わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき1

 前回(2021/1/25)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 新例のたまたすきかく」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき1」と題して、記します。(上村 朋)(2022/1/2  「21.⑪の一字訂正(君→公)」)

1.~20. 承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認でき、また、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」の萬葉集巻十二にある用例まで検討してきた。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、神事の面影がそのことばに残っている歌が、これまでは断然多い。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

21.

21.巻十三のたまたすき  3首あり

① 『萬葉集』巻十三には、「たまたすき」の用例が3首あります。2-1-3300歌、2-1-3311歌、及び2-1-3338歌です。この巻には「ゆふたすき」の用例も1首あり、さきに検討したところです(付記1.参照)

 最初の用例2-1-3300歌から検討します。相聞の部にある歌であり、『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-3300歌  或本歌曰 

   玉手次 不懸時無 吾念有 君尓依者 倭文幣乎 手取持而 竹珠□(偏が口、旁が刀(りっとう))之自二貫垂 天地之 神□(偏が口、旁が刀(りっとう)曽吾乞 痛毛須部奈見

   たまたすき かけぬときなく あがおもへる きみによりては しつぬさを てにとりもちて たかたまを しじにぬきたれ あめつちの かみをぞわがのむ いたもすべなみ

 題詞にある「或本歌曰」とあるのは、題詞のない長歌2-1-3298歌とその反歌2-1-3299歌に対していっており、この2首に対する別伝の一組の意です。反歌も次にあります。

 漢字「□(偏が口、旁が刀(りっとう))」は『漢和大辞典』(諸橋轍次)にありません。「叨」(とう)字はあります。「aむさぼる bみだりにする・かたじけなうする cみだりに dまこと等の意と説明しています(熟語に「叨叨」(まこと。多言。)、 「叨恩」(みだりに(かたじけなくも)恩恵をこうむる) 、叨冒(貪欲)などを示していました)。

 

 2-1-3301歌  反歌

   乾坤乃 神乎祷而 吾恋 公以必 不相在目八

   あめつちの かみをいのりて あがこふる きみいかならず あはずあらめやも

 『萬葉集』巻十三は、さらに「或本歌曰」がもう一組(ただし反歌を欠く)あり、あわせて「右五首」と左注し、一つの歌群としています。

 

② 現代語訳の例を示します。

 2-1-3300歌

「タマダスキ(枕詞)心にかけぬ時なく、吾が思って居る君の為には、しづで造ったぬさを手に取り持ち、竹玉をしげく貫き垂らし、天地の神々を吾は乞ひ祈る。ひどく遣る瀬ないないので。」(土屋文明氏)

 土屋氏は、しずは和製の模様ある織物でそれを神に奉る幣としたものと見える、と説明しています。枕詞と認めた語句には、氏の方針として訳出を避け、「枕詞」であることを明示しています。また、愛人に会ふことを願っている2-1-3298歌の「少しの異同のある別伝である」としています。

 もう一例。

「玉だすきを肩に掛けるように、心にかけないことはなく、いつも慕わしく思っているあの方のために、倭文織の幣を手に持って、竹玉をたくさん糸に通して垂らし、天地の神々に、私はお祈りします。恋しくてどうしようもなくて。(どうぞ逢わせてください)」(阿蘇瑞枝氏)

 阿蘇氏は、「玉だすき」について、ここでは特段の説明を加えていません。『萬葉集』巻一の2-1-5歌において「たすきは「懸け」の枕詞。うなじにかけるから。玉は美称」と説明しています。そして、2-1-3002歌の「木綿手次」に「木綿(ゆふ)で作った襷。神事を行う時に肩にかけた。広幅の袖が供え物その他に触れるのをふせぐ手段として用いられた紐類」と説明しています。「たすき」に美称の「たま」をつけた場合は、氏は、歌語でかつ枕詞として、「かく」という行為につながる語句であると割り切っているようです。

 そして氏は、この歌は、関係の永続性を神に祈願する内容(の歌)、と指摘しています。逢うことから始まる関係の継続が主眼の歌、と理解しているようです。

 

 2-1-3301歌 反歌

 「天地の神を祈って、吾が恋ひ思ふる君は、必ず、会はれるであらう。」(土屋氏)

 氏は、五句(不相在目八)を「「あはざらめやも」と訓み、「反語。神に祈って、それによって、君が必ず私に会うだろうと(この歌を)解く方が、歌意は屈折が出てくる。 イノリテのテに弱い休止を含ませるのである。類想はあらうが、いかに解いても、なほ簡潔な表現である。」と評しています。

 「天地の神々に祈りつつ私の恋するあの方と逢えないことがあろうか。必ず逢えると思う。」(阿蘇氏)

 氏も、五句は反語としています。また、長歌の2-1-3300歌と異なり反歌は2-1-3299歌とは別の歌で異伝という関係にない、と指摘しています。

③ 編纂者は、上記の長歌反歌をペアの歌として配列しています。反歌は、明らかに相手と対面することを確信している歌です。しかし、既に対面して(相手が通って)いたかどうかに、この反歌は触れていません。長歌でもわかりません。

 そして、長歌でも何を祈ったかに触れていません。作中人物がこれからの良好な関係を強く希望していることだけは、編纂者がペアの歌にしたのでわかります。

 だから、自分のために祈っていることではないかと思え、相手のために祈る、というトーンにもとれる両氏の歌の現代語訳は、気にかかります。

 「右五首」にある長歌3首は、類似の長歌と両氏も認めています。2-1-3300歌の四句目の「君尓依者」に相当する部分の表現は、2-1-3298歌では「妹尓縁而者 言之禁毛 無在乞常」部分と2-1-3302歌では、「君尓依而者 言之故毛 無有欲得」部分です。

 長歌として表現している事項と比較すると、何を祈願しているのかに言及するのを2-1-3300歌では省いている、とみえます。

 類似の長歌3首の、異なることの一つがこの部分であるので、そこに留意した検討が必要である、と思います。

④ この歌の前後の配列を、いつものように、最初に検討します。

 この歌のある巻十三は、明らかに作者を挙げたのは2-1-3353歌以下の5首のみであり、そのほかは作者未詳の歌です。部立ては雑(27首)、相聞(57首)、問答(18首)、譬喩歌(1首)及び挽歌(24首)となっています。

 土屋氏は、巻十三について、「大体民謡の範疇の歌。おそらく巻十一等とともに流布して居た作品から長歌及びその反歌を集録したもの。本巻の編集は、巻十一、十二と同時またはその後に行われた。本巻編纂時の形の歌であり、古のままのものではない。編纂時(天平中期またはその後の時点)に流布されていた形の歌。」と指摘しています(『萬葉集私注』)。そして、「同一作品中に古を伝える部分と新しい改変を受けた部分があり、それは各作品の一句一語に即して論ずるより外ない。仙覚の新点を待って初めて訓を得た歌が多い。」等も指摘しています。

 阿蘇氏は、巻十三について、「長歌集であり、雑歌、相聞歌などは、それぞれ大和国から地方へという地名による配列がなされている。奈良の地(平城京)を舞台にしていることが明らかな歌はなく、飛鳥藤原宮時代を基点とする編集方針」と指摘しています。「長歌反歌の結合に関して疑問のあるものがあり、伝承途中に混乱があった、としか思えないものがある」、とも指摘し、2-1-3300歌と2-1-3301歌もその例とみています。

⑤ 巻十三は、全巻にわたり「右〇首」という左注により、歌をグループ化しています。

 この歌のある相聞歌を、「右〇首」を単位として、諸氏の論を参考に整理する(付記1.参照)と、次のことがいえます。

 第一 「右〇首」は、必ず長歌を含む。そして相聞の当事者の一方のみの立場の歌がほとんどである。長歌には当事者両方が掛け合う形の歌があるが、その後者の立場でその長歌反歌を詠っている。

 第二 時を経た古の歌が、編纂者の手元に集まり、それが元資料となっている。すべてが、古の最初の姿のままの歌ではない。題詞も伝承されてきていたのかも不明である。

 第三 歌の理解において「右〇首」を越えて整合を求める編纂をしていない。

 第四 このため、「右〇首」のなかの歌同士の先後関係は不明である。だから、歌の中の論理矛盾を、当該「右〇首」内の歌で正すには傍証が要る。

⑥ 今検討しようとしている歌は、2-1-3298歌から始まる「右五首」にある長歌の一首です。

 阿蘇氏は、この「右五首」にある長歌3首は、「関係の永続性を神に祈願するという内容。末尾の三句「天地の 神々をそ我がこふ いたもすべなみ」をほぼ共通するほか、家庭内での神祭の描写に終始している点も共通であり、類歌・少異歌と言い得る。大伴坂上郎女の2-1-382歌と2-1-383歌は文芸的完成度が高いが、恋人との関係の修復を家庭内での神祭をおこなって祈願するという内容及び表現には相通じるものがある。」と指摘しています。

 これは、長歌3首というのは、最初に詠われた(編纂時点では未詳の)歌が、時代に応じて順次変化してそれが記録されてきたものである、と言う指摘です。歌が歌い継がれてきているのですから、巻十三編纂当時にもこれらの歌が朗詠されており、家庭内での神祭も同じように行われていたということが十分想像できるところです。

 そうすると、相聞歌の配列検討から指摘した上記④の第四に関しては、一つの傍証が得られ、この「右五首」の長歌3首は例外として、編纂者の考えの推測には比較検討してよいと思います。

⑦ さて、2-1-3300歌の「たまたすき」を検討します。「右五首」にある長歌3首の語句を比較し、「たまたすき」の語句と神事との関係を整理すると、次の表が得られます。神事を行うのに男女の別はありませんので、長歌3首の作中人物は仮に女として検討します。

 祈念する神事の手順・所作については、「たすき」や「ゆふたすき」の用例歌3首を検討した際に検討(2020//9/21付けブログ参照)し、「たすきをかけているのは神々に祈る姿の祭主の姿」と理解しました。

 今回それらの歌をみると、神事での「(ゆふあるいはしろたへの)たすきをかける」という表記の直後には

「(あめなる ささらのをのの) ななふすけ てにとりもちて」 (2-1-423歌)

「まそかがみ てにとりもちて」 (2-1-909歌)

「いはひへを いはひほりすゑ」 (2-1-3302歌)

という行動・所作が記されているのに気が付きました。神事の場面場面において「たすきをかける」と冠しています。

 常にたすきを身に着けているのに、何かの行動・所作のたびに、たすきに手を触れるとかたすきの位置を正しているかに見えます。

 このため、その行動・所作を「所作」と称して、表の「文の内容」欄に記しました。「所作」の例示として大伴坂上郎女の2-1-382歌も記します。

 

表 巻十三 2-1-3298歌からの「右五首」にある長歌3首の比較 (2021/2/1現在)

歌番号等

2-1-3298歌

2-1-3300歌

2-1-3302歌

文の内容

2-1-382歌

文A

菅根之 根毛一伏三向凝呂尓 吾念有 妹尓緑而者 (・・・あがおもへる いもによりては)

玉手次 不懸時無 吾念有 君尓依者

(・・・あがおもへる

きみによりては)

大船之 思憑而 木始己 弥遠長 我念有 君尓依而者 (・・・あがおもへる きみによりては)

思う相手

(神を讃える語句)

久堅之 天原従・・・

文B

言之禁毛 無在乞常(ことのいみも なくありこそと)*

 

言之故毛 無有欲得(ことのゆゑもなくありこそと)

願い

 

文C1

 

 

木綿手次 肩荷取懸

所作1

 

文C2

 

 倭文幣乎 手取持而

 

所作2

奥山乃・・・木綿取付而

文C3

齊戸乎 石相穿居

 

忌戸乎 斎穿居 玄黄之

所作3

斎戸乎 忌穿居

文C4

竹珠乎 無間貫垂

竹珠□(偏が口、旁が刀(りっとう))  之自二貫垂

 

所作4

竹玉乎 繁尓貫垂

文C5

 

 

 

所作5

十六自物 膝折伏

文C6

天地之 神祇乎曽吾祈 

(かみをそあがのむ)

天地之 神□(偏が口、旁が刀(りっとう))曽吾乞(かみをそあがのむ)

神祇二衣吾祈 

(かみにそあがのむ)

所作6

手弱女之 押日取懸 如此谷裳 吾者折奈牟

文D

甚毛為便無見

(いたもすべなみ)

痛毛須部奈見

(いたもすべなみ)

甚毛為便無見

(いたもすべなみ)

今の気持ち

君尓不相可聞

注1)歌は『新編国歌大観』による。表示は、巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)各句の次の()内は、同書の訓。

注3)「文の内容」欄は、相手の形容相当文のほかは神事での行動・所作を区分した。注4)「*」は、付記2.参照

 

⑧ 「たすきに手を掛ける」場面に注目すると、長歌3首は、行動・所作を2-1-3298歌から順に3首は、3つ、3つ、2つを詠っていますが、2-1-382歌の5つより少ないです。「たすきに手を掛ける」意の語句は4首のうち一首にのみ用いています。

 既に検討した「たすき」の用例歌である2-1-909歌では複数ある行動・所作のなかから「まそ鏡」を手に取る直前に、また、「ゆふたすき」の用例歌である2-1-423歌では同様に「ななふすけ」を手に取る直前に、この語句が置かれています。

 「たすき」は神事の最中は身に着けているものなので、「たすきに手を掛ける」意の語句は、歌の調子を整えるのにも利用できる便利な、繰り返し行う所作なのではないか、と思えます。

 長歌全体としては、思う相手への思い入れを語る語句から始まり、それぞれ工夫した表現で神に祈る所作を詠い、「いたもすべなみ」と訓む句で歌を終わります。どの歌もみな、諸氏の指摘しているように、作中人物が、室内で神に祈る、という情景が共通です。

⑨ 「襷(たすき)」とは、『例解古語辞典』では「神事の際、供物などに袖が触れないよう、袖をたくしあげるために肩に掛ける紐」と説明し、『世界大百科事典』(第2版)には、「古墳出土の埴輪にたすきをしたものがある。これらはともに巫女が着用した例で,御膳を献ずるのに古くはたすきで腕をつって持ち上げたといい,神への奉仕や物忌のしるしとされていた。古代の衣服は筒袖であったから,たすきは労働用ではなくもっぱら神に奉仕する者の礼装の一部であった」と記しています。現在の祭礼のときの若者の襷や田植え祭りの早乙女の襷などにつながっているそうです。つまり、『萬葉集』の用例でも確認したように、古代は「たすき」とは、紐は紐でも用途が限定された「神事の際の紐」の意であり、それは身に着けて(例えば肩からかけて)使用する紐でした。

⑩ このように神事には常にたすきを身に着けているのに、その最中に、何かと手をやっているのがたすきです。たすきの位置を確認したり、正したりしているのです。

  そして「たすきをかけた」人物は祭主として神に奉仕しているのですから、2-1-3300歌にある「玉手次 不懸時無(たまたすきかけぬときなく)」とは、

「神に奉仕の際に常に気にしないことがないたすきを身につけているように、貴方に真摯で一途な気持ちをいつも捧げている(私)」 (たすきを作中人物の気持ちに、神事を相手に例える たまたすき第1案)

「神事を執り行うのに(奉仕する際に)常にたすきに気を配らないで行う所作があり得ないように、あなたを思っていない時期などがない(私)」 (たすきを相手に、所作をする祭主を作中人物自身に例える たまたすき第2案)

とかの意を、比喩的に言っていると理解可能です。

 さらに、2-1-3300歌は、「玉手次 不懸時(無)」と詠いはじめ、次に神事の次第をかいつまんで表現しており、「たまたすき」の語句から神事の連想が当時なら容易ですのですので、この歌の作者は(もっと厳密には巻十三の編纂者は)、単に動詞「かく」を言い出すだけの役割以上のことを初句~二句に期待していると推測できます。

⑪ 次に、上記③で留意を喚起した四句目の「君尓依者」の部分を、次回に検討します。

 この部分は、長歌3首の神事の描写の前の部分の比較です。

 ちなみに、長歌3首では、相手を万葉仮名で順に、妹、君、君と呼び掛けています。その反歌では相手を順に、公、公、(反歌無し)と呼び掛けています。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 コロナ対策で三密に努力しています。皆さんもコロナに気を付けてください。

(2021/2/1  上村 朋)

付記1. 巻十三 相聞歌の配列について

① 巻十三の相聞歌(2-1-3352歌~2-1-3318歌)を、左注の「右〇首」を単位に、諸氏の論を参考として整理検討する。相聞歌と分類した理由(恋の歌、送別歌)、作中人物の性別、その他特記事項を記す。巻十三に「ゆふたすき」の用例歌2-1-3002歌がありその検討の際(ブログ2020/9/21付け)配列検討を省いていたので、今回行う。2-1-3002歌全体の理解の再確認は別途行う予定。

② 整理の結果、次のことが指摘できる。

第一 相聞歌には「右〇首」が25組ある。各組には長歌が必ずあるが反歌はまちまちである。各組の歌数別にみると、「右五首」が2組、「右四首」が1組、「右三首」が3組、「右二首」が15組、「右一首」が4組ある。最初は「右二首」で始まり、最後は「右一首」が4組続いて終わっている。また、雑歌は15組あって、「右二首」が8組と一番多く、最初と最後にあるのは5組ある「右一首」の各一組である。

編纂者がなぜ「右一首」を最後に配列することにしたのかわからない。

次に、挽歌は9組あって、「右9首」が1組あり、2組ある「右一首」は、途中にある。最初と最後にあるのは5組ある「右二首」の各1組である。

第二 各組筆頭の長歌に、題詞がない。また、相聞歌であるものの、単位の「右〇首」のほとんどが、恋や送別などの当事者の一方のみの立場の歌よりなる。例外は、当事者の両者が掛け合う形となっている長歌であり、3組(2-1-3290歌、2-1-3292歌、2-1-3309歌からの組)と、長歌反歌を互いに当事者の一方だけが詠う2組あるいは3組(2-1-3274歌と2-1-3303歌からの組とあるいはさらに2-1-3298歌から組)の計5組(あるいは6組)だけである。

第三 歌の内容で分けると、恋の歌が23組、送別歌が2組である。

第四 これをみると、「右〇首」とは、一つのテーマがあると思える。恋の歌の組でみると、例えば、大和国で伝承されてきた恋の歌、率直に男が恋する歌、繭隠によせる恋の歌、等。

第五 送別の歌は、相聞の部の二番目の組(2-1-3264歌が筆頭歌である「右五首」)と、16番目の組(2-1-3305歌が筆頭歌である「右2首」)である。

 最初の「右五首」は、官人の地方赴任・渡航の際の送別歌と推測でき、作中人物は妻を含めた送る側の人物(性別不定)の立場である。二つ目の「右二首」は、作中人物は妻の立場となっている。無事にまた逢えることを祈っている。

第六 諸氏の指摘するように、巻十三の元資料は、編纂当時に詠われていた姿の歌であり、元々の歌の姿は推理するほかない。

第七 長歌反歌の組合せは、編纂者の手元に集まった資料通りかどうかも不明である。

第八 雑歌などの配列には、題材となっている国々への配慮が優先しているらしく、相聞歌としてのテーマの配列(恋の進行順など)は不明である。

③ 巻十三相聞歌を「右〇首」別にみると、次のとおり。

 右二首:題詞無しの2-1-3352歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に男の立場か。)

 右五首:題詞無しの2-1-3264歌から5首 (長歌反歌。地方へ赴任する官人の送別歌。各歌みな作中人物の性別は不定。あるいは妻に擬するか。)

 右三首:題詞無しの2-1-3269歌から3首 (長歌反歌。恋の歌。男の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3272歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。女の立場。)

 右三首:題詞無しの2-1-3274歌から3首 (長歌1首と反歌2首。恋の歌。長歌は男の立場、反歌は女の立場。

 右三首:題詞無しの2-1-3277歌から3首 (長歌1首と反歌2首。恋の歌。共に男の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3280歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に男の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3282歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に妻の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3284歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に女の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3286歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に男の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3288歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。共に女の立場)

   右二首:題詞無しの2-1-3290歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。長歌は前半男、後半女の立場。反歌は女の立場。1人寝を悩む歌。長歌は挽歌の部にある2-1-3343歌の後半とほとんど一致。)

 右二首:題詞無しの2-1-3292歌から2首 (長歌反歌。恋の歌。長歌は前半男、後半女の立場。反歌は女の立場。)

 右四首:2-1-3294歌 題詞無しから4首  (長歌2首と反歌2首。恋の歌。4首とも夫を待つ女の立場。反歌とある2首は、元々は別途の歌であり、編纂者が当該長歌反歌とした。)

 右五首:題詞無しの2-1-3298歌から5首 

 (長歌3首 反歌2首。恋の歌。すべて女の立場あるいは長歌反歌で性別が異なるか。反歌とある2首は、元々は別途の歌であり、編纂者が当該長歌反歌に採った。2-1-3300歌は今検討対象の「たまたすき」の用例歌なので細部は保留する。また2-1-3302歌は「ゆふたすき」の用例歌であり、2020/9/21付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌のたまだすき」の「6.⑧」以下で土屋氏の論を参考に検討した。また、付記2.参照)

 右二首:題詞無しの2-1-3303歌から2首。 (長歌反歌。恋の歌。長歌は男の立場、反歌は女の立場。掛け合いの歌となっている。)

 右二首:題詞無しの2-1-3305歌から2首。 (長歌反歌 共に妻の立場の送別の歌)

 右二首:題詞無しの2-1-3307歌から2首。 (長歌反歌 恋の歌。共に男の立場。天武天皇の回想歌(2-1-25歌と2-1-26歌)と類似しており先後関係に論あり)

 右二首:題詞無しの2-1-3309歌から2首。 (長歌反歌 恋の歌。長歌は父母の子への問いかけと子の答えの歌 反歌は子の立場。)

 右二首:題詞無しの2-1-3311歌から2首。 (長歌反歌 恋の歌。共に男の立場 「たまたすき」の用例歌なので、細部は保留)

 右一首:題詞無しの2-1-3313歌のみの1首。 (長歌。 恋の歌。男の立場。 憶良の七夕歌(2-1-1524歌)と共通部分多い。)

 右一首:題詞無しの2-1-3314歌のみの1首。 (長歌 恋の歌。根も葉もない噂を嘆く女の立場)

 右一首:題詞無しの2-1-3315歌のみの1首。 (長歌 恋の歌。捨てた男に訴える女の立場 伊勢の民謡か)

 右一首:題詞無しの2-1-3316歌のみの1首。 (長歌 恋の歌。捨てた男或いは仲を裂いた男を怨む女の立場。紀伊牟婁郡の民謡か。)

 右二首:題詞無しの2-1-3317歌から2首。 (長歌反歌 恋の歌。共に去って行った相手の様子を詠う歌。性別は不定長歌には挽歌説もある。)

 

付記2.「言之禁毛」について

① 2-1-3298歌にある「言之禁毛」の訓に種々論がある。

② 阿蘇氏は、「言之禁毛」は「ことのいみも」と訓む。「言葉の禁忌を侵すこと。たとえ無意識に言ってはならぬことを言ったとしても」の意。「言の忌み」という用例は・『萬葉集』でこの1例のみ。しかし「忌」字を「いむ」と訓む例は3例あり、「何れも口にすることの禁忌である」、と指摘している。

③ 土屋氏は、「ことのさへ」と訓み、「事の支障も」の意。また「或いはコトは言で、世間の風説の邪魔と解すべきかも知れぬ。結果するところは同じである。」、と指摘している。

④「ことのさへ」と訓み、「言のさへ」即ち「言葉によるさわり、障害、呪いなど。」という指摘もある(『日本古典文学大系 萬葉集』など)

(付記終わり 2021/2/1   上村 朋)