わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第19歌 しぐれとたまたすきその2

 あけまして おめでとうございます。上村 朋 です。

 日頃は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 皆様が 本年もご健勝であることを 祈念します。

 前回(2020/12/28)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 しぐれとたまたすき その1」と題して記しました。

 今回、「(同) 第19歌 しぐれとたまたすき その2」と題して、記します。

 (上村 朋)

1.~17.承前

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」について萬葉集で用例を巻九まで検討した。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、多くの場合神事の面影が残っている。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

18.萬葉集巻十の「たまたすき」

① 『萬葉集』巻十にある「たまたすき」の用例2-1-2240歌を、検討します。『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-2240歌 詠雨 

 玉手次 不懸時無 吾恋 此具礼志零者 沾乍毛将行

 たまたすき かけぬときなく あがこふる しぐれしふらば ぬれつつもゆかむ

 

この歌は、二句と三句の訓が複数ありますが、『新編国歌大観』の訓で検討します。

② この歌は、巻十の秋雑歌の部にあり、「詠雨」は15番目の題詞です。

 題詞の配列を検討し、「詠雨」のもとにある四首のうち、この歌を除く3首を、前回(2020/12/28)検討しました(付記1.参照)。

 題詞の配列からは、歌の理解のためには、少なくとも雑歌(付記2.参照)の部にふさわしく、またその題詞のもとにある歌は整合が取れている、という二点が、最小限の要件となりました。

 そして、3首は、恋の歌の意もあるものの、秋の景であるしぐれのふる景を詠う歌であり、かつそのしぐれから生まれた感興を詠う点から、雑歌の部の歌と理解でき、3首の元資料は、作者未詳の労働歌であろうと推測しました。

 これらを踏まえて、この歌を検討します。

③ 阿蘇氏は、この歌を、『新編国歌大観』の訓と異なり、

 「たまだ()すき かけぬときなし() あがこひは(ふる) しぐれしふらば ぬれつつもゆかむ」

と訓み、また、三句でいったん文が終わる、と理解し次のように現代語訳しています。

 「玉だすきを肩に掛けるように、心にかけない時はない、私の恋は。もししぐれが降ったら、濡れながらでも、恋しい人のもとに行こうよ。」

 氏は、三句まで(の一文)と四句以下のつながりが明瞭で、四句以下の表現にふさわしいきっぱりとしていさぎよさが初句~三句にある、としています。この理解は『新日本古典文学大系 萬葉集』・『和歌文学大系 萬葉集』と同じだそうです。

 氏は、相聞に入れてもよい歌であるが、「しぐれを題材とするという前提条件のもとで相聞の情をあらわす歌を創作したという事情が考えられる。詠物歌の類にはいる。」と説明しています。

 しかしながら、相聞の情の歌の創作と認めるならば、題材に拘らず相聞の部の歌としてよい、と思います。

 土屋氏は、阿蘇氏と同じ訓に対して、「タマダスキ(枕詞)心に掛けて思はぬ時はない。それ程までに思ふ吾が恋は、時雨が降るならば濡れながらも妹のところへ行かう。」とし、時雨は「嫌はしきものとして、その時雨に濡れてもなほ、行かうと恋の強さをあらはしたのである。」と説明しています。

④ この歌の三句は、『新編国歌大観』の訓は、「あがこふる」とあり、「こふる」は、上二段活用の動詞「恋ふ」の連体形です。

 このため、三句は、表記を割愛している「きみ」などを修飾しているか、直後にある四句の「しぐれ」を修飾しているか、のどちらかということになります。後者の場合、「あがこふるしぐれ」とは「しぐれ」を「ふる」ものとして詠っているので、人の名、略称とみるのは苦しく、「しぐれ」は何かを象徴・暗喩がある、と推測できます。

⑤ これまでの3首と同じように、この歌を試しに恋の歌として検討してみます。

 第一に、三句が、割愛している「きみ」を修飾している、と仮定します。この場合、三句は省かれても意が通じる歌であり、三句は間投詞、合いの手、とみなせます。

 第二に、三句が四句にある「しぐれ」を修飾している、と仮定します。この場合、三句以降が一つの文となります。

 最初に、前者を検討します。

 この場合、初句と二句のみだけで、作中人物自身が恋の最中、ということがわかります。「かけぬときなく」と連用形で文を切っていても(修飾するべき語句が省かれていても)、十分意を汲み取れます。

 四句と五句も、気まぐれに降る時雨など意に介さない、という趣旨であり、恋の歌なので、これで相手に意を十分訴えている文になっています。

 この歌は、次のような文から成る、と理解できます。三句は上句と下句の両方にかかります。

文A 玉手次 不懸時無  :たまたすき かけぬときなく  (吾が恋の例えその1)

文B 吾恋 :あがこふる (例えば「君」) (確認の語句)

文C 此具礼志零者 沾乍毛将行 :しぐれしふらば ぬれつつもゆかむ (吾が恋の例えその2)

 この歌は、恋の例えに心情的なものと行動的なものを並べることにより、恋している強さを訴えています。

 文Bは、文Aの念押しをし、次いで文Cの念押しをしています。そして、文Bの語句は、例えば、「わぎもこよ」とか「うるわしみ」とか「をみなへし」などに差し替えても同じ趣旨の歌と理解できます。

⑥ 「たまたすき」の意には、これまでの検討で有力な候補が二つありますので、それぞれで文A+文Bの現代語訳を試みます。

 文A+文B第一案 「たすきをかける」という表現で「祭主として祈願する」姿を指す場合:「たすき」が祈願の儀式全体の代名詞あるいは略語。

 「祭主として祈る際には、玉たすきを必ず掛けるように 大切に思い心に懸けているのは貴方。心に懸けないでいるときなどありません、私の恋いしたう貴方。」

 文A+文B第二案 「かける」という動詞の対象に、紐である「たすき」と体の一部位である「こころ」がある場合(「懸く」にかかるいわゆる枕詞)「たすき」は当然かけるものであり、そのように、あなたを私は「心」にかけている意。

 「たまたすきは掛けるものと決まっているように、私がいつも心に懸けているのは、貴方、私が恋い慕う貴方。」

 比較すると、相手を思っていることを強く訴えているのは、たすきを使用する場面の特殊性と同様と示す第一案と思いますが、歌としては文B+文Cの理解とのバランスがとれていることが肝要です。

⑦ 次に文B+文Cの現代語訳を試みます。

 文Cの四句にある助詞「ば」は、動詞「ふる」の未然形についており、仮定の接続詞です。そのため、この歌は、しぐれは降るかどうかわからないが、という前提の歌になっており、五句にある助動詞「む」は、ここでは、実現をめざす意思・意向を表すと思います。しかし、しぐれが来たときの景における行動を詠っており、叙景の歌でもあるといえます。 

 上記⑤の前者(三句が、割愛している「きみ」を修飾している)の場合、文B+文Cの現代語訳は次のとおり。

 「恋しい貴方。だから、時雨が降ったならば、濡れながらでも行きたい(私の気持ちは変わらない)。」

 「しぐれ」は、二人の仲を妨げるものを示唆しているのかもしれません。元資料は、そのような仲になりたいね、と呼び掛ける労働歌であった、とみたところです。

⑧ 次に、上記⑤の後者(三句が四句にあるしぐれを修飾している場合)を検討します。

 しぐれとは、秋の、降ったりやんだりする通り雨のことです。空からきまぐれに降ってくるものです。それを恋の場面で考えると、「時々ある便り」をしぐれは示唆しているのではないか、と思います。この場合、「しぐれ」が「ふる」とは、便りがときどきある意、と理解できます。

「あがこふる」が修飾する「しぐれ」とは、「待ち望んでいる相手から時々頂く便り」を意味しているのではないか。文B+文Cの現代語訳を試みるとつぎのとおり。

「慕わしい貴方。私が待ち望んでいるお便りがしぐれのように時々でもあるならば、その時は雨に濡れながら歩みたいのです。」

 四句以下は、「便りが途切れない限り、私は貴方を信じて待っている」という意が込められた語句ではないか、と思います。

 この場合、「たまたすき」の意として上記⑥の第一案が(歌語として)共通の認識になっていたのならば、その意で用いていると思います。作中人物は男でも女でもあり得ます。

 このように、文A+文Bが第一案でも第二案であっても、文B+文Cが上記⑤の前者でも後者であっても、恋の歌となっています。この歌の元資料は、文A+文Bが第一案となる男女の掛け合いの労働歌であろうと思います。宴席の官人の歌ではないでしょう。

 恋の歌としてはこれでよいかもしれませんが、雑歌である所以が「しぐれ」の景というだけでは弱いです。

⑨ 上記⑤の後者の場合、「あがこふるしぐれ」は、暗喩のある名詞でしたので、この歌は、恋のみに限らず、「しぐれ」という語句が特定の情報を指して用いれば、ある行動を決意したことを伝える歌とも理解できます。

 巻十の編纂者が、相聞ではなく雑歌と整理したのは、元資料に拠らず、「しぐれ」が当事者にとってはいろいろな意を含めることができることを強調したかったのではないか。

 元資料は、恋の歌でよいので、この歌は

「文A+文B第一案」+「文B+文C」

であろう、と推測します。

 しかしながら、恋以外での意を含ませ、巻十の編纂者は、この歌を、文C部分を主とし、文Aを従とした理解を促すべく、

「文A+文B第二案」+(「あがこふるしぐれ」を名詞とする)「文B+文Cが⑤の後者案」

の歌として「詠雨」の4首の1首として編纂者はここに配列したのではないか。

 2-1-2240歌の現代語訳(案)をまとめると、つぎのとおり。

 「たまたすきは掛けるものと決まっているように、私がいつも心に懸けて思っているのは、貴方、私が恋い慕う貴方。私が待ち望んでいるお便りがしぐれのように時々でもあるならば、その時雨に濡れながら歩みたいのです。」

⑩ 秋雑歌の「詠雨」四首の検討が一応終わりました。次に、その配列からの要件を満足するかを、検討します。2-1-2240歌の理解を上記⑨とし、ほかの3首は前回ブログの検討結果(付記1.参照) とします。

 題詞にある秋を示す語句「しぐれ」を中心に、整理すると次の表が得られます。

 

表 『萬葉集』巻十 秋雑歌 「詠雨」にある歌四首の比較  (2021/1/11現在)

歌番号等

秋の雨の状態

作中人物(歌の主人公)

作中人物の行動

注目フレーズ

2-1-2238歌

しぐれ(ふる)

男または女

しぐれをみる

あがこふるいも

2-1-2239歌

しぐれ(ふり)

しぐれに遭ってしまった

ほすひとなしに

2-1-2240歌

しぐれしふらば

男または女

ぬれてもゆきたい

あがこふるしぐれ

2-1-2241歌

(もみちばを)ちらすしぐれ

男または女

しぐれに閉じ込められる

ひとりしぬれば

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻番号―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号

注2)注目フレーズ:歌において、作中人物が気にかけていることを表現している箇所

 

 この4首における「しぐれ」で暗喩があったのは、2-1-2240歌のみです。そしてその歌で、「しぐれ」が「降る」のは仮定の条件でした。 

 この4首の元資料は、みな労働歌であり、集団で掛け合いに用いることができる歌と推測したところです。だから、恋の歌の装いをしています。また、注目フレーズは、2-1-2238歌は2-1-2240歌と同じ構造(ひとつの名詞)ということがわかります。2-1-2239歌と2-1-2241歌も同じ構造(状況を示す語句)です。

⑪ この表を作ってみて、2-1-2241歌は理解が不足していたことに気が付きました。五句「ひとりしぬれば」に二つの意を掛けている点です。すなわち、「独りし寝れば」(下二段活用の動詞「寝」の已然形+原因・理由を表す接続助詞「ば」)のほかに、(しぐれに)「1人し濡れば」(下二段活用の動詞「濡る」の未然形+仮定の助詞「ば」)の意が込められています。

 歌を再掲し、現代語訳を試みるとつぎのとおり。

 2-1-2241歌 (詠雨)
 黄葉乎 令落四具礼能 零苗尓 夜副衣寒 一之宿者
 もみちばを ちらすしぐれの ふるなへに よさへぞさむき ひとりしぬれば 

 「紅葉を散らす時雨の降るにつれて、夜さへ寒いよ。しぐれにあって濡れたならば、独り寝ることになって。」

 「もみちば」は作中人物自身を、「しぐれ」は、相手を意味し、「ふる」のは相手の拒否を意味しています。2-1-2240歌は、「しぐれ」がある(降る)ことは相手が受け入れているという意味があり、2-1-2241歌は対照的な「しぐれ」の意となっています。

 土屋氏の訳をこのように改めます。また上記の表は訂正の必要がありません。

⑫ この表からは、雑歌としての4首は、秋の景である「しぐれ」を詠み、「しぐれ」から発想した別々の歌が配列されている、とみることができます。作中人物の降る雨のもたらすものへの期待がみな異なっています。

第一 気にかかる人がしぐれにあっている歌

第二 自分がしぐれにあったしまった歌

第三 将来、運よくしぐれに自分があった時の歌

第四 将来、運悪くしぐれに自分が閉じ込められた時の歌

 連続した2首が対となって配列されています。検討対象の2-1-2240歌のここまでの理解は、この配列を意識しても同じ理解でよい、と思います。4首で「詠雨」を構成する所以があった、といえます。

⑬ また、「しぐれ」が関わる恋の歌とみると、連続した2首が対となって配列されている、とみえます。

 すなわち、

 第一の歌と第二の歌は、一組の男女の歌ととれますので、作中人物は、2-1-2238歌は女の立場の歌、2-1-2239歌は男の立場の歌となります。室内に居て気が付いたら雨だけど、と詠いかけ、その時雨にあって君を思ったよ、と返事をした歌という相愛の一組に仕立てています。

 第三と第四の歌は、ともに男の立場の歌となります。たとえ時雨てきたとしても行くよと相手に伝え、拒否されてさらに懇願して送った歌という一組です。

 個々の歌の元資料同士の関係を不問にして、このように理解可能な配列になっています。

⑭ 秋雑歌にある歌なので、恋の歌の理解は二の次でよいので、結局、この4首は、次のような意のペアの歌を2組配列している、と理解できます。

 これらは、「題詞の配列から、歌の理解は、少なくとも雑歌の部にふさわしく、またその題詞のもとにある歌は整合が取れている、という二点」の要件を満足し、ここまでの検討結果に反しません。

2-1-2238歌

「一日の間に、幾度も幾度も(時雨が降る)。私が気にしているあの人のいるあたりに、(また)しぐれが来たのが見える(おきのどくに)」 (前回ブログ(2020/12/28付け)の現代語訳(案)の最後の()の内容をシンプルにしました。)

2-1-2239歌

「秋の田仕事の近くの仮の住まいに、しぐれが降ってきて、それで(外仕事のわたしの)衣の袖は濡れてしまった。乾かしてくれる人もいないのに(ちょっとあとならなあ)。」 (初句「秋田苅」という表記に留意しイネが稔っている状況以外の田の状況をも含めたとイメージとし、また、前回の現代語訳(案)の最後の( )の内容を省きました。)

2-1-2240歌

「たまたすきは掛けるものと決まっているように、私がいつも心に懸けて思っているのは、貴方、私が恋い慕う貴方。私が待ち望んでいるお便りがしぐれのように時々でもあるならば、その時雨に濡れながら歩みたいのです。」 (上記⑨に記した現代語訳(案))

2-1-2241歌

「紅葉を散らす時雨の降るにつれて、夜さへ寒いよ。しぐれにあって濡れたならば、独り寝ることになって。」 (上記⑪に記した現代語訳(案))

⑮ この四首を、巻十の編纂者が秋雑歌としたであろう理由を検討してきましたが、このように(秋の景である「しぐれ」から発想した別々の歌と)整理でき、4首に共通の理由があることとなりました。

 さて、2-1-2240歌の「たまたすき」の検討です。

 この歌を、編纂者は秋相聞の部に配列していません。この配列により、文Cをいうための前提が文Aなので、「たまたすきをかける」の意は、簡素化して「かける」ものが2種あると割り切る上記⑨の理解でも良いのだ、ということを、編纂者は提案している、といえます。

 割り切って理解した最初の人物が、巻十の編纂者といえます。それが、巻十編纂時代の「たまたすき」の一般的な理解であったのかも知れません。

⑯ 巻十には秋相聞の部があり、「寄雨」という題詞のもとに2首あります。それが相聞にある理由を確認しておきます。

 2-1-2266歌  寄雨

 秋芽子乎 令落長雨之 零比者 一起居而 恋夜曽大寸

 「あきはぎを ちらすながめの ふるころは ひとりおきゐて こふるよぞおほき」

 阿蘇氏の現代語訳は、次のとおり。

 「萩の花を散らす秋の長雨が降るころはものさびしくて、一人起きていてあなたを恋しく思う夜が多いことです。」

 氏は、独り居のわびしさを訴えた歌とみられるが「初句~二句の表現に悲愁の観念が認められる」と指摘しています。それを強調するならば、雑歌の部に配列する方が妥当であろうと思います。土屋氏は、「女の歌とみえる」と指摘しています。

 長雨は、しぐれと違い、特定の季節とむすびついていない語句です。秋の歌という条件は、「秋芽子乎 令落長雨」で満足していることになります。

 この歌の元資料は、土屋氏の指摘するように、五句の「こふるよ」により、相手の男を誘っている歌ではなかったのか。素直な整理としてそのため相聞の歌として編纂されたのかと思います。

 それは、この2-1-2266歌の一つ前の歌(題詞「寄風」の2首目)の下句「衣片敷 吾一将宿(ころもかたしき わがひとりねむ)」との関係を重視し、「吾一将宿」と「一起居而」とを並置し、「相聞」を強調する配列となっています。また、「ちらすしぐれ」と「ちらすながめ」という語句を同じ題のもとに用いない配慮もある、と思います(この歌の元資料は「ちらすしぐれ」であった可能性が強く、男女の掛け合いの場の歌ではないか)。

⑰ 「寄雨」の2首目を検討します。

 2-1-2267歌  寄雨

  九月 四具礼乃雨之 山霧 烟寸吾胸 誰乎見者将息 一伝、十月 四具礼乃雨降

  「ながつきの しぐれのあめの やまぎりの いぶせきあがむね たをみばやまむ   いちにいふ かむなづき しぐれのあめふり」

 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

 「九月のしぐれの雨が山に霧となって立つように、晴れやらぬこのわたしの胸は、どなたと逢ったら晴れるのでしょう。 ある伝えによると、十月のしぐれの雨が降って」

 氏は、「上三句は四句の比喩的序として巧みである。反語表現も倒置法も用いず単純な疑問の形であらわされているところからすると、もっと漠然とした鬱屈した思いの表出と思われる。」と指摘しています。 また、「別伝は(その構成が)上二句は叙景、三句は枕詞と解され、前の歌同様、晩秋の蕭条とした外界に助長された思いが詠まれていることになる。」と指摘しています。

 その指摘は、(相聞の歌と捉えず)雑歌に配するのがふさわしい、という指摘ともとれます。

 また、元資料は、返歌を期待して相手に呼び掛けた、男女の掛け合いの場の歌か、と思います。

 この歌は、上三句を序とみれば歌の主眼は下二句であり、相手に訴えかけている歌であり、それは相聞の歌です。そのため、序に用いた「しぐれ」に寄って、「寄雨」の題詞のもとの相聞として編纂者は配列したのではないか。

⑱ この2首は、秋雑歌の「詠雨」に追加で配列するには、「秋の景であるしぐれから発想した別々の歌」の一例にならなければなりません。

 2-2-2266歌は、前にある歌(2-1-2265歌)との関係や「長雨」の景であるので追加できないものの、2-2-2267歌は、「すでに自分がしぐれに閉じ込められている時の歌」として追加は可能です。しかし、「詠雨」はペアの歌2首が単位となっているとみるならば、もう一首が必要ですが、相聞の「寄雨」には候補の歌がありません。

⑲ 秋雑歌と秋相聞における雨を題とした歌は、そこに配列している理由が、それぞれありました。

 巻十には、春雑歌などにも雨を題にした歌があります。付記3.に示すように、そこでも季節が同じでも雑歌と相聞は整然と別れていました。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を御覧いただきありがとうございます。

 次回は 巻十一以降にある「たまたすき」の用例を検討したいと思います。

(2021/1/11  上村 朋)

付記1.巻十 秋雑歌の「詠雨」にある歌

① 四首ある。歌は『新編国歌大観』より、その他は前回ブログ(2020/12/28付け)からの引用。

② 2-1-2238歌  詠雨

 一日 千重敷布 我恋 妹当 為暮零礼見
 ひとひには ちへしくしくに あがこふる いもがあたりに しぐれふるみゆ
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出

私の現代語訳(案)

「一日の間に、幾度も幾度も(時雨が降る)。私が気にしているあの人のいるあたりに、(また)しぐれが来たのが見える(私のところもしぐれてきた)。」

 そして、「妹」は、友もいえるので、作中人物は男女どちらの場合も有り得る。また、この歌には「しぐれ」には親などのチェックの意を重ねられる。元資料は労働歌。

しぐれを詠う叙景の歌であり、作中人物がしぐれにあったときの感興を詠う。(同ブログ17.⑧などより)

③ 2-1-2239歌  詠雨

 秋田苅 客乃廬入尓 四具礼零 我袖沾 干人無二

 あきたかる たびのいほりに しぐれふり わがそでぬれぬ ほすひとなしに

 私の現代語訳(案)

 「秋の稲田近くの仮の住まいに、しぐれが降ってきて、それで(外仕事のわたしの)衣の袖は濡れてしまった。乾かしてくれる人もいないのに(ちょっとあとならなあ)。」

 稲刈り前の時雨時の情景だが、「秋田苅」という表記は少なくとも稲刈りを意味していない。作中人物は男。元資料は労働歌。

 しぐれを詠う叙景の歌であり、稲刈り前後の農作業中にであったしぐれからの感興を詠う(同17.⑫&⑭より)

④ 2-1-2240歌 詠雨  (本文に記す)

⑤ 2-1-2241歌 詠雨

 黄葉乎 令落四具礼能 零苗尓 夜副衣寒 一之宿者

 もみちばを ちらすしぐれの ふるなへに よさへぞさむき ひとりしぬれば 

 現代語訳は、土屋氏の訳がよい。

「紅葉を散らす時雨の降ると共に、夜さへ寒いよ。一人ねれば。」

  しぐれは一時の雨であり、断る理由にも、それでも行くと言い募ったり無理しないでと言いつつ誘うことができる雨である。作中人物には男でも女でもどちらも擬せる。元資料は労働歌。

 なお、今回本文(18.⑪)で再検討している。

 しぐれを詠う叙景の歌であり、しぐれがあった場合の思いを詠う。(同 17.⑰など)

付記2.雑歌について

① 雑歌とは、とりあえず「相聞・挽歌の部に属さない歌を収載する部」と定義して検討した。相聞・挽歌以外の要素があるはずの歌が雑歌ということである。

② 『萬葉集』の雑歌の定義の課題について前回のブログ(2020/12/28付け)の付記1.で指摘した。

付記3.『萬葉集』巻十の春雑歌と春相聞にある「雨」を題詞にもつ歌について

① 春雑歌に「詠雨」と題する歌が1首ある。『新編国歌大観』より引用する。 

2-1-1881歌   詠雨

 春之雨尓 有来者乎 立隠 妹之家道尓 此日晩都

 はるのあめに ありけるものを たちかくり いもがいへぢに このひくらしつ

 (阿蘇氏の現代語訳は「春の雨であったのに、妻の家に行く途中雨宿りをして、この春の一日を過ごしてしまった。」 とし、抒情の中心は「このひくらしつ」にある。物憂い気分を詠い、そのため雑歌に置く、と指摘。土屋氏は「実感には遠い、題詠的な作」と評した後再案し、「雨を口実に、妹の家にかくれるやうにして今日一日を暮らしたとすべきではないか」と指摘している。その指摘に従う。この歌は挨拶歌であり、相聞の歌ともいえる。しかし「春の長雨が起点となって発想を得た歌」と捉えて春の雑歌に編纂者は配列しているのではないか。)

② これに対して、春相聞の「寄雨」に配列してある下記の4首の作中人物の行動は雨が直接の原因となって相手に申し開きとか思いを伝えたいのが第一目的である歌であり、発想に焦点をあてず、相手に働きかける行動に焦点をあて相聞の歌と捉えたのではないか。この点で春雑歌にある2-1-1881歌と異なる。

③ 春相聞に「寄雨」と題する歌4首は、次のとおり。

 2-1-1919歌  寄雨 

 吾背子尓 恋而為便莫 春雨之 零別不知 出而来可聞 

 わがせこに こひてすべなみ はるさめの ふるわきしらず いでてこしかも 

阿蘇氏の現代語訳は「私の大切なお方が恋しくてどうしようもなくて、春雨が降っていることも考えずに出て来てしまいましたよ。」 氏も、元資料は春の宴席での官人同士の挨拶歌とみている。)

 2-1-1920歌  寄雨 

 今更 君者伊不徃 春雨之 情乎人之 不知有名国

 いまさらに きみはいゆかじ はるさめの こころをひとの しらずあらなくに 

阿蘇氏の現代語訳は「いまさらあなたは帰って行くことはないでしょうね。あなたを帰らすまいとして降っている春雨の心がわからないことはないでしょうから。」 氏は、官人同士の歌とも解し得ると指摘する。2-1-1919歌とペアであり、元資料は、春の宴席での官人同士の挨拶歌である。諸氏も指摘するように、この2首は、出席理由を詠い歌と引き留めを図る歌。)

 2-1-1921歌  寄雨

 春雨尓 衣甚 将通哉 七日四零者 七夜不来哉

 はるさめに ころもはいたく とほらめや なぬかしふらば なぬかこじとや 

(この時代に、雨の中を外出することを嫌っていた歌は多数ある。吉村誠氏は、春雨を口実に不実を重ねている男をなじった女の歌としている。)

 2-1-1922歌  寄雨

 梅花 令散春雨 多零 客尓也君之 廬入西留良武

 うめのはな ちらすはるさめ いたくふる たびにやきみが いほりせるらむ  

(春の雨をみて、旅に出た夫か恋人を思いやっている歌。初句~二句は秋の景に差し替え可能の歌である。元資料は、男女で掛け合う歌であったか。)

(付記終わり 2021/1/11  上村 朋)