わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次4

 前回(2020/10/12)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次3」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次4」と題して、記します。(上村 朋)(2021/5/17「10.⑫」に追記をした)

 

1.~9.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。ここまで、「恋の歌」であることを3-4-18歌まで確認できた。そして3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」に関して萬葉集巻二にある用例の2首目を検討中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

10.萬葉集巻二の「たまたすき」 その3

① 萬葉集巻二にある用例の2首目は、長歌である2-1-207歌の最後の部分にあります(付記1.及び下記②参照)。

 2-1-207歌の概略を前回検討し、配列から一組の歌と理解できる2-1-207歌~2-1-209歌について、「歌本文における妻」を題詞記載の「柿本朝臣人麿妻」と見るかどうかは別にして、つぎのように理解したところです(前回のブログ(2020/10/12付け)の9.⑱)。「たまたすき」と言う語句の検討も、これらを前提にして行います。

 第一 巻二の編纂者の配列に従うものの、2-1-207歌の題詞を無視して整合をとって理解しようとすると、次のようになるのではないか。

長歌2-1-207歌において、急死の妻はそれでも満足して山に(あの世に)行った、と詠い、2-1-208歌で反語的に妻と一緒にはもう居ることができないのだと詠い、2-1-209歌でやっと亡き妻を追憶できる状態(あの世に妻は落ち着いた)と詠っている。長歌1首とそれに続く短歌2首は、一連の挽歌と理解してもらうよう配列してある。

 第二 葬儀のメインである儀礼を詠った歌ではなく、悲しむ気持ちを詠った歌(「泣血哀慟」の歌)である。

 第三 「軽」とかは、入れ替え可能な固有名詞である。

② 「玉手次」の語句のある長歌の最後の部分を、『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-207歌  柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首 并短歌

 「・・・吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 独谷 似之不去者 (為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴 (或本、 有謂之、名耳 聞而有不得者句))」

 「・・・わぎもこが やまずいでみし かるのいちに わがたちきけば  たまたすき  うねびのやまに なくとりの こゑもきこえず たまほこの みちゆくひとも ひとりだに に(似)てしゆかねば (すべをなみ いもがなよびて そでぞふりつる (或本有、 なのみを ききてありえねば))」

③ 阿蘇氏は、次のような現代語訳を示しています。

 「・・・生前妻がいつも出て見ていた軽の市に出かけて行って、耳をすましていると、玉だすき、畝傍山に鳴く鳥の声同様、なつかしい妻の声も聞こえず、道を行く人も一人も妻に似た人はいないので・・・」

 そして、語句を次のように説明しています。

・軽:地名。現在の橿原市大軽・見瀬・石川・五条(野)あたり。下つ道の一部。橿原神宮駅の東を南北に走る道の一帯。

・軽の市:河内の餌香の市と並んで、日本最古の市のひとつ(『国史大辞典』)。下つ道と山田―雷―丈六の道との交点付近にあったらしい(平凡社『世界大百科事典』)。

・玉手次:畝傍にかかる枕詞。タスキは、うなじにかけるので類音のウネにかける。

畝傍山大和三山の一つ。(標高)199メートル。

 土屋氏は、つぎのように説明しています。

・玉手次:既出 (畝火にかかる枕詞)

・畝傍乃山尓 喧鳥之:次の句「音母不所聞」の「コヱ」をいうための序。鳥の声が聞こえないという実際の叙事ともとれる。

④ 最初に、この歌で詠われている地名の軽と畝傍山の位置関係を、確認します。

阿蘇氏が指摘している(当時の)軽とには、現在国道169号が直線で南北に走っています。下つ道はそれに重なるルートの道と言われています。また、下つ道は、藤原京との関係でいえば京内にとりこまれた道です。

 国道169号と並行して近鉄橿原線が、国道の西側を同じく南北に走っています。さらにその西にあるのが畝傍山(山頂)です。国道とその頂とは、一番近いところで直線距離が1000m程度あります。その裾野が水田化できず当時は林のままであるので、それらを含めて畝傍山と称して作者の人麿が用いたとしても、近鉄橿原線は平坦なところを走っていますので、そこまでは畝傍山と称していないのではないか。その畝傍山の裾野は当時の軽にまで届いていません。ちょっと距離があります。

 だから、軽の地で、当時の畝傍山の裾野で鳴く鳥の声が聞こえたのは大集団になったとき聞こえたかどうかです。それでも、ねぐらを特定の林に定めた鳥が人家の集まるところを餌場と心得ていることは今日も同じですから、軽や軽の市には多くの鳥が来ていたこととなります。

 当時の集落にとり薪をとる林は重要でしたから、畝傍山やそれより軽に近い山などは身近な存在です。

 当時の軽の、畝傍山をはじめとした周囲の山との関係は、このように想像できます。

⑤ このため、「畝傍乃山尓 喧鳥之」とは、「畝傍の山で鳴きそして軽に鳴きながら通っている鳥の」と理解ができます。次の句「音母不所聞」は「声も聞こえない」の意であり、阿蘇氏が現代語訳しているように、「妻の声に接することがない」意をも重ねている表現です。妻の声を求めたのは軽の市に集まる人々のなかに、です。餌場と心得て飛来する鳥は、市に集まる大勢の人々をも指しているでしょう。

⑥ しかしながら、人が集まることの比喩は近くの山(例えば畝傍山)から来る鳥というだけでも十分に思えます。それに加えて「たまたすき」と(その鳥ではなく、ねぐらである)畝傍山に冠する理由は何でしょうか。

 まず、畝傍山が作者や妻にとりどのような山なのか。当時の葬法は、庶民であれば風葬であろう、と思います。そうすると身近な畝傍山の一画は(軽に一番近い山ではありませんが)風葬の地の可能性があります。

 そして、畝傍山が主役の文として理解すると、鳥は死者の使いではないか。

 畝傍山は畏敬すべき山と認識するときは、何らかの修飾をしてもよい場合もある、と思います。その理由は後程の検討としてそれが枕詞になることもあるでしょう。

 また、「たまたすき」からアプローチすると、以前、2020/9/28付けのブログの「7.萬葉集巻一におけるたまたすきの用例」の⑫で、次のように私は指摘しました。

「たま」と形容した「たすき」を「掛ける(懸ける)」という表現は、「祭主として祈願する」姿を指し示しています。そして、「みそぎ」と同様に、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞の意の可能性が「たまたすき」に生じ得ることになります(確認を要することの一つとなります。)」

 この意味の「たまたすき」が、この歌に用いられているかは検討の価値があると思います。

⑦ このため、諸氏のいう類音により「たまたすき」を枕詞とみる案と儀式の案とを検討します。

 「たまたすき」を含む歌本文部分について、動詞に注目するとその構成は、次のように理解できます。

 第一案 

文A1 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 (妻の行動 文B1以下の行動の場面設定 )

  (わぎもこが やまずいでみし かるのいちに)

文B1 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞

 (軽の市での作者(ら)の行動1とその結果)

  (わがたちきけば たまたすき  うねびのやまに なくとりの こゑもきこえず)

文C 玉桙 道行人毛 独谷 似之不去者    (同上の行動2とその結果)

  (たまほこの みちゆくひとも ひとりだに に(似)てしゆかねば)

文D 為便乎無見        (行動の結果の作者の省察・感慨)

   (すべをなみ)

文E 妹之名喚而 袖曽振鶴  (同上の行動3)

  (いもがなよびて そでぞふりつる)

 

 第二案 

文A2 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者

 (妻の行動と自分の登場 文B2以下の行動の場面設定 )

文F 玉手次             (感慨)

文B2畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞     (軽の市での作者(ら)の行動1とその結果)

文C 玉桙 道行人毛 独谷 似之不去者    (同上の行動2とその結果)

文D 為便乎無見            (行動の結果の作者の省察・感慨)     

文E 妹之名喚而 袖曽振鶴   (同上の行動3)

 

⑧ 両案は、次のように理解できます。

 第一案の場合、「玉手次」(平仮名表記で「たまたすき」)は、「畝傍山」を修飾する語句とみています。

 大勢の人に逢えるところに行き、(文A1)

 (妻を)聞きまわり探したがダメ、(文B1)

 市などを見てまわり(妻を)探したがダメ、(文C)

 それでも(文D)

 (妻に)呼び掛け袖を振った (その結果を歌本文に記していない)(文E)

 

 第二案の場合、「たまたすき」は、一つの「行為(と予想)」の略称の語句とみています。

 大勢の人に逢えるところに行くこととし、(文A2)

 事前に祈願ところ(文F)

 聞き耳を立てたが(妻の)使いの鳥も来ない、(文B2)

 市など見てまわり(妻を)探したがダメ、(文C)

 それでも(文D)

 (妻に)呼び掛け袖を振った (その結果を歌本文に記していない)(文E)

 

⑨ 第一案の理解には、「たまたすき」が、「畝傍山」を修飾する積極的な理由がほしいところです。そして第二案を積極的に否定できる根拠があればもっとよい。

 第二案の理解は、「たまたすき」が略称となる行為が、妻を弔う儀式の中で十分意味があってほしいところです。

 文の構成をみると、歌で対になっているのが、「音母不所聞」と「似之不去(者)」の否定形の二つの語句です。この二つの行為の結果を、肯定形の「袖曽振鶴」でダメ押ししています。対の句の前にある肯定形の「吾立聞(者)」を、「音母不所聞」と不可分と捉えるか、対の行為が生じる前提として「市に自分は来ている」ということを言っていることと理解するかにより、この2案となります。

⑩ 第一案より検討します。「たまたすき」と「畝傍山」の関係を、『萬葉集』において、確認します。

 清濁抜きの平仮名表記の「うねひ(の)やま」と句頭にある歌は、『萬葉集』には7首しかありません。そのうち「たまたすき」と冠した歌は4首だけです。題詞と左注を信頼し、また万葉集の成立が4段階に分けられると言う説に基づき、作詠(披露)時点を推測(付記2.参照)し、その順に示すと、つぎのとおり。

「たまたすき」と冠する歌 4首

2-1-29歌 690~694年 (藤原京遷都の式典等で披露された歌) 人麿作

2-1-207歌 680~715年 (人麿没等以前) 人麿作

2-1-546歌 724年(神亀元年)  笠金丸作

2-1-1339歌 725年 (巻七の作者未詳歌)  よみ人しらず

「たまたすき」と冠しない歌 3首

2-1-13歌 667年 (近江遷都前 ) 天智天皇

2-1-52歌 694年 (藤原京遷都の式典 ) よみ人しらず

2-1-4489歌 756年 (左注による)  大伴家持

⑪ これを見ると、2-1-207歌は、最早では二番目の歌(680~715年)であり、一番目は大和三山を詠う天智天皇の歌2-1-13歌(667年)、三番目は2-1-29歌(690~694年)となります。

 しかし、二番目を最遅の推測をとれば2-1-207歌は三番目になります。二番目と三番目は、人麿作の歌であり、かつ「うねひ」と詠っており、彼の創作活動如何で順番が変わる、という関係になっています。

 2-1-207歌は風葬の葬列を詠む伝承歌の流れの中にあることがあることがわかっています。伝承歌は上記に推定した作詠(披露)時点以前に(まったく同じ歌ではないとしても)流布されていた歌の可能性がありますが、何ともいえません

 2-1-29歌は、神武天皇の宮の由来を詠うなどからみれば伝承歌ではなく、具体の目的があって創作した歌です。そのため、人麿が、2-1-207歌を殯宮のための歌創作の資料として目にしたとすれば(元資料が伝承歌であればその可能性は高い)、「たまたすき」の語句の有無にかかわらず、かならず参考にしたと思います。

⑫ 「たまたすき」と冠する歌は、あと2首あります。

 2-1-546歌は、19日間の行幸において、都を出発して奈良盆地を離れ紀伊国に入る景を叙するのに地名(軽)・山名(畝傍山)・国名(紀伊)の順に並べいわゆる枕詞をすべてに冠して真土山の峠を詠っています。作者は畝傍山神武天皇との関係は意識していません。

 この歌を、諸氏は、「行幸途中でのくつろいだ場での誦詠が目的の創作」と指摘しています。都で留守をしている女性の心情を、後を追ってゆこうと幾度も思うが関守に問われたらと足が止まってしまう、と詠います。夫の無事や強い思いを詠っていません。神に祈る姿勢が歌にはありません。単なる類音の枕詞と思われます。

(追記:2021/5/17:別途この歌を検討している。単なる枕詞ではなかった。2020/11/2付けブログ参照)。

⑬ もう一首の2-1-1339歌は、恋の歌ばかりがならぶ巻七の譬喩歌の部にあります。そのなかの「寄山」と題した歌5首の最後の1首がこの歌です。

 諸氏の多くは、「山」を(恋の相手として選んでしまった)高貴な女性の比喩とみています。しかし、4首までの歌にある「山」は、みな、おそろしいとか近づきにくいという山であるので、娘の監督が厳しい親とかその屋敷を指しているのではないか。つまり恋の邪魔をする者たちを例えているという理解が妥当です。

 五首目のこの歌で、「雲飛山」を『新編国歌大観』の新訓も「うねびのやま」と訓んでいますが、4首までの山々に例えていた厳しかった状況を「雲が飛んでいるかの山」と作者は(正確には編纂者が)評価し直している、と思います。それは、恋に進展のあったことを示唆しています。2-1-1339歌は、ようやく相手に逢えて約束ができたことを詠っている歌です。「雲飛山」は、遠いけれど「近づきにくさ」は消えたことを示唆して、「寄山」の歌が終わっています。

 譬喩歌での題詞「寄山」に5首配列しているのですから、一つのストーリーのある歌群であると強く意識して、このように理解して良い、と思います。

 「雲飛山」を「うねびやま(畝傍山)」と訓めば、「近づきにくい山」が穏やかな山に替わった(親が許してくれた)ので、五句で「吾印結」となった、と詠っている、と理解できます。しかし、5首目だけ特定の山名に限定しているのが解せません。だから、「うねひ」の用例とみなくともよいのではないか、と思います。(五句にある「結」には、「約束を取り交わす」意もあります。「印」を「しめ」と訓むことの検討は割愛します。)

⑭ 視点を変えて神武天皇が関わる歌を見ると、長歌である2-1-29歌と2-1-4489歌の2首があります。

 2-1-29歌は、「・・・たまたすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ・・・」

 2-1-4489歌は、「・・・あきづしま やまとのくにの かしはらの うねひのみやに・・・」

と詠み、五七調に整えている中に神武天皇への尊敬があり、ともに妥当だと思います。

 また、大和三山を詠っている2首のうち2-1-13歌は、神武天皇の事績を関与しているとはみえません。2-1-52歌(藤原宮御井歌)も同様であり、藤原宮を寿ぐ歌です。

⑮ 「うねひ(のやま)」とある歌は、このようにみてくると、「うねひ」に「たまたすき」を冠する必要性は、神武天皇を詠う歌以外の歌にはずっと少ない歌ばかりである、といえます。

 だから、第一案の「たまたすき」は、歌の語調のための単なる類音による挿句というほかないかのように思えます。

2-1-207歌が里の名も山の名も入れ替え可能な葬列の歌とすれば、「畝傍山」を用いるときにだけそれに冠する語句を用意するのは特別である、ということになります。それよりも、山の名に関わりなく「たまたすき」が(類音以外の)意義のある語句として用いられているという推測が妥当です。『萬葉集』の元資料の歌に既に用いられていたのではないか、という推測です。

 この世からあの世に行く妻が満足して向うようにと祈って葬列に加わった、という行為を略して「たまたすき」の一語で言ったと理解すれば、この歌が葬列の行き着く山の名に差し替えられる伝承歌である、といえます。

 このような推測からは、この歌は、第二案として元資料の段階から詠まれている、ということになります。

⑯ 2-1-29歌は藤原京への遷都にあたり公的に求められた歌であり、2-1-207歌は、題詞を信頼してもそのような要請があった歌とは認められません。

 私は、2-1-29歌について、「初代の神武天皇を荘厳する必要があり、「ゆふたすき」を「肩に懸ける」という用例から(と)肩近くの「項」と「畝傍」の「う」が共通であることから、(人麿が)新例を開いたのではないか」、そして「「たすき」と言う語句を、特別の方に用いるにあたり接頭語の「たま」をつけ」た」、と2020/9/28付けブログ(7.の⑱)で指摘しました。この考えは、2-1-207歌には当てはまりませんが、新例の違和感を和らげるためには利用できる歌です。2-1-207歌の元資料が軽の地に居た人物の風葬での歌であると、畝傍山がその地であったかどうかが、その距離間から気になりますが、山の名の入れ替えたのが2-1-207歌であるかもしれません。

 『萬葉集』の巻一も巻二も天皇の代の順に配列し、編纂者は、公的な(かつ天皇家に関わる)歌を多く配列しています。2-1-29歌は、2-1-207歌より重きを置かれているはずです。

 巻二の挽歌の部に,私人の挽歌を配列する理由があると思います。その一つに公的な歌の補強があり、2-1-207歌は、「たまたすき」の意が重視されての配列だと思います。元資料がどうであろうと、2-1-29歌の補強の役割を作者の人麿に擬してでも編纂者は担わしたと思います。

⑰ 以上のような検討から、2-1-207歌は、2-1-29歌のための歌なので、第二案の理解をしたい、と思います。

 この部分の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「軽の市に、私は立って聞いたが、玉たすきを掛け、神に祈ってから市に来たので、畝火乃山から軽に鳴きながら飛んでくる使いの鳥の声は聞こえず、市に集まっている人々のなかに、(妻に)似たような声も聞こえなかった。ほかに確かめようもなく、(直接)妻の名を呼び袖を振ったのだった(別れはつらいが妻は逝ったのだ、と実感する。無事あの世に行ってくれたのだ。)」

 

 この理解は、続く短歌が山を詠んでいるのと平仄があい、上記①で引用した前回のブログ(2020/10/12付け)での理解と一致しています。即ち、この歌の題詞のもとの歌3首(2-1-207~209歌)は、満足して妻が逝ったことを確認しています。

 今回の検討で前提としている「2-1-207歌の題詞を無視する」とは、具体にはこの歌が人麿の妻の葬礼の歌であるかどうか、ということでした。題詞の訓みかたでそれも解決しますが、ご意見を頂きたい点です。

⑱ 一巻の2首にある「玉手次」には、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っていましたが、二巻の用例も同じことになりました。

 巻二の用例を整理すると、次のようになります。巻一も再度記します。最左欄の表題は、さらに適切な「表記」に改めます。

表 「たまたすき」の表記別一覧 (巻一及び巻二)  (2020/10/19 現在)

表記

次の語句

該当歌番号

詠っている場面

 

珠手次

か(懸)けのよろしく(・・・うれしい風が)

  5

希望・期待の例示(例示のようにうれしい風がふいた)

 

玉手次

畝火之山の (橿原乃日知 )

 29

神武天皇の名を詠いだす

 

玉手次

か(懸)けてしのはむ

199

殯宮での行事で高市皇子をこれからも偲ぶと詠う

 

玉手次

うねびのやまに(なくとりの こゑもきこえず)

207

妻が無事に出立する葬列を詠う

 

注)該当歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号

 

⑲ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集か恋の歌集か・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は『萬葉集』巻三以降の「たまたすき」の用例を検討します。

 (2020/10/19   上村 朋)

付記1.『萬葉集』 2-1-207歌 (『新編国歌大観』より 一部割愛)

 2-1-207歌  柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首 并短歌

  天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 ・・・将言為便 世武為便不知尓 声耳乎 聞而有不得者 吾恋 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 独谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴 (或本、 有謂之、名耳 聞而有不得者句)

『新編国歌大観』の新訓はつぎのとおり。

 「あま(天)飛ぶや かるの道は わぎもこが さとにしあれば ねもころに みまくほしけど やまずゆかば ひとめをおほみ・・・いはむすべ せむすべしらに おとのみを ききてありえねば あがこ(恋)ふる ちへのひとへも なぐさもる こころもありやと わぎもこが やまずいでみし かるのいちに わがたちきけば  たまたすき  うねびのやまに なくとりの こゑもきこえず たまほこの みちゆくひとも ひとりだに に(似)てしゆかねば すべをなみ いもがなよびて そでぞふりつる (或本有、 なのみを ききてありえねば)」

 

付記2.萬葉集で句頭が「うねひ」または「はかひ」と清濁抜きの平仮名表記できる歌

① 「うねひ」が7首、「はかひ」が3首ある。下記の表のように、「はかひ」には、「春日なる はがひのやまゆ」と詠う歌がある。

② 「うねひ」の歌の作詠(披露)時点を推計すれば、表の「作詠(披露)時点」欄のようになる。推計は下記の⑤に基づく。

③ 「たまたすき」と冠する「うねひ」の歌で一番早い推計は最早で2-1-207歌の680年となり、最遅で2-1-29歌の694年となる。どちらも作者は人麿である。

④ 「たまたすき」と冠していない「うねひ」の歌で一番早いのは2-1-13歌で667年

⑤ 作詠(披露)時点の推計は、題詞と萬葉集4段階成立論(付記3.参照)による。

表 萬葉集歌の句頭において、「うねひ」または「はかひ」と清濁抜きの平仮名表記できる歌の作詠(披露)時点の推計結果   (2020/10/19 現在)

表記

歌番号

題詞  <作者>

作詠(披露)時点

うねひををしと

13

中大兄近江宮御宇天皇三山歌一首 <天智天皇

667近江遷都前*

たまたすき うねひのやまの かしはらの ひじりのみよゆ

29

過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌  <人麿>

690~694藤原京遷都の式典等*

 

うねひの このみづやまは

52

藤原宮御井歌 <作者未詳**>

694藤原京遷都の式典*

たまたすき うねひのやま

207

柿本朝臣人麻呂妻死之後泣血哀慟作歌二首 并短歌 <人麿>

680~715(人麿没等以前)*

たまたすき うねひをみつつ

546

神亀元年甲子冬十月幸紀伊国之時為贈従駕人所誂娘子作歌幷短歌一首 笠朝臣金村 <笠金村>

724年10月(神亀元年

たまたすき うねひのやま

1339

寄山 (五首あるうちの最後の歌)

<作者未詳**>

725以前(巻七の作者未詳歌)*

かしはらの うねひのみやに

4489

喩族歌一首幷短歌 

大伴家持

756(左注より)

はかひのやまに

210

「柿本人麿妻死亡後泣血哀慟作歌二首并短歌二首」

680~715(人麿没等以前)*

 213

「或本歌曰」

680~715(人麿没等以前)*

はかひのやまゆ

1831

詠鳥 <作者未詳>

725以前*

注1)歌は『新編国歌大観』記載の『萬葉集』による。歌番号は、当該歌集での歌番号

注2)<作者>の注記(**のある歌):歌本文(3首)

 2-1-52歌(抄): 八隅知之 和期大王・・・春山路 之美佐備立者 畝火乃 此美豆山者 日緯能 大御門尓 弥豆山跡 山佐備伊座 耳為之・・・

訓:・・・はるやまと しみさびたてり うねびの このみづやまは ひのよこの おほきみかどに みづやまと やまさびいます みみなしの ・・・

 2-1-1339歌(抄):・・・ 玉手次 雲飛山仁 吾印結

   訓:・・・ たまたすき うねびのやまに われしめゆひつ

 2-1-1831歌:春日有 羽買之山従 狭帆之内敝 鳴往成者 孰喚子鳥

訓:かすがなる はがひのやまゆ さほのうちへ なきゆくなるは たれよぶこどり

(この歌の羽買之山は春日の地にあり、軽の近くの畝傍山を指していない)

注3)作詠時点の推計の注記(*のある事項)

 2-1-13歌:大和三山が見える地を詠うので近江遷都(674)以前と推定。

 2-1-29歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」(2020/9/28付け)の付記1.の③~⑤で検討。萬葉集成立4段階説に合致している。

 2-1-52歌:藤原京を褒める歌なので、遷都(694)の式典に披露したか。萬葉集成立4段階説に合致する。

  2-1-207歌:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」(2020/9/28付け)の付記1.の⑤と萬葉集成立4段階説による。

 2-1-1339歌:巻七の作者未詳歌なので、巻七成立時点より1世代前と仮定した。即ち725年以前(755年-30年)

  2-1-210歌&2-1-213歌:2-1-207歌と同時期と推定

 2-1-1831歌:巻十の作者未詳歌なので、巻十成立時点より1世代前と仮定した。即ち725年以前(755年-30年)

 

付記3. 萬葉集成立論

① 万葉集の成立が4段階に分けられると言う説に基づき、それぞれの成立時点を作詠時点とする。

② 巻一の1~53歌:関与した持統天皇の譲位時点には成っていたとして、697以前に作詠したと整理する。なお、持統天皇薨去は大宝2年(703)である。また、柿本人麻呂の歌で年代が確実なのは、持統天皇3年(689)~文武天皇4年(700)まで(持統天皇の即位から譲位前まで)である。

③ 巻一の53歌以降~巻二増補:関与したとされる元明天皇の譲位時点には成っていたとして、715以前に作詠したと整理する。関わったとされる太安万侶は養老7年に『古事記』を献上している。

④ 巻三~十五:関与したとされる元正天皇の譲位には成っていたとして、724以前に作詠したと整理できない。同じようにかかわったとされる大伴家持は養老2年(718)生れであるので、防人の歌を蒐集したと思われる時点(難波で防人の検校にかかわった時点)である天平勝宝7年(755)と整理する。

⑤ 巻十六は一括して次の成立時点とする。巻十六~巻二十:万葉集最後の歌の詠まれた時点として、天平宝字3年(759)とする。

(付記終わり 2020/10/19   上村 朋)