わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 筆頭歌と最後の歌 萬葉集巻三配列その21

 前回(2022/10/10)のブログに引き続き、萬葉集巻三の配列について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 筆頭歌と最後の歌 萬葉集巻三の配列その21」と題して、巻三の雑歌全体を検討します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~33.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係を判定して表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そのうち「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれ、それ以外の歌もその各グループに分けられることを確認できました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

34.巻三雑歌の筆頭歌と最後の歌を比較する

① 巻三の雑歌に配列されている各歌ごとの検討が終わりました。巻三の雑歌という部立てにおいて、『古今和歌集』の部立てに見られるような筆頭歌と最後の歌に特別な寓意があるかどうかを、確認します。歌は題詞のもとにあるので、巻三雑歌の「最初の題詞とそのもとにある歌」と、「最後の題詞とそのもとにある歌」が対になっているかを、確認することになります。

萬葉集』は、何回かの編纂時期があり、最終的に現在みる形になっています。この確認は、巻三の最後の編纂者の編纂意図に関する知見です。最後の編纂者は、巻三雑歌の筆頭歌も選び直しているかも知れませんし、同時に巻一の歌も再確認し編纂した後『萬葉集』を後世に託しているかも知れません。このため他の巻の検討の一資料となるかもしれませんが、基本的にほかの巻の編纂意図の確認は別途の課題です。

② 巻三雑歌において、最初と最後にある題詞と歌は、次のとおり。

 最初の題詞とそのもとにある歌

  2-1-235歌  天皇御遊雷岳之時柿本人麿作歌一首

   皇者 神二四座者 雷之上尓 廬為流鴨

   おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほらせるかも

  (参考) 2-1-236歌  右或本云、献忍壁皇子也。

   王 神座者 雲隠 伊加土山尓 宮敷座

   おほきみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます

 

 最後の題詞とそのもとにある歌

  2-1-391歌 羈旅歌一首 并短歌

   海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師

   わたつみは くすしきものか あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし ゐまちづき あかしのとゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ しほさゐの なみをかしこみ あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たきのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし

 

2-1-392歌

   嶋伝 敏馬乃埼乎 許芸廻者 日本恋久 鶴左波尓鳴

   しまづたひ みぬめのさきを こぎみれば やまとこほしく たづさはになく

   (左注あり) 右歌若宮年魚麿誦之。 但未審作者

 

③ これまでの検討(付記1.参照)では次のような歌でした。

 最初の題詞をみると、「天皇」とあり一人の特定の天皇ではありません。作者人麿が仕えた可能性のある天皇すべてが該当可能です。壬申の乱を経て誕生した天武系の初代である天武天皇のほかに持統天皇文武天皇までに可能性があります。この題詞のもとにある歌本文は、行幸の景を人麿が詠う歌と理解できます。この歌は題詠であり、公的な儀式やその後の宴席での披露を前提にした歌ということに題詞がしていると理解したところです。

 土屋文明氏は、「天皇を神と信じたのは当時の信仰」であり、初句~二句(皇者 神二四座者:現人神と捉える)は「人麿の創意とは考えられない」と指摘しています。また、神は全知全能の唯一神ではないことも指摘しています。なお、土屋氏は、最後の題詞・歌との対比を論じていません。伊藤博氏も同じです。

 聖武天皇の御代からみれば、初代の天武天皇に必ずしも拘らず、会ったことがない昔の天皇(複数)を讃えた歌ということに編纂者は仕立てています。

④ 最後の題詞をみると、作者名を省き「誰」の羈旅なのかを、あいまいにしています。最初の題詞と同じく対象人物が特定できない題詞です。

 歌本文は、長歌が大和からある人物を船で迎えにゆく際の歌であり、反歌はその人物による乗船後の大和への思いを詠う歌です。この2首(の歌群)に込められた暗喩は、律令体制の再出発、新たな皇統の出現を祝うこととみることができます。

 土屋氏は、歌本文を、「純粋の詩とみればむしろ雑駁に近いもの」であり「常識的には航海者が口ずさむに適する」と評しています。

 それが元資料の歌の意でしょうが、巻三雑歌にある歌としてみると、無名の人は有名な人の仮の姿という捉え方が可能でもあるので、最初と最後にある題詞とそのもとにある歌とは、共に、直接天皇を詠っている、という共通点があることになります。

⑤ 巻三雑歌にある歌として、検討してきた天皇の代(4つのグループ)ごとの対比が当然ありますが、最初の題詞とそのもとにある歌を、最後の題詞とそのもとにある歌は、天武系の天皇の草創期の歌と天智系の天皇の草創期の歌という捉え方ができます。

 既に神とみなされる業績のある天皇と単に期待されているあるいは事を成そうと意気込む天皇を対比しており、ともにある時代の初めを詠っています。

 そして、後者も、次には国見をするであろうから最初の題詞に戻ることになります。天皇の統治が永遠であることを象徴しているかのようです。

 このような理解が可能な対になっている、と思います。

 そうすると、最後の題詞に登場する人物の時代の隆盛を予祝している、という理解が、「純粋の詩とみればむしろ雑駁に近い」歌に可能になっています。

 そして、最後の題詞にある歌として、伝承歌から、長歌反歌に仕立てられる二首を選んで、官人の期待を担っている天皇というイメージも盛り込んでいるかに見えます。

35.巻三雑歌の4グループの比較する

① 巻三雑歌の検討で用いた天皇の統治と歌との関係分類は、収載されている歌が詠われている状況について天皇の統治行為中心に整理した(ブログ2021/10/4付け「4.②」参照)のものが基礎となっています。巻一と巻二にも適用して検討したところです。

 巻一はすべて雑歌の部立ての歌ですが、標目をたててグループ化して歌を配列していました。天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻と言えます(ブログ2021/10/4付け「4.③」参照)。

 巻三の雑歌の部立ての歌も4つのグループに別けて配列されていることが分かりました。

② 関係分類「A1~B」の歌による4つの歌群(グループ)の各筆頭歌は何を詠っているか、を改めて確認すると、

 第一グループ:(2-1-235歌) 今上天皇の国見 (明日香浄御原宮を想定できる位置での国見)

 第二グループ:(2-1-290歌) 今上天皇の次の天皇と目される人物の行幸期待 (宮は不明)

 第三グループ:(2-1-315歌) (第二グループで次の天皇と目された)今上天皇の造都 (難波宮

 第四グループ:(2-1-378歌) (寧楽宮で統治されるはずの未来の天皇の即位に伴う)吉野への行幸準備 

となります。

 作者は、順に 人麿、石上卿、赤人、湯原王です。最後の湯原王は、就かれた官職が『続日本紀』に記載のない伝未詳の方ですが、志貴皇子の孫にあたる人物だそうです。

③ 第一グループに属する天武天皇は、日本列島各地の政治勢力の中央集権的統一をして強固なものとした方で、明日香浄御原宮を造営し、次いで中国に倣った藤原京を造らせています。(天武天皇5年(676)是歳条に「将都新城」、同11年3月甲午朔に「少紫三野王及宮内官大夫等遣于新城。令見其地形。仍将都矣。」)

 第二グループに属する元明天皇は(唐の長安に倣う天子南面思想に改めた初めての都として)平城京を造都しています(和銅元年2月15日条の詔)。

 第三グループに属する聖武天皇は、副都として難波京を造営しました。その後天平16年(744 即位後22年目)2月26日遷都の詔が『続日本紀』にあります(さらに翌天平17年1月1日年、難波京から紫香楽宮へ遷都し、その後平城京に遷都しています)。

 そうすると、第四グループに属する天皇は、将来の天皇であり「寧楽宮」に居られる天皇という位置付けになることになります。

④ 「寧楽」とは、漢文(中国文)の文脈では、「安んじ楽しむ」意です(『角川大字源』)。『墨子』の「尚賢中」篇の「寧楽在君 憂惑在臣」(寧楽は君に在りて憂慼(いうせき)は臣に在り)を例にあげています。(聖王の時代を例にあげ君臣の間が親密であったことを指している章句です)。(ブログ2021/10/18付け「6.③」参照)

 ちなみに、「平城」とは、中国の漢代の県名にあります。今の山西省大同市の東にあたり、漢の高祖が匈奴を討とうとしたとき、平城近くの白登山に七日間包囲されましたが、その危機を陳平の策によりなんとか脱出しました(紀元前200年)。中国の帝国(漢)に対して、周囲の国の一つ匈奴が勝利したところがある県の名です(そして前198年の和約により、実質匈奴は以後漢を属国扱いにできました)。

⑤ 4つの歌群(グループ)の各筆頭歌を、都城との関係で確認すると、次のとおり。

 第一グループの筆頭歌は、中国の唐の長安と発想の異なる都を描こうとせず、大和における国見の歌となっています。天皇の統治のよろしき状況の歌です。

 第二グループの筆頭歌は、唐にならった都を造り、安定した国の統治における行幸に関する歌です。

 第三グループの筆頭歌は、副都の造営を詠っています。副都をつくる統治の充実を示唆しているのでしょうか。天皇の統治の更なる充実を象徴させています。

 第四グループの筆頭歌は、将来のことなので、大和へ向かう歌として、大和に都があることを示唆しています。その都にある宮の名が「寧楽宮」なのでしょう。

 最初の2グループが統治のよろしき状況と行幸(準備)を示し、次の2グループも統治のよろしき状況と行幸(予定)とみなせます。

⑥ では、各グループの最後の歌はどのようになっているか。

 第一グループの最後の歌は、2-1-289歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。前歌に和する歌です。

 第二グループの最後の歌は、2-1-314歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。上京の際の歌です。

 第三グループの最後の歌は、2-1-377歌でその題詞のもとの歌はこの1首です。直前の題詞のもとの長歌反歌に和した歌です。

 第四グループの最後の歌は、2-1-391歌と2-1-392歌でその題詞のもとにある長歌反歌です。上京の際の歌で終わっています。

 最初の2グループに対し、次の2グループも同じようなパターンとなっています。

⑦ このように、各グループの最初の歌と最後の歌のパターンは規則的であり、それは意図したものではないか、と思えます。

 さらに、各グループの最初にある関係分類「A1~B」の歌の題詞には、次の特徴を指摘できます。

 第一 「天皇」という表記が少ない。「天皇」という表記があるのは筆頭歌と三番目の歌だけであり、それも特定の天皇の名は表記されていない。このような表記法は巻と同じだが、巻一は標目において対象の天皇を明記している。

 例えば、筆頭歌の作者は持統天皇に重用された柿本人麿と題詞に明記してあるものの、『続日本紀』を見ると、男性の天皇である文武天皇聖武天皇は即位すると吉野宮に行幸しているので、編纂者は天武天皇を念頭に筆頭歌として配列している可能性がある。歌本文は、左注にいう「或本」の歌の推敲歌にみえるものの、天武天皇の存命時に披露された歌であると実証するのは困難な歌である。

 第二 そのなかで、天皇の御製であると題詞に明記しているのが1首ある。それは2-1-237歌であり、天皇の名は明記していないが、諸氏が持統天皇と指摘している。その前にある2-1-235歌の天皇持統天皇以前の天皇であることをこの歌が示唆している。

 そうすると、聖武天皇からみれば、曾祖父である天武天皇のエピソードが、巻三雑歌の最初の歌ということになる。

 第三 題詞に年月日の記述がすくない。これは、ほかの関係分類の歌でも同じである。

 第四 天皇として造都は重要な施策であることを強調しているか。

 第五 聖武天皇崩御後の代である4つ目のグループの題詞には天皇の名を明示していない。これは、編纂者は知る由もないという立場にたっていることを明示している、ともみなせる。

 これは、巻三の編纂時点を元資料が作詠(披露)された時点の最後、即ち聖武天皇の御代と固定していることになる。

 巻三雑歌の最後の編纂者の時点(光仁天皇桓武天皇の御代と想定できる)に作詠(披露)された歌と明記して四つ目のグループにある関係分類「A1~B」の歌に配列していない(工夫をしている)。その元資料は、聖武天皇の御代に作詠(披露)された吉野行幸と次期天皇を讃える歌である。

 『萬葉集』の編纂の最初期かそのほか重要な時期での編纂方針のいくつかは踏襲しようと最後の編纂者はしているのではないか。

 第六 4つのグループに整理することにより、雑歌を、祖先の時代、今上天皇の直前の時代、今上天皇の時代、そして未来の天皇の時代という時系列を明確にしている。

⑧ 以上のことから、巻三雑歌においては、関係分類「A1~B」による天皇の代を4区分に整理した配列をしているのは編纂者の意図である、といえます。

 それにより、天皇家による統治は、二つに区分して示した前代や今上天皇の時代と同じように、四つ目の時代(これから即位する天皇の時代)も行われると予祝しているかにみえます。官人である巻三雑歌編纂者はそれを慶賀する方針であったかのように見えます。

 ただ、三つのグループで巻三雑歌を終わりにしても、その方針の編纂であると言えるのに、四つ目を、それも未来のこととして設けたのには、何か事情があったのか、と推測できます。

 その事情とは、天皇家からみれば、皇位継承における天皇家の男系の血統の変化を正当化する、ということではないか。官人からみれば、律令体制堅持(天皇と官人による支配)の継続を主張することではないか。つまり官人側の有力な派閥の主張に賛意を編纂者は示したかったのではないか。

 だから、まとまりのある巻一から巻四については、最後の編纂段階において性格を改変した、少なくとも巻三雑歌の収載歌の加除を行い性格の改変をした可能性があります。

⑨ ここまで、『猿丸集』の第24歌の類似歌である2-1-439歌の理解のため、『萬葉集』巻三雑歌の検討をしてきました。

 そのための作業仮説をブログ2021/10/4付け「3.②」に示しました。次の五つです。

 「第一 『萬葉集』の歌は、題詞のもとに歌があるという普通の理解が妥当である(仮説A)。

第二 ほぼ同じ題詞の巻二と巻三の歌群(2-1-228歌~2-1-229歌と2-1-437歌~2-1-440歌)は、同一人物への挽歌を詠っているのではないか(仮説B)。

第三 その人物は、誰かを暗喩している、と考えられる(仮説C)。

第四 巻一などにある標目「寧楽宮」は、編纂者にとり意義あるものではないか(仮説D)。

第五 天智系の天皇に替わってから『萬葉集』が知られるようになった、と考えられる(仮説E)。

 これは、『萬葉集』巻一~巻三の編纂方針を確認することにほかなりません。しばらく、それを検討することとなります。」

 そのうちの第四と第五を検討してきました。

⑩ 巻三の雑歌の部において、仮説Eと仮説Fは、妥当なものでした。仮説Cと仮説Bは検討がまだ不十分です。仮説Aは、編纂者が記した題詞とともに巻三の歌は理解でき、妥当なものでした。つまり、巻三雑歌に配列されている各歌は元資料(の歌)の詠まれた(披露された)時の趣旨と必ずしも一致していないことが明らかになりました。

 また、巻三の雑歌にある左注を、編纂者が記していないことも分りました。

 尚、巻一と巻二の歌についても仮説Dと仮説Eは、やはり妥当な仮説でした(ブログ2022/10/4付け参照)。

 巻一の雑歌と巻三の雑歌が、歌と天皇の各種統治行為との関係を整理することでこのように理解ができました。

⑪ 最後に、部立ての「雑歌」について付言したい、と思います。

 『萬葉集』の部立ては、「雑歌、相聞、挽歌」が三代部立てです。

 神野志隆光氏執筆の『日本大百科全書』では、「(『萬葉集』においては)三代部立てのひとつで、相聞と挽歌に含まれない内容の歌を総括する部立ての名称。巻の編纂にあたっては、ほかの部立てに優先する」と説明しています。巻単位では必ず最初の部立てとなっている、ということです。

 その部立の名称については、「『文選(もんぜん)』に典拠を求めたと認められ、歌の内容からする「相聞」「挽歌」に対して、主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立だといえる。宮廷生活の晴の歌の集合として、表だった本格的な歌という意識があったものとみられる。」と説明しています。

 伊藤博氏は、「巻一と巻三の雑歌」に対して、「公の場におけるくさぐさの歌」と脚注していますが、例えば、麻続王が配流になったのを哀傷した歌と題詞にある2-1-23歌が「公の場」に披露された歌とすると、「公の場」とはどのような場なのでしょうか。律令体制で官人の行動はすべて公の行動と定義したとしても、です。

 2-1-43歌の作者は「官人の妻」とあり、官位の記載がなく「公の場」で披露された歌とは思えません。宮廷行事で「官人の妻」の資格で歌を披露できたのでしょうか。

 2-1-320歌の作者は法師である通観が「或娘子」に返事をしたと詞書のある歌は、宮廷行事に関する歌でしょうか。

 2-1-382歌は、遣唐使に関する歌ですが、神を祭ることが許可制であったから「公の場」とか宮廷儀礼の歌、と整理できるでしょうか。臨時異例のことに関しても事前に許可を要すると思いますが、左注を作文した人物は官人であると思われるのに、それは不問にしています。

 これらは、神野志氏のいう、「主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立」という範疇の歌ではある、と思えます。それでも氏は「主として」と例外のあることを認めています。「歌の場」の意を、歌を披露するのが効果を発揮する場面と理解すると、相聞も挽歌も雑歌の一種であることになってしまいます。

⑫ 一つの歌は、ある分類法では相聞の歌であり、別の分類法では雑歌であり、「やまとうた」に対しては色んな分類法がある、という立場に『萬葉集』の編纂者たちはいるのでしょうか。

 それは、『萬葉集』が、巻ごとに、あるいは部立てに応じて、あるいはある編纂目的に従って歌群を編纂している、ということであり、主として歌の場に基づき取捨選択され編纂されている部立てが「雑歌」であるならば、その取捨選択基準が、巻ごとに異なってよい、つまり雑歌を巻の最初に置いている理由は各巻ごとに異なっている可能性を認めてよい、と思います。

 巻一と巻三の雑歌について言うと、歌と天皇の各種統治行為との関係から理解が共にできましたので、共通の編纂目的があった、と言えます。巻三の雑歌も天皇支配の確認と統治を寿ぐ巻三の雑歌と言えます。

 「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、巻三雑歌の検討結果のまとめを記します。

(2022/10/31   上村 朋)

付記1.ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」での検討は次のとおり。

① 2-1-235歌:ブログ2022/3/21付け「3.② 第一」及び同ブログ「付記1.表Eの注4

② 2-1-391歌と2-1-392歌:ブログ2022/10/10付け「32.」

(付記終わり 2022/10/31    上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 日本恋久 萬葉集巻三配列その20

 前回(2022/10/3)のブログに引き続き、萬葉集巻三の配列について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 日本恋久 萬葉集巻三の配列その20」と題して、2-1-388歌以下3首の検討を続けます。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~31.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得たほか、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認し、前回までに2-1-388歌からの3首の歌意の概略の検討が終わりました。

各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

32.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌~2-1-390歌の天皇の代は

① 題詞「仙柘枝歌三首」のもとにある歌3首の属する天皇の代を意識したグループを検討します。

 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 そのグループであるとする判定基準の指標は、3つ目までは「歌の作詠(披露)時点がその歌群のグループの天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という基準でした。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

 しかし、『萬葉集』の歌は作詠(披露)時点が天平宝字3年(759)までであり、巻三の雑歌に限定すれば聖武天皇の時代までです。このため、4つ目のグループの判定は、作詠(披露)時点よりも題詞のもとにおける歌意における「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断してきたところです(ブログ2022/5/2付け「15.①」参照)。

 なお、第三グループまでの歌も当該天皇の代に関する歌意がくみ取れた歌でありました。

② 2-1-388歌~2-1-390歌本文は、『柘枝伝』に登場する「つみのえだ」を題材とした歌三首とも理解できるところですが、3首共通の暗喩は、同一の題詞のもとの歌として光仁天皇の即位に関する歌でした(ブログ2022/10/3付け「31.⑩」参照)。

 『柘枝伝』に登場する「つみのえだ」を題材とする歌は、官人の間に十分この説話が流布していたと想定できる聖武天皇の代でも、詠われて披露されてもおかしくありませんが、その後の天皇の代でも披露は可能であり、この3首が聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌とするのを妨げません。

③ そして、歌本文の暗喩によらずとも、題詞は、倭習漢文として、漢字の意義を踏まえても「仙なる柘枝(つみのえだ)に関する歌三首」という理解となり得る(ブログ2022/8/1付け「26.④以降」、ブログ2022/10/3付け「31.③」など参照)ので、この3首は4つ目のグループに属する歌である、といえます。

 なお、現代語訳の最終的な試みは、後日示します。)

33.「分類A1~B」以外の歌 2-1-391歌と2-1-392歌

① 次に、巻三雑歌の最後の題詞にある長歌反歌(2-1-391歌と2-1-392歌)を検討します。

 『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-391歌 羈旅歌一首 并短歌

  海若者 霊寸物香 淡路嶋 中尓立置而 白浪乎 伊与尓廻之 座待月 開乃門従者 暮去者 塩乎令満 明去者 塩乎令于 塩左為能 浪乎恐美 淡路嶋 礒隠居而 何時鴨 此夜乃将明跡 侍従尓 寐乃不勝宿者 瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之 率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師

  わたつみは くすしきものか あはぢしま なかにたておきて しらなみを いよにめぐらし ゐまちづき あかしのとゆは ゆふされば しほをみたしめ あけされば しほをひしむ しほさゐの なみをかしこみ あはぢしま いそがくりゐて いつしかも このよのあけむと さもらふに いのねかてねば たきのうへの あさののきぎし あけぬとし たちさわくらし いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし

 

 2-1-392歌

  嶋伝 敏馬乃埼乎 許芸廻者 日本恋久 鶴左波尓鳴

  しまづたひ みぬめのさきを こぎみれば やまとこほしく たづさはになく

(左注あり) 右歌若宮年魚麻呂誦之、 但未審作者

 

② 題詞を検討します。

 題詞と歌は、表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を作成時に検討しました。

 題詞について、以前次のように指摘しました(ブログ2022/3/21付け「3.② 第十一」より)。

 第一 題詞に「羈旅歌〇首」とあるのは巻三の雑歌にもう2題ある。「柿本朝臣人麻呂羈旅歌八首」(2-1-250歌~)と「高市連黒人羈旅歌八首」(2-1-272歌~)である。

 第二 この題詞のもとにある長歌反歌各1首は、平城京を後にして公務にいそしみ、今帰任するという、地方勤務の一官人の感慨を詠う一組にしたのではないか。そのような歌が第一にいうように西と東の方面に別けて既にある。

③ 上記第一の前者の題のもとにある歌は、「作者名を人麿に仮託した歌群のひとつでありこれらも当時の伝承歌のひとつ」(ブログ2022/3/28「6.①」です。また、最初の歌2-1-250歌は、五・七を2回繰り返している部分しか記されていない歌、と理解すると、長歌であるのかもしれません。

 後者の題のもとにある歌は、作詠時点を特定できる歌はなく、旅中の宿泊地や著名の地を題材にした歌であり、黒人特有の経験というよりも旅行者である官人の歌を、黒人の名でまとめた歌群であり当時の伝承歌とみなせます。しかし、土屋文明氏は、連作ではないが黒人作の歌とみなしています。

 この題詞は、仮託する人物名も記していませんので、別々の元資料の歌を一つの歌群とするための題詞である可能性が大です。

 歌は、都を離れた地を詠っており、羇旅の歌といえるので、歌との関連からみて題詞は不自然なところはありません。ただ、巻三の羈旅の歌と題する題詞で人物名を記していないのが特異です。巻三雑歌は多くが人物名を題詞に記していることからいうと、注目してよいことです。

 歌本文を検討後、改めて、それらの理由を確認することとします。

④ 歌本文についてもブログ2022/3/21付け「3.② 第十一」で次のように指摘しています。

 第三 歌本文をみると長歌反歌も船旅であり、2-1-392歌では「日本恋久」(やまとこひしく)と詠っているのでは官人の平城京への帰任の歌と推測する。

 第四 長歌をみると、地名が、淡路島、伊予の順に登場し、海神が白波を伊予(四国)に届ける、と詠い、作者は淡路島を西にむかって船出しようとしている、と理解できる。

 第五 短歌をみると、島伝いに敏馬(みぬめ・神戸市の東部)の崎をめぐるところまで西から航海して来て、作者は「日本恋久」と詠います。やっと、生駒山などが見えるようになった時の感慨を詠っているのではないか、と思う。

 第六 つまり長歌の中の主人公は西に向かい、反歌の中の主人公は東に向かう、という状況である。そのような伝承歌を一組に編纂者はしている、とみえる。「C」(「歌と天皇の統治行為との関係」分類が「天皇の下命による官人などの行動に伴う歌群(但し謀反への措置を除く)」)の判定は変わらないが、この長歌反歌はだれの旅の出発から帰着までを詠もうとしたのか、興味をもつところ。

⑤ 作中人物を推測します。

 長歌(2-1-391歌)は、いわゆる潮時を自ら見きわめている情景を詠っています。

 そして、「率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師」(いざこども あへてこぎでむ にはもしづけし)とあり、船団を率いる人物(この旅行の主人役の官人)というよりも、この船団の船の運航を仕切る船長(船頭の長)であるかの口調です。また、船団を率いる人物であるならば部下の官人や船長との会話を主とし、仕事にかかるに「率兒等」への呼びかけは船の運用に関することなので船長に任してしかるべきです。(「率兒等」という語句は「去来子等」という表記で2-1-63歌にもあります。)

 土屋文明氏は、「全体が常識的で航海者が口ずさむには適するであらう(歌)」と指摘しています。

 阿蘇瑞枝氏は、この歌群の歌を、「西から東へ向かう帰路の船旅の歌。海のスケール大きく神秘的な働きを讃え、・・・大和に向かって船を出す喜びの気持ちを詠む。宴席で吟唱するのにふさわしい内容と調べを持っている。」と指摘し、作中人物が官人か船長かについては触れていません。しかし官人が宴席で吟唱する歌であれば、官人が作中人物と推測できます。

 しかし、その場合、結びの句「率兒等 安倍而榜出牟 尓波母之頭氣師」は、少なくとも「率兒等」を同僚に呼びかける、あるいは上司に進言するにふさわしい表現に変更する必要があります。

 私は、長歌について土屋氏の理解に従いたい、と思います(『萬葉集私注』161p~参照)。

⑥ 反歌(2-1-392歌)は、「敏馬乃埼」(みぬめのさき)という地名が淡路島より大和よりの地名であり、かつ長歌の後に位置する反歌に詠われているので、上記第五のように指摘したところです。その作中人物は、船上に居る人物であり、河内や摂津の地名ではなく「日本恋久」(やまとこほし)と都に思いをはせています。船長の家族が、都に居住している確率は少ないのではないか。

  四句にある「日本恋久」について、土屋氏は、「やまとこひしく」と訓み、阿蘇氏は「やまとこほしく」と訓んでいます。歌を引用している『新編国歌大観』では上記①に記したように後者とおなじ「やまとこほしく」です。

 「こほし」について、『例解古語辞典』では、「「こひし」の古形。慕わしい。恋しく思う。「ゆかし」と同じように「知りたい・みたい」といった意味で用いられることがある。」と説明し、後者の用例として『今昔物語』をあげています。

 『古典基礎語辞典』では、「こほし」を立項し、「こひし(恋し)」を見よと説明しています。その「こひし(恋し)」では、3意あるとしています。

a恋人に逢いたい切なる気持ちを表す。用例は『源氏物語』明石巻より。

b時間的・空間的に隔たった場所・事物などに対して、再び行きたい、見たいなど心ひかれる気持ち。用例は『増鏡』十六より。

c「なつかしい。亡くなった人や過ぎ去った昔を偲んでいう。(中古以降の用法) 用例は『源氏物語』明石巻と『平家物語』九小宰相身投より。

 この歌においては、bの意であろう、と思います。だから四句は、「大和(にある都と家族のところ)に行きたい・見たい」と詠っていると理解します。

 そのため、作中人物は、官人であろう、と思います。

 土屋氏は、「長歌とは別に存した」歌とみており、作中人物の吟味は特にしていません。阿蘇氏もしていません。

⑦ 私は、反歌についても土屋氏の理解に従いたい、と思います。氏の現代語訳(大意)はつぎのとおり。

 「島づたひに敏馬の崎をこぎめぐって行くと、大和の方のことが恋しく思はれ、鶴のあまた鳴くのがきこえる」(『萬葉集私注二』164pより)

 なお、阿蘇氏は、「こほし」を一字一音で記した例が巻五に2例ある、と指摘しています。その意を確認すると2-1-836歌にある「古保志枳」は上記のb、そして2-1-879歌にある「故保斯吉」)は、上記のaでした。

⑧ このように長歌反歌の作中人物のイメージが異なります。異なるのは元資料の取捨選択でそうなっただけで羈旅の歌であるのは変わらない、という見方もありますが、人物名を記した題詞「羇旅〇首」には歌が各八首あるのに対して、この歌群は長歌1首反歌1首ですから、編纂者の意図の結果の可能性があります。

 反歌が、元資料の歌意を離れてひとつの歌群として長歌と組み合わされているので、歌群としては、ある目的地に向かう羈旅の歌として配列されているのではないか、と思います。

 この歌群は、阿蘇氏の指摘するように「西から東へ向かう帰路」の船旅の歌とも理解可能です。

 しかし、作中人物が異なるので、一つの旅行を詠っている歌ならば、長歌は、反歌の作中人物をむかえに行き、乗船されて後、目的地に向かうという反歌を添えているという理解も可能です。

 この歌群は、編纂者の手元の資料から題詞「羇旅歌一首 幷短歌」に相応しい歌が選ばれており、題詞に人物名を省いているのも作中人物が異なるためであろう、と推測します。

⑨ 次に、この歌はどの天皇の御代の歌として配列されているか、を検討します。

 歌本文に作詠時点(年代)を特定できる語句はありません。

 2-1-390歌までの巻三の配列を重視すれば、聖武天皇あるいはそれ以後の御代を詠った歌となります。2-1-390歌の暗喩を前提にすれば、光仁天皇、あるいは桓武天皇の御代に擬せられている、ということになります。

 だから、羇旅の歌として「寧楽宮」に居られる天皇の代に披露され得る歌です。

 なお、光仁天皇は、父が天智天皇の皇子施基親王(志貴皇子)、母が贈太政大臣紀諸人の女橡(とち)姫です。即位のとき62歳でした。

 桓武天皇は、父が白壁王(光仁天皇)、母が高野新笠(たかののにいかさ)です。山部王として従五位下天平宝字八年(764)授けられ、父白壁王が宝亀元年10月即位後の11月に親王となり四品を授けられています。同4年正月皇太子となっています。即位のとき45歳でした。 

⑩ そうであれば、歌に暗喩が込められているのではないか。

 2-1-391歌の作中人物は、官人階層を代表する人物を、「瀧上乃 淺野之雉 開去歳 立動良之」とは特定の皇子を擁立する動きを示唆しているのではないか。

 2-1-392歌の作中人物は、「寧楽宮」という天皇ではないか。「日本恋久」とは、律令体制のトップの指導力が発揮されることを指し、「たづ」(官人)がそれを期待しているところです。

⑪ この歌群に対する上記①の第二の指摘は、誤りでした。

 また、上記④の第三の「帰任」の歌という推測は、羇旅の歌という建前のものであり、この歌群に込められた暗喩は、律令体制の再出発、新たな皇統の出現を祝う歌となります。

 そして、上記④の第六に指摘した、「だれの旅の出発から帰着までの歌か」については、「寧楽宮」の天皇となりました。

⑫ 以上で巻三雑歌にある歌と天皇の御代との関係の検討が一応終わりました。表Eは修正を要することになりました。

 巻三雑歌にある各歌は、すべて天皇の代を意識した4つのグループに分かれて配列されていました。4つ目のグループは、天皇を特定していない未来の天皇の代として巻一で用意されていた「寧楽宮」に属する歌ですが、歌数は巻一より格段に増えて、15首となりました。

 まだ、巻三雑歌の配列全体については、巻頭歌と掉尾歌との理解などからの検討が残っています。

次回は、それらを検討したい、と思います。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2022/10/10  上村 朋)

わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 仙柘枝は 萬葉集巻三配列その19

 前回(2022/9/5)のブログから日が経ちましたが、引き続き萬葉集巻三の配列について、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 仙柘枝は 萬葉集巻三の配列その19」と題して、今回、2-1-388歌以下3首の比較検討を記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~30.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

31.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌~2-1-390歌の歌本文比較

① 今回同一の題詞のもとにある歌の3首の歌本文を題詞とともに比較検討します。3首が、天皇の代を意識したどのグループの歌であるかは次回の検討とします。

 検討対象の題詞と歌は次のとおり。巻三の雑歌に配列されています。

2-1-388歌 仙柘枝歌三首

   霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取

あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

(左注あり) 右一首或云、吉野人味稲与柘枝仙媛歌也。但見柘枝伝無有此歌

2-1-389歌 (同上)

   此暮 柘之左枝乃 流来者  梁者不打而 不取香聞将有

このゆふへ つみのさえだの ながれこば やなはうたずて とらずかもあらむ

(左注あり) 右一首

2-1-390歌 (同上)

古尓 梁打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳

いにしへに やなうつひとの なくありせば ここにもあらまし つみのえだはも

(左注あり) 右一首若宮年魚麿作

② 下記の検討から、3首は、巻三雑歌に、一組の歌として一つの題詞のもとに配列されており、次のような趣旨の歌をこの順で並べている、といえます。

『柘枝伝』(しゃしでん)を題材に詠っている歌と整理できるものの、「仙であっても幹ではない枝に関する歌」、という整理もできる歌であり、巻三の編纂者は、後者を重視しているのではないか。

第一 2-1-388歌は、仲睦まじい夫婦(広く男女)が「吉志美我高嶺」(きしみがたけ」で雹や霰にあい慌てふためく様を、第三者が詠う。その男女は『柘枝伝』の中の男女とみなすこともできる。

第二 2-1-389歌は、「このゆふへ」にあたり、(「つみのさえだ」をとるのに不要な)梁を仕掛けないで 流れてきた「つみのさえだ」をとれるか自問し、「つみのさえだ」を手に取るのが誰にとっても納得のゆくものではないか、と第三者として詠う。

第三 2-1-390歌は、昔の人、例えば『柘枝伝』に登場する男性がいなかったら「つみのえだ」はここにあり、それを手にした当事者を、好意ある第三者として詠う。

「つみのえだ」は「摘むことができる枝」でもあり、暗喩として、幹に対する「えだ」が、即ち分家であり、幹になる(本家を継承する)ことを讃嘆しています。また「さえだ」の「さ」は副詞という理解も可能です。

③ 倭習漢文である題詞にある「仙」という漢字は、「やまびと。仙人」の意のほかに、「すぐれている。とうとい。うつくしい。非凡。」あるいは「天子に関する事物につけていう語句」の意があります。また、「柘」という漢字を用いた熟語に「柘黄」があり、そして「枝」という漢字には、「木の幹から別れ出た部分」の意のほかに、「分家」の意があります。(ブログ2022/8/1 「26.⑧」参照)

 そのため、題詞「仙柘枝歌三首」の理解は、『柘枝伝』を念頭に作文された題詞と、『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説の人名とみない)で作文された題詞の2案があり、前者は建前の題詞、後者は題詞にある暗喩であると予想していました。(ブログ2022/8/1 「26.⑫及び⑬」参照)。

 両案のもとで3首を以下のように検討した結果、『柘枝伝』を題材にしている意も含みうる後者の理解が妥当であり、「「仙」と形容できる「柘」(つみ・山桑)の「枝」(幹ではないもの)の(あるいは、に関する)歌三首」、即ち、題詞は、「仙なる柘枝(つみのえだ)に関する歌三首」という理解となりました。

 題詞の暗喩は後程検討します。

④ 上記②と③は、以下の検討結果です。

題詞を、付記1.に記すような2案として、3首の歌本文を個々に検討して得た前回ブログまでの現代語訳(試案)は、つぎの表1のとおり。これに基づき3首の比較をします。

表1 「仙柘枝歌三首」という題詞のもとにある歌の2022/9/5現在の現代語訳(試案)  

歌番号等

現代語訳(試案)

同左検討ブログ

2-1-388

「(恐ろしい)霰が降ってきて遮るもののない「きしみがたけ」にいるのを「さがし」と判断したので、私は、手にしていた草を放り捨て、いそぎ妹の手をとった(霰から逃げるために)。」(2-1-338歌現代語訳試案第一)

ブログ2022/8/15付け「28.⑯」

2-1-389

第1案 作者が、自身の行動を推測している場合

「今日この場で話題となった事がらのような夕方、「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、(その流れに)梁は、設けることをしないで、私は手にすることはないだろうか、どうであろう。」 (2-1-389歌現代語訳試案第一)

ブログ2022/8/22付け「29.⑪」

2-1-389

第2案 作者が、誰かの行動を推測している場合

「今日この場で話題となった事がらのような夕方、「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、(その流れに)梁は、設けることをしないで、(「つみのさえだ」を)誰かは手にすることはないだろうか、どうであろう。(2-1-389歌現代語訳試案第二)

ブログ2022/8/22付け「29.⑪」

2-1-390

第1111案 『柘枝伝』の説話に関する歌で作者の感慨を詠う場合

 「もし昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う。)その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

 *「つみのえだ」は、特別な幸運か。

ブログ2022/9/5付け「30.⑮」

2-1-390

第1112案 『柘枝伝』の説話に関する歌で貴方への感嘆を詠う場合

 「もし、昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。) 摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 *「つみのえだ」は、「摘むことができる分家筋のあなた)の意」

ブログ2022/9/5付け「30.⑮」

2-1-390

第1121案 『柘枝伝』の説話が話題となった席・会合が深く関係する歌<で作者の感慨を詠う場合

 「もしも、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う)。その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

*「つみのえだ」は、特別な幸運か。

ブログ2022/9/5付け「30.⑮」

2-1-390

第1122案 『柘枝伝』の説話が話題となった席・会合が深く関係する歌の場合

「もし、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。) 摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 *「つみのえだ」は、「摘むことができる分家筋のあなた)の意。

ブログ2022/9/5付け「30.⑮」

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)2-1-390歌の現代語訳(試案)の「第1111案」などは、ブログ2022/9/5付けの「30.⑮」における試案の番号

 

⑤ 巻三の配列順に、一つの題詞のもとにあることを重視して2-1-388歌から検討します。

A1上記表1の現代語訳(試案)(2-1-388歌現代語訳試案第一)という理解は、 『柘枝伝』の説話に関係の深い題詞のもとにある歌とすると、『柘枝伝』における味稲(うましね)と妻になった仙女が仲睦まじい夫婦であった時期のエピソードという理解が可能です。

A2 歌にいう「霰」(あられ)とは、現在の雹(ひょう)と霰を区別せずに指す当時の語句です。

A3 上記A1の理解における舞台の地・吉野に、「きしみがたけ」と異名をつけてもよい山・山塊を諸氏は指摘できていません。そのような地名が含まれていない山の名前・異名の理由は、次の歌などとの関係で検討するほかありません。

「きしみがたけ」の理解に3案あるものの、ブログ2022/9/5付け「30.⑯」に指摘したように、「つみのえだ」の意との整合という点から、そのうちの「きいきい音をたててこすれ合うという意の名を持つ山で、比高のある山(何かを象徴している普通名詞)」ではないか。 初めから抽象化した山として詠まれていた可能性があります。 

A4形容詞「さがし」の意は「aけわしい。b危うい・危険だ。」の2意あります。上記表1の(試案)では、bの意であり、突然の霰が「危うい・危険だ」と二人は認識しています。

A5 四句の訓は,『新編国歌大観』の訓であり、「くさとりはなち」です。

A6 『柘枝伝』の説話に関係の薄い題詞のもとにある歌とすると、単に仲睦まじい男女が「きしみがたけ」において「あられ」に遭った際の歌となります。

その男女が「あられ」に出会った場所は、屋敷内でも野遊びによく詠われている野でもなく、著名な防衛拠点のある山でもなさそうです。でも類似歌(5-353-19歌)にある肥前国にある地名(「耆資麼」(きしま))らしき名を冠した山です。だから、「きしみがたけ」は、前後の歌などとの関係でその命名の理由(この歌に用いられている理由)を探るほかありません。

 「きしみがたけ」を中心に理解すると、題詞がどちらの理解でも「きしみがたけ」に行ったばかりに「霰」の危険に私たち二人はであった、という理解となります。

A7 歌には主語が明示されていません。作者は、題詞の理解がどちらでも「霰」にあった当事者(作中人物の一人)と推測しているところですが、次の歌などの関係でその当事者の行動を第三者が詠んでいる歌という理解もあり得ます。 

現代語訳(試案)の細部は、次の歌などとの比較検討後とします。

⑥ 2-1-389歌 の検討をします。表1に示した2案があります。

(試案)第1案(2-1-389歌現代語訳試案第一)を最初に検討します。

B1 初句「このゆふへ」と作者自らが場面設定して作者自身の行動を推測した歌と理解した歌です。初句にある「この(ゆふへ)」とは、2022/8/22付けブログの「29.③」に記す第三の意であり、「歌が披露されることとなったその会合等までに既に話題となっていた事がらにおける「この」ゆふへ(官人の間で十分話題となっていたことを題材に、その話題にあるようなことがおこる「ゆふへ」と詠いだした)」ということです

B2 また、「ゆふへ」は夜のはじまりの時間帯を指す語句であるので、「このゆふへ」には「何かの始まり」の意を付け加えることができるとも指摘したところです。

B3 この歌は、会合で披露されなくとも書簡のやりとりにおける歌と理解することも可能です。「この」という臨場感は、同席していることを要していないからです。

B4 また、この歌は、川を自然流下してきた「つみのさえだ」を拾い上げるのに、「やな」の有無を問題にしており、その理由がわかりませんでした。

改めて、その理由を、この歌が『柘枝伝』に深く関係している題詞のもとにあるとして、まず検討します。

『柘枝伝』の説話を再現する資料となっている漢詩集『懐風藻』の詩句から、私は「吉野の人味稲(うましね)が川で、吉野山中にいる仙女が姿を変えていた柘の枝を拾い持ち帰ったところ女に化し一旦は妻になって二人は楽しく暮らした(がその後仙女はもと居たところに還っていった)、ということを語っていると思われる伝説」と理解しました(ブログ2022/8/1付け「26.⑩」)

B5 しかし、「持ち帰ったところ女に化」したというのは漢詩集『懐風藻』の詩句の内容を逸脱しており誤りでした。『懐風藻』の詩句には「梁前柘吟古 (梁の前で柘姫が歌ったのは昔のこと)」などとあり河原で柘の枝から人間の姿に戻っていると理解したほうが妥当です。また「尋問美稲津 (美稲が梁を仕掛けた場所を尋ねてみた)」とあるので梁があった場所に味稲が居たものの、梁に柘の枝が留まったかどうかは不明です。梁の近くに流れ着いただけの可能性もあります。

味稲が「つみのさえだ」に注目したきっかけは、「やな」を設けた場所である、という以外は、現在分かっている『柘枝伝』の内容に含まれていないことになります。

そして、梁は、「つみのさえだ」を集めるために設けるものでは当然ありませんので、『柘枝伝』の説話が「つみのさえだ」を梁が引き寄せた、と限定できません。

B6この歌で「このゆふへ」とこの歌の作者が設定した場面を、『柘枝伝』にあてはめると「つみのさえだ」が味稲のうった「やな」近くに流れてきて味稲が手に取った場面になります。

その「つみのさえだ」は自然流下してきたとみえる「つみのさえだ」です。

つまり、味稲が手に取ったという行為は、味稲の立場からは全くの偶然である、とこの歌で作者は強調しているのではないか。

それは、その偶然により仙女と夫婦になったことが味稲の運命を左右した、ということを強調していることになります。

B7 それを強調する理由は、いまのところわかりませんが、題詞が『柘枝伝』に深く関係しているのであれば、この歌は、『柘枝伝』の理解の仕方に関して意見を述べた歌ということになります。

『柘枝伝』の説話で重要なのは、梁を設けたことではなく、何の疑いも持たず、また特別な事は期待せず仙女と夫婦になったこと、という意見を述べたことになります。仙女が仙界から人間界に(いうなれば)降りてきてまた戻る資格を得ることを補佐してもらう人物として味稲は仙女に選ばれており、成功の暁には仙女がお礼をするはずであるのが重要である、ということです。『柘枝伝』での味稲は、仙女との夫婦の破局が出会いの経緯からいずれ突然来ると恐れていても、一人の女性として仙女をただただ愛しく思っており、昔話の「花咲じいさん」の主人公のじいさんと同じであり、隣のよくばりじいさんのようにその後のことを期待することなどない人物であったのでしょう。

仙女という身分が分かっているので、味稲は、破局の時の置き土産を期待している人物のはず、という立場にこの歌の作者はいない、ということです。(仙女が味稲の前に出現した理由はほかにもあるかもしれませんが、味稲の気持ちは同じでしょう。)

B8 この歌は、同一の題詞のもとにある前歌2-1-388歌の次に配列されており、その内容を承知して詠われています。

前歌を、『柘枝伝』における味稲(うましね)と妻になった仙女が仲睦まじい夫婦であった時期のエピソードと理解すると、この歌は、その夫婦の誕生のきっかけとなった「つみのさえだ」を手に取ったことには、作者が見るところ味稲が「やな」を設けたことがかかわっていない全くの偶然である、と詠っている、ということになります。味稲は、前歌に詠われている「きしみがたけ」山中を流れている川において「つみのさえだ」を手にしたことになります。

B9 この理解の場合、表1の2-1-389歌の「現代語訳(試案)」欄に示した第1案は、初句に関して少し補足が必要であり、第1案の初句は、次のようになります。

初句「このゆふへ」:今日この場で話題となった事がらのような夕方(今日この場で話題となった『柘枝伝』でつみのさえだが流れてきた夕方、)

しかしながら、『柘枝伝』の味稲の行動の動機などについて、わざわざ意見を示すことになる「今日(の)この場」はどんな席であったのでしょうか。

B10 また、「ゆふへ」に「何かのはじまり」の意を含意させているとすると、仙女との出会いは味稲の新たな運命の始まりであったので、「このゆふへ」に立ち会った人物の新たな運命の始まりを示唆しているのでしょう。

なお、この歌の作者は、2-1-388歌の作者(作中人物の1人、あるいは第三者)と重なっても矛盾はありません。しかし、この歌はB1にいう作者自身の行動を推測している歌なので、重なるならばその前者となります。

B11 次に、この歌が『柘枝伝』と関係が薄い題詞のもとにあるとして、検討します。

この歌で初句に、「このゆふへ」とこの歌の作者が設定した場面は、『柘枝伝』の場面ではないことになります。初句「このゆふへ」の意「今日この場で話題となった事がらのような夕方」の「話題」について題詞からのヒントがみつかりません。単に、「ゆふへ」という時間帯に「つみのさえだ」が流れてくるのを目にした場合という設定が、「話題」であるというということなのでしょうか。

この歌は、流れてきた「つみのさえだ」を手に取るのに、作者は、「やな」が不要であることを強調した歌のように見えます。しかし、魚などを獲るための「やな」を「つみのさえだ」を手にする方法であるかのようにみなすことがあるのでしょうか。『柘枝伝』の説話のように既に「やな」が設けられているのならばともかくも、一般的にはあり得ないと思います。

B12 この理解の場合、表1の2-1-389歌の「現代語訳(試案)」欄に示した第1案は補足すべきことがありません。しかし、不思議な歌という印象が残ります。

B13 「ゆふへ」に「何かのはじまり」の意が含意されていると、それは「話題」に関してのことでしょう。「つみのさえだ」が流れてきて手に取ったことがきっかけで何かが始まったのか、ということなのでしょうか。

B14 この歌は、『柘枝伝』の説話に関係の薄い題詞のもとにある前歌2-1-388歌を承知して詠われています。だから、前歌は、仲睦まじい男女の「あられ」に遭った際の歌であり、この歌は、流れてきた「つみのさえだ」を手に取るのに、作者は、「やな」が不要であることを強調した歌ととれます。

この二つの歌からのメッセージは、仲のよい夫婦があり男性である伴侶が「つみのさえだ」をたまたま手にとったのだ、ということになり、それをこの歌の作者は是認しているかに見えます。

また、この歌の作者は、B1に記すように作者自身の行動を推測していますので、2-1-388歌の作者のうち作中人物の1人と重なっても矛盾はありません。それも多分男性でしょう。

⑦ 次に、2-1-389歌の現代語訳(試案)第2案(2-1-389歌現代語訳試案第二)を検討します。

 C1 初句「このゆふへ」と作者自らが場面設定して作者以外の者の行動を推測した歌と理解した歌です。

初句にある「この(ゆふへ)」とは、2022/8/22付けブログの「29.③」に記す第三の意であり、「歌が披露されることとなったその会合等までに既に話題となっていた事がらにおける「この」ゆふへ(官人の間で十分話題となっていたことを題材に、その話題にあるようなことがおこる「ゆふへ」と詠いだした)」ということです。(このように、初句の理解はB1と同じです。)

C2 第1案と異なる点は、作者自身の行動ではなく第三者の行動について推測していることです。

だから、『柘枝伝』の説話に関係の深い題詞のもとにある歌とすると、上記のB2~B8の検討がこの歌にも該当します。

第1案は、私ならこのように思う(つみのえだを偶然手にした)と詠い、第2案は、誰もがこのように思うと詠っています。

このため、表1の2-1-389歌の「現代語訳(試案)」欄に示した第2案は、四句と五句が、第1案と異なります(初句は同じ)。即ち、

四句と五句「やなはうたずて とらずかもあらむ」:(その流れに)梁は、設けることをしないで、誰もが手にすることはないだろうか、どうであろう。

しかしながら、第1案同様に、『柘枝伝』の味稲の行動の動機などについて、わざわざ意見を示すことになる「今日(の)この場」はどんな席であったのでしょうか。

C3 また、「ゆふへ」に「何かのはじまり」の意を含意させているとすると、B10の前段と同様のことを指摘できます。

なお、この歌はC1にいうように作者以外の者の行動を推測している歌ですが、B10なお書きと同じように、この歌の作者が、2-1-388歌の作者と重なっても矛盾はありません。

C4 次に、この歌が『柘枝伝』に関係が薄い題詞のもとにあるとして、検討します。

この歌の初句「このゆふへ」の意の理解は、B11と同じです。そして、作者のみではなく第三者でも、流れてきた「つみのさえだ」を手に取るのに、「やな」が不要であるとおもうのではないか、と強調している歌となっています。B12及びB13の理解も該当します。2-1-388歌の次にある歌としてB14の理解も該当し、作者のみならず第三者もそのように思う、と詠っています。

『柘枝伝』に関係なく、わざわざこのように意見として示す歌を詠む「今日(の)この場」はどんな席であったのかが不明です。  

C5 この歌の作者は、第三者の行動を推測しているので、2-1-338歌の作者と重なっても矛盾はありません。

C6 同じ題詞のもとにある歌は、一般に、同一の作者の歌を配列しているのか、同じ話題に関する別人の歌を配列しているかが考えられます。

また、同じ話題に関する歌であれば、漠としていますが「何かの偶然性」が共通の話題なのでしょうか。

どちらも、同じ題詞のもとにある3首目の理解のヒントとなります。

C7 次の歌2-1-390歌の検討時「つみのえだ」は同音異義の語句として「摘むことができる枝」の意もあり、さらに「摘むことができる分家」の意ともなることが分かりました(ブログ2022/9/5付け「30.⑪」)。しかし「つみのさえだ」は、別の意が込められている語句でもあります。

 「さ」は、歌語をつくる意を持つ接頭語の「さ」のほかに、「他称・そいつ・それ」の意の代名詞「さ」の可能性があります。そうであれば、「つみ」の木の「その枝」を手に取る、という表現は、作者自らが設定して「このゆふへ」に深くかかわっている可能性があります。

2-1-389歌が『柘枝伝』の説話と深く関係しているならば、「つみのさえだ」は仙女の化した「山桑の枝」の意となるでしょう。この歌の作者が「このゆふへ」と設定した場面は、「何かを手にとる」ことが『柘枝伝』の味稲の運命となる可能性が高い場面である、と作者自身が感じていることになります。

C8 『柘枝伝』の説話との関係が薄い題詞のもとにある歌とすると、二句にある「つみのさえだ」とは、「つみの木の枝」のほかに、「摘むことができるその小枝」の可能性があります。そして「枝」には分家の意があるので、それは、ある条件をクリアした特定の分家」という意となっているかもしれません。これもヒントとして次の歌を検討し、また戻りたいと思います。

⑧ 次に、2-1-390歌を検討します。

D1 この歌は、初句~二句にある「いにしへの やなうつひと」という語句により、『柘枝伝』の説話が前提になっていることがわかります。『柘枝伝』の説話は、当時の官人のよく知る説話になっていた、といえるでしょう。

D2 そして、二句にある「やなうつひと」、五句にある「つみのえだ」、及びその「えだ」にも各2案づつあります。(ブログ2022/9/5付けの「30.⑪、⑬」など)。また、四句にある「ここ(に)」の意が多数あり(同上「30.⑨」)、ほかにも同音異義の語句を用いているのが、この歌です。

D3 このため、2022/9/5現在のこの歌の理解として、二句にある「やなうつひと」に2意を認め、字余りの四句にある「ここ」に2意を認め、それを組合せた案が表1の4案です。そのうち、『柘枝伝』の説話に関する歌という理解の第1111案と第1112案よりは、『柘枝伝』の説話が話題となった席・会合が深く関係する歌という理解の第1121案と第1122案が現代語訳(試案)の候補となることになります。

どの案も、四句で文意が一旦切れ、五句は、四句までの文意を対象に詠嘆あるいは感動の文となっている構成です。だから、ある事がらを振り返って詠んでいると理解した歌となっています。

そうすると、同じ題詞のもとの歌3首は、C6に指摘したのと同じ話題の歌であれば、『柘枝伝』の説話を前提に、ある事がらを振り返って詠んでいる3歌ということになります。

ある事がらとは、C6で指摘した「何かの偶然性が共通の話題」であり、それは、「つみのえだ、あるいは、つみのさえだを手に取る」と推測します。1首目の五句「いもがてをとる」に留意すると、何かを手に取ることが、共通の話題ではないか。

D4 同一の作者の歌3首であれば、この歌の作者は、二首目までの作者である2-1-388歌の作中人物となります。即ち、2-1-388歌に詠われた「きしみがたけ」で「あられ」に出会った一組の男女のうちの男性か、その一組を客観視して詠う第三者ということになります。後者の第三者は、第三者という立場の人物ということなので実際の詠み手は別々であっても構わないことになります。

D5 そのため、3首目のこの歌は、『柘枝伝』の説話に深く関係している歌ではなく、「つみのえだ、あるいは、つみのさえだを手に取る」行為あるいは更に限定して「いもがてをとる」行為がキーポイントになる作者の時代に生じた事がらを詠んでいる、と限定できます。

D6 さて、第1121案は、二句にある「やなうつひと」とは、「『柘枝伝』に登場する味稲のような立場の今日(現在)の人物」を指し、「ここ」は「この所」、即ち具体的には「『柘枝伝』に登場する味稲がつみのえだを手にとったような場所・状況」を指します。そして、作者は、五句で「それは感動的であった」と詠います。

第1122案は、二句にある「やなうつひと」とは、「『柘枝伝』に登場する味稲のような立場の今日(現在)の人物を指し、「ここ」は「ここに」で貴方の意となり、具体的には「この歌を送った人物」を指します。そして、作者は、五句で「それは感嘆に値する」と詠います。

作者は、D4の整理から、第1121案の場合、2-1-388歌に詠われた「きしみがたけ」で「あられ」に出会った一組の男女のうちの男性でも、その一組を客観視して詠う第三者でも可能です。

しかし、第1122案の作者は、当人ではあり得ないので、後者、即ちその一組を客観視している第三者ということになります。

D7 次に、この歌が詠まれた背景となる「つみのえだ、あるいは、つみのさえだを手に取る」行為あるいは更に限定して「いもがてをとる」行為はどのような事がらなのか、を検討します。

巻三の配列が天皇の代の順である(上記「1.~30.」参照)ので、これまでの検討からこの3首は聖武天皇あるいは同天皇以後の御代で作者が官人として活躍していた時代に生じた事がらが対象になります。対象の下限は、『萬葉集』の最終的編纂が終わった時となります。深く編纂に関わったはずの大伴家持延暦25年(806)3月に恩赦により罪を許され復位して以降に『萬葉集』は公に認められたと推測されていますので、それまでは(加除訂正を含む)編纂が可能であったことになります。

その間の天皇は、孝謙天皇(749~758)、淳仁天皇(758~764)、称徳天皇(764~770)、光仁天皇(770~781)、桓武天皇(781~806)、及び平城天皇(806~809)です。

2-1-390歌にある「つみのえだ」が「摘むことができる枝」(語句に忠実であれば「摘みとる枝」)と理解すれば、「えだ」を「分家」の意に採ると、皇位継承問題における「分家」(皇子)がからむ事がらが候補にあがります。大伴家や藤原家に関して分家筋がからむ事がらを、3首一組の歌で編纂者は配列しない、と思います。

皇位継承が、天武天皇を祖とする天皇の系統から天智天皇の系統に『萬葉集』編纂可能期間の末期に替わりました。光仁天皇の即位です。そしてその次の天皇は、藤原家をはじめ有力な氏族の娘を母としていない人物が天皇となっています。桓武天皇です。

D8 「つみのえだ、あるいは、つみのさえだを手に取る」という表現は、皇位継承のうち白壁王の天皇即位経緯(光仁天皇誕生)に関しての暗喩ではないか。

さらに、「つみのえだ」は、「いにしへのやなうつ人」も手にしているので、「天皇位」を暗喩している、とも言えます。即ち、

「いにしへのやなうつ人」は「つみのえだ」を手にした(天武天皇の即位)が、「つみのさえだ」はあなたの前にある(その天皇位はあなたが手にする)

と、光仁天皇天武天皇になぞらえているようにもとれます。

D9 このような理解は、『萬葉集』が、天智系の天皇賛歌に終わってしまった場合の危険を回避し天武系の天皇が即位するのを嘉する配慮を強く持っていたのは、『萬葉集』の編纂最終期の編纂者である、とする論とも合致すると思います(ブログ2021/10/4付け「3.⑧~⑩」参照。また、『逆説の日本史3巻 古代言霊編 平安遷都と萬葉集の謎』291p以下(井沢元彦 小学館 1995)も参照)。

D10 そうであれば、皇位継承に直接かかわる当事者がこのような歌を詠むより、周囲にいる誰かが詠んだ体に巻三編纂者はしている、と推測できます。

2-1-390歌の現代語訳(試案)としては第1122案となります。

⑨ 2-1-389歌の初句「このゆふへ」における話題を、C6での予想の「何かの偶然性」ではなく、「時期天皇」のことではないか。C8を考慮すると、「つみのさえだ」は、次期天皇の有力候補者(皇子)となります。

⑩ このため、光仁天皇の即位経緯を念頭におくと、一組となるこの3首は、次のように理解できます。

2-1-388歌に詠われている「きしみがたけ」とは、聖武天皇以後の天皇を巡る皇子や官人の疑心暗鬼・皇子の粛清を象徴し、「あられ」は称徳天皇後に関する政治的動きを象徴しているのではないか。その渦中に待きこまれた夫婦(白壁王夫妻)がいる、と第三者的に詠っています。表面は、仲のよい男女のエピソードを周囲の者が紹介している体の歌です。

2-1-389歌に詠われている「つみのさえだ」とは、この歌がD3で指摘した「ある事がらを振り返って詠んでいるので、「摘むことができるその小枝」即ち「有力官人が支持した称徳天皇後の天皇となった皇子を象徴しています。「やな」とは、色々な政略を象徴しているのでしょう。作者は、「つみのさえだ」を支持する、と詠います。

2-1-390歌に詠われている「いにしへにやなうつひと」とは、天武天皇を象徴し、「つみのえだ」とは、天皇位の意ではないか。この歌は、特定の人物が(官人の総意を得て)即位したことを寿ぐ、という作者の主張の歌となります。

しかしながら、表面的には、『柘枝伝』に登場する「つみのえだ」を題材とした歌三首とも理解できるところであり、このような暗喩を隠した上記②のような趣旨の歌が、これら3首である、と思います。

⑪ なお、ブログ2022/8/22付け「29.⑩」で、「(仙)柘枝歌」という題詞を前提にすると、「つみのえだ」に関する歌であるものの、歌において、「つみのさえだ」は「梁を打たない」という表現により、『柘枝伝』における「つみのさえだ」でない、即ち特別なことを期待しているのではない、ということを強調しているのではないか、と推測したのは、誤りでした。

「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、これらの3首が、巻三にある理由などを前後の題詞からも検討します。

(2022/10/3   上村 朋)

付記1.2-1-388歌以下3首に共通の題詞について

① ブログ2022/8/1付けの「26.」で得た題詞の現代語訳試案は次の2案である。また下記②~⑤を指摘した。

第一は、左注にも引用している『柘枝伝』を念頭において作文された題詞

「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首

第二は、説話『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞

 「「仙」と形容できる「柘」(つみ・山桑)の「枝」(幹ではないもの)の(あるいは、に関する)歌」 

② 第一は、『懐風藻』の各詩と同じように、『柘枝伝』に題材をとって新たに詠んでいる歌3首という意であり、題詞の建前の意であろう、と予想する。第二は、題詞の暗喩にあたる意か。

③ 説話『柘枝伝』は詳細が伝わっていない。『懐風藻』にある詩句からの復元した概略があるだけである。

④ 巻三の雑歌にある題詞で、人物名を記載していない題詞は大変珍しい。「反歌〇首」などの例を除くと、「詠不尽山歌一首」と「羈旅歌一首」とこの題詞「仙柘枝歌三首」だけである。

⑤ 題詞にある「仙柘枝」が名であれば、歌では「柘之左枝(之)」(つみのさえだ(の))及び2-1-390歌の「柘之枝(羽裳)」(つみのえだ(はも))と、名を割って表記されていることになる。

⑥ 題詞は倭習漢文であるので、漢字の意に留意してよい。多義のある漢字「仙」字と「枝」字は要注意。

⑦ ブログ2022/8/1付け本文「26.⑨」で触れたように、阿蘇瑞枝氏の指摘した神武記の丹塗矢伝説と『柘枝伝』に類似は認められる。訪れた人物がもと居たところに勝手に還っていった点、訪れを受けいれた側(人間界側)はそれを受け入れた点、そして訪れを受けいれた側にその後善いことがあった点が共通している。このため、巻三の編纂者は、積極的に神武記の丹塗矢伝説をなぞった3首としているという仮説が立てられる。

(付記終わり。2022/10/3  上村 朋)

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か ここに 萬葉集巻三配列その18

 前回(2022/8/15)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三の配列その17」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か ここに 萬葉集巻三の配列その18」と題して2-1-390歌を検討します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋) 

1.~29.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

30.「分類A1~B」以外の歌 2-1-390歌の歌本文 

① 今回は、同一の題詞のもとにある3首目の歌本文の検討です。

 題詞は、あらあらの検討がブログ2022/8/1付けで終わり、2-1-388歌と2-1-389歌のあらあらの検討もブログ2022/8/15付け及びブログ2022/8/22付けで行い、現代語訳の一試案も得ました。

 3首目は、次の歌です。

 2-1-390歌 仙柘枝歌三首

 古尓 梁打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳

 いにしへに やなうつひとの なくありせば ここにもあらまし つみのえだはも

(左注あり) 右一首若宮年魚麿作

 この歌は、字余りの歌で、五 七 六 八 七 の33音です。

 現代語訳例を2022/8/1付けブログ(「27.②」)に示しました。土屋文明氏と伊藤博氏の訳例です。両氏の訳例は、ともに、2-1-390歌の作中人物は、拾った柘(山桑)の小枝が仙女であるという僥倖を今に残してくれたらよかったのに、とその僥倖をうらやんでいる、と理解しています。伊藤氏の指摘するように、僥倖にあった人物(味稲(うましね))の成功を祝福しているのかもしれません。

 そして作者は、左注にある人物であると、両氏は認めています。

② 語句の検討をします。

 初句にある「古」(いにしへ)とは、「往(い)にし方」の意です。「過去」全般をさすことができますが、二句や五句にある語句から『柘枝伝』(しゃしでん)という説話(付記1.参照)が類推できますので、伝説となるほど昔のことを指している意となります。

 話し言葉としては、その場の話題に関する「いにしへ」と理解され特定の時点・時代や、過去に生じた特定の事柄をも指して用いられる語句です。当事者間では既定の事がらであり、この歌の作者とこの歌の披露を受けた人々には既知のものを指すことが可能な語句です。

 一方、二句にある「梁」を打つという漁法は、伝説の時代からこの歌が披露された時点以後も行われている漁法ですから、「やなうつ」人はどの時代にも(たとえ吉野山中だけとしても)大勢いました。五句にある「つみのえだ」が山桑の枝であれば、自生の樹木の枝であり、季節になれば風や動物によって生じています。共に一般名詞といえます。

 だから、この歌において「やなうつ」人を特定の時代の特定の人に限定するとすれば、『柘枝伝』(しゃしでん)という説話が当時流布されていますのでそれに登場する人物「味稲(うましね)」が有力です。ただし、あらあらの検討では、題詞からはそのように即断しかねました(付記2.参照)。

 さらに、2-1-389歌の「このゆふへ」と同じく、この歌を披露するきっかけとなるその場の話題に応じて「やなうつひと」を理解もできます。具体には『柘枝伝』から連想される味稲のような立場にいる(作者の時代の)特定の人物をも含意している場合もあり得ます。

 また、「つみのえだ」は、『柘枝伝』での仙女の化したものをさすとみるのが有力です。『柘枝伝』では、仙女は自らが化した「柘枝」を手にした味稲と夫婦になり、その後仙界に去っています。夫婦としては破局したことになります。味稲が子供を得たかは現在わかっている説話の範囲では不明です。ただ、去るにあたって、仙女は、味稲に特別に益するものを与えていることは確かです。そうでないと説話として伝える理由がない、と言えます。それも特別な経験です。

 このように、味稲は特別な経験をしているので、「やなうつひと」とは、その経験の意、即ち「仙女にあって夫婦になった人」あるいは「仙女にあって夫婦になったが捨てられた人」あるいは「仙女にあって特別なことを得たひと」の意の可能性もあります。 つまり、そのような特別な経験をしている人物は少ないのでその人物名でその特定の経験を指すことが可能です。

 整理すると、「(いにしへに)やひと」とは、具体的には、

第一 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲(うましね)そのひと

第二 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲のような立場にいる(今日の)人物

第三 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲の経験

を指している語句となります。

③ 三句「なくありせば」は、六音の句であり、作者としては力説している語句なのでしょう。以後の文の前提としての仮定を示しています。

 何が「無い」という状態か、というと、上記②のような3案がある「(いにしへに)やなうつひと」です。

 さて、三句「無有世伐」について、土屋氏らは、連語の「なかりせば」という訓に基づいています。語句分解すると、

 形容詞「なし」の連用形+過去の助動詞「き」の未然形+接続助詞「ば」

 あるいは、形容詞「無し」の連用形+サ変活用の動詞「す」の未然形+接続助詞「ば」

となる、とされています(ただ、語句分解の前者は私にはよく理解できません)。

 連語として「もしなかったならば」の意と『例解古語辞典』に説明されています。

 土屋氏も伊藤氏も、二句にある「やなうつひと」を『柘枝伝』という説話に登場する味稲そのひとに、そして五句にある「つみのえだ」は仙女の化したものに、限定した理解をしています。

 三句「なかりせば」を直訳すると、「(やなうつひとが)なかったならば」ということになります。「人物がない」を意訳すれば、「人物がいなかった(ならば)」となります(「なし」の意には下記に記すように「生存しない」意もあります)。

 結局両氏は、『柘枝伝』(しゃしでん)という説話に登場する味稲(うましね)を念頭においた歌、という理解となります。

④ ところで、『柘枝伝』は、仙女が、(資格を失い)また仙界に戻るため普通の人間の世界に来た説話です。もしも、味稲がその時「つみのえだ」を手にしなかったら、仙女はその目的を即座に諦めたのでしょうか。その目的のためには味稲のみに手に取ってもらうことが必要であったとしたら、味稲が手にとったのは仙女にとって何度かのチャレンジをした結果であった可能性もあります。

 仙界において、仙女でも仙人でも『柘枝伝』に登場する仙女のように普通の世界に下るような立場になることは、ままあることらしいので(似たような説話がいくつもあります)、作者が活躍している時代にも仙女の化した何かが、作者の周辺にあると期待してもよいかもしれません。

 このため、『柘枝伝』に登場する仙女を、作者が活躍している時代に出逢うことを願うよりも、単に『柘枝伝』に登場するような仙女に出逢いたい、と作者は願っている、と詠っているという可能性もあります。

 『柘枝伝』という説話は、仙女が時々普通の人々の世界に戻ってくることがある、という一例であるということが当時の官人の理解であったのではないか。

 吉野山以外にも、仙女の住む仙界を人々は想定していた(認めていた)と思います。

⑤ 今、三句は「なくありせば」と訓んでいます。字余りの六文字の句です。語句分解をすると、

 形容詞「無し」の連用形+ラ変動詞「あり」の連用形+サ変動詞「す」の未然形+接続助詞「ば」

となります。その意を『例解古語辞典』に求めると、次の表1が得られます。

表1 「なくありせば」の語句別の意

意の区分

 a

 b

 c

 d

 e

形容詞なし

(無し)

*存在しない。

*ない。

不在である。

いない。

(亡しとも記し)世にない。

生存しない。

*類がない。

*少ない

 

動詞あり

(有り・在り)

*ある。

*存在する。

その場に居合わせる。

*(時が)たつ。

*経過する。

 

 

動詞す

(為)

*行う。する。

(・・・の感じが)する。

*ある状態にならせる。

*ある状態におく。

*扱う。

*みなす。

*思う。

(・・・が)感じられる。

助詞ば

*もし・・・なら、

*・・・たら

 

 

 

 

 

⑥ この歌における各語句の意の候補を上げると、上表の*マークをつけた太字斜体の意となります。

 補足をします。

 上表の「無し」aの意は、基本的な意であろう、と思います。

 上表の「無し」bの意(「不在である」意)は、「ここにあらまし」と作者がこの歌において詠んでいるので伝説になっている人物「やなうつひと」の生きている時代の景を詠んでいないので、あり得ない、と思います。

 上表の「無し」cの意(「生存しない」意)は、この歌の作者が『柘枝伝』を認めているので味稲や仙女という概念を否定することになる意となり、あり得ない、と思います。

 上表の「無し」dの意(「類がない。少ない」の意)は、「やなうつひとの類い」、という表現の可能性があるか、と思います。

⑦ 次に、上表の「あり」の「意の区分a」は、「なし」の「意の区分a」と意が対となります。そうであると、「何かがなく、別の何かがあり」という理解をせざるを得ません。さもなくば、「何かがなく、そして(その状況が今も)「あり」」ということを詠っていると理解でき、「あり」は「意の区分c」、即ち「(時が)たつ。経過する」意と考えられます。

 この歌は、『柘枝伝』を前提にしてよいので、「あり」の「意の区分a」の場合であれば、「何かがなく、別の何かがあり」とは、「やなうつひとが居らず、つみのえだがあり」という理解が第一候補になります。

 「あり」の「意の区分c」の場合であれば、「やなうつちひとがいない状況のまま時が経過し」という理解が妥当です。

 また、「あり」の「意の区分a」の場合には、上表の「す」も「何か」を省いた表現が続いている可能性があります。つまり、『柘枝伝』を前提に「それ(つみのえだ)を流すこと)を「す」」と言っているという理解が第一候補となります。そのため、 「す」は、「意の区分a」が該当します。同様に「意の区分c」も可能性は否定できません。

 そして、『柘枝伝』 では「つみのえだ」は流れてきたので、そのような状態にある「つみのえだ」とみなす、という理解も可能です。即ち、「す」の「意の区分d」も該当します。

 次に、「あり」の「意の区分c」の場合の「す」は、、『柘枝伝』を前提にすると、「意の区分c」でも可能ではないか。即ち、「やなうつひとがいない状況のまま時が経過しという状態におく(ならせる)」となり、「やなうつひとがいない状況が今日まで続いている」ことを指している、ことになります。そして、「す」は、「意の区分d」も該当可能です。

⑧ このため、「(やなうつひとの)なくありせば」の意の候補を作成すると、『柘枝伝』を前提にして次の表2のような案が出来ます。

表2 「(やなうつひとの)なくありせば」の意の(案)

(案)の区分

「なく+あり+せ+ば」の意の組合せ

直訳の現代語訳の例

第11案

a+a+a+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)あり(それを)流すとすれば

第12案

a+a+c+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)ありという状態におくとすれば

第13案

a+a+d+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく(そしてつみのえだの)ありとみなすとすれば

第14案

a+c+a+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたち(何かを)行うとすれば

第15案

a+c+c+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたつという状態になっているとすれば

第16案

a+c+d+a

もし、(やなうつひとの)存在してなく時がたつとみなすとすれば

第21案

d+a+a+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)あり(何かを)行うとすれば

第22案

d+a+c+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)ありという状態におくとすれば

第23案

d+a+d+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく(そしてつみのえだの)ありとみなすとすれば

第24案

d+c+a+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたち(何かを)行うとすれば

第25案

d+c+c+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたちという状態におくとすれば

第26案

d+c+d+a

もし、(やなうつひとの)類が少なく時がたち、とみなすとすれば

 表2の各案は、『柘枝伝』の説話が前提に詠まれている歌の一部です。

 このため、「やなうつひと」という類型化された表現ですが、『柘枝伝』の登場人物味稲を指すのが第一候補となります。

 『柘枝伝』の登場人物である仙女は直接表現されていませんが今日知られている『柘枝伝』では、固有の名を持っていない仙女であり、時々この世界に仙女はきている、という状況になります。

 この世界にきた仙女は誰かと共に過ごす必要があったとすれば、味稲の居る時代ではない時代にこの世界に来たとしたら、どうなるか、という仮定をおいたのが、「(やなをうつの)なく(、かつ、)ありせば」という仮定ではないか。

 そうすると、表の第11案~第13案と第21案~第23案は、それに対応した理解といえます。第14案~第16案と第24案~第26案も上記の仮定に応えていますが、省略のより大きい案といえます。

 どの案が有力なのか、はこの歌のほかの語句との関係によります。

⑨ 次に、四句「ここにあらまし」も字余りの句です。

 「ここ」とは、代名詞であり、近称のほか自称や対称の意もあります(『例解古語辞典』)。

 第一 近称。話し手に最も近い所。または、話し手のいる場所を表す。この所。

 第二 近称。話し手に近い事物を表す。このこと。この点。

 第三 「ここに」という言い方で、自称。わたし。

 第四 「ここに」という言い方で、対称。あなた。こちら。

 第五 「ここに」という言い方で、他称、尊敬の意を含む。こちらのおかた。こちら。

 「あらまし」の「あら」は、助動詞「まし」が活用語の未然形に付くので、ラ変活用の動詞「あり」ということになります。「あり」の意は、上記⑤の表1のとおりです。

⑩ 四句「ここにあらまし」の「まし」の意は、次のとおり(『例解古語辞典』)。

 「まし」は、ある現実・事実を前提として、もしそうでなかったらという反現実・反事実の条件を仮設して想像しています。そのため、

第一 (条件となる句を、未然形に付く助動詞「ば」で示し)現実の事態に対し、そうならないために必要であった反対の事がらや、実現不可能な事がらを、敢えて、新たな条件として想定し、その場合は、現実とは違うこのような事態となっていただろう、と推量の意を表す。また、現実の事態に対する後悔・不満・安堵などの心情を託して用いられることも多い。もし・・・だったら・・・だろう。

第二 現実の不満足な事態に対し、上記と同様に新たに想定した条件となる事がらを提示して、その実現を強く願う気持ちを表す。もし・・・だったらよかったのに。

第三 疑問の副詞、または係助詞「や」とともに用いて、話し手がある事態に直面し、どうしたものかと迷ったり、ためらったりしている気持ちを表す。・・・うかしら。

ここでは、前句の「なくありせば」の「ば」で前提条件が示されています。「ば」の前の語句すべて(「やなうつひとのなかりせ」)が前提条件と見るのが常識的な理解となりますが、五句「つみのえだはも」を考慮すると、「せ」一字が前提条件となっているとする理解も可能かもしれません。

 その前提条件は、『柘枝伝』を前提として検討すると、『柘枝伝』の説話は空想と承知しているものの、そのような(この世では)実現不可能な事がらを、敢えて、改めて新たな条件としてこの歌を詠いだしている、とみることができます。

 この前提条件は、現実の不満足な事態に対する新たな条件ではない、と思えます。

 なお、「あらまし」は連語として古語辞典では立項しており、「事実とは異なる状態を想像して、そうあったらよいのに、という気持ちを表す」語句と説明されています。

⑪ 次に、五句「つみのえだはも」を検討します。

 「つみのえだ」とは、『柘枝伝』が前提なので、味稲と夫婦になった仙女を意味するのではないか。あるいは、味稲にとって特別な経験を与えてくれたことを意味するのかもしれません。

また、「つみのえだはも」は、

 動詞「つむ」の連用形(名詞化)+助詞「の」+名詞「えだ」+連語「はも」

と語句分解もできますので、四段活用の動詞「つむ」の意を確認しておきます。

 抓む:aつまむ bつねる。

 摘む:(食物の芽などを)指先ではさんでとる。つみとる。

 積む:a積る。たまる。b積み重ねる。cなどなど。

 そうすると、「つみのえだ」とは、「山桑の枝」のほかに、「摘むことができる枝」の意もあり得ることになります。「枝」とは、「幹」と一対となる語句です。

漢字「枝」には、ブログ2022/8/1付けの「25.⑧」に記したように、木の幹から別れ出た部分をいう「えだ」の意のほかに「分家」の意もあります。そして題詞を検討して、題詞の理解として「『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞とみる案」も候補(同ブログ「25.⑬」)となりました。それに対応可能な五句の理解となります。

⑫ 五句「つみのえだはも」にある「はも」に2意あります。

ひとつは、係助詞の連語であり、上代語のみの意として、「上接の語句を、「は」でとり立て、「も」で詠嘆の気持ちを表す。・・・はまあ。」

もうひとつは、終助詞の連語として、「強い感動・詠嘆を表す。・・・よ。・・・なあ。・・・はなあ。」の意があります。

ともに、特に回想したり惜しんだりする気持ちを含むことが多いのだそうです。そうであると、この歌は、ある事がらを振り返って詠んでいる歌となります。その事がらは、『柘枝伝』を前提にしてこの歌を詠むことになった時点(2-1-390歌の元資料が詠まれた時点)の直前に生じたことが想像できます。

⑬ ところで、「やなうつひと」には、3案ありました。表2の第11案を例にして、あらあらの検討をして、この歌が前提条件としていることを整理してみたい、と思います。

「(いにしへに)やなうつひと」とは、

第一 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲(うましね)そのひと

第二 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲のような立場にいる(今日の)人物

第三 (昔々に)『柘枝伝』に登場する人物・味稲の経験

の意が候補となりました(上記②)。

 それに対応する初句~三句の現代語訳を試みると、

 第111案 「もし(昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 第112案 「もし、(昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 第113案 「もし、(昔々の)やなうつひと味稲のような経験が)なく、(そして『柘枝伝』の説話に沿ったつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば」

 これが、『柘枝伝』を前提とした四句以下の前提条件なので、素直な第111案が有力である、と思います。

 更に、この歌の披露された席の話題について詠われたとすれば、あるいは歌全体に暗喩があるとすれば、第112案のほうが第一候補となります。

 初句(いにしへに)は、このように、「やなうつひと」が味稲という固有の人物名の代名詞であるとことに限定し、「つみのえだ」が何かの代名詞であることを示唆している、といえます。

⑭ 上記のような語句の意を踏まえ、題詞(付記2.参照)のもとにある歌本文として、主語述語に気を付けて、文の構成をみてみます。第111案と第112案を仮置きして検討します。

 文A いにしへに : 「昔々に」

  助詞「ば」以前の文(初句~三句)の検討(上記⑬)で、味稲の時代を指している、と限定できました。

 文B やなうつひとの なく : 

 第111案 「もし、やなうつひと味稲が居なかった(そして)」

  あるいは、

  「もしも、(『柘枝伝』に伝えられる)梁打つ人味稲が、居なくて(そして)、」

 

 第112案 「もしも、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)」

   あるいは、

     「もしも、(『柘枝伝』に伝えられる)梁打つ人味稲のような人物が、今日(現在)居なかった、」

 

  文C (なく)ありせば :

   「(そしてつみのえだ)があり、それを上流から流す(あるいは流れてくる)とすれば」

 文D ここにもあらまし: 「ここに」の理解が分れ2案あります(上記⑨)。

 「今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う。)。」 

(「ここ」は、「この所」という「意の区分第一」の意)

     (別案)「貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。)」

(「ここ」は、「ここに」で「対称、あなた」という「意の区分第四」の意。かつ「あらまし」の「あり」の意は、「その場に居合わせる」という「意の区分b」の意ではないか。)

 文E つみのえだはも:「つみのえだ」の理解に2案あります(上記⑪)。

 「その「つみのえだ」よなあ。(それは、感動的だった、と私は思う)」。

「はも」は終助詞。「つみのえだ」は、「桑の木の枝」の意。)

   (別案)「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)」。

「はも」は終助詞。「つみのえだ」は、「分家筋のあなた」の意。)

⑮ このように整理してくると、四句にある「ここに」の理解により歌の意がだいぶ変ることが分かります。

 『柘枝伝』に題をとったかにみえて全然違う内容の理解が可能になっています。

 第111案と第112案で歌全体の現代語訳を試みます。

第1111案 「もし,昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う。)その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、特別な幸運か。

第1112案(別案採用の案) 「もし、昔々に、やなうつひと味稲が居らず(そしてつみのえだ)があり、(それを)流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。)「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、「分家筋のあなた)の意。

 

第1121案 「もしも、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、今日(現在)この所にも(つみのえだは)あるのだろうなあ(、と安堵しつつ私は思う)。その「つみのえだ」よなあ(それは、感動的だった、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、特別な幸運か。

第1122案(別案採用の案) 「もし、昔々に、やなをうったという味稲のような立場にいる人物が(今日現在には)居らず(そして)つみのえだがあり、それを流すとすれば(それが流れてきたらば)、貴方も(そこに)居合わせたのだからなあ、(と安堵しつつ私は思う。) 「摘むことのできる「つみのえだ」は、まあ(それは、感嘆に値する、と私は思う)。」

 この場合、「つみのえだ」は、「分家筋のあなた)の意。

 

⑯ さらに歌の意を限定するには、題詞とそのもとにある3首を有機的に理解したほうがよい。また、巻三の雑歌に配列されている理由の解明もこれからです。

 そして、この歌に暗喩があるとすれば、同じ題詞のもとにある2-1-388歌の二句にある「吉志美我高嶺」(きしみがたけ」は、初めから抽象化した山として詠まれていた可能性(2022/8/15付けブログの「28.⑧の第三案」)が強いのではないか。2-1-388歌が雑歌に配列されている理由がこの山にあるのかもしれません。

 それらを、次回検討します。

⑰ なお、この歌の作者は、漢文の教養があり(漢文で記された)『柘枝伝』を読むことが出来る人物ではないか、と想像します。二句にわたり字余りのあるこの歌は伝承歌ではないでしょう。

 この歌には左注があり、作者名を記していますが、上記に該当する人物かどうかは不明です。その名は、このほか、『萬葉集』では巻八の2首(2-1-1433&1434長歌反歌)の左注にも「若宮年魚麿誦之」とあります。

 巻三編纂者が、ここまでの歌においては、自ら注をしていないと仮定して配列と題詞と歌本文が理解出来てきましたので、この歌の理解にも考慮していません。

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただき、ありがとうございます。 

(2022/9/5  上村 朋)

付記1.『柘枝伝』について

① ブログ2022/8/1付けブログ(「26.⑧以下」)で検討した。

② 現在わかっている内容は次のとおり。『懐風藻』の7詩の句に詠われていることからの推測である。

また、不老不死の仙人・仙女という人物がこの世に一旦来て去るという発想は、中国渡来のものであるので、それがこの説話の基本にあるとみて、もと居たところに還っていった、という私の推測が加わっている。

「吉野の人味稲(うましね)が川で、吉野山中にいる仙女が姿を変えていた柘の枝を拾い持ち帰ったところ女に化し一旦は妻になって二人は楽しく暮らした(がその後仙女はもと居たところに還っていった)、ということを語っていると思われる伝説」

③ 仙女の立場からみると、何らかの理由で仙界から追放された仙女が、人間界においてその償いか修行をして戻って行った、ということになる。償い・修行そのものは、人間界にとってはプラスに働いたこと(あるいは人間次第でプラスになること)なので、人間界では僥倖の一例として語り継がれてきた、ということになる。

④ 補足すると、これは、儒教の善を成さず悪をなせば、仙女たる資格を失う(という仙人の位にいる)のが『柘枝伝』の仙女、という理解である。

 仙人は、仙術を操って普通の人間を助ける、仙界にいる(もともとは人間であった)存在、とすれば、味稲は、助けるに値する人物と仙女は知っていたことになる。そのような理解でも味稲は「特別な経験」をした人物であるので、本文における2-1-390歌の理解は通じる。

付記2.2-1-390歌の題詞について

① ブログ2022/8/1付けブログの「26.」で検討した。2-1-388歌から2-1-390歌に共通の題詞である。

② 大別2案ある。

第一 『柘枝伝』を念頭において作文された題詞とみる案。例えば、

 「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首」

  第二 『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞とみる案。

 例えば、「仙」は、「天子に関する事物につけていう語句」の意、「仙枝」は、「聖なる樹木の枝あるは聖なる分家」の意とすると、

「天子に関する山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌」

また、例えば、「仙」は、「すぐれている、とうとい」の意、「枝」は、「樹木の枝又は分家」の意とすると、

「すぐれている山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌 (「分家」で意訳をすれば、「優れている血脈につながる分家の(あるいは、に関する)歌」)」

など。

③ 題詞に暗喩があるので、この題詞のもとにある3首の歌の理解とあわせた検討が必要であり、ブログ2022/8/1付けブログでは後日行うこととしている。

(付記終わり 2022/9/5   上村 朋)

 

 

 

 

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三配列その17

 前回(2022/8/15)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 霰 萬葉集巻三の配列その16」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か このゆふへ 萬葉集巻三の配列その17」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~28.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

29.「分類A1~B」以外の歌 2-1-389歌の歌本文 

① 今回同一の題詞のもとにある2首目の歌本文の検討を行います。

 題詞は、あらあらの検討が終わっています(ブログ2022/8/1付け参照)。2-1-388歌のあらあらの検討も2022/8/15付けブログで検討し、現代語訳の一試案も得ました(付記1.参照)。

 次に、2-1-389歌を検討します。

 2-1-389歌 仙柘枝歌三首

   此暮 柘之左枝乃 流来者  梁者不打而 不取香聞将有

   このゆふへ つみのさえだの ながれこば やなはうたずて とらずかもあらむ

   (左注あり) 右一首

 現代語訳例を2022/8/1付けブログ(「27.②」)に示しました。土屋文明氏と伊藤博氏の訳例です。両氏とも、「2-1-389歌の作中人物は、今、柘の小枝が流れてきたら、取るだろう、と詠っています。『柘枝』伝の味稲の例に倣う、と言っている」と理解しました。

② 語句の検討をします。

 初句「此暮」(このゆふへ)とある「この」とは、連語であり、その意は3意あります(『例解古語辞典』)。

 第一 話し手に最も近い事物をさす。

 第二 前に述べた物事をさしていう。こんな。

 第三 現在まで続いた、最近の。

 伊藤氏は、この歌を宴席の歌として、第一の意と理解しているかのようです。土屋氏の場合は不明です。

 初句「此暮」(このゆふへ)とある漢字「暮」とは、「動詞「くれる」、名詞「くれ」・「よる」、形容詞「おそい(晩)」という意があります(『角川新字源』)。

 その訓「ゆふへ」(後代はゆふべ)とは、夜から朝にかけての時間の推移のはじまりであり、「ゆふべ」から、「よひ」、「よなか」(午前零時過ぎ)、「あかつき」、「あけぼの」、「あした」と進行したようだとし、(月が関係する)明るさに関係なく、時間的な進行についての表現です(『例解古語辞典』、以下も原則同じ)。

「夕べ」(複合語では「夕+・・・」)は、「夜を中心とした時間の始まりであり、「夕映え」という語句からも知られるように、日暮れ時分で、まだ暗くない。「よひ」は暗い時間を指す。」、とあります。「あした」(複合語では「朝+・・・」)は昼間を中心とした時間の始まりだそうです。

③ そうすると、初句にある「ゆふへ」は、ある物事の始まりを示唆しているのかも知れません。

 そして、「この」の意に従い、初句「このゆふへ」には3案があります。「この」をその第一の意と理解した、

 第一 「この歌が披露された当日の「ゆふへ」のこととして詠いだした、」

を意味するほかに、「この」をその第二の意と理解した、

 第二 「歌が披露されることとなった宴席などその会合で話題となった事がらにおける「この」ゆふへ、として詠いだした(今その会合で話題としている事がらにあるような「ゆふへ」と詠い出した)。」

 また、「この」をその第三の意と理解した、

 第三 「歌が披露されることとなったその会合等までに既に話題となっていた事がらにおける「この」ゆふへ(官人の間で十分話題となっていたことを題材に、その話題にあるようなことがおこる「ゆふへ」と詠いだした)。」

の3案です。

 この第三の意であると、この歌は会合で披露されなくとも書簡のやりとりにおける歌と理解することも可能です。「この」という臨場感は、同席していることを要しないからです。

 また、初句は、どの句までを修飾しているのか(「このゆふへ」に設定したことは何句までのことか)は、まだわからない状況です。候補は、仮定の接続助詞「ば」のある三句までと、推量の助詞「む」のある五句までの2案があります。

④ 二句「柘之左枝乃 」(つみのさえだの)の「柘之左枝」とは、山桑の小枝を指します。題詞「仙柘枝歌三首」のもとにある歌なので、『柘枝伝』(しゃしでん)に登場する(仙女が化したという)「柘枝」を指しているのかもしれません。

 三句「流来者」は四句以下の文の前提として仮定をしている文です。初句~三句までが以下の文の条件文なのか、初句は五句までにかかるとして二句と三句のみが以下の文の条件文かは、三句までではわかりません。歌の披露は朗詠されたと想定できますので、この歌の元資料の段階であればその朗詠のトーンなどで上記のどちらであるかの推測が可能であったかもしれません。

 それでも、題詞より『柘枝伝』の一場面は思い浮かびます。

⑤ 四句「梁者不打而」(やなはうたずて)の「梁」とは、「魚を捕らえる仕掛けの一つ。川の瀬などに木を打ち並べて、一部をあけ、そこに簀(すのこ)を置いて魚を受ける」(『例解古語辞典』)というものです。杭や石などで、目的の魚の行き来する流路を誘導し、簀を通れないその魚が留まるという仕掛けです。洪水ともなれば、水没する施設です。

 「打」(うつ)とは、その仕掛けを設ける作業をいうのでしょう。

 「やな」を設けた瀬には、色々なものが流れ下ってくるので、邪魔になる物は取り除きます。流れてきた「山桑の小枝」が、「やな」に留まってしまったら邪魔なものとして取り除けられることになります。家に持ち帰ろうとするのは別に目的があるからでしょう。

 「やな」を設けていなければ、邪魔なものと「山桑の小枝」は認識されないでしょうし、自然流下してゆき、人の目から消えてゆきます。

 そして接続助詞「て」の後の文は五句にある「不取」であり、「て」は、「不取」という行為の状況や理由など述べていることになるのではないか。具体には、

 第一 連用修飾語をつくる場合、あとに出る動作や状態が、どんなふうにして行われるか、どんな状態で行われるか、どんな程度であるのか、などを示して、あとの語句にかかる。

 第二 接続語をつくる場合、それで、そのため、という気持ちで、あとに述べる事がらの原因・理由などを述べる。

 第三 接続語をつくる場合、それでいて、そのくせ、という気持ちで、あとに述べる事がらに対して、一応の断わり述べる。

などの意があります。

⑥ 次に、五句「不取香聞将有」(とらずかもあらむ)を検討します。

「やな」が無いとなれば、「山桑の小枝」は邪魔なものという認識が生じません。流れてきても注目されず自然と人の目から消えてゆきます。

やなを設けていなければ「不取」ということは、ごく自然なことでしょう。

 動詞「とる」は同音異義の語句で、その意は次のようなものです(ブログ2022/8/15付け「28.⑪」より引用)。

「取る」:a手に持つ。b(拍子を)とる。

「捕る」:とらえる。

「執る」:手に持って扱う。操作する。

「採る」:採用する。採択する。

などなどです。

 「とらず」の「ず」は、打消しの助動詞「ず」の連用形あるいは終止形です。

 「香聞将有」(かもあらむ)の「かも」は助動詞「ず」の連用形に付いており、係助詞となります。詠嘆を込めた疑いを表します。

⑦ 「香聞将有」(かもあらむ)の「あら」は、ラ変の動詞「あり」の未然形です。

 ラ変動詞「あり」とは、「有り・在り・」と表記し、「aある。存在する。bその場に居合わせる。c(時が)たつ。経過する。」の意があります。

 「む」は推量の助動詞です。誰のことを推測しているかにより、その表すところが変わる語句です。「かも」の係り結びとなって、ここでは連体形、となっています。

 第一 この歌の作者(歌を披露した人物)が自らの行動について推測しているのならば、「あることを実現しようとする意志・意向」を表します。

 第二 この歌の作者(歌を披露した人物)が(「このゆふへ」における)第三者の行動について推測しているのならば、「物事の実現を予測したり、事態を不確かなこととして推量したりする意」或いは「(連体形を用いて)そうなることを仮定したり断定することを避けて婉曲に言ったりする意」を表します。

  第三 相手の行動についての推測では、「こそ・・・め」の係り結びなどの形をとったりするので、ここでは該当しない、と思います。

⑧ このような意のある語句を用いた歌本文について、文の構成を、題詞から示唆される『柘枝伝』の説話に留意し検討します。

 初句にある「このゆふへ」が修飾する文・語句の範囲に関して、大別して2案があります。

 「このゆふへ」に起こる事がらで、重要なことと作者が認識しているのは、二句~三句にある「つみのさえだがながれくる」ということか、あるいは五句にある「とらずかもあらむ」という行動か、のどちらであるかという点で2案あります。

 このため、歌本文の文の構成は次の2案となります。

 第一案 初句「このゆふへ」に起こる事がらについて、三句「ながれこば」と仮定すると、五句(誰かが)「とらずかもあらむ」となる。

 第二案 初句「このゆふへ」に起こる事がらを予測すると、五句(誰かが)「とらずかもあらむ」となる。

 初句のみでどちらであるか即断できないので、初句のみで独立の文として整理することとします。

 また、五句は、作者が推測しているのは誰の行動か、で案が別れます。

 

 文A このゆふへ :(『柘枝伝』にあるような場面である)このような夕方 (「この」は上記③第二の意)

    (別案)今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意)

 別案であれば、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 

 作者も披露を受けた人たちも、『柘枝伝』をよく承知している人物なので、歌を披露した当日の定性的な属性(月日や月齢や恒例の儀式の当日など)が『柘枝伝』の特定の場面を想起させる、ということが「このゆふへ」である可能性は少ない、と思います。 それでも、『柘枝伝』の説話にある一場面を念頭に作者は「このゆふへ」と詠い出したのではないか。それは、初句にある「ゆふへ」が、夜の始まりを意味するので『柘枝伝』での仙女と味稲との最初の出会いのような事がら(味稲が「つみのさえだ」を流れから手にとりあげた場面)を指すのではないか

 それが『柘枝伝』に記載のある話題であるのは確かなことですが、作者の意図は、それから想起することを話題として詠いだしたのかどうかは、不明です。

 このため、「このゆふへ」の意は、「この」の意を上記③に記した第二の意または第三の意が該当し、夜のはじまりである「ゆふへ」を重視すれば、第三の意の案である「文A(別案)」が理解の第一候補となります。

 なお、文Aのみでは、文Aが修飾している文・語句の範囲は不定です。

 

 文B つみのさえだの ながれこば :「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくる としたらば、

  この文Bは、文Cと文Dの前提条件となっています。

 「つみのさえだ」は、「この」の意が第二の意であれば、「仙女が化したという柘枝」を意味し、「この」の意が第三の意であれば、単なる「つみのさえだ」(山桑の小枝)を意味します。暗喩の有無はまだわかりません。

 文C やなはうたずて :(その流れに)梁は、設けることをしないで、

 この文により、梁がない場面ということが分かりますので、梁が既に打ってある『柘枝伝』の一場面と異なる状況ということになります。文Bにある「ながれこば」という条件は、梁を打っていないときのことであることになり、文Aの理解は、「文A(別案)」が唯一の理解となります。

 文D とらずかもあらむ :(「つみのさえだ」を)私は手にすることはないだろうか、どうであろう。

(別案)(「つみのさえだ」を)誰かは手にすることはないだろうか、どうであろう。

 五句にある「かも」には、反語の意がなく「詠嘆を込めた疑い」の意ですが、なぜ「詠嘆」するのかはっきりしていません。しかし、「つみのさえだ」を、手にしたい気持ちが自分か誰かに生じることを作者は認めている表現である、と理解できます。

 なお、五句にある「とる」の意を「取る」の意で検討してきましたが、「採る」の意とすると、

 文D’ とらずかもあらむ :(「つみのさえだ」を)私は採用することはないだろうか、どうであろう。

(別案)(「つみのさえだ」を)誰かは採用することはないだろうか、どうであろう。

となり、「つみのさえだ」に暗喩が込められていることになり、2-1-388歌にある「吉志美我高嶺」の第一案、第三案それぞれに対応する歌の理解が可能です。

⑨ ところで、この歌に対する疑問があります。流れてきた「つみのさえだ」を手にする(採用する)際に、梁に拘っていることです。

 一般に、川の瀬に「つみのさえだ」が流れてきて、それを拾い上げる意思があれば、梁がなくとも、瀬に入り手にすることができます。梁がないと手にできないものではありません。だから、「目にした(そしてどこか気になった)「つみのさえだ」を、流れ去ってゆく前にさっと手にするかどうか、と悩むのも大袈裟ですが、手にするのに「梁」の有無をなぜ気にしているのでしょう。「つみのさえだ」が流れてくるのをみてから「梁」を設けていたら、今後もいくつも流れてくる「つみのさえだ」を手にする、ということになります。

 もともと流れてきた「つみのさえだ」は手にする価値のあるものでしょうか。「つみのさえだ」を小道具にした遊びがあるとも思えません。自然に流れ去って当然の「つみのさえだ」をわざわざ拾いあげようとすることを重視している理由は何でしょうか。

⑩ 題詞を前提にすると、「つみのさえだ」は「梁を打たない」という表現により、『柘枝伝』における「つみのさえだ」でない、即ち特別なことを期待しているのではない、ということを強調しているのではないか。

 川を流れ下ってきた「つみのさえだ」に価値があるとは思えません。それを拾いあげるのは、気まぐれの行為か、美化しても趣味の範囲の行為です。

 官人ですから、拾いあげるといっても、自ら行うよりも下僚や家人に拾ってこさせた、というのが実情だと思います。それをほかの官人が(例えば官人の品位を問題として)とがめだてする程のこともないでしょう。

 この歌は、「このゆふへ」という語句で、時点と状況を示し、『柘枝伝』における「つみのさえだ」でない「つみのさえだ」を、(私か誰かは)拾いあげる「かも」と詠っていることになります。これは、このようなことは目くじらたてることではない、と言っているように見えます。

 同じ題詞のもとにある直前の歌(2-1-388歌)は、「『柘枝伝』における、仲睦まじい夫婦であった時期のエピソード」の歌でした(2022/8/15付けブログ「28.⑯」参照)。その『柘枝伝』ではその後仙女は仙界に突如還り夫婦は破局を迎えています。それを前提にすると、この歌でいう、「つみのさえだ」は、(『柘枝伝』に登場するものとちがい)結果として破局を迎えるものでもない、ということを言っている、と思えます。

 この歌で「梁」の有無を気にしているのは、直前の歌と比較することを求めている、のかもしれません。

⑪ ここでは、文Dで現代語訳を試みます。

 以上の検討の結果

 文Aの「このゆふへ」の意は、文Bと文Cにより、「文A(別案)」となります。

 文Dは2案(行動する人物別)、となります。

 文Aの「このゆふへ」のかかる文の範囲は、まだ定かではありません。

(試案)は、つぎのとおり。

 第一案 作者が、自身の行動を推測している場合

「今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意 文A(別案))、

「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、

(その流れに)梁は、設けることをしないで、

私は手にすることはないだろうか、どうであろう。」

 なお、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 これを、2-1-389歌現代語訳試案第一とします。

「このゆふべ」と作者自らが場面設定をし、その「ゆふべ」での自らの行動を推測しているので、「このゆふべ」は、文Bを修飾しても文B~文Dを修飾しても、どちらでも歌の意は、同じです。強いていえば、直近の文Bを修飾しているほうが文の構成としてわかりやすい、と思います。

 第二案 作者が、誰かの行動を推測している場合

 「今日この場で話題となった事がらのような夕方 (「この」は上記③第三の意 文A(別案))、

「つみのさえだ」が、(目の前に)流れてくるとしたらば、

(その流れに)梁は、設けることをしないで、

(「つみのさえだ」を)誰かは手にすることはないだろうか、どうであろう。(文D(別案))

 なお、「ゆふへ」が夜のはじまりということで「何かの始まり」の意を付け加えることができるのではないか。

 これを、2-1-389歌現代語訳試案第二とします。

「このゆふべ」と作者自らが場面設定をし、その「ゆふべ」での誰かの行動を推測しているので、「このゆふべ」は、文Bを修飾しています。「このゆふべ」の文Bの場合の誰かの行動を作者が推測している歌です。

 いまのところ、この(試案)2案の一方を否定できる材料がありません。さらに文D’の案もあり得ます。

 一つの題詞のもとの3首は、同時に成り立つ歌のはずであり、後ほど3首の比較検討で、試案は1案になると予測しています。

⑫ 伊藤氏は、宴席で、『柘枝伝』の味稲になりかわって出席者の誰かが詠んだ前歌(2-1-388歌)を承けた歌であるが、宴席が夕方であったのかもしれない、という推測をしていますが、「この」の意に留意すると、そのようにこの歌の披露の場面を限定する具体的な材料がありません。少なくとも話題とした事がらは、「ゆふへ」を強調できる事がらであったのか、と推測するのみであり、宴のように対面での場面なのか、書面に記されて特定の人物に示されたのかあるかは回覧されたのか、題詞からもわかりません。

 この題詞のもとにもう一首あります。それを次回検討します。

 ブロブ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。(2022/8/22  上村 朋)

付記1.2-1-388歌の現代語訳試案について

① ブログ2022/8/15付けの「28.⑧」に題詞及び「28.⑯」に歌本文の(試案)を示している。但し、細部は詰めていない。

2-1-388歌 仙柘枝歌三首

   霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取

   あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

 (題詞) 仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌三首歌 (仮案)

 (歌本文) 「(恐ろしい)霰が降ってきて遮るもののない「きしみがたけ」にいるのを「さがし」と判断したので、私は、手にしていた草を放り捨て、いそぎ妹の手をとった(霰から逃げるために)。」(2-1-338歌現代語訳試案第一)

② 『柘枝伝』での説話を下敷きにして、仲睦まじいエピソードを表面上詠っている。

③ 「霰」(あられ)とは今日の雹も含めた当時の表現。草を手にしているのだからは冬ではない。

④ 「吉志美我高嶺」には暗喩がある。類似歌(5-353-19歌(『肥前風土記逸文にある歌))にある「きしみがたけ」を援用している。

⑤ 動詞「險」(さがし)とは、「けわしい」と「危うい・危険だ」の意がある。

(付記終わり 2022/8/22  上村 朋)

 

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 霰 萬葉集巻三配列その16

 前回(2022/8/1)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 逃避行か萬葉集巻三の配列その15」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 霰 萬葉集巻三の配列その16」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~27.承前

 『萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

 各グループは天皇の代の順に配列されており、各筆頭歌は、2-1-235歌、2-1-290歌、2-1-315歌および2-1-378歌です。

28.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌の歌本文 その2

① 2-1-387歌まで検討が終わり、今、2-1-388歌を、検討中です。

 題詞は、あらあらの検討が終わりました(前回のブログ2022/8/1付け参照)。歌本文の検討を続けます。

 2-1-388歌を再掲します。

 2-1-388歌 仙柘枝歌三首

   霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取

   あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

(左注あり) 右一首或云、吉野人味稲与柘枝仙媛歌也。但見柘枝伝無有此歌

 四句「草取可奈和」を、(『新編国歌大観』の訓ではない)「くさとりかなわ」と訓んだ土屋文明氏と伊藤博氏の現代語訳について前回(ブログ2022/8/1付け)検討しました。そして、両氏の理解は、『懐風藻』から類推した『柘枝伝』(しゃしでん)の説話の趣旨にそった歌になっていないのではないか、と指摘しました。

 今回、四句を(『新編国歌大観』の訓である)「くさとりはなち」と訓んだ歌として、検討します。

 その結果、「霰」の特性に適う、両氏と異なる理解となりました(下記⑯に現代語訳(試案)を記載)。

② 句ごとに、検討します。

 初句「霰零(あられふり)」に用いている漢字「霰」と「零」の意は『角川大字源』に次のようにあります。

 漢字「霰」:あられ。空中の水蒸気が急に凍って降ってくるもの。

 漢字「零」:aおちる。(雨がしずかに)ふる。おちぶれる。bしとしと降る雨。cあまり。端数。dなど・・・

 なお、漢字「降」:aおりる。下る。bふる。ふらす。おちる。cくだす。

 古語辞典には

 「あられ」:「a(冬に降る)霰。b「あられぢ」の略。」(『例解古語辞典』)。あるいは「a雲中の水分が凝結して降るもの。古くは、雹(ひょう)をも含めたらしい。bあられじの略」(『岩波古語辞典』)

 「あられふり:霰降り:「遠(とほ)」、「鹿島(かしま)」などにかかる枕詞(『例解古語辞典』)。

 『時代別国語大辞典上代編』には、「①あられがふってカシマシ(やまかしい)の意で、地名カシマにかかる。②アラレがふってキシムの意で、地名キシミにかかる。③あられの降る昔がトホトホと聞えるところから、遠にかかる。」とあります。

④気象現象である「あられ」とは、気象庁では、氷の塊であり、大きさにより「あられ」と「ひょう」に区別しています。直径5mm以上になると「ひょう」(雹)と呼んでいます。ちなみに漢字「雹」とは、「あられ。氷雨」とあり、「霰」との違いの説明は省かれています。

 俳句の歳時記によると、「霰(あられ)」は冬の季題であり、「雹(ひょう)」は夏の季題となっています(付記1,参照)。

④ 『萬葉集』で、「あられ」と訓んでいる例をみてみます。

 漢字「霰」を用いた歌は、巻一~巻四にこの歌のほか2首あります。

  2-1-65歌 慶雲三年丙午幸于難波宮時(64歌&65歌)  長皇子御歌

   霰打 安良礼松原 住吉之 弟日娘与 見礼常不飽香聞

   あられうつ あられまつばら すみのえの おとひをとめと みれどあかぬかも

  2-1-199歌 高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 并短歌

   挂文 忌之伎鴨 [一云 由遊志計礼抒母] 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之尓・・・引放 箭繁計久 大雪乃 乱而来礼 [一云 霰成 曽知余里久礼婆] 不奉仕 立向之毛 露霜之 消者消倍久・・・

   かけまくも ゆゆしきかも [一云 ゆゆしけれども] いはまくも あやにかしこき あすかの まかみのはらに ・・・ ひきはなつ やのしげけく おほゆきの みだれてきたれ [一云 あられなす そちよりくれば] まつろはず たちむかひしも つゆしもの けなばけぬべく ・・・

 漢字「安良礼」を用いた歌は、巻一~巻二十に、上記の2-1-65歌と2-1-4322歌(その二句が「安良礼多波之里」)のみです。

 漢字「雹」を用いた歌は、巻一~巻二十に、1首あります。

 2-1-2316歌 冬雑歌

   我袖尓 雹手走 巻隠 不消有 妹為見

   わがそでに あられたばしる まきかくし けたずてあらむ いもがみむため

 題詞からも歌本文からも「雹手走」の「雹」は、冬に降る「霰」を指しており「可憐な小粒の氷」といえます。後代の歳時記の基準からも同じです。

⑤ 2-1-65歌の題詞にいう行幸は、『続日本紀』によれば同年9月丙寅(26日)難波に行幸し、翌十月壬午(12日)還御しているものを指しているそうです。太陽暦では11月下旬ごろであり、今日いうところの「あられ」が降ることも有り得る頃ですが、『続日本紀』ではそこまでわかりません。

 その二句「安良礼松原」の「安良礼」は地名(の一部分)だそうです(付記2.参照)。同音のその地名を褒める枕詞と伊藤博氏は説明しています。

 しかし、古語辞典には「あられふり」が枕詞とあげられていますが、「あられうつ」はあげられていません。

 「あられ」に対して、動詞「ふる」と動詞「うつ」の違いは、「ふる」よりも「うつ」ほうが激しい降り方の表現になるのではないか。音も激しいでしょう。激しく降ってきたとすれば、実際は大粒の雹(ひょう)であったかもしれません(下記⑮参照)。

 この歌は、難波宮への行幸途中の地「住吉」を褒める歌です。伊藤氏は、旅での安全のため望郷と土地褒めをセットして詠うのが習いである、と指摘しています。

 そのため、「あられうつ」とは、「あられ」状のものが落下してくるという気象現象状況で、もっとも激しい降り方を「うつ」と表現し、「あられというとあの急激な降り方と音を連想することを強調し、「松原といえば、この地の松原であると、とてつもなく評判が高い」とか「特に有名になっている」という意の修飾語としてこの歌では用いられているのではないか。

 そのうえ、「あられうつ あられ(まつばら)」と褒める度合いを強めてこの歌では表現している、と理解が可能です。二句の「安良礼」は地名ではなく「霰」の意であり、2-1-65歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「音を立てて降ってくるのですぐ気が付く「霰」のように、松原といえばとてつもなく評判がたかいこの地の松原、それは住之江に居る(すでに評判になっている)弟日姫と同様に、本当に見飽きることがないなあ。」

 初句は、二句にある地名「松原」、あるいは、景勝の松原のあるエリアを修飾している、といえます。

 海岸沿いの松原は、今でもその長さも評価の要素の一つであろう、と思います。長さが短い松原を褒めようとはしていない、と思います。

⑥ 2-1-199歌の「一云 霰成 曽知余里久礼婆」を伊藤博氏は「あられのように矢が集まってくるので」(「曽知」は未詳)と現代語訳しています。射かけた矢がおびただしく集中している状況を、大雪が一カ所に降りかかってくる様子に譬えるとともに、形容した語句になっています。あられが降っている間はその量も音も激しいので、射かける矢の途切れない様の形容と思えます。

 著名な松原や、射かけた矢が集中している状況という、対象が特異な状況にある点に着目して比喩として用いているところです。

⑦ 3首目の例であるこの歌(2-1-388歌)では、初句「霰零」は、二句にある「吉志美我高嶺(乎)」を、修飾しています。

 二句「吉志美我高嶺乎」は、「吉志美」+我+高嶺+乎」と語句分解できます。

「吉志美」は一字一音の万葉仮名であり、「きしみ」と訓んでいるので、地名(又は山名の一部)か、動詞「きしむ」の連用形(動詞の名詞化)です。

 類似歌と指摘されている『肥前風土記逸文にある歌(5-353-19歌)は歌垣の歌とされており、歌垣が行われている近くの山が「きしみがたけ」と表現されている、とみることができます。

 動詞「きしむ」(軋む)とは、「きいきい音をたててこすれ合う。きしむ」の意があります(『例解古語辞典』 以下も原則同じ)。

 巻一~巻四での用例を確認すると、次のとおり。

第一 「吉志美」表記或いは訓「きしみ」は、この歌(2-1-388歌)一首のみ。

第二 「高嶺・高峰」の用例は5首にある(付記3.参照)。題詞に「不尽山」とある歌などにある。

『例解古語辞典』によると、

「高嶺」を「たかね」(高嶺・高根)と訓むと、歌語であり「高い峰」の意。

「たけ」と訓むと、同音意義の語句として、次の意があります。

 第一 たけ:竹

 第二 たけ:丈・長:a背丈・高さ。b立っている物または立てた物の長さ。c(・・・のたけの形で、全体で)・・・の度合い・程度・積み上げた高さを想像していう。(『新版角川古語辞典』では、a物の高さ。また長さ。b物の程度。c勢い。勢力。d馬の蹄から肩までの高さ四尺~四尺九寸(約120~150cm)までの総称。e歌論で荘重な感じ・気品。格調。)

 第三 たけ:嶽・岳:高く大きい山。高山。

⑧ これらより、二句にある「吉志美我高嶺(乎)」の理解には、少なくとも3案あります。

第一 諸氏の指摘する吉野山中の比定地未定の山。比高のある山あるいは山の肩の名前(固有名詞または普通名詞)

第二 『肥前風土記逸文にある歌(5-353-19歌)が詠う、肥前国にある山の名前(固有名詞)

第三 きいきい音をたててこすれ合うという意の名を持つ山で、比高のある山(何かを象徴している普通名詞)。

 勿論、第一と第二にも暗喩を想定しておかしくありません。

 これを修飾するのが初句「あられふり」です。

 初句「あられふり」を枕詞として扱い、二句を「きしみがたけ」と訓めば、上記②に引用した『時代別国語大辞典上代編』に従い、上記3案全てが成立します。

 枕詞とみないで、「あられふり」の意を、巻一~巻四にあるほかの2例から類推すると、「対象が特異な状況にある点に着目して用いている」語句であったので、地名「きしみ」や山の名の一部である「きしみ」よりも、「たけ」における「さがし」、あるいは、動詞「きしむ」における「さがし」に着目した比喩とみることができます。

 そのため、「たけ」(比高のある山)における「さがし」の比喩であれば、上記3案全てが成立します。

 また、動詞「きしむ」における「さがし」の比喩であれば、上記の第3案のみが成立します。

 この歌の題詞を、仮に「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首」とすれば、『柘枝伝』(しゃくしでん)が前提になるので、第1案の吉野山中に無理に比定地を求めなくともよい抽象化した山である上記の第3案が有力である、と思います。

⑨ また、この二句にある(吉志美我高嶺)「乎」は、体言に付いているので格助詞「を」であり、

 「体言(またはそれに準じる語句)+を+形容詞の語幹+み」

の形で、その状態の対象となる物ごとを示し、全体で、下に続く同左の原因・理由を表し、(・・・を・・・として、・・・が・・・ので)となります。

 だから、次句「險跡」(さがしみと)」の「さがしみ」と一体です。

 「さがしみ」は、次のように語句分解ができます。

 形容詞「さがし」の語幹+接尾語「み」+格助詞「と」

 形容詞「さがし」とは、aけわしい。b危うい・危険だ。の意があります。

ここでの接尾語「み」とは、「(形容詞の語幹に付いて)体言を作る」意であり、「と」を格助詞とみます。

⑩ 格助詞「と」には、次の意があります。

 a 何か、事をする際の相手となるものや、いっしょにいたり、行ったりするものを示す。・・・と。・・・ともに。

 b移り変わり、変化していった結果を示す。・・・と。

 c たとえていうのに用いられる。・・・のように。

 d比較・対比していうときの基準を示す。・・・と。・・・と比べて。

 e 文に相当する語句を、引用の形で受ける場合。「言ふ」「聞く」「思ふ」「見る」「あり」「す」などへ続けて用い、その内容を示す。

 f 文に相当する語句を、引用の形で受ける場合。下に述べる動作の目的や原因などとなる物ごとの内容を示す。「とて」と同じ。「・・・といって。・・・と思って。・・・として。

の意があります。

⑪ 次に四句「草取可奈和(くさとりはなち)」は、次のように語句分解できます。

名詞「くさ」+動詞「とる」の連用形((あるいは接頭語「とり」)+動詞「はなつ」の連用形

 名詞「くさ」は大別2意あります。

 「草」:a草の総称。b屋根をふいたりするわら・かやの類

 「種」:種類。たぐい。

 動詞「とる」は同音異義の語句です。

「取る」:a手に持つ。b(拍子を)とる。

「捕る」:とらえる。

「執る」:手に持って扱う。操作する。

「採る」:採用する。採択する。

などなど。

 接頭語「とり」は、(動詞「とる」の連用形から)動詞に付いてその動詞の意を強めます。

 なお、「とりはなつ」の立項は『例解古語辞典』にありません。

⑫ そして、動詞「はなつ」(放つ)とは、a手に持っている。物を放す。b自由にする。解き放す。c遠ざける。捨てる。d追放する。流罪にする。eなどなどの意があります。

 登山の場合、設置されている鎖や、しっかりした岩やトレッキングポール(ストック)は頼りになりますが、細い立ち木や草をあてにできません。路のそばの草を取ろうと手を伸ばせばバランスを失いかねません。

 「くさとりはなつ」という「くさ」が草であるならば、それは登る途中に見つけた食糧になる「くさ」とか観賞用か遊びの小道具としての「くさ」でも手にして作中人物は行動しているのでしょうか。

 また、そのような「くさ」がある時期は、俳句での春の季題か夏の季題がふさわしい時期のはずです。

⑬ 五句「妹手乎取」(いもがてをとる)の「妹」とは、女性を親しんでいう語であり、「兄」(せ)の対の語句です。

 「手」とは、「身体の部分の名。手。また、手のひら。」のほかに、「筆跡・手筋」、「手だて・方法」などの意もあります。

 「とる」は、上記⑪に記すように同音異義の語句です。

 このため、五句は、「作者が親しくしている女性の手を自分の手に持つ」とも「作者の親しい女性のために、手だて・方法を採用する」とも理解が可能です。

⑭ 次に、歌本文の文の構成を検討します。上記の語句の意を踏まえて主語述語を強調すると、つぎのとおり。初句は枕詞という説もあるので、「あられふる」という終止形でないが、何かにかかる(修飾する)独立した文とみなします。

文A あられふり :(天候が急変し、あるいはそのようなる天候となる時期を迎え、)霰が降ってきて、

 別案:(天候が急変後、あるいはそのようになる時期となり、)霰が降り続き、

文B きしみがたけを さがしみと:「きしみがたけ」を(越えるのには霰のために)危険な状況になっている(と私は理解した)ので、

 別案:「きしみがたけ」(そのもの)を「さがし」と(私は判断した)ので、

文Cくさとりはなち :(それで、それまで手にしていた)「草」を私は手放して、

 別案:(二人で持っていた)「草」を手放して、

文Dいもがてをとる :(そして) 私は妹の手を取る(その妹のために)。

 別案:(そして) 私は妹の手を取る(その妹以外の何かのために。)

⑮ 文Aのような天候の時に山に登る(あるいは峠越えする)のは解せません。この歌が、『柘枝伝』にもとづいて詠まれているとすると、夫婦となったことを確認している歌であり、山頂(あるいは峠越え)などを目指していない、山麓での野遊びの歌ではないか。

 類似歌の5-353-19歌(『肥前風土記逸文にある歌)は、二人だけになるための道中歌(仲間あるいは上司からの逃避行の歌)(2022/8/1付けブログ「27.⑤」参照)とみましたが、もう一つの類似歌と言われる5-347-69歌(『古事記』仁徳条にある歌)を無視すれば、逃避行の歌と見る必要はなく、5-353-19歌も夫婦となったことを確認している歌と理解が可能です。

  また、歌にいう霰は、雹(ひょう。現今では直径5mm以上の氷塊をいう)も含んだ表現であるとすると、落下するスピードも増し、農作物の被害や身の危険も大きくなります。野遊びの時に出逢う「あられ」であれば「雹」混じりの「霰」を詠う歌という推測が可能となります。

 そうすると、文Bは、これ以上野遊びをするのは天候の変化があったので止めよう、という趣旨であり、文Bの別案「「きしみがたけ」(そのもの)を「さがし」と(私は判断した)ので、」の意ではないか。

 雹混じりの霰が降ってきたら、山であろうと、屋敷内であろうと、外に居たら危険です。

⑯ 文Cの「草」は、野遊びで摘んだ「草」を意味し、文Dは、霰を恐れ急ぎ大木の下かなにかに身を避けるか駆け降りようとする行動であろう、と思います。

 このような理解で現代語訳を試みると、次のとおり。

 「(恐ろしい)霰が降ってきて遮るもののない「きしみがたけ」にいるのを「さがし」と判断したので、私は、手にしていた草を放り捨て、いそぎ妹の手をとった(霰から逃げるために)。」(2-1-338歌現代語訳試案第一)

 

 この理解は、『柘枝伝』における、仲睦まじい夫婦であった時期のエピソードということになります。この題詞のもとの残りの2首の理解と平仄があうかどうかは後程確認することとします。

 「きしみがたけ」は、上記⑧の第一か第三と理解できます。

 また、この歌の左注はこの理解に関わりはありません。左注は巻三編纂者の記したものではない、と理解できます。

⑰ 類似歌5-353-19歌も、突然の霰に対して同様な対応をしている歌と理解できます。この類似歌の詠われた現在の佐賀県杵島郡付近には杵島山と総称されている山地があります。有明海に面する白石(しろいし)平野と西の武雄盆地の間にある南北9km東西4kmの山地です。北は六角川、南は塩田川で画されており、310~370mの山頂が4カ所ある山地です。(『日本大百科全書』等より)

 山地の麓のどの集落からも、裏山が「杵島」山地です。類似歌の二句にある「耆資麼加多塏」(きしまがたけ)とは、その裏山の一角を歌語的に表現したと理解してよい、と思います。「高嶺・高峰」が歌語として用いられていることに通じます(付記2.参照)。

 (なお、「杵島」の地名(山名)の起こりについては、「肥前国杵島郡の郡名の由来と郡家所在地について」(Fac. Edu. Saga Univ. Vol13,No1 竹生政資・西晃央)を参照されたい。)

 「あられふり」という語句が歌枕となる以前からの、「霰」に遭ったときの対応を詠っているのが類似歌5-353-19歌です。巻三編纂者は、この歌の元資料における「霰」を、同様に理解してここに配列しているのではないか。

 この歌の類似歌は、「あられ」を詠う5-353-19歌だけではないか、と思います。

⑱ なお、この歌の四句を『新編国歌大観』と同じように「くさとりはなち」と訓んで現代語訳している例がありましたので、紹介します。中西進氏の訳です。(『万葉集 全訳注原文付(一)』(講談社文庫 1978))

「あられの降る吉志美の山がけわしいので、草をとりそこねて妹の手をとることよ。」

 注して、a初句にある「零」を「フル」とよむのは風土記逸文の歌による。b霰の音のキシムとつづく。c吉志美我高嶺は、佐賀県杵島郡白石町の杵島山の訛ったもの。既に固有名詞の所在地を忘れて歌っている。伝承の間に地名の入れ替えは普通。この歌は、そのまま伝承柘枝伝説に組み入れられたもの。とあります。氏は、「あられ」の考察と遭ったときの行動を想定していません。

 また、黒路よしひろ氏の『万葉集入門(http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_385.html)』では、2-1-388歌(旧番号385歌)の訓と現代語訳を次のようにしています。

「あられふる吉志美(よしみ)が岳(たけ)を険(さが)しみと草(くさ)とりはなち妹が手を取る

現代語訳:あられの降る吉志美の山が険しいので草を取り損ねて妹の手を取ってしまったよ。」

 氏は、評して、「思いもかけず美女を得た喜びを詠っています。歌の内容自体は解釈が少し難しいのですが、「草を取ろうとしたら山が険しいので手元が狂っておまえの手を取って(握って)しまったよ」といったところでしょうか。」と記しています。この理解も「あられ」の考察をしていません。

⑲ 同じ題詞のもとにあと2首が配列されています。その歌本文を検討後に、再度現代語訳を試みたい、と思います。その後、これらの歌が、天皇の代を意識したどのグループの歌か、という検討を行うこととします。

 次回は、2-1-389歌本文の検討などを行います。

 今日は、敗戦後77回目の終戦の日です。明治改元(1868年10月23日)から154年目が今年です。

 天武天皇飛鳥浄御原宮造営(672年)後、77年目は天平20年(748年)で元正上皇(独身で即位した天皇)が崩御し翌天平勝宝元年(749) 聖武天皇孝謙天皇に譲位しています。

 70数年経過というだけで課題満載の時なのでしょう。

 「ブログわかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。(2022/8/15    上村 朋)

付記1.『平凡社俳句歳時記』(新装版)での「あられ」と「ひょう」の説明について

①霰(あられ)は、三冬(立冬から立春前日までの(新年を除く)の3カ月)の季題。

②「氷あられ」もあるが、俳句では普通「雪あられ」を指す。

③真っ白な可憐な3~4mmの小粒。屋根や樹木にぱらぱらと気持ちよい音を立てて一しきり降る。

④雹(ひょう)は、三夏の季題。

⑤多くは雷雨をともなう。「ひさめ(氷雨)」は「ひょう」の古語。3月~6月に降り、5月頃が一番多い。

⑥雹に近いものに霰があるが、霰は冬、雪の降る少し前に降るものである。

⑦古く万葉には雹および霰字を「あられ」と訓じているが、ほかにもそのよみかたの例はある。

付記2.「安良礼(あられ)松原」について

大阪市立図書館HPにある「おおさか資料室「大阪に関するよくある質問」の「あられ松原」の回答は、下記②~④である。Wikipediaの「足立」(あんりゅう)の項などは下記⑤以下に紹介する。

②「安良礼(あられ)松原」とは万葉集にも見える古い地名で、今の住之江区安立町(あんりゅうちょう)付近であったとされています。(『角川日本地名大辞典 27』角川書店 1983)

③長い年月の間に新田開発や埋立が進み、今では住之江区でも内陸部といえる安立町ですが、江戸中期頃は、このあたりまでが海岸線でした。海辺にそって松原が広がる景勝地であったことから、安良礼(あられ)松原の名が生まれました。また、松が粗くまばら(疎)に生える松原として「あらら松原」の語があり、それが転じたとの説もあるようです。(『角川日本地名大辞典 27』角川書店 1983及び『広辞苑新村出岩波書店 2008)

万葉集」の巻1に「安良礼松原」を詠った歌(2-1-65歌)があります。

⑤現在の住之江区安立町紀州街道に沿う東西100~150m南北約5kmの町域である。地名の起こりは、江戸時代となって名医として知られていた半井安立軒元成(なからいあんりゅうけんもとなり)が住んでいたことによる(Wikipedia)。

⑥「あられ」という地区名・地名は、現在の大阪市域と堺市域にはない。また、現在の大阪府松原市に「松原」という地区名・地名はない。

付記3.「高嶺・高峰」の用例(巻一~巻四) 5首(計7句)に用いられている。

2-1-320歌 山部宿祢赤人望不尽山歌一首 并短歌

天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不尽能高嶺者
   あめつちの わかれしときゆ かむさびて たかくたふとき するがなる ふじのたかねを あまのはら ふりさけみれば わたるひの かげも かくらひ てるつきの ひかりもみえず しらくもも いゆきはばかり ときじくぞ ゆきはふりける かたりつぎ いひつぎゆかむ ふじののたかねは<2022/7/29  15h>

2-1-321歌 (同上)

田児之浦従 打出而見者 真白衣 不尽能高嶺尓 雪波零家留
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

2-1-322歌 詠不尽山歌一首 并短歌

麻余美乃 甲斐乃国 打縁流 駿河能国与 己知其智乃 国之三中従 出之有 不尽能高嶺者 天雲毛 伊去波伐加利 ・・・駿河不尽能高峰者 雖見不飽香聞

なまよみの かひのくに うちよする するがのくにと こちごちの くにのみなかゆ いでたてる ふじのたかねは あまくもも いゆきはばかり ・・・ するがなる ふじのたかねは みれどあかぬかも

2-1-325歌 山部宿祢赤人至伊予温泉作歌一首 并短歌

皇神祖之 神乃御言乃 敷座 国之尽 湯者霜 左波尓雖在 嶋山之 宣国跡 極此疑 伊予能高嶺乃 射狭庭乃 岡尓立而 歌思 辞思為師 三湯之上乃 樹村乎見者 臣木毛 生継尓家里 鳴鳥之 音毛不更 遐代尓 神左備将徃 行幸

すめろきの かみのみことの しきしまの くにのことごと ゆはしも さはにあれども しまやまの よろしきくにと こごしかも いよのたかねの いさにはの をかにたたして うたおもひ ことおもほしし みゆのうへの こむらをみれば おみのきも おひつぎにけり なくとりの こゑもかはらず とほきよに かむさびゆかむ いでましところ

2-1-388歌 (今回の検討対象の歌 本文「28.①」に記載) 

(付記終わり 2022/8/15   上村 朋)

わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 逃避行か萬葉集巻三配列その15 

 前回(2022/7/25)の「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 皇位継承 萬葉集巻三の配列その14」に続き、今回「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 逃避行か萬葉集巻三の配列その15」と題して記します。歌は、『新編国歌大観』によります。(上村 朋)

1.~25.承前

萬葉集』巻三の雑歌について、巻一の雑歌と同様に、歌と天皇の各種統治行為との関係から検討し、各歌について判定した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)を得ました。そして、「関係分類A1~B」の歌30首は、天皇の代を意識した4つのグループに分かれました。それ以外の歌においても2-1-387歌まで各グループに分けられることを確認しました。

26.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌などの題詞 その1

① 巻三雑歌の天皇の代を意識した4つ目のグループは、聖武天皇以降の天皇を象徴する「寧楽宮」に居られる天皇の代の歌、と予想しているところです(ブログ2022/3/21付け「3.③」参照)。

 「その天皇の代の可能性が高ければ、そのグループの歌」という判定は、前回同様に、題詞のもとにおける歌意で「聖武天皇以降の天皇」の代に関する歌という可能性で判断することとします。ほかの代の可能性の有無は関係ありません。

② 2-1-388歌を検討します。その題詞「仙柘枝歌三首」のもとに歌が3首あります。次のとおり。

2-1-388歌 仙柘枝歌三首

   霰零 吉志美我高嶺乎 險跡 草取可奈和 妹手乎取

あられふり きしみがたけを さがしみと くさとりはなち いもがてをとる

(左注あり) 右一首或云、吉野人味稲与柘枝仙媛歌也。但見柘枝伝無有此歌

2-1-389歌 (同上)

   此暮 柘之左枝乃 流来者  梁者不打而 不取香聞将有

このゆふへ つみのさえだの ながれこば やなはうたずて とらずかもあらむ

(左注あり) 右一首

2-1-390歌

古尓 梁打人乃 無有世伐 此間毛有益 柘之枝羽裳

いにしへに やなうつひとの なくありせば ここにもあらまし つみのえだはも

(左注あり) 右一首若宮年魚麿作

③ 「承前」に記した表E(ブログ2022/3/21付けの付記1.に記載)は、歌と天皇の統治行為との関係を11分類したものですが、この題詞のもとの3首は、次のように判定しています。即ち、

「仙柘枝媛を詠う作者未詳歌」であり、「相聞歌と見間違う、雑歌の要素不明の歌」である。そして、関係分類は、「I天皇の下命がなく、事にあたり個人的な感慨を詠う歌群」 

 雑歌としての理解が不十分のままです。

 諸氏は、吉野山の仙女を娶るという話を前提にした歌が3首詠われていること、及び2-1-388歌と2-1-390歌の左注を重視して、題詞は「柘枝(つみのえ)という仙女にまつわる歌三首」と理解しています。雑歌として配列されているのは、(公的な)宴席の歌が理由か、との推測があります。

④ 題詞から、検討します。

 題詞「仙柘枝歌三首」は、前歌の題詞「山部宿祢赤人歌一首」と同じ構成となっている倭習漢文です。

 巻三の雑歌にある題詞は、作者の名を原則的に明記してあります。「人名のみ+歌〇首」という作文タイプで皇族、官人、官女、及び僧籍の者以外の名は、この題詞のほかには、2-1-271歌の題詞(阿倍女郎屋部坂歌一首)、2-1-284歌の題詞(黒人妻答歌一首)、2-1-382歌の題詞(大伴坂上郎女祭神歌一首 幷短歌)及び2-1-384歌の題詞(筑紫娘子贈行旅歌一首)の4題と、大変少ない。

 そして、この4題は、その人物が作者である、と諸氏はみています。しかし、この題詞を諸氏は、そうみていません。特異です。それはこれから改めて検討することとします。

⑤ 又、巻三の雑歌の題詞に、人物名が無いのは「反歌〇首」とある場合と次の題詞です。

或本反歌一首:対象となる歌は、2-1-242歌

或本歌(云・曰)〇首:(同上)2-1-245歌& 2-1-262歌& 2-1-366歌

一本云:(同上)2-1-279歌

詠不尽山歌一首 幷短歌:(同上)2-1-322歌&2-1-323歌(反歌)&2-1-324歌(反歌)   なお、2-1-324歌の左注に「右一首高橋連虫麿之歌中出焉、以類載此」とある。 

和歌一首:(同上)2-1-372歌  左注に「右作者未審、但笠朝臣金村之歌中出也」とある。

羈旅歌一首 幷短歌:(同上)2-1-391歌&2-1-392歌(反歌)  なお、2-1-392歌の左注に「右歌若宮年魚麿誦之、但未審作者」とある。 

 このようにみてくると、「詠不尽山歌一首」と「羈旅歌一首」は、巻三雑歌の題詞としては大変特異なものであり、この題詞「仙柘枝歌三首」の「仙柘枝」も人間界の人物でない、というのも特異な題詞である、といえます。

 さらに、直前の題詞「山部宿祢赤人歌一首」という題も作者名でなかったので特異なものの部類に入ります。

 なお、上記の「和歌一首」という題は、直前の歌に応えた歌という意なので、その状況から作者は官人です。

⑥ また、この題詞にある「仙柘枝」は、左注などにより、仙女の名、と今は理解しているところですが、『萬葉集』にはこの題詞に出て来るだけの名です。また「柘枝」表記でも題詞や歌本文にありません。

 また、仙女の名といっても人間界側でつけた通称であるものの、歌本文には、2-1-389歌の「柘之左枝(之)」(つみのさえだ(の))及び2-1-390歌の「柘之枝(羽裳)」(つみのえだ(はも))と、題詞にある「柘枝」と表記している名を割って表記しています。訓でも同じです。

 詠う場合、その人物は代名詞で表現したり、その人物を示唆するほかの表現としているのが普通ですが、この歌ではそうなっていません。それも有り得る、という傍証がほしいところです。

 そして、そもそもこれらの元資料にだけ、作詠時点や作詠事情が全然記録されていなかったとは信じられません。

 巻三の編纂者は、元資料の記されている各種情報から取捨選択して題詞を作文しているはずです。

 その結果であるこの題詞に、歌本文と配列などを考慮すれば、編纂者は、ここにこの歌を配列している事情や「柘枝」の意がわかり、元資料の事情もおのずと推測できる、と考えていた、ということになります。

 なお、『萬葉集』において「柘」字を用いている表記は、題詞ではこの題詞だけであり、歌本文では2-1-389歌と2-1-390歌と巻十夏雑歌の筆頭歌にある「詠鳥」と題した2-1-1941歌(「(明来者)柘之左枝(尓)」((あけくれば)つみのさえだ(に))という句)にあるのみです。2-1-1941歌では、植物の「山桑」の意と理解できます。

⑦ 「人名+歌〇首」タイプの歌で、作詠時点や作詠事情が歌本文、配列及び『続日本紀』の記述との突合などにより、分かった歌があります。

 そして、歌本文から旅中歌と思われる歌は、作者が官人であれば旅そのものが公務の場合が多く、歌と天皇の各種統治行為との関係分類は、「C」となり得る歌となります。

 例えば、「人名+歌〇首」タイプの最初の歌2-1-267歌は、長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)作の公務の旅中における歌であり、配列から、歌本文は天智天皇の御代と当代を比較していることになります。2-1-295歌~2-1-298歌はご当地摂津住吉を褒める起承転結の4首であり、宴席の題詠歌かと思えます。宴席が公的なものだからご当地を褒めている歌と言えます。

 また、波多朝臣小足の2-1-317歌は、表E作成時の判定をブログ2022/3/21付け本文での検討により、藤原宇合率いる蝦夷征討軍の慰労と凱旋日程等を指示時の歌」と特定でき、関係分類も「C」から「A1」に変更できたところです。

 だから、この題詞と歌本文と配列等から、雑歌の歌として適切な理解が導けるはずです。

⑧ 題詞は倭習漢文ですので、用いている漢字の意から確認します。『角川大字源』 によります。

 「仙」:「せん」と発音する。

第一 やまびと・仙人。俗界を離れて山中に住み、不老不死・神変自在の術を修めたといわれる人。中国道教における理想的な人物とされる。

熟語例として「仙人」(山中にすみ、不老不死の術を得た人・道士を目指す理想的境地)

第二 凡俗を超越している人。

第三 世俗の気のない清高なさま。例)「仙姿」(仙人のような俗を離れた優れた姿)

第四 世俗を離れること。またその離れている場所。

第五 軽く舞い上がるさま。

第六 すぐれている。とうとい。うつくしい。非凡。

例)「仙骨」(仙人の骨相、なみなみでない風采)、「仙席」(尊貴な人の座席)

第七 詩歌や書画などの特に優れた人。例)「詩仙」

第八 天子に関する事物につけていう。 

例)「仙遊」(仙人のように自由に遊ぶ。またその土地・人の死をいう) 

「仙洞」(仙人のいる所。俗界を離れた清浄な地。また、天子の行幸

  「仙翰」(天子の書簡。また、鳳凰の異称。)

また、国語の熟語として「仙洞」は「上皇法皇の御所。また上皇法皇

  第九 道教の別称 などなど

 

「柘」:「しゃ」、「やまぐわ」と発音する。

第一 「くわいろ。黄赤色。染料に用いる。(やまぐわの木からとれる染料の色)」

熟語例)「柘黄」(山桑の木で染めた黄赤色。またその服。唐代以後天子や貴人が着る。)

第二 やまぐわ。のぐわ。落葉高木。葉を柞蚕が食べ山繭をつくる。また、枝で矢をつくる。

第三 はりげやき。落葉高木。 例)「柘糸」(しゃし):山桑の葉で飼育した蚕の吐いた糸。

第四 さとうきび

なお、「柘枝」は熟語としての立項はありません。

 

「枝」:し、えだと発音。

第一 えだ。木の幹から別れ出た部分。幹と対となる語。わかれ・おおもとから分かれ出たもの。

第二 えだする。えだがでる。

第三 わかれる。分岐する。

第四 分家 

第五 手足 胴から分かれた手足  など

 

「歌」:漢詩の一体であり、古詩に属し、歌謡形式のものをいう。しかしここでは、日本固有の意。漢詩文に対し、和歌・短歌の意に用いる。和文での歌をいう。

 

「三」:ここでは、三つの意であり、「首」とは、詩文を数える助数詞です。

 

⑨ 阿蘇瑞枝氏は、『萬葉集全歌講義』で、2-1-388歌の「注」において、「柘」は『新撰字鏡』に「豆美乃木」(つみのき)、倭名類聚鈔に「豆美」とある、と紹介しており、和名は「はりくわ」という桑科の樹高5~7mの樹木と指摘しています。普通の蚕はあまり食べないが食べさせると糸質が向上するとも指摘しています。渡来の時期は不明だそうです。

⑩ 2-1-388歌の左注を参考にすれば、「柘枝」(音よみすると「しゃし」)とは、仙女の名前あるいは通称となります。『柘枝伝』(しゃしでん)という書物(多分漢文体)が当時あり、その内容は、現在では不明ですが、『懐風藻』の7詩の句に詠われています(付記1.参照)。それからわかることは、

 「吉野の人味稲(うましね)が川で、吉野山中にいる仙女が姿を変えていた柘の枝を拾い持ち帰ったところ女に化し一旦は妻になって二人は楽しく暮らした(がその後仙女はもと居たところに還っていった)、ということを語っていると思われる伝説」、

ということです。

 不老不死の仙人・仙女という人物がこの世に一旦来て去るという発想は、中国渡来のものであるので、それがこの説話の基本にあるとみて、もと居たところに還っていった、という私の推測を()で加えています。書名の名前「・・・伝」を見ると、漢文体の書物だったのでしょう。

 このわかっている範囲での伝説を、仙女の立場から整理すると、何らかの理由で仙界から追放された仙女が、人間界においてその償いか修行をして戻って行った、ということになります。償い・修行そのものは、人間界にとってはプラスに働いたこと(あるいは人間次第でプラスになること)なので、人間界では僥倖の一例として語り継がれてきた、ということになります。

 阿蘇氏は、神武記の丹塗矢伝説と『柘枝伝』は類似すると指摘しています。丹塗矢伝説とは三輪山の神が丹塗矢になって溝を流れてゆき拾った娘と結婚し娘を生みその娘が後に神の子として神武天皇の皇后となった、という伝説です。三輪山の神は戻っていっています。

 確かに、訪れた人物がもと居たところに勝手に還っていった点、訪れを受けいれた側(人間界側)は還ったのを受け入れた点、の二つは共通しています。そして訪れを受けいれた側にその後善いことがあった点があったかどうかは『柘枝伝』では不明です。

⑪ この題詞を、諸氏は、つぎのように読み下しています。

 土屋氏:やまひとつみのえ のうた 三しゅ (左注にある「柘枝仙媛」は「つみのえやまひめ」)

 伊藤氏:やまびめつみのえ のうた 三しゅ

 阿蘇氏:やまひめつみのえ のうた 三しゅ

 『日本古典文学全集2 萬葉集一』:やまびめつみのえ のうた 三しゅ (頭注して「仙女の柘枝媛(つみのえひめ)の意」。左注にある「柘枝仙媛」は「つみのえやまびめ」)

 名は「つみのえ」と言うという認識で一致しています。「天皇」、「大伴卿」という表記を「すめらみこと」、「おほとものまへつきみ」と訓んでいるのと同じです。

 「柘枝」を「せんしゃし」と音読みしていません。

⑫ 上記⑧で引用したように漢字「仙」字の意が複数あり、題材としている『柘枝伝』の詳細も上記⑩のように不明な部分があります。このため、巻三雑歌にある題詞として、2-1-388歌の題詞の読み下しは、いろいろな案が考えられます。

 大別2案が想定できます。

 第一は、左注にも引用している「柘枝伝」を念頭において作文された題詞とみる案です。例えば、

 「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首」

 左注が指摘しているように、最初の一首が当時存在していた『柘枝伝』という書物にはない歌なので、この歌は新たに誰かが代作した歌となります。ほかの二首も『柘枝伝』の説話を承知している者が作者であると推定できることを考えると、この題詞は、『懐風藻』の各詩と同じように、『柘枝伝』に題材をとって新たに詠んでいる歌3首という意であると理解できます。

 この案は、題詞の建前の意であろう、と予想します。しかし、題詞にある「柘枝」という表記が人物の名前であるかどうかは確認を要します。

⑬ 第二は、『柘枝伝』を念頭におかない(「柘枝」を伝説での人名とみない)で作文された題詞とみる案です。

 そうすると、この題詞とこの直後にあり巻三の最後の題詞である「羇旅歌一首」は、「事物の名+〇首」タイプともくくれます。

 即ち、「「仙」と形容できる「柘」(つみ・山桑)の「枝」(幹ではないもの)の(あるいは、に関する)歌」、と理解する案です。「仙」の意により、題詞の読み下しは、例えば、次のようになります。「枝」の意に「分家」があるのに留意したい、と思います。

 この案は、題詞の暗喩にあたる意の候補であろう、と予想します。

暗喩題1案 「仙」は、「仙人」の意、「枝」は、「樹木の枝」の意

  仙人である女性の持ち物である山桑の枝(杖状のもの)に関する歌

暗喩題2案 「仙」は、「世俗の気のない清高な」の意、「枝」は、「樹木の枝又は分家」の意

  世俗の気のない清高な山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌

暗喩題3案 「仙」は、「すぐれている、とうとい」の意、「枝」は、「樹木の枝又は分家」の意

  すぐれている山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌 (「分家」で意訳をすれば、「優れている血脈につながる分家の(あるいは、に関する)歌」)

 暗喩題4案 「仙」は、「天子に関する事物につけていう語句」の意、「枝」は、「聖なる樹木の枝あるは聖なる分家」の意

  天子に関する山桑の枝(分家)の(あるいは、に関する)歌 (「天子に関する山桑」で意訳をすれば、「天子のみの衣服に用いる染料であるやまぐわの木の幹でない部分の(あるいは、に関する)歌」)

等々。

⑭ これらの読み下しで歌本文はどのように理解できるか、を次に検討し、その後再度

題詞の検討をします。

27.「分類A1~B」以外の歌 2-1-388歌の歌本文 その1

① 歌本文について、2-1-388歌の四句「草取可奈和」を「くさとりはなち」と訓んでいる現代語訳の例が、今、手元にないので、最初に四句を「くさとりかなわ」と訓んだ理解で題詞の理解にあうか、を検討します。この題詞のもとの3首の現代語訳の例を2例示します。

 なお、「(くさ)とりはなつ」とは、同音意義の語句であり、

接頭語「とり」+動詞「放つ」であれば、「手に持っている物を放す・自由にする」を強調した意となり、

動詞「採る」+動詞「放つ」であれば、「採用し(確かめて)自由にする・捨てる」の意

などなどの意となります。

 土屋文明氏は、2-1-388歌の四句が「草取叵奈知」(くさとりはなち)では「一首中の句としてはやはり据わりが悪い」と指摘しています。『萬葉集註釈』(仙覚抄)に、『肥前風土記』にこの歌がみえるとあるのを踏まえて論じています。

② 土屋文明氏の大意:

 2-1-388歌  仙柘枝(やまひとつみのえ)の歌三首

 「吉志美(きしみ)が嶽が険阻なので、其の草を取り登ることが出来ずに反って妹が手をとる。」

  (氏は、作者を、左注に従い味稲(うましね)とする。)

 2-1-389歌

 「この夕べに柘のさ枝が流れて来たならば、吾も梁は打たずその枝を取らずにあるだらうか。いやいや吾も取ることであらう。」 (大意よりみると四句にある助詞「て」は、連用修飾語であって「の状態で」の意。作者は未詳と氏はみている。)

 2-1-390歌

 「古へに味稲の如く梁をかけてしまふ人間が居なかったならば、今ここにも柘枝(つみのえ)はあらうものを。」 (氏は、作者を、左注にある若宮年魚麿(わかみやのあゆまろ)とする。)

 氏は、このように三首とも仙柘枝が作者(披露した歌)ではない、と理解しています。また、

③ 次に、伊藤博氏の訳例は、次のとおり。

 2-1-388歌:四句「草取可奈和」は「くさとりかなわ」と訓み、意は未詳だが、類同の歌(下記の5-353-19歌と3-347-69歌)に「草取りがねて」とあるのと同義と理解して、

 「吉志美(きしみ)岳、この岳が険しいので、私は草を取りそこなっていとしい子の手を取る。」 (氏曰く、「手を取る」という物言いは歌垣での男女が手を取り合うことを表す慣用句であり、歌垣から起こった民謡であるこの歌を披露したのは、宴席での官人。)

 2-1-389歌

 「今宵、もし仙女の化した柘(つみ)の枝が流れてきたならば、梁は仕掛けていないので、枝を取らずじまいになるのではなかろうか。」 

 (氏曰く、この歌は、前歌に応えた歌。宴席での前歌を披露した人とは別人の創作かあるいは伝承歌か。四句の助詞「て」は、順接の用法の中に理由の意を託したもの。)

 2-1-390歌

 「遠い遠いずっと以前、この川辺で梁を仕掛けた味稲という人がいなかったら、ひょっとして今もここにあるかもしれないな、ああその柘(つみ)の枝よ。」

  (氏曰く、作者は、左注にある若宮年魚麿。あるいは作者未詳の伝承歌として披露したのが若宮年魚麿か。)

 氏は、「この歌は2-1-389歌より露骨に、故事に対する羨望の念を示している。あらわな羨望は故事への厚い待遇につながる。露骨になったところで(この題詞のもとの)歌は閉ざされている。」と指摘し、土屋氏と同じように、三首とも仙柘枝が作者(披露した歌)ではない、と理解しています。

④ 両氏の歌の理解は、微妙な違いがありますが、そのベクトルは同じです。

 2-1-388歌の作中人物は、山を越えるのはやはり困難を感じて「いもがて」を取っています。仙柘枝に実際に逢った人物(味稲)の気持ちを詠っています。

 2-1-389歌の作中人物は、今、柘の小枝が流れてきたら、取るだろう、と詠っています。味稲の例に倣う、と言っています。

 2-1-390歌の作中人物は、拾った柘の小枝が仙女であるという僥倖を今に残してくれたらよかったのに、とその僥倖をうらやんでいます。伊藤氏の指摘するように、僥倖にあった人物(味稲)の成功を祝福しているのかもしれません。

 この理解から題詞の意を選ぶと、そのほかの理解の可能性の検討もしていませんので、

「仙女である柘枝の(あるいは、に関する)歌 三首」 

が最有力です。

⑤ それでは、両氏の理解は、『柘枝伝』の理解に沿うものであるか、を確認します。

 最初に、2-1-388歌です。

2-1-388歌は、類似の歌が指摘されています。

第一 『肥前風土記逸文にある歌:杵島曲(きしまぶり)の歌 

 5-353-19歌    郷閭士女歌

  阿羅礼布縷 耆資麼加多塏塢 嵯峨紫弥苫 区縒刀理我泥底 伊母我堤塢刀縷

「あられふる きしまがたけを さがしみと くさとりかねて いもがてをとる 」

(この訓は、『日本古典文学大系3 古代歌謡集』による。現代語訳の提示は割愛。)

第二 『古事記』仁徳条にある歌  女鳥王(めどりのみこ)と共に逃げ退びてゆく速総別王(はやぶさわけのきみ)が相手に詠う歌 

 5-347-69歌      速総別王(はやぶさわけのきみ)

   波斯多弖能 久良波斯夜麻袁 佐賀志美登 伊波迦伎加泥弖 和賀弖登良須母

「はしたての くらはしやまを さがしみと いはかきかねて わがてとらすも 」

 (この訓は、『日本古典文学大系3 古代歌謡集』による。現代語訳の提示は割愛。)

 この歌2-1-388歌の大意を上記の土屋氏と伊藤氏のそれとして類似の歌と比べると、いずれも野遊びの歌ではなく、山を越える際の歌のようにみえます。

 

類似歌は、『肥前風土記』と『古事記』のそれぞれの前後の文脈を踏まえると2首とも二人だけになるための道中歌(仲間あるいは上司からの逃避行の歌)です。

⑥ これに対して、四句の訓を「くさとりかなわ」と訓んだ両氏が理解した2-1-388歌は、「柘枝伝」における「吉野人味稲」と「柘枝仙媛」の間にも仲間から逃避するようなエピソードがあったとして詠っていることになります。

 しかし、左注にいう『柘枝伝』に、そのようなエピソードはもともとなかった、と推測できます。

 それなのにこのような歌を詠っているのは、魚を獲るために川に梁(やな)を仕掛けるのは共同作業である(梁漁は集団単位で行うもの)、という認識が作者にあるからなのでしょうか。「吉野人味稲」が柘の枝を手にしたのは偶然であり、たちまち伴侶を得た幸運は仲間に妬まれたはずである、という認識なのでしょうか。

 『柘枝伝』にもともとなかったが、当然そのような行動を取るはずだとして、改めて誰かがこの歌を「吉野人味稲」に替わって詠ったのがこの歌、ということになります。

⑦ 『懐風藻』の詩で詠われているエピソードは、一時は相思の(とおもわれる)二人であったが『柘枝伝』の仙女はそれを一方的に終わらせています(上記26.⑨と付記1.参照)。何故だ、と仙女にせまり、一人悲嘆にくれたのは「吉野人味稲」のはずです。二人で悲嘆にくれて仙女は仙界に還るのを諦めた、という説話ではありません。だから、この歌は、『柘枝伝』の理解から逸脱しているかにみえます。

 類似歌と同じような仲間から二人一緒での逃避の途中の歌と理解できる歌、即ち、四句を「くさとりかなわ」と訓んで理解する歌は、『柘枝伝』を下敷きにした歌ではなく、新たな‘柘枝伝’を作る歌であるかもしれません。或いは、単に四句の訓の誤りであるかもしれません。

 左注にも引用している「柘枝伝」を念頭において作文された題詞のもとの歌としては、さらなる確認を要します。

 少なくとも後者の例に、『新編国歌大観』の訓(四句を「くさとりはなち」と訓む)がありますので、それによる理解を試みたい、と思います。

 あらためて語句の意を確認しつつそれを次回検討します。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 暑中お見舞い申し上げます。熱中症、コロナに気を付けましょう。

(2022/8/1  上村 朋)

付記1. 『柘枝伝』に触れた句と思われる『懐風藻』の詩

①『懐風藻』(全訳注 江口孝夫、講談社学術文庫 2000)によれば、7首の句に触れている。

②『懐風藻』は751に成る漢詩集である。江口氏曰く「詩人64人はいずれも高位高官、知識人。古代の豪族を征服し、天皇家を中心とした律令国家をつくりあげた後の、その周辺の人々。現在の栄華は天皇の下にあってですから、天皇は神のごとく、ひたすら讃迎しています。讃迎のかげにみえるわが身の得意満面、これが若々しくも創業への思いをにじみ出させているものです。」

③7首での 「柘枝伝」に触れた句は次のとおり。()内は江口氏の訳。番号は江口氏の付した漢詩の番号。

31番 中臣朝臣人足「遊吉野」:柘媛接魚通 (柘枝姫(つげひめ)は魚と化し男に近づき情を通じた)

45番 中臣朝臣人足「遊吉野宮」:一朝逢柘民 (はからずも美稲が柘姫にあったところ)

72番 大宰大弐朝臣男人(681~738)「遊吉野川」:留連美稲逢槎洲 (美稲が仙女に逢った中洲に思いをつなぐ)

98番 藤原万里「遊吉野川」:梁前柘吟古 (梁の前で柘姫が歌ったのは昔のこと)

99番 丹墀(たじひ)真人広成(?~739)「遊吉野山」:尋問美稲津 (美稲が梁を仕掛けた場所を尋ねてみた)

100番 丹墀真人広成「吉野之作」:美稲逢仙人同洛洲 (美稲と仙女 それは曹植と神女と同じ趣だ)

102番 高向朝臣諸足(生没年未詳):「従駕吉野宮」:在昔釣魚士 ・・・ 柘歌泛寒渚 (昔は魚釣る男の子がいたが、・・・ 柘姫の詠み交わした歌は寂しく川辺に響き)

④柘媛について、氏は次のように解説している。

「大和の国に伝わる伝説で、漁師美稲(うましね)のかけた梁に柘(つげ)の枝がかかり、美稲が拾い上げると柘の枝はたちまち仙女にかわり、契りを結んだものの女は仙境に消えていったという話」

(付記終わり。 2022/8/1   上村 朋 )