮」は、「天皇代」という語句を省いているものの天皇位を追贈され志貴皇子の「御代」を標目にたてたのではないか。

 天武系と天智系で一線を画そうとする光仁桓武天皇親子への配慮を、明らかにわかるように『萬葉集』に反映したのではないか、と推測します。

⑪  次に、『萬葉集』巻一と巻二の題詞を検討します。題詞で、「・・・宮」とあるのは次のとおりです。

 第一 天皇または太上天皇都城としていたか行幸された時の歌がある宮(屋敷か行宮全体):吉野宮(2-1-27歌、2-1-36~39歌、2-1-111歌など)、藤原宮(2-1-52~53歌、2-1-78歌)、明日香宮(2-1-51歌など)、難波宮(2-1-66歌など)

 第二 天皇または太上天皇が遠望した時の歌がある宮(屋敷か行宮全体):寧楽宮(2-1-78歌)

 第三 殯宮:日並皇子尊殯宮、高市皇子尊城上殯宮、明日香皇女木〇(瓦偏に缶)殯宮

 第四 伊勢神宮(2-1-22歌)、 伊勢斎宮(2-1-81~82歌,2-1-163~164歌)

 第五 皇子の住まわれた宮(屋敷):佐紀宮(2-1-84歌)、高市皇子宮(2-1-114歌)、大津皇子宮(2-1-129歌)、皇子尊(日並皇子)宮(2-1-171~193歌)、

 このなかで、第一の宮は、天皇でいる間の基本的な常在所である宮です。多くの歌が詠まれています。

 第二の寧楽宮は、1首(2-1-78歌)だけであり、和銅三年(710)と明記され、いわゆる藤原京(『日本書記』などでは「新益京」)から平城京に遷都のための行幸途中と理解できる題詞となっています。天皇が公式にこれから遷られる途中という時点であり、寧楽宮は天皇が未だ行かれていない宮とも理解できます。

 第五の宮は、皇族の屋敷をさしています。そのひとつ、佐紀宮に住まわれている皇子(2-1-84歌本文と題詞からは志貴皇子あるいは長皇子)は、当時は次の天皇候補として有力でもなく、本人の野望もないと見られていた人物です。それでも「明日香宮」のように皇子名を避けた宮名となっています。その宮を、第一の「吉野宮」など天皇のゆかれた「宮」と同格に扱っているともとれる題詞です。巻一と巻二の編纂者は、なんらかの配慮を宮名に託しているように見えます。 

 次に、そのような標目と題詞のもとにある歌を、確認してみます。  

 

4.再考 類似歌その2 歌を標目別にみると

① 最初に、標目「寧楽宮」に編纂者が記載した歌を確認します。類似歌に直接かかわるのは、そのうちの「和銅四年・・・」と言う題詞のもとにある2-1-228歌と2-1-229歌です。

 巻一 (部立ては雑歌 1首のみ)

 2-1-84歌 長皇子、與志貴皇子於佐紀宮俱宴歌

    あきさらば いまもみるごと つまごひに かなかやまそ たかのはらのうへ

    (秋去者 今毛見如 妻恋尓 鹿将鳴山曽 高野原之宇倍)

 巻二 (部立てはすべて挽歌 7首) 

 2-1-228歌  和銅四年歳次辛亥(しんがい)川辺宮人姫嶋松原嬢子屍悲嘆作歌二首 

    いもがなは ちよにながれむ ひめしまの こまつがうれに こけむすまでに 

    (妹之名者 千代尓将流 姫嶋之 子松之末尓 蘿生萬代尓)

 2-1-229歌  (同上)

   なにはがた しほひなありそね しづみにし いもがすがたを みまくくるしも 

    (難波方 塩干勿有曽祢 沈之 妹之光儀乎 見巻苦流思母)

 2-1-230歌 霊亀元年歳次乙卯(いっぽう)秋九月志貴親王薨時作歌一首幷短歌 

   あづさゆみ てにとりもちて ますらをの・・・すめろきの かみのみこの いでましの たひのひかりぞ ここだてりてある 

  (梓弓 手取持而 大夫之 ・・・天皇之 神之御子之 御駕之 手火之光曽 幾許照而有)

 2-1-231歌  (同上)

   たかまとの のへのあきはぎ いたづらに さきかちるらむ みるひとなしに 

   (高円之 野辺乃秋芽子 徒 開香将散 見人無尓)

 2-1-232歌  (同上)

  みかさやま のへゆくみちは こきだくも しげくあれたるか ひさにあらなくに

  (御笠山 野辺徃道者 己伎太雲 繁荒有可 久尓有勿国)

  (左注) 右歌笠朝臣金村歌集出 

 2-1-233歌 或本歌曰 

   たかまとの のへのあきはぎ なちりそね きみがかたみに みつつしのはむ

   (高円之 野辺之秋芽子 勿散祢 君之形見尓 見管思奴播武)

 2-1-234歌 (同上)

   みかさやま のへゆゆくみち こきだくも あれにけるかも ひさにあらなくに 

   (三笠山 野辺従遊久道 己伎太久母 荒尓計類鴨 久尓有名国)

 巻二の挽歌の部にある標目「寧楽宮」の筆頭歌は、先(「3.⑤)に指摘したように、皇族でも高級官人でもない女性が詠う歌であり、標目「・・・宮御宇天皇代」と異なっています。そして配列は、題詞に明記されているように、「和銅四年(711)」、霊亀元年(715)と、暦年順の配列ですが、霊亀元年(715)とある志貴皇子の没年月日は『続日本紀』では霊亀二年と記述と異なります。

② 巻一と巻二は、天皇中心の編纂とみて、収載されている歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理すると、次のような分類ができます。それに基づいた歌の整理を付記3.に示します。

 A1 天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く:

 例えば、作者が天皇の歌、天皇への応答歌、復命歌、宴席で披露(と思われる)歌

 A2 天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群:

 例えば、殯儀礼の歌(送魂歌・招魂歌)、追憶・送魂の歌

 B 天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群:

  例えば、天皇の歌、応答歌、造営を褒める歌

 C 天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但しDを除く):

  例えば、皇子や皇女、官人の行動で、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌。復命に関する歌はA1あるいはA2あるいはDの歌群となる。

 D 天皇に対する謀反への措置に伴う歌群:

  例えば、罪を得た人物の自傷歌、護送時の誰かの哀傷歌、後代の送魂歌

 E1 皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  例えば、皇太子の行幸時の歌、皇太子主催の宴席での歌、公務目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌 

 E2 皇太子の死に伴う歌群:

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶の歌

 F 皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、事後の追憶・哀悼の歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌、その公務の目的に直接関係なさそうなその旅中での感慨を詠う歌

 G 皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む):

  例えば、殯儀礼の歌、追憶の歌・送魂歌、主催した宴席など公務以外の宴席での歌

 H 下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群:

 上記のA~GやIの判定ができない歌(該当の歌は結局ありませんでした)

 I  天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群:

  例えば、事後の送魂歌  

 ここにいう「送魂歌」とは、死者は生者の世界に残りたがっているのでそれを断ち切ってもらう必要があるという信仰の上にある歌という意味です。当時は単に追悼をする歌はありません。

③ 付記3.の表Aにみるように、巻一の雑歌は「A天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時、)の歌群、但し下記A2~Hを除く)」が断然多く、84首中の52首(62%)を占めます。造営した藤原京平城京関連の歌10首を加えると62首(74%)となり、天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻と言えます。

 巻頭歌(2-1-1歌)は、天皇が娘に求婚している歌ですが、娘はその地域の豪族の娘(あるいは巫女)であり、服属を確認する極めて儀礼的な歌(服属儀礼の歌)です(『万葉集の起源』遠藤耕太郎 中公新書 2020/6)。

 2-1-1歌よりはるか後代(白村江敗戦後の時代も過ぎてのちの)聖武天皇が国家事業とした大仏建立は、国家安寧のため、仏の力を用いて(天皇はじめ当局者や兵士各人の体力知力を科学的に増進させるという方法ではなく)まさに相手を調伏しようという発想のもとでのものです。白村江敗戦以前の戦争とは、生きて居る者だけでなく縁のある死者を味方にし(特に生前に社会的影響力を持っていた人物の霊の力を借り)、土地の神も味方にして戦うものであり、武力よりも呪力が重要とされています。強い呪力を持っている者と一心同体であるのがリーダーになる資格でした。つまり、律令制定以前も以後も、祭政一致であり、教権をもっていて天皇の政権が成り立っています。

 現在に残る養老律令は、神祇令その他を設け、天皇が、神々や祖先を祀るという決意表明をしており、臣下が濫りに墓を造るのを禁止しています。

 だから、戦うにあたって、巻一の筆頭歌にみられるような、相手の呪力を担う巫女を味方につけようとするのは重要な戦法でもあった、といえます。

 また、巻一の歌における天皇の公務を追うと、最後は銅和5年(715)の長田王を伊勢へ行かせたことになります。

④ 天皇との関係でみると、異例と思える歌があります。

 ひとつ目は、「F皇子自らの行動に伴う歌群」と分類した2-1-84歌です。今上天皇の出席を仰いだ宴席とは思えない、皇子の自宅での私的な宴会での歌です。そして、標目「寧楽宮」にある唯一の歌です。

 宴を主催したであろう皇子は、巻一のなかで天皇と変わらない行動の自由があったという主張を編纂者がしているかにみえます。この歌のみで構成されている「寧楽宮」という標目は、「宮」に天皇の代を象徴させて巻一に追加されるべき事情があったかに見えます。

 なお、「C天皇の下命による官人の行動に伴う歌群(Dを除く)」と整理した歌の2-1-22歌は標目「明日香清御原御宇天皇代」の最初の歌です。天武天皇の時代であり、十市皇女伊勢神宮公式参拝の際の歌と理解しました。2-1-81歌からの3首も伊勢神宮公式参拝の際の歌です。そして入唐に関する歌は、公務を全うして帰国できたら叶うことを詠っており、天皇の眼に触れても不興を買う歌ではありません。

⑤ ふたつ目は、「H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群」と分類した、近江の旧都を詠っている二つの歌群の歌です。すなわち、作者が人麻呂の3首と高市古人の2首です。表Aでは、公務の途中に旧都を現認したか他人からの情報で詠んだ歌、と整理しました。

 この5首は、巻一での標目「藤原宮御宇天皇代」の最初の歌2-1-28歌の直後にある歌群の歌という配列を考慮すれば、大和盆地に都を置くのがよい、とする暗喩があると思えます。藤原宮完成にあたっての予祝を込めた歌であると整理し直せます。

「B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群」にくくり直してもよい5首です。持統天皇の重要な施策のひとつ(藤原宮遷都)を寿ぐため、標目「藤原宮御宇天皇代」の最初のほうに置いたのだと思います。 

⑥ 巻二の相聞の部には、付記3.の表Bにみるように、天皇・皇子・皇女・官人が、一見すると、それぞれ特定の相手を念頭に自らの気持ちや意見を、披露している歌です。天皇と誰かの間の歌数は突出していません。

 「A1」の歌群の歌は9首あります。その代表が、相聞の部の筆頭にある磐姫が天皇への思いを詠った歌(4首と1首)です。この5首は、山を隔てた天皇が来ていただけると信じているというストーリーの配列です。作者とされている磐姫は、皇后になった人物ですが、皇族(内親王)ではありません。大宝律令制定後の同様な例が、聖武天皇の皇后(藤原光明子)です。

 一番歌が多いのは「C」の16首です。天皇の裁可を要する婚姻の歌と行幸時を話題とした歌と人麻呂が上京時妻との別離を詠った歌(計10首)です。人麻呂歌は、普通の官人の平均的な状況を詠う歌とみなせます。

 次に歌数が多いのは、「I」の14首です。歌のやりとりを楽しんでいる男女の挨拶歌であり、日常的によくある状況の歌と思えます。

 なお、「E1」の2-1-90歌をおくられた軽太子は、『古事記』によれば允恭天皇立太子としたが同母妹軽太娘皇女と通じていたとして廃太子とされ流罪となった人物です。『日本書記』によれば軽太娘(衣通姫)が流罪となり允恭天皇崩御後穴穂皇子に軽太子は討たれています。流罪というのは後年の例をみれば皇位継承争いの結果とも理解できます。結局二人は自殺しています。

⑦ 天皇との関係でみると、相聞として特異と思える歌があります。

 ひとつ目は、相聞の筆頭に置かれた磐姫が天皇への思いを詠った天皇の応答歌がない歌であって、かつ皇后が皇族(内親王)でない人物であることです。現実を見据えた二人の結びつきを強調しているかに見えます。その次に置かれている2-1-90歌は、「古事記曰・・」と言う題詞のある軽太子への思いを詠った衣通王の歌であり、待ち望む人を間違えれば身を亡ぼすと受け取れる歌です。

 だから、巻一の巻頭歌と同じように、相聞の筆頭歌も、天皇の支配が正当であるとして各地の豪族が待ち望んでいるという理解が可能な歌となっています。男女の間の歌も政治的な脈絡で配列されている、とみることができます。

 ふたつ目は、謀反を起こした(と断定された)皇子に関する相聞歌があることです。衣通姫の歌のほかに大津皇子歌があります。挽歌にもあり、巻一と巻二の編纂者はこのような皇子が気になる人物なのでしょうか。

 三つ目は、皇族個人が関わらない相聞歌が、2-1-96歌など14首あり、相聞の部の約1/3を占めることです。当時の平時であれば生じている日常の場面ともみえます。

⑧ 相聞の部の特徴に、天皇との関係以外では、長歌があることです。人麻呂作とある、妻との別離にあたり詠ったと題詞にある複数の長歌(2-1-131歌と2-1-138歌)です。これは、古来からの歌垣の系統からは生まれない(掛け合う歌としては長すぎる)歌です。

 これは愛しい妻との別れを、見送る立場ではなく出立する立場で詠う歌です。「心残りだが行ってきます」という歌です。当然妻に示した歌でしょうが、長歌の返しがありません(あるいは巻二の編纂者が省いています)。お互いに詠い交わさない相聞歌となれば、離別の歌・人を恋う相聞歌の新しいスタイルの誕生となります。

 この人麻呂歌について、土屋文明氏は現地に赴いての考察で、2-1-131歌の初句から23句、2-1-135歌の初句から11句は(行程に直接関係せず)次の句に続く序歌的修飾であり、「内容実質は極めて単純な分りよい作」といへる、と指摘しています。それにしても本当にこの歌は妻に贈られたのでしょうか。

 このほか皇子の歌にも元資料が伝承歌(土屋文明氏のいう民謡)と思われるのがあちこちに見えます。

⑨ 次に、巻二の挽歌は、挽歌の対象者の亡くなった時点から見ると、暦年順に原則配列されています。天皇との関係でみると、やはり、特記すべき歌があります。

次回は、それを検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき ありがとうございます。

(2021/10/4  上村 朋)

付記1.恋の歌の定義

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと

付記2.宣命

① 公式令(くうじきりょう)は、律令の一つで、公文書の様式および作成・施行上の諸規である。冒頭には一番の重要事項に用いられる詔書の様式がある。(養老律令公式令(『日本思想史大系3 律令』(1976岩波書店)より)

第一条(詔書式条)より詔書式の冒頭部分を抜粋する。

A明神御宇日本天皇詔旨云々。咸聞。(あらみがみ あめのしたしらす ひのもとの すべらが おほむごと のらまし そのことそのこと。 ことごとくに ききたまへ)

これを、坂上康俊氏は、次のように訓んでいる。

「あきつみかみと あめのしたしろしめす おほやまと すめらみこと・・・」

 即ち君主をこの世に現れた神、と明示している。中国と決定的に違う点である。即位の宣命が読み上げられたとき拍手でもって応えた。現在でも神社では拍手をするが、天皇への挨拶と神への挨拶が同じ動機であったことを表している。(『日本の歴史5 律令国家と「日本」』(58p坂上康俊 講談社2001)

B 明神御宇天皇詔旨云々。咸聞。

C 明神御宇大八州天皇詔旨云々。咸聞。

D 天皇詔旨云々。咸聞。

E 詔旨云々。咸聞。

② 確実と思われる初例は文武天皇の即位の宣命である。

 

付記3.歌と天皇との関係(巻一、巻二相聞、巻二挽歌)

 本文「4.②」に示す関係分類により、巻一と巻二の歌を部立て別に整理する。雑歌を表A、相聞を表B(以上は今回のブログ)及び挽歌を表C(次回のブログに付記)に示す。

表A 巻一(部立て雑歌)にある歌(84首)と天皇との関係  

  (2021/10/1  am現在  2021/12/9訂正)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

52

「・・・御宇天皇代」

2-1-1,2-1-2 天皇

2-1-3~2-1-12 行幸

2-1-16 復命歌

2-1-20~2-1-21行幸

2-1-25~2-1-28行幸

2-1-34~2-1-44行幸

2-1-54~2-1-61行幸

2-1-64~2-1-75行幸

2-1-76天皇

2-1-77復命歌

天皇の統治を寿ぐか。

行幸時の留京の歌を含む。

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

無し

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

 10

「・・・御宇天皇代」

2-1-17~2-1-19近江へ遷都

 

2-1-50~2-1-53藤原宮遷都

2-1~-78現場の官人(寧楽宮造営)<「遷都時天皇歌」を訂正>

2-1-79~2-1-80本部の官人(寧楽宮造営)<行幸時を訂正>。*

大和にある都を寿ぐか

遷都を寿ぐ

造営時に苦労を詠う

 

同上

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

  4

「・・・御宇天皇代」

2-1-22皇女伊勢参拝を予祝

2-1-62~2-1-63入唐歌 婉曲な決意表明

2-1-81~2-1-83 長田王伊勢参拝を予祝

 

 

 

長田王は長皇子の子

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

  2

「・・・御宇天皇代」

2-1-23 護送をみての哀傷歌

2-1-24流罪となった麻続王の自傷

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  8

「・・・御宇天皇代」

2-1-13~2-1-15中大兄歌

2-1-45~2-1-49軽皇子行幸

その時を謳歌

E2 皇太子の死に伴う歌群

無し

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  1

「寧楽宮」

2-1-84長皇子歌 宴の挨拶歌

宴の主人を褒める

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

無し

 

 

 

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

  7

「・・・御宇天皇代」

2-1-29~2-1-31人麻呂歌

2-1-32~2-1-33高市古人歌

両歌群とも旧都大津宮とその大宮人を哀傷する

新京との違いを詠う

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

無し

 

 

 

 

 84

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。2-1-29~2-1-31は2020/9/28付けブログの付記1.参照。

注3)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

注4)該当歌欄の「*」のある上村朋の意見は、2-1-78歌~2-1-80歌は、2021/11/8付けブログまでの検討により訂正した(2021/12/9)。

 

表B 巻二の部立て相聞にある歌(56首)と天皇との関係を整理した表 (2021/10/1 1現在)

関係分類

歌数

標目

該当歌

備考

A1天皇及び太上天皇などの一般的公務に伴う(天皇が出席する儀礼行幸時の)歌群、但しA2~Hを除く)

 9

「・・・御宇天皇代」

2-1-85~2-1-88 &2-1-89磐姫が天皇へ。(旅に出た相手を思う伝承歌よりなる)

2-1-91天皇が鏡王女へ

2-1-92 上記の応答歌

2-1-103 天皇が藤原夫人へ

2-1-104 上記の応答歌

天皇と誰かとの歌のやりとり

A2天皇及び太上天皇などの死に伴う歌群

無し

 

 

 

B天皇が下命した都の造営・移転に関する歌群

無し

 

 

 

C天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(Dを除く)

 16

「・・・御宇天皇代」

2-1-93鏡王女が藤原卿へ

2-1-94応答歌

2-1-95藤原卿が采女

2-1-111~2-1-113吉野宮行幸時の思い出の歌

 

2-1-131~2-1-139&2-1-140下命で上京する際の妻と別離

裁可案件

 

 

思出の行幸に関する挨拶歌

D天皇に対する謀反への措置に伴う歌群

無し

 

 

 

E1皇太子の行動に伴う歌群(E2を除く)

  2

「・・・御宇天皇代」

2-1-90衣通姫が軽太子へ

2-1-110日並皇子が石川女郎へ(伝承歌が元資料か)

 

E2 皇太子の死に伴う歌群

無し

 

 

 

F皇子自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

10

「・・・御宇天皇代」

2-1-107大津皇子石川郎女

2-1-108応答歌

2-1-109大津皇子の自問歌

2-1-117舎人皇子が舎人娘子

2-1-118応答歌

2-1-119~2-1-122弓削皇子が紀皇女へ(伝承歌)

2-1-130長皇子が弟弓削皇子皇子へ

大津皇子は686/10没

 

人皇子は735/12没

弓削皇子は699/7没

長皇子は715/6没

G皇女自らの行動に伴う歌群(当人の死を含む)

  5

「・・・御宇天皇代」

2-1-105~2-1-106大伯皇女が弟の大津皇子

2-1-114~2-116但馬皇女が穂積皇子へ(伝承歌)

相手を思う心情があふれる歌

H下命の有無が不明な事柄に伴う(作詠した官人自身の感慨を詠う)歌群

無し

 

 

 

I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群

 14

「・・・御宇天皇代」

2-1-96~2-1-100久米禅師関連の恋愛歌(伝承歌よりなる)

2-1-101~2-1-102大伴安麿と巨勢郎女の挨拶歌

2-1-123~2-1-125三方沙弥関連の見舞に伴う挨拶歌

2-1-126~2-1-128見舞いに伴う挨拶歌

2-1-129年齢差のある男女の挨拶歌

男女間での言葉遊びの強い歌(磐姫歌のような恋慕う歌ではない)

 計

 56

 

 

 

注1)「歌番号等」とは『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)「該当歌」欄の歌評は上村朋の意見。

注3)「備考」欄のコメントは上村朋の意見。

 

付記4.『萬葉集』成立・公表時点について

  • 萬葉集』の成立は、「数次の編纂を経て、宝亀11年(780)前後に完成したとされる」、と『例解古語辞典』の「主要作品解説」では説明している。780年前後の天皇は天智系の光仁天皇(在位770~781)と桓武天皇(同781~806)である。
  • 井沢元彦氏は、『逆説の日本史3 古代言霊編』(1995小学館)で、「公表できるようになったのは桓武天皇の死(806)以後」という。最終的な編纂者である大伴家持が、国家の犯罪者ではなくなってからであるという。編纂者自身の歌も含まれている歌集は「反政府詩集」であり世に出せない。また、古代では国家の反逆罪に該当すればその人物の著作・編纂物は禁書に古代ではなるので、国家として必ず命令を出さなければならないから正史に禁止が記載されるが、それはない、という。「犯罪者が関わった私家版が世に出たのは、(萬葉集が)怨霊を恐れて鎮魂のための書となったからである」(同書291p)ともいう。また、『古今和歌集』の真名序・仮名序・2-1-997歌からも「平城天皇の時代」という。
  • 大伴家持は、赴任地陸奥国で死後、直後に生じた藤原種継暗殺事件に関与していたとして、埋葬も許されず、官籍からも除名された。桓武天皇の死後、大同元年(806)の恩赦を受けて従三位に復した。

(付記終わり 2021/10/zz  上村 朋)

<付記終わり2021/10/1   am >

 

 

~~~~~  *** ~~~~~

参考資料

〇 『萬葉集』巻一と巻二の題詞において「・・・宮」とある例(題詞と歌番号の対称)

表 『萬葉集』巻一と巻二の題詞において「・・・宮」とある例 (2021/8/30 現在)

「・・・宮」の区分

巻一(雑歌)

巻二(相聞)

巻二(挽歌)

備考

吉野宮

2-1-27,

2-1-36~39

2-1-70

2-1-74~75

2-1-111

 

 

藤原宮

2-1-50,

2-1-51,

2-1-52~53

2-1-78

2-1-79~80

 

 

 

明日香宮

2-1-51

 

 

 

難波宮

2-1-64,

2-1-66~69

2-1-71~72

 

 

 

寧楽宮

2-1-78

2-1-79~80

 

 

 

紀宮

2-1-84

 

 

 

高市皇子

 

2-1-114

2-1-116

 

 

伊勢斎宮

 

 

2-1-163~164

 

日並皇子尊殯宮

 

 

2-1-167~169

 

皇子尊宮

 

 

2-1-171~193

 

明日香皇女木〇(瓦偏に缶)殯宮

 

 

2-1-196~198

 

高市皇子尊城上殯宮

 

 

2-1-199~201

 

(参考)近江荒都

2-1-29~31

 

 

 

(参考) 近江旧堵

2-1-32~33

 

 

 

(付記終わり 2021/10/4   上村 朋)